満足度★★★★
鬼の手のうちに踊り、死に行く人間のあわれ
空想物語にしては(・・と言えば語弊ありそうだが)優れた舞台であり、お話であった。 博打の天賦の運にだけ恵まれた鈴次郎が「鬼」との博打で得たものが、100日で人間となる「絶世の美女」だった、という始まりである。困惑が生じるとすればこの部分のみ、というのは・・ ここは「現世」なのかあの世なのか、というとあの世であると冒頭で語り部(賽の河原に居る鬼)に説明された形跡があるのだが、その鬼から「見よ」と指し示された先では、現世の鈴次郎が博打をする風景を映しているかと思いきや、そこに鬼がおり、上の賭けとなる。だが、次の瞬間には「現世」で「生まれたばかり」の女を抱え、赤子のような「儚」に付き合わされ調子を狂わせられる鈴次郎の「現世」での日々が始まっている。最初の鬼との博打の場面は何だったのか・・と、終盤、マクベスよろしく行き詰まった鈴次郎がもう一度「取引」を交わすべく鬼を呼び出す、という運びとなり、ここに至って観客はようやく冒頭の場面が特殊な状況で、鈴次郎が何らかの成り行きで鬼と博打を打つことになった、という風に再認識する。がしかし、その段になれば既に話に引き込まれ切っており、問題でなくなっている。
事ほど左様にこの奇想天外の空想物語の運びはうまく、舞台の使い方(装置)の端正さ美しさ、場面転換の鮮やかさ、左右両サイドで生で演奏される「音」(主に打楽器だが「音楽的」に響く音が多い)、この世のモノでない博打の女神を「演じる」操り人形、そして自在に世界観を変化させる照明によって、「空想」的世界観を見事に具現できていた。プロの仕事だ。
ストーリーの面白さ。「絶世の美女」が酔狂でやった鬼との博打で転がり込み、最初に見た相手を親と思うように儚は鈴次郎に「父親」を求める、この二人の関係がしっかり示される。一たび相手を子供と見た目には、儚を「女」と見る目は奪われている。やがて知識を身につけ、独り立ちを願う儚は、自分が後数十日で人間になる事を知る。ただし、男と交わらなければ、である。「絶世の美女」儚は、死体のパーツから作られたので、人間としての魂を宿すための時を要する、のである。
「真性の人間」でない儚を巡り、戯曲は、登場人物らにあからさまに卑猥な連想をここぞとばかりに言わせる。抜かりがない(と言うべきか?)。
さてその後の顛末は、悲惨である。鈴次郎の困惑、絶望、錯乱、博打うちの典型的な破滅への道が、まるで絵に描いた光景のように現前して行く。この境涯での鈴次郎には儚の存在は軽く、ついに苦界に身を沈める儚であったが、経緯あって男をイかす「手」を知る彼女は・・・と、まだまだ興味をそそる展開が続く。そして終盤には儚と鈴次郎の心の交流が、言葉となって湧き出し、舞台を熱くする。
コミカル・痛快な局面と、人間感情の極まる局面とが、両面緩急自在に表現され、押さえる所を押さえた練達の舞台だ。
物語全編に漂う、基調となる色合いは、まるで操り人形のように人形師に動かされ恣意に翻弄される存在である人間の哀しさ・それゆえの愛おしさ。
一方で「鬼」は、人間の運命をたやすく左右できる者として、有限なる人間とは異なる感覚をもって人間界を眺め、人間に不条理を強いるものの象徴として、視覚的に印象づける。人形も然り。そして二人が迎える結末において、「抗えない力」に弄ばれる小っぽけな人間の陰影が、脳裏に刻まれる。
この「力」に精一杯抗うことで何かを「示す」ことは出来る・・ というメッセージ性も確かにこの芝居には潜んであり、その事が観客の琴線に触れているのには違いないだろうが、このことは安易に語ってはいけない気もする。