紫苑物語
新国立劇場
新国立劇場 オペラ劇場(東京都)
2019/02/17 (日) ~ 2019/02/24 (日)公演終了
闇を蒔く~屍と書物と悪辣異端審問官~
虚飾集団廻天百眼
ザムザ阿佐谷(東京都)
2019/02/03 (日) ~ 2019/02/11 (月)公演終了
満足度★★★
鑑賞日2019/02/05 (火) 19:00
エログロ少な目、怪物大決戦多め、そして血糊噴出は超多め。
前説の時は劇場を出ており、血糊の件を聞いておらず、いつもは安心・快適な3列目中央寄りに着席。
しかし、お陰様で2列目の方と私の隣の方がバッチリと被弾してくれて、被害は最小限で済みました。
お2人とも、とんでもないことになっていましたが。
でも、顔にちょっと被弾した血糊がなかなか取れなくて、駅のトイレでは苦戦しましたが。
テッサリアの修道院内のヒェーラルキーがちょっと見えづらく、冒頭からすっと入って行けなくて、やや難儀しました。ラストのどんでん返しは、見事でした。けれど、登場人物の思惑や立場をもう少し整理されたら、よろしかったのでは。
稽古場公演2019「野鴨」
無名塾
無名塾 仲代劇堂(東京都)
2019/02/08 (金) ~ 2019/02/17 (日)公演終了
満足度★★★★
鑑賞日2019/02/16 (土) 13:00
仲代劇堂の地図はちょっと判りづらいので、初めての方は時間に十分余裕を持って行ってくださいね。
「野鴨」の舞台を観るのはこれで2回目だが、やはり演出の仕方でかなり違う印象を受けるものだ。
実のところ、前回の舞台では、グレーゲルスとヤルマールの印象だけが強く残っており、他の登場人物はまるで舞台装置のように、物語を進める上での存在でしかないように感じた。ヘドウィックの死さえ、この2人に振り回された不条理なものに思われ、釈然としない気持ちのまま終劇を迎えたと記憶している。
グレーゲルスとヤルマール双方に、嫌ーな苦々しい思いを抱いた。
しかし、今回の舞台は、登場人物個々が非常に際立っており、登場人物全てにある種の純粋さが存在していることに胸を打たれる。ヘドウィックの死も、野鴨よりも大事なものを代償にするといった清廉さをもって受け取れる。そして、暗示される最後のヴェルレの行為にも。
グレーゲルスの理想追及にも、青年期の稚拙さや無謬性が感じられ、偽善や自己正当化を感じることなく、ラストの悲劇を際立たせていたように思う。
よくできた舞台だった。
悪童日記
サファリ・P
横浜美術館レクチャーホール(神奈川県)
2019/02/16 (土) ~ 2019/02/17 (日)公演終了
満足度★★★★★
鑑賞日2019/02/17 (日) 14:00
山口さんが、この小説を写実化するのではなく、文体自体を舞台で立ち上げたいとおっしゃっていたが、その試みは十分に成功していると思う。
60分と言うと短めの舞台だが、おそらくここまでのパフォーマンスを実現するには十分に長く複雑だ。
この公演のために、どれほどの稽古を積んできたのだろうと考えると、眩暈をしてしまいそうだ。
体力的な負担も、ただごとではない。(舞台上の5台のテーブルはかなり重いらしいが、これを終始動かし、積み上げる)セリフなど軽く飛びそうな気もするのだが、登場する5人に一切の淀みはない。そして5人で登場人物30名以上を演じ分けるのである。
「財産没収」とはまた異なるコンセプトで、素晴らしいものを見せてもらった。
佐々木ヤス子さん、力持ちだなあ。
CHIMERICA チャイメリカ
世田谷パブリックシアター×パソナグループ
世田谷パブリックシアター(東京都)
2019/02/06 (水) ~ 2019/02/24 (日)公演終了
満足度★★★★
鑑賞日2019/02/14 (木) 13:00
座席3階B列22日番
まずは、あれだけの場面転換を仕切りきった【舞台監督】加藤 高氏には拍手!
