満足度★★★★
「物語」の普遍性
今年7回目、毎年観るなど、況や全作品観る事など到底無理(時期的にも)だが本当は観たい・知りたい・参加したい企画だ。 「第三世界」という言葉はまだ有用であるのか知らないが、その演劇に触れるのは貴重。厳しい状況は演劇の価値を試される試験場のようにも思える。
三演目の内、フィリピン作家作品を観劇した。音楽劇だという。それで、リーディングにもかかわらず鳴り物・楽器を使った贅沢な出し物になっている。役者に加えて音楽担当もおり、端のほうで演奏する。役者も全員道具や楽器を使う。演出は黒テント出身、立山ひろみ。 リーディングという「分野」の可能性の点でも、興味深い演目。
作品が取り上げているのはミンダナオを拠点とするモロ民族解放戦線とフィリピン政府との対立(紛争)問題である。 最近はこの問題を知らない若い人が増えているので、子供にわかる劇を、との注文を受け、作ったものだという。父母を失った兄妹と仲間が旅をし、やがて散り散りになり兄妹も分かれてしまう。そして兄はある土地のギャングに取り込まれ・・ 妹との不幸な再会、だが困難の中、勇気ある選択へ・・・「子供」目線で見れ、大人の鑑賞にも堪えるドラマだった。音、音楽の使い方も良い(出演者の一人が時々自動とあり、音楽担当もそうかと思えば所属が記されてなく、不明。ただ、それっぽい雰囲気。良い意味で脱力させてくれる音楽は私たちの皮膚から入り込むように心地よい。)
戯曲を発注したのはPETA(フィリピン教育演劇協会)、かの地では住人の意識啓発や自立のための演劇を用いての活動が広く根気よく続けられており、70年代からPETAと交流のある黒テントを通じて今回紹介されるに至ったという。
お話にはイスラム教(モロ)と多数派のキリスト教の対立が描かれている。そうした対立がなく共存状態にあった村に育った兄妹は、それぞれキリスト教とイスラム教と宗旨が違っても普通に過ごしていた。ところがあるとき二人の何気ない会話の中の「イスラム」という言葉を、ある平均的なキリスト者の家庭(集団?)が耳にしただけで警戒し、さげすみ、排除する、という場面がある。
この対立を利用・助長する勢力(はっきり言えば体制側)に同調するキリスト教マジョリティの存在が、ここ日本の、ある局面での自分と重なって来たりする。鋭くて痛い場面だった。
優しく人間的なこの1時間のお話は最後まで「問い」を発しながら終わる。 観客に「あなたはどうしますか」と問いかけるが、(当然?)反応はなく、「そうか、今、考え中なんだ」と言う。「考え中」・・この語が何度もり返し発される。
お説教でなくエンタテインメントでありながら、「問題」をしっかり刻みつけるお芝居、一つの判りやすい見本のように思われたが、「子供たち」と言えば、今の日本はどんな状況だろうか。
正しいと信じることを大人も言えない時代の、子供の「知る」環境の劣化は考えたくもないが現実なのだろう。
・・・・今は言いづらいが時が経てば言える時が来る、<今は忍耐の時>。だがその<今>は延長・更新され、「喋らない」我慢もいつしか追加注文され、受け入れてしまった日本人。 大人よりも、未来を担う「子供」への、演劇の可能性を探るのが今や正常な態度かも・・ともふと思う。さほど深く考えている訳でもないが、コトバにはしておこう。