渇いた蜃気楼
下鴨車窓
こまばアゴラ劇場(東京都)
2016/05/13 (金) ~ 2016/05/15 (日)公演終了
満足度★★★★
あ、蜃気楼。
タイトルが振りで、劇中符合する効果(観劇中は気づかなかったので効果になってないが・・)。冒頭の振りが最後に出てきて閉じられるパターンなど、戯曲とは振り(謎かけ)の回収(謎解き)である、とシェイクスピアなどを読むと思うけれど、また別の話(失礼)。
昨年の公演は途中からの観劇で、リアル劇なのかどうなのか判別する材料を得なかった。今回拝見した結果、リアリズムである。が、どこか、その場面から浮遊してどこか異次元に飛ばなくもない雰囲気を醸す瞬間がある。微妙な、意図の判然としない、けれど鋭利な刃でサッと切れたような(流れる血にも気づかない)ドキリとする台詞があったり、不安定なシチュエーションが注視を促す。もっとも二人の男女にはどうやら信頼、そして愛がみえ、現在に影を落とす過去への言及を経て、ハッピーエンドである。過去の不幸な出産が台詞(のない反応)で仄めかされ、最後の景で影を払拭される訳だが、妻の心象風景を描いた芝居だったのか、とも思えたり、解釈を多様に許容する空白の多いテキストが、想像力をたくましくさせる。他の作品も観てみたいと思った。
演劇
DULL-COLORED POP
王子小劇場(東京都)
2016/05/12 (木) ~ 2016/05/29 (日)公演終了
満足度★★★★★
「空気」は周到に作られ、演出される。その極意。
感動はしても行動にならない、ぐっと来て涙が流れても本当の勇気は湧かない・・・そんな「演劇」どもをなぎ倒し、ここに確かに「演劇」屹立せり、と見届けた。良い芝居を見た後は笑顔で談笑も可だが、ここは旧交を温める場面にそぐわない。その場所を鋼の刃先に喩えるなら、居心地よく佇む場所では勿論なく、何処かは知らねど何処かへと促されて立ち去る場所である。活動休止は消滅と同じでないが、「なくなること」の視野で「演劇」がその本来の使命を探り当てようとして探り当てた場所なのだとしたら・・。
舞台上で起こったことが全てで、他は要らない、と潔く去らせてくれのは、この芝居が「良い芝居」であるための点数はきっちり稼ぎながら、その余韻にではなく「演劇」が既に明白に導き出しているある真実のほうに浸ることを促しているから、だと感じた。(うまく言えないがそんな感じだ。)
多彩な趣向はあるが色目使いになる事なく、ただ一つの目的に全てを集約した「潔さ」「硬質さ」が直球のように腹に来た。
ダルカラは実はまだ2作目(谷賢一作は4作目)、俳優の顔も初めて間近で見た。個人的思い入れのある燐光群『ブーツ・オン・ジ・アンダーグラウンド』で特徴ある役をやった東谷英人が今回も核になる役に。とにかく‘物凄かった’渡邊りょう(悪い芝居)、これも初めて間近に見た‘できる’小角マヤ(アマヤドリ)など、各俳優がこのお話の中心にある「出来事」の周辺で渦巻くそれぞれ感情を、精度と熱度をもって表出した。かく導いている脚本力もさりながら、人間の複雑な感情を的確に表現する俳優の姿にこそ「格好良さ」を感じる「演劇」、これぞ「演劇」の鑑。
ところで「演劇」とは食ったタイトルだが、劇中で「これは演劇です」の意味では使われない。少なくとも、人を食ったタイトルでない、とまで。後は劇場で。
楽屋~流れ去るものはやがてなつかしき~
燐光群アトリエの会
梅ヶ丘BOX(東京都)
2016/04/27 (水) ~ 2016/05/10 (火)公演終了
満足度★★★★
燐光群「楽屋」の楽。
二度目の投稿。燐光群キャスト別バージョン、最終日を観た。中山マリが女優Cの年齢を20歳も上回る設定でやはり見事に演じた(「あれでもう40よ」を「あれでもう還暦よ」と変えて笑わせていた)。
一方で、役のキャラ・年齢等から相当離れていたとみえた女優A(樋尾麻衣子)。声の塩梅(がなりと抜きの組合せ)、怒りの演技が若い(「泣き」の入った怒り・・幽霊歴からして達観に至っていてもおかしくないのに)など、正直気になっていた。
だが。千秋楽でそれらも含めて全体がひとつの環に収まり、一つのあるべき「楽屋」が立ち上がっていた、と感じた。渡世人「斬られの仙太」の見栄切りつつの物言いも、低音にならない持ち声を駆使して必死に演じてひるまず、思わず涙が・・(もろいと言われればその通り)。
