従軍中のウィトゲンシュタインが(略)
Théâtre des Annales
こまばアゴラ劇場(東京都)
2015/10/15 (木) ~ 2015/10/27 (火)公演終了
満足度★★★★
哲学についての考察
ヴィトゲンシュタインと言えばこれというテーゼ=「語り得ぬものについて人は沈黙せねばならない」の含蓄は、あらゆる事柄について何らかの形で「語り得る」と、普段考えている理性の土台を揺るがす所にある。
沈黙はしなくたっていいだろう、折角言葉があるのだから・・。黙るか喋るかは人の性格や個性の問題だ。・・そう思いたくなる。
これを、不可知の領域を知り、潔く認める事の尊さについての言葉だと解釈してみる。・・人間は知る事のできない領域がある、現に今、自分にとって知らない事がある、その事実を「希望的観測」による根拠なき言説で置き換える不遜さは、例えば、放射能の被害について「無害」に寄った説を唱える学者に、見る事ができるだろう。確かに言いたくなる、「確証の無いことについて適当な事を言うな」と。
さて舞台は、第一次大戦中の前線部隊の生き残り5人(ヴィトゲンシュタインを含む)のお話。実験的な戯曲だ。彼の哲学の定理が生み出された源泉は前線での体験にあった、というのが史実かどうかを知らないが、最後は撤退を余儀なくされる前線の行き詰まった局面でのやりとりに、特異な視点を持つ彼は反論したり介入する中で「言葉」に関する発見をする。彼自身のドラマの軸は同性愛の相手との空間を超えた対話にあるが、彼の分かりづらい哲学の着想と、前線での体験に結び付ける試みは、果たして成功したかどうか。
私はこれでヴィトゲンシュタインという人間が見えた(彼の哲学の言葉と相まって)、とは思えなかった。面白い試みであったし、ドラマとして面白く見れたが、ヴィト君をもっと知りたいかも、という思いを残したまま芝居は終わった。
彼を「ホモ」と侮蔑する男の発言を際立たせる事で話を盛り上げていた感が強し。また、ある命の危険のある役割を選ぶのに、ベテラン隊員が自ら腕に覚えがあって志願したのに対し、隊長は自分が作ったくじを引かせる事にこだわり、最後まで譲らない、この奇行の理由もよく分からぬままだ。
「語り得ぬもの」という言葉の響きの深淵さと、彼の[発見」の際の台詞のトーンが、いまいちそぐわない、というのが正直な感想だった。
月の獣
俳優座劇場
俳優座劇場(東京都)
2015/10/04 (日) ~ 2015/10/13 (火)公演終了
満足度★★★★
秀作戯曲の舞台化
トルコによるアルメニア人虐殺の史実は、今年観た「新冒険王」で触れられていた(確か)。
本作は、二十世紀の前半、虐殺を逃れてアメリカへ亡命した二人の男女・・正確には手に職を持つ成人した男と、彼によって伴侶となる女性として「選ばれた」少女の、到着日即ち結婚生活初日からの、二人の交流の物語だ。二人の間には年齢ばかりでない様々な理解の障壁が存在し、永遠に埋まらないかに見えるのだが、ある時その壁が瓦解する。そこに至るまでのあれこれや、対話の日々が二時間の間に展開する。二人の出自がアルメニアである事の紹介から始まるこの芝居だが、中盤ではあまりその事実に触れられず、その独特の出自を作者が選んだドラマ上の必然性は最後に至ってようやく確認できる。登場人物は二人と、彼らに出会う事になるある浮浪少年、そして少年が老人となった「語り部」の4人。占部房子の彼女らしい演技がピッタリはまり、4人のつなぎ役として良い仕事をしていた、と思う。
海外戯曲の貴重な紹介の企画の一つ。
猿ノ献身、
劇団献身
OFF OFFシアター(東京都)
2015/09/24 (木) ~ 2015/09/28 (月)公演終了
満足度★★★★
自虐的献身の果てに
当劇団は二度目。学生演劇出身でその当時の舞台が「伝説」と、ある人が言っていた。
その片鱗を十分感じさせる舞台だった。(前回観た作は荒唐無稽であったがメッセージ性に難有りであった。)
終盤の奇妙な展開が「筋を追う」事を拒絶しているのか、説明不足(若しくは私の理解力不足)なのか分からないが、「痛いキャンパス生活」の顛末の中で、理不尽さや力関係の無情さへの怨念が吐きつけられるカタルシスに到達しているため、十分「観た」という気分で劇場を後にできた。
学生生活のリアルに、やはり強みが。
今後の旺盛な活動に期待。
カタルシツ『語る室』
イキウメ
