幕が上がる
パルコ・プロデュース
Zeppブルーシアター六本木(東京都)
2015/05/01 (金) ~ 2015/05/24 (日)公演終了
満足度★★★★
輝く星のような。。
チケットが取れたので、映画版を見るのは控えた。平田オリザ原作脚本というのもそうだが、未知なる<ももクロ>、一味違うアイドルだと真顔で論じる評論家や劇評家がいたりで、気にしていたから舞台化を必ず行こう、行きたいと思っていた。メンバーが5人である事も知らない私は、妙に5人だけ目立つ演出が「序列」の反映かと憶測するような体たらくで、どこかで見たと思った役者は青年団だったり、後で判明して納得したような案配である。劇中、体調不良で出て来ない部員が後から鳴り物入りで拍手を浴びる人気メンバーか、と思えばそんな風でも無かったり。前知識を持たなさ過ぎってのもどうかという話だが、全くのサラで見た新鮮さは替え難い。
高校演劇部の話。取り組んでいるのは『銀河鉄道の夜』。被災地の事。ネタとしてはベタなものばかりだが、ネタに依存せず「現代口語」の日常性(の中の笑い)を舞台上に展開させた脚本、そして「真情あふるる」銀河鉄道の台詞を輝かせる事のできる、ももクロ始め若いメンバー達の透明感が、何より替え難い武器となっていた。舞台美術も良い。ももクロのメンバーに「歌」を披露させる脚本上の仕掛けも憎い。女性だけなのに男性不在の不自然さがない。性別を超越した佇まい、恋だけじゃない青春・・。
主要メンバーの一部は映像向きの演技で、声量、明瞭さに欠く部分もある。だが今回初めてという舞台の取り組みには、観客と相見えて変化していく振れ幅が大いに期待される(私もそれゆえ後半日程を希望したが2日目しか取れず、残念)。演劇の動的な躍動、瞬間を生きる感覚を発見し、客席にフィードバックして行ってほしい。
ナカゴー特別劇場vol.14『堀船の友人/牛泥棒』
ナカゴー
ムーブ町屋(4階)ハイビジョンルーム(東京都)
2015/05/01 (金) ~ 2015/05/05 (火)公演終了
満足度★★★★
フェラ・クティに見劣りしないラディカル
開場時間にフェラクティの「ゾンビ」が流れ、転換にも・・。ぶっ飛んでる。ゲロゲロ。‥少し短めの前半、少し長めの後半。辻褄や心理的統合を超越した狂気の前半と、感情表出に一癖二癖の相互作用が異常をもたらす(その中に真情も覗く)後半と。俳優はダブっておらず全身全霊で全力投球。これがナカゴーの真骨頂ということか。
全員がこぞって異常化せず、一人の逸脱・暴走を「受ける側」がしっかり反応し身の置き所を選択してその場に居る様子が見える。破綻していない。だから笑えるのだろう。俳優の「仕事」に敬意を表す。
『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』
ロズギル上演委員会
OFF OFFシアター(東京都)
2015/05/04 (月) ~ 2015/05/31 (日)公演終了
満足度★★★★
トム・ストッパードの代表的戯曲
やっと観れた。しかも上質な舞台で出会えた事は嬉しい。幸運だ。諸々ノーチェックで演出は鵜山氏と後で気づく・・頷ける。演出の趣向の数々。俳優の立ち方の良さ。OFFOFFシアターの小さな空間に、演劇的遊戯の世界が広がった。ほぼ二人芝居。『ゴドー』を思わせる「終わりなき現在」が続くようでいて(またそんな日々こそ似合いの二人だったものが)、運命は二人を無慈悲に飲み込んで行く・・。母体となる『ハムレット』の<本編>で展開する(既知の)場面は、同じ俳優が演じた映像として挿入され、二人にも絡む。生身の二人の間に流れる時間と、『ハムレット』<本編>の時間、両次元のズレが明瞭になる。不条理劇に思えた戯曲がこうなるのか・・感慨。出続けの二人に、拍手鳴り止まず。共感。
J=P・サルトル「出口なし」フェスティバル
die pratze
d-倉庫(東京都)
2015/04/28 (火) ~ 2015/05/12 (火)公演終了
満足度★★★
サルトル十人十色
10団体、5組が2〜3ステージ行なう企画。既知の団体は一つ。名前のみ知る2団体(楽園王、IDIOT SAVANT)。後は全く知らないが、今年が第5回というので、一定の成果を示してきた証だろうと、観に行く事にした。全部は観れてないが3回足を運んで、d倉庫は毎回満席。毎回同じ客層ではなく、それぞれの団体目当ての客の割合が高いようだ。『出口なし』とは地獄で出会った三人が過去を抱えながら現在(三人の関係性)に苦悩する話のようだが、パンフに書かれた簡単な筋書きを頼りに、各団体の解釈による1時間のステージを観賞する。興味深い企画だ。1時間という制約は戯曲をそのままやらせず、作り手独自の切り口を要求する。6団体(一部しか見れなかったものもあるが)見て来て漸く『出口なし』という戯曲の世界が見えて来た、という感覚がある。各パフォーマンスは、舞踊ないし身体パフォーマンス系と、演劇系が半々で一組に両方が入るように組み合わされているようだ。課題そのものが難しいのだろうとは思うが、不足感の残る出し物にはなる。完成度を求めず、それぞれの持ち味を楽しむ、それには一つ観るのでは足らないだろう。一つの完成度の高いものも中にはある。いずれ、戯曲を踏まえようとすればするほどパフォーマンスとして判りにくくなり、戯曲からの飛躍が過ぎると元が判らなくなる、という矛盾の中での葛藤の代物を目にしていると思えば、嗜虐的な愉しみもなくはない。
1st.楽園王とIDIOT SAVANT。前者は、戯曲を知らない私には「話の構造」を判りやすく大掴みに伝える意図が感じられ、好感が持てた。後者は抽象的、というより断片的にしか戯曲との接点が見えず、踊りは美しい動きであるより「そこにある秩序を壊す」的な動きを多用し、構成も含めて意味がよく見えない。サルトルとボーヴォワールが登場した最初の場面は期待させたがサルトル(役の人)が前面に出過ぎ、作品でなくサルトルでまとめてお茶を濁した感が強し。