場面転換が多いだけでなく、1989年と2002年を行き来するので、役者各位の集中力も尋常なものではなかっただろう。
倉科カナの熱演にも感嘆。
ヘンリー五世
彩の国さいたま芸術劇場
彩の国さいたま芸術劇場 大ホール(埼玉県)
2019/02/08 (金) ~ 2019/02/24 (日)公演終了
満足度★★★★
鑑賞日2019/02/10 (日) 13:30
座席1階E列29番
昨年、新国立で鵜山仁演出で上演された「ヘンリー五世」。今回の吉田演出では、同じ作品とは思えないスペクタクルに仕上がった。大掛かりなセットを駆使した、殺陣の応酬は見ごたえあり、かつ松坂桃李の舞台役者としての可能性を大きく開いた点では称賛に価すると思う。コーラスの吉田鋼太郎が、観客の想像を求める口上を連ねるが、その心配には及ばない。
しかし、一方で個々の重要なエピソードが浮いた感があり、作品として伝えようとするところがよく見えなかっったのも事実。ラストのキャサリンへのヘンリー五世の求愛と、イギリスとフランスとの和平のシーンは、取って付けたようで、どうも冗長、悪趣味の感もある。むしろ、ここまで脚本を改変する勇気があるのなら、もっとラストもバッサリとやってくれてもよかった気がする。だって、劇中キャサリンの役どころは、ほとんど宙に浮いた感じが否めない扱いなのだから。
終盤の河内大和の葱に関するやりとりも、ちょっとしつこい。
朗読劇『罠 Piège pour un homme seul』
演劇企画CRANQ
ザ・ポケット(東京都)
2019/02/06 (水) ~ 2019/02/11 (月)公演終了
満足度★★★
鑑賞日2019/02/06 (水) 19:00
オリジナルのミステリー舞台を観ると、初回はストーリーの構成や謎解きに関心が行き、ミステリー本来の楽しみに耽溺できるのだけれど、2回目以降の観劇となると、読書と同じようにその伏線を丁寧に拾う楽しみに変わる。特に舞台の場合は、本と違って前のページを読み直すことができないだけに、それを求めて再観劇という方も多いだろう。
そしてそれ以上に、ミステリー再観劇の楽しみには、役者の演技、演出のオリジナリティー、舞台美術・装置の工夫の違いを楽しむこともある。この点は、読書と大きく異なる点である。
さて、今回の舞台で気付いたこと。→ネタバレ
夜が摑む
オフィスコットーネ
シアター711(東京都)
2019/02/02 (土) ~ 2019/02/12 (火)公演終了
満足度★★★★★
鑑賞日2019/02/04 (月) 19:00
異様な出だしだ。
団地の部屋を訪ねてくるセールスマン、彼は幾つものドアをノックしては、居住人に「ここは私の部屋ではないですか?」と尋ねる。もちろん、居住人はここのは自分の部屋で、あなたの部屋ではないと突っぱねる。
しかし、セールスマンは「あなたの部屋かもしれないが、私の部屋でもありえますよね。」とひつこく食い下がる。
そして、また別の部屋へ行き、、、、夜を迎える彼は、自分はどうやってこの夜をやり過ごそうかと途方に暮れる。
ここから、4階に住むコスギと、すぐ下に住む3階のヤマモト一家や団地の住人との二重の芝居が繰り広げられる。不眠症に悩むコスギは、ヤマモト家から漏れ聞こえるピアノの音に悩まされているのだが、彼は妻の心遣いと小学生の息子との会話に、時間を費やしながら、でもというお話。
深夜1時過ぎに帰ってくる息子、また何か得体のしれない存在が室内を往来するしい。コスギの奇妙な言動と、団地住民の異常にハイテンションかつ無神経な行動は、ひたすら加速し、暴走しはじめる。しばしば挟まれる騒音とも、皮肉とも、あるいは無意味ともとれるユーモアは、話の進行にグロテスクさを増幅させ、観ていこちらの神経をとにかく氷つかせずにはいられない。
他の方も書かれているが、声を上げた笑う観客がいるのは不思議だけれど、クスクス笑いがやたらと漏れ聞こえるのはなぜなのか?ここはその無軌道さに恐怖する場面ではないのか。
プラトーノフ
ホリプロ
東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)
2019/02/01 (金) ~ 2019/02/17 (日)公演終了