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2015/09/19 (土) ~ 2015/10/04 (日)公演終了
満足度★★★★
軽いタッチ
イキウメの舞台との「違い」があるとすれば、やや軽いタッチである。中嶋朋子が凡庸な一庶民を演じる所(イキウメならもっとセンセーショナルでスタイリッシュになりそう)。板垣雄亮が一人、観客との接点を持ち、要は語り手となる部分があるが、そのドラマ進行上の役割が重要になっている所。
謎を含む場面が、登場人物との接点を洗い直す事で、その場所の磁場が「失踪」と「出現」を生んでいる事に気づく人物を出現させる。同じ場面を別角度から再現する事で、最終的には謎解きに至る模様だが、観客にはよく見直さなければすっきりと理解に至らない。が、その位がちょうど良いようである。
イキウメならば、「なぜそこに磁場が生まれているのか」という問いにまで触手を伸ばすだろう。それには、複数の人間がその事実に気づき、疑問を突きつけ合う事が必要だ。が、この「語る室」では、気づくのは板垣氏演じる占い師のみであり、人物らが体験した「謎」の解明をした時点で、身を引く。「なぜ身を引くのか」という疑問を封じるため、占い師は観客に語りかける。一つのミステリーが解決を見た事を共有し、劇は終わる。
こうした特色が、「軽い」テイストと言わしめる所以だろう。私もそれ以上の感想はないが、悪い後味ではなかった。「もっと深い問いを、あなた自身が見出す事も可能です」・・そんな風に言われてる気がしないでもない。
ピッピピがいた宇宙
あひるなんちゃら
OFF OFFシアター(東京都)
2015/09/18 (金) ~ 2015/09/21 (月)公演終了
満足度★★★
最後の台詞
こんな脱力芝居を堂々とやってる。宇宙ステーションに休暇を使ってやって来て、足止めを食うというハプニングがあり、それが解決してホッと安心。
宇宙人が板付で居る。もっともそれはイスになる台のようなもので、なぜか彼ら(三人)の間では宇宙人であると、知らされたのでそれは既定事実である。この無理設定をとりあえず信じて疑わず、適度に疑問をさしはさみ、ピントがずれてたりする具合を、成立させるのは間延びしたキャラに拠るところが大きそうである。コントに近い。こんなお芝居をやってられるような平和が続くといい・・ そのバロメータを買って出ている劇団、とは穿ち過ぎか。
どん底
東京演劇アンサンブル
ブレヒトの芝居小屋(東京都)
2015/09/10 (木) ~ 2015/09/20 (日)公演終了
満足度★★★★
思い出し投稿◎個人的な感慨
個人的感慨が強し。江戸時代の長屋を舞台に翻案した黒澤明監督『どん底』(1957年)を何度となく見たくなってレンタルし、借りれば2,3回見るので10回以上は見ている。原版の舞台化は初見で、戯曲は一度読んだ気がするがあまり覚えてない。実にうまい場面運び、人物の紹介のさせ方、二場の構成も黒澤版は忠実に踏まえていて、日本への置き換えが憎い。アンサンブルの今回が初という「どん底」を、この映画の名場面(殆ど全場面)をなぞるように見た。
今回の原作版では、皆で唄う歌が労働歌のようで感動的だったが、映画では「コーンコーンこん畜生」「コンコンチキのこん畜生」「ハァ地獄の沙汰も金次第」と続くお囃子風。この場面は映画で二度あり、終盤では興が乗って最後までやる。途中「オヒャイト~ロ」と、テンポダウンして笛の擬音の旋律が流れ、鳴り物の掛け合いから段々とテンポアップ、盛り上がって行き、普段憎まれ口を叩き合ってる者らが祭り気分で踊り出す・・。
その映画も10年以上ご無沙汰したこの歳で原作の舞台を観て気づいた事は、如何にこのドラマの人物らの言葉に若い自分が影響を受けたか、だ。舞台を観ながら終始頷き、ほくそ笑み、快哉を心で叫んでいた。
違っていたのは、終盤も終盤、中々に長くたっぷり「演説」がぶたれる。このあたりは作者の書きたい欲求が勝ってしまったのではないか、と感じる所があった。もっとも自分の理想が黒澤の映画版にあったため、全く個人的感慨のための観劇となった嫌いは大いにありそうである。
そんな具合ではあったが、アンサンブルの舞台、若手の演出の下、この古典戯曲を現代に生き生きと蘇らせた秀作だと思う。舞台美術も機能的かつ美的であった。
離陸
サンプル
早稲田小劇場どらま館(東京都)
2015/10/08 (木) ~ 2015/10/18 (日)公演終了
満足度★★★★
