ツマガリク〜ン
小松台東
三鷹市芸術文化センター 星のホール(東京都)
2019/11/28 (木) ~ 2019/12/08 (日)公演終了
満足度★★★★
小松台東(松本哲也)の舞台には独特の生活感があって、うまいのに気取っていない。青年団系のようだが、この系列にある嫌味がない。「さなぎの部屋」の急場を救った男気(内実は知らないが、投げ出して当然なのに)も見上げたものだ。
それは多くの作品が、東京の演劇になじみの薄い故郷の宮崎方言を使っているからかもしれない。いずれにせよ、よくまとまった劇世界を作り出していて、旧新劇団から注文が多いのもうなずける。次は青年座の予告が出ている。
今回は客演もあるが自前の劇団で、お仲間内でのびのびと自身20歳代に経験したという宮崎の電材会社の一日が描かれる。登場人物十名をそれぞれの役割でキャラ付けしてあって、その中で、起きる小さな事件が織り出されていく。拾ってきた猫の失踪で気もそぞろ、つい会社をさぼって探しに行く気の弱い新人社員、彼が伝票通しを忘れたために生じた得意先からのクレーム対応に忙しい管理職立ち、将来に不安を持ちながらこの会社を離れられない中堅の社員は明日子供の運動会を控えている。社員の中には職場不倫もある。
中小企業によくある一日がこの宮崎の小さな電材会社のバックヤードで、そつなく展開する。話は収まるべきところに収まって二時間五分、よくできていると言えばできているのだが、いつまでもこれでは仕方がない。
物語を語る力も人物造形も及第点ではあるのだから、平面的な風俗からではなく、ともに生きる人間として共感が持てるような人間たちの相克を舞台で見せてほしい。年齢、キャリアから勝負の時が来ている。まず、素材。次には人間のドラマを絞って深く。並べて引いてみて面白がることに憂き身をやつしてすでに多くの青年団系が破綻している。
最後の伝令 菊谷栄物語
劇団扉座
紀伊國屋ホール(東京都)
2019/11/27 (水) ~ 2019/12/01 (日)公演終了
満足度★★★★
久しぶりの扉座である。
確か早稲田の学生劇団からスタートしていると記憶しているが、65回公演と打っているから30年は続いているわけだ。作者はほぼ、主宰の横内謙介一人で、この作者は劇団だけでなく、商業演劇も、歌舞伎も書く。この人の多才と劇団活動への熱心さに支えられてきた劇団で、演目も活動範囲も、小劇場としては珍しいタイプである。今回の「最後の伝令」は昭和前期の浅草軽演劇で榎本健一を支えた作者・振付家・菊谷栄を主人公にしている(有馬自由)。
昭和6年に菊谷栄がたまたま出会ったエノケンの作者になってから、徴兵されて12年に北支で戦死するまで。バックステージもので、舞台に乗るのは、菊谷に徴兵令状が来て、故郷の青森に帰った数日間が素材である。
タイトルにもなっている「最後の伝令」は昭和6年のエノケン浅草売り出しのころのヒット作と伝えられるが、それを再現したわけではない。サブタイトルには「菊谷栄物語」と振っているが、その生涯の伝記を目指してもいない。芝居の後半は、小劇場としてはずいぶん張り切って当時の浅草の軽演劇レビューの雰囲気を出そうとレビューのシーンが続く。サブタイトルにさらにサブタイトルがついて「1937津軽~浅草」となっている。
最初に「最後の伝令」の稽古らしきシーンもあるが、前半のドラマは劇団員が出征する菊谷に託した手紙を青森出身の劇団員(客演のAKB横山由依)が持参して届けると言う物語。後半は出征する菊谷が品川を通過するというので新宿第一劇場に出ていたエノケン一座が舞台を中断して品川まで見送りに行くという話で、そこに舞台の表裏をちりばめて一種のバラエティのような構成である。前半の物語には、浅草軽演劇の紹介だけでなく、本籍地入隊の徴兵制度、内務班の組織、当時の東北農民の貧困、人身売買、その救済策としての満州進出など、当時の社会的背景も織り込まれているし、後半のレビューシーンにはエノケン(犬飼淳治)が歌うシーンや、ダンサーが躍るシーンや、カンカン(これは戦後になっての輸入と思うが)まであって、見ている分にはテンポもよく歌に踊りに、笑いと涙と、かつての大衆演劇を見ているように飽きないが、さて、この芝居の軸は何なのだろうかと考えると、はぐらかされたような感じもする。
案外この時代のバックステージは本格的に芝居になっていないし、この時代をナマで知っている人はほとんど亡くなってしまったのだから、もっと大胆にドラマ化してもいいと思うし、逆に、徹底的にリアリズムで絞り込んでも、面白かったのではないかとも思う。(例を挙げれば、「天井桟敷の人々」この映画のおかげで、フランスのブールヴァール劇がどんなものであったか、リアルにわかる)この素材も商業演劇でメインの俳優をスター配役して、レビューもプロの人たちでやっても、(興行元が慣れていれば)もっと大きな劇場でもできるだろう。エノケン伝など面白くできそうである。
今回は、軸になる俳優の実年齢が作中人物の設定年齢より高くなってしまったのも、意外に気になるところだった。
KUNIO15「グリークス」
KUNIO
KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)
2019/11/21 (木) ~ 2019/11/30 (土)公演終了
満足度★★★★