「人のいい」キャラへの憾みを終盤ようやく真情吐露して一個の人格を現わす女優B(松岡洋子)。 狂気にひとしい「役」への異常な執着と、人間的な感情を行き来し、古参幽霊にとっての小さな希望の種らしい佇まいもみえた女優D(宗像祥子)。 絶妙なバランスで一つの環ができ、そこに、私としてはいまいちそぐわなかった「三人姉妹」の語りでの行進曲の選曲が、芝居と融合して聴こえてきたものである。
かくして、「楽屋」の日々は終えり。謝謝。
楽屋
ママーズ
梅ヶ丘BOX(東京都)
2016/05/05 (木) ~ 2016/05/08 (日)公演終了
満足度★★★★
あっぱれな「楽屋」
「楽屋」フェスティバルも終盤に来てさらに追加(おかわり)観劇。観た数も参加団体の半数を超えた。
あっぱれ!と言わせる「楽屋」は、女優Aの股旅物~「かもめ」のトリゴーリンに至る「役演じ」が<あっぱれ>である事が条件の一に思われる。十ばかり観た中で二団体あったが、加えてママーズも然り。4女優いずれも腕に覚えある実力者のよう。中でも女優Aの孫貞子は新宿梁山泊出身、私の人生初観劇のテント芝居に辛うじて加わっていたか、そんな思いに感慨ひとしお。あの劇団特有のエネルギッシュな120%出し切る演技がここでも健在、一々納得させる演出(動線といい、台詞のニュアンス、間合いといい・・)とあいまって、疾風のごとく過ぎた「楽屋」であった。また、笑った。
女優Cが冒頭、「台詞を練習している」体で台詞を言えているというのも案外少なく(確かに演技として難しくはあるだろう)、その中ではっきりと「練習している」という場面の意味がくっきり明瞭に出ていたのは燐光群の中山マリと、この団体だった(他はその意味合いは伝わるのだが、本番舞台で「うまく演じている」ように練習している、という風に演じ(メタ構造・・判りづらいな)、それでもって「そんな風に練習している」と観客に理解させている。ニーナを演じる女優の貫禄を感じさせながら、なおかつ普段着な空間での、力を抜いた「練習」になっている、というのは観る側としては快感である。その分、演技としては相当な力を要するのだろう・・「楽屋」を見続けてそんな事も思う。
・・てな具合にいろいろ楽しませてもらった稀有なイベントであった。
上の団体の前にやった「とろんぷ・るいゆ」にも触れれば、前橋で活動する主宰の元に集った(やはり地元の)人たちで、女優Aを男優がやったり、キャラがAB逆転してたり(Bが豪胆、Aが弱腰・・恐らく男性がやった結果だろう)していた。ユニークだったのは途中、何箇所かで詩が挿入される。これがうまくはまっている。自ら改稿したなら、中々の書き手だ。最後には前橋にゆかりのある清水邦夫の足跡を辿った映像が終盤に流れる。「三人姉妹」の台詞を中断して・・終わると続きの台詞が畳み掛けられ、終幕へ、という段取りだ。映像は拙いものだったが、大胆な演出だった。
劇読み!6
劇団劇作家
【閉館】SPACE 雑遊(東京都)
2016/05/04 (水) ~ 2016/05/11 (水)公演終了
満足度★★★★
『ミュージカル・ゲド』
ル・グィンの著名なファンタジー『ゲド戦記』を篠原久美子が戯曲化したもの。あの『ゲド』が・・・「劇読み!」作品中、一も二もなく観劇第一候補。結果は・・・期待にたがわず堪能させてくれた。魔法を使う人間とそうでない人間とが普通に暮らし共存している(魔女の宅急便みたく)社会の雰囲気が、このファンタジー作品の要だ。「影との戦い」の巻。忍び寄る「影」の存在が、ドラマティックに物語を先へと駆り立てるが、「影」とはいったい何なのか・・話は単純明瞭な問題解決に行かず、すぐれて哲学的。だが人間の「闇」を経て最後には清清しかった。
リーディングとはいえ「朗読」よりは「芝居」寄りで、迫力十分。「売れない戯曲に光を」・・などというマイナーなイメージを払拭した。こうした力強い戯曲が劇作家の手で生み出されている事実を心して受けとめたい。
青森に落ちてきた男
渡辺源四郎商店
ザ・スズナリ(東京都)
2016/05/03 (火) ~ 2016/05/08 (日)公演終了
満足度★★★★
柔かさの中にある力強さ
畑澤聖悟作品、毎回事前知識は皆無で観劇する。たいがい「観る」と決めているのでよほど暇でもなきゃHPを覗く事もなく、まして今回のようにチラシにもお目にかからねば知りようがない。直前に知って慌てて調整し、観劇した。無理して良かった。やっぱりよかった。