変態性。
あけすけに「変態」と印字されていたりすると、これは昆虫の変態の意だと自発的に字義を置き換える「認知的不協和」解消に走る自分がいる。もしくは、「変態」の実態について、直視的考察へと促される。早稲田小劇場どらま館で、同居する三人を巡る大真面目な反応実験が、テキストに書かれた設定で展開された。作演出の松井氏がしばしばそう呼ばれるという「変態」は、人間という海の深みに存在し、日常の表層と深淵のグラデーションのある位置で己(変態)を主張していた。それを行為として、言動として明確に見せる舞台であった、と言える。
理性の揺らぎ(神経衰弱のような身体的な病の状態も含め)は、存在の根底にある意識、願望を結果的に強調する。「普通」を求める目には異常に見えるそれらの現象は、心の奥に誰しも秘める「存在の不安」の表面化ともみえるが、松井氏が現在ある「縁」を逃れ得ないものとした上でドラマを書いている点、つまり「実験」を成り立たせるための「関係」が既に存在している事実から、ユートピアに見えなくもない。
カップル+1の設定と、伊藤キム演じる兄の芸術家的な繊細さは、イメージが飛ぶが映画「ソフィーの選択」で、主人公が出会うユダヤ人の青年を思い出させた。その青年の恋人(メリル・ストリープ)への、主人公の思いはもっとウブだったが・・
あの子はだあれ、だれでしょね
文学座
文学座アトリエ(東京都)
2015/09/16 (水) ~ 2015/09/30 (水)公演終了
満足度★★★★
「外部者」に翻弄される無辜の市民
実際の事件を元に書かれたと示す「副題」を認識せず、観た。
すると、これは誰だかよく知らない人間が、無防備な一般人の家庭に入り込み、牛耳って行く「恐怖」とともに、それを受け入れて行く側の奇妙なあり方、非主体的とも言える精神性をあぶり出しているようにも見えた。
とりわけ黒船以来、「強者」への対し方、距離の取り方(対等な付き合い方)を、悉く失敗に終わらせた過去の延長である日本について、比喩的に指摘しているようにも感じた訳である。
いずれにしても、別役実の新作という。筆の力は全く衰えず、恐ろしげである。
十一ぴきのネコ
こまつ座
紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)
2015/10/01 (木) ~ 2015/10/17 (土)公演終了
満足度★★★★
熱演。
これだけの俳優の力量をもって、エンタテインメント成立。土曜昼という事もあって子供多数。笑いも沢山飛んでいた。休憩挟んで2時間半強、子供はだれていなかった。私は子供の観賞眼を信頼しているが、今回の「十一ぴき」は「対子供」としては、中々健闘していたと思う。「子供に受うける」セリフ、動きというものがあるのだな、と発見。
さて、しかしこの戯曲にも子供が追っつかない飛躍というか、抽象思考の橋渡しを要する部分がある。大きな魚を探しに行く、というのだが、大きな魚より中くらいの魚を手際よく取れる湖のほうが有り難いんじゃない?と思うし、腹が減って動けないのに、隊を組んで冒険に出かける、しかも何日も。でもって湖に着いたと思ったら敵は大きくて敵わない、だから身体を鍛えるんだと言って訓練をする。腹ぺこでそんなの無理だろうと思う。ここはある種の省略があって、「希望を失わない」「団結」といったテーマのためには、リアリティは犠牲になって良いというケースだ。観客はその部分で、有り難いメッセージのみを受け取るという、心許ない細い吊り橋を渡る。が、そこを乗り越えれば、また楽しい物語世界が展開する、そこがエラい。「共和国」を設立し、その国家の顛末が簡単に説明されるが、終幕に向かう下り坂の涼しい風は心地よい。ハッピーエンドとは言えなくとも。
ピアノ他の生演奏は荻野清子。音楽も宇野誠一郎の元曲を踏まえ、新曲も入れて全体をアレンジ。十余年前、黒テントで松本大洋書下ろし作品をやった際の荻野氏の音楽は才気溢れ、DJ役+生演奏も堂に入っていたが、それ以来のお目見えに懐かしさが沸騰した(カーテンコールで顔を見せて初めて分かったのだが)。 劇中、現代的なコードで切なさがこみ上げる音楽は彼女の作に違いなく、往年の、といった感じの音楽は宇野氏のものだろう。 詞は初演当時のもので「赤尾敏」「三島由紀夫の自決」が出てきたりする、時代性のギャップはさほど気にならなかったが、私としてはそこは大胆に現代に置き換えて良いと思う部分があった。明らかに「安倍」と置き換えて痛烈に成立する詞もあったが、不穏さを嫌って長塚氏がそれを自粛したのだとすると、ちょっと淋しい。書き換えない事がかえって奇妙な場合が、井上戯曲にはけっこうありそうである。
