赤い鳥の居る風景
世田谷シルク
座・高円寺1(東京都)
2014/10/13 (月) ~ 2014/10/19 (日)公演終了
満足度★★★★
思い出し投稿☆初世田谷シルク
そこそこの量のコメント(しかも久々にうまく書けたとご満悦)が一瞬の誤操作で消滅。その後筆をとる気が起きず。と言うのも言葉で評価するのが難しい芝居だからだ。がそれだけにやり残した感があり、思い出し投稿する事にした。
ひっくるめればこの舞台は「試み」。否、このグループのステージは全て「試み」なのだろうが、路線の分岐点的な意味合いを感じさせた。初観劇にもかかわらずそう思うのは「初の既成戯曲演出」である事もそうだが、舞台そのものが「未完成」「過渡的」匂いを漂わせていたたからだろう。フォローする訳ではないが、パフォーマンスのクオリティは高く(役者の語り/動き/転換/照明等の洗練度)、別役実の不条理劇にもかかわらず最後まで目を離す事なく観れた。「不条理劇」と書いたが、別役作品としてはストーリー的に完結している。不遇の姉弟(両親を失い、姉は全盲)の奇妙にねじ曲がった関係が、姉の弟への語りかけと、それに抵抗を感じながらも従って行く弟のバージョンを変えたリフレインのやり取りで表現され、やがて悲劇的結末に至る。姉の語りは弟への指示・命令だが、いずれも「両親をなくした私たちはしっかり生きて行かなきゃならない」という理由に帰結し、姉自身は誤判断である可能性に気づかず(他の可能性を考えない様子は盲目の風情に合う)、弟は従いがたい生理的反発を抱くが最終的には指示に従ってしまう(ここにも姉が盲目である事が働いている)、この弟の本心と姉の意図との齟齬が開いて行く分だけ、弟は自己分裂を起こして行くが、それが決定的に露呈する前に悲劇は到来する、という物語だ。二人の「内部」的関係は、周囲の人間(元学校教師や職場の同僚、叔父叔母等)という「外部」とのやり取りとの対照で示される。姉弟を知る観客の「目」からすると、周囲の人間がよほど浅薄に映るのだが、作者は近親者であるはずの彼らとの「隔たり」を通して、その延長にある「社会」の冷たさへとイメージを繋げる。
そこで今回の主軸となる演出は、装置として十台以上もの脚立を用いて場面を作り、金属の無機的感触を舞台に持ち込んだ(と見えた)。時に脚立は一、二台に減ったり総出で大きな壁を表わしたりするが、動かすのは主に踊り手(コロス)、時には(姉弟以外の)役付きの人も手伝う。何十という細かな場転があり、それらが芝居の流れを止めず、振りを踊る時間も織り込みながら、ダイナミックな照明の変化によって、進んでいく。場面提示の道具に脚立が最良であったかは、評価が分かれるかも知れない。だがそこには「試み」があったと言える。むしろ、恐らく世田谷シルクの独自さをなすのだろう「踊り」の挿入に、違和感ではないが微妙なマッチングの難しさを感じた。物語の背景や装置は「無機質さ」を想起させる点で繋がるが、そこに身体表現が割り込むと、その表現対象が何であっても「一肌の温かさ」が見えてきたという事はある。あるいは台詞と脚立は時代を遡り得るが、踊る身体は「現在」である。この場面の質の差異に意識的であったかどうかは判らないが、「多要素が詰め込まれた」感を残したとすればこの部分のせいだろう。とはいえ別役作品の世田谷シルク版(翻案と言っていい。台詞は忠実でも)を打ち出す側からすれば、この試みは不可欠だったろう。
主宰の堀川氏は修行に旅立つという。新世田谷シルクと相見える日を楽しみにしています。
止まらずの国
ガレキの太鼓
こまばアゴラ劇場(東京都)
2014/12/19 (金) ~ 2014/12/30 (火)公演終了
満足度★★★
2度目のガレキ観劇
約3年前のアゴラ公演観劇以来チャンスなく、久々のガレキの太鼓観劇となった。
