tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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新・二都物語

新・二都物語

新宿梁山泊

花園神社(東京都)

2016/06/18 (土) ~ 2016/06/27 (月)公演終了

満足度★★★★

台詞の遊戯と、海峡の歴史との隔たり
唐作品。二都(日朝)を隔てる海峡。「水」が今回も装置のアトラクションに据えられていたが、昨年の「二都物語」ではプール並に張られていて圧巻だったのに比べると、こういうのはエスカレートして行くと切りが無さそうだが、床板を持ち上げると床下に水が張られ、板からも水が噴き出す式で、「海峡」のスケールからは遠ざかった。
作家天童氏がパンフに文を寄せていたが、「台本を読んだ」衝撃を想像するに、台詞のイメージによる連想ゲームのフザケ具合に慎ましさ・抑制がなく、シュールさが立っていた、と言える。ただし、これをリアルの文脈上に置くと、中年がだだ漏らす駄洒落に等しく、中々厳しいものになる。
徹底してシュールで通すことで新たな唐十郎世界が標されたかも知れない・・・と、惜しい思いが残った。劇世界を「リアル」に引き留める要素は、「二都」=日朝関係の問題にもありそうだが、それは戯曲では完全に「背景」と化しているので、むしろ演出的な、処理の次元の問題かと思う。
その一つは、例のマイナーコードで表わされる「悲しみ乗り越えて」的なシンプルな音楽が、「悲しみ」という色彩のはっきりした感情の符牒として機能し、「多面性」をその部分では拒絶する。つまり観客は「ああ、リーランが悲しみを歌っている」と、そこに同期するしか、観劇を続けて行く術はなく、従って物事を捉えるあらゆる可能性を開くシュールの世界と、単一な感情を媒介して浸るしかない物語世界との間に、齟齬がすでに生じている訳なのだ。
いつもの唐をやる時の大貫誉の音楽は、今回はそれではなかったんではないか、捉え損ねたな・・そんな印象を観ながら持ったものだ。同様に、リーランの歌(い方)にもそれが言える。
が、少し引いて見てみると、奇妙極まる今作を、とにもかくにも熱度のある梁山泊の芝居として立ち上げた金守珍に、拍手を送るべきなのかも。 実際には固着しそうになる「物語」世界を、緩急自在な場面のモード・チェンジを繰り返しながら、どうにか終盤まで「意味ありげ」に客を引き付け続けたのだから。
 ピンポイントの出演ながら古株三浦・渡会の場面は秀逸だった。

(しかし私個人の新宿梁山泊の原点は鄭義信作品だ。唐作品をやり続ける事に特段は賛同していないが、唐戯曲になじむことになったのは此の劇団のお陰さまだ。)

パーマ屋スミレ

パーマ屋スミレ

新国立劇場

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2016/05/17 (火) ~ 2016/06/05 (日)公演終了

満足度★★★★

有難いチケット
 話の構造は三部作の第一作「焼肉ドラゴン」に似ている。炭鉱に近い、朝鮮人集落。災難は爆発事故による一酸化炭素中毒で、「焼肉・・」が差別とそれを被った彼らの心模様、そこから来る言動のありように焦点が当てられていたのに対し、日本人も受けた事故の悲劇に朝鮮人も同じくまみえて、豪胆にも闘って行く理髪店のおかみの姿が印象的なドラマになっている。今作では差別そのものが対象化されてはいない、「前提」となっている。
 もちろん愛の物語は相変わらず、というか鄭義信の中心テーマであって、これは外せない。 最後には「焼肉」と同様、社会情勢の変化(石炭産業の衰微)により、人々が集落を去って行く場面が訪れる。
 今回の語り部は「少年」ではなく、かつての少年が未来から故郷での物語を神様よろしく語る形式になっている。
 南果歩演じる在日二世(スミ)をめぐり、現夫の千葉哲也、その弟村上淳が、境界の曖昧な心情を表現し、泥にまみれた戦後の庶民の物語に濃い陰影を与えていた。
 