クリスマス禁止法や、(ちゃんと降霊できる)イタコや、原子力ロボットやタイムカプセルなど突飛なアイテムを介在させた芝居が多い。「海峡の7姉妹」に至っては皆「船」役である。だが、見入らせる芝居を作る。現実世界の暗喩、また暗示らしい事が明からさまで、謎解きは開幕から始まっている。今回のアイテムは「鬼」であった。
戦争を扱った今作が、戦争「遂行」に寄った人物に対して一切、「英雄的」解釈を施す余地を与えず、リアルに、シビアに醜さを抉り出した所に、今回この「演劇」が打ち出そうとしたものを読み取る。今作では「謎」はゆっくりと解かれ、終盤ようやく見えてくるものがあるが、スッキリとまで説明せずに終わる。カタルシス効果はこのテーマにそぐわない、とするのが正常なのだと思う。
千秋楽は12時開演。これからバラして撤収し、青森での明日からの仕事に備えるのだろう。これで「食ってる」訳ではない人達であり、食う事を目指してるのでも恐らくない。近くの席の青年が気持ちよく笑っていた。そして泣いていた。満席のスズナリで、健全な感覚にふと覚醒される、ナベ源の日。
嗚呼いま、だから愛。
モダンスイマーズ
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2016/04/22 (金) ~ 2016/05/03 (火)公演終了
満足度★★★★★
蓬莱隆太の新作。千秋楽
ストレートプレイが画素数的に高質で、またそれでなければ表現できない微細な心情(変化)を捕えて構成されている、上質な例として「悲しみよ・・」を観た記憶が、今回も蘇った。
主人公の多喜子を「囲い込んでいる」他人の作為が彼女自身の世界観の投影でもある、と唱える他者と、そうではないと主張する主人公の闘いは、最もありがちなドラマのパターンでは主人公が折れてそれで成長して云々と陳腐な展開となるが、そうならないのが蓬莱作品ならではの鋭さだ。
この劇では多喜子の被害感情も込みで「願望」を貫く事が即ち一つの解答である、という結末になっていた(と思えた)。ブスである事の現世的な報いを甘受してきた彼女は、周囲の配慮には感謝せねばならないマイナス出発の現実への違和感を、ついに表明する。不当さに対する不満に固執することが、彼女にとっては、闘うべき闘いをたたかい、勝つ事でもある。「分かりの良い人間」にはならない・・言葉にならないこだわりに、泣きつ乱れつつも、徹しようとする姿に、涙した。
彼女の中で、あるいは、彼女と周囲の関係に、変化は起きる。変わるべくして変わったのか、解釈はいかようにもだが、この変化があったのは彼女がある正直な感情を「捨てず」「徹した」からである。つまり、変化(望ましい)そのものより、自我を捨てない態度のほうが、重要なのだ。
とにかく役と俳優の親和性が完璧と言えるほど高く、ストレートプレイとして「再現の正確さ」が実現されていた。 「惚れた」と真実告白する旦那からはセックスレスの理由を聞かされず、その夜二人の関係が修復する、そのきっかけも何か決定的な要因を示している訳でもなく、「旦那の物語」としての説明は不足しているが、さほど気にならない。
このドラマの普遍性は、容姿ゆえに差別される不条理に触れた所にある。「人間、容姿じゃない」という安易なメッセージは最後まで出さない。安易なメッセージというのは往々にして、低きにある者の事情に配慮せねばならない「面倒さ」を免除するために発される。
一方、この芝居では文字が映写され、「その瞬間まで○時間前」などと表示される。その瞬間が何であったかは最後に判る。フランス同時テロである。パリ行きを2日前に控えていたカップルが存在する事で、この事件は物語に絡むが唐突である。が、その事も含み込む「物語」の広さはどこから来るのか・・・川上友里の存在が浮かび上がる。ユニークな俳優だが、今回の俳優の布陣の中ではいやまして、ユニークさが際立つ。戯曲世界に生かされているのか戯曲を生かしているのか、千秋楽、劇世界の要で、周囲を生かしていた。
尾を引きそうだ。
楽屋~流れ去るものはやがてなつかしき~
燐光群アトリエの会
梅ヶ丘BOX(東京都)
2016/04/27 (水) ~ 2016/05/10 (火)公演終了
満足度★★★★★
贅沢な企画
「楽屋」三昧を決め込んで通し券を購入したが、既に終りが近づいてきた。淋しい。全団体は観られず、7、8団体は半数以下か(でも元は取ったか)。全部観たかったし、きっと飽きなかったろう。同じ「楽屋」のテキストをルールとしての競演が、今回初の試みだというから、コロンブスの卵だ。
