玉子物語
Q
こまばアゴラ劇場(東京都)
2015/07/08 (水) ~ 2015/07/15 (水)公演終了
満足度★★★
卵物語
子宮の奥の「卵」が暗喩されている事が開演後まもなく判り、以後はキャラによって特徴ある発語と動きとエピソードが割り振られ、性と妊娠にまつわるケーススタディの様相。「お相手」の男子も脚本上のゆきがかりでお付合い。発語と動き、振りなどパフォーマンス面、舞台処理に秀でた印象があり、作者の脳みその中の思索や着想が、渾沌のままに舞台上で造形され得るとしたら、才能とは有り難きものだ。「女」の独白のような作品だったが、いつか私の琴線にも触れる舞台に出会えるか、どうか。
草枕
シス・カンパニー
シアタートラム(東京都)
2015/06/05 (金) ~ 2015/07/05 (日)公演終了
段田漱石、小泉妖女に遭遇す、の巻。
一昨年末「グッドバイ」に続く、日本文学舞台化シリーズ(北村想作/寺十吾演出)。松井るみの美術が壮観。紙に鉛筆で描いたイラストを巨大に拡げたような書き割りは、前回を踏襲。前回は路地で、今回は山中である。原作の冒頭から始まる「智に働けば角が立つ。情に棹させば‥」のくだりを呟きながら登っているらしい山道が、語り手のどこか飄々とした様子に合致する。こんもりと大きな山が左右にそびえ、この間に尾根道が渡され、背後には遠くの山の書き割り。舞台手前には三間四方ほどの板床があって色々な場面に変わる。
語りに語る段田。浅野が役の七変化の芸を見せ、小泉は妖艶な姿をさらす。ストーリーの全ては、漱石がこの女性と遭遇するという事で語り尽くせるが、それがその女に似たある女性との出会いの過去が重ね合わせられ、置き忘れた宿題に取り組むように思索を始める。恐らくはたぎるような「異性への情」との折合いを、沈着な思索の言葉に落とし込む作業によって付けるために。
段田が脚本の趣旨を理解した的確な動きをみせ、一方小泉は慣れない舞台でどうにかこうにか奮闘、という感じであった。一度台詞を噛み、一度つまずいた所を段田に突っ込まれていた。寺十演出は笑える場面を細かく仕込んでいたが正直、女優のほうは付いて行けてない。近年の舞台は虚構を立ち上げる正統な演技と「素になる」演技(笑いを取るのに多用される)の自在な行き来を要求され、ヘタするとこれに頼って弛緩した舞台になりがちだが、ぎゅっと締めてこれをやるのは実は高度な技。メタシアターの構造は、演劇への現代の捉え方そのものでもあって、そうした小ギャグは、「お芝居に過ぎない」という作り手のわきまえを効果的に示す事で観客の共感を手にする、必須アイテムでもあったりする。
いずれにしても、この不思議な舞台への、貢献度は置くとして、存在じたいに威力のあるこの女優には、舞台に馴染み、舞台を回すことの快感を知る舞台女優にぜひなってほしい。‥帰り道を歩きながら、そんな事を考えた。
墓場、女子高生
ベッド&メイキングス
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2015/07/17 (金) ~ 2015/07/26 (日)公演終了
満足度★★★★
祝祭的演劇の魅力・威力を信じて進むベッド&メイキング達
「南の島に雪が降る」・・これは加東大介著の奇跡的従軍ドキュメント(本当に本当の話なのかと今も訝っている)の吸引力で、お台場の粗末な(失礼)野外劇場へ出かけたものだ。健全な「芝居心」にほだされた、というのが正直な感想。出来すぎた結末に身を委ねるのは嫌いである。が、身を委ねて良いと感じさせた肝は何か・・ 答えの出ぬまま、前作、そして今作を拝見し、今作はあの「南の島・・」を思い出させた。野外劇ならでは、の好感度要因だけでなかったという発見だ。
物語世界の統一感だろうか。俳優の良さだろうか。脚本上の工夫は「墓場」にたむろしたり出入りする人々の背後の「物語」が一つずつ、謎解きされて行くというプロセスに見られる(原作がそういうプロセスを辿るのかは不知)。しかし大凡の構図が見えた時、「幽霊もの」の王道のパターンに収まりそうになりながら、簡単にはハマらず、収まり所の知れない緊張感が維持される。
フィナーレで全体像を現わす「絵」が想像もしなかった「現代」の図として見えて来る見事さ(これはかなり主観的印象かも知れないが)に、静かに心をつかまれた。