2nd.石本華子+Rosa..とaji。前者はだいぶ遅れて観賞、後者は好感触だったが内容を大分忘れて思い出せない(アフタートークの印象しか..)。ただ石本の踊りは端麗でうまく、本人から客席への語りや映像中にある「質問」がテキストに発するもので『出口なし』からの飛躍度は高いが一まとまりのメッセージを込めた出し物として成立してた感じはあった。
3rd.shelfと初期型。後者は同企画の常連らしく、「毎回こんな感じ」と本人談。前者は開演前から独自の衣裳を着込んだ4人(登場人物は3人+ボーイで4人)が横一列に立ち、若干白塗り。開始後、初演年、訳者名、ト書きから読み始め、客との対面の導入が良いと感じたが、以後はリーディングが続く。大幅カットしたはずの戯曲をずっと読み進めるので、多分演技上、発語上の判らなさが生じていた(眠気の理由はそれだと言うのは不当か?)。削ぎ落とす演出、と本人談。だが何らかの技巧的演出による「説明」は必要だったのでは。後者は地獄の三人の役+二人(ボーイ役か舞台回し的な役を担う)が、次々と場面を作って行く。質問コーナーで互いの事を聞いたり(「死因」「どうして地獄に来たのか」等と書かれた紙が出る)、一人一人のそれぞれへの思いをゼスチュアで表現したり、歌ったり(イネス役)、踊ったり(ガルサン役、エステル役)、二人が抱えた鉄棒で逆上がりや前転をやったりと目まぐるしい。しかしそれらは現代からサルトル、また三人の人物を覗き見ようとする観客の欲求に応える形になっていてこれも好感が持てた。
残る4団体も楽しみだが、全て見れるかどうか・・
ゼブラ
ONEOR8
【閉館】SPACE 雑遊(東京都)
2015/04/21 (火) ~ 2015/04/26 (日)公演終了
満足度★★★★
初ONEOR8を雑遊で。
「雑遊はハズさない」とは成る程その通り、と思い当たり、当日券に並んで初観劇した。劇団<B面>公演とのこと。何度も再演した演目を、団員による企画で上演。それも尤もでうまく出来た本だった。それ以上に俳優が良く、役にハマってえも言われぬ。四人姉妹の現在と過去。既婚の娘二人の旦那、娘に思いを寄せる頭の足りない近所の男、間もなく結婚する娘の婚約者、葬儀社の男たち(兄弟でやって来る設定がうまい。笑える会話が満載)。描き分けられた人物の「らしさ」が悉く的を射ているので「うん」と納得させられる。いつしか全て納得したがってる自分がいる。客の思いを乗せ、そこは逆に裏切ってほしいがそれはなく、一応の幸福結末、そこが不満と言えば不満だが、そのための二時間ではないぞよ、という所は押さえて、最後はきちんと、ダサく終る。笑えた数だけ虚しくなる事のない、衒わずまっすぐに綴られた家族とそれに繋がる人々の物語。であった。
ゆうれいを踏んだ
突劇金魚
こまばアゴラ劇場(東京都)
2015/04/25 (土) ~ 2015/04/29 (水)公演終了
満足度★★★★
2回+αの突劇。一本通るもの有り
昨年の「漏れて100年」(同じこまばアゴラ)で興味が湧き、DVD「富豪タイフーン」を購入して観た。そして今回、当り前だが一本通じる何かがあって、それが自分に無いものなので、見えない水底を探るようなふわっとした気分である。一見突飛なキワモノな設定と人物が、小細工を弄しない舞台上で、目の前に生きてそこに居るという奇妙な感覚が、面白い。役者の存在が大きい。手づくり感溢れる?装置や道具も昨年観たのに共通するが、それしきで壊れない世界がある。最初にみえてなかったものが後から付け加わって来るが、後づけ(平田オリザの言う後出しジャンケン)の語り方ではない(後付け型の好例は拙文)。
別の言い方で言えば、戯曲の<謎かけ>の仕方が特徴的だ。謎は多いが「この疑問を解きたい」という欲求がさほど喚起されない。謎(変数)を解くための方程式が謎の数に及ばないので、解に至らない(変数がxy二つなら方程式も二つ必要)。謎は謎のまま行くのだな、と序盤で悟る。もっとも、説明が少なすぎれば観客の関心は薄まる。この話は確実にどこかへ向かっていると感じるに足る程度のヒントは残しつつ、その方向を限定しない書き方、タッチである。だから前のめりな観劇態度にならないのだが、それでも見続けてしまう。謎の代表選手は登場人物らで、主人公も例外でない。他の怪人らは元より、主人公にさえ感情移入しづらい事は、話の行方への関心を減らしているがそれはデメリットでなく、持ち味である。
登場するキワモノな人々は、マジョリティを横目で見ながら自分らの生き場所を探しているマイノリティ。そういう人達に遭遇するべく運命づけられたかような主人公の「不条理」でもあるが、諸々省略しながらも「出会い」の描き方は本質を穿っている。彼らのキワモノさを高めているのは振る舞いであるが、行為の本質は本音の吐露だ(対話が重ねられる毎に本質が顕われる見事な台詞だ)。振る舞いの奇異さゆえに感情移入を丁重に拒むが、実は身につまされるものがある。
禁断の裸体 -Toda Nudez Será Castigada-
Bunkamura
Bunkamuraシアターコクーン(東京都)
2015/04/04 (土) ~ 2015/04/25 (土)公演終了
満足度★★★★
不具合もありつつ‥緻密さを醸す演出
ブラジル戯曲だが三浦大輔氏が書きそうな戯曲でもあり、無理仕事の感は全く無し(同じく他者作品を演出した『ストリッパー物語』は観ていないのでそれとの比較にあらず)。ただ、性に対する禁忌の強いカトリック圏の文化に根ざして書かれた話は「キリスト教」に近い場所に居る自分にとっても理解しづらい部分があった。この部分が「不具合」にも関わる。
異文化への想像力を動員させられる作品ではあったが、美術に十字架を多用した演出はその意味で効果的におもわれた。装置もよく出来ており、乾燥した固い土か岩を削って作ったような(南米にありそうな)白茶けた造形物が小高い丘のように中央に立つ。下手には袖側へ湾曲した長い階段、中央からもう一つの階段が中段あたりのエリアに至り、そこから更に下手側に昇れば最上段のエリア(先の階段の上)がある。上手は建造物を支える数本の柱が見え、奥は暗い。両階段上の各エリアと舞台前面の広いエリアの三つが、シーンごとに道具を変えて場所を表現する。前面エリアでは、下手斜め奥から別荘の部屋が、(暗転中で判らないが多分)上手から小さな部屋のセットが運び込まれ、中段・上段の小エリアでは短い挿入エピソードに多用され、上中下と階段を組み合わせたバリエーションが多彩で、場面のリアルさにこだわる三浦氏ならではの凝った装置となっていた。
