tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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オークルチャボット

オークルチャボット

劇団黒テント

王子小劇場(東京都)

2015/12/05 (土) ~ 2015/12/13 (日)公演終了

満足度★★★★★

黙っていてもいいのだが・・(私的感想)
もう少し長く拍手して手が腫れても良かった。個人的には十数年前、二番目に知った劇団。懐かしさに震える。劇空間のアトモスフィアを観劇後も噛みしめて帰路についた同劇団「メザスヒカリノ・・」(初演と翌2000年の再演)は、演劇との幸福な出会いであった。この時いらい、先日のこまつ座での「再会」に続き、今回の黒テントでの音楽・荻野清子(終演まで知らなかった)は、黒テントにとっても「メザス・・」いらいでは・・。荻野楽曲はドラマとの絶妙な距離感で人物たちを愛おしみ、人生の時間への思いを切なくかき立てる。ドラマ上の結語の後の唄は、「メザス・・」のラストの唄に似ていた。ドラマを俯瞰し、既に現実に帰って行こうとする、<ぼくら>のことを歌う唄だ。贅沢にも数曲ある生演奏は全て登場する役者が自前でやっている。黒テントは何と言っても音楽である。(アトモスフィアを噛みしめた次点は「上海ブギウギ」。)
ファンと言って憚らない滝本直子、服部吉次、やってくれる片岡氏、内田氏、貫禄の桐谷夏子、特徴ある声の山下順子、堅実な宮崎恵治と、黒テントでしか見られない個性の団員総出に胸が熱くなる。
そして、特筆すべきはテキスト。舞台は日本らしいが、アメフトの応援団(サッカーで言う所のフーリガン)の生き様を、ヤクザ映画よろしく描き出す。山元清多の「海賊」を彷彿とさせる、「男気」の競い合いである所の啖呵の応酬、「如何に美しい喧嘩を戦うか」のモデルと見える。わがチーム・オークルチャボットはニワトリ、対するチームはヒラメを渾名とするが、このレッテルを駆使した罵り語の多彩さ。作家の坂口氏が多産の時期を舞台は見逃しているが二、三見た記憶を手繰っても、今回の練られ具合はどうだ。こんなに書ける作家だったのか・・。元々ノワールな世界を得意とするようだがその面目躍如。言葉に酔った。役者も酔えた事だろう。
このお話が女性の支持を得るのかどうか・・と一抹の懸念もよぎったが、今の所材料がない。
昨年の今は無きタイニィアリス公演での「復帰?」から一年。個人的心情でしかないがよくこれを作ってくれたと感涙。斎藤晴彦氏もきっと笑ってる。

お召し列車

お召し列車

燐光群

座・高円寺1(東京都)

2015/11/27 (金) ~ 2015/12/06 (日)公演終了

満足度★★★★

横長な座高円寺1は鉄道モノが正解?
そう言えば以前この劇場で観たとくお組も駅ホームの芝居だった。燐光群は昨年の「8分間」が駅ホームだったが、今回は列車の中、及び奥側はホームにもなる。
今回の燐光群は、いつもながらの「言い合わず」「補強し合う」群衆セリフで多くを説明する場面の割合も高いが、渡辺美佐子の存在も大きく影響してか、程よく重く深みのある芝居になっていた。お召し列車と揶揄された列車に乗り込んだ、究極の差別対象であった「病」の当事者のグループと、20年東京五輪での「おもてなし」案としての「お召し列車」を吟味し決定するべく集った一般人のグループ。過去に繋がる集合と未来を見据える集合が列車の中で行き交うも、二つの問題が並行して重ならない時間は長い。それが一瞬の内に劇的に交わるのは終盤での事だ。両者が手をとり、「あるべき日本」を眼差す厳粛な時間がよぎる。そしてあっと言う間に幕は下りるが、この含意は後から心の中に浸潤し、焼き付いて離れない。 

王国、空を飛ぶ!~アリストパネスの『鳥』~

王国、空を飛ぶ!~アリストパネスの『鳥』~

SPAC・静岡県舞台芸術センター

静岡芸術劇場(静岡県)

2015/10/31 (土) ~ 2015/11/15 (日)公演終了

満足度★★★★

左脳的テキスト、右脳的に飛ぶ(快哉)
なぜかこれは観たかった。静岡くんだりまで足を伸ばしたが、甲斐あった。ギリシャ喜劇作家・アリストパネスの現存するテキストの一つ『鳥』は、奇想天外な話で、天(神の国)と地(人間の国)の間、つまり中空に鳥たちが国を作ってしまう。この話の筋は残しつつ、作・大岡氏は現代の話として構成し直し、現代劇としてSPACの劇場にどっかと現出せしめた。これ即ち現代諷刺劇。日本の現代・現在をちくりとやっている訳だが、時々寒くもなる。だが、寒いと感じるのはそれを寒いと感じさせる「空気」を吸って生きる己の偽らざる感覚に他ならない、という事でもある。言葉にすれば身も蓋もない事実も、それが事実なら言葉にすべきである所、我々は何を口ごもり、口にしない洗練さなどと澄ま しているのか・・と。この劇は『鳥』の翻案であると共に、アリストパネス自身が作品を通じて当時の世相や事物を刺しまくったように、日本においてそれをやる、という試みでもあった。この試みに拍手を送らずして何に拍手するものか?などと興奮を噛みしめつつ帰路についたものである。

ネタバレBOX

舞台処理や間合いの埋め方に、惜しいと感じる部分があったのは正直なところ。テキスト主体の左脳的印象の強い舞台が大岡氏らしさ、だろうか。右脳的・身体反射的な要素に譲る部分がもっと広がると、良い気がする(甚だ漠然とした感想だが・・)。
水仙の花 narcissus

水仙の花 narcissus

城山羊の会

三鷹市芸術文化センター 星のホール(東京都)

