tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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渇いた蜃気楼

渇いた蜃気楼

下鴨車窓

こまばアゴラ劇場(東京都)

2016/05/13 (金) ~ 2016/05/15 (日)公演終了

満足度★★★★

あ、蜃気楼。
タイトルが振りで、劇中符合する効果(観劇中は気づかなかったので効果になってないが・・)。冒頭の振りが最後に出てきて閉じられるパターンなど、戯曲とは振り(謎かけ)の回収(謎解き)である、とシェイクスピアなどを読むと思うけれど、また別の話(失礼)。
 昨年の公演は途中からの観劇で、リアル劇なのかどうなのか判別する材料を得なかった。今回拝見した結果、リアリズムである。が、どこか、その場面から浮遊してどこか異次元に飛ばなくもない雰囲気を醸す瞬間がある。微妙な、意図の判然としない、けれど鋭利な刃でサッと切れたような(流れる血にも気づかない)ドキリとする台詞があったり、不安定なシチュエーションが注視を促す。もっとも二人の男女にはどうやら信頼、そして愛がみえ、現在に影を落とす過去への言及を経て、ハッピーエンドである。過去の不幸な出産が台詞(のない反応)で仄めかされ、最後の景で影を払拭される訳だが、妻の心象風景を描いた芝居だったのか、とも思えたり、解釈を多様に許容する空白の多いテキストが、想像力をたくましくさせる。他の作品も観てみたいと思った。

演劇

演劇

DULL-COLORED POP

王子小劇場(東京都)

2016/05/12 (木) ~ 2016/05/29 (日)公演終了

満足度★★★★★

「空気」は周到に作られ、演出される。その極意。
感動はしても行動にならない、ぐっと来て涙が流れても本当の勇気は湧かない・・・そんな「演劇」どもをなぎ倒し、ここに確かに「演劇」屹立せり、と見届けた。良い芝居を見た後は笑顔で談笑も可だが、ここは旧交を温める場面にそぐわない。その場所を鋼の刃先に喩えるなら、居心地よく佇む場所では勿論なく、何処かは知らねど何処かへと促されて立ち去る場所である。活動休止は消滅と同じでないが、「なくなること」の視野で「演劇」がその本来の使命を探り当てようとして探り当てた場所なのだとしたら・・。
 舞台上で起こったことが全てで、他は要らない、と潔く去らせてくれのは、この芝居が「良い芝居」であるための点数はきっちり稼ぎながら、その余韻にではなく「演劇」が既に明白に導き出しているある真実のほうに浸ることを促しているから、だと感じた。(うまく言えないがそんな感じだ。)
 多彩な趣向はあるが色目使いになる事なく、ただ一つの目的に全てを集約した「潔さ」「硬質さ」が直球のように腹に来た。
 ダルカラは実はまだ2作目(谷賢一作は4作目)、俳優の顔も初めて間近で見た。個人的思い入れのある燐光群『ブーツ・オン・ジ・アンダーグラウンド』で特徴ある役をやった東谷英人が今回も核になる役に。とにかく‘物凄かった’渡邊りょう(悪い芝居)、これも初めて間近に見た‘できる’小角マヤ(アマヤドリ)など、各俳優がこのお話の中心にある「出来事」の周辺で渦巻くそれぞれ感情を、精度と熱度をもって表出した。かく導いている脚本力もさりながら、人間の複雑な感情を的確に表現する俳優の姿にこそ「格好良さ」を感じる「演劇」、これぞ「演劇」の鑑。
 ところで「演劇」とは食ったタイトルだが、劇中で「これは演劇です」の意味では使われない。少なくとも、人を食ったタイトルでない、とまで。後は劇場で。

ネタバレBOX

 子ども同士の「絵本」のような世界と、汚濁した大人たちのシリアス世界が並行して進む。いずれ二つは結合するが、子ども=希望、大人=失望・諦めという対比的な両世界の結合は、「絶望的展望」か~ら~の~「希望」、とはならない(なぜなら子ども世界のMが成長した結果が、大人世界のMだから)。だが、時系列を超越する演劇の呪文で、この後先は逆転する。(というか、そう見ることも可能。)
 子ども世界は寓話的で、台詞は大人の気の利いた言葉だったり、子供らしかったり、身体的にも観念的にも自由に飛び回る。この「子ども世界」に登場してくる車イスの少女、すなわち少年Mが恋する相手が、ゲスト出演者に当てられる役だ。今回は堀川炎、クレヨンしんちゃん系の雰囲気を醸していたが、「子ども世界」の要であり、演者によって雰囲気が変わる面もありそうだ。眩しいほどに輝く子ども時代の、その中のヒロイン役は、黒と白の対照の一方の極点として神々しい存在(大人世界8人に対し、子ども世界は3人だし、負担も大)。劇団女優降板の穴埋めに有力な助っ人を招んだのも納得だ。
 さて、「大人世界」はリアルでシリアスな息詰まる半密室劇である。とある学校、問題はいじめが絡むらしいが、複雑な様相だ。
 似たような、念押しのような対話の繰り返しごとに、「出来事」の輪郭が立ち上がる。そしてその「問題」はどういう力学が働いてか、悲劇的に歪められており、この力学に抗おうとする教師Mが葛藤する、そういう話。その意味ではシンプルな話だが、最後の主役教師がとる行動に、刮目すべし(「カムイ伝」のラストに匹敵する・・とは行かないが、「まんまとしてやられる」意味では同じ)。
 観客は、どうやらこの教師Mが辿り着いた感覚が正当である事を見分けるが、この感覚からの行動は貫徹されない。なぜか・・これを示しながら、問うている。果たして敵は何なのか・・・

 言えるのは、こうしてドラマ化されなければ(Mが葛藤しなければ)、「空気」というものは普段は見えない。我々の生活と同じく。
 空気を読み、空気に流され、無難に立ち居振るまい、必ずしも無難な選択でなかった事に、後で気づけば良いほうだろう。
 「空気」というものがその時、生まれ、流される光景を明瞭に示したこのドラマの最終局面は、ありがちなシーンではあるが、「空気は意志によって生まれる」、という事が重要だ。
 学校で自殺未遂をして救急搬送され、全身麻痺状態にある娘を、卒業式に出してほしいと、父親が土下座をして頼んでいるのに、否定されてしまう異常事態を、観客も受け入れてしまっている。
 この「演劇」には、この異常さを正しく認識し、行動する人物が登場しない。せいぜい、父親をまじえた会合をシナリオ通りに進めようと「打合せ」を厳しく取り仕切る上司に、「指示通りに動くのはごめんだ、自分の感じた事を言う」と、抗うのが精一杯。
 代わりに、その父親が行なった「いじめ」告発の過激な行動のお陰で、いかに児童が萎縮し、また「自殺」という行為によって児童たちが心理的悪影響を被っているか・・・学校や父兄側の見解が、まことしやかに語られるのだ。父兄代表のある男が「子どもたちの安全安心」のためと称して登場し、その「正論」の欺瞞が見え隠れする場面も描いてあるが、芝居の中では尻尾を掴まれない。
 その一方で、娘の父親がひとり、大声で謝罪し、何度も土下座をし、娘の思い(卒業式に出たい)を遂げたいと言い募っている。確かに血の気の多そうな父だが、周囲の冷めた、理解を示さない態度の中で、ただただ「お願い」を続けている。彼の存在によって、学校側の「不当さ」は際立たず、学校側の「対処」への真剣さが際立つ。
 ・・彼は娘の容態についても語り、辛うじて上下に動く腕で意思疎通ができるようになった、今彼女は質問に答える事ができる、食事のこと、そして卒業式のことも・・と、腕を動かしたその瞬間のことを話す。周囲は聞き入っている、が、「空気」そのものは動かない。彼の言う事は大勢に影響しないのだ、という「空気」がある。客席からこの「空気」の正体を読むに、その父親への「レッテル」だ。「この人はこういう人だからな。。」そんな空気。観客をも味方につけられない構造が「演劇」では作られている。

 さてこの「空気」なるもの。 ここでは、少女を学校に来させないように立ち働く上司の、使命感を語る口調や態度に影響されて作られているとも見える。彼の「意志」が、空気を作り出している。
 この娘の卒業式出席をめぐる問題は、対話によって解きほぐせば結論は変わるはずなのだが、そうならないようなうまい「立ち回り方」によって、空気が作られている(維持されている)訳である。
 ・・空気とは即ち、「対話や議論を省略して結論をたぐり寄せる」方法、であり、「空気」には、その結論へ導こうとする強い意志が含まれている。そして、その意志を感知した者によってさらに再生産される共有物である。
 安倍首相がテレビ番組に出たり報道にイチャモンを付けるのは「意志」をマーキングする行為で、逆に野党の露出を抑制するのは、「意志」を伝える回路を奪う事で、影響力を遮断しているのにひとしい。