恋 其之弐
吉野翼企画
こまばアゴラ劇場(東京都)
2015/07/01 (水) ~ 2015/07/05 (日)公演終了
満足度★★★★
岸田理生『恋』三部作の弐
寺山修司との共作戯曲があるから寺山の弟子くらいに思っていたが、未だ謎である。今回は「吉野翼企画」への興味が第一で観劇した。昨年のリオフェスで服部吉次をキャスティングしていた(「眠る男」)。今年は服部さんは出ていないが‥ちょっと面白そうである。音楽、舞踊その他を融合させた「総合げーじつ」を構成し得る人が、今は<勝ち>ではないかと最近感ずる所であるが、今回アゴラ劇場でのパフォーマンスはその事を実感した。開演前から立つ能面を付けた8人の女。体のラインも出てないし顔も見えないのに何故か引きつける、その理由を考えたりする。ひな壇式の客席だが段差が小さく、足が辛い人も居ただろう。髪の毛で若さが悟れる。それなりのスリムさが手の先で判る。目を引く理由はあるのだなと一応納得。垂直に立った棒と戯れる女(ポールダンサーだった)の太腿が白いのは、よく見ればラバーか何かで、なるほど「棒」を挟むためか。「男はいらんかえ。男のない人おらんかえ」と、やはり開演前に売り声を上げる狂言回しを演じる男の、この言葉が「女」に向けられた言葉である事を噛みしめる。女目線。作家も女性だが、これは女が語る「恋」の話。当時はそれだけで斬新だったのかも知れぬ。この芝居での恋は、生きる事にひとしい。生きる意味を求める女の、恋に敗れ、恋のカラクリに裏切られ、なお恋を求めて行く女の、話であった。
音楽はギター弾きが上手奥で終始音を奏で、心地良い。舞台は黒色を基調に紅が浮かぶ(血の色)。衣裳との統一感があり、俳優も幻想奇譚のような世界に貢献していた。
『太平洋食堂』
メメントC+『太平洋食堂』を上演する会
座・高円寺1(東京都)
2015/07/01 (水) ~ 2015/07/05 (日)公演終了
満足度★★★★
再演をみてよかった。
初演を観、今回も観たかった。「あの感動をもう一度」という訳でない。着想と言い、描き出される人物像の幅と言い、時間経過による人物たちの変化の描写と言い、一言一言の台詞の含蓄と言い、大作である。
ただ初演では、ストーリー説明のラインを追うので精一杯だった。それには多分、俳優の人物理解、台詞の咀嚼度が影響している、と再演をみて確信した。芝居の進行を追ううちに、朧げに話が立ち上がって来たが、前はこういうニュアンスではなかった、と感じるやり取りがあちらこちらにあり、確実に良い方へシフトしていた。特に後半はこの劇世界の完成へ、台詞も、事態の展開も饒舌に滑らかに流れて行く。
ただ、初演も今回も、最後に唱われる主人公大星を悼み称える(慈しむ)唄が、とても良い曲なのだが唐突な感が否めない。しかし今回は初演で感じた程の浮いた感じはなかった。
大星役のみ、良くも悪くも初演と印象は変わらずだった。理想を描き、世の風に流れず自分の風を吹かす、発想と行動の人のイメージだが、変節とみえる瞬間がある。革命より家族を取った。ここは、人間=大星の側面を見せたかったのかどうか。結社をたたむ宣言に至るまでの大星は、「何が本当なのか判らない」即ち何も本気でやってない(貴族の道楽‥貴族ではないが)、根無し人の正体がうっすら見え始める、、という風に見えた。それは作家の狙いだったのかどうか‥。
家族の安心をとり、結社を解散した時も、妻へのリップサービスをついやってしまった風にも見える。もし「根っこ無し」が暴露されたら、妻は(自分も)崩壊してしまうんではないか‥、そういう危機を感じたのだと、観客には見えた、そんな演技だった。
これと「歌」とがそぐわないのであるが、そこは別枠に括るとして‥‥今回は初演時に否めなかった「大星礼賛」の印象は退き、太平洋食堂を訪れた様々な階層の人々の「食す」光景が、ラストに想起されてくる。大逆事件の無法に一瞥しながらも、人間として生き得たことの「勝利」---ある意味観念的な---を噛みしめる、最後であったかも知れない。
『リア王』他一編、…公演は無事終了いたしました。お越しの皆様、ありがとうございました。
楽園王
pit北/区域(東京都)
