書を捨てよ町へ出よう
東京芸術劇場
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2018/10/07 (日) ~ 2018/10/21 (日)公演終了
満足度★★
時代を先鋭的に触発した寺山修司の没後35年の公演だが、時代の推移をつくづくと思い知る公演になった。それはそうだろう、この劇場があった場所は、寺山の頃は全く芝居などは縁のない流行らないマーケット街だったと記憶している。書はスマホになったし町は高層ビル、舞台になる労働者階級のアパートはマンションになったのだから。
当然、そこに住む若者の意識も変わる。もともと寺山の「書を捨てよ、町へ出よう」というスローガンも、当時は詩的な色合いを含めた若者の憧憬を誘う惹句だったが、今日の公演のように、まったくその時代を顧慮しない俳優と演出で、何やら現代風の様式的な舞台で演じられると唯々昭和との違和感がつのるばかりだ。芝居を作った連中にとっても寺山は、我々が昭和30年代に漱石をありがたがれと言われて反発したような気分ではないだろうか。全体によそよそしい公演で、映像に音楽に建築材を組み合わせた装置にと趣向はいろいろ尽くしているけど、なにも伝わらない格好をつけただけの舞台だった。これではならじと挿入した流行のお笑い芸人の創作コントも失笑を誘うだけだった。
二十日鼠と人間
Quaras
東京グローブ座(東京都)
2018/10/03 (水) ~ 2018/10/28 (日)公演終了
どん底がロシアなら、こちらはアメリカの季節労働者の群像劇だ。人情劇の面もあってよく日本でも取り上げられるが、やはりお里は争えない。これはやはり、多民族、移民国家のアメリカの物語だ。
今回の上演は、ジャニーズのファンサービスのような公演で、私が観た回は平土間の一階に男性の観客は一人もいなかった。全員建くんの女性ファンである。そういう目的の芝居もあっていいのだが、主演者を考えればもっとやさしい演目があるのではないかと思う。また、演劇に向いているタレントとステージショーの方がいいタレントがいる。演劇が解る、と言っては語弊があるが、演劇的表現にセンシティブは人と、タレント表現や、ビジュアルで行ける人とは違う。そこをタレント事務所は冷静に見なければ。どちらがいいと言う事ではないのだ。タレント性だけで一晩の劇場を埋めるだけの観客を集める人もいるのだから。2時間45分。生音楽で盛り上げ、周囲の俳優たちは演劇にしようと健闘している。
華氏451度
KAAT神奈川芸術劇場
KAAT神奈川芸術劇場・ホール(神奈川県)
2018/09/28 (金) ~ 2018/10/14 (日)公演終了
満足度★★★★
大きく高い白い本棚が客席に向かって開いている。本棚には白い大きな本が並んでいるが、それが次々と炎上する。ここはマッピングだ。本を持っているだけで犯罪で、それを焼く昇火士と言う公務員もいる情報管理社会がこの装置でよくわかる。昇火士と言うのは、原作翻訳者の造語だが、言葉にすると消火士と紛らわしい。つまりは現在の消防士とは別の役割の公務員がいる未来のディストピアドラマである。
ミステリやSFの読者には古典のレイ・ブラッドベリの原作はすでに何度も映画にはなっているが、舞台にするには未来社会と火を扱う場面をうまく見せられるかどうかがネックになっていて、あまり記憶にない。今回は、この装置が効果的で、終始この本棚に囲まれた舞台で進行する昇火士モンターグ(吉沢悠)の物語に説得力がある。
原作はナチスの焚書に近く、アメリカの赤狩り1950年代に書かれていているから、当然、古めかしいのだが、最近の中国の言論規制や、そこまで行かなくても身近なところで起きている「忖度」や他人への無関心を見ると他人ごとではない生々しさがある。その原作第一部の部分は舞台でもよく表現されている。
昇火士モンターグは、隣人の娘クラリスや妻ミルドレッド(ともに美波)や、上司(吹越満)との日常の中で、このホンのない統制社会に疑問を持ち抜け出そうとする。原作第二部第三部の脱出のアクションドラマ的冒険物語で、原作では本(思想の持ち方)に関する多くの引用や警句がちりばめられている上に、機械猟犬のような小道具、戦争が始まると言う大道具も出てきて舞台では難しいところだ。
小劇場なら一言の説明でやむを得ないと納得するが、大劇場ではどうか。
レディ・オルガの人生
ティーファクトリー
吉祥寺シアター(東京都)
2018/09/29 (土) ~ 2018/10/08 (月)公演終了
満足度★★★★
