狙撃兵
劇団俳優座
俳優座スタジオ(東京都)
2016/07/23 (土) ~ 2016/08/07 (日)公演終了
満足度★★★★
ブラックコメディらしい。戯曲のうまさ。料理の難しさ。
こういう戯曲なのだな、と最後には分かる。その結果から逆算して、俳優の演技、演出はどういう形が良かったのか・・という反芻を始めている自分がいた。
俳優は、ベテランに軍配である。若手は芝居を「わかりにくく」した面が、どうしてもあった。父役は、政治家に文句を垂れるおいしい役柄でもあったが、イギリスのとある教会堂で、教会員への辛辣な皮肉をこめた演説をぶつ場面、溜飲を下げた。
あちらの芝居(アメリカとか、イギリスとか。)となると、何となくこんなイメージという刷り込みが恐らく海外ドラマ(セックスインザシティとか?)の影響であるのだろう、台詞に妙な節ができる。子供ができた事でいったん離婚したのにヨリを戻した妻が、次第にぶっ飛んだ行動へ走り、最後にはまともな感じになったりする、振れ幅の大きな役だったが、厳しいものがあった。
「狙撃」の手腕ゆえに、失業者から多くのオファーをもらう身になった夫をより多く稼がせるため、たまたま互いを殺したいと依頼してきた双方に、「相手はもっと出すと言ってる」と価格競争をさせる、そしていざ、狙撃の場に立ち会うことになった最後には、「私たち、何をやってるんだろう・・」といきなり自省モードになる。でもって、シリアスドラマ=反戦・反暴力メッセージをにじませるという無理無理な(そう処理してしまえばいかにもチープな)流れがある。
この「ブラック」をどう演出、処理するかは難しい課題だった、と思う。戯曲の面白さは伝わるし、途中も面白いので、大きな不満は残さないかもしれないが。。
この妻の取る、間もなく子を産もうとしている母(予定)としての行動が、反省する対象になるのか、なるとすればなぜか、何を想起させることで成立するのか・・そのあたりが整理され、女優は表現すべきだったのだろう。
一方若い夫のほうは、復員兵で仕事を半年探しても見つからず、就職相談所を訪れて相談員と会話をする、それが芝居の冒頭だが、軍隊では狙撃の腕に覚えがあり、相談員は妻(政治家・選挙前)の事務所での仕事をあっせんするが、やがて「戦地」での高報酬な仕事を紹介され、お払い箱になる。と同時に、彼の「腕」を見込まれて「狙撃」の仕事が舞い込んで来る。
本来戦争でしか活用できない「狙撃術」を、「殺し屋」という平時でもやれる仕事で活用する、という展開は「ブラック」だが、ブラック度をもっと効果的に印象付けられなかったか。仕事が見つからない問題は深刻だが、あっけらかんとした性格を冒頭で発揮して客から笑いをとってもいる。あれは「狙撃術」という自信から来ているものとも解釈でき、就職難の犠牲者とはイメージ的になりにくくなった。
父は脳腫瘍を患い、健忘がひどくなり、息子の狙撃術を見込んで自分を殺してくれ、と真剣に依頼されたりする。「死期」を選ぶ権利についての議論は、イギリスでは保守的な教会勢力が意識されているのかどうか分らないが、「狙撃術」が人の欲望に基づく需要に応える仕事、というネガティブな側面から、肯定的な側面が垣間見えてくる、という奇妙な瞬間も、演出によってはあり得たかも知れないが、この芝居ではそこには手が届かなかった。
息子を再び戦地に赴かせるあっ旋をした政治家に、父は談判しに行く。ここでの火花散るやり取りも、教会での演説に並んで、痛快だ。このあたりが作家の本領なのだろう。
夫と妻、相談員とその妻(政治家)、父とその妻、3組の夫婦がそれぞれの世代の典型的なモデルを体現させてもいるようで、人物の数も間違えようなく分かりやすい。・・日本の世情に即して書かれた、こういう作品を見たい欲求がもたげる。
insider
風琴工房
Half Moon Hall(東京都)
2016/07/21 (木) ~ 2016/07/31 (日)公演終了
満足度★★★★
秀作。
前作(今回が続編である所の第一作)「Hedge(ヘッジ)」では、「説明」の段が分りよいとは言えず、ドラマとしては企業再生の物語、皆が良い人、win-win的お話に収まったことがやや不満だった。(そうならない原因は構造的な問題にあると考えられるので、そこにしっかり言及してほしい、と思った。ないものねだりながら)
今作は非常に分かりやすく、査察を受ける側とやる側の駆け引き、対立構図を描きながら、経済の動きや、役所的態度(これも構造の一端)への理解を、一歩、二歩進める材料をイイ感じで提供していたと感じた。
見事に流れるような台本と、硬派色で染まったドラマとはいえ、微妙なニュアンスを表現した俳優にも感服。主役級の者がカーテンコールの最後に挨拶をする、その者が誰か、という人選がこの芝居では微妙なところだが、その者が挨拶をしたことで、作者の思いも知った気がした。
新自由主義がいかにケッタイな代物か・・ 企業のモチベーションは金儲けでなく何を作るか、どんなサービスを提供するかにあるべき(ひいては投資家というものは如何に儲かるかでなく、どんな産業、事業を育てるのかにモチベーションを置くべきだ)という、当たり前な姿を、思い起こさせるドラマになっている。
査察官4人と、一人ずつ呼ばれる企業側各人との火花散るようなやり取りも、うまい。
ゴーゴーボーイズ ゴーゴーヘブン
Bunkamura
Bunkamuraシアターコクーン(東京都)
2016/07/07 (木) ~ 2016/07/31 (日)公演終了
満足度★★★★
「キレイ」を彷彿。
日本が3つに分断され、恒常的に戦争状態・・・そんな設定を観客に否応なく、美味しくも奇想な常識をもって飲ませた「キレイ」(2000年)に匹敵する、飛躍した設定が今回も見事に一つの世界を作っていた。ゴーゴーボーイズに入る者はまず「ケツに注入」の儀式を経ねばならない・・「大豆兵の手を食う」を想起させる。ドライな夫婦関係も、知的を通り越したフェティッシュなこだわりを介して迷走する様も傑作であった。
時事芸能ネタの小刻みな挿入もやり方がうまいので「戯曲」に堅実に組み込まれている印象で、これはよく書かれた戯曲なのかそうでないのか・・といった評価はどうでもよくなる。いきなり吐かれる詩的な台詞が通ってしまうのに、人物のリアルな影は見えているという、不思議なモードは、冒頭の「ケツの注入」が観客の感覚にも作用したせいだろうか?