不評を目にした上での観劇の感想は、「酷評する程ではないが、する人がいるのは分かる」。本の問題、演技の問題、両面の為せる仕業だが、私が気になったのは演技の問題。以前のガレキさんの舞台をおぼろげに思い出すに、作品の完成度は高かったがやはり演技面での詰め切れなさと、にもかかわらず役者らはしっかりと「動き」を見せている、稽古で積み上げた土台の上にそれらを展開している印象があった。この、動きの付け方・作り方に独特なガレキ式手法が導入されているのではないか、と勝手ながら想像され、リアルさを纏うのに今回は失敗したのではないかと・・相応の力量と役者間の演技のバランス、噛み合いを要する所、これが効力を発揮しなかったのでは、と見ました。
脚本の問題では、ここに織り込まれた地球的視点や、日本を外から相対化してみるアイロニーは健全なものに思うが、台詞の捻りが乏しいと思える箇所、人物の動きの背景付けの弱さ、気になる所も色々ある。ただ、そのままやってリアルさを損なう台詞や動きは、辻褄を合わせ一貫性を持たせる役者の仕事であり、その気づきとヒントを与えるのが演出の仕事、だろうと普通に思う。その努力あったのかどうか、が見えないので、恐らく全く違う手順で作っていったのではないか、と想像した訳です。
外国滞在での人や出来事との遭遇が、日本的常識を批判的に見直す「契機」を含み、それらを込めようとしたとおぼしい台詞から、作者の意図を(遠回しにであるが)感じる事は出来た。
ただ、作者自らの体験が反映されている作品との事だが、もしかすると自分が得た感慨をそのままの形で作品化するのは難しいのかも知れない。一段上へ昇華した作品をみてみたい。
「ダム」
メメントC
シアターグリーン BIG TREE THEATER(東京都)
2014/10/22 (水) ~ 2014/10/26 (日)公演終了
満足度★★★★
言葉の渦
作家の妖気が、夜、原稿用紙をこするペンの先から立ち上るのを見るような、渾身の台詞使い。学者先生には見えづらい鴨川てんしの学者役だったが、枠に収まれず変転して行くタイプの存在がそこに居た。西山水木の役者としての妖気は、以前ザ・ガジラ公演でのそれが焼き付いている。
本作は昨年、リーディング公演を座高円寺でやっており、(同時期にやっていた劇団本公演以上の)完成度に驚嘆したが、さて本舞台に上げてみてどうであったか。
パワフルな舞台であった。ただ「本」の要求に至らない部分が残ったという後味。そう感じた原因について、今考えつくのは劇場の客席の急勾配、タッパによって、舞台を俯瞰・観察するスタンスに観客が置かれる。リアルに作り込まれた山間の旅館の装置も「作り物」に見えるし、役者の演技のタイプとしては、現代口語演劇、つまり四方上下からの観察に対応したリアルを要求されるような条件だ。観客に直接語る台詞(ナレーション的、狂言回し的に等)でも無ければ、プロセミアムを横から絵を見るように見る形の芝居を、上から覗く感じになる。この角度の面白さは物語の進行よりも存在のありよう、微細なリアルに真実を見る面白さである。あるいは、三次元世界のリアルを超えた何か、「妖気」と冒頭書いたが、人物がまとう妖気を何らか表現され、それが劇場内に充満する、的な。
脚本は、劇的高揚を準備しているが、ダム建設を巡る対立が本筋だとすればその「説明」を登場人物らの個的な関係・やり取りの中に鏤めており、それらのこまやかな表現が機敏になされないと事実関係が伝わりづらい嫌いがある。
がしかし、脚本の難易度に演出、俳優が果敢に挑戦するエネルギーは舞台の熱度に反映していたという事も。最後には胸のすくオチが用意されている。荒削りだが何やらあちこちをくすぐられる面白い舞台だった(それ一言書きゃ良いってか)。
背骨パキパキ「回転木馬」
名取事務所
俳優座劇場(東京都)