2015/12/04 (金) ~ 2015/12/13 (日)公演終了

満足度★★★★

城山羊3作目、斜に見た感想
岸田戯曲賞を取った前後の舞台を観ていた。リアリティを平然と無視して「娯楽」(即ち意表を突く殺害・濡れ場・裏切りなど)を優先し、観客はそれを良しとして喜んでいる、何と低レベルで下品な空間だろうと、唾を吐きたくなる初回であった。下品さをカバーする「何か」もない(何やら有りそうな雰囲気を醸してるが・・)。ただ、二度目、相変わらずリアリティ無視のテキトーさに再度唾棄したのだったが、「真面目に作ってる」様子がどことなく伺えた。もう一度だけ見てみるかと、今回三鷹くんだりまで足を運んだが、芝居が成立しており、最後まで面白く観た。
終盤で時間経過がおかしい部分があったものの、そこで城山羊の会の特色をいま一度思い出したという事で、そこまでは破たんなく見れた。ただし、ぶっ飛んだ話である事は同様で、これを成立させていたのはひとえに役者の力、とりわけ吹越満の演じる中産階級の狂気と良識の両極に振れるキャラクター、また周囲の者を常軌を逸した行動へ突き動かす謎の女性の美形、肉親でありながら別人である事を否定し受けいれてしまう妹、その夫、謎の女性の夫、男の娘のサディストぶり、彼女と不思議なバランスで関係している彼氏、胡散臭いコンサルタントなど、いずれも常軌を逸した事態を成立させるべくそこに立っている。
城山羊の特色は、あり得ない場所やタイミングで「発情」し行為に及ぶ場面が必ずある、という事らしい(三作とも共通していたので恐らくそうだろう)。
必然性があれば文句は無いがお家芸のようにその場面を仕込む必要はないのではないかと素朴に思う。しかしそれが集客や人気に繋がっているなら、時代のほうがエログロを擁する土壌と化しているのかも。文明の爛熟の中、抑圧状況を身体が感知している・・ 
お話については特段何か言い添える事はなく、深読みできる余地もないが、ただある場所で、奇妙な出来事が起こり、その事態にあって初めて人間が見せる興味深い反応を、舞台上で描いて見せたものだ、と言える。で、毎度の事、その感情は人間が「追い込まれた」時のそれであり、作者の狙いもそういった修羅場での人間のありようを如何に醜悪に描き出すか、という所にありそうだ。
今回は優れた俳優(チョイス)と戯曲とのマッチングにより、他では目にできない舞台を味わえた、と思う。

ラバウル食堂

ラバウル食堂

劇団芝居屋

ザ・ポケット(東京都)

2015/11/11 (水) ~ 2015/11/15 (日)公演終了

満足度★★★

ディテイルの面白さ
初観劇の劇団。ラバウル食堂、というタイトルが気になり観劇させて頂いた。タイトルはとある商店街の一角にある古い食堂の名前だ。芝居が進むとこれが至極納得なタイトルである。元店主がラバウル戦線からの帰還兵(病気のため玉砕の前に帰国した)、戦友たちから預かった手紙を遺族に渡すために戦後「ラバウル」と名を冠した食堂を出したという。古くなった食堂を改装した娘、その婿や町の人達が結果的にはその遺志を継ぐ事になるお話、と諸々捨象すれば、そういう話である。
面白いのは町の信金の営業青年やブティックの店長、その踊りの師匠雑貨屋、ラーメン屋、肉屋といった面子が「町おこし」が恒常的なテーマとなった町の日常の、なかなかリアルに切り取られた光景を再現しているところだ。
じりじりと逼迫させられている「地方」「地域」の例に漏れないこの町で今イベントが計画されているらしい。そこへ、「ラバウル食堂」とのこの町を探る地域のケーブルテレビの取材が入り、カメラを回す所での、まるでお約束のようなコミカルな場面もある。番組が放映されると皆それぞれの携帯の着信が鳴り、反響に喜び、泣くシーンも用意されている。
最後には、地域を盛り立てようと奔走していた信金のお兄さんの願いも叶わず支店が撤退となり、また日々味と格闘するラーメン屋の倅がついに独立の意志を親父に打ち明け、すんなり認められるといった、そんなエンディング近くのエピソード紹介。
地元を愛し地元で頑張ろうとする人々と、「外」へ出て自分を試したい野心を持つ人との、潜在的な対立構図がこのラーメン屋の息子を通して浮かび上がるが、何故か男は父の承諾を得た途端、東京へ行く気を無くす。「憑きものが取れる」と言うが、「東京」「都会」、ある種パターン化した「成功」の図への囚われは、様々な問題を難題と意識させる大元ではある。

地域の疲弊の問題と、風化して行く戦争という問題が主に盛り込まれた芝居だが、私の常々のこだわり=戦争をドラマの手段として用いる事の倫理的懸念=には抵触せず、人と社会に歴史有り、という単純な事実に気づかせる芝居である。
もちろんこの社会の「日常」がどうなっているのか、という視点が大事なわけで、「のぞき見る」日常は様々に解釈し得るし、切り取り得る。
いずれにしても、この芝居のような平和が続くことが願わしいと思える芝居であった。

ネタバレBOX

舞台美術は路地と、食堂店内の二つで、路地のほうは前面を使っているが、食堂の豪華な作りに比してそっけなかった。下手の出はけを客席側の扉を使ってやっていたようだが、隠しが無いため劇場の黒い壁がもろに見えてどうしても「作り事」(学芸会)の印象を最初に持ってしまって損である。
俳優の演技にもう一歩頑張りが欲しい、とは素朴な感想だ。アマチュア劇団として見ればそこそこ頑張ってる、という評価になると思うが・・ 脚本が描き出す人物が、たとえドラマ成立のためそれ以上の掘り下げを要求していなくとも、俳優の人物造形で芝居に深みは俄然違ってくるのではないか。
泥花

