tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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『タガタリススムの、的、な。』

『タガタリススムの、的、な。』

舞台芸術集団 地下空港

座・高円寺1(東京都)

2015/06/04 (木) ~ 2015/06/07 (日)公演終了

満足度★★★★

「世界観」を投影した空間の心地よさ
「装置」と照明、音(楽)の贅沢さに尽きる。座高円寺1を見渡す会場は壮観で圧巻。座席の組み方がユニークで、何列にも渡したプラットホーム(というか床)を見上げる対面式(宴会場式)の席がズラリと場内を埋め、両サイドに二列の座席が組まれ、これを見下ろす格好になる。私の座った席はそれに加え、手前の壁に一列並べられた座席だった(恐らく来場者多数につき設えたものだろう‥が、当日券目当てで直前まで入れるかどうかと言われてた割に私の隣数席は終演まで空いてた)。
 劇場の壁に似た色彩の軍隊服を揃えた俳優たちは、広大な場内のあちこちで一場面を演じたかと思えば移動し、走り回る。
 ストーリーは電脳世界の中で起きてるらしいお話で、大企業の秘密に勇気をもって迫るという「肩入れしたい」筋だったが、どうも電脳世界と現実世界の区別が付きにくく、ウェルメイド風のエンディングも手伝って「切実さ」がぼやけてしまった。
 しかしあの空間は忘れ難い。1階ロビーとの間を仕切る大扉がゆっくりと閉まり、開演すると、始めロビーから子供の騒ぎ声が漏れて来ていた。が、全く気にならない、強固な「世界」が出来ていた。憂いを帯びた世界を出現させた事が、私の評価の全て。

ハンサムな大悟

ハンサムな大悟

ロロ

こまばアゴラ劇場(東京都)

2015/06/04 (木) ~ 2015/06/14 (日)公演終了

満足度★★★★

ロロ2度目
同じアゴラでやった前公演は記憶に残らなかったが、今回のは引っかかりがあった。夢の中の話のように奇想天外に一人の男の成長のエピソードが語られて行く。特別な運命を担った人物に対する語り口で。でもそれらは全体にメタファーのような所があって、人の人生というものはこのように語り得るものだ、という余白を残した語りに感じられた。「普遍」という事だろうか。。思いつくままに綴った物語が作家の手から舞台、俳優の身体に委ねられ、立ち上がった「形」はなかなか躍動的であった。

山猫からの手紙<前売完売/当日券若干あり>

山猫からの手紙<前売完売/当日券若干あり>

劇団青年座

青年座劇場(東京都)

2015/05/29 (金) ~ 2015/06/07 (日)公演終了

満足度★★★

劇的(ドラマチック)と不条理の間
当日券で観た。宮沢賢治の何かの作品を下敷きに、他の宮沢作品の登場人物も出て来たり、賢治の世界に遊んだ不条理(?)劇のよう。開演後、「普通の芝居」が始まった感じで、「別役作品がこれで通るの?」と訝りつつ注視する。演技はリアリズム。終盤、「劇的」な、詩的な場面になって、ここにピークを持って来てるな、と思う。(本もそう書いてはいるんだろうが)そういう解釈も、可であるかな、とは思った。が、全編にはやはり抽象性が流れており、最後は何となくクライマックスが味わえたからスッキリ・・で帰って良いのかと、疑問がよぎる。答えは「それ」しか無いと勘違いさせる事になってないか。。 
ただ、その終盤からラストへのシーンは綺麗だった。・・その事しか、憶えていない。
別役実フェスティバル、もう少し追いかけてみたい。

カナリヤ【追加公演決定!3日19時】

カナリヤ【追加公演決定!3日19時】

日本のラジオ

新宿眼科画廊(東京都)

2015/05/29 (金) ~ 2015/06/03 (水)公演終了

満足度★★★

カルトの問題、社会の問題
新宿眼科画廊地下1の壁や床もそのまま、「借景」のようにうまく使っていて、閉じた空間らしさも出ていた。
中心人物、というか、俯瞰的なまなざしを持つキーパーソンが林アンという娘。そのキャラが独特で、どう造形させ、存在させたのか興味深かったが、
あれこれすっ飛ばして結論的な事を書けば・・・、この娘のような人物が生きている事が「現代」である、という一文で十分な感もある。
特殊な状況といえる設定で、人物たちの佇まい、ふるまいが、「あり得る」ように造形されていた事で、挙動や事の成り行きに最後まで注視をさせられた。