この素晴らしき世界
ペテカン
あうるすぽっと(東京都)
2015/10/07 (水) ~ 2015/10/12 (月)公演終了
満足度★★★
お芝居。
初・ペテカンはあうるすぽっとで。半コメディ、家族モノのお涙、「笑いで涙を吹き飛ばす」的構図に涙、伏線と伏線解消も幾つか。最後は意表をつく締めくくりで、この部分には(音楽好きの私としては)納得。といったお芝居。
役者力で持った舞台だと感じた。
放置時間が長すぎてダレをもたらす伏線が二点あった(もっともその一つは核心に触れるのでそうするしか無かったのかも知れないが、もっと仄めかしがあっても罰は当らないと思った。/もう一つは、「その音」が芝居上のものと気づかず、暫く注意力が散漫になった)。
桑原裕子のうまさを「無頼茫々」に続き堪能(系統の似た演技だったが)。ここまでやってるので、もう一ひねり「落ち」があると美味しいかったな・・と。
さてセミパブリック空間に人物を存在させる必然性につき、書き手の苦労を偲ぶばかりだが、あまりにのんびりしすぎだ。「母」の容態は気にならないのか、誰も電話で確認しようとしないのはなぜ・・に対する「謎解き」は残念ながらなく、放置されたままになった(する以外ないと言えばないが)。
ドラマはそれでも成立すると言えば成立するが、伝えたいはずの「思い」(主に兄弟たち)が、行間に込められるような「必然性」があれば、必然たらしめる演技は適切な「謎かけ」として機能し、「謎解き」において効果を増し、その事によって空間の密度も増したのではないか。 そんな感想を持った。
想いはブーン
小松台東
三鷹市芸術文化センター 星のホール(東京都)
2015/10/02 (金) ~ 2015/10/12 (月)公演終了
満足度★★★★
初<小松台東>
三鷹市芸文の本年のネクスト・セレクションの2劇団目。松本氏作の舞台は1度観たが、小松台東の公演は初だった。「今」の「日本」のどっかで、起きてそうな現象を切り取った芝居。(宮崎弁だが、他の地方でも、関東圏でも都心でなければ、成立しそうではある。)
大きな事件はなく進行するので、現代口語演劇(静かな演劇)に属すると言えそうだが、「ああ」とか、「え、ああ、うん」と、言葉を濁す特徴は見られず、割とズバリと言葉を投げ合う。程よい省略があって、それが想像力を刺激し、後で謎解きがあり、次第に場の風景(過去あっての現在という風景)が、見えてくる。
その手法もうまいが、この芝居で徐々に際立って来る存在があり、これが芝居の中心テーマかも知れない、と思わせる存在なのだが、そこに最後は釘付けになった。この「痛い」人物の存在は、このドラマでの「問題」であり、半端なくどうしようも無い存在として、周囲も手厳しく難じる事によって、事実それが「問題である」ように、観客にも見えてくる。
青年団系の芝居なら、「色んな生き方があるんだし」と理解を示す人間が幾らか居て、一方に厳しい人が居てその対立によって「問題」の人物は救われる、となりそうだ。(両論併記に持ち込む事は、悪法を議論の俎上に上げる事をも許す意味で、注意すべき)
この芝居ではそれは許されず、「リアル」で逃げ場の無い中で「問題」はいよいよ「痛さ」を増して浮び上るばかりである。周囲が現実を見据えて必死に生きている中で、「彼」の痛さは少数派となっているが、実際には社会的な広がりを持つ。多くの「彼」が、特に都会には、悩ましく棲息している事だろう。
思うに・・この「問題」の処方箋として、芝居の中にも「もまれて来い!」と台詞があるが、これは例えば、経済的格差が放任され、戦争やテロの危険もあり、人権も狭められて行く社会が、この「問題」の解消に有効なのでは、という想像をよくしたものだ。「余計な事を考えてるヒマなんかない」状態が、処方箋だという訳だ。
しかしそこで思い出すのは、戦後間もない頃に起きた連続殺人事件や無差別殺人事件。物は無かったが希望に満ちた時代、といったイメージが、全てではなかったにしろ、相対的にあったのだろうと勝手な想像をしがちだが、意外にそうでないという事実。特に、差別は今とは比較にならない程あったし、人を鬱屈とさせる「問題」は、形を変えつつも日本という社会で継承されているのではないか・・。