泥花

劇団桟敷童子

すみだパークスタジオ倉(そう) | THEATER-SO(東京都)

2015/11/05 (木) ~ 2015/11/12 (木)公演終了

満足度★★★★

ふくよかな劇空間。久々の再演
炭坑三部作中「おばけの太陽」と「泳ぐ機関車」は観ていた。似た話があったな~、とは思ったが、他にも近い設定の話はあるし、桟敷童子の劇は「話の中身」自体は深く追わずとも、観劇の快感を得られるので、今回は「観てない」この作を、時間が出来たので前日予約してみにいった。「泥花」が最も完成度の高い戯曲だ、と感じた。みれば2006年初演。桟敷童子の16年の歴史では「前期」に属する勘定になる。特にオープニング~前半が「たまらない」程よい。炭坑の経営者の家族が素性を隠して別の炭坑町へ遠戚を頼ってやってきた訳だが、姉二人(板垣・川原)と弟(外山)の心許ない境遇にあっての結束やすれ違いのドラマ、訪れた町で出会った人達それぞれの人生模様と彼女らとの関わり・・「語り手」である三姉弟の弟の済んだ目に映し出される風景としてそれらが見えてくる。もっとも弟も、「泥花」の逸話とそれを切々と訴えて来る顔を炭だらけにした親無し子(鈴木)に子供らしく心を揺さぶられ小事件を起こす当事者にもなる。件の坑内事故で親を亡くしたという青年(池下)に女としての心を動かされる姉たち、また青年は次第に労働運動に関わるようになり、雇用者の反感を買って身を危うくする。次女がまず彼に思いを寄せるが、彼の心が長女にある事を悟り静かに身を引く。引っ込み思案な長姉だが彼と関わる内に自分の(家族の)「罪」を隠しきれなくなる。深く心をつなぎ合わせた二人だったが、追われる身となった青年は、「闘って下さい」(あなたの人生の闘いを)と言う。・・舞台は上手に三姉弟が身を寄せる部屋、中央に通る狭い裏路地を隔てて飲み屋「稲久」の家屋と半戸外の営業スペース、前つらが通り道。この空間が、そこに出入りする人物たちと相まって、愛すべき世界を形成している。 
今回は劇団の過去公演の写真の展示がなされていた。旗揚げから数年はいかにもアングラな雰囲気が感じられる美術、衣裳で意外だったが、初期作品を再演という企画もやって欲しい。

橙色の中古車

橙色の中古車

FUKAIPRODUCE羽衣

こまばアゴラ劇場(東京都)

2015/10/30 (金) ~ 2015/11/01 (日)公演終了

満足度★★★

深井順子の一人みょー芝居
糸井氏の脚本+深井氏の時折挿入されるコミカル振り付き一人芝居の公演。FUKAIPRODUCE羽衣のテイストが両名の持ち味で作られている事を示す、あぶり出し実験成功!的舞台は約1時間、深井が動き回って程よく(観客も)疲れた頃終了した。客席に見える十代の子たちに受けまくっている。一段高く据えられた「白」で覆われた横長の舞台と入り口との間に渡された通路が、客いじり可能領域を広くしており、手の届く範囲内の客はいじられる。しかし「素」になる事なく女優本人も役もそうである所のアラウンド40の演じる中での力技を、遠慮会釈なく客にぶつけて来る。出来すぎた展開もこの女性なら可能かも、と思わせる女優深井の造作に助けられてのお伽噺が、苦手な向き(私も然り)もあるだろうが、傷心旅行とおぼしい背景設定が女の行動に終始その陰を落とすので、それなりに素直に見る事ができた。
それにしても漫才コンビの決めポーズに通じるギャグ的振りに、観客は惜しみなく笑いを返していたが(特に中高生)、その振りを意味に還元するなら年増女の悲哀の照れ隠し、あるいは居直り、といったもので、その意に共鳴しての笑いだったのか、変顔かましてでも笑いを取ろうという深井氏の気合いに「負けた!」という白旗の笑いなのか・・。「笑い」って何だろうと考えさせられる公演でもあった。
総じて喋って動いて走る姿の勇ましさ・清々しさが残る、スポーツな舞台と言える。

「燈篭」「待つ」「葉桜と魔笛」「貨幣」

「燈篭」「待つ」「葉桜と魔笛」「貨幣」

おででこ

川崎ファクトリー(神奈川県)

2015/11/13 (金) ~ 2015/11/14 (土)公演終了

満足度★★★

太宰の世界
川崎はここから先が工場地帯になる産業道路の内陸側の脇に、このたび初めて演劇(等)のフェスを開催するという、この地域「らしい」建物を訪れた。簡素だが雰囲気は悪くない。ウッディな色合いで黒が少ない。演劇(舞踊も?)では黒はニュートラルである。飴屋法水は色も音も完全に消す事はできない、「出来る」という共同幻想を演劇人は持っていやしないか、といった見解をどこかで述べていたが、「ニュートラル」は事実としてでなく目指すもの、としてやはり一つのあり方だ。想像(及び創造)の下地である。
おででこの実際の舞台は二度目だが、会場の選択がユニークで、「場所」を自分たち仕様に設えて舞台世界を構築するベクトルでなく、俳優がどの場所においても身一つでも世界を立ち上がらせる、という逆のベクトルがある(ように思う)。
今回は三女優による一人芝居×3+三人芝居。太宰治の小品を、恐らく原作のまま語っている。つまり、翻案しておらず、役者は絶えず動き、演劇的な演劇となっていた。学生時以来、太宰を再発見した。

ネタバレBOX

待ち時間、フェス関係者らしい男性が「皆さん東京からですか」「はるばるこんな所へようこそ」と言った。会場提供者の謙遜だったかも知れないが、私に言わせればおででこの前回会場や、d倉庫のある日暮里界隈こそ僻地だ。
とにかく東京一極集中という異常状態は、日本の演劇にとっての「原罪」ではないか?・・という状況の中、こたびの企画は皆の朗報以外の何ものでもない。
(上演時間70分程度、につき星三つ)
最後に歩く道