 閑話休題、しかし観客は次第に「事実」を知っていく。どうやらあの親父の言ってるのは本心だ、何か復讐心や見返りを求めてこの申し出をしているのではない・・・そう十分に「認識」をする。その認識に応じるように、東谷演じる教師Mが自分の意思を表出しようとする。
 ところが、観客は「事実」として父親の証言を聞きながら、彼に全的には同調して行かない。十分に彼の証言が事実であり、彼の心境が自殺をはかった当初とは違った所にあり、「いじめ」犯人を告発すると騒いでいた頃とは異なる事が知れても、いやその頃とは異なる彼だからこそ・・つまり「いじめ告発」という武器を捨てた丸腰の相手だからこそ・・、その要求を拒んでも手前の利害には影響ない、従ってこれは拒否して正解だ、といった算盤を、私も頭のどこかで弾いていたりするのだ。 さもしいこの性は何だ。忌々しい日本人の血だろうか。
 だが、最後の最後に、父親の言葉はやっと届いて来る(まあ脚本上の工夫でもあるだろうけど)。そして、見事に覆されてしまう。
 会合において、上司の仕切りのきつい中でも、「自分の意見を言う」意思を貫いていた女性教師がいたのだが、その父親が娘をしばしば「叩いていた」という事実を本人から聞いて、態度を豹変させる。「自殺の原因を作った本人かも知れない父」の頼みは聞けない、という判断になってしまう。
 本来、その娘や児童にとって何が良いか、それが問題であって、父親がどういう人間か(尊敬に値する人間かそうでないか)など、関係のない事である。が、この豹変をきっかけに、校長と上司ら「体制側」は攻勢に転じ、「そんな重要な事実をなぜ今まで話さなかったのか」という問題設定が上位に来てしまう。
 皆「知らなかった」と答える中、Mだけは正直に「噂として聞いていたが本当だとは・・」と答えると、「そんな重要な事をなぜ今まで・・」と非難され、この指摘がその「空気」ではテキメンに効く。一方父親は既に認めていた事実を新事実のように訴追され戸惑いながらも、そのことを謝り、良かれと思ってやったが悔いていると語り、しかも自殺の原因がそこにあった可能性も否定しない、私の命に換えてもいい、娘の願いだけは聞いてほしいと、ボロボロになりながら叫び、泣き、土下座をするのだ。 が、「空気」は硬直する。
 さて、女性教師の「豹変」は、彼が「自分の思い」をぶちまけようとした直前の事であった。もし彼が本音を「ぶちまける」のと、女性の豹変に始まる「暴力」問題のくだりと、順序が逆だったら・・。
 異常さの密閉空間に、正常さの風が流れれば、問題はその重さに相応しい重さで語られたことになった事だろう。いや、そんな理想的な空気など訪れなかったかも知れないが、「マシ」であった事は確かだ。
 が、実際には逆になったのであり、おそらくこれも、女性教師の「空気」に対する反応であった、という意味では自然な結末であった。

 この結末の後では、いかな「演劇」とて、打つ手はない。「こうならないようにしよう」と、ただ思うだけである。時間を逆戻しにして、オルタナティブな結末へ導く、そんな演劇的手法も有りと言えば有りには違いないが、これほど的を射た「結末」は後からどう覆そうと、きっと虚しいだけである。
 虚しい呪文を唱えて、舞台上で実行する「演劇」と、ここで言う「演劇」は、違う。
 ・・過去の(覆せない)悲劇的な事実を、舞台上で覆してみせる、そんな演劇がある(戦争を題材したものはそれにあたる)。そういうドラマになぜ涙が流れるかと言えば、まず「悲劇」が前提となっており、これをハッピーエンドに置き換えることで悲劇性が際立ち、「それをわれわれは悲劇と感じている(望んでなど居なかった、という悔悟)」証左と確信する、そんな甘い共有空間が出来るからだ。要は「悲劇を思い起こす」時間である。戦争はそれに相応しい、皆が共有できる素材であり、それはそれとして、意味のある事ではあるだろう。
 だが、事を「未来」に移してみる。未来を作るのは、他ならぬ私たち自身だが、「これから作って行く場面であり風景」である意味での「未来」と、「演劇」は相似・同義・同質ではないのか。
 その問いかけがこの芝居の最後に叫ばれるスローガンにはある。ただし、願えば未来は変えられる、といった一般論・励ましだけ抽出するのでは殆ど意味がない。
 「空気」というものに克てたためしがなく、ほぼ負け続けの私たちが、この芝居でのリアルな(あの)結末を直視せずに、その未来を語ることは虚しい、という事なのである。
 残念ながら、「空気」に抗わず、「空気」と対峙する場面を回避しながら、より良い未来を手にすることは「自己暗示」以外には無理である。残念ながら。
 自立した「個人」の総和としての、相対的に正しい「全体」を作ることが出来るか・・それがこの華々しい終演の背後に、もたげている問いだ、と受け取った訳であった。
  ひどく主観的かも知れないが、私なりの解釈だ。
楽屋~流れ去るものはやがてなつかしき~

楽屋~流れ去るものはやがてなつかしき~

燐光群アトリエの会

梅ヶ丘BOX(東京都)

2016/04/27 (水) ~ 2016/05/10 (火)公演終了

満足度★★★★

燐光群「楽屋」の楽。
二度目の投稿。燐光群キャスト別バージョン、最終日を観た。中山マリが女優Cの年齢を20歳も上回る設定でやはり見事に演じた(「あれでもう40よ」を「あれでもう還暦よ」と変えて笑わせていた)。
 一方で、役のキャラ・年齢等から相当離れていたとみえた女優A(樋尾麻衣子)。声の塩梅(がなりと抜きの組合せ)、怒りの演技が若い(「泣き」の入った怒り・・幽霊歴からして達観に至っていてもおかしくないのに)など、正直気になっていた。
だが。千秋楽でそれらも含めて全体がひとつの環に収まり、一つのあるべき「楽屋」が立ち上がっていた、と感じた。渡世人「斬られの仙太」の見栄切りつつの物言いも、低音にならない持ち声を駆使して必死に演じてひるまず、思わず涙が・・(もろいと言われればその通り)。
「人のいい」キャラへの憾みを終盤ようやく真情吐露して一個の人格を現わす女優B(松岡洋子)。 狂気にひとしい「役」への異常な執着と、人間的な感情を行き来し、古参幽霊にとっての小さな希望の種らしい佇まいもみえた女優D(宗像祥子)。 絶妙なバランスで一つの環ができ、そこに、私としてはいまいちそぐわなかった「三人姉妹」の語りでの行進曲の選曲が、芝居と融合して聴こえてきたものである。
かくして、「楽屋」の日々は終えり。謝謝。

楽屋

楽屋

ママーズ

梅ヶ丘BOX(東京都)

2016/05/05 (木) ~ 2016/05/08 (日)公演終了

満足度★★★★

あっぱれな「楽屋」
「楽屋」フェスティバルも終盤に来てさらに追加(おかわり)観劇。観た数も参加団体の半数を超えた。
あっぱれ!と言わせる「楽屋」は、女優Aの股旅物~「かもめ」のトリゴーリンに至る「役演じ」が<あっぱれ>である事が条件の一に思われる。十ばかり観た中で二団体あったが、加えてママーズも然り。4女優いずれも腕に覚えある実力者のよう。中でも女優Aの孫貞子は新宿梁山泊出身、私の人生初観劇のテント芝居に辛うじて加わっていたか、そんな思いに感慨ひとしお。あの劇団特有のエネルギッシュな120%出し切る演技がここでも健在、一々納得させる演出(動線といい、台詞のニュアンス、間合いといい・・)とあいまって、疾風のごとく過ぎた「楽屋」であった。また、笑った。
女優Cが冒頭、「台詞を練習している」体で台詞を言えているというのも案外少なく(確かに演技として難しくはあるだろう)、その中ではっきりと「練習している」という場面の意味がくっきり明瞭に出ていたのは燐光群の中山マリと、この団体だった(他はその意味合いは伝わるのだが、本番舞台で「うまく演じている」ように練習している、という風に演じ(メタ構造・・判りづらいな)、それでもって「そんな風に練習している」と観客に理解させている。ニーナを演じる女優の貫禄を感じさせながら、なおかつ普段着な空間での、力を抜いた「練習」になっている、というのは観る側としては快感である。その分、演技としては相当な力を要するのだろう・・「楽屋」を見続けてそんな事も思う。
・・てな具合にいろいろ楽しませてもらった稀有なイベントであった。