2015/06/26 (金) ~ 2015/06/28 (日)公演終了
満足度★★★★
ほぼ初楽園王
楽園王という名前がイッちゃってるので手脚の長い極彩色の俳優が客を恫喝しながら動くライブのような雰囲気を勝手に想像していた(どんな芝居だと言われると困るが)。先刻『出口なし』企画での小編を目にして随分印象を違えた。古典(既成)作品を翻案した舞台が主体のようで、「演劇」という楽園に咲き乱れる花々を摘みとっては料理する王様な自身を自嘲(あるいはそのまま?)表現した名か・・とこれまた勝手な想像。
「火宅」「リア王」とも端正な作りで無駄が少なく、各俳優のニュートラルな身体がみせる、細やかな表情や動きの変化に、目が向く。これをごく間近で体験できるpit北/区域の「利点」を味わう公演でもあった。
あられもない貴婦人
アトリエ・センターフォワード
シアター風姿花伝(東京都)
2015/06/27 (土) ~ 2015/07/05 (日)公演終了
満足度★★★★
役者たちの美味なるを堪能。
「サロン貴婦人」のダンサー兼女給‥女優冥利に尽きる(演じ甲斐有る)役どころではなかろうか。彼女達の生き生きとした演技が、1950年という時代の一場面を舞台に立ち上げていた。「民主主義」を標榜する日本と、下辺の現実。朝鮮動乱、ヒロポン。‥ドラマに登場するアイテムがうまく絡み、解消されて行くうまい戯曲だった。現在的な問題も各所に忍ばせてある。作家の気合いが感じられる本。その土台の上で役者らが躍り演じ走っていた。
『ゴミ、都市そして死』 『猫の首に血』
SWANNY
世田谷パブリックシアター(東京都)
2015/06/25 (木) ~ 2015/06/28 (日)公演終了
満足度★★
残念な舞台とはこの事か・・う〜む残念。
踊りのある舞台で世田谷パブリックの3階席は、ハズレ。横に向かってアピールする振りが、シラっと覗けてしまう角度だ。だが、そうした事ばかりでもなさそうだ。これほど拍手が乏しく、呼び出しもなかった舞台は初めてである。再演とあって期待した『ゴミ、都市そして死』の方を観劇したが、色んな難点があった。初演データをみると、俳優は若干陣容が変わり、根拠はないが初演が優位にみえる(横町慶子、羽鳥名美子、宮崎吐夢の名がある。例えば宮崎吐夢の食った風情がこの芝居に合いそうである)。あと振付のスズキ拓朗はこの2年で評価を高め、再演チラシには大文字で出ていた。しかし劇中に出て来る踊りも今ひとつ洗練されておらず、それ以前に、踊りが出てくる意味が判然としない。歌も然り。度々、俳優が歌うが、伊藤ヨタロウや渚ようこ等「歌える人」以外の役もオンステージをやる。ドイツ語の古い歌のようで、「歌い上げる」のだがどうやら口パク。それと判るように見せたいのか、「歌っている様子」として見せたいのか、そもそも芝居全体の演出の方向性が見えない中では位置づけようがない、というのが正直な所。上手い下手の問題ではない(折角うまい歌声が響き渡っても、妙に虚しい空気が流れる)。緒川たまき以外の娼婦が「その他大勢」に見えてしまうのも悔しい。こういうのは嫌だ。
また、皆なぜか口跡・抑揚に問題あり、噛みはしないが、意味を伝える正しい抑揚で台詞が稽古されていない感じ。それでなくても抽象度の高い戯曲である。意味が入って来ない事がえらく多い。また肝心な言葉(語尾など)をつるっと言ってしまう(良い滑舌を見せて挽回したい?)。もう何なんだよ、と思ってしまう。
劇の作りの細かな部分が雑、投げやりに思える。その最たるものが、ラストだ。いくらか判り易く意味が頭に入ってくる会話の最後の言葉で、ストンと照明が落ちる。それまでの雑然とした流れを、せめて反芻する時間、闇を作ってくれるかと言えば、全く。さっさと照明が入り、既に一列に並んだ俳優(並ぶ動きがうっすら見えるので終演だと判る)。他の俳優も袖から登場するが、並んで礼をするまで拍手が起きない。拍手を惜しむ観客も観客だと感じたが、不消化感は確かに大いに残った。何しろラストさえ観客を突き放すのでは、作り手が真正面に向き合おうとしていないと、見えても仕方ない。