芝居に戻れば、「もまれること」は確かに処方であるかも知れない、と我が身に引きつければ、納得する所はあるが、この「リアル」な芝居では、問題の「彼」は、恐らく本質的な部分は変わらないだろうと思わせる感触を残す。またその事を「微笑まし」く描いてもいない。程よく放置して終わる。
電気工事の詰め所に、出入りする「電工さん」、病気で一線を退く社長の娘達、近所の人が、それぞれにしっかりとキャラクターを背負って、濃く存在する。俳優の個人の力の賜物に違いないが、その事を忘れさせる舞台世界の構築が、嬉しい芝居である。
小さい頃、親類を訪ねて心地よいカルチュアショックを味わった宮崎弁にも、愛着を覚えた。
真珠の首飾り
秋田雨雀・土方与志記念 青年劇場
紀伊國屋ホール(東京都)
2015/09/11 (金) ~ 2015/09/20 (日)公演終了
満足度★★★★
日本国憲法の特異性
ジェームス三木脚本作品を過去1本観て1本読んだ気がするが、記憶にある舞台の方はきっちり説明してくれるが意外性がない、という印象だった(演出・演技の問題だったかも知れないが)。今回の舞台は、きっちりとした憲法作成への言及と構成が説得力を持って迫ってきた。「史実」、とりわけ由来の是非が問題化される案件を扱うドラマとしては、きっちりしている事は重要だ。日本に縁のある女性として草案作成に加わったベアテ・シロタ・ゴードンの20代前半という若さを舞台上で目にした発見は、「情熱」に他ならず、未曽有の大戦を終えた時点の人間の状態を「覚醒」でなく、その逆とみる向きに対して、はっきり前者を見せつける内実そのもののドラマと言えた。
軽快さ、緩急ある演出が「きっちり」感を中和して心地よい。
さてこの憲法。作品中、日本の在野の憲法研究グループによる草案にも言及されるものの、ドラマの登場人物は作成グループのメンバー(とGHQの担当官)のみであり、史実も憲法作成者が彼ら米国人である事を否定しない。背景として、連合国占領下の「政府」は戦前からの連続性ある政府であり、彼らの出す憲法草案は体制の変革をもたらすものでは到底なく、一方で他国の干渉を目前にして「民主的な憲法」制定のタイムリミットが迫っている状況があったと説明されていた。他国人による突貫工事の憲法作成は、特殊という他ない。
しかしこの特殊は、少なくとも戦後日本にとって僥倖であった。もし日本のアイデンティティにとって問題があるとすれば、憲法が彼らによって作られた事ではない。発布したのは日本政府であって国民にとっては「押し付けられた感」はなかったはずだ。むしろ歓迎した。誰しも民主主義が占領という外圧なしに実現したとは、理解しなかっただろう。問題は、手の平を返してアメリカ礼賛へと豹変した多くの日本人の根底にある特性そのものであって、「憲法がどうした」程度の問題ではない(もっと根深い)。例えば、問題の一つは、戦争を自ら総括できない体質を温存している事だろう。状況を客観冷静に見据えて対応できない日本の弱点はそこから来ている、と思う。
戦後レジームからの脱却を唱える安倍氏は、そうした重要案件について判断できる能力がなく、しかも米国からの要請によって米国依存を脱却しようとしている意味で、「悪しき」戦後レジームの継承者だ。
島 The Island
キダハシワークス
芸能花伝舎(東京都)
2015/09/06 (日) ~ 2015/09/13 (日)公演終了
満足度★★★★
二人芝居の密度
この日は劇場をハシゴしたが、この手作り感のある平場での芝居が、「見るに値した」と最も記憶に残る芝居な気がする。 南ア戯曲、何27年ぶりで上演、という惹句に、うかうかと足を運んだが、観て良かった。
アパルトヘイトの時代、政治犯の投獄は後を絶たず。一つの「珍しくない光景」から、戯曲を立ち上げた。27年前が「書かれた」時だとすれば、アパルトヘイトは徐々に雪解けに向かう時期。90年代前半でマンデラが大統領になった、その激しい道行きのさなか。・・(あまり詳しくはないが、アパルトヘイトは上からの改革で廃絶したのでなく、立ち上がった民衆のうねりに一歩一歩後退しついに撤廃となった、という事らしい。つまり熱い時代だった。)
舞台は二役者が、幅広く豊かな演技で「閉塞」した空間のプライベートな人間の多様なカラーを演じ、時に取っ組み合い、喜怒哀楽をぶつけ合う。キャラ作り、緩急は見事だった。
二人の関係は単なる「相部屋同士」「仕事上の相方」でなく、ある願望によって、もう一つの色彩が加わっている。ここが仕掛けだ。