ネタバレBOX

当日券目当てに劇場へ行くと、完売。キャンセル待ちに一人で並んでいると、どなたかがチケットを下さった。ステージに近い中央ブロックの席で贅沢に観劇。感謝。
不幸の家族

不幸の家族

立川志らく劇団・下町ダニーローズ

小劇場B1(東京都)

2016/05/14 (土) ~ 2016/05/29 (日)公演終了

満足度★★★★

思えば・・・初志らく
以前(だいぶ昔)「ヨタロー」なる若手落語家(二つ目)が出演して笑点形式で機知や芸を披露する深夜番組があった。落語協会、落語芸術協会、円楽党、立川流の4団体から若手代表が3名ずつほど出演していたが、深夜3時からの弛緩した番組でもやはり立川流の「立川ボーイズ」(談春と志らく)は目立っていた(あと芸協の昇太も目立ってたし、落協も独自キャラを見せ、当初はヘナチョコだった円楽党も皮が剥けて行き最後には初の1位を取って涙、なんて場面もあった・・)。
 この番組の特別編として(恐らくは立川ボーイズ主導だったろう)出演者全員で落語のネタを演劇風にして披露する回があった。私が見たのは『死神』、拙いながら異なる団体の彼らが顔を合わせて繋がり、いつしかチームワークを形作った結実を示す、初々しささえ感じさせる出し物だった。
 志らくが劇団をやっている(演劇をやっている、ではなく)、と聴いてイメージしたのはこの時の短いお芝居の光景で、もしや志らくはこの時の興奮が忘れられずに芝居を始めたのではなかろうか? と、半ば確信しながら、「演劇」を追っかける身としては対象に入ってこなかったのが、「いっちょ観てみるか」と初めて、志らくの落語も初めて、目にすることになった訳だった。
 今更ながらだが、談志が認めた志らくだけあって、あの番組から20年を経てベテランなのだろうけれど、落語の披露は美味しかった。
 さて芝居はやっぱり、文化祭の雰囲気だ。ただ、これは一つの形式である。志らくの脚本の劇化の手法は、志らく自身が選択しているのであり、テーマは劇(物語)の内容であるべきだ、と思う。
 即興的な(素に戻って突っ込み合うなど多用は好ましくない)モードもしばしば見られるが、注目すべきはラディカルな空想が書き込まれたテキストを上演する、という営為にある、・・今回だけの感想だがそう感じた。
 内容については、記憶も薄れているが、時代は近未来(か遠未来)の日本、戦争がすでに恒常的に行われており、外地がどうしたという話も絡んでくる。最後は荒唐無稽に飛躍し、危機脱出とあいなる。そこには「日本」という状況への視点がこめられている。
 設定だけで芝居じたいがラディカルとは早計だろうし、物語の軸は人情劇で、社会風刺がその進行を左右することはいないが、「立川流」の片鱗をそこに見出せると言うのは穿ちすぎだろうか。

 「演技」面でも志らくは他を引っ張っており、モロ師岡はかろうじて「熱っぽさ」に徹する事で役割を果たしていた。役の内面はもっと詰めてほしいし、「良かった良かった」で終わってほしくなく、作品に対しては進化を続けるべく模索してほしい、・・とは元ヨタロー・ファンの願望でもある。


悪魔を汚せ

悪魔を汚せ

鵺的(ぬえてき)

駅前劇場(東京都)