世の中のクリーン思考に演劇界はかなり苛立っているのだな、と思わせるステージだ。
クリーン思考と言うより、無事思考、他人無関心思考、とでもいうか。もともと、演劇はごった煮的なさまざまなモラル共存の世界を提示するものでもあるのだから、そこをじわじわと締め付けるような昨今の風潮は困ったものだ。だが、正面からそれを言うとネットの炎上から始まり、したり顔の世の中クリーン族が出てきて表層的な騒ぎになってしまう。そこを軽喜劇風に撃った舞台だ。
身体障碍者のサーカス的な劇団に集まった障碍者たちの象徴が、レディ・オルガ(渡辺真紀子)で、顔面に男勝りの髭がある。引っ込み思案の彼女を無理やり正面に出すことで、シャム双生児、両性具有者。猫女などの見世物劇団を売り出す、作者や座長、いずれも行き当たりばったり人生の人間たちで、かくたる志向があるわけでもないのに、注目を集めたとたんに潰されてしまう。
中身は寺山修司や唐十郎的な世界で、彼らだったらもっと奔放に畸形児たちと世の中を対立させて鋭い舞台を作ったであろうが、今は時代も違う。彼らの継承者として育った第三エロチカの作者は、劇場パンフでも言っているように「世の中これで良くなったか?」という問いに、いらだちは隠さないものの、正面からは戦おうとしていない。
そこが残念とも言えるのだが、いまさら、ペニノをやるわけにもいかないだろう。劇場で渡されたチラシを見ると、ずいぶん唐や寺山の再演がある。演劇界の底流には彼らの精神は生きているとはいえ、それを現代の観客に向けて撃てる新世界の提示が出来る作者、演出家、役者がいないのだ。観客はそこもいらだつ。
舞台は、最近のこの作・演出者らしく、きれいにまとめられていて(多分美術も川村だろう)小劇場には珍しく、舞台空間が美しくまとまって居て舞台転換などもうまいものだ。俳優たちは小劇場のいろいろな場からの出身者が配役されているが、それぞれの力量がすれ違ってしまうところもなくはない。それはプロデュース公演になると仕方がないとも言えるけど、これだけのホンがあるなら、公共劇場でなくとも、都内の準商業劇場でも、今少しレベルを上げて出来ただろうにと残念だ。
歌あり、映像あり、の2時間。
兵士の物語2018
まつもと市民芸術館
スパイラルホール(東京都)
2018/09/27 (木) ~ 2018/10/01 (月)公演終了
満足度★★★★
ストラヴィンスキーの音楽劇。6人の演技者と、7人の演技者の息のあった小劇場風舞台で、しゃれた青山通りの劇場にふさわしい贅沢な内容だ。串田和美・演出。スパイラルの客数ではどうやっても採算が取れないだろうと、余計な貧乏性が出てしまう。現代音楽には親しんでいなくても楽しめる舞台だった。ダンスが美しかった。
ドキュメンタリー
劇団チョコレートケーキ
小劇場 楽園(東京都)
2018/09/26 (水) ~ 2018/09/30 (日)公演終了
満足度★★★★
いくら90分足らずの作品と言っても、ほとんど出ずっぱりの中身が詰まった三人芝居を連日3回やるのは、大変だろう。それを破綻もなくやってのけるだけの実力がこの劇団にあると言う事だ。半端な5時の回を見たが満席だった。
芝居は「歴史暗部もの」の、サスペンスもあって一気呵成に進む。素材を追い込んでいく作劇法もよく出来ている。しかし、もう何度も語られたこの素材を通して、新たになにが語られたかと言うと、そこは薄い。構成もうまいし、俳優たちも柄にはまっていて、だれることはなく、この戦時中の植民地で行われた日本軍の残虐行為が、現在の製薬会社にも受け継がれていることが語られる。科学の名で行われた残虐行為に慣れてしまう人間の弱さ、生活のためには医学の倫理などはたやすく捨てられること、官民とわず日本人に共通する自己を律することの弱さ、それの反面として、権威や組織への盲目的な従属、が語られるが、いずれもどこかで聞いたような結論に落ちていく。パンフによれば、事件をすっきり解いてみせるエンタテイメントだと言うが、この程度でホントにそのつもりなのだろうか? この作者なら、こんなことで終わったりはしないと思う。これではパラドックス定数(今年同じ素材(731)を再演した。もちろん劇の設定も中身も違うが、日本ではいつまでも731の思想は変わらない、と言っているところは同じだ)と、どっちもどっちと言うレベルではないか。
素材の追求ではなく、タイトルの「ドキュメンタリー」論だとすると、見方は変わるが、この程度でこの事件を書くのをあきらめるようなドキュメンタリストではドラマにならない。
ドキュメンタリーがどう取材され切り張りされ、「これが真実だ!」と公表されるようになっていくか、というのはかなり面白い素材で、もっと手垢のついていない素材で、見せて貰いたいと思う。