ネタバレBOX

宗教団体の支部、にしては開放的。拒否する自由もあれば、「訓練」に批判的言動(アン)も許していたりする。 
 が、「死」や「毒」を匂わせるやり取りもあって、最後にはテロを匂わせる本部の建物(サティアン?)が会話から浮かび上がって来て、終末的雰囲気を醸してくる。
 オウムにインテリらが入信した背景について、意味の喪失(目的のなさ)、承認欲求といった問題が議論された。だが、この芝居では、何を「問題」として取り沙汰するのか。
 なぜ日々の修行(健康にもよさそう)を続けず、テロに走るのか、必然性が見えなかった。
女のみち2012 再演

女のみち2012 再演

ブス会*

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2015/05/22 (金) ~ 2015/05/31 (日)公演終了

満足度★★★★

女の応援歌は屋根まで飛んで、消えた。
初ブス会「男たらし」は緻密にリアルに作られた芝居だったが、「女のみち2012」(再演)は祝祭性の勝った芝居にみえた。アート指向のシアターイーストは猥雑さを漂白する。のっけからのけぞる××シーンのインパクトについて振り返ると、テレビ視聴率的な反応を、どうも観客に促すところがある、そういう空気が出来てしまう劇場なのではないか。女はきわどい事を口走ったり艶笑なシーンが訪れると、終始、男が反応よく笑いを上げた(会場の笑いの声は男であった)。「俺はこれを楽しんでるぜ」アピールが、舞台上の次の台詞をしばしば邪魔して、どうにも気になったが、これは「演劇=コミュニケーション」たる証しだろうか。
作り手自身が楽しんでいる、それは確かに思えるが、切実さと裏腹な台詞にも男の笑い声が被さった。人間の滑稽さを笑うとは、自分自身を笑う行為だと思うが、女の本音を男は本心から自らの事のように笑えるのか・・・。
AV業界復帰した女の「痛さ」は、よくよく想像すれば、大変痛い。その痛さあっての、ラストだったんだな。・・会場を去りぎわ、まぶたを激しく拭いている女性(単にアレルギーだったかも、だが・・)が目に入った時、「笑う」しか能のなかった己を、思わず省みた。

戯作者銘々伝

戯作者銘々伝

こまつ座

紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)

2015/05/24 (日) ~ 2015/06/14 (日)公演終了

満足度★★★

井上ひさしの大きな背中
今回の舞台化の「難しさ」と、「頑張り」を見届けた3時間。今作は、遺された原案から立ち上げた「木の上の軍隊」(蓬莱隆太作)と異なり、完成された既存のコント作品を構成した「てんぷくトリオのコント」とも違う。同じ小説の戯曲化でも作者本人による「それからのブンのフン」は、さすがに完成度が高い(以上が私の観劇したこまつ座の全て)。
 江戸の戯作者たちの本人語り形式の短編をもとに、一つの舞台を立ち上げた本作。東氏曰く「井上氏のどの言葉も捨てられず、最初は長大な本になってしまった」のを、随分刈り取ったのだそうだが、十分に刈り取り切れたかどうか・・と感じた。しかし、凝縮して行くことで物語の膨らみがしぼんでしまわなかったかどうか・・やはり今回の形で収まる以外なかったのか・・・そんな事を思った。
 奇なる人間たちのドラマ、それも実在した人たちの・・。「切れない」というのが何となく判る。既に原作の良さを知っている人は、舞台化を祝福した事だろうけれども。
 数人登場する戯作者の一人、山東京伝が第二幕の中心になり、花火職人とのエピソードに集中して行くと、ドラマとして見入らせるものがあるが、「戯作者」の群像は後退し、階級社会の下で心意気だけはたくましく・・斜にみる心を譲らない「庶民の代弁者」の顔が、シリアスの味付で揺らぐ気がした。もっとも「群像」が一幕でうまく描けていたかと言うと・・意外と東氏の苦労が滲んだように思う。(二幕が本領発揮にみえた)
 井上ひさしはなぜ戯作者を描き、自ら戯作者と名乗ったのか。戯作者の精神とは何か・・・終盤でその事をどうにか台詞に語らせていたように思った。が、しかし井上ひさしという作家の背中はつくづくでかい。

40minutes VOL2

40minutes VOL2

TABACCHI

スクエア荏原・ひらつかホール(東京都)