上の団体の前にやった「とろんぷ・るいゆ」にも触れれば、前橋で活動する主宰の元に集った(やはり地元の)人たちで、女優Aを男優がやったり、キャラがAB逆転してたり(Bが豪胆、Aが弱腰・・恐らく男性がやった結果だろう)していた。ユニークだったのは途中、何箇所かで詩が挿入される。これがうまくはまっている。自ら改稿したなら、中々の書き手だ。最後には前橋にゆかりのある清水邦夫の足跡を辿った映像が終盤に流れる。「三人姉妹」の台詞を中断して・・終わると続きの台詞が畳み掛けられ、終幕へ、という段取りだ。映像は拙いものだったが、大胆な演出だった。

劇読み!6

劇読み!6

劇団劇作家

【閉館】SPACE 雑遊(東京都)

2016/05/04 (水) ~ 2016/05/11 (水)公演終了

満足度★★★★

『ミュージカル・ゲド』
ル・グィンの著名なファンタジー『ゲド戦記』を篠原久美子が戯曲化したもの。あの『ゲド』が・・・「劇読み!」作品中、一も二もなく観劇第一候補。結果は・・・期待にたがわず堪能させてくれた。魔法を使う人間とそうでない人間とが普通に暮らし共存している(魔女の宅急便みたく)社会の雰囲気が、このファンタジー作品の要だ。「影との戦い」の巻。忍び寄る「影」の存在が、ドラマティックに物語を先へと駆り立てるが、「影」とはいったい何なのか・・話は単純明瞭な問題解決に行かず、すぐれて哲学的。だが人間の「闇」を経て最後には清清しかった。
 リーディングとはいえ「朗読」よりは「芝居」寄りで、迫力十分。「売れない戯曲に光を」・・などというマイナーなイメージを払拭した。こうした力強い戯曲が劇作家の手で生み出されている事実を心して受けとめたい。

青森に落ちてきた男

青森に落ちてきた男

渡辺源四郎商店

ザ・スズナリ(東京都)

2016/05/03 (火) ~ 2016/05/08 (日)公演終了

満足度★★★★

柔かさの中にある力強さ
畑澤聖悟作品、毎回事前知識は皆無で観劇する。たいがい「観る」と決めているのでよほど暇でもなきゃHPを覗く事もなく、まして今回のようにチラシにもお目にかからねば知りようがない。直前に知って慌てて調整し、観劇した。無理して良かった。やっぱりよかった。
クリスマス禁止法や、(ちゃんと降霊できる)イタコや、原子力ロボットやタイムカプセルなど突飛なアイテムを介在させた芝居が多い。「海峡の7姉妹」に至っては皆「船」役である。だが、見入らせる芝居を作る。現実世界の暗喩、また暗示らしい事が明からさまで、謎解きは開幕から始まっている。今回のアイテムは「鬼」であった。

戦争を扱った今作が、戦争「遂行」に寄った人物に対して一切、「英雄的」解釈を施す余地を与えず、リアルに、シビアに醜さを抉り出した所に、今回この「演劇」が打ち出そうとしたものを読み取る。今作では「謎」はゆっくりと解かれ、終盤ようやく見えてくるものがあるが、スッキリとまで説明せずに終わる。カタルシス効果はこのテーマにそぐわない、とするのが正常なのだと思う。

千秋楽は12時開演。これからバラして撤収し、青森での明日からの仕事に備えるのだろう。これで「食ってる」訳ではない人達であり、食う事を目指してるのでも恐らくない。近くの席の青年が気持ちよく笑っていた。そして泣いていた。満席のスズナリで、健全な感覚にふと覚醒される、ナベ源の日。

嗚呼いま、だから愛。

嗚呼いま、だから愛。

モダンスイマーズ

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2016/04/22 (金) ~ 2016/05/03 (火)公演終了

満足度★★★★★

蓬莱隆太の新作。千秋楽
ストレートプレイが画素数的に高質で、またそれでなければ表現できない微細な心情(変化)を捕えて構成されている、上質な例として「悲しみよ・・」を観た記憶が、今回も蘇った。
 主人公の多喜子を「囲い込んでいる」他人の作為が彼女自身の世界観の投影でもある、と唱える他者と、そうではないと主張する主人公の闘いは、最もありがちなドラマのパターンでは主人公が折れてそれで成長して云々と陳腐な展開となるが、そうならないのが蓬莱作品ならではの鋭さだ。
 この劇では多喜子の被害感情も込みで「願望」を貫く事が即ち一つの解答である、という結末になっていた(と思えた)。ブスである事の現世的な報いを甘受してきた彼女は、周囲の配慮には感謝せねばならないマイナス出発の現実への違和感を、ついに表明する。不当さに対する不満に固執することが、彼女にとっては、闘うべき闘いをたたかい、勝つ事でもある。「分かりの良い人間」にはならない・・言葉にならないこだわりに、泣きつ乱れつつも、徹しようとする姿に、涙した。
 彼女の中で、あるいは、彼女と周囲の関係に、変化は起きる。変わるべくして変わったのか、解釈はいかようにもだが、この変化があったのは彼女がある正直な感情を「捨てず」「徹した」からである。つまり、変化(望ましい)そのものより、自我を捨てない態度のほうが、重要なのだ。

 とにかく役と俳優の親和性が完璧と言えるほど高く、ストレートプレイとして「再現の正確さ」が実現されていた。 「惚れた」と真実告白する旦那からはセックスレスの理由を聞かされず、その夜二人の関係が修復する、そのきっかけも何か決定的な要因を示している訳でもなく、「旦那の物語」としての説明は不足しているが、さほど気にならない。
 このドラマの普遍性は、容姿ゆえに差別される不条理に触れた所にある。「人間、容姿じゃない」という安易なメッセージは最後まで出さない。安易なメッセージというのは往々にして、低きにある者の事情に配慮せねばならない「面倒さ」を免除するために発される。
 一方、この芝居では文字が映写され、「その瞬間まで○時間前」などと表示される。その瞬間が何であったかは最後に判る。フランス同時テロである。パリ行きを2日前に控えていたカップルが存在する事で、この事件は物語に絡むが唐突である。が、その事も含み込む「物語」の広さはどこから来るのか・・・川上友里の存在が浮かび上がる。ユニークな俳優だが、今回の俳優の布陣の中ではいやまして、ユニークさが際立つ。戯曲世界に生かされているのか戯曲を生かしているのか、千秋楽、劇世界の要で、周囲を生かしていた。
 尾を引きそうだ。

楽屋~流れ去るものはやがてなつかしき~

楽屋~流れ去るものはやがてなつかしき~

燐光群アトリエの会

梅ヶ丘BOX(東京都)

2016/04/27 (水) ~ 2016/05/10 (火)公演終了

満足度★★★★★

贅沢な企画
「楽屋」三昧を決め込んで通し券を購入したが、既に終りが近づいてきた。淋しい。全団体は観られず、7、8団体は半数以下か(でも元は取ったか)。全部観たかったし、きっと飽きなかったろう。同じ「楽屋」のテキストをルールとしての競演が、今回初の試みだというから、コロンブスの卵だ。
 「楽屋」は何度観ても面白い、よくできた戯曲だが、戯曲が要求する「理想形」が一定程度、想定されそうに思う。その意味で団体の「個性」よりは優劣が見えて来る面がある。
 もちろん細部では、役の位置づけの違い、台詞のトーンの選択の違いなど、差異が見える瞬間が面白く興味深いが、全体としては「ある正解」に近づけたかどうかを競っているように見える(大胆な解釈・演出をした団体に当っていないせいかも知れないが・・)。
その点、ちょうど今d倉庫で開催している現代劇作家シリーズ・ベケット「芝居」フェスティバルなどは、自由度の高い戯曲をいかに自分ら流に調理するか、個性を競う点に特徴がありそうだ。
 どちらが良いという話ではないが、「楽屋」は俳優力を試す戯曲で、「的確な」形を見たいと願ってしまう。一度「おいしい形」を目にしてしまうと、そこに至っていない団体が劣って見えてしまう、という事が起きる。しかし、それでも「楽屋」を味わわせてくれ、それとして、満足させてくれる。興味深い企画だ。