さて、俳優と演技については内容に触れるのでネタバレにて。
ラッパー・イン・ザ・ダーク
東葛スポーツ
3331 Arts Chiyoda(東京都)
2015/04/16 (木) ~ 2015/04/21 (火)公演終了
満足度★★★★
ラップ率高し。タイトルがそうだし。
3回目だか4回目だかの観賞。スポーツとはスポーツ紙、要は時事的な話題やゴシップを扱うもので、スポーツにこだわった芝居をやる団体(当初そう思ったが)ではなかった。題材を映像から引っ張って来て様々な話題を繋げたり俳優にパフォーマンスさせたりラップさせたりする。女優はサングラスを掛ける。絶えず映像が流れている。役者がこれにアテレコしたりする。ラップもする。台詞に合わせて気の利いた映像がチョイスされたりする。前々回観た時の題材は上岡龍太郎「EXテレビ」。これ確かリアルタイムで見た。煙草を吹かしながら偉そうな奴だと思ったのをありありと思い出した。この時はかなり長い喋りを主宰の金山氏がやっていた。
今回の題材はラースフォントリアー監督『ダンサー・イン・ザ・ダーク』。悲惨さの中の高潔さを歌い上げた作品。映像では他に中原俊監督『櫻の園』も扱っていた。どちらも世界観のある作品で、知る人には効果大。知らない人にも「これは‥」と見入ってしまうシーンを選び、語りやアテレコが重なると、「オフザケ」してても映像の力で不思議にメッセージが伝わって来たりする。
ラップには字幕が出る。タイトルに打っただけあって、ラップが大半を占めた。日常では繋がらなない事柄を繋げ、脳のシナプスはフル稼働する。この切り口が鋭い。今回主に動く5名の女子の存在感が多大。最初にマイクを持って毒舌を吐く、知る人ぞ知る佐々木幸子は以前別の舞台で4女優がガナリを上げる中、ガナっても耳に心地良い声が印象的であった。その風貌に滲む狂気と若干エロ(叱られるか)のキャラが今回も炸裂し、ラップの声はやはり気持ちよく、遊園地再生の牛尾との半ばレギュラーの2人の掛け合いが鋭い滑舌合戦と化して見物であった。ラップは字幕を見ずに言う。頭に入れてある。他の女優も個性が滲み出て5人の組合せは絶品と言えた。終盤で台詞や口跡が怪しくなる所もあったが、これだけやるのでもちょっとした感動である。
冒頭の毒舌は今回口コミで急増したらしい観客に当てた皮肉で、「だって、どうなの?ってレベルでしょ演劇として」と自嘲。それはその通り、と言ってしまったほうが良いかも知れない。演劇としては「亜流」、映像に頼り過ぎ、など意見はあるに違いない。が、映像とコトバをコラージュし構成した「作品」は心地良く、ゴシップ・ネタは数多く、今回は例えば曾野綾子が「差別と区別は違う」とのたまった映像をピックアップしたり、よく判らないものも含めて脳内刺激薬物がふんだんだ。個人的には『櫻の園』やハードロック(ツェッペリンとかディープパープル)に関する言及が何故かラップに織り込まれたり、懐かしさが巡る心地良さも。
で、結局全体これは何なんだ? については当分説明できそうにない。演劇である事は確かだ。スポーツ紙の無い時代、新聞代わりに芝居を公演していた時代もあったのだから。大手マスコミのニュース番組は今後ますます大本営発表機関と化す事だろう。演劇が持つメディアの機能は侮れない。
ふつうのひとびと
玉田企画
アトリエ春風舎(東京都)
2015/04/17 (金) ~ 2015/04/26 (日)公演終了
満足度★★★
物語性のある玉田企画劇
この日のアフタートークによばれた歌人枡野氏は、「物語性があった」事が従来の玉田企画と異なると指摘し、それはそれで良いのだが、と前置きしつつ、「物語」の限界性を語っていた。玉田氏はこれまでの思い付いた場面を並べるだけでなく、全体としてまとまりのある物語を描く事を目標にして書き、その苦労があったと述べていた。
私はその「物語性」のお陰で楽しめた。ただそれを(他の芝居のように)貫徹せず、抜いてる所は玉田企画ならでは(といっても前回と今回2度しか見てないが‥)と感じた。
自分の願望を反映した「物語」なら歓迎で、そうとも言えない場合に「物語」への危惧を感じる、という事ではないのか。と、仮説してみた。完成度の高い人情劇は、その架空の設定の中ではリアルであり、現実には見られない事かもしれないが、「あり得る」現実という意味では希望は持てる、的な意味合いで歓迎されるし、演劇は「あった」事として観客の胸にそれを刻むだけの力がある。人間、捨てたものではない、など。この「物語」が、どれだけ現実から捨象するものを少なくとどめられるか、言い換えれば様々な人間社会の困難を含ませ得るか、によって、希望の深さ、感動の深さも違ってくる、という事もある。
だが結局の所、「まとまった物語を作る」という作業の中に、無理を抱え込む面があり、その弊害を枡野氏は強く感じる人なのかもしれない。「嘘」が混じること。
私は、ドラマの完成度について懐疑的な人間だが、感動を求める自分は確実にある。感動が心に何かを刻むのであって、一見何でもない場面でも、その人の中に関連づける何かがあれば、記憶に残る。「物語性」の少ない方が深読みや主観的な解釈が「可能」なのは確かでも、ある場面や台詞単独では心に残りづらい。それは「感動」(感慨とか感興とかぐっと来るとかオッと思うとか)とセットでないからだ。物語はその意味でとても有効なのだ。が、ウェルメイドな物語を指向すると現実から離れるという事も起き、その時間は楽しくても「現実」との繋がりが希薄である分だけ記憶に殆ど残らない、というのも事実であるように思われる。完成度というのは眉唾なのである。引っかかりの無い演劇を演劇と認めて良いのか私は疑問である。
一般論で終わりそうだが・・枡野氏の指摘の通り、この芝居はキャラクターを的確に演じた俳優の優れた働きで、お話の世界がしっかり構築されていた。