2015/05/27 (水) ~ 2015/05/30 (土)公演終了

満足度★★★★

三団体コンペ企画、コンテンツは悪くない。
舞台装置はさほど凝らず、照明は三団体共通発注、会場はさほど高くなさそう(調べてないが)。一団体に100万を授与するのに、参加団体にあまりリスキーな条件は出せないだろう。3500円×150人×6ステージ、こう仮に計算するとチケット収入300万円程度。200万を制作費・スタッフ費用に当てる。出来無くないか・・そんな事を考えながら芝居を観ていた(そういう時間も、あった)。
「ゆれる」を共通テーマとは、中々に広い。が、緩い縛りである「ゆれる」から三団体が発想したそれぞれの「ゆれる」には、共通性があった。不安定さ、動揺・・・、と書いてみれば普通にドラマの要素だったりするけれど、「ゆれる」というテーマに後押しされた三団体なりの思い切った劇構築を目にする事ができたように思う。
それにしても全く異なる作風、指向なのをみて、ふと客層が気になった。投票するのは自分に「合った」芝居になるだろう。どの団体がより多く集客したかも投票に影響しそうだ。あと、上演順序は毎回変わるのだろうか・・最後にやったのが有利ではないか・・・そんな事も考えた。

ネタバレBOX

この日は・・innocentsphereが一番手。「ゆれる」はそのものズバリ東日本大震災の「地震」、真正面から取り組んだ事は好感が持てた。ただ人物背景の説明は難しくなるし、場面がどの時間に属しているかの説明も十分だったかどうか・・何より、「今」「東京(近辺)」という場所と時間から、この劇で描かれる時間と場所をどう捉えて良いのか、どう観るべきかという「関係」の取りづらさがあった。傷を負った人が過去を乗り越えて行くドラマだが、被災地のど真ん中で起きた出来事を舞台に乗せている事は、「言い足りなさ」をどうしても残してしまう。
二番手はチャリT企画。この劇団の普段の劇スタイルなのか、至極まじめな時事問題を、パロディっぽくアレンジして理解を促す。今回は戦隊モノのキャラに扮した5人組に、教育を施す態で、記憶も生々しいイスラム国日本人人質殺害事件の実態を明らかにした。殆ど説明芝居だが、この問題自体が不問に付され明らかにされていないので、紹介される「事実」じたいがきわどく面白い(事実は小説より奇)。演劇が果たして良い「事実を知らせる」役割を、愚直にというか、批判をものともせずやりきったのが逆に気持ちよく、出し物としてもよくまとめていた。
三番手が口字ックで、恋愛話である。が、付いた離れたの話でなく、主人公の自分を見つめる時間になっている。失恋の痛みが自分自身をまざまざと見せつける、その経験は彼女を過去の場面に引き戻す。その場面で、彼女は己の決定的な欠陥を思い知る。問題が整理されておらず、未だ混沌とした体験の意味を見出そうとする作家のもがきを見るような感触があった。同級生の身体障害者との間であったある出来事、付き合った男性から別れを切り出された時の事、それらが全員で行なう終盤バスケのパスワークの中で、克服されたかに見える瞬間に幕が下りる。演劇的パッションは抜きん出ていた。
三者共通するのは、ある種の<タブー>への挑戦。1番手(innocent)は震災そのものがその領域、2番手(チャリT)はマスコミが封印する政権に不都合な真実、3番手(口字ック)は己の過去の生々しい「恥部」である。
総合して私は、現在上演する価値、という観点から2番目が突出していた、と評価した。
盗賊と花嫁【公演終了しました!ご来場誠にありがとうございました!】

盗賊と花嫁【公演終了しました!ご来場誠にありがとうございました!】

くちびるの会

【閉館】SPACE 雑遊(東京都)

2015/05/20 (水) ~ 2015/05/24 (日)公演終了

満足度★★★

磨き切れている訳ではないが翻案の意図が貫徹された舞台
舞台というか、床の上なので、パフォーマンスというのがイメージに近い。言葉を言の葉と言い、狐憑きが何かの隠喩であるかのような、含みを持った「言い回し」の多用が、時に駄洒落レベルに聞こえたりもあるが、俳優の「型」を持った動き・素早い滑らかな場面転換と、その台詞の謎っぽさが相まって、全体のリズムを作っていた。物語としては、坂口安吾の書いたお話の「都」(都会)に着目し、人間を狂わせる種子の存在を、「狐」という言葉に代理させて、また実際に「狐」の役を登場させ、人々の間に齟齬を起こして行く様子を「動き」で表現したりしている。 演技は単調(感情が一色)だったり、声をそこまで張り上げる台詞かな・・と引きそうな所も正直あったが、中盤以降見入り、終了時には一本通った出し物を観た、と感じた。俳優としては「狐」役の奮闘が劇世界の構築にかなり貢献していた。

爛れ、至る。

爛れ、至る。

elePHANTMoon

こまばアゴラ劇場(東京都)