2014/10/22 (水) ~ 2014/10/26 (日)公演終了
満足度★★★★
別役実書下しは意外にも新境地
半世紀以上書き続けている戦後演劇の生き証人・別役実の今作は、当日パンフによれば「関係者にはご迷惑をかけた」(別役)代物であり、氏が演出に伝えた所では「今回は随筆です」、つまり一つの舞台としての完成をみるための戯曲は「書き上げられなかった」のであるらしい。だが私にはこいつは秀逸であった。芝居の序盤でこの劇世界の実態(場を支配する秩序)が提示されるが、謎めいた中にも何か納得させられる状況に、そういう自分に、おかしくて笑えてしまう。リリオムという主人公の「超課題」を冒頭で見せると、あとはどうにでも。彼を照射軸として諸々、自由闊達に場面が展開する。ここで吐かれる一杯の言葉が、なるほど別役氏の(戯曲以外の)文章から来ている事は文体から容易に判るのだが、演劇的緊張はそれによって緩む事なく言葉は濃密に紡がれて行く。話題は変遷し、ガクンと膝が折れるような挿入もあるが、この「語られる場」としてある舞台空間が、愛おしく感じられる。氏の指定の懐かしい歌謡(や童謡)が演者によって唱われるのも、これに大きく貢献している。お話とは直接関連が無いが、進行する話題との微妙な距離感で挿入される具合も、場面の自由闊達度を可能にしている俳優たちの不思議ちゃん的佇まいもよい。
風の吹く夢
THE SHAMPOO HAT
ザ・スズナリ(東京都)
2014/09/10 (水) ~ 2014/09/23 (火)公演終了
ROADMOVIE 半径数キロただの半日の。
TheShampoohat知ってまだ2年。現代日本に棲息するヒト科の生態を何編か見せてもらった。話の筋やオチそのものより人物の佇まい、醸し出す濃厚な出汁のような臭いが何とも。アレを嗅ぎがくて足が向く。今作も建設現場に出入りする人工(にんく)達の突いてる感じは堪らなかった(一時期鳶土方の現場に出入りした頃を懐かしく)。さほど濃い関連のないエピソードが並ぶが、この完成具合にバラつきが若干。もう一本濃い線というか、芝居全体を括れる(言葉に抽出できる)何か、捻り出し切って欲しかったっす。
コンタクト
水素74%
アトリエ春風舎(東京都)
2014/09/12 (金) ~ 2014/09/23 (火)公演終了
満足度★★★★
水素74路線
数えると同劇団を4本も見て来た勘定になるが、路線と質を維持しながらコンスタントに公演を打っている。意外にも。というのは、まず劇団名が不思議君でwebのデザインもパンフやチラシに書かれる作者のコメントも全面拙さに満ちてる。素人でごめんなさい、と。で、作品とした場合の完成度を言えば毎回、詰めの所で素人っぽさを出す。終盤に向けて自転車のペダルを力んで踏み込むとチェーンがかつん!と外れてつんのめる。惜しいね、という具合。
でも基本は現代口語演劇で、人物の立ち方、呼吸感、雰囲気、ちょっとした間合い等、つまり非言語表現部分が饒舌に色々と語ってくれる所の面白さが軸だから、結末がどうなろうとあまり関係ない、と言えなくもない。ケーススタディ的に再現された人間の模様をじとッと観察する時間として成立するタイプの芝居。飛躍の度合いを「そりゃないだろう」「もっと行けるんじゃない」と批評しながらも見続けられる事がその証左だ。
今回は、途中、どう展開しても可能だがどうなるのか、帰趨を見るポイントが幾つかあった。未来男の「父」が結局誰なのかは、最後に判る事になっているが、結局誰だっけ?・・ま、それはどちらでも良い(それじたいにメッセージはない)。作者が明かすように人間と人間の接触についてのあれこれが、面白く見れたので私はそれで十分、多くは望まないという感じである。これで良いのか、とも思わない。ただし、表現の精度についての探求は今後もたゆまずやっていってほしい。