舞台上段のオケピ?に黒和服が並び、和楽を演奏する。これも悪くなかった。
結局全体の印象は・・完成度は高い、と感じた。が、松尾スズキの振れ幅の大きい飛躍した「示唆」を期待した者には、もっと鋭くていい・・というのが正直な感想。
「声」だけ聞き覚えのある俳優が二名、岩井秀人と、吹越満の演技は、判った上で見たかった(相変わらずノーチェックで観てしまった)。
特に岩井氏の「俳優力」はハイバイで暗黙の事実だったりしたが、他流試合では「俳優」だけをやっているわけなので。。
朗読劇「ひめゆり」
新国立劇場演劇研修所
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2016/08/04 (木) ~ 2016/08/06 (土)公演終了
満足度★★★★
力強い「朗読」の劇
研修生公演にしては(?)盛況だった。沖縄の女子挺身隊いわゆる「ひめゆり」、言ってみれば手垢のついたような題材(映画化は少なくとも3本以上)を、今、どうやるのか・・逆に気になって観に行った。「cocoon」の舞台は未見だが、現代の感覚をそのまま当時に生きさせた原作は、悲惨の度を薄めることで受け入れられたのかも・・などと思ったりする。若い研修生たちが初々しい花の「師範学校」生徒を演じ、それが瞬く間に暗雲垂れこめ、最後には阿鼻叫喚の世界を、「国のため」いわば使命感という支えを頼りに生き抜く。そして、死んで行く。
日本人の「被害」中心の戦争観を補強するものとして機能しがちだが、実態は皇国史観と日本軍によって「死」に至らしめられた沖縄人の実話物語であり、米軍が上陸して陣取った土地は、そのまま一度も住民の手に戻ることなく基地として使われ続けている、というおまけも忘れる訳に行かないお話なのであった。
半円に置かれた木製の学校椅子が、「朗読者」の帰る位置だが、「語り」でない劇中劇は中央で演じられ、台本を読む、という体勢は常に変らず、無理な格好をしながらも台本を見ながら喋る。朗読者の心情が通常の舞台仕様に迫っており、これほどアクティブな朗読はない。照明はめまぐるしく変化し、薄暗くなっても台本は見ながら語る。
語る者たちの感情は決して途切れない。途切れてはならないという決意が見える。地の文がありありと場面を想像させ、台詞では激情が迸る。簡素な舞台装置と照明、音響とともに一気に駆け抜けた1時間50分。ベテランでない、彼らがやってこその舞台だったかも知れない。
ストリッパー物語
昭和芸能舎
赤坂RED/THEATER(東京都)
2016/08/02 (火) ~ 2016/08/07 (日)公演終了
満足度★★★★
昭和とつかとキャンディーズ
音曲の割と中心だったキャンディーズが「昭和」だからなのか、つかの時代という事なのか、台本指定なのかは知らねど、平成も30に届こうという今では伝説化も自然なことだ。経済成長、無垢な平和感覚、日本という国の「性善説」的幻想が昭和という描写の中にありそうだ。 実はそれは多くのまやかしの上に建った城で、今や無残に瓦解した日本という姿を私たちは見ているという事なのだろう・・。
つかの描く「生」はその情熱の対象として学生運動も恋愛も変わりない、というビジョンに貫かれている、と感じた。(つか作品観劇はまだ3度目。)
本劇団の特色というものはあろうけれど「つか」色なのか劇団色なのかが、判別できない。雨に唄えばのタップ・ダンスは劇団色だろうし、役の掘り下げより「ノリ」優先、と見えるのも劇団の色合いに違いないが今回はBグループ鑑賞、主要配役が変っているAグループも見て確かめたくなるが、今回は見合わせ、Bで判断するしかない。
・・まぁそんな事で「つか」の世界を垣間見に足を運んだのだったが、彼以前のアングラが時代の生み落とした「現象」であったように、つか的なもの、そしてそれを観客が熱狂して迎えた「演劇」状況も、「時代」が生んだものだろう・・。それは何だったのか、と。。
学生運動は所謂「一般社会=世間」と断絶して(ちょうど現在の反原発などと同様なのかな・・)、「歯向かう側」は息が苦しくなる。それと並行して彼らに同調的だった者も、自分らを「勝利」へと導いてくれなかった恨みと反動から、背を向ける。運動が先鋭化し、「正論」を吐くしか行き場がなくなってやせ細る「運動」の者たちを、その正論ゆえに忌避するようになる。なぜならその正論はもはや「負けた」のであり、しかし倫理的には正しく、その矛盾の間で苛立ちが生じるからだ。
つかは「前世代」つまり運動に情熱を傾けた世代の感覚を、相対化し、芝居の中でそれにも「言及」しながら、それを全く別の文脈で語るということをやった(スルーするのでなく、当世について語るという演劇としては自然な作業をやっている訳だ)。
時代は巡って、「運動」の需要のほうが高まっている。が、弱体である。「つか」的なアプローチが、当時のような形で劇的に迎えられるには、時代が違いすぎる・・というのが正直な感想だ。・・という事が言いたかった訳だ。
しかし・・人物に純粋な愛を語らせ、それを茶化しながら、それを切望する自分自身を発見し、告白する・・ 台詞の力を認めない訳には行かない。 人を愛することと、自分が何ものでもない、ちっぽけな人間である事が、同時に成り立つのは、その事を己が知っていること、そして言葉を惜しまず愛を伝えるという「行動」こそ、愛の内実について内省することより重要で価値あることだと、つかこうへいはやや出来すぎたドラマ設定を借りつつ檄を飛ばす。