2015/05/21 (木) ~ 2015/05/31 (日)公演終了

満足度★★★★

どこへ「至る。」のか?
至高の場所、それは死と紙一重・・なんていうイメージはどこからもらったものだろう。バタイユとか、サドとか。それに近いイメージをもらった映画は、古くは「エルトポ」、うんと下って「ブラックダリア」(同名の事件について劇中の会話に出てくる)、「ポエトリー、セックス」、生命の価値の相対化される恐怖「ファニーゲーム」「ノーカントリー」等枚挙に暇はないが、映画の技術でどうにか描かれてきたこの「美」と「快楽」と「死」の交錯・並立する世界を、演劇のしかも直裁な(リアルな)表現を通して描いた、希有な舞台・・と言う事はできるかも知れない。「女王様」への隷従に陶酔して行く男たちの「願望」に、少し、共感できたような気がした。 「先」がみえない苦しさより、死や闇であってもはっきりとそこにある「それ」へ、向かう欲求なのかも知れない。 この芝居は「その先」を意識する観客の理性をあらかじめはぎ取り、「至高(?)の現在」にどっぷりと浸からせる。

再生

再生

快快

KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)

2015/05/21 (木) ~ 2015/05/30 (土)公演終了

満足度★★★★★

この者「タダ」者ではない
主宰の北川女史、演出の岩井氏に「原案」多田淳之介の名が同じ大きさで並ぶ。その件につき、納得し、噛みしめた一時間半。「再生」とはその意味だったか・・魅力的な実験を繰り出して見せる多田氏の<上演>は、その実験的形態そのものに思想・問いかけがある。そしてこれをやる事そのものが、知的に笑える。そして考えさせられる。
その事は抜かせない。が、もう一つの興味の的は、形態を持つべき「中身」が、どう作られたか(岩井氏はどう作ったか)。・・あの「動き」は外から貼り付けられるのか、内部から引き出すものか判らないが、見る者の感覚を「穿つ」ものがある。
「違い」が意図されたものか、そうでないのかも判らないが、舞台を追う目が否応無くそこに向かうのは確か。最初は訝しく、次第に確信を持ってみる。その上で、これは何なのだと考える。男3人女4人の汗に万雷の拍手が起きるが、誰もいなくなった舞台に「問い」が残る。
刺激に満ちた時間を頂いた。感謝。

聖地 X

聖地 X

イキウメ

シアタートラム(東京都)

2015/05/10 (日) ~ 2015/05/31 (日)公演終了

満足度★★★★

ポップなイキウメ
<瓜二つの誰それ>による混乱は『十二夜』『間違いの喜劇』の昔から喜劇の常道だが、イキウメの今回の舞台は<もう一人の誰それ>を怪奇な出来事として、真顔で登場人物に認識させ、追求させる。しかしそれでも会場に笑いが沸いたのは、古来の笑いの図式が正しく当て嵌まっていたからだろう。こんなに「笑っていい」イキウメは初めてだった。
話はといえば、よくよく考えれば実は本当の答えは判らないのだが、世間的落伍者の物好きに好奇心という名の武器を存分に発揮させ、仮説を立てて検証し、最終的解決へと向かわせる一つのサスペンスストーリーになっている。話としては一応の決着を見る。ただ決着じたいに「演劇的収まり」以上の意味はなく、ただうっすらと、超常現象とか不可解な出来事とか、現実にも起こり得るという、そういう未知な世界に今も我々が生きている事の「不安」と「希望」がないまぜに漂う余韻が、やはりイキウメの持ち味だ。
・・・と、いい気分でまとめたくはなるのだが、最後に残るグロテスクな問題がこの劇にはある。これについては「一応の解決」を見る流れで観客を納得させているが、この「グロい」存在の問いかけが、忘れた頃に「続編」としておぞましく姿を現わしそうで・・・楽しみである。(いやもしかしたら既に書いてるかも知れないが)

ネタバレBOX

ほころびなく仮想世界を描く、よく出来たイキウメの舞台が、その脚本と並んで俳優の絶妙な演技にあるのではないか(他の劇団が同じ脚本をやったとして同じだけの演劇的快楽を生み出せるか・・)、そんな事を思っていたんだが、今回最前列で役者をまじまじと見て、俳優の「工夫」「加減」する身体の様子が見てとれた気がした。(意地悪く見てるんではなく、感心しながら見てるんで、ご勘弁を)
その中で、やはりこのイキウメ的世界の出現の功労者は森下創である、という感を強くした。勿論他の役者もイキウメでのそれぞれの役回りが凡そあって、毎度それをしっかり果たしているが(安井氏は文句の付け所ない)、森下氏の特徴的な声と風情は、劇中で問題の渦中にある現象を、疑いながらも信じざるを得ない所に追い込まれ、独特の諦観に至った状態を示す役だからだ、と思う。特に今回に限っては、間近で見ながら、信じられる一貫性を保っていたのが彼である。他の役者の中には、慣れてきて、しかも再演で、笑いも取ってるからそれに乗っかるべきかシリアスで行くかと迷ったりが、あったのかなと、微妙な間合いに感じたり、実はちょっとした。
セットも絶妙だ。場面/空間処理のうまさは、演出だろうか・・書き手としてもさりながら、演出の実力も(褒め過ぎになってしまうのであまり言われないと思うが)確かだ。・・ただウェルメイドなラストと言い、軽妙さが勝った分、重厚さに貢献したセットが勿体ない感を残したように思う。いやはや笑いもしたが、ふと周りをよく見れば宇宙は闇・・が私の好むイキウメのラストだ。
バルタン