DRUMMING(ドラミング)
Rosas
東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)
2015/04/16 (木) ~ 2015/04/18 (土)公演終了
満足度★★★★
怒濤の一時間
総勢12人の挙動を凝視した1時間は、スティーヴ・ライヒの「ドラミング」に圧倒された1時間であると共にダンスがどれだけこれに肉薄するかを凝視する1時間でもあった。
私は対抗し得ていないように見えた。ただし、上手の二階席前方から観たため、斜め上から覗きこむ格好になる。視線がもっと下なら、総勢十二人による単独の動きや複数のコンビネーションが並立して進行し、スクランブル交差点のように中央でぶつからずに擦れ違ったりする様などが「凄い」と思わせたかも知れないと思った。
ミニマルミュージックの大御所とか、代表的作曲家などと言われるスティーヴ・ライヒの事も、ミニマル‥のほうも恥ずかしながら今回の公演で知るまで良く知らなかった。ミニマルと言えば単調な、同じフレーズの繰り返しというイメージ。しかしスティーヴの音源を聴くと斬新である。「繰り返し」というので電子音楽を想像するとこれが違う。件の「ドラミング」(1971)は複数の演奏家が交替しながら寸分違わぬアンサンブルで1時間、スティックとマレットを振り続ける「演奏」である事に醍醐味がある。曲は4景あり、太鼓(ボンゴ)→ビブラフォン(木琴)→グロッケン(鉄琴)→太鼓と演奏楽器が変わり、ボイスが入る部分もある。1拍が1秒と少し、これを12分割した12連符がドラミングの一貫して流れるリズムだ。速めの6拍子+ウラ拍子付きとイメージされたし。6である所がミソで、リズムの相がコーラスを重ねるごとに少しずつ変化して行く。ウラを含めた半拍を6とし、1打=6と表記すると、2+4(タタン)や2+2+2(タタタ)が同系、これに2番目、6番目のウラが混入しても同系だが、4つ目が入って来てこの音が強くなると3+3(1.5倍のタンタン)と違う相になる。太鼓にはチューニングの高低があり、木琴鉄琴にも勿論あるので「微妙な変化」のグラデーョンは細かく2拍か4拍ごとに変えて来てるんじゃないかという程、常に動いている底知れなさが「ドラミング」にはある。
1997年初演だというローザスの「ドラミング」はどうか。開演時刻の前から3、4人の踊り手が袖に近い所で客席の方を見るともなしに見て立っている。まだ始められないの?と待ってる風にも見えるが、多分このように隅に待機する人も舞台上に居る演出である事を示すものだろう。床はチラシと同じ朱色で、横長に敷いたリノリウムが余って巻かれているという案配に、色んなサイズの土管型の円筒が袖近くに置かれてある。装置といえばそのくらいで、邪魔のない広い舞台を用いる、踊り主体の出し物だと知れた。
その踊りは、意図的なのか(西洋発だから)自然なのか、バレエ的だ。よく走る。渦形に曲線を描いて中央へ走り込んだり、周縁に走り出たりが頻繁にあり、定位置で振りを踊る人も居る。どんどん入れ替わる。「歩く」所作も混じるが、よく駆ける。駆けると跳びたくなり、跳べばその瞬間に手足を広げたくなる(バレエ)。身体をひねれば手がそれに付いて回る。二人が近づけば絡まり、ほどけ、時に抱え(バレエ)、下ろす。それらは人間の動きではあるが「自然」に属し、これに対し「意志」を感じさせる動きは、時々見せるが少ない。しかし全体として自然との調和などを表現しているとは思えない。音楽の「ドラミング」は続く。ソロっぽい動きが一人スポットを浴びる瞬間があったり踊りの「相」も変化し、似た相に回帰しても完全な回帰でなく変化している。最初、舞台奥に横長に切り取られた照明の中で踊り出す女性は、イメージ色の朱色を淡く染めたドレスをひらめかせるが、彼女が主人公という訳でもなく、ただ終盤で同じドレスの色が濃い朱色になっていたりする。そこに大きな意味はない、ただ「変化」が表わされる。唯一の黒人が激しく立ち回って女性とのデュオを踊りまくる、という場面や、一人際立った衣裳の女性が登場してソロをやったり、延々と続くドラミングのリズムの中にそれらは組み込まれているが、何か物語的な意味を持つ訳ではない。全体の大半を占める場面は、あちこちで踊りが展開し、小さな焦点が移動し、人が入れ替わり立ち替わる、特に緊張を強いるでもない場面の繋がり。踊り手たち皆が共通に持つ「動き」のパターンの範囲内で事が繰り返されるので、バックの「ドラミング」がなければよく判らない(それ自体で出し物にならない)時間を味わわされる事だろう。曲相は、第二の木琴で柔らかになり、鉄琴(高音を使う)に至って微細な塵を追うようになり(ここでチラシの束をバサリと落とす音が一階席から聞こえてきた)、第四のドラムで一転、激しいラストへ向かうが、この最後の相でこれまでの「範囲に収まった」動きから大々的に変えてくる事を期待したが、それはなかった。しかし演者の掛け声は増え、最後にカットアウトで「ドラミング」が終わる瞬間、照明の当てられる奥のリノが巻かれた筒が上手からくるくると転がり、男性がそれを足で止める瞬間に重なる事で終幕を表現した。
個々の動きを目で追うより、全体を感じる、というのが正しい見方だったかも知れない。が、上から覗く視線だとどうしてもそうなる。個体の識別がしづらい「横からの角度」で見るのが、正しいかも知れない。
踊りは言わずもがな、生まれ育った文化という固有の背景をまとうが、バレエが基調である彼らの「語彙」を一定理解した上で、その語彙を持って表現しようとしているもの(見ている先)を感じ取る事が肝要であったかな、と後から思いもした。だが日本に棲む自分には難しい。終演後踊り手の荒い息づかいが聴こえ、カーテンコールで3度の呼び戻しがあった。果たして観客が本当にそれほど感動したのか正直なところ疑問だが、曲の「ドラミング」の迫力は否めず、踊りは少なくともこれに背反せずかつ迎合しない両立を探っていた事は確かだ。異質との遭遇は色々な事を考えさせられる。
ウィンズロウ・ボーイ
新国立劇場