「楽屋」は何度観ても面白い、よくできた戯曲だが、戯曲が要求する「理想形」が一定程度、想定されそうに思う。その意味で団体の「個性」よりは優劣が見えて来る面がある。
もちろん細部では、役の位置づけの違い、台詞のトーンの選択の違いなど、差異が見える瞬間が面白く興味深いが、全体としては「ある正解」に近づけたかどうかを競っているように見える(大胆な解釈・演出をした団体に当っていないせいかも知れないが・・)。
その点、ちょうど今d倉庫で開催している現代劇作家シリーズ・ベケット「芝居」フェスティバルなどは、自由度の高い戯曲をいかに自分ら流に調理するか、個性を競う点に特徴がありそうだ。
どちらが良いという話ではないが、「楽屋」は俳優力を試す戯曲で、「的確な」形を見たいと願ってしまう。一度「おいしい形」を目にしてしまうと、そこに至っていない団体が劣って見えてしまう、という事が起きる。しかし、それでも「楽屋」を味わわせてくれ、それとして、満足させてくれる。興味深い企画だ。
雲ヲ掴ム
秋田雨雀・土方与志記念 青年劇場
紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)
2016/04/21 (木) ~ 2016/04/30 (土)公演終了
満足度★★★
夜の部。青年劇場への書き下ろし第二弾。中津留節全開の果て・・
リアルな工場内のセットに、リアルな工員たち、息子らの造形。雰囲気は悪くない。戦車の部品をつくる町工場という着想、出だしはまずまず、刺激的だが・・。
Collected Stories
Art-Loving
ラゾーナ川崎プラザソル(神奈川県)
2016/04/27 (水) ~ 2016/04/29 (金)公演終了
満足度★★★★
役者は何をする者であるのか・・2時間のテキストとの格闘
記憶に残る舞台になった(恐らく、明日になっても)。俳優二人の濃密な会話劇は、群像劇と対照的に殆どさらしもの。これを観ながら感じたり考察したり、どんなものか評してやろうと手ぐすね引く連中の餌食に等しい。言い方を換えれば「素手の勝負」。
「役との格闘」とよく言うが、舞台役者のそれは、舞台上で「闘う」ために稽古をする、という関係になる。よりよく闘う姿は、演劇の意義・価値・輝きを証し示す内実である。この舞台は見るべき的として、ストーリー自体ももちろんだが、ドナルド・マーグリーズという作家のテキストを、俳優の闘うリングとして据え、そのスクエア内で闘っている二人の女優の姿がある。
綱渡りに喩えれば、じっくり渡ろうが早足で渡ろうが、渡りきる事が重要で、それじたいが凄い技である・・・台詞自体が半歩先を行くので観客はそちらを追うが、演じ手の「役」の様子も見ており、役の設定とのイメージギャップや、特に海外戯曲を観るときの諸々の「落差」はこの舞台でもハンディとなっている。その中で、女優らがそれぞれ一人の人物を成り立たせる勘所を掴み、己のものとし、精一杯リング上で闘っていることの爽快さに結実するというのは、テキストの良さはもちろんだがテキストと互角に闘い抜くという舞台上の「現象」あってこそである。
この作品の、赤裸々な心情吐露に事欠かない台詞が激した感情とともに俳優の口から吐き出されると、しばしば台詞に澱み、言い直しもするが、「人物」をやめる瞬間を(その予感も)微塵もみせず、絶えず俳優が「現在」を生きる証左を観客は感じている。
作家と、作家志望の若者(いずれも女性)同士の会話には、これを書いた作者自身が「作家」な訳だから「ネタ」元は自分自身でもあるだろうが、「文」を生み出す苦悩や、作家の視点その他含蓄ある警句がちりばめられ、必然、それは人生そのものを語ることになる。この台詞の「重量」は半端ない。その重みを私らに届かせた二人の俳優の「仕事」に、一礼をしたい。
つま先が洗えなくて
演劇ユニットどうかとおもう
下北沢ギャラリー スターダスト(東京都)
2016/04/28 (木) ~ 2016/04/28 (木)公演終了
満足度★★★★
皮肉のきいたはなし。
おかしい。実におかしい。いとをかし。♪お菓子食って、可笑しくって。風刺や皮肉の利いたおはなし、てのは健やかに生きるための(忘却機能に次ぐ)傘であり、栄養。
零細ヤクザの四人の組員の、ヤクザっぽいところ・・・子分に「殺すぞ!」と脅したり、「お前何座ってんだ!」とどやしたり、一応紋々を入れてたり・・・を除けば、いったいヤクザって何だろう??