この歪な作りは、舞台美術が加藤ちかである事も意外だったが、せめて空間に美を追求してほしい所、これがシュール。背後に月面の円弧がドカンと置かれ、その前に安っぽい箱(娼婦の部屋などになる)があり、下手の外階段から箱の天井に上がれるがさほど活用されず、そこに昇って歌ったりする意味も不明。袖は左右三段、黒の替わりにレースが吊られ、クリスマスツリーにかけるような電飾が一本、アーチ状に渡してある。場面として出て来る(高級?)クラブを連想させ(歌もそこで歌っている態で挿入されるようだ)、またそこで展開する事がいかにも作り事な「お芝居」という演出意図もあるかも知れない。
とにかく全体に美的でなく、床も汚ない。「汚れた床」を示すなら、もっと収まりの良い色があったのでは・・ただ汚ない。でもやはりそれらを一つの統合された表現とするための、俳優によって作られるべき世界が、もう一つ作れていなかった事が敗因だろう。
ファスビンダーの戯曲は隠喩的で、書かれた当時の現実が踏まえられているのは確かだと思える。この芝居には娼婦たち、客引き(娼婦の一人の恋人=ヒモでもある)、金持ちのユダヤ人、ゲイたち、ナチスの残党らしき者などが出て来る(かの国の良識人にはカンに触る人物ばかり?)。特にナチス残党については、これを語る事じたいがスキャンダルな事であったと想像される。ドイツの病理=ホロコーストを生んだ=を象徴するナチスが現存して虐殺を悪びれず正当化する姿が、ドイツ人にどういう感覚を呼び起こさせたか‥翻って、日本はどうか、という感覚が舞台に何一つ流れていない(私は感じ取れなかった)。また、世間ズレした同業者の中で、独自な感覚を保っている娼婦(緒川たまき)の恋人は、彼女を客に売っていながら「やつの一物は大きかったのか」等と詰め寄り、彼女が「20㎝くらい」「ビール瓶の太さ」と答えると、「売女」と罵って殴る場面がある。サディスティックな感情を爆発させる瞬間とは、もっと自分の内奥に快楽が迸っているはずだし、冷酷で鋭利な姿に観客をハッとさせるものがあるはずだ(女も敢えて「でかい」を誇張し、挑発している感がある=屈折・頽廃)。ここは作り手としてはイメージしやすい場面だと思うが、いまいち迫れていない。
音楽(歌以外の)がまた奇妙で、心地良くない。中でもラストの音楽が最も安っぽく、観客の「共感」を拒否する。「観客を裏切る」的な演出は、伝えるべき事が伝わった上で効果を為すのであって‥。とにかく残念。
ただ、ファスビンダーのテキストに触れる機会とはなった。
付言:初演の紀伊國屋ホールと世田谷ではだいぶ劇場の趣きが違う。いかにもプロセミアムの枠の中で展開する「お芝居」を横から観る、という雰囲気の紀伊國屋には、あの舞台美術は有りだったかも知れない。
二都物語
新宿梁山泊
花園神社(東京都)
2015/06/20 (土) ~ 2015/06/28 (日)公演終了
満足度★★★★
梁山泊テントの中興の今
鄭義信作品と唐十郎作品の両輪で、テント主体で活動していた梁山泊が、劇場公演そして芝居砦へ拠点をシフト、その後韓国との交流や金守珍の映画製作もあったりする中、勢いのあるテント公演も維持、劇場公演では劇団1980との共同、そしてあの趙博の参入‥と様々な場面があった。そうした新宿梁山泊の幾つかのエポックの、また一つを数えたのが昨年のテントへの大鶴義丹の登場だ。これには過分に懐古趣味も入っている。先日逝去された扇田昭彦氏の著作に、私は当てられた一人。見てもいない60〜70年代のアングラ演劇を観た気になり、憧憬した。唐十郎作品を「飲み込む」のに歳月を要した自分だが「本家」の唐組に昨年初めて足を向けた。横国教授時代の氏の姿を一度目にした時とは変わり果て、杖をついて歩く姿に、涙した。その2ヶ月前梁山泊『ジャガーの眼』にて、大鶴は主役として舞台を走っていた。うまい(舞台)役者ではないと予想していたが、予想に違わず。にもかかわらず(親の七光でなく)遺伝子というものは何か不思議な働きをするものか、大鶴義丹というコナレない体に父の魂が乗り移りまるで操られ、そして本人は必死に付いて行こうともがく姿が見えた。理屈抜きとはこの事で、そう見えてしまう自分に客観的な評価は無理である。 ただ、そこには「受け継いでほしい」と思わせるものがある、という事は言えるだろう。何をか。‥唐十郎の戯曲にある、底辺からの声、祈りのようなもの?人間の根本に温かく寄り添い、永遠の正義としてあろうとする精神、とでも言おうか。(格好よすぎか..)