バルタン

studio salt

神奈川県立青少年センター(神奈川県)

2015/05/14 (木) ~ 2015/05/17 (日)公演終了

満足度★★★

素朴に、ひたひたと。
神奈川で地道に活動し、時々耳にする劇団。脚本•椎名泉水という武器を持つ。数えてみるとstudio salt観劇は今回で3度目。多くを語らず、言い切らない脚本、という印象が共通である。ただし題材は多様で、標的の題材から物語を紡ぎ出す、独自の劇作法があるのかな・・と想像させる。
会場はJR桜木町駅から徒歩10分、神奈川の演劇の拠点の一つである青少年センター(急坂の紅葉坂を登った所)の多目的ホール。横に広くステージを取り、客席も横長に設置する事が多い。でもって、黒尽くめでなく「劇場」より「部屋」の雰囲気を残す、そういうよくあるスペースだが、今回、会場に入ってまず舞台の使い方のうまさに気づく。古い学校机が一面、ランダムに(多方向に)並び、その幾つかに照明が当たっている。奥の壁の左右の端に備え付けのドアがあり、その二つだけが人物の出はけの場所だ。
開幕、漆黒の暗転のなか音もせぬ迅速な板付き。おのおのの机に座る数名の男らの会話。抜き差しならぬ状況が語られ、噂の「抜き差しならぬ相手」がやがて登場する。夏制服を来た女子高生(とみえる)二人だ。あっけらかんとしたトーンとは裏腹の、冷酷。「状況」についての事細かな説明はしないが、時代が近未来であり、端からみれば異常な事態を、維持し使命を遂行しようとする二人の間の、あるいは自身の内面との葛藤、そして受動的にそこに置かれた男達の、外的状況を巡っての葛藤、両面が描き出されている。
BGM無し(あっても悪くないと思ったが、選曲には悩むかも)。淡々と時が経過する静寂の中から、ひたひたと、じわじわと何かが突き上がって来る「兆し」が、見えた。
芝居の「濃度」×時間の短さ、により星三つ。

ロはロボットのロ

ロはロボットのロ

オペラシアターこんにゃく座

あうるすぽっと(東京都)

2015/05/13 (水) ~ 2015/05/17 (日)公演終了

満足度★★★★★

15年来の至福
確か2001年、当時知っている劇団は僅か。でも鄭義信の名は記憶に刻まれていて、それでこんにゃく座のこの舞台を観た。子ども連れが多い会場が、開幕から終幕まで、咳一つなかった。演劇と音楽の「愉楽」に圧倒された時間が、本当はどんなものだったのか、15年を経た今、確かめたかった。思い出した。本物だった。幸せのつぶつぶがちらちら舞い散った。

オールライト

オールライト

秋田雨雀・土方与志記念 青年劇場

紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)

2015/05/13 (水) ~ 2015/05/20 (水)公演終了

満足度★★★★

若手プラス1(お婆)
“社会派”なミナモザ・瀬戸山美咲が青年劇場に書き下ろしたのは、青年劇場らしい日常感の流れる一風変わったドラマ。開幕から八合目あたりまでが大変良い。女子高生二人は夢の「遠さ」と「無さ」に悩み、二人が巻き込まれる渦を構成する大人達(他人)は、現代の諸相を具現した人物らで、その中心たるお婆が、最後まで謎めく。二人の父親は彼ら他人とは対極にあって影響し、二人を引き合う一方の綱を握る。大団円となる終盤の引っぱりの長さが気になったが、充実の二時間芝居だ。

『いないかもしれない 静ver.』『いないかもしれない 動ver.』

『いないかもしれない 静ver.』『いないかもしれない 動ver.』

うさぎストライプ

こまばアゴラ劇場(東京都)

