ボス村松の兄弟船エピソード1・2・3 公演情報 劇団鋼鉄村松「ボス村松の兄弟船エピソード1・2・3」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    ボスの脳髄から染み出た汁
    演劇のクオリティという面だけから見れば、少々アレかもしれないが、ひょっとしたら、結構凄い作品なのかもしれない。
    ボスさんの持つナイーヴさが、不器用に語られていたのではないか。
    観ながら考えるようなこういう作品は好きだし、ボス村松さんの不器用な話法も好きだ。

    しかし、一般的な、評判としては今一歩かも……。

    ネタバレBOX

    鋼鉄村松は、バンドで言えば、ツインボーカル的なやつで、演劇界のクリスタルキングと呼ばれているとかいないとか。
    つまり、作・演がボス村松さんとバブルムラマツさんの、2人いる変わった劇団である。

    それぞれが戯曲を書き、自らが演出する。
    そんなことをしているのにもかかわらず、1つの劇団としてきちんと成り立っている不思議な劇団なのだ。

    2人の作・演出家のテイストは似ているようで、異なっている。

    今回の作・演のボスさんが、うっかりなのかDVDを売らんがためなのかは知らないが、「最高傑作と言われている前作『ロケット・マン』(作・演:バブルムラマツさん)のDVD売ってます」と、終演後に叫んでいた。

    前作で、「少し負けているかも」という意識があるのかもしれない。
    それが、下手すると焦りにつながり、空回りになり得る可能性だってある。

    しかし、「空回り」こそが、ボスさんのいいところではないか。

    頭に浮かんだモノをいざ書こうとすると、手が追い付かない、ということを経験したことはないだろうか。
    まさに、ボスさんの作品を観ていると、それを感じる。

    ボスさんの頭の回転に作品が追い付いていかないのだ。
    しかし、頭がフル回転の極地に達したときに、もの凄いパワーが出てくることがある。

    そのときには、ボスさんの脳髄から染み出してきた、というか溢れ出す汁が舞台の上に飛び散るのだ。
    それはキレイなはずもなく、濁った汁なのかもしれないが、その中に「(ボスさんの)美(学)」が、常に潜んでいる。本人は「乙女心」と呼んでいるようだが。
    それを見つけられるかどうかが、ボスさんの作品を楽しめるかどうかではないだろうか。

    見つけ方はそれぞれであるし、見つかるモノも人それぞれだろう。

    今回の作品は、冒頭から垢抜けない演出である。
    展開やシーンの入れ替わりが早い割に、ドタバタしていて、スマートさは微塵もない。
    セットもバックに変な風に布が垂れ下がっていたりする。
    しかし、その話法の不器用さが、たまらなく面白くなってくる。
    もちろん、「素」の面白さとは違う次元のものである。

    こんな不器用さがボスさんの持ち味ではないだろうか。

    この作品は、当日パンフの2行目から4行目までに書いてあるとおりのストーリーだ。

    エピソード1は、岬を出るといつも時化に遭う兄弟の漁師と、演歌『兄弟船』の因縁話であり、ストーリーの展開とテンポを楽しむものである。
    しかし、エピソード2で、突然、観客を異次元に連れ去る。
    観客は少し混乱し、意味が飲み込めないまま、エピソード3へつなげていく。
    エピソード3がやってくることで、エピソード2の位置づけが明確になり、エピソード1との関係も明らかになってくる。
    ここで、ぐっと深みと広がりが出てくるのだ。
    しかし、「ここですよ」というアピールはない。

    先に書いたとおり、よく言えば実直すぎる、悪く言えば垢抜けない演出なので、1つひとつのエピソードがつながっていることは観客の多くは理解できるとは思うのだが、その先、つまり、3つのエピソードは、3つの連作短編ではなく、1つの作品であることがわかってくれば、頭がぐるりと回転するような感覚を覚える。