『US/THEM わたしたちと彼ら』『踊るよ鳥ト少し短く』
オフィスコットーネ
小劇場B1(東京都)
2018/09/20 (木) ~ 2018/09/27 (木)公演終了
満足度★★★★
まったく違う極限状況を、不条理劇と、ドキュメンタリー劇と趣向を変えて見せる二本立て。ともに俳優は二人づつ。
最初の「踊るよ・・」は長髪が扇風機に絡めとられて動けない女と、自由に動ける男のつかず離れずの男女関係。作はノゾエ征爾で、こういう芝居は日本の劇作家は不得意だが、チャレンジ精神が発揮できる場があったのは喜ばしい。役者もベケットだ、イヨネスコだ、と言うと喜んでやるくせに、日本の作家だとしり込みするのか。演出は小劇場の山田佳奈。
役者は占部房子と政岡泰史。占部房子は、小劇場には欠かせない逸材だが、今回は珍しくドタバタとでもいえそうな喜劇的な役だ。場の空気やその時の表現にたけているカンのいい女優だから、奇妙な形で極限状況に追い込まれた女の心理的なサスペンスがよく伝わってくる。政岡は受けの芝居になるが、稽古をよくやったらしく、動きと台詞の受け渡しが非常にスムースで、その場の感情をよく伝えて、見ていて気持ちがいい。
もう一つの翻訳劇は、正面からチェチェンの小学校占拠事件の首尾をドキュメンタリックに描いている。趣向も黒板に囲まれ、紐が張り渡されるステージが、つまりは小学校、爆発する爆弾の導火線、を象徴している。囚われた学校の生徒の男女が、尾身美詞と野坂弘。去年イギリスのナショナルシアターで上演された脚本と聞くといかにもいかにものイギリス芝居だ。役者も演出も一生懸命でいいのだが、これだけ小劇場できっかけが多いと、肝心の芝居が上の空になるのではないか。
こういう前衛的小劇場作品が、それぞれの劇団や事務所を縦断してプロデュース公演で、しかも小さな小屋で上演されるには、いろいろ関係者には御苦労があったと思う。劇場が大きい商業劇場なら、簡単に善し悪しが言えるが、こういう試みは応援したくなる。幸い昨晩は満席で、観客も成熟してきた。ともに1時間10分ほど。
かのような私
文学座
文学座アトリエ(東京都)
2018/09/07 (金) ~ 2018/09/21 (金)公演終了
満足度★★★★
八十年にわたる日本戦後史のドラマである。東条が絞首刑となった日に生まれた男の生涯が6場で描かれる。休憩あっての2時間半。
ほぼ全場、空気に覚えのある事件を取り扱っていて(未来の一場も何やらお見通しになった感じであった(笑))、こちらも歳をとったとつくずく思う。東条処刑から始まるから当然これは戦後民主主義で日本の一家がどうなったかと言う話だ。自由、平等のシンボルが次第に影が薄くなって、天皇制に象徴される日本の世間に呑みこまれていく、と言うのはよくある話で新鮮味はないが、さすがこの作者だけあって、また、文学座の役者だけあって、破たんもなく面白く見られた。効果音が各時代の飛行機の音、と言うのは新趣向で、こういう細かいところはさすが大劇団と思う。
だが、全体としては、この作者で文学座がやるなら、「女の一生」の男版、戦後版みたいなものでなく、「治天の君」とは言わないが、日本の戦後と言うなら、せめて、「60Sエレジー」くらいには素材もテーマも絞ってくれないと観客は満足しない。文学座がこの作者と組む機会もそう多くはないだろう。日本の新劇のメンツにかけて、もう少しどんな芝居が今の新劇にもとめられているか、考えてほしいところだ。劇団にも鋭い有能な製作者が必要だ。
チルドレン
パルコ・プロデュース
世田谷パブリックシアター(東京都)
2018/09/12 (水) ~ 2018/09/26 (水)公演終了
満足度★★★★
原子炉事故先進国イギリスの原発事故モノである。イギリスの原発事故(セラフィールドと言ったっけ)はもう50年以上前の話で、今のフクシマと同じような状況があって、また事故隠ぺいなどもあって、こういうときはどこの政府も同じように信用できないことする、と教えてくれたものだ。せっかく先例の教材がありながら、懲りずに同じように事故を起して平気な上に、処理もできない我が国政府・企業も困ったものだが、ここではその議論は置いておく。
日本でも事故後、政治や経済の問題を離れて、巨大科学と科学者の責任、と言う点に焦点を置いた舞台がいくつかあったが、どうしても告発調になってしまうか、抽象的モラル責任論になってしまう。
そこは、このイギリスの30歳代の若い新進女流劇作家はうまいのだ。