極限状況で光る台詞の散りばめられた、優れた戯曲。
劇場の様子もよかった。
無頼茫々
風琴工房
ザ・スズナリ(東京都)
2015/09/12 (土) ~ 2015/09/20 (日)公演終了
満足度★★★★
大正時代の「マスコミ」=新聞
現代は当時の比較でない状況であるが、にせよ、「新聞」というシステムが、国民に広く情報を提供するツールに育って行くと同時に、「国民意識」の醸成にも深く噛んで行くという時代、国家権力介入は必定。 今そこにある「事実」、記者としての使命と、「情勢」とのはざまで右往左往する人々。その中にあって純粋一徹な新聞人魂を痛快に見せる人物も登場し、「新聞とは何か」を問いかける劇であった。
ジャズ&ダンスの転換(大正時代をデフォルメ?)で、新聞社と、記者の知己宅の二場面を往復し、伏流になるドラマも進行する。 最後の最後に、不在者の再登場での強引ともいえるエピソード挿入に、なぜか泣かされた。役の佇まいが的確ではまっていた。他の役にも、はまり具合を気味良く見れた人が多くいた。演技面でのクオリティが印象に残る。
その頬、熱線に焼かれ
On7
こまばアゴラ劇場(東京都)
2015/09/10 (木) ~ 2015/09/20 (日)公演終了
満足度★★★★
おんなななふしぎ
いつもそっけない感じのこまばアゴラの出入口あたりが、華やか。舞台のほうも、女7人の舞台は否が応でも華やかである。だが劇団チョコレートとの共同は、やはり濃く重かった。「重さ」は、そこに役ごと埋まる事で(リアルさを帯びることで)息を飲むような時間になる。 冒頭、尾身美詞の底辺から立ち上がるような声、はかなげに笑む智子役に始まり、渋谷はるかの割り入りの流れはすごみがある。 個人的には渋谷の急角度の演技の入り方は快楽である。昨年夏か、『父と暮らせば』での広島弁を思い出し、彼女にとって一連なりの仕事に見えたが、その価値のある仕事に思える。仰ぐように見る女優の一人。 他の6名はほぼ初の女優も多かったが、今回の舞台で全員、印象に刻まれた。劇団チョコレートとのコラボ、想像に違わず、重く、濃い。ノリの良さげなユニット名とはギャップのある舞台だったかも知れないが、「その頬・・」のタイトルと布の垂れた装置の意味が女優の登場と同時に氷解して以後、息詰まる時間を味わう演劇の快楽。
マクベス - Paint it, Black!
流山児★事務所
座・高円寺1(東京都)
2015/08/14 (金) ~ 2015/08/23 (日)公演終了
満足度★★★★
破滅のカタルシス
四角く象られた広間と奥へ続く階段、段上に王の椅子、背後に通路。人が手前脇や奥脇、上段の上下から頻繁に出入りし、歌い、走る。階段の上手側に坂本弘道と諏訪創が控え、生演奏をしている。坂本氏のパフォーマンス色も健在だったが、シンプルなコード進行の短調の曲が多く、もっと猥雑感のある曲も欲しかった。
正方形の演技エリアの左右にも客席があり、自分は上手側に座ったが、装置、群舞など正面に向けて作られており、初めは若干淋しく感じたが次第に物語に引き込まれ、気にならなくなった。
マクベスと夫人の両頭が突出し、二人の微妙な関係性から導かれる王殺しと隠蔽工作の顛末が、鮮やかに描き出されている。アジアのどこかを舞台に置き換えたとの事だが、その特色はさほど印象に残らなかった。
この作品はやはり美味しい。狂気が手を血に染めて行く。宴席、無二の戦友バンクォーの亡霊を見て取り乱す場面などは、小気味良い。
ダンカン王の子孫の巻き返しが勢いづく中、再び魔女に会って身の保証を取り付けたマクベスは、「森が動いぬ限り大丈夫」「女から産まれた者の手にはかからない」という約束に束の間の安堵を得るが、ついに臣下からの「森が・・!」、そして城門を破った宿敵マクダフの奇異な出自を告げられる、その瞬間のマクベスの身体。ある選択の過ちが自らを破滅へと陥れた悔恨の断末魔は、カタルシスそのもので、この快楽の立役者は間違いなくマクベス役若杉宏二、夫人役伊藤弘子。また改めてシェイクスピアの「創造力」を噛みしめた。
テンポ感のある舞台処理により、美味しいマクベスになった。チラシにあった翻案や演出の斬新さよりは、戯曲の幹をしっかり見せる演出で、実直な舞台作りだったと思う。
南の島に雪が降る
劇団前進座
三越劇場(東京都)
2015/08/07 (金) ~ 2015/08/17 (月)公演終了