2015/05/03 (日) ~ 2015/05/12 (火)公演終了

満足度★★★★

2バージョン、その心は。
観賞日を変えて動ver.→静ver.順で観た。<動>は前に見たうさぎストライプ風、<静>は青年団風。主人公(小瀧万梨子)を除く同窓生と店の客が、別キャストであるばかりでなく、台詞も少し異なり、話としても別バージョンになっている。<静>をスタンダードとして観るのが判りやすい気がした。現在(若く見積もって20代前半)と、小学校高学年(回顧)という二つの時の間に、中学高校とあったはずの濃厚な時代が省かれているので、リアルに想像すると難しい面も出てくるが、生きてく上で人が「過去」とどう付き合うかがテーマになっているのには違いない。<動>を先に観たので、話を追うのに力を使い、<静>は「答え合わせ」もしくは双方の違いを確認する作業になった。<静>では飽くまで、主人公が中心にあって、謎の女の存在が彼女にどう関係するのかを注視して行くが、<動>を先に観ると、「見せ方」に凝っている分、主人公と他の人物が並列に置かれているように見えてしまった。多分、意図は主人公の話、だったはず。それには戯曲上の(誤解を招く)書かれ方もあったと思う。
「謎」が序盤に出てきて「謎解き」を欲する緊張が最後まで芝居を引っ張るが、浮かんで来るのは小瀧演じる女性の「現在のありよう」、という事になる。いじめられていた過去があっても(言うたら小学校時代の事やろ、とは突っ込まない事にして)、今は充実した「普通の」生活を送っている風に見える。その彼女の内面に何があるのか・・特殊な何かではなく、私たちの中にもあるだろう心理規制を想起させる。「だから何だ」と一蹴しても良いが、何か大事なことがそこにあるんじゃないか(謎の女の口からその事がいかがわしい形で語られるが)と、立ち止まって考えさせるものがあった。俳優の存在感が大きい。
2ver合わせて星四つ。

もっと超越した所へ。

もっと超越した所へ。

月刊「根本宗子」

ザ・スズナリ(東京都)

2015/05/09 (土) ~ 2015/05/17 (日)公演終了

満足度★★★★

初「ねも」
観劇のチャンスを得て、これまで触れずに居た「根本宗子」初観劇。ちゃんと話が書けている。芝居が作られている。真っ当な演劇集団と認識。スズナリの良さ・・ここは何でも出現させるのだな、と感心した一つの舞台になった。女性目線での男性描写が秀逸、これは演劇を使った「男性いじめ」に終わるかと思いきや妥協の産物とはいえ大団円。男女カップルの生態をサンプル化するが台詞じたいは生々しく、その「すれ違い」が説明的でない自然な話し言葉で描き出される。具体的な趣向はネタバレにて明かさぬが、その趣向を優先してのリアルは難易度高し。これをこなす役者は皆うまく、台詞連射して一度も噛まず。「作り事」っぽい展開(だとは後で分るが)にもかかわらず役のリアリティを貫徹、にして、エンタメ成立。客の反応が程よく、本当に楽しんでるのが判る反応というのは、良いものだな。
演劇としてのコンテンツの裏付けは、やはり男女のリアルなやり取り(特に破局へ向かうプロセス)のディテイルで、テンポよく進んでもそこをないがしろにしていない所。
二度三度足を運べば、楽しめるポイントは違って来るかも知れないが・・。

華やかな散歩

華やかな散歩

川崎郷土・市民劇上演実行委員会

川崎市多摩市民館(神奈川県)

2015/05/08 (金) ~ 2015/05/24 (日)公演終了

川崎多摩市民館で市民劇をみた。
昭和前期の作詞家・佐藤惣之助を描く2時間45分の舞台(途中休憩込み)。川崎の郷土史劇第5弾という事だが、詩人・作詞家の物語というより、真っ当に生きようとした一庶民の話という印象が残った。
治安維持法〜日中戦争の時代に、揺れ動いた惣之助がやがて迷いを脱して行く姿は、「異常な」の中で取り得る「正常な」態度・あり方の例証という風にみえる。一方に「時局」の要請に応える事こそ尊い使命だと任じる「情報部」の青年、一方には時代の犠牲となって行く人々、その狭間で苦しむ惣之助が、最終的には大衆・民衆に向かう事で真っ当さを保持し得た、という事になっている。歴史的トピックを不自然に入れ込んだような部分もあるが、惣之助の人生を通して貫くもの(一人の人間)を浮かび上がらせる事には成功していたと思う。
難点は、台詞の硬さ(脚本)、それゆえか、演技が一辺倒、というか心情の種類が一辺倒で、人間の複雑な心理描写はおよそ省かれている印象が強い(要は皆が善人)。俳優らは下手な訳ではないが、多摩市民館ホールの後部座席にも届かせるには、声量と発音との兼ね合いで微細なニュアンスを犠牲にせざるを得ない、という事であったかも知れぬ。
演技や台詞の引っかかり、上演時間が長いという事もあるが、それでも芝居としては通っており、共感できる台詞も散りばめられている(図らずも涙?)。描く視角が一定であるリアリズムのタッチで、「民」の視線が貫かれた劇。
舞台美術は上下二部屋にわたる簡潔でリアルな日本家屋の内部を表現し、部屋の上段を想念・抽象の世界として用いていた。
照明は美しく、舞台に与える効果の大きさを実感させた。