2016/05/18 (水) ~ 2016/05/24 (火)公演終了

満足度★★★★

人間の「悪」について
旧弊というか、いびつに歪んだある家族の物語だった。詳細は記憶から落ちてしまったが、代々薬製造をやってきた旧家の威光を大義とするゆえに序列を必然化し、病を持ちながらも家長然と長らくこの一家に君臨する長女以下、女兄弟とその夫らも集い暮らす大家族で、「大人たち」の歪さの対極に、「子供たち」の歪さが(観客の目に)浮かび上がる。
「観察者」たる学齢の子供たち(長男・長女・次女)は、「歪な大人」の本質的な支配の下からすでに逃れており、自立していることが知れ、大人同士の確執よりも、深い次元での確執が兄弟の間で芝居の終盤に首をもたげてくる。突き詰めれば「大人」への根源的な反逆に徹する次女と、信頼できる相手を見出したゆえに「脱出」の道を選ぶ長女と、二つの選択肢において、「破壊」志向のある前者の歯牙にかかって後者が「生き方」を変えざるを得ない、という畳み掛ける終盤の展開は、「飽きさせない」ドラマの構築と、問題の提示とが見事に結びついた「無駄のない」戯曲に結実したことを示していた。

 今の社会をどう見るか・・・、どう感じるべきか・・・という問題意識から見ると、約束の反古、嘘、論理破綻、ほとんど正当性のない政治の「悪」を目にしながらそれを正すこともせず文句も言わず自分だけは災難から逃げおおせると高をくくる者を、徹底的に叩きのめしている・・・ようにも感じられる。
 一方、次女の「犯罪」に長けた素質は、貴志裕介の『黒い家』の女を思い出させ、空恐ろしい。人間の「良さ」を顕現させるドラマが「出来すぎた」それゆえ「癒される」物語だとすれば、人間の「悪」が露呈する話も「出来すぎ」ゆえにどこか溜飲を下げる。
 この話は「悲劇」だが、「ために」不幸な展開にした、という気がしなかった。
 鵺的観劇2作目。

翼とクチバシもください

翼とクチバシもください

クロムモリブデン

赤坂RED/THEATER(東京都)

2016/05/11 (水) ~ 2016/05/22 (日)公演終了

満足度★★★

どう面白がるべきか
クロム観劇は二作目。そのかん、過去作品の台本を一度読んだが、分かりやすかった。期待させる設定からの展開には、他の選択の余地もありそうで、割と平均的日本人の感性から、ちょっとした差異を楽しむ作風を感じた。日常を囲んでいる世界そのものの首根っこをつかんで揺さぶることはないが、「?」を提示してみる、というもの。とりあえず芝居が始まって最後まで客の注意をつかまえて、キープして、ある「ラスト」にたどりつき、「ああ芝居を見た」という気にさせて送り出す。
 しかし、劇場でみた芝居は2作ともナンセンスが勝っていて、作者の挑戦だとしてそれはどこに向かってのものか、捉えづらいものがあった。
 今作は奇妙な早口言語をやり取りしたり(時に斉唱しているのでコトバは決まってるのだろう、大変ご苦労だ)、不明な世界だがナゾ掛けは序盤で期待感を持たせる。どうやら「物語」も一応進行しているらしく、幾つかのエピソードが交互に語られ、それぞれに属する役名を、判別するのに(クロムの役者を詳しく知らないし席も遠くて顔が判別できず)、大変だった、というか出来なかった。
もっとも、物語を紡ぐことが目的とされているなら同場面に存在して関連しあう人物のアンサンブルによって、出来事や状況のニュアンスは伝わってくるものだが、そもそも変則的な演出が紛れ込んでいて、解読が難しい。芝居を観ながらどの部分を押さえておくべきか、どのあたりに価値が置かれているのか、そもそも何を楽しめばよいのか、結局前面には出て来なかった・・・というのが私の評価だった。好みか、価値観の問題かも知れないが。
 後半は「奇妙言語」は影を潜め、物語叙述が主になっている様子。でもって最後、何か「感動」らしい雰囲気を醸したりしている。でもその感動風は芝居の全体を集約したものになっているのかは、疑問。「ドラマの終わり」っぽい場面を、結局は借りるしかなかったということではないのか。挑戦はどうなった。何に収斂されたのか。
 「分からない」ながらに偉そうな総括をすれば、何のために、何に向かって模索し、もっと言えば演劇を続けているのか(それを言っちゃおしまいか?)、演劇というものを手段として「何」を表現し続けたいと望んでいるのか・・・暗中模索状態なのではないかと、勝手に想像してしまった舞台。
 以前見たナンセンスな「ラスト」に、そこだけ浮いてはいたが秀逸な感覚をみた。それゆえ、リピートでもう一度観に行った。ところが二度目に観たとき、あの秀逸なラストは、なんと「省略」されてしまっていた(短縮バージョンに)。「模索中」との印象は、じつはこの事実に基づいているのだが・・。
 「これぞクロムモリブ」、という舞台を、一度みたい。
かなり勝手な意見を申したがご容赦を。