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2015/04/09 (木) ~ 2015/04/26 (日)公演終了
満足度★★
遠きかな20世紀。初のラティガン戯曲
英国では戦前から戦後、劇作家として一時代を築いた人だそうな。その地位を揺るがしたのがかの『怒りをこめてふりかえれ』(56年)とか。時代は変わる。折しもピケティが戦後暫く続く格差縮小期を(資本主義の)例外的な時代と知らしめたが、50〜60年代に世界各国で火を吹く‘正義’を求める若者の行動は、その例外的に「真っ当な」状況をテコにしてこそ、更に突き詰めた「真っ当」を求め得たという、一つの現象と見れる。冷戦、核競争の大状況を背景にした強権的政策は、無法な戦争を経てようやく実現した国連や人権宣言、民主化の流れと、矛盾をはらみながら共存して行く。この欺瞞的状況から「怒れる若者」の動きが対抗的に湧いて出てくる<前>の時代に、良質なドラマを提供していた人が、ラティガンという事である(聴きかじった話)。日本で言えば、戦争期をくぐって戦後に我が世を謳歌した「新劇」が、60年代鋭い批判対象になって行くのに似ている。
恋愛喜劇からシリアスな社会ドラマまで書いたらしいラティガンは、エンタテインメントでありながら社会的背景の中にリアルな人物を描き出す、という良き戯曲の見本のような作品を世に出すが、この「普通に正しい」演劇が時代遅れになって行く流れは、不可避だったのだろう。
『ウィンズロウ・ボーイ』の「判りにくさ」は、それと関係している気がする。あらぬ嫌疑を掛けられた息子の名誉を挽回するために、立ち上がって行く父親と家族の物語だが、タッチはややコメディ(これは鈴木演出か)。その中からじんわりと感動が湧き上がってくる、ような所を狙っているらしい。だが肝心の嫌疑にまつわる不幸を、人物たちがどう受け止めているのかがよく見えない。恐らく書かれた時代の通念が前提とされていて、そこは説明しなくても判る事になっている。ヒントになる台詞があって聞き漏らしたのかも知れない。何か色々喋っていたが、役者の身体に落とし切れていないので、存在から漂ってくるものを理解の足がかりにしたくてもそこがうまく行かない。ぼやっと見てると判らなくなる。
戯曲のほうも、ぎゅっと締めるべき「キメ台詞」が、意外性を持たず、ガッカリする局面が幾つもあった。「キメ」のために大上段に振りかぶるのでなく、日常抱いているものを詩的に表現する、という具合になら処理できそうではあったが、台詞に詩的響きが希薄で(どうにも説明的でならない箇所が幾つか気になった)、味わいようがない。翻訳が古いのか、訳の文学的センスの問題か、戯曲の問題か。
‥と言いながら、実はラスト数分を所用で割愛せざるを得なかったので、評する資格はないかも知れない。が芝居は大団円に向かっていたし、この段で心をさらう台詞を置けるならもっと前にやれただろう‥。
時々、新国立劇場主催の舞台に感じる、どことなくおざなりな印象がもたげ、企画そのものにも疑問がよぎる。
『浅い河床の例え話』/『島棚』
東京ELECTROCK STAIRS
こまばアゴラ劇場(東京都)
2015/04/03 (金) ~ 2015/04/12 (日)公演終了
満足度★★★★
第一部:振り付台詞劇/第二部:演劇的舞踊
前半と後半それぞれ1時間前後の出し物、休憩を挟む。第二部(ダンス)が本領で、演じ手もユニットのメンバー5人。掛け持ちは居らず、第一部は8人位で皆20代〜30代前半と見える。第一部は風変わりで、絶叫と駆け足の無いミクニヤナイハラ、と言えば伝わるだろうか。人物が一つのボールを転がして行くような具合に、イメージのバトンタッチをしながら台詞を繋げて行く。そのリズムと、発語に付随する動き・踊りがユニーク。喋る台詞(テキスト)そのものは、ある日初めて筆をとって想念を綴ったような青っぽさがあるが、コトバと、動きの連想ゲームを最後まで追わされ、ピリオドもしっかり打たれていた。人数が多く、動きも複雑なので、発語する身体の具合を感じ取るには私の座った席は遠く、1、2列目で見ればまた違った感じを受けたかも知れない。
圧巻は「本領」と言った第二部で、5人が入れ替わりに踊ったり揃って踊ったりマイクを持って喋ったり、歌いもするが、バックに流れる音楽や、弾き語りのような歌は皆手作り感たっぷり(使った楽器はせいぜいカシオの電子オルガンという感じ、だが計算なのかリズムを刻む打楽器音がジャストから微妙にズレて生っぽさがあり、それが手作り感、というか脱力スタイル(からの絞めでキメる)を作っている。5人の中の黒一点が主宰の健太郎氏、歌は声からして氏のようだ。緩急の鮮やかさと、様々な局面を繋いで飽きさせない流れは第一部にも通じるが、圧倒的に躍動感を伝える5人の踊り手の力量は、自分は舞踊には素人だが、特記しても構わないだろうと思う。踊り手が個々に持っている技術というより、個性、身体から放たれる魅力が、「つい見てしまう」理由で、それを引き出す内容(台本の代わりに譜面でもあるなら譜面とでも言うか)でもあった。
音に戻るが、他の者が作ろうとして作れない独特のリズム、アクセントの置き方は全て「踊り」から出ていて、ダンスとセットで生み出されているようだ。だからこそ<流暢>なパフォーマンスが実現できているのだろう。凡その舞踊は音(音楽)と共にあって、音と拮抗した踊りが良いように思える。
石のような水
映画美学校
アトリエ春風舎(東京都)
2015/04/10 (金) ~ 2015/04/12 (日)公演終了
満足度★★★★
俳優修練の成果と言える。
2013年F/Tで初演された松田正隆氏の書下し+松本雄吉(維新派)演出の‘鳴り物入り’舞台を観ていたので、何やら難解だった芝居をもう一度見返したさで観劇に臨んだ。きっと背伸びした舞台に違いないが、問題はその度合い・・と期待不安半々だったが、大作に挑んだ力作であった。(但し、二度目がちょうど良い、とは言えるか。)