    1つの作品であることがわかったときに、鳥羽一郎の『兄弟船』の冒頭「♪波の谷間に命の花が、2つ並んで咲いている」が、ぐっと響いてくるのだ。
    必ず時化に遭う兄弟漁師の、2つの命が波間に咲いているエピソード1から、母なる海から、母から生まれてくる命の花につながってくるのだ。
    確かに強引ではあるし、不器用な語り口ではある。
    しかし、「♪波の谷間に命の花が、2つ並んで咲いている」が響くのだ。

    いつものことながら、ためらいなくするりと口をついて出てくる台詞が、結構いい。
    「後ろを振り返るオルフェウス」のような、必要ある? という台詞の膨らみには、思わず笑ってしまうのだが、その過剰さが好きなのだ。

    今回は、迷走とも思えるようなストーリー展開となる。
    毎回、そのジャンプ率(ストーリーが飛んでいく率)が高いボス作品ではあるが、今回はさらにそれを増してしまったようだ。
    つまり、ボスさんの頭の回転に作品が追い付いていかない感覚だ。

    しかも、今回は、主演男優ベス村松さんが抜け、鋼鉄村松の大切なバイプレーヤー、村松ママンスキーさんたちもいない公演であるので、その分の全体の動きがボスさんの気持ちにうまく付いていけたのかどうかは、辛いところではある。

    迷走してるようで、実はつながり意味を持ってくるのだ。
    その感覚がとても面白い。
    観ているほうも、頭をフル回転させなければならない。

    そして、自分なりに考える。
    その一瞬一瞬がボス村松作品の醍醐味ではないか。
    いや、もう1人の作・演のバブルムラマツ作品でもそこは同じなのだ。
    それが「鋼鉄村松」ではないか。
    過剰な情報から、コアにあるテーマ(のようなもの)を見つけ出す楽しさだ。

    ただ、エピソード2の「王女アンジェリカ」のエピソードは、ガラスの仮面を知っていてもいなくても、観客を迷路に置き去りにしてしまう。
    あとで回収するにしても、そのことがわかりにくいのは、回収していくためのヒントがないからではないか。
    エピソード2の後半で、やっとエピソード1の兄弟が絡んでくるのだが、「王女アンジェリカ」にはそれがない。
    一人芝居の面白さを壊さない程度に、エピソード1とのつながりを感じさせるような仕掛けはできないものか。
    例えば、黒子役の人がいるのだが、それを(衣装を黒子に変えた)兄弟に演じさせるとか。
    無理か。

    今回、急に3.11以降のフクシマが触れられていく。「完全にコントロール」とかタイムリーじゃないだけに古くさく、それはちょっと「なんだかなあ」と思っていたが、あくまでもわかりやすい例の1つであって、それを通して「未来」が語られていたのではないか。
    つまり、生まれてくる者の未来への不安の(今一番)わかりやすい形であろう(結構ヒヤヒヤなことを言っていたけど・笑)。
    そして、この作品では、頭の薄くなったオジサン(赤いスーツを着てたなあ)が、不器用ながら「大丈夫だよ」と、語りかけてくれるのだ。
    このナイーヴさがボス松村である。

    兄弟役の2人は、とてもよかった。特に弟役の加藤ひろたかさんは、ノビノビとした弟感がいい。すっと前に出る感じがいいのだ。
    岸本を演じたNPO法人さんも、リラックスしているような、自然さがあった。
    そして、キタジマを演じた後藤のどかさんは、結構な時間の一人芝居であったが、それを弛ませずによく見せたと思う。拍手だ。
    漁労長を演じた千頭和直輝さんは、ゴジラになってからの哀愁感がいい(ガリガリの身体のせいもあるが)。
    父を演じたバブルムラマツさんは、とにかく楽しそうだった。

    漁師たちの衣装は、もっと漁師アピールがあってもいいのでは。
    そして、ゴジラには尻尾と背びぐらいは欲しいところである。

    2時間超の作品だが、それは感じなかった。

    作品とは関係ないが、3人組の男性が、ずっとゴソゴソしたり喋っていたのには、怒りが湧いた。
    そこまで行って、「集中しろ!」と、頭をハタいてやりたかった。

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    2015/06/12 08:47

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