満足度★★★★
作家はしてやったり。左手にまつわるお話。して舞台は。
小川絵梨子演出舞台を暫く観ていない・・という理由で奮発してチケットを買った。私が初めて小川演出を観たのは同じシアタートラムで上演された「クリプトグラム」だったか、イキウメの芝居だったか・・前者では誠実な印象を受け、また新国立「OPUS/作品」もまず楽器の扱いがgood!、脚本共々よく出来た舞台だった。他の二作程がいまいちと感じた、その原因を今思い出す・・・なるほど。
それは、小川氏が取り上げた作品を、演出家としてスマートにスタイリッシュに形にする、試みや技術を見せられている感触が強く残り、演出家が作品そのものをどう捉え、作家がはき出そうとしている何かを、どう咀嚼して自らも提示しようとしているかという部分、演出という仕事についての議論になって来るだろうけれど、私としてはそこが見えないのは不満、そしてそれは脚本のせいではなく演出が踏み込んでいないからではないか・・と感じたのがその中身だ。
今回の上演にそれが当てはまるのかは判らないが、トラムでの一時間半弱の芝居が終わったとき、どうやら作者はこのあたりを狙っていたのだろう・・と、本上演とは異なる形を想像して補い、それで漸く納得して劇場を出られたという事があった。
このお話は、様々な解釈の余地があって面白い。鍵となるのは中嶋しゅう演じる左手の無い初老の男、彼は十代の頃同年代の悪い連中によって、山あいを通る線路に左腕を押しつけられ、列車にひかれた。そしてはね飛ばされた手首は連中の一人が持ち、去り際に「さいなら」と手で挨拶し、持ち去ってしまった・・と、言う。以来彼は(それを始めたのが何時かは判らないが)その連中と、左手を探し続けている。・・そして物語は、彼が探しているという左手、本物でない左手を差し出して報酬を得ようとしたあるカップルが、目論見を見破られ、男は怒り心頭に発している所から始まる。
ドラマ構造としてはミステリーで、呻き声の聞こえる物置に向かって銃を撃ち込む衝撃なシーンから、そこに居る男と彼に関わる二人の背景が、徐々に明らかになる。
人物は三人の他、ホテル(そこはその一室)のフロント係(一癖ある男)の計四人。このフロント係はこの芝居の中では、左手の無い男を巡る話の本質からややズレた一人語りのシーンが長くあり、それは男に対して「死を恐れない」態度を取る事の真実味を与える背景とはなるが、語りの時間は独自で不思議な魅力を放つシーンとして成立している。・・それはともかく、謎解きがほぼ終えた「現在」、事態は「左手」を巡るやり取りにおいて、既に結論は出ていて、男は怒っているが二人を懲らしめて左手が出てくる訳ではない。そこで作者は男に過去や心情を語らせているのだ。
さて、終盤に決定的な「謎解き」のヒントを見たように観客が思う一瞬のシーンがある。男が何度も偽物をつかまされてきた、その数だけ彼のトランクの中に大量の左手(のミイラ)が入っており、手錠をはめられたカップルが男の不在中トランクを開けてその衝撃の物体たちを見る、というシーンの後、男が戻って来て部屋を撤収する際、ぶちまけられた手を拾ってトランクにしまうのだが、一つだけ残る(なぜ残すのかの説明が十分でないのでわざとらしいがそれはともかく)。そして二人が去って他者の視線の無い間に、男はその残った手を拾い、「おや?」と見直して、自分の右手と比べてみる。自分のものかも知れない、と思う。が、その考えを打ち消す・・という一連の動作だ。ここには、左手探しが彼の生き甲斐となっており、本当に見つかる訳には行かない事情が垣間見えたりもする。
・・さてそうなった時、ドラマは何を提示できるか。
男は自分の「不幸」を語るが、なぜその連中が彼の手を奪ったのかについての彼の考えは明らかにしない。左手を取り戻すという決意は、あまりに不条理な扱いを受けた事実に対する、きわめて正当な態度だ、という事は出来る。もしかしたら・・と、観客はその事への思いを馳せる事もできる。が、彼は何かを伏せているのではないか、という疑念を挟む余地も十分にある。自分の落ち度を棚に上げ、怒りに身を預ける事で己の弱点と向き合う事を拒んでいる・・そういう考えるもこのドラマでは自然だ。男が手にとった「手」をドアに投げつけて言う最後のセリフ「畜生!」に、含まれる意味合いは多義的であり、また、彼の人生という大きな荷物に対して吐かれた台詞でもありそうだ。大きな大きな、大事な大事な、人生が「左手」ごとき(とは語弊もあろうが)に左右されてしまったことへの、嘆きをうっちゃろうとする「畜生」であるならば、これは役者冥利につきる大いに含蓄ある「畜生」を放ってほしかった。(またそこまでの演技であってほしかった)というのが感想だ。
このドラマが人物の「変化」の予兆を書き込んで居ないようには思えないのだ。