私には少し甘口に感じられる世界だが・・ 妙な、否、しかるべき説得力のあるドラマ世界だった。
「俳優」への印象がさほど残らなかったが、戯曲世界、台詞の力に密かに衝撃を受けた。
月・こうこう, 風・そうそう
新国立劇場
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2016/07/13 (水) ~ 2016/07/31 (日)公演終了
満足度★★★
むむ・・別役実フェス。最後を飾れたか
冒頭を逃した。(原因を思い出すに腹立たしい・・が関係ないので省く)だが、別役作品は「上手から吹く風」の中、人物が第一声をどんな風情で出すのか、が重要なのだ・・・という頭があったので(一層腹立たしいが本題を進めよう・・)、その部分を想像しながら、4、5分後のその場面から芝居を見始めた。
竹を天から降ったように見事にしつらえ、竹林の地面を照明で見事に表現した、「かぐや姫」の時代の老翁と老婆の会話。 きっとおとぼけなやり取りが、あったのだろう・・しかし、その始まりは最早推測できなかった(痛)。
大方の芝居は見逃した場面があっても他の場面で成立する、ライブならではの性質があり、あるいは見ていれば察しがつく、という事もある。しかし、今回は観始めた所からの話も、よく分からなかった。・・そうなると、冒頭を逃したかどうかの問題ではなくなるのかも。
「分からない」とは、俳優の「つもり」がその場で的確でない、よって表現も的確でない、従って「物語の叙述」の機能が十全でない、分からない、という事だ。でもって、面白くない、となる。・・説明が省かれた「分からなさ」は、推測の余地があるが、上の場合は、不要なもの、異質な、当たっていない表現が同居しているために意味が不明になっている、という事だろう。言葉(戯曲)の問題というよりは、演技の問題になって来る。
はて、これが別役実の劇世界か?・・・ 「小劇場」とは言いながら世の平均では大劇場に当たる劇場で、迫力ある大型な舞台にしたくなる「欲求」が、無意識に演出者の中にもたげており、その枠を外す考えに行き当たらなかった、という事ではないか・・と考える(勝手な想像だが)。
若い男役をやった俳優、謎の笛吹きの竹下景子、本気っぽい台詞をただ本気っぽく言う。この演技は違うのではないか・・こういう発声が出てくるような芝居を、別役さんは書くだろうか・・・(あまり想像ができない)
宮田演出は俳優にあまり要求をしない印象がある。スタッフの仕事は一流だし、好きにやらせてもそれはそれで良いだろうが、何といっても俳優の演技の構築の仕方は、そこに繋げる事のできる形での、芝居の世界観の提示が演出から俳優たちになければならないと思う。今回はいったいどういう事を要求したのだろう。 大上段な、ドラマチックだよ~と迫るような世界が、この戯曲に相応しかったとは思えない。 うまく言えないが、卑屈にへりくだった存在が(例えば三谷昇のイメージ)、時に鋭くえぐるような言葉を吐く。人間の不完全さというものが基盤にあり、愚かで、説明できない言動を繰り返す人間なのだが、その背後に何か人間についての洞察が垣間見える、そういう描き方をする別役実は劇作家だと思う。 竹林の中の支配構造や力関係がどう働いているか、というリアリティは追及しなくてよく、登場する背景も謎な人物たちがどう面白く、ユニークに、それによって魅力的に登場できるか、という事で良かったのではないか。「ミカド」なんていってるが裸の王さまみたいなもんで良かったのではないか。笑いのない別役実の芝居があり得るのか・・?大いに疑問の残る出し物だった。
リーディング公演「ロッコ・ダーソウ」
東京ドイツ文化センター(ゲーテ・インスティトゥート)
ドイツ文化会館ホール(OAGホール)(東京都)
2016/07/30 (土) ~ 2016/07/31 (日)公演終了
満足度★★★★
いやぁ面白かった・・リーディングなのに。否リーディングだからこそ。
黒一点の古舘寛治と紅三名の取り合わせが、戯曲上(演出上?)性を俳優自身と一致させていない事も効いて、4者の個性がくっきりと見えながら融和したり溶け合う様が見える。台詞の半端ない「謎かけ度」に4名ともが同等なラインに立って挑むしかなく、見事な緊張と、リラックス感が流れていて、手練な俳優たちだな・・と。内一名はこの戯曲を紹介し訳・演出したドイツで活動中の原サチコだが、緩急自在、基本リラックスで台詞を出す。この奇妙な世界を成り立たせている秘密は、2014年にこの戯曲も新作として上演されたルネ・ポレシュ自身の方法=すなわち「始めに台本ありき」でなく俳優と議論したりしながら作り上げて行く、「言いたくない台詞は言わなくていい」というのが口癖とか。
