満足度★★★★★
鑑賞日2018/12/19 (水) 19:00
座席1階A列18:番
勘違いかもしれないけれど、「ジョー」の正確な名前は「ジョセフィーヌ」と言っていた気がする。(ちなみに「ブライ」は「ブライアン」、他の役名も短縮なのかしら。「エッグ」という苗字もちょっと変わっているし)
この舞台、実際の時間にすると僅か12時間そこそこ、ブライが学校を出るところから、自宅での翌朝までの話となる。原題が「ジョー・エッグ死の一日」ということなので、
むしろ、殺されかけたジョーにとっては1日どころか、半日ということになる。
第1幕は、ブライが自宅に戻り、シーラと痴話げんかをした後、芝居の稽古に出かけてから、娘ジョーの誕生から異常に気づいて病院や教会を巡る回想まで。
第2幕は、芝居の稽古からシーラがブライの旧友フレディと、その妻のパムを連れてきて、そこにブライの母親グレースも訪れ、ジョーを巡り、彼女への想いをそれぞれに語る会話劇。そこでブライが出した結論とシーラが出した結論は、、、、
生まれながらにして重篤な障害を持ち、身体の自由が利かないだけでなく話もできないジョー。彼女は言葉を理解することはできるのでしょうか。もし、できるとすればそれはそれで残酷な話ですし(彼女に対する周囲の想いが理解できるということで)、できないとすれば世界に対する理解の機会さえ持てないということで悲劇的な話です。
第1幕の回想シーンは、その時のやりとりをブライが医師役や神父役を演じるのですが、
これがメタ芝居なのか、単にシーラの回想に出てくる人物なのかは不明。それでも、やたら無責任な医師、ドイツ語訛りのきつい小児科医、神との関係について質問するシーラにやたら戸惑う神父と、ブライを演ずる沢田冬樹さんが演じ分ける軽快な口調が小気味よい。
シーラの発する数々の質問の奔流。それはなぜジョーが重篤な障害を持つようになったのか、を医師や神に突き付けるものですが、やりとりのおかしさに飲まれながらも、とにかく親という立場からの発言としては、痛覚をひたすら捩じりあげられるような苦しみに溢れています。
ジョーを演じる平体まひろさんの僅かな動きとうめき声、休憩を知らせる時の軽快な舞台登場と、エンディングでの笑顔の挨拶に救われた観客は多かったのではないかな。