一日中芝居を見ていれば、どこかで躓くものだが、さらさらと見られる。場面場面がいろいろ趣向を凝らして面白くできていて楽しめるのだ。若く、馬力のある杉原邦生の「グリークス」である。
昔、コクーンで蜷川演出を一日かけてみた記憶があるが、それに比べるとずいぶん砕けた印象である。あれは90年、もう三十年も前のことだから、記憶も薄れている。ギリシャ悲劇の超人型造形が強い舞台で配役もまた、それに倣っていた。今回は翻訳も小沢英実による新訳でずいぶん下世話になった。テキスト論は本一冊やっても尽きないであろうから、とっつきやすいギリシャ劇だったというのにとどめて、観客の感想を。
まず、百五十の観客席なのに、大劇場の空気があり、しかもやたらに細かい。ここが世界古典のギリシャ劇にふさわしい。どこを見ていても楽しめる。どうしてもやってみたかったという演出家・杉原邦生の気迫が空転していない。幕開きから、林檎におさまるまで、一気呵成の出来である。今まで、音楽やダンスの挟み方で、疑問があるところがあったが、今回はうまくおさまっている。たとえば、トロイ戦争の始末を一曲にしてしまったあたり見事である。
主要な俳優たちが大健闘である。アガムメノンの天宮良、クリュタイムネストラの安藤玉惠、へカベの松永玲子、アンドロマケの石村みか、脇になるが、武田暁、小田豊、森田真和、普段もさまざまな劇場で舞台をしっかり固める俳優たちが実力を発揮している。気持ちがいい。松永玲子はやりすぎかとも思うが、ちゃんと舞台を締めていて、観客は大いに楽しめるのだ。その点、コロスの若い俳優との落差も目立った。若い俳優にとっても生涯一度の経験であろうが、まずは、セリフを割れないように言う、ということを訓練してほしい。それほど大きくない劇場なのだから、ここで声が割れるようでは、実は俳優として通用していないのである。
美術と衣装がいい。幕開き、松羽目が舞台いっぱいに立ち上がってくるだけで、芝居好きは捕まってしまう。あまりうまく使っているとも言えないが能舞台の躙り口など、小憎い。そこに国籍不明の衣装がまたよく合うのである。西洋甲冑から日本の神社の巫女まで、多彩な色とファッションで舞台を彩っている。
異論を言えば、第一部はトロイ戦争、と第二部は肉親間の殺人と、中心のテーマがはっきりしているのに比べて、第三部のエジプトの親子再会は、演出の調子も変わり絞りが甘かったように感じた。
しかし、これは、やはり今年、屈指の舞台といっていいだろう、。朝の11時半から夜の9時半まで、飽きずに楽しんだのだから。
8人の女たち
T-PROJECT
あうるすぽっと(東京都)
2019/11/13 (水) ~ 2019/11/17 (日)公演終了
満足度★★★★
フーダニットというジャンルは日本では定着しなかったが、時には井上ひさしや、三谷幸喜のように、このスタイルをさりげなく使った舞台が現れる。
フランスでは、この作者トマの「罠」が知られていて、今でも、日本ではしばしば上演されるが、「八人の女たち」は、それほどでもない。この作品が書かれた時代(61年)にはフランスでも、大衆演劇と、演劇とははっきり作者も劇場も分かれていたそうで、そこはわが国も同じようなものだ。03年にこの原作を映画化したとき、監督のオゾンは、そんな古めかしいのイヤ、と言う主演のカトリーヌ・ドヌーブを説得するのに苦労したと、映画の特典映像で語っている。結局、オゾンの映画は有名女優8人を並べて、フランスの歌謡曲を全員に一曲づつ歌わせる音楽劇という趣向を入れた、言わば「お盆映画」になった。
殺人事件をめぐる謎解きはフーダニットの形式としてよく考えられているし、そこにいかにものフランス女の世態も組み込まれていて面白がってみていればいいのだが、物語のリアリティは全くない。クリスティの芝居よろしく、一夜、雪に閉じ込められた豪邸で、大金持ちの屋敷の主人が、殺される。屋敷の中には主人にさまざまに因縁ある八人の女がいて、さて、誰が犯人か。フーダニット? 典型的な犯人捜しのお遊び劇で、趣向があって初めて興行として成立する戯曲だから、今回のようにストレートに舞台に乗せると苦しい。プラスワン、いや今ならプラス5くらいは要る。
主に声優の俳優を集めた舞台で、セリフがよく通って聞きやすいのはいいのだが、そういう役者を舞台に上げるのは、本人にとってもフラストレーションになるのではないかと思った。セリフを言っている人以外はほとんど棒立ちだ。この欄にも、あっさりしている、という「みてきた」があるが、それはないものねだりの無理な注文なのだ。
かつては、フランスの大衆劇場で客の入りが悪くなると、女優を集めて再演した当たり狂言だったというが、今見ると、フーダニットというジャンルが劇場から消えていったのも解る気がする。翻って、今しきりに上演している漫画などを原作にした2、5ディメンション。こちらも大丈夫かなぁ。
ビッグ・フィッシュ
東宝
シアタークリエ(東京都)
2019/11/01 (金) ~ 2019/11/28 (木)公演終了
満足度★★★★
こじんまりとまとまったいかにもクリエ向きのミュージカルだ。
二年前の初演を、登場人物を減らし小屋も日生からクリエに移った小ぶりの再演だが、それが功を奏した。話自体が、父(川平慈英)と男の子(浦井健治)の葛藤のホームドラマだ。あまり、女優陣の活躍の場がないのもかえって新鮮ということもあるかもしれない。