開演すぐ。丁寧な作りに素朴に驚く。俳優は手練の風格さえ。松田正隆の「間」「行間」に語らせる会話がきちんと辿られ、詩的というか哲学的、網羅的?な戯曲の世界がじわじわと立ち上がる快感に浸った。こんなに判りやすい話だったろうか?というくらい幾つかの男女関係の顛末に終始していると言えば終始した「メロドラマ」。だが記しておきたいのは舞台に立ち上がっていた、この架空世界の空気、匂い、色、終末観に近いそれらだ。交わされる言葉の中に意味ありげな哲学的な問いが紛れているが、会話は成立していてその関係の中から出て来た言葉に感じさせている。だから「難解」なのかも知れない。
登場人物はそれぞれの関係でのエピソードを抱えながら、どこかで接点を持って繋がっており、その接点も含めて全体が、社会の断面として見えるようである。その社会とは、近未来、あるいは遠未来か・・ある事象が謎を投げかけているものの、モードは殆ど現代。「どこか、こことは別の世界」への憧憬よりも、「今」を映し出そうとする強い衝動からの、SF的設定と感じる。
・・隕石の墜落によって出来た巨大な穴=ゾーンという立入禁止区域があり、ここに入ると死者に会える事があるという。ゾーンへの案内人が存在し、つてを辿って時々、ゾーンに入りたいと依頼者が来る。案内人は親から子へ受け継がれるものらしく、秘められた仕事のようで公然と行なわれている風ではない・・というのがその設定。二人の依頼者がゾーンへ入って行くエピソードも進行し、哲学的な<?>がこの劇を色濃く染めて行く。人物皆そうだが、特に中心的人物の一人であるマイナーラジオ番組のDJの女性の謎めいた性質が、場面を追うごとに徐々に妖しさを放っていく。『惑星ソラリス』(タルコフスキーと聞いて思い出した)と、言われてみれば通底するようだ確かに。心地よさは反芻したくなる。よく仕上げたと思う。
闇のうつつに 我は我かは
演劇集団 Ring-Bong
サイスタジオコモネAスタジオ(東京都)
2015/03/28 (土) ~ 2015/04/05 (日)公演終了
満足度★★★
戦争は青春を描く禁断のキャンパス
まず一般論から。「戦争」を描いているようでいて、それが話を盛り上げる背景、あるいはドラマの従属品に過ぎないような作品は数多ある。無益で非合理な戦争の実態をあぶり出す「意図」はあっても、時代を生きる「人間」は美しく描きたい、人間を信じたい、己の祖先を悪し様には描けない・・こうして戦争の「醜悪」と掛け離れたファンタジーに収まる、というパターンも多々あるだろう。書き手の「良心」は疑わないけれど能天気にしか思えない「よくあるパターン」の一つは、十五年戦争や戦争体制の時代を想起させるキーワードを織り込み、あとは観客の中にそのイメージが滲み出すにまかせるやり方。観客は何となく厳粛な気分にさせられる。「それも有りでは?」と思われるかも知れない。だが「先の戦争」や「戦前」に対する既にある社会的記憶にオンブして、自身の「解釈」が語られないのは何も語っていないに等しい。しかもそれは現状を追認する行為にとどまっている意味で、ある見方からすれば害悪だと言えなくない。
日本での「戦争」に対する最大公約数的なイメージは原爆、空襲、食糧難といったもので、確かにこの社会的記憶を折々に喚起することは、人の命に厳粛な思いを至らしめる時間の提供という意味はあるだろうし、現状では最善だと考える道筋も分らなくない。だが「被害」に偏った社会的記憶を誘引するだけでは、変化は起こらない。
そもそも戦争を忌避する理由は「殺されない・苦しまない」事のためでなく、まず「殺さない・苦しめない」事のため、であるべきだ、と思う。後者を理由としてはじめて、かつての日本が「被害を受ける」前に行なった累々たる「加害」が無視できなくなる。敗戦直後の日本人は戦争に「負けた」責任を為政者に問うた。無策を問責したのは良いが、では勝っていれば良かったのか。いずれにせよ日本は敗北を抱きしめて戦後を歩み出した。心地良い「被害の歴史観」に浸ってきた日本人だから、自国の行なった非道の事実を否定する論は今、相変わらず喧しく、また罷り通っている。
例えば、演劇をやるために「戦争」を語るのか、戦争を語らざるを得ない状況だから演劇を手段に選んだのか。二つは似て非なりといえども、同一創作者の中では折り重なり同衾していることだろう。
しかし戦争を語る芝居を見るとき、私はこの点を見極めずには居られない。で、恐らく、的確な評価眼を持つ人はそこに演劇の質がかかっている事を見抜くだろう。
そこだけ整理しておきたい。‥戦争は「事実」に属するが、ドラマにとってはその深刻さに価値があり、しばしば利用される。そしてその重みは「事実」である事に裏付けられている。ただ、現在「事実」は公然と揺るがせに遭ってもいる。また演劇も、必ずしも事実でなくとも「事実という事にして」仮想の話として楽しめてしまうエンタメの要素を持っている。「戦争」に関わる事実の場合、事の性質上、当然ながら事実性が重要になるが、エンタメの成立のために「戦争」が消費されるに等しく扱われる場合でも、批判を覆して余るだけのメッセージ性、感動のある作品になっているかの評価の秤にかけ、「事実の裏付け」の欠陥を不問にできる場合もきっとあると思う。だが「事実」である事の重みに着目してドラマに活用するのであれば、事実の真偽、その意味、それらに対する解釈を、せずに過ぎやることは許されないと思うのだ。
長大な前置きになったが、今回の「闇のうつつに」は如何。
劇団昌世(チャンセ・韓国)「ソレモク(雪害木)」
一般社団法人 日本演出者協会
タイニイアリス(東京都)
2015/04/02 (木) ~ 2015/04/05 (日)公演終了
満足度★★★
さよならタイニイアリス
毎度の事ながら迷った果ての到着。近辺を巡り、チラシを持って立つ女性のお陰で通り過ぎずに済んだ。タイニィアリスの名を知ったのは02年頃だったか。初めて訪れたのがやっと数年前の事だが、いつかは迷いに迷って観劇をフイにした事も。昨秋どっこい生きてる黒テントを目撃したのが二度目、今回三度目にしてやっと地理を把握したと、悦に入った矢先に閉館を聞かされるとは‥。