最後に歩く道

TOKYOハンバーグ

サンモールスタジオ(東京都)

2015/11/01 (日) ~ 2015/11/08 (日)公演終了

満足度★★★★

動物愛護のテーマは苦手だったが。
テーマがはっきりした作品だ。ステージの大きい部分を占める約40㎝高の円形の台、蹴込みは柵のデザインで、この直径3m程の円台に、冒頭、犬たちと思しい四つ這いの俳優が音楽の中悲哀たっぷりのムーブで「最後」を迎える瞬間を示す。円形の内部は檻の中を表していると知れる。図らずもここで動物たちへのシンパシーが湧く。台の奥側には開閉可能な本物の柵が置かれ、出はけはこの扉と下手の袖二つ。舞台処理はスムーズ、見やすく、感情移入も可。
きちんとした取材をもとに作られた痕跡がそこここに見え、きちんと書かれた本だとの印象を持った。テーマ内に収まった作品だとは言えるが、ここ動物愛護センター(という名の民間委託の保健所=野良犬猫を一定期間一定数保護し余剰は殺処分する)という設定が良い。彼らの日常業務、先進的な活動をしている熊本の事例、トリマーもやっている青年職員らの目的意識、ベテラン職員の苦労と悲哀、新たに採用された職員とのやりとり。猫や犬を個人的に飼う者同士の雑談などにも、動物と人間の関係が生々しく表れ、様々な角度からこのテーマを掘り下げることにより全体像がうっすらと浮かび上がる作りになっていた。
何より、主人公が慣れない部署に配属させられた「ほぼ新人」で、娘一人を養う身だがしっかり者の娘に全てを悟られている風もある。そんな素人目線の男を通して、この世界に観客を誘導し、素人ゆえの切り込みを会話でやらせていたり、台詞の構築もうまさがある。
TOKYOハンバーグは昨年のB.LET'Sとの合同公演が初で、大西氏脚本、劇団単独公演は今回が初。独自性、について語る材料はないが、終盤に登場する老犬の存在はユニークだった。厳しい現実を背負う老犬と、主人公の男との交流(といっても一方的に語っているだけだが)は、中々ないシーンではなかったろうか。
安直な涙に流れず、むごい現実を手加減なく、効果的に見せていた。この芝居には不快な現実を観客に受け入れさせる仕掛けがある。
・・主人公は犬が苦手であり、最もこの職場に「向かない」人材とも言えたのだが、老犬の姿になぜか彼は動かされる。結果的には、それは同情といったものではなく、何より彼は最も酷薄な決断を老犬に関して行なう。その時、飼い主からの虐待で脅えきった、しかも病に冒されて余命幾ばくもない老犬を、彼は抱いて語るのだ。その言葉の説得力は「犬好き」でない彼だからこそ持つ。かくして、殺処分を巡る動物たちの「ドラマ」に彼はいつしか足を踏み入れており、かつ問題を最も敏感に感じ取っていた人間だった事が露呈する。彼は、即ち私たちでもあるだろう。犬・猫の存在が連想させる「死」の現実と、向き合えない自身に、その弱さゆえに気づくのだ。

うしろの正面だあれ

うしろの正面だあれ

山の羊舍

小劇場B1(東京都)

2015/11/04 (水) ~ 2015/11/08 (日)公演終了

満足度★★★★

普通でない人と普通の人と
こたびも別役実テキストの妙味に浸った。名取事務所の『壊れた風景』と同じ下北沢小劇場B1にて。姉と妹の冒頭「枕」を巡るやり取りは、歴史観を巡る「争い」の要素をぎゅっと詰めたサンプルのようで笑えた(現実にある問題を思えば笑えないが)。この姉妹の永遠に続きそうな関係性・距離感は全編に貫かれる。場は玄関に通じるダイニングで呆けた父が「そろそろ茶の時間か」などと言ってそこに出てくる(母はいないらしい)。この父が、台詞で絶妙に絡む。さてある日、妹が朗読の会か何かで知り合い、本を返すように言っておいた相手の男性がやってくる。この「外来者」(そこそこ若い男性)を家の流儀によって組み敷き、ある結末を迎えるまでの顛末。
まず、二人が発語する言葉の意味は逐語的なそれとは正反対である。その事を、姉は妹について、妹は姉について「外来者」に説明するが、その行為がある狙いを持っていることは、当の二人の(他方についての)説明によって明らかになるという入れ子状態。つまり、姉は「妹はああ見えてあなたの事が満更でもない」と言い、妹は姉の事を「あなたを待っているのよ」と言う。姉妹の様相がこうなるに至り、「異性」問題がその核心に横たわるらしい、と、感づく。

別役作品は俳優に高度に的確な演技を要求する、という印象が強いが、今回も俳優が印象に残った。男(外来者)の役は姉妹に翻弄されたり、時に意志を示したりの塩梅。父親は呆けていながらある時には妙な説得力を言葉が持ってしまう演技。姉と妹はそれぞれの俳優の持ち味を生かしながら常に対をなして、言い合いにも終りがなく(どちらかが他方を征する結果は来ない)、均衡した関係を維持している微妙な加減。
姉妹が主役であるが、外来者に対してあからさまに秋波を送るのを憚られる年齢に既にある、その具合も絶妙だった。
奇妙な会話・・とは言え一応成立はしている会話・・の中に立ち上る香り(異臭?)がやはり別役戯曲のうまみで、癖になる。