トウエィンからスティーブン・キングまで、アメリカの映画、小説の独壇場といってもいいヌケヌケした少年物でもある。川平、浦井の親子が好演、ミュージカルにつきものの型通りの三枚目のシーンなどを抑えた白井演出も、この数年飛躍的に使えるようになったマッピングの映像も効果を上げている。
まさに世界の終わり
ハチス企画
アトリエ春風舎(東京都)
2019/11/08 (金) ~ 2019/11/24 (日)公演終了
満足度★★★★
一見すれば、よくできた家族はぐれ者の帰郷もの、だ。
長く生まれた家と家族を顧みなかった34歳の兄が突然帰郷してくる。その兄になじめなかった弟とその妻、出郷した兄へあこがれを持っている妹は成人期だ。そして母。
兄が帰郷したわけは冒頭で明かされているが、余命は一年ほどと(明確に言われていないがエイズである)宣告されていて、それを家族に告げようと田舎に帰ってきたのだ。しかし、田舎住まいの家族とは全く異質の都会的な仕事に就いた兄への接しかたに戸惑う家族に、それを言い出せない。
この戯曲が20世紀最後の名作といわれているのは、世紀末のエイズで夭折した作者の生命に対する渇仰と、家族の心情との落差の間で生きる絶望が見事に描かれているからだろう。背景には、突然エイズという病に侵された世紀末時代が浮き彫りされている。そこに生きる絶望も痛いように伝わってくる。
口当たりのよさそうな時代性のある家庭劇が上演されなかったのは、原戯曲のスタイルによる。各登場人物のモノローグが長く、主人公の心情も千々に乱れて揺れる。映画はそこをうまく映像で掬いとっているが、舞台で上演すると、そこがネックになる。昨年の公演も、この公演も、やむなくわかりやすく、とか、演出しやすいように、とかテキストレジする。今回の上演はそのモノローグをほとんど芝居に組み込めるだけにとどめていて、上演時間も90分と短い。「青年団」や「地点」の影響の濃いカンパニーで、そういえば、この劇場で初期の「地点」を見たなぁと懐かしくなる。
主な感想を三つ。
原戯曲の、死を宣告されているという設定がほとんど生きていない。同時に主人公の病が「性」の病からくることも。作家が直面するのは現実的にはエイズで、戯曲ではそれと明示していないが、そのリアリティが現代の不安定な世界を生きる我々にも強く訴えるこの作品の肝だろう。テキストレジが、演出しやすいようにと世話物に寄せすぎている。
主人公の不在。劇場パンフによると演出者も意識しているようだが、それぞれのシーンが主人公とどのように交差するか、が的確に表現されていない。わからないままに、地点風の動きで演技されると形だけで終わってしまう。時には説明的になって(例えば後半の主人公に袋をかぶせるくだり)観客はしらける。また主人公の俳優(梅津忠)は、柄はいいのだが、セリフの母音の発音が弱いので、言葉がよく通らない。
俳優も演出も小劇場慣れしすぎている。脇役の弟(串尾一輝)や妹(西風生子)はよく工夫していて、リアルでうまい。母(根本江理)も柄にあっている。演出は形で見せてしまおうとするあたりが嫌味に見えるが、これはこれでできている。美術はこのスペースでは飾りすぎだと思う。音楽の選曲はさすが、音には厳しい若者劇団という感じだ。だが、観客席三十、ではほとんど身内公演だろう。舞台に飾った猫じゃらしを売るなどというくだらないことを考える前に、広い観客と立ち向かうことに挑んでほしい。せめて、スズナリ、か、トラムで。せっかくの技量である。自己満足では仕方がない。
『Q:A Night At The Kabuki』inspired by A Night At The Opera
NODA・MAP
東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)
2019/11/09 (土) ~ 2019/12/11 (水)公演終了
満足度★★★★
日本の新劇創作劇の大劇場初演で三か月の公演を組むのは、戦後初めてのことではないだろうか? 確か、昭和二十年代に民藝の「炎の人」が新橋演舞場を中心に2か月を超えたと記憶している。それ以来ほぼ70年ぶりの期待の野田秀樹、秋から冬へ、三年ぶりの新作公演は、チケットも発売同時に前売り分は完売という盛況である。
一代記が映画になってヒットしているアメリカのバンド、クイーンが、楽曲の全面使用を許可したという話題もあって、タイトルは「Q」。キャストもおなじみの松たか子を軸にテレビ人気の広瀬すず、ベテランの竹中直人、上川隆也。橋本さとし、注目上がり目の新人で伊勢佳世、新人の志尊淳、もちろん野田秀樹も加わって、絶頂期だなぁ、と思わせる大興業である。チケットなかなか手にはいらず、台風で飛んだ穴埋め公演をようやく手に入れた。行ってみれば、当然ながら満席である。休憩15分でほぼ3時間。、
中身は、クイーンが喧伝されているが、長く使っているのは、前半、後半、それぞれ一か所で、あとは劇伴風に抑えている。サブタイトルにA Night at the Kabukiと打っていて、それはクイーンの意欲的なアルバム・A night of the opera の形式・つまり収録曲をアルバムとして構成することからインスパイアされたという。つまり歌舞伎座で歌舞伎にインスパイアされて歌舞伎風にまとめたということらしい。大筋は、シェイクスピアのロミオとジュリエットと、その対立を源平に移した並行的な物語を親子二代の世代で語り、入り口と最後に「俊寛」が使ってあり、ラストは俊寛を現代に並行させた満州の引揚者の帰国譚である。