で思い出したのが「たいにいありすで〜」と、ある役者志望の若者の口から出た奇妙な劇場の名、ここでやる事は何か通常でない意味を持つ、的な響きを含んでおり、その声色も耳に残っている。2006年頃、アサヒアートスクエアで中東の紛争当事国から招び寄せた劇団の公演があったが、主催がタイニイであった。代表の女性が「これからも頑張って行きます」と挨拶した調子から、ああ、お金にならん事やってるんだなと悟った。韓国新人戯曲の上演プログラムには、昨年も今年も行けず終い。なのに終わるのか。終わるのですね。
‥そんな事情もあってだろうか、この日は狭い客席の中に演劇関係者の顔が幾人も見られた。
えらい前置きになったが‥、芝居について。韓国での新人発掘の意味合いの強いコンペで受賞した劇団(活動2013〜)と作品だという。コンペを主催し、今回推薦もした韓国の演劇団体代表によれば、完成度より挑戦する姿勢、従来にない新しさ、が要因との事。初日。スマートな作りではない。初めての海外公演で、演出者は30代だが俳優からの転向で演出歴だけ見ると浅い。今回の公演のどの局面もが、初めて尽しなのだろうと想像された。要素要素を取ってみれば評価に値する・・例えば俳優の技術、また状況・関係性を凝縮して見せる場面、はあるが、時間経過と共にある芸術=演劇が持つべき「謎かけ→謎解き」の心地良い積み重ね・積み上げが、今ひとつ実現されていない。字幕の翻訳の問題もありそうだが(日本人が監修していないのは明白)、そればかりでもなさそうだ。
ただ、演劇としてのある種の試みがそこでなされている事は知れる。
話は現代、ある農家の屋内が、程々写実的に設えられた舞台装置を使った一場だけのリアルな芝居だが、そこで飼われているらしい動物たちが踊ったり掛け合いをしたり、単に「リアルに」存在したりと、ファンタジーと言おうか異化と言おうか、奇妙な効果を出している。動物たちは人間達を見る「眼」の役目と、自らも人間界に翻弄されて行く「ドラマ内」的存在という微妙な立ち位置だ。
俳優らは達者ではあるが、新劇風なベタ演技に見える所があったりもする。目を引くのは動物たち(鶏、豚、山羊、犬)の尋常でないリアルな形態模写。これを見るだけでも楽しめたりするが、ドラマのプロセスを見て行くと、そこだけ楽しむ感じにならない。「眼」にさらされて進行する人間たちの物語は、日本で言えば過疎問題、都市と地方の対立を扱ったものだ。韓国らしく?家族問題を前面に押し出している。ドラマを構成する要素は平凡だ。ただ夫婦間、兄弟間のやり取りでふと見せる行為やしぐさに「韓国的」を感じる。恐らく作者が吐露する「古き良きもの」として、それらは仕込まれている。だから所作を愛おしく感じて正解だ。母の老い先を案じて、というより道徳的義務のように呼び寄せようとする長男。韓国ドラマの典型のような設定だが、母子関係の彼我の違いも大きそうだ。末息子の嫁と母のきしみ、兄と弟の喧嘩、祖母を巡って父母と対立する孫娘。地方を搾取して都市が肥え太る古今東西変わらぬ仕組みが、まず息子らを都会(ソウル)へ追いやり、そして家主である母もこの愛おしい場所から連れ去ってしまうという、珍しくない結末が用意されている。
アクセントを与えているのは動物らだが、リアルな形態模写モードから、一挙に振りを踊ったり、擬人化して(離別の事態を回避しようと)議論する場面もある、にもかかわらず、芝居はファンタジー的結末を用意しない。リアルを離れたモードにはなってもドラスティックに擬人化せず、抑制的。カタルシスを追わない代わりに、悲しい現実へと観客を突き放す効果を採るところに、作者の狙いがみえる気もする。
ラスト、冒頭と同じ詩が女性の声で詠じられる。バックには吹雪の音と映画『西便制 風の丘を越えて』で流れたテーマ曲の別アレンジが流れる(元が民謡なのかオリジナルの映画音楽かは不明)。激情(恨=ハン)を詠った詩は、今や韓国でも遠くに思う精神なのだろうか。その詩に触発されて劇を作ったという青年演出家を、日本に置きかえて想像してみると、確かに希有な存在ではある。
十二人の怒れる男たち
俳優座劇場
俳優座劇場(東京都)
2015/03/25 (水) ~ 2015/03/31 (火)公演終了
満足度★★★★
ザッツプロデュース公演
俳優らしい俳優を取り揃え、その競演ぶりを楽しんでもらうのが料金の内実である公演。俳優とて人間、演技がうまくても付き合いのそう無い人と技術のみでアンサンブル醸すのは中々困難だ。逆に技術がなくても集団としての緊密さが濃厚な舞台空間を作り上げる事もある。このどう足掻いてもインスタントさを免れないハンディを、埋めるだけの技量、存在感を持つ俳優ゆえに成立するのが、逆に言うとプロデュース公演。そういうものである事を感じる舞台だった。平均年齢は高い。演技は新劇に属する。作り込んで自然に見せる演技が、日本でないアメリカ、しかもちょっと古い時代のお話に、合っている。陪審員の密室協議の劇だから設定上は一期一会、従って俳優たちの実際の状況(一定期間おつきあいする事になった)に合致するが、その事が「活用」されていたりするかと言えば、ない、というのが新劇的演技のそれたる所以なのだな、とも感じる。定番のような演技で、舞台の世界を成立させ得ていた要素が、俳優のオーラ、存在感。もっとも技術を駆使するよりは、スタニスラフスキーシステムの薫陶を潜りきってる人達だから「リアル」である事が目指されている模様だ。実はこのリアルには予め限界設定がある、そういう新劇系の所作には先が見える感が漂うものだが、それでも見入ってしまうのはこの優れた戯曲の顛末をやはり追ってしまうからだろう。そういう客の心も踏まえた分りやすい演技、気味の良い演技が目指されていた、とも言えるかもしれない。台詞を食って「しまった」的な仕草がつい出たり、これは決めていたしぐさで自然の流れに任せたのではないな、とか、限界も見えたが、追わずにおれないのがこの「十二人の話」。そこは堪能したし、老練の域に達する俳優たち(ばかりでないが率が高い)が台詞も噛まずテンポも弛まず見せる熱演には、芝居そのものとは別の意味での感慨を起こさせる。これもまた演劇なるかな・・?
現代能楽集 クイズ・ショウ
燐光群
ザ・スズナリ(東京都)
2015/03/20 (金) ~ 2015/03/31 (火)公演終了
満足度★★★★
来たっ!!