満足度★★★★
思い出し投稿☆本家の「南雪」
原作者加東大介の所属劇団による上演は必見と、観に行った。 (会場は武蔵野市民文化会館で、三越にあらず)
ベッド&メイキングスの同演目の公演は、「野外劇」の強みで、会場じたいが物語の舞台となったマノクワリの空気を肌身に感じさせ、この違いの大きさをまず実感した。
戦前から続く老舗劇団の領分は、歌舞伎や新派に近い人情劇かと、よく知らないながら思っていたが、演技のほうは大舞台向けの分かり易いどちらかと言えば大味な表現で、位置的には新劇に近いように思った。前進座に関わりのある俳優の演技を、最近見たときの印象とちょうど重なり、「前進座はあの演技」と、私の中では刻まれてしまった。一本見て決めつけるのも何であるが。
笑い所を作っていて、私の目にはうまく行ってないのだが、逆に新鮮で興味深かった。手が古いというか・・、いきなりその俳優にスポットが当たって強調され、一呼吸置いて台詞を言う、という演出がそこかしこにある。このお話にはユニークな登場人物とエピソードがあるので「笑い」に事欠かないが、それでも戦中、南島に放置された部隊の悲惨な大状況であるから、涙の場面にも事欠かない。小説の最後は、帰国した後に知った戦友の後日譚を紹介し、俳優である自身の抱負で締められている。舞台はどう締めるか。つぶさに覚えていないが、前進座の先輩が実際に体験したこのお話を、引き継いで行く、そのために劇団があり続ける事への決意、だったかな。加東大介とこの劇団との繋がりへと収斂して行くのは自然な事で、その部分は納得できた、という感想を持ったのは覚えている。
演芸部のリーダーだった加東役が語り手ではなく、その部下が語りをやり、リーダーの奮闘振りを紹介するという構図も、加東を大先輩と仰ぐ前進座ならではかも知れない。
難点を敢えて言えば、先述した「間」のあとの台詞、というパターン、そして全体に台詞を丁寧に言うので、テンポが緩くなり、「緩急」がいまいちである。これ以上のテンポにはならないと、観客が悟ってしまうと眠気に繋がる。スポットを当てて笑い所を作るなど、その俳優が重鎮で、気遣いからなのか?と余計な想像が膨らんでしまう。もっとも、劇団が抱える観客のニーズに応えているという事かも知れないが、、出来得るならば、新たな客にも受けやすい演出をぜひ。
ザムザ二アン
虫会
シアターグリーン BASE THEATER(東京都)
2015/08/20 (木) ~ 2015/08/23 (日)公演終了
満足度★★★
思い出し投稿☆希少な恐怖演劇
客席の傾斜をキャンパスにありそな緩い段々に見立て、ステージに客席を組んだ。奥(上段)の両側と、下手前側の三箇所から出入りできる。広いキャンパスのセミ・パブリック空間が、序盤、大学の「らしい」現代口語劇を展開させるにふさわしい雰囲気を出していた。
一転、ミステリードラマに突入し、非日常な状況が起きてくると、「現代口語」を得意とするだろう学生俳優の「非日常でなさ」がたどたどしく印象づけられる事になった。が、それも含め、人が一人また一人消えて行く事態にかなり遅く対応するドラマとしてののんびりさ加減も含め、脱力系、などとレッテルを貼るつもりはないが、そこはかとない可笑しみが漂い、悪くない。
「自然体」演技の仕上がり具合は、高いレベルだったと思う。
ジャガーの眼2008
日本の30代
駅前劇場(東京都)
2015/08/28 (金) ~ 2015/09/07 (月)公演終了
満足度★★★★
わかりやすい唐十郎。
昨年の新宿梁山泊のテント公演「ジャガーの眼」では叫びまくって分からなかった台詞も、絶対噛まない30代の上級役者たちの手にかかればきちんと聴こえ、それだけに、戯曲の分からなさも、見えてくる。例えば、最初の「眼」の持ち主は誰なのか、であったり、最初の「妻」であるはずの女の事をそう認識していなかったとか、そもそも唐十郎作品に矛盾解消を要求するのが間違い、というか、そこを楽しむ物じゃないという・・達観を要求される。というか・・テンポや、瞬間の輝き、印象的な台詞を「味わう」もの。その点梁山泊のジャガーは色々と、娯楽満載だったかも知れない。
駅前劇場というタッパの低い舞台に、さびれた家屋が並ぶセットは良かった。唐十郎と言えばヒーローそしてヒロインだが、ジャガーの眼には何人ものヒーローヒロインがいて、群像劇になっている。最後にヒロインくるみの劇中歌を全員で唄う演出は、よくある手だが「群像」だからこそ舞台が締まった。