野田作品の例にもれず、ストーリー展開は天衣無縫。東西、世代の行きつ戻りつもにぎやかで、ギャグにつられて笑っていると置いて行かれそうになる。しかし、全編3時間の中で、さすが!!と感じさせたのは最後の20分。そこへ行くまでは、趣向の行方がつかめず、いつもより端折り方もくどい感じで、周囲の中年の観客は舟をこぐ人も少なくなかった。ところが、幕切れがうまい野田秀樹。最後に大技を持ってきた。
幕切れに長いセリフがあって、そこで観客が納得してしまうのはいつもの野田節なのだが、今回は異郷からの手紙。この手紙が30年前に書かれていて、その伝達を伝達者が遊び惚けて忘れていた、というのが絶妙である。大方の見物も目を覚まし、今度は、なんだかよくわからないけど涙、涙になって、立ち上がり拍手してしまう。
この手紙の内容がいい。予想できない内容なのだが、ここで初めて、前半のロミオや源平の人間の争いが、歴史的にも、地域的にも普遍的な現代的なテーマに、爆発的に広がっていく。人間の中に埋め込まれた争いのDNAが呼び覚まされ、個人の生死も、社会の栄衰も、今を生きざるを得ない人間の哀歓としてほとばしり出る。遊眠社以来の野田マジックだ。
昨晩はケラ、今日は野田と、連続して時代を代表するいい舞台を見た。芝居好きとしては至福の二日間だった。井上、蜷川の時代は去り、今はこの二人だろう。さてそのあとは、誰だろう。そこを同時代としては見ることはできないだろうけど、それが芝居というものの運命だ、と野田に倣って呟いてみる。
ドクター・ホフマンのサナトリウム 〜カフカ第4の長編〜
KAAT神奈川芸術劇場
KAAT神奈川芸術劇場・ホール(神奈川県)
2019/11/07 (木) ~ 2019/11/24 (日)公演終了
満足度★★★★
好きが嵩じてここまでやってくれれば、見物は恐れ入って拝見するしかない。
不条理劇大好きのケラが、散文不条理の本山カフカを素材にした集大成版。3時間35分の大作である。大劇場で、ナイロン以外のスター俳優も多く配した公演だ。
現代、カフカの第四の長編原稿が発見された、という発想だけで面白そうだと気をひかれるが、その原稿の行方をめぐる現代の追跡劇、書かれた時のカフカの周辺とその最後,さらに書かれた作品の中身と、およそ三つの物語が錯綜する。舞台では、五人編成のバンドが様々な形で現れ演奏し、ケラの舞台としては珍しい20人の出演者が、小野寺修二の振り付けでモブシーンを展開する。幕開きのシーンなど手が込んでいるが一糸乱れなく息をのむ美しさだ。マッピングを多用した舞台美術もいいセンスだ。
カフカというと、抽象性に頼って、簡素な取り組みでも舞台にしてきたが、これは官能性にあふれたケラならではのカフカである。
ケラとしては、あまり慣れていない大劇場の広さを意識した振り付けやマッピングのスタッフの起用が成功して、ナイロンとは一味違う舞台になった。
異論を上げれば、やはり、カフカの世界に若い女性の主人公というのはなじみにくい。
多部未華子は熱演だが、カフカの人物としては、いい悪いは別として浮いてしまう。相手役の瀬戸康史も同じような感じだ。そこへ行くと大倉孝二と渡辺いっけいはうまいものだ。ここでずいぶん全体が見やすくなった。麻美れいの贅沢な使い方。本人は役不足と思ったかもしれないが、ちゃんと締めの役を果たしている。ナイロン公演でもまた別の味のある面白い芝居になったであろうが(ほとんどすべての役でナイロンの配役が浮かぶ)、ここは観客お得の料金で横浜の大劇場の一夜を楽しませてもらった。だが、東京の客はつらいよ。これなら夜は6時開演でもいいのじゃないか。
いつも、パンフレットに凝るケラだが、今回は普通のブック・スタイル。おやと思って思わず買ってしまったが、これが日本の出版界では珍しいアンカット装本。紙にも活字にも例の通り凝りまくっている。読みでも十分。
ドイツの犬
演劇企画体ツツガムシ
シアター風姿花伝(東京都)
2019/10/31 (木) ~ 2019/11/11 (月)公演終了
満足度★★★★
ナチスドイツ占領下のフランスを舞台にしたナチ進駐軍とレジスタンスのドラマである。
この時期の素材は事実にもとずいた記録も、映画も、娯楽作品もシリアスなものも、かなり大量に輸入されていて、なじみがある。「ドイツの犬」というタイトルだけで内容は推し量れる。舞台は、観客にわかりやすい対立項の上にほぼ三年間のロマンを組み立てていて、脚本も演技者も演出も破綻はない。だが、同時に新しい発見はなにもない。
7回目の公演を迎えたばかりの(といっても主催者たちは十分中年だが)劇団が十一年かけて三部作まで作るには何か深い独自の動機があったのだと思う。そこが見えてこない。
論評はほとんどその一点に尽きる。
最近、ナチ占領下の素材は、翻訳では加藤健一事務所でも、民芸でも取り上げられたし、日本でも三谷幸喜から、次の世代の古川健や野木萌葱も書いている。チラシによると、現在の政権下でこそ上演したいということだが、そのような現政権への批判の政治劇として受け取るには、先に挙げた作品が、それぞれ焦点を絞って素材に取り組んでいるのに比べても、ポイントがあいまいになっている.