非常の階段
アマヤドリ
吉祥寺シアター(東京都)
2014/09/12 (金) ~ 2014/09/21 (日)公演終了
アマヤドリ的。
アマヤドリ観劇3度目、その中ではベスト。
過去観劇は『月の剥がれる』『うれしい悲鳴』。前者は掴み所がなく、後者は進行する事態は判るが言いたい事(劇作りの動機)が掴めず入り込めない、という印象だったが、今回は「芝居を観た」という気分で劇場を後にした。それは喩えるなら、冷たい壁の裂け目から人間の「温度」が感知され、舞台に立つ役者はアンドロイドではなかったのだという、そんな感触から来ている。
この「抑制感」は果たして狙いなのか、他の要因によるやむを得ない結果なのか、という所で評価も変わってくるが、、基調としては「不要な判りづらさ」がそこはかとなく感じられるため、否定的な印象が3作を通じた正直な所である。ただしテキスト(台詞)を通して論じようとしているテーマそのものは重要であり、社会批評の姿勢を貫く作り手は応援したいのも正直な思いだ。
最後まで見れた、それを可能にした要因は一つには「アマヤドリ的」アプローチを知っていたので、「誘眠攻撃」を回避できたこと(場面転換後の台詞のやり取りが前のそれとどう関連するのか長い間判らないと、これは強力な「誘眠」効果を発する。今回も実は若干眠ってしまった)、そして今回の芝居のシリーズ「悪と自由」(この文言は観劇中忘れていたが)が念頭にあり、芝居全体をそこに集約されるべきものとして、一歩引いた所で観ることができたこと、これによって芝居として理解が出来た事がまずは土台である。
その上で「芝居を観た」後味を得られた一番の理由は、役者の感情表現に私の感情腺を振動させる部分があったこと、役者が「抑制」の中にある感じが覆うアマヤドリの舞台の中で、そこから跳ね上がる瞬間が少し観れた事、これが大きかったと思う。
羽衣House
秋田雨雀・土方与志記念 青年劇場
紀伊國屋ホール(東京都)
2014/09/12 (金) ~ 2014/09/21 (日)公演終了
満足度★★★★
言及することの価値
途中入場(無念)。だが即効引き込まれて最後まで持って行かれた。
原発事故を巡るあれこれは「生活」の問題として今も進行形であり、その事に多少なりとも考えを寄せる自分なればこそ、であったかも知れぬが、芝居は全く硬くない。タッチはどちらかと言えばコメディである。軽快さ、というより日常性と言ったほうが適切か。
話の舞台は放射能から避難する子どもたちを受け入れる保養施設(民間の、人々のカンパで運営されてるらしい)。ここの女性所長以下、スタッフ、ボランティア、利用者(子供たち)の親族、地元の支援者らしき人等による、恋愛沙汰有り、笑い有りのドラマ。だが、日常感たっぷりに語られる会話の端々に遠慮なく挿入される、放射能汚染をめぐってのあれこれ。それに向き合って生きざるを得ない場所で、もがき立ち上がろうとする人間の弱さ美しさ醜さ清々しさが2時間という時間に詰め込まれていた。(※全体の1/3強を観そびれたので「詰め込まれて」という印象表現は当ってないかも知れないが)
とにかくこのネガティブな題材を、問題性をきっちり言及しつつ爽やかなラストに仕上げ、しかも話を終えて一件落着でもなく課題はしっかり刻み込んで幕を閉じる事ができたのを、私は奇跡の賜物ように眺めた。
最後に希望と言えるものを浅薄さに堕さずに語らせるには、そこへ至るプロセスでごまかしの無い事実・現実が描かれなければならない。
現実を共有されない事こそ震災以来の社会の罪(広い意味でのネグレクト)であり、この芝居は「言及すること」により今渦中にある人達への声かけとなっている。その言葉となり得る言葉を作者は探り、紡ぎ出した、この事を真摯に評価したい。
(見逃した分を引いて4点)
グランギニョル未来