そして今年。大鶴義丹はそこに居た。韓国公演に向けて作った40年以上前の作品の再演という事で、話の通りがシンプルである分、「飛躍しまくり度」は影を潜めた感じがした。それと、玄界灘を渡って‥‥朝鮮から日本へ、日本から朝鮮へ‥‥数多の涙を飲み込んだ歴史の海に、思いを馳せるところへ観客を導くのには、結構高いハードルがあったと思う。だがもう一点、「理屈抜き」の快楽がテント公演にはつきもの、今回も幻惑されたがこれは実際にその場で体感するしか。
テント芝居を本気で作り込み公演を打つ事は、無駄を憚る世情ではきっと疎まれて来るに違いない。梁山泊のテントが未だ健在である時代を、来年もまたその先も噛みしめたいものだ。
『冒険王』『新・冒険王』
青年団
吉祥寺シアター(東京都)
2015/06/12 (金) ~ 2015/06/29 (月)公演終了
満足度★★★★
古き良きイスタンブールのあの安宿で
『冒険王』は純正<平田オリザ>タッチの現代口語演劇、『新・・』はソン・ギウンとの共同脚本・演出、と気づかなかった程『冒険王』の延長の態だが、韓国人観光客役を演ずる韓国人俳優が半数近く参入する事による変化はあった。韓国人の居る現代口語演劇、という実態を指しているに過ぎないかも知れないが。「純正」と書いたが、日本人だけが登場する「現代口語」芝居が辿ってしまうある種のパターンが、見られると途端に眠くなってしまい、前半の多くのエピソードをすっ飛ばしてしまった。もっとも後半の重要エピソードを成立させる伏線は、後半だけ見ていても判る。『冒険王』は平田オリザの実体験に基づく事から、その時代の断面をイスタンブールのバックパッカーたちという切り口から見せてもらってる(歴史を覗き見してる)感覚があり、平田の個人史と世界史の重なり合いを、また平田氏が味わっただろう感覚を、追体験するものとなっていた。<果てしなく続くと思われる現状は、たやすく変化する>。。
一方『新・冒険王』は、そこに登場する韓国人たちのリアルが、劇の行方を追いかける観客の関心を牽引し続ける。韓国語、英語、日本語を介して行なわれるコミュニケーションの様々なパターンが、克明に描かれていた所は唸った(海外経験の多い平田氏にとってはそれらは「日常」の範囲内であるかも知れないが)。日本人(側)の中には一人の在日が居り、韓国語は少し習っていて判る。見学にやって来るアルメニア系アメリカ人の女性は日本語、韓国語、中国語もある程度話すという。韓国人青年のガールフレンドになった日本人女性は日常会話程度は板について一緒にサッカーの応援をしている。個々が抱える問題も劇中に語られ、各様の人生模様があり、その中に国籍・民族を違えたゆえの関係の模様がある。民族問題が決して前に押し出されていない所が「リアル」である。
戯曲としての完成度は『冒険王』の方にありそうだが、外国人俳優の参入で民族的カオス状態がそのままリアルに再現されている事じたいが幸福だと感じてしまう。イスタンブルの良き時代へのノスタルジーをくすぐられた(行った事がないにも関わらず‥)。
三人吉三
木ノ下歌舞伎
東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)
2015/06/13 (土) ~ 2015/06/21 (日)公演終了
満足度★★★★
真正面から「演劇」する。
木ノ下歌舞伎弐度目。休憩弐回の五時間コースは歌舞伎公演並みだがこれが贅沢。歌舞伎版三人吉三を観た事はなく、粗筋も知らないが、「思いがけなく手に入る百両」の七五調のくだりは有名、でもって三人の「吉三」(お嬢と後二人の)の話とだけは知っていた。河竹黙阿弥は面白い話を書いたものだし、上演すれば楽し。その特徴、歌舞伎ではキメとなる長台詞や二人(あるいは三人)合わせて言う台詞などでは原典どおり語り、他は現代語に翻訳してある。衣裳も現代の衣服に「役」を示す符牒のような飾りや羽織などを付加してある。でもって音楽はデスメタル系? 融合のし具合が絶妙だが、その演出が「実験」のためでなく、きっちり芝居を見せる目的で施されており、しかも成功しているのはそう目にしないように思う。5時間がこれほど苦痛でないとは‥。