一般人(堅気の人)ってのは、すなわち「非ヤクザ人種」の集合。ある由来から差別の対象となった「ヤクザ」は、カタギがまっとうであるための比較対象項である。
三階の貸しスペース。開演から通りの人声が聞こえ、時に大きな電車の音も。照明の変化はなく、音響はBGMも救急車の音もパトカー音も、表通り側に据えた(ラジカセか何かの?)機材から鳴り、携帯着信音もそこから聞こえる。転換は場面が終わって役者が黙々とやる。劇場機能に頼らず、俳優の演技に大きな比重を課す芝居だったが、書き手の皮肉のきいた台詞の力に、大きな笑いは起きないが終始をかしく、(良い意味で)気の抜けない40分だった。
さよなら、先生
おおのの
シアター711(東京都)
2016/04/20 (水) ~ 2016/04/24 (日)公演終了
満足度★★★★
モノローグ>ダイアローグ
あの狭い711シアターで・・と思いきや舞台側の奥行はそこそこ(隣のスズナリの半分程度)あって、乘峯氏による美術は壁、袖にあたる部分が紙、真横からの照明に当たるとゴツゴツした岩の洞窟の中の様相だが、小説家が虚構をその上に立ちあげる紙のキャンバスを三次元化したもののよう。
太宰治の絶筆になる「グッドバイ」・・何人もの女へ律儀にも離縁状を渡そうとする男の、今回思いついた算段は美人の女性に頼んで妻を演じてもらい、これを見せつけて愛人らに自分を見限ってもらう、というもの。 この話を軸に、五人の女性、太宰、語り手でもある編集者(男)も絡めながら、「グッドバイ」の頃の作家太宰の輪郭、というか世界を描写、というか言及する舞台。
対話台詞はストーリーと人物の人となりを描出するものだがこの部分に不満。だが編集者と太宰による、観客に直接語る「地の文」に当たる台詞は、数段良い。特に太宰の語りは、終盤の坂口安吾の引用以降ぐっと締まり、これに続く作家論、人生論、哲学的な語りが耳から栄養のように吸収される感覚に陥った。
芝居としては語り切れなさが残った(「劇」の本体たるエピソードより、論が勝った)という印象だが、主な要因は恐らく、5人の女性の比重が、均等であれとは言わないがアンバランスに感じたこと。それぞれが「太宰の女」として持つ魅力、即ち個性(それは女優自身の魅力でもあろうか)を二人が対峙する場面の中に仄めかして欲しかった。
ジレンマが嗤う
神奈川県演劇連盟
KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)
2016/04/21 (木) ~ 2016/04/24 (日)公演終了
ぼくはだれ
RISU PRODUCE
小劇場B1(東京都)
2016/04/20 (水) ~ 2016/04/29 (金)公演終了
満足度★★★★
RISU2度目。改訂再演を重ねている名品を睨める。
カーテンコールでの挨拶から去りの最後までが演劇。。終演時点の印象から逆算させる=効果狙いでなく、「信じている」まこと(心)を、感じてほしいとの願いの表現。「舞台が終わればおしまい」ではない、とはその通りだ。問題が明白でありながら手を付けられない事は山ほどある。
いしだ壱成演じる被疑者のエピソードを中心に、警察署取調べ室での模様を描く。
非公開な密室での取調べが冤罪の温床であること、大枠としてはこれをテーマに物語が構成されているが、テーマを目的とした演劇ではなく、両義的な解釈の余地も残し、その分だけドラマとしての余韻が残る。暗転を多用し、神妙にたたずむ外ない残影に、少しくらい笑いをこめる余裕があってもいいのでは・・と感じなくもなかったが・・。
4名の警察官それぞれのキャラクターと役割が明確で、ナレーションの声は新任刑事のそれとおぼしく、この観察者の視点で観客も、他の人物たちの言動や場の光景を睨(ね)める態度でよいのだ、と悟った頃には物語も終盤にかかっていた。
「真実」こそ明らかになるべきだと信じる弁護士の、もっとも正しく健全な眼差しを曇らせる展開には、物語の中に「告発」さるべき事由を込めておかなきゃならない必要上からであっても、被疑者の敗北が彼自身の脇の甘さのせいだと見えてしまう。それを「人物像」でもって説得力を与えていたのがいしだ氏の役作りということだろうか。(「堕ちた」人物が如何にも合う)
キャラクターと言えば、他の刑事もそれぞれにハマっており、実直寡黙な年輩刑事役の渡辺裕之氏が、ある被疑者の言葉に不意を突かれる演技、お約束な型とはいえ無言の芝居、「俳優力」ってなあるもんだぁなと普通に感じ入った。