その作業を今回、3日間でやった結果の、リラックス感というかナチュラル感。しかも、客席を普通に見渡したりする俳優個人と、「役」の人物との境界が、こちらから見えない、その事が心地よかったりする、この奇妙な痛快さが、このリーディングの、そして作品の価値だろうと思う。 ただし誰しもが「あのように」は出来まい、とも思う。 ・・安藤玉恵は滲み出るキャラで台詞に息を吹きこみ、古館は徹底して「今この時に生じた、湧き出てきた言葉」と信じさせる引き寄せ方の圧巻。木内みどりはオーソドックスながら彼女自身の人間としての隠し味的なものを持ち込んで(いるように見え)「境界」が分からない世界に観客をどっぷり漬からせるのに貢献していた。 原サチコは全てを了解し、本国ではパフォーマーでもあるのだろう、特徴的な声で意外と強引に(といっても柔和でなければ相手を引き寄せられない)舞台の行方を仕切っている。
「ロッコ・ダーソウのリーディング公演」の会場、その舞台装置についてのエピソードを何度となく語っているが、そんな具象を描く段から、何やら詩的である。詩の透明さが奇妙な世界に醜悪さでなく、天然色の潤いを与え、照り返された俳優を生かしめている・・のかも。。とも見えてくる。
難解ではあるが、マンネリと感じさせる瞬間は1秒もない(と言えば嘘になり、一瞬あったにはあったが、そこが気になるくらい完成度は高い)。
ではこの戯曲中、彼らは何について語っていたか・・ 主には「愛」について。というか、「愛してる」という発語がもたらす「関係性」への影響、その原初的な感覚、あり方、そしてその根底に人間の本質なるものが・・恐らく一つの回答として囁かれている。
それは救済に繋がっている。
ただしヤクザを除く
笑の内閣
こまばアゴラ劇場(東京都)
2016/07/13 (水) ~ 2016/07/18 (月)公演終了
満足度★★★★
アゴラで3度目。
タイムリーかはともかく、話の出来は「ツレウヨ」=二重丸→「福島第一原発」ガタ落ち→今回=面白い・・と鋭角気味に評価が乱高下。
今作、明確な主張、また名言あり。
素人臭い芝居、カラオケでの歌挿入によるプチ・ミュージカルは脱力系。歌謡曲の選曲が的確。
アフタートーク:鈴木邦男、松本○○。
終わってないし
らまのだ
新宿眼科画廊(東京都)
2016/07/08 (金) ~ 2016/07/13 (水)公演終了
満足度★★★★
らまのだ、2度目
短編4ピース、細かくは忘れたが、前半後半はそれぞれ関連ある作品が並んでいたように思う。
うまい作家、うまい俳優、現代劇だから演じやすい面もあっただろうが・・。
主に男女の関係についての、苦くも否みがたい真理(心理)を描き出した味わいのある秀作。
劇作家女子会!R
劇作家女子会。
王子小劇場(東京都)
2016/07/01 (金) ~ 2016/07/10 (日)公演終了
満足度★★★★
「劇作家」括りで一つ今後も。
4作家、4作品の短編上演は、どれも劇世界がしっかり書かれ、作られていた。二名の作家の名を知っていたので観劇となったが、王子くんだりまで足を運んだ甲斐あり。 3番目の活劇は動きがあり「恋愛」の成就という面だけでなく、時代を映そうとするメタファーが効いている点が、抜きん出ていたと思う。オタクの居直りとその中で辿りついた「あり得べき生き方」の吐露には切実さがあり、一方の生徒会勢力の言辞は本音そのものであると同時に、ドラマとしては男子への叱咤激励の意味合いとなっている。罵倒されても心地よい感覚は、あけすけな現実を踏まえて物を語っていることから来るのだと思う。両者異なる立場の「激突」という形をとった議論が、ある妥協点を見出す局面に、「恋愛」が重ねられるという、うまい作りである。
劇団劇作家による連続上演も楽しい企画だったが、劇作家主導で作られる公演は興味深い。競う相手と協同するという形が、いい。
ニッポン・サポート・センター
青年団
吉祥寺シアター(東京都)
2016/06/23 (木) ~ 2016/07/11 (月)公演終了
満足度★★★★
現代口語・真骨頂
サポートセンター・・DVから失業者、何となく居場所の無い人、カウンセリング。どういった相談支援を行うのか、通常なら何か専門分野がありそうだが、ここは「総合相談所」的な位置づけらしい。まあ、そういった設定でなければいろんな人たちが出入りするセミパブリックな空間にはならないわけだけれど。
設定の問題はありつつも、福祉や対人支援の現場に流れる空気や、支援者としての心構え、人との距離感、また行政との関係など、よく捉えていたし、片思い話、職探し話、DV(が疑われたが結局無かったので「事件」的な盛り上がりはやや張りぼてではあるのだが)話、珍妙な来訪者エピソードなど、ネタもそこそこ揃っていて、先を見たくなるドラマの仕掛けはある。だがやはり、場の形象の緻密さに、唸らせられる。 で、やはり笑いがきっちりとツボを外さずに誘導できていたのも、場のリアリティゆえ。
さてBGMの無い平田オリザの芝居に多用される、アカペラの歌がこたびも最後に流れる。なぜかしんみりする。歌で真情あふるる場面にする「手」ではあるが、何か人間は悲しい、けれどそれでいい、的な「俯瞰」の感覚がよぎる瞬間を与えられる。
それと言うのも、暗い時代だからなのに違いない。客観的に見ると、哀れ、だから笑えるのだが、笑ってる自分も、その大勢の一人である。「支援」を仕事とする者の矜持が、各場面で垣間見えることも、効いている。そしてそれは数多くある職業のほんの一つ、などではなく、これから日本が社会関係の基礎にすえるべきあり方であるのかも知れない・・などとも思う。政治(富の分配)があまりに理不尽だから沸いて来る心情でもある。