技術者として手がけた原子炉が事故を起こした原子炉科学者夫婦(高畑淳子・鶴見辰吾)の話だが、彼らはすでに引退(定年退職)して原子炉から遠くない自然の中のコテージで暮らしている。そこへ、かつての同僚の女(若村麻由美)が、事故の救済に行こうと誘いに来る。原子炉労働者が足りないので元の同僚100人に声をかけて20人ほどが行くから、一緒に行こうというわけである。女と夫はかつて関係があり妻も知っている。この三人の離職後ひさびさの出会いからの数時間の芝居である。
救援に行くか行かないか、行くべきかどうか、夫婦には4人の子があり既に家を出ているが、女には子がない。お互いの生活の背景も変わっているし、情事の比重も変わっている。その辺を絡ませて、技術者が関わらざるを得ない巨大科学事故と人間のあり方を教条的にならないようにドラマにしている。話そのものはよくある話だが、運びがうまくて2時間足らず、飽きない。栗山演出に、いつものことだが隙がない
しかし、これはやはりイギリスのイギリス人の話だ。目前にフクシマの惨状と、対策の無策を平然と見せられる日本では、この話は牧歌的すぎる。芝居として面白ければいいだろう、と言う意見もあるだろうが、これだけ国民がイラつく事態になっている日本では、このテーマを芝居として楽しむ、と言う事にはなかなかならない。少なくとも私はそうだ。
俳優も好演で、高畑淳子が時に、日本風になってしまう以外は翻訳劇としてはよく出来ていると思う。劇場のキャパのせいもあるかもしれない。これだけ大きいとどうしても広い客を意識せざるを得ない。仕込が商業劇場のパルコということもある。
この戯曲かけ方を誤ったのではないか。
変奏・バベットの晩餐会
かもねぎショット
ザ・スズナリ(東京都)
2018/09/06 (木) ~ 2018/09/09 (日)公演終了
満足度★★★
なぜこの北欧の寓話を日本で舞台にしようとしたのか、結局わからない。
原作はデンマークの国民文学、映画も傑作と言われる出来で、それぞれに深く愛している人たちもいる。それを越える結果は望めないにしても、この素材を扱うなら扱うだけの心意気を見せてほしい。
俳優全員を白の衣装にするとか、ダンスをいれてみるとか、バベットのフランス語なまりを東北弁でやってみるとか、晩餐を幕で見せるとか、全然作品の本質に関係ないところで小手先の気を引くだけでつまらない。肝心の、革命で、天職を奪われた犠牲者が、その職を理解しない寒村に流れてくる。その寒村の人々には自然の生活があり、その中で生涯を貫いて生きるよすががある。それぞれの地域に生き、宗教も異なる人間の人生と真実が、宝くじが当たったことで実現する一夜の奇跡の晩餐でほんの一瞬だけ明らかになる。と言うところがぼやけてしまって見えてこない。
原作より、としていないのならいいが、これで日本の変奏と言うなら、ちょっとデンマーク国民に申し訳ない底の浅さだ。。
俳優も久しぶりのかもねぎショットで落ち着かずバラバラの印象だが、一人か二人はブリリリアントな役者が居ないとこういう抽象性が強い話は苦しい。おばさんたちの井戸端会議の連続のようになってしまった。唯一の男性配役は、原作ではものすごくおいしい役なのだがこれも不発。唯一旨いと思ったのは選曲である。
死神の精度
石井光三オフィス
あうるすぽっと(東京都)
2018/08/30 (木) ~ 2018/09/09 (日)公演終了
満足度★★★★
十年ぶりの再演の脚本演出は、和田憲明。小劇場からスタートして、20年劇団をやった後、今はプロデュース公演で成果を上げている(野木のパラドックス定数初演の何作かを、小劇場中心のキャストで作り直した作品は、どれも目先につられやすい元劇団の及ばないところを埋めた。基本の舞台設計がしっかりしているので、たいていのことには対応できる良い演出家だ)
今回も、内容はほとんど原作によりながら、原作の他のエピソードからいいとこどりをして、内容を膨らませている。その選択が非常にうまい。ことに中段とラスト。正面の壁を開けてそこをハイライトで見せるのは定番と言えば定番なのだが、そこへ行くまでが周到に設計されていて、雨の中に立つ藤田も、幕切れの青空の中の死神も、観客の心をとらえるいいシーンになっている。
この作品では、死神がミュージックが好きと言う設定になっていて、二人の調査員が、それぞれに音楽に没入している面白いシーンがあるのだが、そういうところも丁寧に配慮されている。惜しむらくは、今回は劇場の音声ミキシングが雑で(はっきり言えばド下手で)かなり感興をそいだが、それでもいくつかのシーンは、この死の物語のいい癒しになっている。