ネタバレBOX

内容について。舞台は、惣之助の作詞家としての苦節を幾つか書き出している。
一つは先妻である花枝の病。病身の妻のため本来の詩作を休んで偽名で歌謡曲の作詞をやっているのが冒頭の惣之助。だが詩人=惣之助に惚れ込んだ花枝は彼に詩を書いてほしいと念願し、それを遺言して死去する。実際の惣之助はその後作詞家として名を上げ、本名を名乗るようになるが、このエピソードは惣之助の「詩人」としての原点を印象づける(惣之助の詩集発行は大正5年以降。その18年後花枝死去、同年発表された歌が公式には初の作詞らしい。作詞期間は10年足らず)。
次の節目は、先妻を亡くして方向を見失う時期。この時、親しい萩原朔太郎の妹愛子が「アリラン」を口ずさみ、この歌に日本語作詞を付けた惣之助がかつて朝鮮で過ごした日、民謡の持つ力に心打たれた記憶を呼び覚ます。このとき生の歌と踊りが披露されるが、幻影のように浮かぶ色鮮やかなチョゴリと、静かな太鼓に乗って歌われる低音にハッと目が醒める(実演しているのは川崎のハルモニ達)。惣之助は一条の光を見出す。(これを契機に二人は結ばれる、となる)
そして最後は戦争協力との決別。その前段に「協力」がある。本人は戦意を鼓舞するのでも戦争を肯定するのでもないが、戦場を題材に書いた「上海だより」が大ヒットし、作者の思いをよそに歌は「一人歩き」する・・と、芝居では惣之助に言わせる。が、真偽の程は分らず、歌じたいは戦意高揚歌と言って間違いとは言えない。ただ歌の調子は悲壮感とは正反対にのどかで、歌詞も戦地の「日常」が綴られている。
当局の命で中国戦線にも渡り、「戦場の兵士と、内地の人々とをつなぐ」大義に抗えない惣之助が、決定的に「戦争協力」的な立ち位置と離れるのは、惣之助が懇意にする飲み屋のママの元で働き、皆に見守られ祝言をあげた女性の夫の戦死を知った時。二人には出来立ての「人生の並木路」(惣之助作詞)を歌って祝った。東北弁訛りの純情乙女は、夫を戦場で失った「軍国の母」として取材を受ける事になっていたが、「こんな気持ちではオラ、軍国の母の顔は出来ねえだ」と泣き崩れる。惣之助はその場で書きかけの原稿を破る。
最後の部分はフィクションと思われる。戦争協力とされる作詞の仕事の「自覚」の中身も、実際の所は知れない。芝居は彼を特殊人としてでなく、人間として人や事件、時代にぶつかり、その時なりに乗り越えて行った人間として描かれる。佐藤惣之助を素材に借り、時代を生きた一庶民を描いた格好である。「戦争責任」という文脈でみれば、歌謡曲が持つ影響力の大きさに見合う「責任」は免れず、きちんとした評価と分析が(日本ではおよそなされていないが)必要なのだろう。民主主義の時代を見る前に惣之助は51歳で他界した(1942)。
裸電球に一番近い夏

裸電球に一番近い夏

秋田雨雀・土方与志記念 青年劇場

紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)

2015/05/09 (土) ~ 2015/05/10 (日)公演終了

満足度★★★★

サザンシアターで高校生が気張ったってよ
劇団チョコ・古川健が高校時代に書いた戯曲を「軽い手直し」程度で提供し、藤井ごうの演出で実現した、高校生だけの舞台。青年劇場40周年の企画というから、今回一度きりの公演になるのだろう。9〜10日各1計2ステージ。出演者は全員都内高校生で「補強」は一切なし。大半が大人(年齢幅もある)の役で、男子が3名と少ないため男役の一部(それも重要な役)を女子が演じ、しかもサザンシアターの広い舞台という厳しい条件で、拙さが気にならなかったと言えば偽証になる。だが終幕には温かい拍手が会場を包み込んだ。
戦争末期の移動演劇隊の話を、若い彼らが演じたという、世代間交流の風景にも見えたが、古川氏の「若さ」(拙さと瑞々しさ)溢れる脚本の真剣な筆遣いが、演じた高校生たちの立ち姿と重なり合って胸が熱くなる。
高校生を「使う」なら、今時の風俗(言葉使いや流行など)を挿入し、笑いと活力を誘発する演者の「自然体」という武器を使うのが常套だと思う。が、そんなものを到底受け付けない戦争末期の話である(脚本に笑いが仕込まれていない訳ではないが、「素」になる笑いでなく脳天気キャラを発揮して周囲を笑わせる場面なので演技力を要する・・こういう場面は高校生の力量というものを如実に知らしめる)。
脚本は本当に高校時に書いたのか?と驚く代物。史実を取り上げて書くスタイルが現在のチョコレートと通じるが、史実を押さえつつ最後に予期せぬ展開が用意される。展開のさせ方(台詞の置き方)の拙さを(本人談の通り)感じさせるものの、それを上回る熱い思いが言葉の端々から伝わって来る、そういう台詞だ。
いずれにしてもこの企画のお陰で、貴重な「復刻」公演を目にすることが出来た。企画者と出演者、関係者皆皆様に、感謝。