抑制のきいた舞台。「刑事モノ」を最後までシリアスで通す難易度のハードル越えは、台詞、対話の真実味の勝利。作者はこの世界に浸り切って書き写しているかのよう。
展開にからむ事のない逸話が語られても、聴かせるだけの重みがあるので、「物語」に回収されない分、「物語」という円環の外部すなわち「現実世界」に通じる穴があく。舞台空間に「現実性」がじんわりと生まれてくる。
たとえば、根明な殺人犯に関西弁の取調べ官が「独り身でさびしいだろうに」と言われ、「おいおい女房子供いるよ」と返すと「何だか独り身に見えるけどな」とボソリと呟かれる・・この会話などは、特殊な事情をもつ殺人犯の「警察署での楽しい思い出」と位置づけられる場面の一部ではあるが、特段オチのない「独り身みたい」という彼の感想は、ただその刑事への心証である。通常は「観察する側」の取調べ官がこの時ばかりは「観察される側」となる一陣の風になっているが、その会話じたいは、「そのように見られた刑事がここにいた」という情報以上のものでない。
「物語」に回収される(作為的)台詞だけで構成されていない、という事は無駄のある、という事になりそうだが、その余白は「そこはかとないアリティ」だけが支えている、と言え、そういう味のあるシーンが、そここことあったように思う。
作家の面目躍如、または俳優の熟演の賜物。
おとこたち
ハイバイ
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2016/04/04 (月) ~ 2016/04/17 (日)公演終了
満足度★★★★
再演。
初演を観た印象は、ハイバイとしては普通に秀作、というもの。数十年に亘る、大約した複数の人生を、駆け足で追っかけるので、時系列的な因果関係は「後から」埋める順序だから、「実はこうだった」というオチは比較的容易に使える。人生の年輪というものの重みを伝える芝居であるというより、作者の現在の感覚(人生半ばにある者としての)を、反映した例えば老後の描写だったり、つまり人生というものに関する「仮説」の開陳というのが、この芝居のイメージに近い。
相変わらず、「痛い」人生模様のえぐり出し方はえぐい。場面の変わり方が気持ちよく、台詞や所作で「あれ?」と感じた瞬間、人物の年齢が一気に飛んでいたりする。常に的確な表現が出来ていなければ、「変わった瞬間」を気づかせる事は出来ない。
今回、初演とさほど変らないだろうと予想し、しかしハイバイの芝居はやっぱし観とくかと、公演近くなって予約した。
再演は、キャストが実は違っていた。そのためか雰囲気も少し異なっている。初演は7人、再演は6人だ。岩井秀人と岡部たかしが抜け、松井周が入った。松井氏の演技は、秀逸な箇所もあるが届いてない箇所もある。岩井氏と近い距離にある松井氏ゆえか、演出と対等な、俯瞰目線で演じているのか、と思うような箇所があった(毎回同じではなく「匙加減」をしてやっている・・その結果ハマらず外してしまったような)。あるいは、メインに演じた役(おとこたちの一人)の持つ人物としての異常さが、松井氏自身が持っている(と言われる)異常さと若干周波数が異なったせいなのか・・。
もう一点、岩井氏が俳優として立たない事はハイバイの芝居にとっては大きい。俳優岩井は表現において流麗で自在、というのも自身が書いた世界でもあり、「神」に近い存在として介入できるし、的確にそれをやる。困った時も大丈夫、と思わせるがその反面、「岩井の舞台(所有格)」という烙印がおされてしまう。 他の俳優に「舞台上の仕事」を明け渡し、役者の格闘に委ねた時、「テキスト」の力が試される事となった。
SQUARE AREA【ご来場ありがとうございました!】
壱劇屋
王子小劇場(東京都)
2016/04/06 (水) ~ 2016/04/10 (日)公演終了
満足度★★★★
気持ちいい感じのフィーリングっぽいみたい。
関西からの遠征という事で、口コミにも揺れ、ついつい王子まで出かけた。
パフォーマンス部分に長け、音楽に合わせて見事な集団の動きを見せるが、「物語」との適切な相互干渉があって、パフォーマンスの一挙手一投足に「演劇的」でないニュアンスが微塵も無いのが見事である。演劇として成立した舞台。
スクエア(四角)の空間を巡る法則的なものもあって、その「演劇的な」説明も周到になされる。アドリブ的な小休止的な時間も活用しつつ、そつなく先へと進めていく。