廃墟
劇団東演
東演パラータ(東京都)
2015/06/12 (金) ~ 2015/06/23 (火)公演終了
満足度★★★★
「戦後日本」の根っこを掘り出す執念の戯曲
戦前・戦後と新劇界の第一線に居た劇作家三好十郎の、敗戦直後の作品だという。雑誌に掲載されたこの戯曲に三好は魂をつぎ込んだ。その事がダイレクトに感じられる終盤の対話、というより口論、否、議論。それぞれの背景から絞り出すように吐かれる言葉。そこには戦後の「政治の季節」の巷で交わされた典型的な議論、物言いが凝縮されて書き出されている、と同時に、現在進行形で新たな時を刻んでいるかのように固唾を飲んで見させる(身につまされる)切迫感を持っていた。
書かれた当時は物資不足の混乱の下、作品の登場人物らも食糧に欠乏し苦吟する姿が、真実らしい肌合いで彫刻のように浮かび上がる。爆撃にやられて既に廃墟にひとしいこの家には、労働運動に勤しむ病弱の長男と、特攻帰りのぐれた次男、顔半分が焼けただれているが健気に皆に食事を工面する妹、自らの意思で教壇を離れた大学教授の父、世慣れた風情だが今は身を寄せるその弟、男女関係の話の中心となる女中、次男が連れてきたパンパン風の女、家賃を取り立てに来た女、父の教え子といった者らが出入りする。時代の矛盾をそれぞれに体現する彼らは、貧乏ゆえに「助け合う」、といったヒューマニズムの段階をとうに通り越して、過去を引きずりながら手のひらを返したような民主平和の日本とどう折合いを付けるかに苦しみ、時に食糧や収入よりも優先する「生きる根拠」としての思想の切実さがほとばしる。彼らは当時の日本人の根底にあったものをそれぞれの立場から言葉化し、背後に居る多くを代弁しつつ激論を戦わせる。そこには悲哀があり、敗北主義も横切るが、最後まで己の言い分を言い切った(三好に言わせられた)彼らは作品の中で昇華した。物語的に解消したのでなく、彼らをどこかで見ている人達(即ち我々)の前で言葉を(中空に架空の石板でもあるなら)刻印した、という事において昇華した。 戦争にまつわる自分たちの責任、また責任の無さについての議論は、この時から今に続き、今なお燻っている。
『タガタリススムの、的、な。』
舞台芸術集団 地下空港
座・高円寺1(東京都)
2015/06/04 (木) ~ 2015/06/07 (日)公演終了
満足度★★★★
「世界観」を投影した空間の心地よさ
「装置」と照明、音(楽)の贅沢さに尽きる。座高円寺1を見渡す会場は壮観で圧巻。座席の組み方がユニークで、何列にも渡したプラットホーム(というか床)を見上げる対面式(宴会場式)の席がズラリと場内を埋め、両サイドに二列の座席が組まれ、これを見下ろす格好になる。私の座った席はそれに加え、手前の壁に一列並べられた座席だった(恐らく来場者多数につき設えたものだろう‥が、当日券目当てで直前まで入れるかどうかと言われてた割に私の隣数席は終演まで空いてた)。
劇場の壁に似た色彩の軍隊服を揃えた俳優たちは、広大な場内のあちこちで一場面を演じたかと思えば移動し、走り回る。
ストーリーは電脳世界の中で起きてるらしいお話で、大企業の秘密に勇気をもって迫るという「肩入れしたい」筋だったが、どうも電脳世界と現実世界の区別が付きにくく、ウェルメイド風のエンディングも手伝って「切実さ」がぼやけてしまった。
しかしあの空間は忘れ難い。1階ロビーとの間を仕切る大扉がゆっくりと閉まり、開演すると、始めロビーから子供の騒ぎ声が漏れて来ていた。が、全く気にならない、強固な「世界」が出来ていた。憂いを帯びた世界を出現させた事が、私の評価の全て。
ハンサムな大悟
ロロ
こまばアゴラ劇場(東京都)
2015/06/04 (木) ~ 2015/06/14 (日)公演終了
満足度★★★★
ロロ2度目