ま○この話~あるいはヴァギナ・モノローグス~
On7
KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)
2016/07/14 (木) ~ 2016/07/18 (月)公演終了
満足度★★★★
なるほどVAGINA
On7がこの題材をやれば、この風景になる。「あそこ」が口を利いたら何と言うか?・・というアンケート。様々な「あそこ」を巡るエピソード。女性解放の歴史は浅い。米国の黒人だって半世紀前まで「権利」が損なわれていた。障害者の人権も、児童労働についての考え方も、戦後の話だ。・・劇中のある高齢の女性のエピソードに、今や懐疑の対象でしかない「進歩史観」が、もたげてくる。人間は時代が進むとともにより賢くなり、正しい社会を形成できるようになるのだ・・的な。
だが実際には人らしくあろうとする人々が声を上げた結果としての現在があるに過ぎない・・進歩が自然現象のように起こるのではないわけだ・・当然だが。
最後まで凛々しく演じた女優たちに賛辞。
冒頭の「あそこ」の言い方・方言集を聞けなかったのは残念(モニターでは聞き取れなかった)。
古い呼び名には長く培った文化の蓄積があるに違いなく、それが実際に発語されるとどう響くのか・・と。
ゴンドララドンゴ
燐光群
ザ・スズナリ(東京都)
2016/07/16 (土) ~ 2016/07/31 (日)公演終了
満足度★★★★
終わってみれば坂手ワールド
正直な感想。坂手式構築による脚本は、揃えたネタの量は毎回唸らされるものの、その「用意した」ネタで、タッパのある建造物を作る、毎回の新作じたい驚きではあるが、これまでは俳優の脚本の咀嚼が追いつかない、という印象があった。今回は脚本をどうにか築けた、俳優の仕事の比重が大きかった、という印象だ。もっとも、今回の芝居のテイスト、漂う空気は大変好きであった。
脚本話の続き・・・それなくして成立しない関係で結ばれた各要素が、全体で一つの世界を成すのが完成された戯曲、という事からすると、たとえば「ゴンドラの歌」の言及などは無くても良い気がしたし、「そぎ落とし」にかけて良い部分が2,3残った、粗さのある脚本だったな、という印象は否めない。
だが演出・演技の面は瞠目させられるものがある。「クイズショー」で用いた舞台使いを今回も用い、基本素舞台で(静謐とは程遠い芝居だが)さりげなく美術が美的に貢献している。(何もない舞台に椅子一つで美しいのがスズナリ。)
でもって、俳優が面白い位置取りをするこの美術の特徴が、今回はより生きて、今の燐光群の双頭?大西氏と猪熊氏による滋味溢るる二人芝居が、ごく至近距離で展開する。客席と地続きの「空気」が台詞と演技、そしてこの至近距離での関係に生まれている。
物語は、燐光群にしてはファンタジック、しかも手垢のついたと言える物語のモデルを、どこかで見たという気にさせないのが流石。 ただ、演技が変わるはずの二名の演技が変わらない(変えられない?)ので、人物の関係性が甚だ判りづらかった点は、やはり工夫したい点だった。
かの80年代から、巡り巡って時が経ち、「至近距離」のシーンが戻ってくる。あの二人と、そして・・(世代の継承)。
今なお、どっこい存在している「ゴンドラ」の上で、時を重ねた上にある「現在」をかみ締める者らと、それを見上げてそれぞれに感慨をかみ締める人々。客席からは、至近距離の俳優の体の隙間から、遠くの人々が覗いてみえる、その構図も味である。
この芝居に流れる「気分」は、末期的な時代をわれわれは生きている、という感覚で、そのコンセンサスが終始流れている。時代に対して思想的なたたかいを言論という形で挑みかけている構えが、言葉にならない次元でずっと地下水のように低周波数で流れている。
今作の戯曲には、メタシアター、というか俳優が自己相対化する台詞が書き込まれている。冒頭のあたり、「演劇」のことが話題にあがり、現実の俳優としての彼らが「観客」について語りながら、客席を眺め渡すと、舞台は「現実」の時間と地続きになる。亡くなった蜷川へのオマージュ的な話題、アングラ出身なのに商業演劇に・・など笑えるネタが、燐光群としては珍しく「俳優が素で喋って成り立つ台詞」として組み込まれていて、しかしながら演技は「芝居を演じている」態を決して崩さずやり切る。
舞台と客席との風通しの良い自在感と、厭世気分(‥の中にも望みを見出そうとする暗い決意‥)が、絶妙に両立していた。
芝居じたいは乾いた言葉の応酬で疾走感あり(それでも2時間超え)、追うだけで疲れる舞台だが、「今この時代」というものを敏感に意識させる演劇。現在を呼吸して生まれた今この時のための演劇だと、感じた事であった。
ロベール・ルパージュ「887」(日本初演)
東京芸術劇場
東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)
2016/06/23 (木) ~ 2016/06/26 (日)公演終了
満足度★★★★
映像、模型。自伝的独り語り