俳優も物足りない。ことに阿久津を演じた上田圭輔は、初演が初めてストレートプレイに挑んだ中川晃教だったから、比べられては苦戦だろうが、まずは台詞を聞こえるように言うことから始めて、この滅多に出会えない稀有な現代性のあるおいしい役に挑んでほしい。ラサールはやはり歳をとったなぁと感じる。こういうのは残酷だが、多分初演の時はやくざ者のギラつく感じが地で出せていたと思う。萩原は、浮世離れしているところが役にあっている。
たちまちソールドアウトになった初演はかなり遠い目標だが、まだまだ先は長い。このいい脚本を生かして、俳優たちの息があってくるのを期待している。
「サマータイムマシン・ブルース」「サマータイムマシン・ワンスモア」交互上演
ヨーロッパ企画
本多劇場(東京都)
2018/08/17 (金) ~ 2018/09/09 (日)公演終了
満足度★★★★★
京都の劇団の創立20周年記念全国公演。内容も実績も伴ってユニークな芝居の面白さを見せてくれた小劇場に乾杯!! 昨年ようやく岸田戯曲賞なんて、遅すぎるよ!! そういう地方のハンデなど度外視して颯爽とわが道を行っている劇団には東京でもファンは多い。
映画にもなった本編の舞台は、郊外のキャンパスにある大学のSF研究会。そこに残されていた古ぼけたタイムマシーンの設計図を作ってみると、昨日にだけは戻れるタイムマシーンが出来た。そこから始まる騒動を青春グラフティに仕上げたのが第一作。「ワンスモア」はそれから十五年後、かつては多くの部員がいた部活動も今の学生には不人気で、部室を共有するSF研究会もカメラクラブも学生はひとりづつ。同窓会の流れで久しぶりに訪れたかつての部員たちの前に、タイムマシーンで異次元の人物が現れる。かつては一日しか移動できなかったマシーンの性能もよくなっていて、過去未来への移動の幅も広がり台数も増えている。そういう時代の変化もさりげなく取り入れて、中年を迎えたかつての若者たちの青春放課後である。
過去未来と行動が広がるにつれて、時間移動に伴うセットや衣装替えも忙しく、それが笑いを増幅する。学生劇団から出発した劇団員は今も続けている俳優・スタッフもいて、その学生部活のノリが内容ともマッチして、東京の演劇シーンでは出会えない独特の面白さだ。
補助席もいっぱい出た本多劇場超満員。CONGLATULATION!
Nf3Nf6
パラドックス定数
シアター風姿花伝(東京都)
2018/08/23 (木) ~ 2018/08/26 (日)公演終了
満足度★★★★
チェスを素材にした舞台と言うと、数年前のミュージカル「チェス」が浮かぶ。この「nf3n f 6」も舞台には対峙する男の間にチェス盤が置かれただけで、周囲の壁は黒板、というセットだから、ゲームの話かと言うと、チェスは物語の入口でゲームは行われない。
第二次大戦のベルリン陥落寸前のトイツ捕虜収容所。登場人物はドイツ軍将校と、連合国側に協力したユダヤ人、という二人の暗号製作の数学者。となれば、この劇団に慣れた観客は「ついにネタが尽きて、ドイツまで来たか」と思うだろう。しかし、ドラマのクライマックスは勝負物定番の「チェックメイト!」「参りました」ではない。
ドラマは普遍的な絶対真理とされている「数学」と、「暗号」という世俗の問題解決の技術との間で設定されている。今までは、普遍的な倫理と、それによって行動を規制されている人間との葛藤を、その倫理規範(政治的にも)が危機に瀕しているカタストロフを背景にドラマとして成功(まぁ全部とは言えないが)してきたこの作者だが、今回は、いささか勝手が違った。
今までの満州の化学兵器事件、帝銀事件、三億円事件などはどれも日本人の物語だし、史実も「秘史」を含め大方は背景が明らかになっている。しかし、この舞台背景は、もちろんドイツでは明らかになっているだろうが、日本人にはわかりにくい。連合国とドイツの暗号合戦が熾烈なものであったことはすでに何度も映画にもなっている位だが、観客には、この舞台では設定されている時間と、その時の社会的背景を的確に類推する材料がない。密室の外で進行する事件のがよく見えないと、どうしてもドラマは抽象的な、人間の行動規範として不動の「真理」が果たす役割、と言うところへ行ってしまい、それはそれでつまらなくはないが、その問いの答えは人間の永遠の謎としか解決できない堂々巡り。行き止まりのドラマになってしまう。
この手の話なら、日本国内にも素材はいくらでもあるだろう。うっかり使うとネットが面倒、と自己規制するのこそ、もっとも困った事態である。そういうことがあれば敢然と戦ってこそ、こういう仕事をする者の名誉だと、この作者も作品の中で言ったことがあるだろう。この作者、ちょっと素材を甘く見ているところもあって、素材の選び方が書きやすさに流れているような気もする。