ネタバレBOX

燐光群の演出は、俳優の組合せで4組あるが、女優Cの中山マリがハマり過ぎる位で圧倒された。この戯曲には評価するポイントが幾つかあり、そのポイントごとに点数を付けて評価してみたくなる。ポイントとは即ち、「おいしい」場面な訳であるが、重要なのは終幕「三人姉妹」の処理。ここで感興が湧かないと淋しい「楽屋」になる。それまでの布石が組み合わさって三姉妹として融合する事の感動は、最終的な評価ポイントと言える。
 ここがしっかり出来ていたのは、トゥルースシェル、そして(作者清水邦夫の主宰団体であった木冬社由来の)火のように水のように。後者「火・水」の完成度は圧倒的で、動線処理といい会話の微細なニュアンスの変化といい、一々理に適っていた。女優も魅力的でキャラ分担がよい。前者は女優4人それぞれが女優としての本領を発揮する=「役を演じる」場面での弾け方が素晴らしかった。ニーナ役に憧れて死んでしまう女優Dがやるニーナの場面が女優Cの俗っぽいそれに比して鬼気迫り、唸らせる・・その処理は「病気ゆえに(うまいのに)報われなかった」悲劇という解釈によるようだが戯曲の狙いとは異なるかも知れない・・しかし「演じる事に魂を注ぐ」女優の物語たる証として、それぞれの「演じる場面」を凄まじいテンションで魅せるこの団体の選択も大正解ではないか。
燐光群に戻れば、幽霊と人間の処理、霊の「日常」なるものを唄にした秀逸さ、中山マリの鋭利なリアリズムと喜劇調の二人(女優AB)の演技との対照、瓶で頭を叩く迫力など・・良い点が多々あるが、終幕になる「三人姉妹」がうまく行っていないように思え、何が原因だろうかと考えた。
女優の悲哀が基調である。延々と続く(幽霊にとっての)毎日、決して来ない眠り・・これは「幽霊」という特殊な世界の話であるよりは、「永遠のプロンプター」に象徴される、夢みて報われない多くの人間を代弁するものだ。無為に感じられる毎日に悩むのは幽霊だからでなく、人間的なあり方だ。従ってそこには、舞台上で確かに「事件」は大小起きるのだが、幽霊生活の長い二人はどこか、耐え難い日々を耐えてきた、何かそういうものが感じられなければならないのではないか。初めての出来事にはそれなりに、似たような出来事であればそれなりに、リアルに反応する「身体」でなければならない。叫びを上げる事さえ出来ない想像を絶する日々の線上に、最後、「幾ばくかの変化」にすがってみても良い・・そんな考えにいざなわれて「三人姉妹」に興じてもみた彼女らのありようがあるのであって、そんな彼女らだからこそ、生きている私たちにも幾ばくかの希望はあるんじゃないか・・そう思わせる何かが浸み出て来るのに違いないのだ。 ・・と、こんな風に書いてみて、こんな言葉を通してでも、私の想う濃密で猥雑な「楽屋」の世界がどうかして彼女たちの中に浸潤して行ってくれたら・・などと願いつつ。
雲ヲ掴ム

雲ヲ掴ム

秋田雨雀・土方与志記念 青年劇場

紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)

2016/04/21 (木) ~ 2016/04/30 (土)公演終了

満足度★★★

夜の部。青年劇場への書き下ろし第二弾。中津留節全開の果て・・
リアルな工場内のセットに、リアルな工員たち、息子らの造形。雰囲気は悪くない。戦車の部品をつくる町工場という着想、出だしはまずまず、刺激的だが・・。

ネタバレBOX

前回の「みすてられた島」と言い、今作と言い(自劇団も)「設定」がユニークで、何か起こりそうな、議論百出しそうな予感がする、そういう設定で人はいったいどうなるかという「シミュレーション」が中津留氏の本領だと思う。
だが、言わせたい台詞、交わさせたい議論を優先するあまりリアリティを欠き、シミュレーションじたいが失敗であるというパターンがしばしばあるように思う。
「台詞(テキスト)」の力は、「状況」との関係で違ってくる。中津留氏の中で、ある言葉が「発される」だけでも意味があり、インパクトを与えるだろうと判断されているのでは、と感じる所がある。この「状況」に過度に依拠した作りを改めて、リアリティに少し重心を戻す必要がありはしないか。 以前みた作品では、観客の視線は人物の「行動」の意外性にいざなわれたが、最近は人物の「台詞」に意外性の効果を負わせていると感じる。しかし「行為」は解釈の余白があるが「言葉」は意思をもって吐かれるので(言葉を選ぶという作業は理性に属する)、整合性をとりづらくなる・・そんな事がありはしないか(このあたりの分析は不正確かも)。
観ながら「残念」の原因は台詞の「言い方」にあると強く感じた。前作は中津留氏作・藤井ごう氏演出だった。今回は演出も中津留氏。テキストを客観冷静に、突き放して構築するのが今回の場合は正解だったのではないか。直線的に「主張」したり叫んだり、芝居の「メリハリ」を出すためなのか、言わせている印象が強くそのたびに「リアル」は遠ざかって行く。「まだ修復できる・・」という期待を、悉く裏切るように「叫び」の台詞を挿入する・・観る側としてはそんな感覚であった。
脚本の「不備」を台詞の強さでカバーし、思いの強さ=彼はそう思ったんだ、その事は否めないだろう=という正当化の弁が用意されている感じである。
逆に・・というのも変だが、青年劇場の(年輩方の多い)俳優陣が、それでもなおリアルな実在感を示しながら、舞台に立ち続けるのには感心した。脳梗塞で半身麻痺を追った職人の演技のリアルさ。・・思い出すに、あの直線的な「叫び」、正義感の「叫び」、本気の「泣き」、といったぶっ壊しさえなければ、味のある舞台になったのでは・・と、「もしの場合」を想像しないでいられない。
そうは言いながら、印象的な場面も沢山あり、最後の「雲を掴む」の謎解きの台詞を「詩」みたく言う場面。最後の最後にタイトルと芝居を結合させんとする強引さも、カバーする力強い台詞だった。
ただ、雲を掴もうとする赤ん坊の姿に思わず自分自身を発見した告白の台詞に、聞く者も「発見」を促されたのなら、たそがれた表情ではなく、今そこに雲がある、という「発見」の演技がなければならなかった(二人登場しており、不可もなく可もない姿。惜しかった・・)。
総じて、テキストより演技の問題(俳優の「力量」ではなく場面作り=演出の領分の問題)だったとすれば、こんな勿体ないことはない。再演・・は無理か。。
Collected Stories

Collected Stories

Art-Loving

ラゾーナ川崎プラザソル(神奈川県)

2016/04/27 (水) ~ 2016/04/29 (金)公演終了

満足度★★★★

役者は何をする者であるのか・・2時間のテキストとの格闘
記憶に残る舞台になった(恐らく、明日になっても)。俳優二人の濃密な会話劇は、群像劇と対照的に殆どさらしもの。これを観ながら感じたり考察したり、どんなものか評してやろうと手ぐすね引く連中の餌食に等しい。言い方を換えれば「素手の勝負」。
「役との格闘」とよく言うが、舞台役者のそれは、舞台上で「闘う」ために稽古をする、という関係になる。よりよく闘う姿は、演劇の意義・価値・輝きを証し示す内実である。この舞台は見るべき的として、ストーリー自体ももちろんだが、ドナルド・マーグリーズという作家のテキストを、俳優の闘うリングとして据え、そのスクエア内で闘っている二人の女優の姿がある。
綱渡りに喩えれば、じっくり渡ろうが早足で渡ろうが、渡りきる事が重要で、それじたいが凄い技である・・・台詞自体が半歩先を行くので観客はそちらを追うが、演じ手の「役」の様子も見ており、役の設定とのイメージギャップや、特に海外戯曲を観るときの諸々の「落差」はこの舞台でもハンディとなっている。その中で、女優らがそれぞれ一人の人物を成り立たせる勘所を掴み、己のものとし、精一杯リング上で闘っていることの爽快さに結実するというのは、テキストの良さはもちろんだがテキストと互角に闘い抜くという舞台上の「現象」あってこそである。

この作品の、赤裸々な心情吐露に事欠かない台詞が激した感情とともに俳優の口から吐き出されると、しばしば台詞に澱み、言い直しもするが、「人物」をやめる瞬間を(その予感も)微塵もみせず、絶えず俳優が「現在」を生きる証左を観客は感じている。
作家と、作家志望の若者(いずれも女性)同士の会話には、これを書いた作者自身が「作家」な訳だから「ネタ」元は自分自身でもあるだろうが、「文」を生み出す苦悩や、作家の視点その他含蓄ある警句がちりばめられ、必然、それは人生そのものを語ることになる。この台詞の「重量」は半端ない。その重みを私らに届かせた二人の俳優の「仕事」に、一礼をしたい。