グランギニョル未来2014
ヨコハマ創造都市センター(YCC)(神奈川県)
2014/08/29 (金) ~ 2014/08/31 (日)公演終了
満足度★★★★
21世紀の鎮魂儀礼
コラボ的作品を最近好んで観始めた事もあって(半ば実験である「異種配合」は当たり外れも多いが)、今回の観劇、当日券の列に1時間並んだ甲斐はあった。予備知識無し、休憩含め2時間のあいだ五感を刺激され通しであった。横浜創造都市センター(元BankART。石造建造物)が会場である時点で「実験的」パフォーマンスが何となく予想されたが、内容は想像の範囲をはるかに凌ぎ、言葉にならない何ものかを強烈に叩き付けられた感覚を引きずって会場を後にした。
超越された感もさる事ながら、登場する役者の取り合わせの妙、場面の緩急、生で鳴らされる音楽、音響も印象的だった(作られた感=温かさを感じさせるものがあり、決して突き放すばかりでない、の意)。
特に聴覚の刺激。台詞の発語もまた、音としてあった。
冒頭近くで、ジェット機の轟音が振動とともに暗転の場内を埋め尽くす。今作品の題材とされる「日航ジャンボ機墜落事件」に連想を繋げる、状況の再現。直接には関連のないシーンが、暗転も挟みつつ波のように寄せたり引いたり、感覚をくすぐる。これらを包む音楽、また静寂。
私の座った席からは、この鋭角状に細長い建物の尖端に当たる、正面の二重に据えられた扉の嵌め込み硝子を通じて行き来する車のライトが相当量かすめ、目をくらませる。だが不思議に外界との隔絶感は大きく、逆に秘儀に参加しているかの感興が増幅するのだ。
人物らは歌のような物を言ったり、叫んだりする。外国訛りで日本語を口にする外国籍らしい二人、覚えたての日本語を喋る四歳くらいの女の子、小学生の女の子、中学生の男の子。「日本語の操り手」として未習熟な彼らの口を介する事により言葉が純化され、蒸留された水滴のように落ちる。一方、大人の飴屋は吃音者のように、山川は吼える事しか知らない傷だらけの狼のように、言葉を吐き落とす。
観客が徐々に導かれて行くのは、現実に訪れる「死」の瞬間・場所である。その時間その状況が、私達の身にも訪れ得ること、否、今私達はその「死へ向かう時間」を生きているということ。
「グランギニョル」を意訳して言い換えるとすれば、「死の予感」を喚起することとなろうか。不条理な死(死はそれじたい不条理)を真顔で嘆いたところで、それは避けがたいもの、個人が自身の内部で折合いを付けるしかない類のものだ。多くの演劇は、その殺伐とした「死」に、つまり「生」に、彩りや意味を与えんとして人と社会、人と人との関係を描く。ところがグランギニョルが描き出そうとするのは、生を当面長らえるための「死」の脚色ではなく、脚色を撤去した無意味で不条理な「死」すなわち「生」の姿だ。
対峙する相手は人間(や社会)ではなくもはや運命、神、あるいは真理(法則?)である。この作品が(日航機事故を扱ったにもかかわらず)「非日本的」な匂いを発する理由はそこにあるかも知れない。
もっともあの突然で無差別な「死」、現場に居合わせてしまった人々のありさま、また同様に死に直面する存在としての人間を「嘆いてみせる」行為とは、「死」を思い出させる儀式に他ならず、能をあげるまでもなく鎮魂はその抹香臭さを疎まれながら連綿と、生者のために儀式として執り行われてきた。勝手な解釈だがグランギニョル未来は祭儀なるものを現在に捉え返し、息を吹き込む試みを試みた、のでもあるか。「真の闇を知り、真の光を見る」ために・・ ただ、闇を見据えるには私たちの精神は脆い。物語性の補助があってどうにか、チラ見できる程度で。意味の解体とセットである所の不条理な死のストーリーは日常の精神回復機能の前で風化していく。(9/6修正)(10/5気まぐれに若干修正)