俳優は出ずっぱりでご苦労さんだが、いますこし台詞の習練が欲しい。それにいくらなんでも照明(ことに下からの補助光)暗すぎないか。1時間50分。
スマートコミュニティアンドメンタルヘルスケア
ホエイ
こまばアゴラ劇場(東京都)
2018/08/18 (土) ~ 2018/08/27 (月)公演終了
小人数の複式学級の中学校の7人の学生といかにも今はいそうな女教師による風刺ファンタジー。体制順応と、訳なくネットの炎上を怖がり、どこかで新興宗教的な権威を求め、そこにすがる昨今の風潮を痛烈にからかっている。いじめ役の女教師が堂々と極左と極右を共有していたり、いつもは善玉役が多い朝日新聞が、悪役だったり、時代を反映しているな、と思うところはあるが、やはり、義務教育の中学生が学校を舞台に出てくれば、世間への忖度はせざるを得ない。そこから話が甘くなったのがオリザ流の限界だろう。
92分。
しあわせの雨傘
株式会社NLT
博品館劇場(東京都)
2018/08/22 (水) ~ 2018/08/26 (日)公演終了
満足度★★★★
フランスのブールヴァール劇である。このジャンルの芝居は昔からよく紹介されてきて、文学座もよくやっていたからNLTのお家芸である。ほかにも、エコーとか薔薇座とか。しかし、こういう芝居が「新劇系」で上演されてきたのは、ある意味では不幸だったのではないか。リアリズムを基調とする新劇より、見世物芝居を基調とする興業がなじんだのではないだろうか。噂でしか知らない昔の浅草六区調。見たことのあるもので言えば、東宝喜劇とか。エノケン・ロッパに越路吹雪という顔合わせだ。
「しあわせの雨傘」は軸の三人は、テレビで顔の知れた役者。どうやら、地方巡演を売ることを目的に座組みがされたようで、それはそれでいいのだが、地方の演劇鑑賞会にこの舞台を海外名作芝居として売ってしまうのは見当違いで、見せられる方も不幸だと思う。演出の鵜山仁は旨い演出家だが、まとめ易さに流れて新劇ベースだ。しかし、もともと、この芝居は現代風俗を取り入れているものの、風俗以上に出ているところもない。これを労使対立の階級ドラマ、と解釈したり、女性自立のドラマとしようとすると苦しいだけの笑劇だ。
夫婦それぞれに浮気がばれていくところなど、解りきっているところを舞台の弾み、タイミング、役者のキャラクター(柄)で笑わせていくところが、役者と演出の腕だろう。二幕・電話がかかってくるところ等、まったくどうでもいいところだが、タイミングの芝居が面白ければ、もっとどっと沸くところだ。新劇が嫌う「臭く」やってこそ楽しめる芝居なのだ。そういうことに慣れていないテレビ出の俳優がそろって、鵜山演出、と言うところが、折角、博品館と言うこういう芝居をやるにはうってつけの小屋で、なんと、夜は一回だけ(幸いその回は入っていたが)しかできない結果になったと思う。
演舞場や明治座だけでなく、こういう小芝居を小洒落れた小劇場で見るのは楽しいし、役者もこういう芝居ができるようにならないと一人前とは言えないだろう。今回は、少し厳しく言えば、周囲を忖度して、妥協の産物になっているのが残念だった。
八月納涼歌舞伎
松竹
歌舞伎座(東京都)
2018/08/09 (木) ~ 2018/08/27 (月)公演終了
満足度★★★★
第三部 盟三五大切 八月の納涼歌舞伎は、かつては野田がやり、宮藤が参加したように現代劇と伝統演劇をつなぐ良い試みをやってきて、しかも料金低廉と言う事でずいぶん若い世代を歌舞伎座に馴染ませた。老舗松竹アっパレである。しかし、今年はお疲れ。いつものような意欲的、世間評判の演目はないが、一部ニ部は若者向きの花形にわかりやすい演目を並べて、大入りの盛況だ。そこで三部も、と欲張らないところが老舗のおおらかさで、ここは南北の通し狂言。そこそこの人気演目ではあるがそう始終はやらない。久しぶりの歌舞伎座。中身は戦後になって復活した世話物(郡司正勝補綴)で、新劇もたまにはやる武士残酷物語の殺人劇(数十年前になるが青年座が西田でやったのは成功した)に、いい女の芸者小万が絡む。コクーンでもやったから現代向けではあって、今回のようにコクーンにおなじみの役者が多いと、なんだかコクーン歌舞伎みたいだなぁ、と言う印象である。しかし、役者たちは今回はコクーン風を抑えて、懸命に大歌舞伎風に演じる。