時代設定を明らかにする素材なら、70年も時間がたてば、立派な時代劇だ。時代劇ロマンなら、日本製西洋ロマンとして見ればいいのだが、アピール劇とするならば、もっと身近なところに素材を求めるべきだろう。日本の新劇にはそういう伝統はある。「占領トレジスタンス」で言えば、近い例では「上海バンスキング」。日本の植民地の実相をしがない流れ者のバンドマンの目で、鋭く告発していて、その批判は戦後日本にも中共軍にもおよんでいる。秋元松代の「村岡伊平次伝」。弾の打ち方も学ぶところは多い。あげていけばいくらでも先例はある。書かれていない素材となれば、それこそゴマンとある。何も作るほうも見るほうも勝手のわからぬフランスの話にしなくてもよかろうに、と思う。
それを客に納得させる作る側の動機はせめて、劇場パンフには書いておいてほしかった。現在の政治への危機意識はいいとしても、安易にナチと現代をだぶらせたりすると、かえって敵方の術中にはまることになってしまう。
ノート
ティーファクトリー
吉祥寺シアター(東京都)
2019/10/24 (木) ~ 2019/11/04 (月)公演終了
満足度★★★★
第三エロチカを主催した川村毅の同世代の劇団は少なくなった。劇団活動をやめた方や、他の組織に加わる方、教える側になった方もいるし、亡くなった方もいる。遅れてきた60年代、華やかな80年代を準備した世代。その中で、T.Factoryと改称した川村毅の劇団は一貫してかつての小劇場の空気をまとって、独特のカラーの作品を作り続けてきた。ロビーで還暦記念グッズを売っている。
この世代にとって、オウム真理教事件は、たぶん他の世代よりも切実な同時代感があるのではないだろうか。この舞台は、この事件に関わった死刑囚にその経緯を問いただす、という形式で進む。事件は一応終結しているが、同時代人にとって、自らの内にもある事件の真実を探ろうという意識がこの戯曲を書かせている。裁判記録は詳細なものが公刊されているが、それでも、「ノート」(脚注)をつけたくなる。それがこの舞台だ。
川村の舞台はスタイリシュだ。今回もたぶん川村自身のプランの端正な美術に、照明は原田保、音響は原島正治で、完成度は高い。だが、結局、この事件はなぜここまで行ったのか、多くの市民を巻き込んだのか、その深層が、今までも映画や小説、舞台でも幾度も描かれてきたが、世代の違うものには今なおよく理解できない。
1時間45分。
終わりのない
世田谷パブリックシアター
世田谷パブリックシアター(東京都)
2019/10/29 (火) ~ 2019/11/17 (日)公演終了
満足度★★★★
イキウメの大劇場登場である。昨年の東京芸術劇場では素材は借り物だったが今回は、抽象概念をドラマにしたいかにもイキウメらしい内容だ。これが面白い。
イキウメを見慣れている客は、また、パラレルワールドか、と思うが、今回は大劇場向けに世界も広がって、主人公の「意識」が宇宙を飛ぶファンタジーである。個人に対立するように外に設定されていた異次元の世界は、今回は人間の内面に置かれていて、今までと一味違うドラマが展開する。何よりも新鮮なところがいい。
宇宙遊泳を思わせる宙吊りの冒頭から、水中の溺死の経験と、個人の意識がドラマの軸だと売ってくれてはいるが、中段の量子論から、出口の外にある遊星のシーンになると、論理的にはついていけなくなりそうになる。だが、かつて、野田の芝居が、なんだか解らないけど泣ける、と言われたように、その解りにくいシーンもセリフや衣装につられて見ていれば十分面白い。そしてラストになると、現代の課題に立ち向かう勇気をもらったような気分になる。その証拠に、中年のおばさん(が今一番芝居の見巧者という説もあるが)も多い観客が水を打ったように見入っている。
仲村トオル、村岡希美、それに主演の山田祐貴の客演組がが、イキウメのメンバーの小劇場っぽさを大劇場へと誘導する巧みなキャスティングだ。美術、照明、衣装、効果もいい。堂々とイキウメの世界を押し出して成功している。
野田、ケラ、松尾スズキに次いで、久しぶりに、個性的な創作劇を大劇場で20回を超えて見せられるカンパニーが現れたことを喜びたい。休憩なしの二時間。
コンドーム0.01
serial number(風琴工房改め)
ザ・スズナリ(東京都)
2019/10/25 (金) ~ 2019/10/31 (木)公演終了
満足度★★★
プロジェクト物の新書本を立ち上げたような味気無さが残る舞台だった。
男女の性の営みを、その必然である出産の成否を人工的に塩梅するコンドームから見る、というのは、小道具的には意表を突くスキャンダラスで面白い発想ではあるが、人間のドラマは別のところにあるだろう。
舞台の前半はコンドームについてのインフォメーション、後半はコンドーム制作工場の職員たちの家族問題になるが、それを超薄型のコンドーム開発と重ねるには無理があるし、登場人物も多いので、一つ一つのエピソードが、よくある話で終わってしまう。議論や情感が深まらないのは、ほとんどのシーンが会議室で次々に代わるからでもある。会議ドラマは「12人の怒れる男たち」のように、問題の焦点を絞っていく題材にはいいが、多様な方向に展開するこのような素材には向いていない。焦点の定まらない会議で持たなくなると、あまりうまくない踊りと歌が入るのもどうかと思う。また、この素材を男性の登場人物だけで組んでしまうのも乱暴な(大胆で恐れ入るともいえるが)取り組みだと感じた。