異空間での事象を心地よく謎めきながら見て行くうちに、各登場人物の背景が語られ始めると、やや混沌として来る。しかし終盤に畳み掛ける「パフォーマンス」は、その中で謎解きの最終段階の説明を担わされ、場面の色彩の変化もその中にある(音楽だけは相を変えながらも同じリズムで続く)。
ストーリーを語る演劇ではあるが、この舞台の核はやはり音楽に乗せてなされる集団ムーブ、踊り、ロープを使ったパフォーマンスだ。技術を見せるのでなくそれによって表現されるものがあるのだ。特にロープを用いたそれは複数の協力でなされ、人が入れ替わり立ち替わって「進行する何か」に奉仕する。動きは美しいばかりでなく、常に含意がある。そこに感動が生まれる。
サイクルサークルクロニクル
monophonic orchestra
APOCシアター(東京都)
2016/04/06 (水) ~ 2016/04/11 (月)公演終了
満足度★★★★
APOCシアター初訪問
千歳船橋駅にも初下車。観劇のお陰で知らない土地を踏める。75分(アナウンスによれば)という短い劇だが中々どうして濃密な、タイミング、ニュアンスとも細部にまで作意の及んだ(と見えた)劇だった。 大学生の「らしさ」は、若い俳優の最も得意とする所であるのか、書き手がそうなのか、現代口語系の芝居に時に形態模写かと思う位のがある。共通の記憶に訴えられているのかも知れないが。。
「痛い自分」が主人公。この痛さには身に覚えがあるが、そこに瞬時に深く感情移入した地点から、出口を見出して行く「どん底から人並み」の経過がダイナミックにドラマティックに感じられる気がするが、大部分が学生に見えた程の若いお客たちに同じ感興はあったのか・・は判らない。
時間のミステリーの謎解き物語と見えたドラマの「謎」が、「ほとんど盲目に近い状態」の暗喩であったかと、後になって思われたりする。 時間薀蓄も、それを語るキャラも楽しく、全体に個々のキャラが明確で、棲み分けというか、関わりの「らしさ」も思わず舐めたくなる位「あるある」になっていた。「学園物」への評価というのは少々甘くなるものかも知れぬが・・
劇場は入口側がステージで、壁を背後に長い通路状になっている。役者の出はけがその入口(下手側)と、上手側に開いている階段(下へ潜る)の二つのみ。 それが単調にならず、出入りの方向もうまく使い、冒頭からの「時間のミステリー」の演出・演技も見事で一気に劇に入り込ませた。
恋愛話と括っても誤りでないが、学生、あるいは二十代が持つ漠然とした不安や気分が通奏低音に流れる。そこが良い。
主役女性の貢献度も高し。
愛、あるいは哀、それは相。
TOKYOハンバーグ
「劇」小劇場(東京都)
2016/03/30 (水) ~ 2016/04/10 (日)公演終了
満足度★★★★
俳優=人物の実在感。「被災」に踏み込んだドラマ。
Genpatsujiiko-Banashi。舞台は伊勢。神宮のお膝元、うん年に一度の大掛かりな何やらを翌年(2013年?)に控えて、群舞的な何やらを披露(奉納?)するための地元民による練習も始まっている、そんな田舎町のとある喫茶店にある家族がやってくる。
劇は喫茶店のみで通す(照明を駆使して別の時空を挿入する等は無かった)。 一場のみ、時系列に沿って進行するリアル系のストレートプレイである所に、「被災」を扱う芝居に取り組んだ作り手の誠実さが感じられた(たまたまかも知れないが)。
原発事故の被災者を取り巻く事情として、忘れてならないのは「放射能汚染」をあげつらう話が地元福島では出来ないこと、除染して環境整備したら地域は元に戻る(住民は帰還する)、というシナリオ以外の可能性は語れないこと、避難した者は裏切り者とされること、間もなく県外避難者への援助が打ち切られること。。。
この芝居では、(放射能からの)避難を助言したジャーナリストが当事者から「無責任」と非難される場面がある。この背景には、「避難」を妥当な選択とは認められず、公の支えを得られないという理不尽な状況がある。放射能被ばくが認定されない限り、避難を促した者は嘘つきであり、混乱を煽った迷惑な人間だという事になる。 殊勝な記者はその声を黙って受け止めるが、実際のところ避難民を苦境に陥れている張本人は無論彼ではなく放射能被害を認定しない政策担当者(政治家・官僚)だという平易な事実は、霞ヶ関の建物の奥の奥、地下の倉庫にでもしまわれて表に出てこないかのようだ。
この構図を仄めかし俎上に乗せたことにより、この芝居の価値は相対的に高まっている。非情な社会の現実がある事の裏返しだろう。