ネタバレBOX

途中休憩有りの二幕。前半1時間強、後半1時間弱。二人の出会いから関係の発展が第一幕で描かれ、第二幕はその数年後のある日の夜、二人の再会の場面での会話だけでほぼ占められる息詰まるシーンになる。
物語の「結末」部分では、一幕で交わされたちょっとした会話(とは言え語った年輩の方の作家にとっては重要な告白)をめぐって、これをネタに新作を書いた若手作家が久々に訪れ、「問題作」を(出版前に送られた原稿で)読んだ年輩作家が、言葉を交わす。印象的な箇所を挙げれば書ききれず、「見事である」の一言でこの文を終えるしかない。
二人は数年の間会っておらず、そこでの会話も疑心か諦観か挑発か諭しか判然としない(その絶妙な合間を縫う)年輩作家の言葉と、どこまでも直線的に向かい合おうとする若手作家の「すれ違い」の中に、余白、さまざまな解釈の余地がある。この余白は何か語る欲求を刺激するものがある。ただこの場では控えておく。
つま先が洗えなくて

つま先が洗えなくて

演劇ユニットどうかとおもう

下北沢ギャラリー スターダスト(東京都)

2016/04/28 (木) ~ 2016/04/28 (木)公演終了

満足度★★★★

皮肉のきいたはなし。
おかしい。実におかしい。いとをかし。♪お菓子食って、可笑しくって。風刺や皮肉の利いたおはなし、てのは健やかに生きるための(忘却機能に次ぐ)傘であり、栄養。
零細ヤクザの四人の組員の、ヤクザっぽいところ・・・子分に「殺すぞ!」と脅したり、「お前何座ってんだ!」とどやしたり、一応紋々を入れてたり・・・を除けば、いったいヤクザって何だろう??
一般人(堅気の人)ってのは、すなわち「非ヤクザ人種」の集合。ある由来から差別の対象となった「ヤクザ」は、カタギがまっとうであるための比較対象項である。
三階の貸しスペース。開演から通りの人声が聞こえ、時に大きな電車の音も。照明の変化はなく、音響はBGMも救急車の音もパトカー音も、表通り側に据えた(ラジカセか何かの?)機材から鳴り、携帯着信音もそこから聞こえる。転換は場面が終わって役者が黙々とやる。劇場機能に頼らず、俳優の演技に大きな比重を課す芝居だったが、書き手の皮肉のきいた台詞の力に、大きな笑いは起きないが終始をかしく、(良い意味で)気の抜けない40分だった。

さよなら、先生

さよなら、先生

おおのの

シアター711(東京都)

2016/04/20 (水) ~ 2016/04/24 (日)公演終了

満足度★★★★

モノローグ>ダイアローグ
あの狭い711シアターで・・と思いきや舞台側の奥行はそこそこ(隣のスズナリの半分程度)あって、乘峯氏による美術は壁、袖にあたる部分が紙、真横からの照明に当たるとゴツゴツした岩の洞窟の中の様相だが、小説家が虚構をその上に立ちあげる紙のキャンバスを三次元化したもののよう。
 太宰治の絶筆になる「グッドバイ」・・何人もの女へ律儀にも離縁状を渡そうとする男の、今回思いついた算段は美人の女性に頼んで妻を演じてもらい、これを見せつけて愛人らに自分を見限ってもらう、というもの。 この話を軸に、五人の女性、太宰、語り手でもある編集者(男)も絡めながら、「グッドバイ」の頃の作家太宰の輪郭、というか世界を描写、というか言及する舞台。
 対話台詞はストーリーと人物の人となりを描出するものだがこの部分に不満。だが編集者と太宰による、観客に直接語る「地の文」に当たる台詞は、数段良い。特に太宰の語りは、終盤の坂口安吾の引用以降ぐっと締まり、これに続く作家論、人生論、哲学的な語りが耳から栄養のように吸収される感覚に陥った。
 芝居としては語り切れなさが残った(「劇」の本体たるエピソードより、論が勝った)という印象だが、主な要因は恐らく、5人の女性の比重が、均等であれとは言わないがアンバランスに感じたこと。それぞれが「太宰の女」として持つ魅力、即ち個性(それは女優自身の魅力でもあろうか)を二人が対峙する場面の中に仄めかして欲しかった。

ジレンマが嗤う

ジレンマが嗤う

神奈川県演劇連盟

KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)

2016/04/21 (木) ~ 2016/04/24 (日)公演終了

満足度★★★

正体不明だが元気のよい舞台
諸々ネタバレにて。

ネタバレBOX

演じるどの役者も初で、拙さもあるが声はよく出て気持ちがよい。
KAAT神奈川芸術劇場大スタジオのステージの容積をフルに使用。舞台ツラに路上(戸外)、上手上段(便利屋事務所)と下手上段(スナック)に具象のセットが組まれ、シーンが移り変わる。技術的な点では、他シーンのケツで次のシーンの人物が、部分暗転の中で登場すると動きが見えてしまい、「見える」前提で動き方を工夫する等は、この舞台としては考慮して良かったのでは。
「陰謀」の影が見え始めるあたりから、物語らしくなってくる。が、なかなか話が入り組んでいて全体像は判りづらい。この「判りづらさ」は、シーン転換のテンポを優先した結果とも思われ、それじたいは問題ではない。判りづらい中でも徐々にパズルのピースが揃い、穴はあってもおよその全体像が見えてくる、その「像」じたいの問題である。
冒頭の場面(知己である三人の男女)が、最後のシーンで出会い直すのだが、この劇的効果は「何が変わったのか」あるいは「変わらなかったのか」が説明されるためにこそ発揮される。ではどう説明されたか・・そこが「判りづらい」のだ。
「裏切り合うのが人間の定め」がおよその結論、とするならば、冒頭あった友情あふるるシーン(みたいな雰囲気のシーン)は、実は欺瞞であった、世の中そんなきれいごとじゃない、という結論によって「覆された」感が出なければ嘘だ。否、損得勘定でない何かが残るはずだ、と言いたいなら、それは何だったのかが見えて来なければならない。そのどちらかが判らない。
主人公(ヤクザの首領の息子だが堅気になっている)の「(組織を)ぶっつぶしたい」欲求は、己の出自への呪いを背景にしているらしいが、これを中心テーマに置くとすると、では最後になぜ自害しないのか。「相手をつぶす」その理由を問われて自分もその一人であるヤクザの血への嫌悪を吐き出した彼が、(相手だけは死なせておいて)それを徹底しない。では本当の動機は?・・これが最もよく判らない。
この「判らなさ」は、「自分が判らない」という台詞として語られ、テーマの一つのようにも思えるが自己弁護にも思える。「判らないが何かその行動には説得力がある」と感じさせる何かがあれば別だが、あっただろうか。
主人公が新しい彼女?に愛を感じる背景も不明だ(元カノ然とふるまう冒頭登場の三人の一人の女がその女に嫉妬するに至ってはいったい何が何やら)。また、その新カノが「自分の立ち位置に不安を覚えて、首領(主人公の父)と主人公が対峙する場面では、なんと「自分はどうすればいい?」と首領の方に尋ね、主人公に銃口を向ける「自分のなさ」・・寄らば大樹、ならまだ判るが、ピストルを突きつけあっている(力は均衡)二人の内、一方は愛し合ってもいた相手。「意外性」を狙っての展開であっても、背景説明をほどこそうとする観客の想像力にも限度がある。かといってシュールさを狙ったようにも思われぬ。
「裏切り」を働いた新カノは、主人公によって制裁される(その場で撃たれる)。ヤクザの血が嫌いと言ったその血が促す通り(「許す」という選択でなく)銃殺した、という行為は、彼の「ヤクザ嫌い」という思想に一貫性を与えたか、損ねたか。これは重要ではないのか。
総じてみれば、抗争し合うヤクザ組織の「腐った部分」が、この主人公の働きによって一掃されてスッキリした、という風になっている。だが、クリーンなイメージとは裏腹に、殺さなくて良い人間も殺し、無為な殺生を回避する工夫を行なった形跡もない、これがヒーローに価するのか・・という素朴な疑問は消えない。顔格好と照明の当り具合のみ、ヒーロー然としていて、人間何をやってもそれっぽい雰囲気醸してれば「いいもん」に評価される、という理不尽を、勝者側に立った高笑いと共に世に出したに等しい作品だ、と、言われても仕方ないのである。もし彼がダークヒーローなら、その暗さを背負わせるべきで、爽やかなラストなどもっての他である。
残念、ではあるが、シーンの作りやテンポなどなど、優れた所も沢山あった。笑える台詞も幾つか。オカマ役のキャラはこなれており、捨てがたい。・・だけに惜しい。
「ヤクザ闘争モノ」の中で、今回の作品を特徴的にしたものはあるのではないか。これを残して純度を求めて行くなら、応援したい。その際には今の社会を「どうみているのか」がこのフィクションのヤクザ社会の描写にも現れたい。批評性を持たねば、フィクション性の高いヤクザ物は、ただただ浮いたものになりかねない、と思うので。
また「まじめ」な話になりそうだからこのへんで。
ぼくはだれ