J=P・サルトル「出口なし」フェスティバル

J=P・サルトル「出口なし」フェスティバル

die pratze

d-倉庫(東京都)

2015/04/28 (火) ~ 2015/05/12 (火)公演終了

満足度★★★★

4つめ(大人少年/chon-muop)、私としては第一位。
未読の戯曲『出口なし』がいやまして輪郭をみせてきた(読んだが早いのですがね) 舞踊系の「大人少年」と演劇系の「chon-muop」(チョンモップ)はどちらも「表現上の要点」を端的に伝えて来る快さがあった。無駄を削ぎ落とした感じは、対象と距離を保てる明晰さの表われか。
今回とくに触れたいのは「chon-muop」。地獄に堕ちた三人のみが登場し、ストレートに台詞劇を展開した舞台である。始めは言葉少なに、動きで表現するが、徐々に台詞が出て、中盤からはのべつ会話が続く。台詞は現代日本の話し言葉で、恐らくあちこち書き変えられている。この戯曲のキーワード「地獄とは、他人の事だ」が、言葉としてだけでなく役者の身体から伝えてきたと感じたのは、8本中このグループのみだ。演者がその場所を無間地獄と感じている事が判るよう、作られている。そのように構成した台本でもあったと思うが、俳優らの演じ分けが明瞭でなければこの「地獄の関係性」は真実らしく見えてこない。キャラを相当程度絞り込んでいるが、特殊なケースに見えるかと言うと、そうでない。普遍性に届く。三役者が台詞を出し通しで終幕になだれ込むが、60分を5分程オーバー。台本としてきっちり伝え切った「端折らなさ」に、私個人は戯曲の理解(従ってリスペクトも)を最も感じたグループだった。

海峡の7姉妹〜青函連絡船物語〜

海峡の7姉妹〜青函連絡船物語〜

渡辺源四郎商店

ザ・スズナリ(東京都)

2015/05/03 (日) ~ 2015/05/06 (水)公演終了

満足度★★★★

消えゆくものへの‥
「渡辺源四郎商店」今春の東京遠征に引っ提げてきたのは、地元青森の市民参加企画で作業を積み上げた青函連絡船八甲田丸のメモリアル劇だ。ローカルな話題がどの程度受け入れ可能な芝居になってるのか注目したが、見事だった。7姉妹とは青函連絡船に関わった人、ではなく船を擬人化した7人のことだ。冒頭とラストを除いた劇の大部分がこの擬人化された船のファミリードラマとなっており、妬み反目で姉妹喧嘩もすれば家族会議があったり。そして節目に別れが訪れる。それがやたらと悲しい。人との別れも悲しいが、廃線鉄道や衰退する産業に何か胸に迫る淋しさを覚えるのに等しく、造船技術の粋を結集して「物流の大動脈」と持てはやされた時代を経て、やがて消えて行った連絡船の物語は、変わりゆくもの、消えゆくものへの郷愁が凝縮されている。人間存在の有限性から、それは来ているのだろうか・・かぶり物をしたり終始コミカルであるのに突き上げて来るこの感動の波は何だ・・と困った。
擬人化と言えば「原子力ロボむつ」の心の呟きが思い出される。「船」たちの未来・・7隻7様の生々しい「その後」が紹介される。史実それじたいが強烈に何かを語って来る。
ところで、「引き際」の美というものもこの劇では描かれている。「彼女」らがやがて消え行く事は周知であり、それでもドラマが成立するのは家族という設定、そして「去り」の美しさが描かれているからで、「去り」が美しいのは彼女らの「使命」とそれへの「誇り」が疑えないものとして描かれているからだ。
引き際の「醜さ」をあられもなく見せている、かの原子力産業への複雑な思いも、作者にはあっただろうか・・。

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