この作者、前回のロシアアヴァンギャルドと同じく、素材で見せようとすると説明が先になって、ドラマの方向を失う。原子力発電を扱った作品のように良いときは、きれいに決まっていい舞台になるのに、どうも企画先行で出来不出来が激しい。それも作者の特徴だし、もともと芝居はテレビや映画に比べると打率は低くても、客は次への期待をする(打率一割五分までは我慢する)。ブレヒトだって駄作はたくさん、山ほどある。これはアンネの対をやってみました、というだけにとどめて次を大いに期待したい。
東京ストーリー
劇団青年座
駅前劇場(東京都)
2019/10/23 (水) ~ 2019/10/29 (火)公演終了
満足度★★★★
松田正隆、ストレートプレイでの復活である。
もう二十年以上昔、「海と日傘」や「夏の砂の上」で芝居好きを静謐な感動に誘って堪能させた劇作家は、ここのところ東京の日常の演劇の表舞台から消えていた。失っていた世界に、また再会して、その長い喪失の時間を知った。この新作は、日常の生活に寄り添って人間の哀歓をドラマにする伝統的な「新劇」現代劇の良さを遺憾なく発揮している。
-ご無沙汰を感じさせない松田節が健在だった!!! まず観客としてはそれが大きな喜びである。
松田正隆はこの二十年の間に、抽象的な演劇作品を試み、大学で教職に就き、学生と触れ合い、イスラエルに留学し、京都から東京に住まいを移し、と個人としては動きの激しい体験をしてきた。その結果の東京の日々を題材にしたのが「東京ストーリー」である。
軸となる人物もそれなりに歳を加えて、50歳台の大学教員の佐和子(津田真澄)と不動産屋に勤める奈々(野々村のん)の職業を持つ独身女性二人をめぐって、コントの舞台を目指す姪たち女学生三人組や仕事場で出会う男性たちとの生活がつづられていく。
一シーズンの春の何気ない日々の重なりの中に、東京に住んでみた作者のこの大都市生活者への実感が込められていて心を動かされる。かつてのようにここでもこの作家は誠実な生活者の目でドラマを見つめている。市井の物語なのに凛とした格調がある。他者の追従を許さない松田の世界なのだ。
松田に新作を書かせた青年座に大きな拍手。俳優では津田真澄。押していく役柄が多い俳優だったが今回は受けに回っていい味を出している。最近よくいる妙に無神経な男を演じる山賀教弘もうまい。若い演出もノーセットの舞台を苦労して切り回しているが、軸になる女性三人の位置(生活と関係)は、はじめのうちにしっかり押さえておいてほしかった。休憩なしの二時間。
なにもおきない
燐光群
梅ヶ丘BOX(東京都)
2019/10/02 (水) ~ 2019/10/23 (水)公演終了
満足度★★★★
至極まじめな現代社会批判コント集。坂手洋二もすっかりうまくなって、二枚腰三枚腰の仕掛けで現代社会を告発する。かつてはその批判の矛先は明確にわかっていたものだが、このコント集の矛先はソフィストケートに表現されていて、自らにも帰ってくる。それだけ時代の構造が複雑になっているともいえるし、それよりも、これなら批判の柱にして大丈夫という思想が見失われている、ともいえる。二時間足らず、燐光群の俳優たちもうまくなってコントに味を出している。追加公演は超満席。だがその熱気はどこか行き場を失っているようにも見え、また民芸ほどではないが観客の老年化も目立つようになった。
マグノリアの花たち
劇団NLT
シアターグリーン BIG TREE THEATER(東京都)
2019/10/18 (金) ~ 2019/10/22 (火)公演終了
満足度★★★★
舞台はアメリカの田舎町の美容室。浮世床である。
ブロードウエイで長く上演され、映画にもなり、日本でも何度か上演されたアメリカの大衆劇だ。日本の大衆劇と違って長持ちするように作られていて、さすがアメリカ・ブロードウエイと感心する戯曲だが、このNLTの公演は少し女性喜劇に寄せすぎていないか。
元の戯曲でも登場人物それぞれに笑えるキャラを持っているが、それは、笑わせるために設定してあるわけではない。俳優たちは早いセリフをこなしているが、せりふを言うことと受け渡しで手いっぱいで、せりふを言っている間に役を育てることができていない。笑いがそこで終わってしまう。厳しく言えば滑っている印象だ。
落ち着いてやっても、現代劇として面白くみられる本なのに、と残念。
男たちの中で
座・高円寺
座・高円寺1(東京都)
2019/10/18 (金) ~ 2019/10/27 (日)公演終了
満足度★★★★
10月は一月に、二度、本年屈指の舞台に出会うことになった。それも合わせ鏡のように、一つは個人、今一つは社会から現代を見据えた翻訳劇、老若の優れた演劇人の仕事である。ともに、長時間が納得の舞台だ。
「終夜」が、個人や家庭、夫婦(基礎集団)から世界を描いているのに比べ、「男たちの中で」は社会で生きる人間関係(機能集団)から現代を描いている。印象を三つ。
テキストが強靭である。このテキストも八〇年代に書かれ、ウイキペディアによるとイギリスではなくパリで初演した作品のようだ。
登場人物は六人、それぞれの役割が、シェイクスピアを下敷きにしたというが、非常にうまく書かれている。大企業が世代交代の時期を迎えている。創業の当主(龍昇)はなかなか席を明け渡そうとしない。主人公は養子のレナード(松田慎也)、つまりは現代のハムレットである。取締役会への参加を強く義父に求めるが拒否されると、義父の殺人を思いつき、それに失敗すると、乗っ取り相手のハロルド(植本純米)と手を組もうとする。こちらにも資金繰りに困っているという弱みがある。そういう状況を冷静に見ているライバル社(千葉哲也)もいるし、当主の身近で手ぐすね引いている秘書(真那子敬二)や脛に傷を持つ下僕(下総源太郎)もいる。