同じアゴラでやった前公演は記憶に残らなかったが、今回のは引っかかりがあった。夢の中の話のように奇想天外に一人の男の成長のエピソードが語られて行く。特別な運命を担った人物に対する語り口で。でもそれらは全体にメタファーのような所があって、人の人生というものはこのように語り得るものだ、という余白を残した語りに感じられた。「普遍」という事だろうか。。思いつくままに綴った物語が作家の手から舞台、俳優の身体に委ねられ、立ち上がった「形」はなかなか躍動的であった。
山猫からの手紙<前売完売/当日券若干あり>
劇団青年座
青年座劇場(東京都)
2015/05/29 (金) ~ 2015/06/07 (日)公演終了
満足度★★★
劇的(ドラマチック)と不条理の間
当日券で観た。宮沢賢治の何かの作品を下敷きに、他の宮沢作品の登場人物も出て来たり、賢治の世界に遊んだ不条理(?)劇のよう。開演後、「普通の芝居」が始まった感じで、「別役作品がこれで通るの?」と訝りつつ注視する。演技はリアリズム。終盤、「劇的」な、詩的な場面になって、ここにピークを持って来てるな、と思う。(本もそう書いてはいるんだろうが)そういう解釈も、可であるかな、とは思った。が、全編にはやはり抽象性が流れており、最後は何となくクライマックスが味わえたからスッキリ・・で帰って良いのかと、疑問がよぎる。答えは「それ」しか無いと勘違いさせる事になってないか。。
ただ、その終盤からラストへのシーンは綺麗だった。・・その事しか、憶えていない。
別役実フェスティバル、もう少し追いかけてみたい。
カナリヤ【追加公演決定!3日19時】
日本のラジオ
新宿眼科画廊(東京都)
2015/05/29 (金) ~ 2015/06/03 (水)公演終了
満足度★★★
カルトの問題、社会の問題
新宿眼科画廊地下1の壁や床もそのまま、「借景」のようにうまく使っていて、閉じた空間らしさも出ていた。
中心人物、というか、俯瞰的なまなざしを持つキーパーソンが林アンという娘。そのキャラが独特で、どう造形させ、存在させたのか興味深かったが、
あれこれすっ飛ばして結論的な事を書けば・・・、この娘のような人物が生きている事が「現代」である、という一文で十分な感もある。
特殊な状況といえる設定で、人物たちの佇まい、ふるまいが、「あり得る」ように造形されていた事で、挙動や事の成り行きに最後まで注視をさせられた。
女のみち2012 再演
ブス会*
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2015/05/22 (金) ~ 2015/05/31 (日)公演終了
満足度★★★★
女の応援歌は屋根まで飛んで、消えた。
初ブス会「男たらし」は緻密にリアルに作られた芝居だったが、「女のみち2012」(再演)は祝祭性の勝った芝居にみえた。アート指向のシアターイーストは猥雑さを漂白する。のっけからのけぞる××シーンのインパクトについて振り返ると、テレビ視聴率的な反応を、どうも観客に促すところがある、そういう空気が出来てしまう劇場なのではないか。女はきわどい事を口走ったり艶笑なシーンが訪れると、終始、男が反応よく笑いを上げた(会場の笑いの声は男であった)。「俺はこれを楽しんでるぜ」アピールが、舞台上の次の台詞をしばしば邪魔して、どうにも気になったが、これは「演劇=コミュニケーション」たる証しだろうか。
作り手自身が楽しんでいる、それは確かに思えるが、切実さと裏腹な台詞にも男の笑い声が被さった。人間の滑稽さを笑うとは、自分自身を笑う行為だと思うが、女の本音を男は本心から自らの事のように笑えるのか・・・。
AV業界復帰した女の「痛さ」は、よくよく想像すれば、大変痛い。その痛さあっての、ラストだったんだな。・・会場を去りぎわ、まぶたを激しく拭いている女性(単にアレルギーだったかも、だが・・)が目に入った時、「笑う」しか能のなかった己を、思わず省みた。
戯作者銘々伝
こまつ座
紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)
2015/05/24 (日) ~ 2015/06/14 (日)公演終了
満足度★★★
井上ひさしの大きな背中