ぼくはだれ

RISU PRODUCE

小劇場B1(東京都)

2016/04/20 (水) ~ 2016/04/29 (金)公演終了

満足度★★★★

RISU2度目。改訂再演を重ねている名品を睨める。
カーテンコールでの挨拶から去りの最後までが演劇。。終演時点の印象から逆算させる=効果狙いでなく、「信じている」まこと(心)を、感じてほしいとの願いの表現。「舞台が終わればおしまい」ではない、とはその通りだ。問題が明白でありながら手を付けられない事は山ほどある。
いしだ壱成演じる被疑者のエピソードを中心に、警察署取調べ室での模様を描く。
非公開な密室での取調べが冤罪の温床であること、大枠としてはこれをテーマに物語が構成されているが、テーマを目的とした演劇ではなく、両義的な解釈の余地も残し、その分だけドラマとしての余韻が残る。暗転を多用し、神妙にたたずむ外ない残影に、少しくらい笑いをこめる余裕があってもいいのでは・・と感じなくもなかったが・・。
4名の警察官それぞれのキャラクターと役割が明確で、ナレーションの声は新任刑事のそれとおぼしく、この観察者の視点で観客も、他の人物たちの言動や場の光景を睨(ね)める態度でよいのだ、と悟った頃には物語も終盤にかかっていた。
「真実」こそ明らかになるべきだと信じる弁護士の、もっとも正しく健全な眼差しを曇らせる展開には、物語の中に「告発」さるべき事由を込めておかなきゃならない必要上からであっても、被疑者の敗北が彼自身の脇の甘さのせいだと見えてしまう。それを「人物像」でもって説得力を与えていたのがいしだ氏の役作りということだろうか。(「堕ちた」人物が如何にも合う)
キャラクターと言えば、他の刑事もそれぞれにハマっており、実直寡黙な年輩刑事役の渡辺裕之氏が、ある被疑者の言葉に不意を突かれる演技、お約束な型とはいえ無言の芝居、「俳優力」ってなあるもんだぁなと普通に感じ入った。
 抑制のきいた舞台。「刑事モノ」を最後までシリアスで通す難易度のハードル越えは、台詞、対話の真実味の勝利。作者はこの世界に浸り切って書き写しているかのよう。
展開にからむ事のない逸話が語られても、聴かせるだけの重みがあるので、「物語」に回収されない分、「物語」という円環の外部すなわち「現実世界」に通じる穴があく。舞台空間に「現実性」がじんわりと生まれてくる。
 たとえば、根明な殺人犯に関西弁の取調べ官が「独り身でさびしいだろうに」と言われ、「おいおい女房子供いるよ」と返すと「何だか独り身に見えるけどな」とボソリと呟かれる・・この会話などは、特殊な事情をもつ殺人犯の「警察署での楽しい思い出」と位置づけられる場面の一部ではあるが、特段オチのない「独り身みたい」という彼の感想は、ただその刑事への心証である。通常は「観察する側」の取調べ官がこの時ばかりは「観察される側」となる一陣の風になっているが、その会話じたいは、「そのように見られた刑事がここにいた」という情報以上のものでない。
 「物語」に回収される(作為的)台詞だけで構成されていない、という事は無駄のある、という事になりそうだが、その余白は「そこはかとないアリティ」だけが支えている、と言え、そういう味のあるシーンが、そここことあったように思う。
作家の面目躍如、または俳優の熟演の賜物。

おとこたち

おとこたち

ハイバイ

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2016/04/04 (月) ~ 2016/04/17 (日)公演終了

満足度★★★★

再演。
初演を観た印象は、ハイバイとしては普通に秀作、というもの。数十年に亘る、大約した複数の人生を、駆け足で追っかけるので、時系列的な因果関係は「後から」埋める順序だから、「実はこうだった」というオチは比較的容易に使える。人生の年輪というものの重みを伝える芝居であるというより、作者の現在の感覚(人生半ばにある者としての)を、反映した例えば老後の描写だったり、つまり人生というものに関する「仮説」の開陳というのが、この芝居のイメージに近い。
 相変わらず、「痛い」人生模様のえぐり出し方はえぐい。場面の変わり方が気持ちよく、台詞や所作で「あれ?」と感じた瞬間、人物の年齢が一気に飛んでいたりする。常に的確な表現が出来ていなければ、「変わった瞬間」を気づかせる事は出来ない。
 今回、初演とさほど変らないだろうと予想し、しかしハイバイの芝居はやっぱし観とくかと、公演近くなって予約した。
 再演は、キャストが実は違っていた。そのためか雰囲気も少し異なっている。初演は7人、再演は6人だ。岩井秀人と岡部たかしが抜け、松井周が入った。松井氏の演技は、秀逸な箇所もあるが届いてない箇所もある。岩井氏と近い距離にある松井氏ゆえか、演出と対等な、俯瞰目線で演じているのか、と思うような箇所があった(毎回同じではなく「匙加減」をしてやっている・・その結果ハマらず外してしまったような)。あるいは、メインに演じた役(おとこたちの一人)の持つ人物としての異常さが、松井氏自身が持っている(と言われる)異常さと若干周波数が異なったせいなのか・・。
 もう一点、岩井氏が俳優として立たない事はハイバイの芝居にとっては大きい。俳優岩井は表現において流麗で自在、というのも自身が書いた世界でもあり、「神」に近い存在として介入できるし、的確にそれをやる。困った時も大丈夫、と思わせるがその反面、「岩井の舞台(所有格)」という烙印がおされてしまう。 他の俳優に「舞台上の仕事」を明け渡し、役者の格闘に委ねた時、「テキスト」の力が試される事となった。 

ネタバレBOX

 前段で書いた事に関係するが、終盤に一つのカタルシスが到来する。だが、その次の場面で、カタルシスを作った台詞を吐いた本人の証言を覆す物証(彼が家庭でとっていた言動を録音した音声)が流れる。 この覆し方は「オチ」として機能しているが、私にはあまり心地よくない。カタルシスを覚えたことを後悔させられるから、ではなく、男の「証言」も、彼が恐れていた長男が出した「物証」も、どちらも実態を説明するものとしては不十分である事に気づくからだ。 何年も引きこもる息子に業を煮やしたその男が暴力を振るう・・これは岩井氏の実体験に基づくとするなら尊重せねばならないが、ただ、そのように振る舞える彼がその後家庭での居場所を失う事になったとすると、そこには変化があり、息子はその変化前の物証を出した事になり、フェアではない。暴力が恒常的で、かつ家での居場所もない状態が続いていたとすると、息子と父との力関係は微妙である事になり、微妙だという事は息子は既に父親の弱さも見えているはずで、だとすればせめて死んだ時くらい花を持たせる、くらいが適度に思える。そうした背景を抜きに、どんでん返しのオチに結果的に重点が置かれる。しかし、本来「楽しむ」ためのオチとしては、痛い上に、事実認定にも不確定な点が残るので、「痛い人生も笑って送ってやろう」という風にすんなり行かないのだ。このテキストの弱点だろうと思う。
注文のレベルが高すぎるだろうか・・
SQUARE AREA【ご来場ありがとうございました!】

SQUARE AREA【ご来場ありがとうございました!】

壱劇屋

王子小劇場(東京都)