七之助、幸四郎(まだ染五郎と言いそうになるが)、獅童、中車、猿之助、と言うあたりがりが立派に歌舞伎座の大舞台が務まっていて、世代交代の時期を感じる。人気もある彼らが、客にこびた芝居をしていないのが爽やか、狂言上いかにも歌舞伎らしい古風な場面もあるがそこを脇役たちがこれまたうまく務めていて、なかなかの歌舞伎芝居である。しかしいまの客にとってはこの話は難しい。お家の忠義はいまの内閣もやっているじゃないか、と言うかもしれないが、三五朗の忠義と森友の忠義とは、やはり違うし、百両の裏金の受け渡しも政党交付金の不正とはわけが違う。うまく重ね合わせられない。そうすると、南北の裏返し、裏返しの忠臣蔵も四谷怪談も安心して楽しめない。エエッツ、そうだったの!が多すぎるのである。だが、こういうチョット馴染みの薄い演目を一つ納涼芝居に加えて、花形を抜け出そうとする俳優たちが取り組むのは大賛成である。だが。。。。
だが、一部二部にくらべれば客はかなり薄い。しかし、桟敷を見れば、昔懐かしい芝居好きが世代を引き継いで母娘で来ているのが解る。若者も少なくない。そう言う風景も楽しい夏芝居である。松竹頑張れ。
メタルマクベス disc1
TBS/ヴィレッヂ/劇団☆新感線
IHIステージアラウンド東京(東京都)
2018/07/23 (月) ~ 2018/08/31 (金)公演終了
満足度★★★★
休憩20分を挟んで4時間。次から次へと目先はどんどん変わる。こういう仕掛けを前提とした劇場は演目にも工夫がいると痛感した。
前年上演の時代劇と違って、マクベスは活劇ではなくて人間ドラマである。王冠簒奪の話ではあるが、人間のドラマが多彩に描かれているからこその名作である。その素材を、ラウンド劇場で、ミュージカルで上演する。客席千を越える大劇場では、どうしても実尺の俳優と観客の距離は遠くなる。人間で足りないところ(両端)は映像で補うから映像の比重は高くなる。昔々の連鎖劇は、映像も昔々のレベルで舞台とつながりやすかったが、今の観客になじみのある映像はCGを駆使して何でもできる。メタルマクベスは、2200年代と、1980年代、それにマクベスの物語の時代と、三つの時代を往復するが、未来も過去の映像も、それなりの金をかけて作られていて、劇場機能の回転する客席も全く抵抗がない。しかしよく出来ていればいるほど、舞台の実尺のマクベスとの間には距離ができる。これはヘビメタのミュージカルにしたくらいでは埋まらない。かつての新感線公演で旨く行ったのは劇場が狭かったからで、俳優と観客が直接あいまみえたからだろう
マクベスは橋本さとし、夫人は濱田めぐみ、客演者に加え新感線出身者とキャストも工夫されているが、ここでやる芝居の新らしさがない。二幕の終盤で、マクベスと夫人が、人間には箱があって、箱以上のものを望むと破滅する、自分たちはそうだったのか、と嘆くくだりがヘンに実感を伴う。演出者にはわかっているのかもしれない。
いのうえひでのりはよく勉強もし、ときに大胆、ときに慎重、という用意のいい演出家だから、この劇場を新しい舞台表現の場として何かまだ見たことのない「演劇」も作れる可能性がある。今回は一つの試みとして、今後に大いに期待したい。
現に、こういうイベント型と言うか、観客参加型、とでもいうべき公演は増えている。演劇のサーカス化と批判もあるがそれぞれに面白いものが出来れば観客は満足するのである。 しかし、機能頼りと言うのは難しい。超一等地にありながら、結局、演歌歌手の歌芝居が定番になってしまったかつてのコマ劇場の壮図の末路もちらつく。もっともこっちは劇場の場所も辺鄙だし、作りもあっさりしているが。
辺鄙と言えば、この劇場は、すぐ前にある魚市場が開いていない現在、周囲に何もない野原の一軒家で、東京のレールとしては馬鹿高いゆりかもめしか便利な交通機関がない。少し歩けば銀座まで行けるバスがあるが、夜になると本数も少なく、やむなく15分は歩いて有楽町線の地下鉄まで行かねば帰れない。熱帯夜はこたえる。利益は出ないかもしれないが、開く前と、幕間には盛大にケイタリングカーでも出したらどうだろう。現状は劇場にあるまじき惨状で、とても商業劇場とは思えない。
九月、東京の路上で
燐光群
ザ・スズナリ(東京都)
2018/07/21 (土) ~ 2018/08/05 (日)公演終了
満足度★★★★