ネタバレBOX

今回の作のラストも、まるで獲物が蜘蛛の巣にかかり非業の死を遂げるという犯罪オチだった。このオチがなくとも、途中が十分楽しめるので、「お話」としての収まりを付けなくても良いのではないか、と以前別役作品について述べた事があったが、今回のオチはこの奇天烈芝居が「現実」に繋がることを仄めかす。その示唆があった。
二人の他者(異性含む)に対する(延々続く対話の中で増幅した?)歪つな感性が、「他者」の正しい評価にさらされることなく残存し、後戻り出来ない程に膠着し、偶然彼女らと接触した男が、その犠牲になる。生け贄に等しい。
ある事実=現実を受け入れることのできない心、にも関わらず、現実の中にある美味しそうなものを、ガチに「得よう」とするゆえに、「想定」と「現実」の乖離は決定的に現前するのであり、この現実を否定するには、それを主張する相手を「消す」のみだった、という事である。
もし仮に、美しい女優でなく醜女(キャラ?)が演じたとすれば、ベタな現実をなぞる日本残酷物語になるかも知れないし、または一方を美人設定、他方を醜女設定、あるいはその逆パターンなど、観てみたいが・・いつその機会と遭遇できるだろう。
『いとしの儚-100DaysLove-』

『いとしの儚-100DaysLove-』

劇団扉座

座・高円寺1(東京都)

2015/10/29 (木) ~ 2015/11/08 (日)公演終了

満足度★★★★

鬼の手のうちに踊り、死に行く人間のあわれ
空想物語にしては(・・と言えば語弊ありそうだが)優れた舞台であり、お話であった。 博打の天賦の運にだけ恵まれた鈴次郎が「鬼」との博打で得たものが、100日で人間となる「絶世の美女」だった、という始まりである。困惑が生じるとすればこの部分のみ、というのは・・ ここは「現世」なのかあの世なのか、というとあの世であると冒頭で語り部(賽の河原に居る鬼)に説明された形跡があるのだが、その鬼から「見よ」と指し示された先では、現世の鈴次郎が博打をする風景を映しているかと思いきや、そこに鬼がおり、上の賭けとなる。だが、次の瞬間には「現世」で「生まれたばかり」の女を抱え、赤子のような「儚」に付き合わされ調子を狂わせられる鈴次郎の「現世」での日々が始まっている。最初の鬼との博打の場面は何だったのか・・と、終盤、マクベスよろしく行き詰まった鈴次郎がもう一度「取引」を交わすべく鬼を呼び出す、という運びとなり、ここに至って観客はようやく冒頭の場面が特殊な状況で、鈴次郎が何らかの成り行きで鬼と博打を打つことになった、という風に再認識する。がしかし、その段になれば既に話に引き込まれ切っており、問題でなくなっている。
 事ほど左様にこの奇想天外の空想物語の運びはうまく、舞台の使い方(装置)の端正さ美しさ、場面転換の鮮やかさ、左右両サイドで生で演奏される「音」(主に打楽器だが「音楽的」に響く音が多い)、この世のモノでない博打の女神を「演じる」操り人形、そして自在に世界観を変化させる照明によって、「空想」的世界観を見事に具現できていた。プロの仕事だ。
 ストーリーの面白さ。「絶世の美女」が酔狂でやった鬼との博打で転がり込み、最初に見た相手を親と思うように儚は鈴次郎に「父親」を求める、この二人の関係がしっかり示される。一たび相手を子供と見た目には、儚を「女」と見る目は奪われている。やがて知識を身につけ、独り立ちを願う儚は、自分が後数十日で人間になる事を知る。ただし、男と交わらなければ、である。「絶世の美女」儚は、死体のパーツから作られたので、人間としての魂を宿すための時を要する、のである。
「真性の人間」でない儚を巡り、戯曲は、登場人物らにあからさまに卑猥な連想をここぞとばかりに言わせる。抜かりがない(と言うべきか?)。
 さてその後の顛末は、悲惨である。鈴次郎の困惑、絶望、錯乱、博打うちの典型的な破滅への道が、まるで絵に描いた光景のように現前して行く。この境涯での鈴次郎には儚の存在は軽く、ついに苦界に身を沈める儚であったが、経緯あって男をイかす「手」を知る彼女は・・・と、まだまだ興味をそそる展開が続く。そして終盤には儚と鈴次郎の心の交流が、言葉となって湧き出し、舞台を熱くする。
 コミカル・痛快な局面と、人間感情の極まる局面とが、両面緩急自在に表現され、押さえる所を押さえた練達の舞台だ。
 物語全編に漂う、基調となる色合いは、まるで操り人形のように人形師に動かされ恣意に翻弄される存在である人間の哀しさ・それゆえの愛おしさ。
一方で「鬼」は、人間の運命をたやすく左右できる者として、有限なる人間とは異なる感覚をもって人間界を眺め、人間に不条理を強いるものの象徴として、視覚的に印象づける。人形も然り。そして二人が迎える結末において、「抗えない力」に弄ばれる小っぽけな人間の陰影が、脳裏に刻まれる。
この「力」に精一杯抗うことで何かを「示す」ことは出来る・・ というメッセージ性も確かにこの芝居には潜んであり、その事が観客の琴線に触れているのには違いないだろうが、このことは安易に語ってはいけない気もする。

おせん

おせん

サスペンデッズ

シアター711(東京都)