887とは番地のこと。登場して挨拶。「記憶」について、ルパージュが語り始める。テレビ番組で詩の朗読を依頼され、二つ返事で引き受けたのだが、これがまるで覚えられない、という。なぜ覚えられないのかの考察を披露し、ある方法を思いつく。すなわち「幼少時の記憶は決して忘れない」、その忘れられない記憶を頼りに詩の暗唱を試みる目論見らしい。・・という入口から彼の出自が語られて行くという仕掛けである。彼が育ったアパート。精巧な(に見える)模型を使いながら各部屋の住人を紹介。界隈の雰囲気を伝えつつ、様々な人種的背景を持つ人々が暮らしていたことにさり気なく触れる。そして彼が生まれたケベックという地域の特質にも触れられて行くのだ。ちなみに母は熱心なケベック主義者(英語を母語とする者すなわち支配者=カナダからの独立を目標にする)、父は穏健な中立派。父はタクシー運転手で、夜帰宅する時のエンジン音が子供ながらに待ちどおしかった、そんな思い出。高校生のころ、大統領がやってきた。中央に塔が立つ丘の上の公園で、多くの観衆が集う中、ケベック万歳が叫ばれる。そんな光景なども。
途中の記憶はだいぶ薄れてしまった。さて忘れた頃に問題の「テレビ番組」の放映時間が迫って来る。思わぬ伏兵、ではないが、問題はその「詩」そのものだった。「英語」というものを擬人化していてやや晦渋だが、支配に抗う心を恐らくは詩った詩だ。
ちょうど5月にSPACで観たワジディ・ムアワド作・出演の一人舞台『火傷するほど独り』は、彼がリスペクトするルパージュの論文を書くために彼を追うという自伝的な話だったが、レバノンからの移民である彼の出自をめぐる事々(主に父との関係)が、背景色になっていた。
世界に先駆けて多文化共生の制度的枠組みが作られたと言われるカナダの歴史的な葛藤は、このケベックという土地(といっても広い州だが)に象徴されているのではないか・・二作を通してその事を感じた。
ルパージュと言えば、吹越満が日本版に舞台化した『ポリグラフ-嘘発見器-』のイメージが強かったが、比べると今作は、ヒューマンな芝居だ。
殺人者J
TRASHMASTERS
駅前劇場(東京都)
2016/07/14 (木) ~ 2016/07/24 (日)公演終了
満足度★★★★
議論のためのシチュエーション
「武力」という禁忌に手を染めようとする警備会社。傭兵帰りも社員に居たりするのでそういった流れも必然らしい。これを「日本のため」とする社長、そして彼と共に会社を立ち上げた部長、日和見社員、筋を通そうとする社員、各自のスタンスがあって、終始議論をする。芝居は中盤の大きな事件を区切りに前半・後半に分かれ、後半は情緒が個人の思考に及ぼす影響を浮かび上がらせる。
芝居が進む時間上には、「事件」の他は議論をしている。その中で過去に属する情報が引き出され、議論の方向を左右したりする。「事件」を境に感情的になり偏狭になって行くこの場所を社会に当てはめて言えば、「キナ臭く」なる。ショックドクトリンの判り易い事例と言えなくない。「あるべき議論」から遠ざかって行く様は、我々が実際に目にしている日本の現在の「偏狭」に対し、追認することしか許されない居心地の悪さがある。「あるべき議論」を提示する局面が、やはり必要なのではないか・・・そんな事を思う。
ここ最近のTRASHの作品は、(たとえB級映画的でも)ドラマティックな展開があった以前とは異なり、「議論」が中心になっている、と思う。もっとも、作者的にはこの議論の中で事件が起きることになっているのかも知れない。今作では「不倫」という事実を「事件」として扱い、女性はその相手の本心を「発見する」という事件も書き込んでいて、女が号泣したりするが、これは「武装」路線の是非の議論には無関係だ。彼女が宗旨替えするというならまた別だが。。
という事でこれは「議論劇」の範疇にある、と考える。
もし「行動」を描く芝居なら、各自にもっとリアルに行動させ、とうに議論を打ち切らせ、「武装化」を進めようとする者とそうでない者が、それぞれ何を動機としてその判断に至っているのか・・を浮かび上がらせたい。 自らとは反対派に位置する「不倫」の当事者に対し、意見を言う資格なし、と排斥する言動がかなりの分量をとっているが、本当の動機を隠そうとする者が他者の弱点をあげつらうもので、それを延々と続けられても議論的には前に進んで行かない。「議論を闘わせるのためのシチュエーション」をお膳立てする着想に秀でた中津留氏の、急ぎ仕事を最近は見ている気がするので、じっくり書ききった作品を見たい。
新・二都物語
新宿梁山泊
花園神社(東京都)
2016/06/18 (土) ~ 2016/06/27 (月)公演終了
満足度★★★★
台詞の遊戯と、海峡の歴史との隔たり
唐作品。二都(日朝)を隔てる海峡。「水」が今回も装置のアトラクションに据えられていたが、昨年の「二都物語」ではプール並に張られていて圧巻だったのに比べると、こういうのはエスカレートして行くと切りが無さそうだが、床板を持ち上げると床下に水が張られ、板からも水が噴き出す式で、「海峡」のスケールからは遠ざかった。
作家天童氏がパンフに文を寄せていたが、「台本を読んだ」衝撃を想像するに、台詞のイメージによる連想ゲームのフザケ具合に慎ましさ・抑制がなく、シュールさが立っていた、と言える。ただし、これをリアルの文脈上に置くと、中年がだだ漏らす駄洒落に等しく、中々厳しいものになる。