2016/04/06 (水) ~ 2016/04/10 (日)公演終了

満足度★★★★

気持ちいい感じのフィーリングっぽいみたい。
関西からの遠征という事で、口コミにも揺れ、ついつい王子まで出かけた。
パフォーマンス部分に長け、音楽に合わせて見事な集団の動きを見せるが、「物語」との適切な相互干渉があって、パフォーマンスの一挙手一投足に「演劇的」でないニュアンスが微塵も無いのが見事である。演劇として成立した舞台。
 スクエア(四角)の空間を巡る法則的なものもあって、その「演劇的な」説明も周到になされる。アドリブ的な小休止的な時間も活用しつつ、そつなく先へと進めていく。
 異空間での事象を心地よく謎めきながら見て行くうちに、各登場人物の背景が語られ始めると、やや混沌として来る。しかし終盤に畳み掛ける「パフォーマンス」は、その中で謎解きの最終段階の説明を担わされ、場面の色彩の変化もその中にある(音楽だけは相を変えながらも同じリズムで続く)。
 ストーリーを語る演劇ではあるが、この舞台の核はやはり音楽に乗せてなされる集団ムーブ、踊り、ロープを使ったパフォーマンスだ。技術を見せるのでなくそれによって表現されるものがあるのだ。特にロープを用いたそれは複数の協力でなされ、人が入れ替わり立ち替わって「進行する何か」に奉仕する。動きは美しいばかりでなく、常に含意がある。そこに感動が生まれる。
 

サイクルサークルクロニクル

サイクルサークルクロニクル

monophonic orchestra

APOCシアター(東京都)

2016/04/06 (水) ~ 2016/04/11 (月)公演終了

満足度★★★★

APOCシアター初訪問
千歳船橋駅にも初下車。観劇のお陰で知らない土地を踏める。75分(アナウンスによれば)という短い劇だが中々どうして濃密な、タイミング、ニュアンスとも細部にまで作意の及んだ(と見えた)劇だった。 大学生の「らしさ」は、若い俳優の最も得意とする所であるのか、書き手がそうなのか、現代口語系の芝居に時に形態模写かと思う位のがある。共通の記憶に訴えられているのかも知れないが。。
 「痛い自分」が主人公。この痛さには身に覚えがあるが、そこに瞬時に深く感情移入した地点から、出口を見出して行く「どん底から人並み」の経過がダイナミックにドラマティックに感じられる気がするが、大部分が学生に見えた程の若いお客たちに同じ感興はあったのか・・は判らない。
 時間のミステリーの謎解き物語と見えたドラマの「謎」が、「ほとんど盲目に近い状態」の暗喩であったかと、後になって思われたりする。 時間薀蓄も、それを語るキャラも楽しく、全体に個々のキャラが明確で、棲み分けというか、関わりの「らしさ」も思わず舐めたくなる位「あるある」になっていた。「学園物」への評価というのは少々甘くなるものかも知れぬが・・
 劇場は入口側がステージで、壁を背後に長い通路状になっている。役者の出はけがその入口(下手側)と、上手側に開いている階段(下へ潜る)の二つのみ。 それが単調にならず、出入りの方向もうまく使い、冒頭からの「時間のミステリー」の演出・演技も見事で一気に劇に入り込ませた。
 恋愛話と括っても誤りでないが、学生、あるいは二十代が持つ漠然とした不安や気分が通奏低音に流れる。そこが良い。
 主役女性の貢献度も高し。

愛、あるいは哀、それは相。

愛、あるいは哀、それは相。

TOKYOハンバーグ

「劇」小劇場(東京都)

2016/03/30 (水) ~ 2016/04/10 (日)公演終了

満足度★★★★

俳優=人物の実在感。「被災」に踏み込んだドラマ。
Genpatsujiiko-Banashi。舞台は伊勢。神宮のお膝元、うん年に一度の大掛かりな何やらを翌年(2013年?)に控えて、群舞的な何やらを披露(奉納?)するための地元民による練習も始まっている、そんな田舎町のとある喫茶店にある家族がやってくる。
 劇は喫茶店のみで通す(照明を駆使して別の時空を挿入する等は無かった)。 一場のみ、時系列に沿って進行するリアル系のストレートプレイである所に、「被災」を扱う芝居に取り組んだ作り手の誠実さが感じられた(たまたまかも知れないが)。
 
 原発事故の被災者を取り巻く事情として、忘れてならないのは「放射能汚染」をあげつらう話が地元福島では出来ないこと、除染して環境整備したら地域は元に戻る(住民は帰還する)、というシナリオ以外の可能性は語れないこと、避難した者は裏切り者とされること、間もなく県外避難者への援助が打ち切られること。。。
 この芝居では、(放射能からの)避難を助言したジャーナリストが当事者から「無責任」と非難される場面がある。この背景には、「避難」を妥当な選択とは認められず、公の支えを得られないという理不尽な状況がある。放射能被ばくが認定されない限り、避難を促した者は嘘つきであり、混乱を煽った迷惑な人間だという事になる。 殊勝な記者はその声を黙って受け止めるが、実際のところ避難民を苦境に陥れている張本人は無論彼ではなく放射能被害を認定しない政策担当者(政治家・官僚)だという平易な事実は、霞ヶ関の建物の奥の奥、地下の倉庫にでもしまわれて表に出てこないかのようだ。

 この構図を仄めかし俎上に乗せたことにより、この芝居の価値は相対的に高まっている。非情な社会の現実がある事の裏返しだろう。

ネタバレBOX

この本には鋭い示唆が幾つかある。
「被災者」を前に、恒例の年越しどんちゃん騒ぎをやって良いのか・・ 喫茶店に出入りする人たちが思い悩む場面がある。通常ドラマでは人の判断に誤りがあり、それが波紋を拡げドラマが展開するが、この問いには、有効な答えがない。観客も皆、彼らとどう年越しを過ごすべきか答えられないだろう。で、考える。「真剣に考える」動機を与えている、いたいけな娘二人の存在も脚本的にはうまく利用している。十代の娘はどんな場所でも(田舎町なら尚のこと)「主人公」となる資格を持ち、彼女らのために周囲は喜んで脇役となる。
 ドラマの人物たちが考えて出した結論は劇中盤の盛り上がりを作るが、私には若干、狙いが判りやすい分、入り込めなかった。作り手が「これは良いアイデアだ」と確信しているからか、受け手がそのように受け止める事に(台本が)なっているからか、、リアルな反応の交流がそこにあれば、良いのだ・・と、思うのだが。
 許嫁の遺体のある被災地に帰って行く長女を、母は引き留めあぐね、しかし叫ぶ。「外に出る時はマスクしろ」「玄関で埃を落とせ」「風の日はあまり出歩くな」・・ 芝居では、母は娘に対してそれを言わず、正面芝居で「向こう」に向かって、言わば心の声として、上の台詞を言う。 これは例えば、靖国の母が息子の戦死を嘆く事を許されない時代の、所作である。今の時代はまさにそれに等しい時代だ・・と揶揄する意図が作り手にあったか。
 否私の感じでは、「感動的な場面」の作りとして、「受忍」の姿を見せた、というだけではないかと訝ってしまった。 「受忍」の感動とは、「変えられない状況(悲劇的状況)」の哀れな犠牲者が耐え忍ぶ姿に対する感動だが、もっと言えば、本当は変えられる状況を、「変えられない状況」という事にして、その犠牲者の哀れな姿に「涙」する事で「変えようとしない」己自身を免罪する姿に他ならない。
 芝居の世界くらい(福島でなく伊勢という土地ならなお)、もっと大きな声で、娘に聞こえるように母はその言葉を言い、それに違和感を抱く観客がいたならその違和を目一杯味わうがよい・・・その位のチャレンジはしてほしかった。
 「そこまで自粛するか」という事だが、自覚的であったのかどうか・・いずれにせよ惜しい。

 示唆深かった別の一つは、ドラマの最終段階に判明する一つの事実から受けたものだ。オチに等しい部分なので具体的には伏せるが、被災者や被災地の支援に携わる人たち・・彼らは一般的な「正しさ」に従って行動しているのだろうか。否、個人的な動機で恐らくそれぞれ関わっており、本当の、というか継続的な行動というものは、「人として関わる」事実からしか生まれず、私たちはその事を問われているのではないか・・ この視点がドラマに組み込まれたのは人物の自然な行動としてだったかも知れないが(芝居としては「符号」による感動演出に流れた嫌いはあるが)、作品の質をぐっと高めた。
【公演終了】箱の中身2016【感想まとめました】

【公演終了】箱の中身2016【感想まとめました】

映像・舞台企画集団ハルベリー

テアトルBONBON(東京都)