今回の舞台化の「難しさ」と、「頑張り」を見届けた3時間。今作は、遺された原案から立ち上げた「木の上の軍隊」(蓬莱隆太作)と異なり、完成された既存のコント作品を構成した「てんぷくトリオのコント」とも違う。同じ小説の戯曲化でも作者本人による「それからのブンのフン」は、さすがに完成度が高い(以上が私の観劇したこまつ座の全て)。
江戸の戯作者たちの本人語り形式の短編をもとに、一つの舞台を立ち上げた本作。東氏曰く「井上氏のどの言葉も捨てられず、最初は長大な本になってしまった」のを、随分刈り取ったのだそうだが、十分に刈り取り切れたかどうか・・と感じた。しかし、凝縮して行くことで物語の膨らみがしぼんでしまわなかったかどうか・・やはり今回の形で収まる以外なかったのか・・・そんな事を思った。
奇なる人間たちのドラマ、それも実在した人たちの・・。「切れない」というのが何となく判る。既に原作の良さを知っている人は、舞台化を祝福した事だろうけれども。
数人登場する戯作者の一人、山東京伝が第二幕の中心になり、花火職人とのエピソードに集中して行くと、ドラマとして見入らせるものがあるが、「戯作者」の群像は後退し、階級社会の下で心意気だけはたくましく・・斜にみる心を譲らない「庶民の代弁者」の顔が、シリアスの味付で揺らぐ気がした。もっとも「群像」が一幕でうまく描けていたかと言うと・・意外と東氏の苦労が滲んだように思う。(二幕が本領発揮にみえた)
井上ひさしはなぜ戯作者を描き、自ら戯作者と名乗ったのか。戯作者の精神とは何か・・・終盤でその事をどうにか台詞に語らせていたように思った。が、しかし井上ひさしという作家の背中はつくづくでかい。
40minutes VOL2
TABACCHI
スクエア荏原・ひらつかホール(東京都)
2015/05/27 (水) ~ 2015/05/30 (土)公演終了
満足度★★★★
三団体コンペ企画、コンテンツは悪くない。
舞台装置はさほど凝らず、照明は三団体共通発注、会場はさほど高くなさそう(調べてないが)。一団体に100万を授与するのに、参加団体にあまりリスキーな条件は出せないだろう。3500円×150人×6ステージ、こう仮に計算するとチケット収入300万円程度。200万を制作費・スタッフ費用に当てる。出来無くないか・・そんな事を考えながら芝居を観ていた(そういう時間も、あった)。
「ゆれる」を共通テーマとは、中々に広い。が、緩い縛りである「ゆれる」から三団体が発想したそれぞれの「ゆれる」には、共通性があった。不安定さ、動揺・・・、と書いてみれば普通にドラマの要素だったりするけれど、「ゆれる」というテーマに後押しされた三団体なりの思い切った劇構築を目にする事ができたように思う。
それにしても全く異なる作風、指向なのをみて、ふと客層が気になった。投票するのは自分に「合った」芝居になるだろう。どの団体がより多く集客したかも投票に影響しそうだ。あと、上演順序は毎回変わるのだろうか・・最後にやったのが有利ではないか・・・そんな事も考えた。
盗賊と花嫁【公演終了しました!ご来場誠にありがとうございました!】
くちびるの会
【閉館】SPACE 雑遊(東京都)
2015/05/20 (水) ~ 2015/05/24 (日)公演終了
満足度★★★
磨き切れている訳ではないが翻案の意図が貫徹された舞台
舞台というか、床の上なので、パフォーマンスというのがイメージに近い。言葉を言の葉と言い、狐憑きが何かの隠喩であるかのような、含みを持った「言い回し」の多用が、時に駄洒落レベルに聞こえたりもあるが、俳優の「型」を持った動き・素早い滑らかな場面転換と、その台詞の謎っぽさが相まって、全体のリズムを作っていた。物語としては、坂口安吾の書いたお話の「都」(都会)に着目し、人間を狂わせる種子の存在を、「狐」という言葉に代理させて、また実際に「狐」の役を登場させ、人々の間に齟齬を起こして行く様子を「動き」で表現したりしている。 演技は単調(感情が一色)だったり、声をそこまで張り上げる台詞かな・・と引きそうな所も正直あったが、中盤以降見入り、終了時には一本通った出し物を観た、と感じた。俳優としては「狐」役の奮闘が劇世界の構築にかなり貢献していた。