満足度★★★★
チェーホフの処女戯曲、死後20年経って発見された作品ということなのだけれど、けしてまとまりはよくないし、話も何を書きたいのかよく判らない(ナレ死する登場人物もいたしね)。結末は、ちょっとあっけなさ過ぎて(まさか、そんな終わりはないよね、と思ったらその通り)拍子抜けしてしまうくらい。でも、面白い。
本来は5時間に及ぶ長さのようなのだけれど、それを休憩挟んで3時間にまとめ、藤原竜也に自由に演じさせていることが判ると話は、恐ろしいくらいの疾走感で進み、所々の話の淀みや辻褄のなさは一向に気にならなくなる。
それに、ちょっとでもチェーホフについて知っている人ならば、この話のところどころで「桜の園」「かもめ」「ワーニャ伯父さん」など、その後の彼の作品の萌芽が垣間見られ、ふと頬が緩んでしまうという楽しみもある。
また、役者さん各位が芸達者で、ただ舞台だけ観ていては、この役は○○だったんだ、という驚きもある。特に、高岡早紀さんや神保悟志さん、小林正寛さんなどは、言われなければ気付かないくらいに、役との同化度が高く、まさに劇中からそのまま取り出したよう。
次回の森さんのチェーホフ作品にも期待大だけれど、できれば、公共劇場でもう少しリーズナブルだと助かるなあ。
冬のカーニバルシリーズ Mann ist Mann (マン イスト マン)
KAAT×まつもと市民芸術館
KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)
2019/01/26 (土) ~ 2019/02/03 (日)公演終了
満足度★★★★
鑑賞日2019/02/01 (金) 14:00
座席1階2列11番
S席で観劇。食事つきなのだけれど、歌舞伎観劇で弁当を食べるのとは違い、勝手が判らず、席に落ち着いて食事開始まであたふたあたふたすることしばし。食事は美味しく、魚料理を予約したのだけれど、サーモンとホタテのグリルは予想を超えておりました。サーモンはあまり得意ではないので肉料理にしておけばよかった、と少し悔やんだのですが、サーモンの皮がパリっと香ばしく、ビールとワインで楽しませていただきました。後ろのA席の方々からは、どのような風情で観られていたのでしょう。
舞台はまさにキャバレー様式で、串田和美氏の口上で華々しく幕開けします。
開演と同時にレビューがあり、舞台上のコックやウェイトレスが、それぞれの役柄を割り振りながら劇へと導入していきます。レビューはラストにもあって、まさにキャバレー感満載、楽しいことは楽しいのですが、劇の内容はというと、かなりシリアス。
序盤は、気の良い荷役士が買い物に出かけて、兵士たちのトラブルに巻き込まれ、自身も兵士に扮することになるという、まさに落語の世界。与太郎話とも言える展開で、ここまでは笑顔でいらられるのですが、何と言っても脚本はブレヒト、一筋縄でいかない展開は、後半、やや陰気で恐ろしいものに変貌していきます。
共同プロデュースの白井晃氏が、パンフレットの中で書いておりましたが、タイトルを「男は男だ」と訳すのではなく、「人間は人間だ」一層意訳して「私は私だ」あるいは「個は個だ」とした方がよいのではという意見には賛成。
個人の存在基盤とは何かという深淵なテーマに入っていきます。気の良い荷役士は、他の兵士のたくらみで、兵士に成りすまさざる負えなくなり、いつの間にか好戦的で勇猛果敢な兵士となって戦場に躍り出ていくようになります。そして、成りすまされた本来の兵士は、自らの存在証明をできなくなり、仲間からも疎んじられる存在へと変貌していきます。この変容が、何となくユーモアに包まれながらも、平穏になされていくのがとても怖い。考えるだに、背筋を冷たい汗が伝うような気味の悪さを覚えます。
フライヤーの表紙の絵は、串田氏自身が書いたようですが、そこからも、彼がこの舞台の内容に十分な理解をしていたことは明白で(顔のない兵士、名前のない標識番号)、それをなぜキャバレー風な舞台としたかは、ちょっと不思議というか何というか。もしかしたら、能天気な風を装うことで、この舞台で繰り広げられた悲喜劇を、笑い飛ばそうとしたのかもしれません。
とにもかくにも、料理ともども、舞台も楽しませていただきました。