徹底してシュールで通すことで新たな唐十郎世界が標されたかも知れない・・・と、惜しい思いが残った。劇世界を「リアル」に引き留める要素は、「二都」=日朝関係の問題にもありそうだが、それは戯曲では完全に「背景」と化しているので、むしろ演出的な、処理の次元の問題かと思う。
その一つは、例のマイナーコードで表わされる「悲しみ乗り越えて」的なシンプルな音楽が、「悲しみ」という色彩のはっきりした感情の符牒として機能し、「多面性」をその部分では拒絶する。つまり観客は「ああ、リーランが悲しみを歌っている」と、そこに同期するしか、観劇を続けて行く術はなく、従って物事を捉えるあらゆる可能性を開くシュールの世界と、単一な感情を媒介して浸るしかない物語世界との間に、齟齬がすでに生じている訳なのだ。
いつもの唐をやる時の大貫誉の音楽は、今回はそれではなかったんではないか、捉え損ねたな・・そんな印象を観ながら持ったものだ。同様に、リーランの歌(い方)にもそれが言える。
が、少し引いて見てみると、奇妙極まる今作を、とにもかくにも熱度のある梁山泊の芝居として立ち上げた金守珍に、拍手を送るべきなのかも。 実際には固着しそうになる「物語」世界を、緩急自在な場面のモード・チェンジを繰り返しながら、どうにか終盤まで「意味ありげ」に客を引き付け続けたのだから。
ピンポイントの出演ながら古株三浦・渡会の場面は秀逸だった。
(しかし私個人の新宿梁山泊の原点は鄭義信作品だ。唐作品をやり続ける事に特段は賛同していないが、唐戯曲になじむことになったのは此の劇団のお陰さまだ。)
パーマ屋スミレ
新国立劇場
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2016/05/17 (火) ~ 2016/06/05 (日)公演終了
満足度★★★★
有難いチケット
話の構造は三部作の第一作「焼肉ドラゴン」に似ている。炭鉱に近い、朝鮮人集落。災難は爆発事故による一酸化炭素中毒で、「焼肉・・」が差別とそれを被った彼らの心模様、そこから来る言動のありように焦点が当てられていたのに対し、日本人も受けた事故の悲劇に朝鮮人も同じくまみえて、豪胆にも闘って行く理髪店のおかみの姿が印象的なドラマになっている。今作では差別そのものが対象化されてはいない、「前提」となっている。
もちろん愛の物語は相変わらず、というか鄭義信の中心テーマであって、これは外せない。 最後には「焼肉」と同様、社会情勢の変化(石炭産業の衰微)により、人々が集落を去って行く場面が訪れる。
今回の語り部は「少年」ではなく、かつての少年が未来から故郷での物語を神様よろしく語る形式になっている。
南果歩演じる在日二世(スミ)をめぐり、現夫の千葉哲也、その弟村上淳が、境界の曖昧な心情を表現し、泥にまみれた戦後の庶民の物語に濃い陰影を与えていた。
不幸の家族
立川志らく劇団・下町ダニーローズ
小劇場B1(東京都)
2016/05/14 (土) ~ 2016/05/29 (日)公演終了
満足度★★★★
思えば・・・初志らく
以前(だいぶ昔)「ヨタロー」なる若手落語家(二つ目)が出演して笑点形式で機知や芸を披露する深夜番組があった。落語協会、落語芸術協会、円楽党、立川流の4団体から若手代表が3名ずつほど出演していたが、深夜3時からの弛緩した番組でもやはり立川流の「立川ボーイズ」(談春と志らく)は目立っていた(あと芸協の昇太も目立ってたし、落協も独自キャラを見せ、当初はヘナチョコだった円楽党も皮が剥けて行き最後には初の1位を取って涙、なんて場面もあった・・)。
この番組の特別編として(恐らくは立川ボーイズ主導だったろう)出演者全員で落語のネタを演劇風にして披露する回があった。私が見たのは『死神』、拙いながら異なる団体の彼らが顔を合わせて繋がり、いつしかチームワークを形作った結実を示す、初々しささえ感じさせる出し物だった。
志らくが劇団をやっている(演劇をやっている、ではなく)、と聴いてイメージしたのはこの時の短いお芝居の光景で、もしや志らくはこの時の興奮が忘れられずに芝居を始めたのではなかろうか? と、半ば確信しながら、「演劇」を追っかける身としては対象に入ってこなかったのが、「いっちょ観てみるか」と初めて、志らくの落語も初めて、目にすることになった訳だった。
今更ながらだが、談志が認めた志らくだけあって、あの番組から20年を経てベテランなのだろうけれど、落語の披露は美味しかった。
さて芝居はやっぱり、文化祭の雰囲気だ。ただ、これは一つの形式である。志らくの脚本の劇化の手法は、志らく自身が選択しているのであり、テーマは劇(物語)の内容であるべきだ、と思う。
即興的な(素に戻って突っ込み合うなど多用は好ましくない)モードもしばしば見られるが、注目すべきはラディカルな空想が書き込まれたテキストを上演する、という営為にある、・・今回だけの感想だがそう感じた。
内容については、記憶も薄れているが、時代は近未来(か遠未来)の日本、戦争がすでに恒常的に行われており、外地がどうしたという話も絡んでくる。最後は荒唐無稽に飛躍し、危機脱出とあいなる。そこには「日本」という状況への視点がこめられている。
設定だけで芝居じたいがラディカルとは早計だろうし、物語の軸は人情劇で、社会風刺がその進行を左右することはいないが、「立川流」の片鱗をそこに見出せると言うのは穿ちすぎだろうか。