【公演終了】箱の中身2016【感想まとめました】
映像・舞台企画集団ハルベリー
テアトルBONBON(東京都)
2016/04/06 (水) ~ 2016/04/10 (日)公演終了
満足度★★★★
氏の演劇魂は届いたか
がっつり「演劇」人だった(伝聞)という大谷氏のホームグラウンド=「壱組」の名を見て、また役者陣にも心動かされ、観劇した。チラシにもおぼんろの名が見えるのは、この企画じたいがわかばやしめぐみ(おぼんろ)の所属するハルベリーオフィスによるもので、壱組のかつての作品を復刻したという恰好であった。 ポストトークでのわかばやし演出の証言によれば、演出仕事は久々とは言え経験者、もっとも監修協力の大谷氏が大詰め段階で関わり、形を成した(迷いのあった部分が確定した)という事だ。
芝居は原田宗典による戯曲(初演は25年前)で、構成はA面、B面のLP盤のよう。B面はA面の謎解き編である事がB面の途中で判明し、テイストの異なる二つの芝居を観る気分を残しつつ、一つの完結したドラマを観る事になる、のだが、最後はB面物語としての結語で締められる、よく出来た戯曲に思えた。
若い(と見えた)演出の今回の舞台でのチャレンジは功罪相半ばしたかも知れない・・と感じたが、基本的には戯曲の世界を構築し、単なる謎解きプロセスを消化するのでない「生きた」人間の芝居を立ち上げていた。
細部はネタバレ欄にて。
東京ノート
ミクニヤナイハラプロジェクト
吉祥寺シアター(東京都)
2016/03/24 (木) ~ 2016/03/28 (月)公演終了
ミクニヤナイハラの正しい見方
『東京ノート』は平田オリザの受賞作でもあり代名詞でもあり、「ああ、あれをやるのね」と噂さるべき演目である。ところが連射される台詞を追っても「ああ、あれか」が見えてこない。「美術館での話」という以外、実は知らなかったんである(どこかで見たか聞いたと勘違い)。「これは大変だ・・!」海に投げ出された体を岸辺まで1時間かけて泳ぎ切るぞ・・という覚悟で、席も条件のよくない席から、持っていない双眼鏡を裸眼で見るだけの気合で目を凝らし、台詞に耳をそばだてる。が、ついに沈没。睡魔に負けた。
台詞の機関銃的連射と動きのコンビネーション=ミクニヤナイハラ流で、過去オリジナル脚本も上演しているし、今回もこちらでの上演版に変えてあるというので、元戯曲を知らない人も対象に考えられている。従って「寝てしまった」のは単に自分の体調か、感性の問題とも。。
がやはり、「東京ノート」をヤナイハラ流に料理する意図は、目で見ての感想は、原作を踏まえてこその面白さ、に他ならない。 静かな美術館のロビーで進行する「静かな」話が、せわしなく動き、喋るスタイルに置き換えられている面白さ、これが第一だ。その延長で、戯曲の持つテーマ性?的なものが徐々に焙り出されてくる(そこが矢内原氏の本領)、となって来るとするならば、そこもまた表現的には自然、抽象的になるだろうし、この「変換」の妙を感知するには、やっぱり原作を知らなければ難しい、ということになるだろう。
美術ならば(絵画等「時間経過の芸術」でないもの)、何度も見直して味わい返すことができる。それでも予備知識が鑑賞を邪魔することはない。演劇は基本的に一度、時間とともに味わい、終演を迎える。
そこで、「美術」的アプローチに近い演劇(ストーリー説明を重視しない演劇)を観る場合、作品の背景やアプローチ法など予め知っておくのが有効だと思う。今回なら、『東京ノート』は読んでから観るべきである。
では、体を頻繁に動かしながら台詞を言い、全体としてムーブ(ダンス)となっているミクニヤナイハラ的形態そのものが、テキストの如何にかかわらず訴えてくるものはないのか・・といえば、それは何がしかあるには違いない。だが、「こんなことやってる私たち」をも相対化してメタシアターとして括って鑑賞できる作りになっているかと言えば、そうではない(と思う)。ミクニ的「東京ノート」の世界を、つまり戯曲の世界を、味わうために作られたもので、何が話されているかはどうでもよい、という事にはなっていない。
従って上に述べた事が言える。
ところで、ミクニヤナイハラは笑って観れるパフォーマンスである、という事も発見した。批判性が先に立つかのようなイメージがあるが、実は感動しいな「お話」を紡がんとする人である、と印象が変わった。(だからメタシアター的な処理などしないのである・・たぶん)
次の機会があれば、ぜひとも観て笑いたい。