ちょこちょこと、役者さんにもいじってもらいましたしね。
最後の晩餐
劇団天動虫
サラヴァ東京(東京都)
2019/01/29 (火) ~ 2019/03/03 (日)公演終了
満足度★★★
鑑賞日2019/01/29 (火) 19:30
フライヤーの中央の女の子、まさかなあと思ったのだけれど、やはりジョニーさんでしたか。(着ているシャツの胸の文字が舞台と一緒)でも、すごいイメージが違う。
毎回、観ることを前提にしている劇団なのだけれど、今回のフライヤーの秀逸さは一層、食指を伸ばさざるおえません。
同じサラヴァ渋谷で前回上演された「幻の女」、タイトルを裏切らない妖しさとオリジナルメンバーによる天動虫らしい賑やかし、一捻りした秀逸なオチが印象の作品でした。そのサラヴァ渋谷が今夏で閉店ということで、今回も幻影譚ということで楽しみにしておりました。
しかし、フライヤーにあるような狸の化かし合いらしきところは、観る限り感じられず、ましてや「最後の晩餐」の意味がよく判りません。タイトルから、ユダの存在ということにもとれるのですが、そうした人物も見当たらず。
登場人物各位の立ち位置も、どうもボヤケテしまい(特に編集者)、話の焦点が合わない。
もう1回は観に行く予定ですので、そのあたり(ネタバレ記載含め)もう少し整理して欲しいなあ。
ちなみに、ライブ劇場でのアフター飲み会は、天動虫のお楽しみなのだけれど、スタートが22:00近くなるとちと、千葉在住の身としてはつらい。19:00開演、21:00前終演だと助かるのだけれど。
ハッピーな日々
ハチス企画
アトリエ春風舎(東京都)
2019/01/18 (金) ~ 2019/01/27 (日)公演終了
満足度★★★
鑑賞日2019/01/26 (土) 13:00
まず観劇前に気になってしまったのがタイトル。「ハッピーな日々」
通常「幸せな日々」というタイトルが通用しているのに、敢えて「ハッピー」としたのはなぜかしら、と。
テキストについては異常にまで強い拘りをみせるベケット作品。この作品でも、ウィニーは50歳くらい、ウィリーは60歳くらいと設定されていて、それはとにもかくにも熟年の夫婦像を想起させるものである。
しかし、この舞台でのウィニーとウィリーは20歳代。実際に設定どおりの年齢層の役者を使う必要はないのだけれど、
むしろ、この若い2人(特にウィニー)には「幸せ」を語らせるよりは「ハッピー」を語らせるのが似合っているということか。ウィニーはしばしば、笑顔で舌を出しながら「ハッピー」を繰り替えすのだから。
この舞台では1幕目は1日を、2幕目は数日を描いている(目覚ましが何度も鳴る)。ただし、1幕目と2幕目はどれほど隔たっているのかは判らない。1日なのか数年なのか。ただし、そこには大きな変容があり、ウィニーはウィリーからもらったお気に入りのカバンから、自分のお気に入りの物を取り出すことができない。歯を磨くことも、眼鏡をかけることも、ピストルの弾を確認することも。そして、日傘を開くことも。
なぜなら、彼女は首まで埋まってしまい、手を使うことができないから。
しかし、そこには、彼女が手を使えた時には不潔でだらしなかったウィリーが、正装をして現われ彼女を喜ばせてくれる。家族、夫婦、愛情、そして時間。どのように題材を観るかは人さまざまだけれど、明らかな老いと、そこで消費されていくものに対する哀切と愛着を観ない人は、まずいないだろう。
ある意味、素敵な素敵な物語。なぜって、ウィニーはウィリーが大好きだから。
29回公演 フェードル
うずめ劇場
東京アートミュージアム(東京都)
2018/10/11 (木) ~ 2019/02/23 (土)公演終了
満足度★★★★
鑑賞日2019/01/25 (金) 19:00
古典悲劇の名作を、東京アートミュージアムというちょっとした異空間で上演。
ピアノと1脚の椅子を除くと何もない殺風景な舞台だが、和の着物を使ったり、ファッションにも配慮した展開は、むしろシンプルイズベスト。皆さん、ピアノがお引きになれるとは、器用な方が多いのですね。
2時間ちょうどの舞台は、時おりユーモアも含みながら、破綻なく怒涛のように進み、パンフに引用されていたハンナ・ミュラーの言葉通り、力を与えてくれる悲劇でした。