2015/10/30 (金) ~ 2015/11/01 (日)公演終了

満足度★★★

シンプル・サスペンデッズ
過去観劇4本程度。今回は劇団男優3人による(なぜか)「好色五人女」というので一体どういう趣向かと楽しみに出かけた。 不幸な事に(このところ恒に疲労しているため)前半にしばしば睡魔に見舞われ、目を無理やり開けても言葉が脳の解析機能を通過せず、原作を知らない自分には筋を追う上できつい事態となった。<おせん>が関わる複数の男、特に目立つ二人のどちらがどういう関係の者なのかが、不明のまま最後を迎えてしまった。もっとも、終盤の展開の「意味合い」そのものは見え、最後に付加された翻案は構図的に明瞭で「読み違え」ようはない。
 こうした作品のお土産=原作への興味は持ち帰った。小さなシアター711で3名という布陣は程よく、セットは黒の床・壁、中央に垂れた黒幕、四角い箱を組み合わせて場面を転換し、「時代物」と判るユニフォーム的衣裳で複数の役を演じ、走り回る。テンションの高い舞台だった。
 ただ、もっと高い完成度を狙えたのではないか、と感じる余地がそこはかとなくあった。原作を知らず途中筋を見失った者ではあるが、この感じは「筋・物語」という情報面に関するものでなく、美的側面に関わるもの。
 <おせん>役を担った佐藤銀平氏が「女性」性をガン無視して演じているように見えた事。演じ「られなかった」のか、意図的なのか、不明だが、狙いだったとすればこれは外れではないか(体形的にも他の俳優が適していなかったか)。また俳優のテンション、要は声のボリュームが、不要に高い。演劇としての「高み」を、最後の手段=テンションに求むしかなかったのか・・ 「女性」性の乏しさと相まって、これは繊細な作りを断念し、ノリで突っ切らせたように見え、どうも江戸の人情機微から離れて行く感を否めなかった。
 「筋を見失った」ゆえに抱いた不満である可能性は、否定できないが・・。

ココノ イエノ シュジンハ ビョウキ デス

ココノ イエノ シュジンハ ビョウキ デス

日本のラジオ

RAFT(東京都)

2015/10/23 (金) ~ 2015/10/26 (月)公演終了

満足度★★★★

二度目。RAFTの面白さ
狭くて客席も少ない。前回観た新宿眼科画廊と似たり寄ったりの条件だが、こちらの方が道路に面してたり地下に潜らず、扉一つで外界、という条件は冷や冷やものではある。だがこういう場所でも芝居が始まればその世界が立ち上がらせる事ができる、その自負あればこその会場選択も、有りだな、と思った。もっとも装置に金はかけられず、照明はありもので対応。客席数と会場費は対応してるはずだから、そこを押さえれば公演じたいは成り立つ、んだろうが・・。
 さて芝居。好もしい緊張感、程よい不明さから、程よい解明の速度、4人という程よい人数(舞台上に登場するのは多くて3人、それも短時間)。何よりこの手の小屋のうまみは至近距離で見る面白さだ。
 舞台のほうは、対面式の客席で、中央が演技エリア。その片側の扉は始め観客が入場する入口で、入ると目の前に積まれた本に驚くが、芝居が始まると扉は古書店の出入口になる。道路に近い方の客席は中央で割れ、店から自宅に繋がる通路である。開演すると、店の出入口と反対側に置かれた机に店主が風情を漂わせて座っている。間にテーブルが二つ、上に書物が重ねおかれ、また客席との境界として横積みの文学全集が並べられてある。そのような全体で古書店を表現する。
 小編である。店主の特殊な設定と、結果的に不幸な遭遇をしてしまうたまたまふらりと訪れた客、目の見えない妻、店主の妹。「古本屋」という設定にも合うが、訥々と交わされる、数少ない台詞で、ある劇的な状況が綴られており、凝縮された物語表現に、ある種の小気味よさを覚え、気分を良くしてRAFTを後にした。短歌を愛でるこの国の美的感覚をくすぐられたのだろうか。
 描かれたものは「特殊」ではあったが、基調として現代人の、「病的」さを内包せざるを得ない環境というか時代性というか、何かそのようなものが流れているのを感じた。

新国立劇場演劇研修所9期生試演会「血の婚礼」

新国立劇場演劇研修所9期生試演会「血の婚礼」

新国立劇場演劇研修所

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2015/10/23 (金) ~ 2015/10/27 (火)公演終了

満足度★★★★

うまい。
研修所は海外戯曲をよくやる。若手が、年齢の高い役も担う。役の勘どころを掴んで役として提示する技術は、以前「親の顔が見たい」で生徒の父兄を演じた20代の研修生に見て感心した所だったが、今回も声の若さは邪魔な部分もあったがきちんと成立させていた。 難関はこの戯曲が「熱い血」の奔流にさらわれる人種たちが織りなす物語であることで、詩的な言葉に変換された内的な激情をしっかりと表現することが課題。これに関してもよく頑張っていた。特に印象に残った俳優もいた。
 演出は初めて見る名だったが研修所の演出スタッフ・田中麻衣子氏の手腕も発見だった。伊藤雅子の装置は、恐らく石作りだろう建物の床に6〜8本の柱(角柱)が立っており、これが場面により移動する。建物の中の居室と見えたり、人が出入りする通過点のロビーのような場所を表したり、柱が二本移動するだけで森を表したりする。
 演出の手腕を見たのは中盤、婚礼の日、舞台上は花嫁の居室(下手袖奥)とテラス(舞台奥)、人々が集まる広間(上手の見えない奥)を、つなぐ通過点となる空間で、ある不穏な事態への「予感」が的中するまでの運びが、見事だった。(全て戯曲の指定だとしたら、作者の才能だが。)
 この悲劇の主人公として、最後に立つのは母である。これはどういう悲劇なのか。今時点では説明できそうにない。
 ただ、「決闘」が容認された社会で、夫と息子を殺された母が、息子の婚礼をこの日に迎えるという設定で、嫁になる女がかつてその仇になる家に属する男と接点があり、母がその事に不吉な思いを抱いている、という始まりである。「因縁は続くもの」「不吉な予感は当たるもの」といった摂理を匂わせながら、男が剣をとって非生産的な理由で殺し合いをやる存在であるという、最もシビアな問題(女性にとって)を、匂わせてもいる。だがそれは蛇足であって誰もが知る真実だという前提の上に語られている感もある。それよりもっと野蛮な人間の本質を抉り出そうとしているのか、非道さの中に人間性は如何に保たれ得るのかという問いかけなのか、、やはり言葉にするとしっくり来ない。