当たりである。燐光群の真骨頂。
『屋根裏』がお好みだった向きには、久々にこの系統の作品です。公演は終っても薦めたいこのもどかしさ。<クイズ>という様式を問いながらあらゆるものをぶち込んでエッジが鋭い。意味のよく分らない哲学的な問いも詩のように響くのは「クイズ」という一本の軸があるからだろう。現代能楽集とあり、複式能の説明も出てくるが、劇全体としては、人類の営みへの後の世からの追悼の目線が、ほんのりと浮かび上がるのがそれか。新参の役者の割合も多く新鮮だった。
十二夜
青年団リンク・RoMT
アトリエ春風舎(東京都)
2015/03/11 (水) ~ 2015/03/30 (月)公演終了
満足度★★★★
青年団(系)俳優もやるな
作・演出で芝居を見る自分にも癖になる俳優、気になる俳優が現れて来る。控えめな(あまり感情を露にしない)青年団の芝居でも存在感をみせる俳優が居り、彼らがしっかり起用されたRoMT版「十二夜」は、やっぱり青年団と思わせる要素が多々。俳優の本当の力量は見えないが(台詞の抑揚が意味と違ってたりもするが)、この芝居の世界が作られている、と感じた。テンポよく作ってると予想していたが、たっぷりな演技もあり2時間40分超え。十二夜だのに、まさかのカーテンコール無し。
やり尽されたシェイクスピアを、どうやるのかが作り手にとっての勝負だが、この舞台では口語の用い方に特徴があった。訳は河合祥一郎。そのまま喋れば訳語の文体に絡めとられた演じ方になりそうな所、台詞を噛み砕いて口に慣らし、台詞は台本のままでも発語の感覚が「現代」になっている、という技を繰り出すのだ。行き別れた兄妹の妹のほうが兄に似せた男装をしており、瓜二つで周囲は見分けがつかないという設定ゆえ、普通あり得ない寓話を成立させねばならないが、演技は勿論演出的工夫が各所にあって客をうまく乗せている。役の見せどころ、笑わせどころでは、役者がしっかりと仕事をしていた。
ABCDEFGH
ENBUゼミナール
シアター風姿花伝(東京都)
2015/03/27 (金) ~ 2015/03/29 (日)公演終了
満足度★★★
ラウンド・ミッドナイト
enbuゼミの名を冠した公演がやっと見れた。FUKAIPRODUCE羽衣の作・演出者がそれと違う面を見せるかが関心の一つであった所、同じだった。グロいエロ話もさらりと語らせるのが特技。爽やかに歌い上げれば不倫も清純な恋。どのエピソードでも登場人物らの関わりが、手間をかけずして<対の形成>、性的イメージに飛ぶ。H系の話題に急角度で切り替わる。こりゃ、性欲高揚状態が常態な人の仕事だと確信しても客に罪はない(勿論当て推量)。
擬人化した役の制限ない自由が舞台世界のルールを広げ、とりとめの無さがのぞくが、糸井楽曲+木皮成振付の踊り/動きがつなぎ止めている。曲が表現するのはちょっとした恥じらい、日常のささやかな場面をポップに虚飾してみせる若さ、健気さだ。踊りと同じく「歌」も技術にばらつきあり、音痴だったりするがそれでも成立させる、おトボケ風味の歌、直情に寄り添う歌。
珍しく影のある台詞が、一箇所。場面を想念する主役らしき男が<湯気>となって町へ出て行き、目にする最初の光景は10階が2階で9階が1階、元の1階から8階までは地面に押しつぶされたビルだという描写。そこだけ意味深な一節を挿入している。全体的な心情の背景になっている感もなくはないが、謎解きがある訳ではない。
「変化」は語られる。若かりし頃の二人でない、など。ハンターをバイトでやってる(ブラック企業を無理矢理暗示?)男が、ライオンの家族にむしゃむしゃ食われる場面も。
しかし、どういう訳か対立は描かれない。せいぜい性の営みを盛り上げるための戯れ喧嘩。殆どが、同調する台詞だ。これがもどかしい。ひねた私には、「これが大人。皆もそうだよね」と平和主義の押しつけ感あり。
しかし楽曲と踊りが全てと言って良い作品で、上演1時間半が長く感じたのは奇妙な動きを動きづめの俳優のパフォーマンス密度の賜物?でありましょう。
劇中流れる既製曲は、セロニアス・モンク作演奏のピアノ。
悪い冗談
アマヤドリ
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2015/03/20 (金) ~ 2015/03/29 (日)公演終了
満足度★★★
カタルシス、発見、いずれも薄い
絶望のお話。よどみない眼差しで人間の真実(残酷さ、醜悪さ、身勝手さ)を見すえた時、果たして人の未来に希望を見出せるのか? と問うている。反語的疑問だが、希望は見出せていない。絶望の仕方がゆるいからだと思う。資本主義にしろ新自由主義にしろ「自由」が「悪」を不可避に孕む事実を知っても、人は自由を選ぶだろう。そして悪は無くならない。終盤で男が結語のように語る台詞の意訳だが、そこに収斂する各シーンになっているかと言うと、関連がいまひとつスッキリしない。場面の作りも中途半端でその中途半端が意図的なのか‥それにしては隅田川繋がり(花火見物に絡むシーンが幾つかある)からの東京大空襲の描写はえらくシリアスで感情移入を促している。だが、爆弾を投下した兵士はつまらない動機でこれをやったのだろうと、皮肉にしては力なく陳腐な、敵愾心の対象にしたい「意図」による解釈の落ち。韓国、台湾から来た男女をそれぞれ囲む会話のシーンでは、植民地時代や歴史問題に触れる部分もあるが、それでどうという展開はない。意図的に会話を「深めない」ようにしたのか、あれで結構深めた事になっているのか、それさえ分らないが、いずれにしても自らの側の加害を掘り下げて初めて見えてくる風景を、無意識に避けていないか? スタンレー何とか言う、人間の服従心についての有名な実験の再現はいいアイデアだと思った。が、残念ながら問題が浮き彫りになるように作れていない(これは単に技量の問題かも知れないが)。妹を殺された姉が服役囚の下へ通うが「罪」を問題にしているようで自分が何をしているのか分らなくなる対話が、何となく人間の限界を暗示しかけるが、全体の中に埋もれてしまって残らない。被害と加害の対立は厳密には解決出来ない(歴史を救うのは忘却だ)、という部分に着目した感じは受ける。しかし今や道徳や倫理が通るにはその土壌が必要であって天から授けられる訳ではない事は、現状を見れば十分で、強調する意味があるのか。もやもやした日本の現実をそのまま舞台に上げてみた、というには先述したように空襲の逸話が被害体験として浮き立っている。個が国家に寄り添うのは自主、民主の意識が脆弱になった時だが、被害意識の共有はその端緒になる。そうなりかけてる現状を突き放してこの劇は見ているのでなく、それを結果的に促していないか。突き詰めきっていない感が否めない。