ただ1つ残念だったのが、アテナイ王テゼーを演じた荒牧大道さん。後半登場するとただただ単調に大声を張り上げるだけで、王としての威厳、抑制することで漏れてくる苛立ちや怒り、周囲へまき散らす猜疑心、なんてものが全くなく、ただのガンコ親父にしか見えない。
荒牧さんは何度か、舞台で拝見しているのだけれど、それに気づいたのは終演後の挨拶の時。そう、あの素の整った低い声を聞いた時でした。なんだ、その声でさらっと演じてくれた方がどれほどよかったか。
ショウジョジゴク
日本のラジオ
新宿眼科画廊(東京都)
2019/01/18 (金) ~ 2019/01/22 (火)公演終了
満足度★★★★
鑑賞日2019/01/22 (火) 20:00
座席1階1列
私も新宿公社版を観て、その時にはうまく3つの作品をアレンジしてものだと感心した口だ。先日はmetroの「陰獣」を観て、「陰獣」と「化人幻戯」のアレンジも面白く、乱歩世界を表現したいるなと思った口でもある。
さて、そして今回の「ショウジョジゴク」こちらも、原作の3作品をアレンジしながら、「ドグラマグラ」をオブラートにしたような作品になっている。ただし、新宿公社に比べると、そのアレンジは要素的というか、寄木細工のような細かさで、主たる物語が一瞬で交代するので、話を追うことに結構神経を使う。
「ドグラマグラ」からの引用も、九州帝国大学医学部精神病科へ向かうバスや、「キチガイ地獄外道祭文」のバス運転手による独唱など、作品の世界観を支える仕立てとしてはよくできているが、冒頭の「胎児の夢」の話はよく判らない。(「火星の女」の妊娠話に繋がるのかな)
面白いといえば、面白い。だが、ここに至って、1つの疑問が生じた。
そもそも、舞台を鑑賞するのに予備知識は必要なのか?
絵画を鑑賞するのに、その時代背景を知らなくてはならないのか、音楽を鑑賞するのに音符が読めなけらばならないのか、小説を鑑賞するのに、作家の人生を知らなければならないのか。
知っていた方が、一層楽しめるということは間違いない。
ただ、知らなければ鑑賞できないということでよいのか。
metro「陰獣」でも、「陰獣」と「化人劇戯」という作品の予備知識がなければ、1人2役をやっていた探偵役が双方の世界を行き来することに理解ができなかったろう。
今回の「ショウジョジゴク」においても、3つの作品を知っているから、薄皮をはぐように、それぞれの作品のエッセンスを舞台上に見て取れるのであって、これ予備知識がない人にとっては、どう映ったのだろう。
「何でも無い」「殺人リレー」などは、まだ骨格が見えるものの「火星の女」についてはとんと判らないのではないだろうか。「ドグラマグラ」のエッセンスいたっては気づかれないどうし。
「観てきた」の感想では、皆さんこの手の文学には造詣がある方ばかりなので、できれば夢野久作に興味がなく、日本のラジオが好きとか、友達に連れてこられたとか、そんな真っ新な方の感想も読んでみたいと思った次第。
でも、夢野久作好きとしては、この試みは十分に評価したいと思います。
陰獣 INTO THE DARKNESS
metro
赤坂RED/THEATER(東京都)
2019/01/17 (木) ~ 2019/01/20 (日)公演終了
満足度★★★★
鑑賞日2019/01/18 (金) 19:30
座席1階E列10番
「陰獣」に「化人幻戯」を織り込むことで、双方の女主人公を重ね合わせ、何とも不思議な味わいを醸し出している。せっかくだから、「陰獣」の探偵役も、明智小五郎に置き換えて、2つの世界を通底させるような工夫もありかな、と思ったけれど、「陰獣」の探偵役は、作家だからこその謎解きなので、それは無理というものか。
サヘル・ローズさんは、相変わらずの美貌。それも、その目鼻立ちのはっきりした顔造形がゆえに、眼での芝居がはっきりと観客に伝わってきて、時々、ぞっとするような悍ましさを感じさせるのは見事。眼球がひっくり返るような、眼の動きは乱歩世界の幻影を具現化するようだ。
井村さんの舞台監督も素晴らしい。大江春泥の架空性を面白く引き出している。
鴇巣直樹の存在感と相まって、幻想趣味をうまく作り出している。