平岩紙(くるみ)が後半露出の多いヒロインだが、突出したヒロインという雰囲気より、コメディエンヌ色が強いので笑い所なのかマジなのか、という所はあった。最初、平岩が何かやる度に小笑が起きていた。顔の知れた人が何かやると「笑い」を投げ返す、これは頂けない。
いたって真面目に、芝居をやっていたと思うが、「ジャガーの眼」を選択したという挑戦は、積極評価したい。合間に「素」っぽく振る舞った笑い所を挿入する手に、頼る事なく、笑いは熱演によって引き起こす、という所に誠実さを感じた。
「劇場」で唐作品をやるハンディ(?)が見えた公演だったが、役者の弾け力の総和で気持ちの良い舞台になっていた、と思う。
ユニークな集まりを多方向への挑戦の場として活用してほしい。
地獄谷温泉 無明ノ宿
庭劇団ペニノ
森下スタジオ(東京都)
2015/08/27 (木) ~ 2015/08/30 (日)公演終了
満足度★★★★★
つげ義春
もの凄い舞台を観た。固唾を飲んでみた。目を凝らして見た。
温泉宿。時代設定はあったようだが、昭和の半ばあたりか、ちょっと古い設定だとは後の方で気づいた。緻密に作られた装置は回転式で90度の壁で区切られた4つのエリアそれぞれが趣き深い。誰もいない玄関ロビーに人形遣いの父子がやって来る。暗転の後、案内された部屋に変わっており、度肝を抜く。岩風呂の場面では人が普通に裸で入ってくる。脱衣場もあってそこで「脱ぐ」所作もあるから役者は大変だろう。だが普段私たちも銭湯や温泉では他人に裸を見せている、その感覚が、この舞台での光景を奇異と思わせない。
人形遣い役をやったマメ山田の、異形に見合う舞台。息子が唐組の辻孝彦。今回初めて見た勝手な印象だが身体で覚えるタイプで、愚直に俳優を続けてきての「今」という雰囲気を醸し、作品での「学校にも行かず人形師の父に付いていた」息子という役柄に符合するものがあった(あくまで勝手な想像)。小人症の父の異形と、「空っぽ」の息子が、他の登場人物に初見でのインパクトを与える。
芸妓役の久保亜津子と日高ボブ美の三味線は相当練習したのだろう、勢いのある曲をちゃんと盛り上げて終わらせた。三助がいる。父は「おう」と驚き、背中を流してもらう。その感じ。相部屋となった盲人の松尾、二階に住む老婆も、皆(三助以外)風呂に入るので、裸をさらす。かくして夜には妖しい気配が漂ってくる。声の出演田村律子は老婆の呟きで、折々に入る語りが良い。
鄙びた温泉のあるこの地には来年新幹線が通るという。立ち退きも間近い(らしい)温泉には、まだ喧噪のけの字もなく、追われ行く身のうらぶれた雰囲気が勝っているが、それでも生活があり、自分の生きる土地である。若いいく(日高)が三助との性交で子が授かる事が、この界隈の者にも望みとしてあるらしい。多くは説明されないが、三助とは婚姻関係にはなく、ただ子種を求めているようだ。つげ義春が漫画に描いた、鄙びた土地で暮らす人たちの原初的な生態に近い感じが全体に漂う。狂気を宿す夜は『ゲンセンカン主人』だったかの雰囲気に近い。
その日、酔った芸妓二人が勢いで父子の部屋に入り、人形遣いを見せてほしいせがむ。その声を二階で聴く老婆の中にやにわに嫉妬心が燃え上がる。三味線を手にした小さい時分、しかし自分は芸妓になる器量でないと、三味線を置いた。部屋へ押し入るが、結局そこで異形の父子の異形の人形遣いを観る。息子は胡弓を鳴らし、父は大きな首と手を持つ自分のサイズに近い人形とじゃれ戯れる。 これに一同はそれぞれに強い衝撃を受ける。ざわついた夜となる。いくは皆が寝静まったと思い三助の元へ行く。よがり声が響く。松尾は「触りたい衝動」を二人に喚起され、懊悩して浴場に走り込む。女二人は玄関ロビーに出て煙草を吸う。空っぽで深淵でつかみ所のない「息子」は、ゆっくりと回転する舞台の各部屋を、煙草を吸いながら扉を開けて巡り、眺めるともなしに眺める、という場面が終盤にある。二周目、ロビーでは文枝が老婆の胸に顔をうずめて泣いている。松尾は湯船の脇でお経を唱えている。お湯の流れる温泉場の湿った音が鳴り続け、客席には無機質な椅子が並んでいるのに、すぐそこにグロテスクにリアルな、昭和の鄙びた温泉宿と、湯煙に浮かんで彷徨う魂が、見えた。
「つげ的世界」が、舞台として出現したと感じた。蠱惑的で、離れがたいアトモスフィアは、舞台装置と役者の存在感による。こいつは心の何かに引っかかってくるが、その正体はつかみ所がない。