「線路は続くよどこまでも」2015

「線路は続くよどこまでも」2015

オフィス・REN

小劇場 楽園(東京都)

2015/10/28 (水) ~ 2015/11/01 (日)公演終了

満足度★★★★

生涯のレパートリー
一人芝居というのはとにかく凄いものである。渡辺美佐子の「化粧」を始め過去幾つかの一人芝居なるものを見た記憶を手繰ってみると、大俳優が悠然と演じたりファンサービスをやったりその俳優の得意技(歌とか)を披露したりと、手を変え品を変えて飽きさせない演出、緩急の妙がステージを支える。今回の「線路は続く・・」は俳優小宮孝泰の父がかつて所属していたという朝鮮半島の鉄道会社の「敗戦」翌日のシーンから始まる物語で、彼固有の演目と言える。この芝居では彼が一人何役もやる。まるで落語で、立ち芝居だから位置取りを変える時間のラグが生じるが、それも味わいで、鄭義信の脚本と演出の笑いとキレ、そしてたっぷりの情感を俳優小宮が自在にこなして演じる二時間。楽園の席は足がややつらかったが耐えきった。再々々演だという。大事に育てて発展させて行って欲しい。そしてまたお目見えしたい(本心から)。

諸国を遍歴する二人の騎士の物語

諸国を遍歴する二人の騎士の物語

劇団テアトル・エコー

恵比寿・エコー劇場(東京都)

2015/10/16 (金) ~ 2015/10/28 (水)公演終了

満足度★★★★

どこまでも黒い別役世界
メルヘンチックな作品にもどことなく毒というか、刃が隠されている感のある別役実の世界。本作も、ドンキホーテばりの勘違い「騎士」でも登場するのほほんとしたお話と思いきや、真逆であった(戯曲を読まず観劇)。
 この作品が書かれた頃は、人死にが出るドラマでの「死」を一つの隠喩として味わったのかも知れない。そのフシが戯曲にもある。生きたいというが何のため?との問いに答えられない男・・。だが、もはや作り手(俳優、演出)自身が、舞台上の「死」を比喩的に扱う事が出来ないのではないか。恐ろしい光景が、平安な日常にピリリとスパイス、では終わらないのである。二人の老俳優(達者であった)の「死」や「殺し」についてのまるで世間話のような会話は、達観を誰もが疑わないこの俳優以外に考えられない、くらいに嵌まっていた。
この形が別役氏の狙いであったかどうかは分からないが。

ネタバレBOX

 最初のチラシには熊倉氏が載っていた。それで「この機会に一つ」と観劇を決めたのだったが、その事をすっかり忘れ、開演後何か足りないな、と感じながらも最後まで観た。一方の騎士が終幕後、若々しく去って行くので左右シンメトリーにならず、「おや」と思ったがそれでも気づかずであった。カーテンコールにて、一言挨拶があっても良かったと思うが・・
西遊記

西遊記

流山児★事務所

ザ・スズナリ(東京都)

2015/10/22 (木) ~ 2015/10/28 (水)公演終了

満足度★★★★

天才天野天街天井知らず
氏の発案した演出技法は数知れないと言う(地元名古屋出身者からの伝聞)。台詞尻を重ねて元に戻ってくるループ、そのリフレインが活用形として変化し、少しずつしか物語が進まない。と、意表を突いた振り出し戻り(双六かっ!)。毎度変わらず小気味良い映像・音響を活用した転換、群舞・・これらの表現様式に取り憑かれこれによってしか演劇を紡げないループに自ら陥ったかのような天野天街という人(勝手に言ってすみません)は、様式という「制約」の下、険しい山を登るように物語を織り上げる。度重なる素っ頓狂なリフレインは、あたかも、芝居を背後から動かす「語り部」が吃音者になったかのようで、おかしみが漂う。遊びも多々あった。中盤の極めつけの「遊び」には、腹が痛くて声が出ない程。おかしな事がそれこそリフレインで延々と続くので「笑いおさめ」の声が出せないのだ。
 この様式は俳優にも多大なエネルギーと力量を要求する。活動拠点である少年王者館の俳優の完成度に比べ、ナチュラル演技に寄った分「精度」は落ちるとは言え流山児俳優それぞれの持ち味を発揮して遜色なかった(頑張りが見え、それが効奏していた)。
 天野天街の「遊び」が続いた最後に、ナチュラルな芝居で気持ちよくまとめる事も可能かと思われるところ、天野的「遊び」は最後まで貫徹される。そのため、観劇の最後には得たいドラマ的なお土産は、持ち帰りそびれる、というのも特徴かも知れない。
 昨年天野作品初観劇(少年王者)から、半年程の間に天野演出舞台の観劇が4本続いた。こたびは前回以来のスズナリで、アングラを継承する(ペーターゲスナー談)天野的世界をまた堪能できたが、どうもあの世界はこれからも果てしなく続く実験なのだろう、などと思う。「様式→ドラマ」(通常は「ドラマ→様式」)というアプローチが何を生み落とすのかという・・。
 この異界、一見の価値有り。

夜への長い旅路

夜への長い旅路

梅田芸術劇場

シアタートラム(東京都)

2015/09/07 (月) ~ 2015/09/23 (水)公演終了

満足度★★★★★

孤独を描く
丁寧かつ真情豊かな演技に圧倒された二時間。
麻実れいの役者力を見直した。益岡徹の闊達さも。兄弟役の二人も有名どころらしいが、良い演技をしていた。
ユージーン・オニール作、に惹かれてチケット購入、しようとしたところ発売後間もない時期にも関わらず完売。トラムシートの追加販売を購入した。
時代性の違いは、麻薬中毒への適切な対処をできていない所や、結核が不治の病である所。が、そこはあまり気にならず、時代は幾分遡ることを認識しながら、「今」起こっている光景として、時代を忘れて観ることができた舞台だった。
熊林演出は「tribes」以来の観劇だが、静かさの中の力強さを今回の舞台にも見た。奥行のある舞台の正面(奥の方)に、部屋から出る扉の枠が立っている。その扉の向こうに立ち、ゆっくりと戸が閉まる、あるいは、立ちすくんだまま、照明が落ちる。そこに立つ者は孤独の時間へ戻って行く囚われ人のように見え、幾度となくそこに立つ(二階へ行くために)のが、麻実演じる母だ。が、最後にそれまで立たなかった者が立つ。そこで反転が起きるのが戯曲の示唆なのか、演出なのか分からないが、その者は拒絶してきた真実をその時ようやく受け入れた、という風に見える。孤独と、そこにしかない癒しの中に、劇は終わる。
小さな破綻も甘さもない鋼のような戯曲である。