『アメリカン・ラプソディ』 『ジョルジュ』
座・高円寺
座・高円寺1(東京都)
2018/12/20 (木) ~ 2018/12/25 (火)公演終了
満足度★★★★
鑑賞日2018/12/23 (日) 14:00
座席1階A列12番
『ジョルジュ』
いかにもアメリカ的なショービシネス感漂う『アメリカン・ラプソディ』に比して、こちらはロマン溢れる19世紀のフランスを中心にした話。背景には、ロシアのポーランド支配や、フランスの2月革命が描かれますし、手紙に出てくる人名も、ドラクロア、リスト、バルザックと豪華。
ショパンとサンドの恋愛模様を、格調高く描きます。
ショパン国際ピアノコンクールで4位入賞の関本昌平氏は、まさにセリフのないショパン役。さすがに技巧的で難度の高いショパンの曲を、まあ呆れるほど華麗に演奏します。
(ネタバレ)
鍵盤側に座っている千葉哲也氏は演奏中に、彼の名演に見惚れていますし、反対で聞き惚れる竹下景子氏は、その視線が時として恋人に、時として母親に変化します。
ショパンって、意識して聞いたことはないのですが、聞いてみるとタイトルを知らなかっただけで、どの曲も聞き覚えのある曲ばかりで、知らないうちに多くの洗礼を浴びていることに少なからず驚きました。
ちなみに、サンドの手紙の中では「ショパン」と「ショペーン」(おそらく、フランス読みとポーランド読みなのだろうけれど)を併用していたのはなぜかしら?
『アメリカン・ラプソディ』 『ジョルジュ』
座・高円寺
座・高円寺1(東京都)
2018/12/20 (木) ~ 2018/12/25 (火)公演終了
満足度★★★★
鑑賞日2018/12/21 (金) 14:00
座席1階A列16番
ガーシュインもショパンも共に39歳で亡くなった。それが、この連作のきっかけなのかしらん。
『アメリカン・ラプソディ』『ジョルジュ』共に、往復書簡を読み上げて、それぞれの音楽家の生涯を作曲した音楽順で演奏する音楽劇。ただ、タイトルでは、前者がまさにガーシュイン自身を象徴しているのに対して、後者はショパンの創作意欲を最大に引き出したジョルジュ・サンドがタイトルになっている。
また、前者では語り手である土居裕子氏と福井晶一氏が、共に声楽家であることから、素晴らしい歌声を聞かせてくれます。後者では、生粋の役者2人が、その舞台衣装を含め、舞台の登壇、降壇を含め細かい演出含みで、情感豊かな演技を見せてくれます。
『アメリカン・ラプソディ』
女性作曲家ケイ・スウィフトと、
ヴァイオリニストのヤッシャ・ハイフェッツが語りを入れます。
必ずしも当時、常に名声と共にあったわけではなかったガーシュインの苦悩を含め、
2人の語りが彼の創作の源泉を浮かび上がらせます。
「巴里のアメリカ人」や「ボギーとベス」が、現在の評価に反し、かなり酷評されたとは意外でした。元の題名「アメリカン・ラプソディ」が、「ラプソディ・イン・ブルー」に変わった経緯も納得しました。
「アメリカン・ラプソディ」とは、ガーシュイン自身の形用がふさわしいです。
「サマータイム」を聞いた時には、目頭が熱くなってしまいました。
財産没収
サファリ・P
こまばアゴラ劇場(東京都)
2018/12/20 (木) ~ 2018/12/23 (日)公演終了
満足度★★★★
鑑賞日2018/12/23 (日) 11:00
日曜11時の回にもかかわらず、席は満杯。トークがあるというのが呼び水になったのか、テネシー・ウィリアムズのこの小編に何か魅力を感じたのか。
割と厳しめの評価が多いけれど、本来ならリーディングでしか成り立たないであろう、10代前半の2人の男女の会話劇を、よくまあ、身体表現と僅かな舞台装置で「描く」ことに徹したなあ、という点で感心しきり。ただ、万人受けはしないだろうなあ、と思ったけれど。
トムとウィリーの会話に、亡霊のような死んだ姉を登場させ、舞台を徘徊させたり、狂気じみた踊りを展開させたり、ウィリーのセリフを再現させたり。そこには、ウィリーの姉への敬愛に見え隠れする嫉妬、全てをウィリーに譲り渡して病死していった姉の執着と悔恨がほどよく描かれている。ウィリーにほのかな恋心が芽生えたトムが、ウィリーの言葉1つ1つに右往左往させられる姿が、切なくもかわいい。