登場人物たちは、いずれも個性的で人間味にもあふれているが、現代社会の走狗でもある。その中で、親子や主従をめぐる人間模様は下世話で面白い。この作品が書かれたのは、世間で「金融工学」というコンピュータ頼みの新しい金儲け戦略が表面化し始めて時期だ。手も早いし、よくポイントを掴んでいる。書かれてから四十年もたっているのに(テキストレジしてはいるだろうが)古びていない。
日本でも社会構造の中の人間を描く若い作家が増えてはいるが、この作品のパワーには及ばない。世界にはすごい作家がいるものだ。
第二は、演出の佐藤信。六十年代末から現代劇のリーダーの一人であった。作者のボンドは、演劇の検閲をめぐって官憲と対立した過去がある由だが、六十年代演劇は唐も、寺山も、佐藤信の黒テントも既成の権威(官憲)と対立した。その後、佐藤信は公共劇場の芸術監督を務めたり、小さな神楽坂の小屋にこもったり、演劇活動の場を広げた。いまは座高円寺。ここのところ新作がなく、焦点を見失ったかと恐れていたが、それは客の杞憂だったのだ。
もともと芝居作りに凝る人で、黒テントでも三軒茶屋でも神楽坂でも、いいなぁと見た芝居はある(一方で大外れもあった)のだが、今回は直球一本、見事なテキストレジ、巧みなステージングで休憩10分を挟んで3時間20分を押しまくる。佐藤信、若い上村聡史に負けていない。ボンドのこの戯曲の発掘と合わせて、中年に及んで自信もついてきた小劇場の癖玉を使いこなして、老いを感じさせない仕事だった。
第三は役者。これだけ癖玉がそろった舞台も珍しい。登場人物が全員男性だからメールキャストは当然でもあるが、それぞれ柄が立つ上に芝居もうまい。彼らが役者の個性をむき出しにして激突する。ごちゃごちゃした経済の話なのに格闘技のような一種の爽快感がある。全員男だから容赦なく面白い。特筆は植本純米だろう。花組芝居の次の立女形と期待されていた役者だが、そんな柄を吹き飛ばす快演である。
芝居の筋は大会社の経営者交代だが、そこへ。現代社会の人間の赤裸々な姿を陰陽取り混ぜ織り込んで見事なドラマであった。ちょっと・・と思える点は本の展開では大詰めのドタバタ殺人事件、癖玉の中では龍昇にセリフの幅のなさ、松田慎也に若々しい大胆さが欲しかった。
小刻みに 戸惑う 神様
劇団ジャブジャブサーキット
こまばアゴラ劇場(東京都)
2019/10/17 (木) ~ 2019/10/20 (日)公演終了
満足度★★★★
どこか懐かしい感じのする劇団である。地方、それも(確か)なじみの薄い岐阜で三十年余。
すると、初めて見たときはまだ昭和だったのか。最初は、この時期、流行っていたSFやファンタジーを、独特の調子で日常生活にかませた作品で、当時、大袈裟なタッチがはやりだった東京の小劇場の中でも、存在感があった。
それはちっとも変っていない。今回はタイトルそのままの通夜もの。場面設定は時代に合わせてはいるが、中身は変わらない。北村想が、ユニークであり続けているように見えながら、変わっていくのに比べると、はせは不動のドラマ世界である。こういう演劇を支持し続ける名古屋の風土には、東京・大阪と違う独自の伝統があると感じる。それがよくわからないところも名古屋的なのかもしれない。はせは、そんなことはない、見たままです、と言うかもしれないが、そこが名古屋の深さであろう。初日のアゴラの夜はほぼ満席だった。
終夜
風姿花伝プロデュース
シアター風姿花伝(東京都)
2019/09/29 (日) ~ 2019/10/27 (日)公演終了
満足度★★★★
本年白眉の舞台であることは間違いないだろう。
感想を二つ。まず第一。
テキストは7時間に及ぶスエーデンの戯曲の由。83年の作品という。北欧は第二次大戦後、大きな戦火から逃れたこともあって、一時期、時代を先取りするところもあった。フリーセックス、家族の崩壊、社会の空洞化、など、いまは一言で語りがちな社会変化の先駆けとして(都市の団地の普及が象徴するように)ようやく家族制度から脱却しつつあったわが国でも注目されていた。それから50年近く。
今、この延々と続く兄弟夫婦二組の痴話げんかを見ていると、人間は急には変わらないものだなぁと感じる。この芝居の「人間はどのように他者とつながるものか?」という80年代の問題意識は、中吊りになっているようにも見えるが、たぶん、大戦後(あるいは20世紀に入ってから)ずっと男女、家庭、という社会の基礎集団のモラルは中吊りになって行きつ戻りつしてきたのだ。80年代に北欧へ実際に行ってみて、日本の北欧理解は表層的なもので、北欧も、新教基盤の保守的なモラルが強いと感じた。それは日本も含めて世界的に底流でつながっている。
この種の翻訳劇は、国境を超えると本質が失われたり、時には別種のものになったり(近い例では埼玉の「朝のライラック」)するものだが、この上演は巧妙な編集でこの芝居の本質を伝えてくれた。今春上演された「まさに世界の終わり」もこのカンパニーで見たいと思った。現代のモラルがよく描き切れている「現代劇」だ。
第二。俳優と演出。舞台は4時間近く、速いテンポのセリフが切れることはない。俳優の動きも、セリフの受け渡しも多い。登場人物は4人だけだが、終始その舞台がアンサンブルとしてサマになっていて、ダレることがない。