ら・ら・ら

ら・ら・ら

劇団朋友

三越劇場(東京都)

2015/10/16 (金) ~ 2015/10/16 (金)公演終了

満足度★★★★

ウェルメイド・ドラマとしての洗練
劇団朋友の名前には馴染みがあり、いくつかの過去演目を覚えており、予約して観劇する寸前にもなったせいか一度は観た気で居たが、実は一度も観劇していなかった。が、想像していた通りの雰囲気を持つ劇団、舞台だった。「よく出来たホームドラマ的な芝居」を、観たいと期待し、その期待通りの芝居を、意外にも休憩を挟んだ(25分!)二幕構成でゆったりと、観劇できた。そして芝居の質としては洗練の域で、本の面白さもあるが、役者が十全に、破綻なく「らしい」庶民のそれぞれを演じ分けていた事により、意外にも(?)「真に迫った」芝居の瞬間を作れていたのだ。コーラスグループのメンバーとその家族(凡そはメンバーの抱える問題が会話の中で言及される)の話だから、「歌」は出てくるのだが、ミュージカルテイストにはならない。働いてたり定年を迎えてる庶民が作る地域のささやかなコーラスグループの、実にリアルな、バタ臭いドラマなのである。歌は二曲がフルコーラスで歌われる。真面目に歌っていて、そこそこ聞けてそこそこ素人臭い絶妙さが良く、選曲が良い。特に二曲目。だが決して「歌」に頼った感はない。深刻な社会問題をストレートに扱ったりしていないが、しっかり身につまされる部分が作られている、うまく出来た芝居。

ネタバレBOX

舞台は二幕とも、グループの練習場となっている定年夫婦の住居内で、後半で俄然話の中心になって来るのが原日出子と牛山茂(昴)の夫婦問題。事そこに至り、主役の原の存在感が増す。控えめで何事も穏便に済ませあまり自分を出さない妻の、これも絶妙な案配を、佇まいで見せるのはさすがである。一滴の墨の濁りが、いつしか水が蒸発する事により急速に黒い焦げを作るように一気に破綻が訪れ、しかも「不在」という形で、語る周囲の言葉で十分に想像させる。妻を無意識に追いつめてしまう夫の「家庭内無能」ぶりは古典的イメージだったりするが、それがコメディでなく「居そうな」像を作っており、私などはなるほどそうなるのかと、妙に納得させられた。こてこてと話を盛り上げるエピソードで繋ぐのでなく、人が接触し、ぶつかり、繋がる様を自然現象のようにさり気なく見せている。「よく出来た芝居」(通常は否定的な意味合い)も洗練されて光るという事があるのだと(ほめ過ぎか知れぬが)、また一つ発見させられた。
少女仮面2015

少女仮面2015

新宿梁山泊

ザ・スズナリ(東京都)

2015/09/30 (水) ~ 2015/10/07 (水)公演終了

満足度★★★★★

老女優の鏡に剥き身をさらす梁山泊
唐十郎・紅テントの中心的女優・李麗仙が何十年振りの『少女仮面』(唐十郎が岸田賞をさらった=アングラが演劇界に認知された=作品)に立った。新宿梁山泊なればこそ、と今は言って差し支えないのだろう。唐十郎にとって「遊び」の範疇を1ミリも出ることのない「現実でのアクション」は、舞台の「物語」と相まって入れ子構造の「物語」を構築していた、という事で言えば、李麗仙が半世紀を経た記念碑的演目の同じ役(春日野)で立つ、という「物語」が曰く言い難い芳香を放つのも自然なことだ。
 当然ながら齢を隠せない女優の台詞を吐く口元や、表情、前傾しがちな肢体の癖をさり気なくカバーしようとするしぐさ、体から発する全てに目を離すことができず、最後には魅せられた。一人裸を晒しているに等しい李の、生身の身体が周囲の「作りもの」の強靭さを試すように、鋭く存在している。その身体とは、その場面・その台詞の意味を丸ごと理解しきった身体だ。長年体内に擁していた言霊を呼び起こし、シャボン玉を風に飛ばすように言葉を飛ばしていた。ふわり。ふわり。・・そんな形容をしたくなる得体の知れない魅力があった。
 千秋楽。この「物語」の本当の終幕であるカーテンコールで、李の素の表情を見る。観客や他の俳優への気遣いには気品というより高貴さがあり、彼女にとって演劇とは何であったのか、などという高尚な問いを遠い目で思わず問う気にさせる、味わい深いエンディングに酔った。
まるで無礼を詫びるように恭しく礼をする李に「また舞台で立ち姿を!」と甲高い金守珍の声が飛ぶ。彼女は顔で笑っていなした。二度目が通用しない事など誰よりも自分が知っていると、言外に言っているのが聞こえる、豊かで的確な表現力に、さらに魅入ってしまうのであった。
 作品のほうは、唐十郎の詩情が全編に溢れる戯曲。少女・貝を豹変自在に演じた文学座からの助っ人・松山愛佳、人形遣(腹話術)を見事にこなした若手・申大樹、奇怪な笑顔の貼り付いた顔でタップを踊るボーイ(の一人)広島光も印象に残った。
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