2016/04/06 (水) ~ 2016/04/10 (日)公演終了

満足度★★★★

氏の演劇魂は届いたか
がっつり「演劇」人だった(伝聞)という大谷氏のホームグラウンド=「壱組」の名を見て、また役者陣にも心動かされ、観劇した。チラシにもおぼんろの名が見えるのは、この企画じたいがわかばやしめぐみ(おぼんろ)の所属するハルベリーオフィスによるもので、壱組のかつての作品を復刻したという恰好であった。 ポストトークでのわかばやし演出の証言によれば、演出仕事は久々とは言え経験者、もっとも監修協力の大谷氏が大詰め段階で関わり、形を成した(迷いのあった部分が確定した)という事だ。
芝居は原田宗典による戯曲(初演は25年前)で、構成はA面、B面のLP盤のよう。B面はA面の謎解き編である事がB面の途中で判明し、テイストの異なる二つの芝居を観る気分を残しつつ、一つの完結したドラマを観る事になる、のだが、最後はB面物語としての結語で締められる、よく出来た戯曲に思えた。
 若い(と見えた)演出の今回の舞台でのチャレンジは功罪相半ばしたかも知れない・・と感じたが、基本的には戯曲の世界を構築し、単なる謎解きプロセスを消化するのでない「生きた」人間の芝居を立ち上げていた。
細部はネタバレ欄にて。

ネタバレBOX

なかなかもって奇異なチャレンジは、舞台下手袖に、ほぼ舞台上と言って誤りない場所に客席がある。舞台と客席が渾然一体となるおぼんろのアプローチをこの小屋に援用したとの事だが(ポストトーク)、出ハケは左右両側の舞台手前の鉄扉、舞台上手の袖(奥と手前)だから、下手側は不要であるとは言っても、見た目に異様だ。中央の芝居が進むにつれ、どうやら下手に居るあの人たちは芝居には絡まないんだなと、判る。紛らわしさと、後で判った時のがっかり感は、プラスにはならないように思う(少なくとも、後で登場すると「判った」場合のほうがワクワクする。その逆だから相対的にガッカリである)。

 さて桟敷童子顧客を任じる私としては、原口氏のあまりにジャストな演技に舌を巻いた(これほど出来る役者だったか・・と)。 かなり微細なタイミングを要するA面の世界を引っ張っていた。
 この「引っ張っていた」という印象は、他の役との「力量の比較」から来るのでなく、場面の質感を捉えた上でどういう演技の質が求められるのか、を巡るもので・・、佐藤氏、保村氏の「うまさ」や「味」に感じ入りながらも、「正解」に迫ろうとして難易度ゆえに届かないのか、目標設定の微妙な差ゆえに(うまいのに)迫れないのか、、後者ではないか・・と感じないではなかった。

 A面はよく出来ているが、B面あっての全体という意味では、B面は展開の妙を感じさせる部分もあるが、不足感も多くなる。
「次第に部分が連結して全容が現れる」ためには、戯曲の「台詞」のみならず役の人物の作りの的確さが必要。役作りの不備があればたちまち淋しげな穴が開いてしまう。
 どうしても気になったのは、両面で妻役を演じた女優の演技だ。二人の男と、愛の形は違えど(後の方の夫には本当の愛情は湧かなかったというがその言葉と裏腹に十五年という歳月が何を表現しているかを思うべし)、寄り添って来た時間的な長さや、元夫との間にどんな関係を求めたのかなど、考慮すべき点が沢山ある。 生きた年数の長さは、一つの行動のもつ背景の重さ、複雑さも意味する。 「死ぬ」動機は、果たして相手の口にした「子供が居る」の一言に対する嫉妬・落胆だろうか。
 これについても演出はポストトークで触れていたのは、壱組版では妻役は徹底して利己的なキャラに描いていたが、今回は女性である自分が演出するに当たり、そういう行動をとった女の背後にあるものを、出したかった、という意味の発言。 私なりに解釈すれば、男の人生を狂わせた女を悪く描くのでなく、感情移入できる(真っ当な?)女性にしたかった・・だろうか。
 壱組の芝居を知らないので何とも言えないが、少なくとも善悪の問題ではなく、たとえ自己中だろうと醜かろうと、自分の欲求に徹しようと足掻く中に人間の等身大を見、その時人間的魅力をたたえ始めるのだと思う。 そしてその思いは遂げられない。 自ら人生を中断させるおろかさ。「他にどうかし様があったのでは・・」と思わせる隙間が、まだある。
 元夫が、突き放す言葉を妻に吐く「理由」も、ドラマ的には重要だ。 これは相手の思いに実は同調しきれていない(乗りきれない)夫自身の気分を、最後は正直に言わずにおれなかった、そんな風に解釈するのが最も妥当ではないか。 そうなると惨めなのは女である。 歳も食った。若さの残り香のあるうちに、失った青春をもう一度・・・その醜い足掻きは、かつての「本当の愛」よもう一度にはならなかったことを予感させる(今回の舞台では、単純に若い時代に戻った様子だった)。そうして初めて、自死も必然に思えてくる。
 一人、トチ狂った現実をわきまえない女の仕業、に落ち着くのを今回の演出は嫌ったのかも知れないが、そちらのほうがリアリティがあり、リアルな人間像こそ観る者の中に入りこむ。
 二人の愛が本当であったと信じさせる前段があって、そんな二人なのに男が「子供がいる」と告げたことで亀裂が入りかけ、元夫はその「亀裂」を見たくないがために、「本当は女房がいて、一緒になれない」などと嘘を言う。 だが、これではとても自死には繋がらないように思う。 子供がいても良い・・ もし自分がどん底にいるなら、相手の「愛」が確かめられさえすれば、そう受忍するはず。でなければ、実はどん底にはいなかった、なのに自死してしまった。これは破綻である。
 二人の会話の「意味的な」構成の問題。

東京ノート

東京ノート

ミクニヤナイハラプロジェクト

吉祥寺シアター(東京都)

2016/03/24 (木) ~ 2016/03/28 (月)公演終了

ミクニヤナイハラの正しい見方
『東京ノート』は平田オリザの受賞作でもあり代名詞でもあり、「ああ、あれをやるのね」と噂さるべき演目である。ところが連射される台詞を追っても「ああ、あれか」が見えてこない。「美術館での話」という以外、実は知らなかったんである(どこかで見たか聞いたと勘違い)。「これは大変だ・・!」海に投げ出された体を岸辺まで1時間かけて泳ぎ切るぞ・・という覚悟で、席も条件のよくない席から、持っていない双眼鏡を裸眼で見るだけの気合で目を凝らし、台詞に耳をそばだてる。が、ついに沈没。睡魔に負けた。
 台詞の機関銃的連射と動きのコンビネーション=ミクニヤナイハラ流で、過去オリジナル脚本も上演しているし、今回もこちらでの上演版に変えてあるというので、元戯曲を知らない人も対象に考えられている。従って「寝てしまった」のは単に自分の体調か、感性の問題とも。。
 がやはり、「東京ノート」をヤナイハラ流に料理する意図は、目で見ての感想は、原作を踏まえてこその面白さ、に他ならない。 静かな美術館のロビーで進行する「静かな」話が、せわしなく動き、喋るスタイルに置き換えられている面白さ、これが第一だ。その延長で、戯曲の持つテーマ性?的なものが徐々に焙り出されてくる(そこが矢内原氏の本領)、となって来るとするならば、そこもまた表現的には自然、抽象的になるだろうし、この「変換」の妙を感知するには、やっぱり原作を知らなければ難しい、ということになるだろう。
 美術ならば(絵画等「時間経過の芸術」でないもの)、何度も見直して味わい返すことができる。それでも予備知識が鑑賞を邪魔することはない。演劇は基本的に一度、時間とともに味わい、終演を迎える。
そこで、「美術」的アプローチに近い演劇(ストーリー説明を重視しない演劇)を観る場合、作品の背景やアプローチ法など予め知っておくのが有効だと思う。今回なら、『東京ノート』は読んでから観るべきである。

 では、体を頻繁に動かしながら台詞を言い、全体としてムーブ(ダンス)となっているミクニヤナイハラ的形態そのものが、テキストの如何にかかわらず訴えてくるものはないのか・・といえば、それは何がしかあるには違いない。だが、「こんなことやってる私たち」をも相対化してメタシアターとして括って鑑賞できる作りになっているかと言えば、そうではない(と思う)。ミクニ的「東京ノート」の世界を、つまり戯曲の世界を、味わうために作られたもので、何が話されているかはどうでもよい、という事にはなっていない。
 従って上に述べた事が言える。
 ところで、ミクニヤナイハラは笑って観れるパフォーマンスである、という事も発見した。批判性が先に立つかのようなイメージがあるが、実は感動しいな「お話」を紡がんとする人である、と印象が変わった。(だからメタシアター的な処理などしないのである・・たぶん)
 次の機会があれば、ぜひとも観て笑いたい。

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