百年近い昔の9月に日本を襲った関東大震災の時の恥ずべき事件の本質は今の日本にも残っている、それを踏み越えろ!と言う啓蒙劇である。告発の内容は、人種差別とメディアの無責任と無力、それを増幅する大衆の付和雷同性、と言ったところがテーマになっている。天災がしきりに起きる昨今、社会的な環境もあって(たとえば原子力発電)このテーマは広く関心を呼ぶところだろう。最近、こういう問題劇を直接法で告発する劇が多くなった坂手洋二の燐光群。この劇団も長い歴史を持つようになって、なじみの俳優陣には年齢を感じさせる人も多い。反面、劇構成は手慣れたものになっていて、主な事件としてリポート形式で描かれる関東大震災の推移とその間に起きる朝鮮人虐殺事件は構成も巧みで迫力もある。社会劇も、いまは民芸や東芸のような古い劇団に加え、チョコレートケーキやトラッシュマスターズのような若い劇団もしきりに挑戦するが、これだけ直説法でしかも劇場の温度を高められる作家・劇団は少ない。
しかし、劇場を出て、観客たちに、この芝居が示唆するような行動を起こさせるだけに力があるか、というと疑問である。かつての事件は今や誰もが「指弾されるべき事件」として首肯するだろうし、それが潜在している現在を撃つならば、なにやら暢気なNPO法人などが現在の打ち手として登場するよりも、リベラル議員と極右自衛官の対立くだりを、もっと人間的に細やかに描くべきだったのではないだろうか。
現代社会が、20世紀時代のモラルでは整理出来なくなっているのは、もうほとんどの人間は心得ている。そういう観客の不安の琴線に深く触れていかないと、単に古いモラルでの安全な告発を言って見ただけに終わってしまう。それでは困る、ということで、新しい視角のある作品を提供してきた燐光群ではないか。今回は虐殺事件を表面に出し過ぎたのと、朝鮮人差別に象徴される人種・身分差別とヘイトスピーチを重ねて(私はここが違和感があった)二兎を追って、詰めを欠いたと思う。
長く社会劇に取り組んできた坂手洋二なら、何か演劇で今世紀の新しいモラルを発見してくれるかもしれないという望みを持っているのである。他劇団に書いたブレスレスなどは成功した例だと思うし、屋根裏も面白かった。声高なのは以外にこの作家には似合わないのかもしれないと思ったりする。
BOAT
東京芸術劇場/マームとジプシー
東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)
2018/07/16 (月) ~ 2018/07/26 (木)公演終了
満足度★★
炎暑の夏では時期も悪かった。劇場へたどり着くのがやっとで、ホッとするまもなくデストピアのはなしだから点数も辛くなる。
舞台にずらりと舟が並ぶ島の街に、海から、空から、見えない危機が迫ってくる。なんだかイキウメみたいだなと思っていると、その町の住民の反応は師匠・野田の赤鬼みたいで、古風な煙突掃除とか灯台守の登場人物の街は、カタストロフになる。イキウメや赤鬼と違ってこちらは大災害の全貌を見せてしまうのだから、話を納得させるためにナレーション風のモノローグや、大きな白のボード(スクリーン)を使うが、その大小が違うものだから、俳優はその操作に右往左往、演技のリアリティを見せるつもりはないことは解っていても、味気無さに気が滅入る。少々今風の音楽を聞かされたり、大舞台に空飛ぶボートを見せられたくらいでは芝居は終わらない。映画のエンドロールみたいな幕切れは全く意図不明。
やはり、脚本自体の安易さに問題があると言わざるを得ない。少し、ファンタジーを甘く見ているのではないか。またそこに安易なテーマを持ち込んではいないか。この作・演出は東京芸術劇場がバックアップしている次代を担う演劇人と言う高い評価で、今回はプレイハウスが開いたが、舞台も埋まらなければ、客席も埋まらない。約半分強。贔屓の引き倒しにならなければいいが。
「天守物語」〜夜叉ケ池編2018〜
椿組
花園神社(東京都)
2018/07/11 (水) ~ 2018/07/22 (日)公演終了
満足度★★★★
恒例の夏芝居。炎暑の今年は一段と厳しい興業だが、若い時はそれがかえって嬉しかったりするものだ。外波山は随分頑張ってこの興業を定着させてきた。芝居の中身も、大胆な新進の演劇人への目配りもあり、今年はなんだろうかと、観客も期待してきた。その今年は泉鏡花。天守物語・夜叉が池篇と言うタイトルで、脚本が高取。鏡花の二大名作を寺山修司でつなぐという発想を篠井英介演出でやる。出演はこの公演にはよく付き合う松本紀保。まとまりそうで難しい座組みで、結局はどこも中途半端で半分ほどで飽きてくる。松本紀保だけはさすが高麗屋というところだが、それでまとめきれるという感じでもない。鏡花の世界そのものが少し時代からずれてきて寓話性が通じなくなってきているのかもしれない。そうなると、こういう季節ものの興業には難しいのではないか、と言う感じだ。