「演技」面でも志らくは他を引っ張っており、モロ師岡はかろうじて「熱っぽさ」に徹する事で役割を果たしていた。役の内面はもっと詰めてほしいし、「良かった良かった」で終わってほしくなく、作品に対しては進化を続けるべく模索してほしい、・・とは元ヨタロー・ファンの願望でもある。
悪魔を汚せ
鵺的(ぬえてき)
駅前劇場(東京都)
2016/05/18 (水) ~ 2016/05/24 (火)公演終了
満足度★★★★
人間の「悪」について
旧弊というか、いびつに歪んだある家族の物語だった。詳細は記憶から落ちてしまったが、代々薬製造をやってきた旧家の威光を大義とするゆえに序列を必然化し、病を持ちながらも家長然と長らくこの一家に君臨する長女以下、女兄弟とその夫らも集い暮らす大家族で、「大人たち」の歪さの対極に、「子供たち」の歪さが(観客の目に)浮かび上がる。
「観察者」たる学齢の子供たち(長男・長女・次女)は、「歪な大人」の本質的な支配の下からすでに逃れており、自立していることが知れ、大人同士の確執よりも、深い次元での確執が兄弟の間で芝居の終盤に首をもたげてくる。突き詰めれば「大人」への根源的な反逆に徹する次女と、信頼できる相手を見出したゆえに「脱出」の道を選ぶ長女と、二つの選択肢において、「破壊」志向のある前者の歯牙にかかって後者が「生き方」を変えざるを得ない、という畳み掛ける終盤の展開は、「飽きさせない」ドラマの構築と、問題の提示とが見事に結びついた「無駄のない」戯曲に結実したことを示していた。
今の社会をどう見るか・・・、どう感じるべきか・・・という問題意識から見ると、約束の反古、嘘、論理破綻、ほとんど正当性のない政治の「悪」を目にしながらそれを正すこともせず文句も言わず自分だけは災難から逃げおおせると高をくくる者を、徹底的に叩きのめしている・・・ようにも感じられる。
一方、次女の「犯罪」に長けた素質は、貴志裕介の『黒い家』の女を思い出させ、空恐ろしい。人間の「良さ」を顕現させるドラマが「出来すぎた」それゆえ「癒される」物語だとすれば、人間の「悪」が露呈する話も「出来すぎ」ゆえにどこか溜飲を下げる。
この話は「悲劇」だが、「ために」不幸な展開にした、という気がしなかった。
鵺的観劇2作目。
翼とクチバシもください
クロムモリブデン
赤坂RED/THEATER(東京都)
2016/05/11 (水) ~ 2016/05/22 (日)公演終了
満足度★★★
どう面白がるべきか
クロム観劇は二作目。そのかん、過去作品の台本を一度読んだが、分かりやすかった。期待させる設定からの展開には、他の選択の余地もありそうで、割と平均的日本人の感性から、ちょっとした差異を楽しむ作風を感じた。日常を囲んでいる世界そのものの首根っこをつかんで揺さぶることはないが、「?」を提示してみる、というもの。とりあえず芝居が始まって最後まで客の注意をつかまえて、キープして、ある「ラスト」にたどりつき、「ああ芝居を見た」という気にさせて送り出す。
しかし、劇場でみた芝居は2作ともナンセンスが勝っていて、作者の挑戦だとしてそれはどこに向かってのものか、捉えづらいものがあった。
今作は奇妙な早口言語をやり取りしたり(時に斉唱しているのでコトバは決まってるのだろう、大変ご苦労だ)、不明な世界だがナゾ掛けは序盤で期待感を持たせる。どうやら「物語」も一応進行しているらしく、幾つかのエピソードが交互に語られ、それぞれに属する役名を、判別するのに(クロムの役者を詳しく知らないし席も遠くて顔が判別できず)、大変だった、というか出来なかった。
もっとも、物語を紡ぐことが目的とされているなら同場面に存在して関連しあう人物のアンサンブルによって、出来事や状況のニュアンスは伝わってくるものだが、そもそも変則的な演出が紛れ込んでいて、解読が難しい。芝居を観ながらどの部分を押さえておくべきか、どのあたりに価値が置かれているのか、そもそも何を楽しめばよいのか、結局前面には出て来なかった・・・というのが私の評価だった。好みか、価値観の問題かも知れないが。
後半は「奇妙言語」は影を潜め、物語叙述が主になっている様子。でもって最後、何か「感動」らしい雰囲気を醸したりしている。でもその感動風は芝居の全体を集約したものになっているのかは、疑問。「ドラマの終わり」っぽい場面を、結局は借りるしかなかったということではないのか。挑戦はどうなった。何に収斂されたのか。
「分からない」ながらに偉そうな総括をすれば、何のために、何に向かって模索し、もっと言えば演劇を続けているのか(それを言っちゃおしまいか?)、演劇というものを手段として「何」を表現し続けたいと望んでいるのか・・・暗中模索状態なのではないかと、勝手に想像してしまった舞台。
以前見たナンセンスな「ラスト」に、そこだけ浮いてはいたが秀逸な感覚をみた。それゆえ、リピートでもう一度観に行った。ところが二度目に観たとき、あの秀逸なラストは、なんと「省略」されてしまっていた(短縮バージョンに)。「模索中」との印象は、じつはこの事実に基づいているのだが・・。
「これぞクロムモリブ」、という舞台を、一度みたい。
かなり勝手な意見を申したがご容赦を。