それぞれの人物を舞台の上でひと時だけ今生きている人間として表現した。彼らをほかのメディアでは見たり、説明したりすることはできない。時間をおいてみることもできない。彼らを見る事で、観客はひと時だけ、現代の本質に触れたのである。
昨晩は台風前夜の雨もよい。終バスを逃したくない観客も多かっただろう。俳優もテンポを上げて、4時間近いタイムテーブルを20分近く巻いた。それでも全く乱れなく幕を下ろしたのはお見事だった。岡本健一や那須佐代子ができるのは知っている。今回は栗田桃子。こんなにうまい人とは知らなかった。斎藤直樹の手堅さも光った。
ヴェニスの商人
演劇集団円
吉祥寺シアター(東京都)
2019/10/03 (木) ~ 2019/10/13 (日)公演終了
満足度★★★★
何度見てもこの芝居落ち着かない感じがする。前半の牧歌的な父親に決められた箱選びの結婚の話と、後半のヴェニスの御法度による裁判の二つの話が、しっくりこない。登場人物も多く、それぞれにかき分けられていて、ストーリーも複雑なのだが、箱選びも、法廷も、それを取り巻く、ヴェニスの都市国家のイタリア人対ユダヤ人の商業のありようをはじめとして、男装の美人や、召使の転職など一つ一つの話が、面白すぎて、子供の絵本のようにページをめくるたびに気が散ってしまう。小学生のころ学校巡演で見せられた名場面が強く印象に残っているのかもしれない。
大人になってみると、いかにも17世紀のシェイクスピア劇らしいおおらかな面白さがある。だが、三組の結婚の話が軸になっているのだから、青春の若さが役からこぼれ出ないと舞台に活気が生まれない。今の若者にルネッサンス期の無鉄砲青春を楽しんでやれというのは無理かもしれないが、ポーシャをはじめ、若者がみな、おつかなびっくりで演じている。それが舞台を弾ませない。
今回の公演は、ほとんどフルバージョンだが、裸舞台に机といすが数脚置いてあるだけのセットだ。こういう舞台だと、役者の力量がものをいう。円も創立時代の俳優がほとんど世を去って、どの新劇団にも共通する[柄でも見せられる]役者らしい新人が現れない。今回は各役よく考えられている現代人の衣装での上演(衣装。西原理恵。大健闘)だが、それだけが頼りだとやはり苦しい。キャストも、セリフも、バランスも、流れももう一つで、なんだかぎくしゃく、今回も芝居に乗れなかった。
ブロードウェイ・ミュージカル「ウエスト・サイド・ストーリー」
TBS
IHIステージアラウンド東京(東京都)
2019/08/19 (月) ~ 2019/10/27 (日)公演終了
満足度★★★★
360度回転の豊洲のステージアラウンドでの上演である。おなじみのウエストサイドストーリーだが、今回は新演出である、アメリカのカンパニーだが、これだけ特殊な劇場だと、過去の舞台の再演というわけにはいかないだろう。新演出、初演とうたっている。
キャストも若い俳優が多く、劇場ともども初々しい。演出は劇場機能を巧みに生かしていて、無理をせず、運びもいい。今までは荒廃したNY下町を思わせる一杯セットを照明や小道具で場面移動していたが、よく飾りこんだフルセットで次々に代わっていく。回転客席だから、場面によっては客席がズームのように舞台に寄って行く。今までの劇場にはない効果だ。舞台の幕にあたるスクリーンを開閉して、場面の広さを変えるのも成功している、バルコニーが、せり出しでスクリーン前の天空に浮かぶ「TONIGHT」の二重唱や、広くなった舞台でほとんど全員で四重唱になる一幕の、幕切れ前もよかった、あらためて言うまでもないが、さすが名作中の名作、曲もよければ詩もいい、あまりむつかしい振り付けではないが、細かく、きれいにまとまったいいダンスナンバーが多い。ことに抽象的なシーンでの起承転結がうまい。
六十年前に初演された時には、時代へのプロテストがあった作品だが、今はそれが何か懐かしい感じで見られてしまう、若いアメリカ人のカンパニーも、どこか古典作品のおさらいのように生真面目に努めている、名曲の「アメリカ」モ、「サムホエア」も、軽いタッチの「アイ フィール プリッティ」も20世紀の色合いが深い。衣装もセットも細かい。二幕、マリアがおめかしをする衣装のスカートの裏地が黒だ、それを意識的にちらっと見せる。アイフィールプリッティが、舞台に体現されている。高速道路下の決闘場のセットは、高速道路を舞台中央で奥へカーブさせて奥まで見せている。大衆車の廃車とかごみが上手に飾ってある。広い舞台を生かして、その下の移民の若者同士の争いの貧しさを見せる。彼らの住まいや酒場はまるで「ガラスの動物園」の空気だ。演奏もいい。管楽器の聞かせ場で原曲が映える。日本人のトラも入っているのだろうが指揮はあちらの人だった。
この最新式の劇場で場面をフルセットで組めたために時代のリアルな感じが引き出された。それをアメリカの若者が律義に演じている。一万五千円は高いが、この名作への現在のアメリカ人のとらえ方を楽しめた。
この劇場では、この公演に引き続いて三組の日本人キャストで、同じ舞台を6月間上演する。コピー版となるのだろうが、それはどうだろう、確かに日本のミュージカルはなかなか欧米の水準に追いつけない、脚本も、演出も、演技も振り付けもいまだに背を追っている、だが、このよくできた古典をコピー再演するのは、興行の安全を考慮するとやむを得ないのかもしれないが、どこか寂しい感じもする。それは観客も敏感に感じているのかもしれない、この舞台、意外にも半分しか入っていなかった。