必ずしも、2人を10歳代前半と想定はしていないようだけれど(ウィリーがしばしば酒をあおる)、実際の役者さんの姿形と相まってまさに年齢不詳、針貝さんが評したような「夢幻能」、死霊の世界を感じさせる演出は、生者と死者の交換を見せられているような雰囲気がとても素晴らしいと思う。
ジョー・エッグ
文学座
文学座アトリエ(東京都)
2018/12/07 (金) ~ 2018/12/21 (金)公演終了
満足度★★★★★
鑑賞日2018/12/19 (水) 19:00
座席1階A列18:番
勘違いかもしれないけれど、「ジョー」の正確な名前は「ジョセフィーヌ」と言っていた気がする。(ちなみに「ブライ」は「ブライアン」、他の役名も短縮なのかしら。「エッグ」という苗字もちょっと変わっているし)
この舞台、実際の時間にすると僅か12時間そこそこ、ブライが学校を出るところから、自宅での翌朝までの話となる。原題が「ジョー・エッグ死の一日」ということなので、
むしろ、殺されかけたジョーにとっては1日どころか、半日ということになる。
第1幕は、ブライが自宅に戻り、シーラと痴話げんかをした後、芝居の稽古に出かけてから、娘ジョーの誕生から異常に気づいて病院や教会を巡る回想まで。
第2幕は、芝居の稽古からシーラがブライの旧友フレディと、その妻のパムを連れてきて、そこにブライの母親グレースも訪れ、ジョーを巡り、彼女への想いをそれぞれに語る会話劇。そこでブライが出した結論とシーラが出した結論は、、、、
生まれながらにして重篤な障害を持ち、身体の自由が利かないだけでなく話もできないジョー。彼女は言葉を理解することはできるのでしょうか。もし、できるとすればそれはそれで残酷な話ですし(彼女に対する周囲の想いが理解できるということで)、できないとすれば世界に対する理解の機会さえ持てないということで悲劇的な話です。
第1幕の回想シーンは、その時のやりとりをブライが医師役や神父役を演じるのですが、
これがメタ芝居なのか、単にシーラの回想に出てくる人物なのかは不明。それでも、やたら無責任な医師、ドイツ語訛りのきつい小児科医、神との関係について質問するシーラにやたら戸惑う神父と、ブライを演ずる沢田冬樹さんが演じ分ける軽快な口調が小気味よい。
シーラの発する数々の質問の奔流。それはなぜジョーが重篤な障害を持つようになったのか、を医師や神に突き付けるものですが、やりとりのおかしさに飲まれながらも、とにかく親という立場からの発言としては、痛覚をひたすら捩じりあげられるような苦しみに溢れています。
ジョーを演じる平体まひろさんの僅かな動きとうめき声、休憩を知らせる時の軽快な舞台登場と、エンディングでの笑顔の挨拶に救われた観客は多かったのではないかな。
灰から灰へ
池の下
要町アトリエ第七秘密基地(東京都)
2018/12/14 (金) ~ 2018/12/16 (日)公演終了
満足度★★★★★
鑑賞日2018/12/15 (土) 14:00
座席1階1列
ピンター死後10年ということで、ひっそりと、それでいて確信的にピンター作品の上演が続いている。
昨年の世田谷パブリックの「管理人」から、「ダムウェーター」「ヴィクトリア驛」「誰もいない国」ときて、この「灰から灰へ」。
1時間の芝居なのだけれど、疲れたとにかく疲れ果てた。
この会話劇はそもそも何なのだ。
2人の男女の関係は???
冒頭、拳へのキスを求められた女がその回想をし、舞台途中で、現実の舞台で会話をする男から、拳へのキスを求められる。繰り返される?なぜ?
回想の男は、この男なのか?
尻と胸を強調した下世話な台詞から、飛躍する経済や戦争の話。
最近、何か難しい物語をすぐに不条理と言う傾向が気になっていたのだけれど、
おそらく不条理といってよいのはカフカとイヨネスコとピンターだけではないか。
ベケットやカミュは、不条理なのではなく、多様性・多義性あるいは、転用可能なテキストに過ぎない。
(これは、作品の価値どうこうではなく、何でも不条理で片づける安易な傾向に対する無思慮さを否定する以上の意味はない)
短い公演日数で、再度見れないのが残念。今後もピンター作品の多くの公演を望む。