コペンハーゲン

コペンハーゲン

シス・カンパニー

シアタートラム(東京都)

2016/06/04 (土) ~ 2016/07/03 (日)公演終了

満足度★★★★

終わってみたら小川絵梨子
実在した物理学者、原子力の研究開発に貢献した事で名の知られるハイゼンベルクと、ボーアという両学者の、コペンハーゲンでの会話を劇にしている。物理学の専門用語も若干出てくるが難しいのはその哲学的で隠喩的な言葉遣いのほうだ。ボーアの妻もこの会話や、二人の関係そのものに懐疑的に絡む。
 場面はほぼ三つの相、一つはテキストの書かれている時代(現代)に作者を代弁して語っている風に見える相と、戦前のコペンハーゲンでの(「決別」に至る)やり取り、そして戦後その日を回想し対話する、これもコペンハーゲンのボーア宅の場面だ。
 1945年原子力爆弾使用までの、それぞれの立場での研究(二人だけではない)のプロセスがある。戦前の場面は、それ以前の師弟・同僚関係から戦争の影もあって一定の離別の期間を挟んで、久々の対面がなされたコペンハーゲンでの場面だが、ある短い言葉のやり取りから「決別」を帰結する。その背後に何があったのか・・これがやがて謎解かれる問いの一つでもある。
 この答えを観客が知りたいか知りたくないか・・はとりあえずどうでも良い。思わせぶりで難解な会話、訪問を受ける側のボーアがユダヤ人(つまり亡命している)である事から、やり取りも複雑になる。その探りあいの様を、妻が作家よろしく描写して観客に聞かせ、観客が立ち入る領域は人物の心理に及ぶことにもなる。交わされるやり取りの意味や行方を凝視して追尾する時間は、悪くはない。戯曲が観客の関心を途絶えさせぬよう、しかし簡単に捕まらぬよう、うまく書かれているのだろう。
 問題は最後だ。結語は抽象的で、この芝居が描いた二人の対面の「事実」に対する、作者の「解釈」のようなものが語られて終わる。これは無いんじゃないかと思ったりする。
 二人の会話じたいが遠まわしで抽象的であるなら、その謎解きの回答は何らかの「行為」でなければならんのではないか、と素朴に思う。比喩的・抽象的・思わせぶりな言葉(行為)は、より直接的・具体的・感情に基づく行為を相対させることで謎解かれ、両方(抽象と具体)を順繰りに行き来する流れで芝居を観ていたら、最後に抽象が来て、それに対する具体性の提示を省略して幕を閉じた、という感じ。異化効果などという大仰な感じでもない。
 小川絵梨子演出はそれほど観てはいないが、余韻を引きそうなラストを「断つ」という印象が何となくあり、今回も意図して淡白にしたのかも知れない。小編をうまく処理した、という感じだ。感動させるつもりはない、一定時間、注目させられれば良い、という。 ・・別に恨みは無いが、「クリプトグラム」「OPUS作品」への好評価が、その後私の観た三作で遠のいた感を言葉にすればそんな感じである。

 ロングランの序盤、芝居はまだ硬いように見受け、こなれてくれば台詞も身体化し、私の不満も解消されて行くかも知れない・・・とは思った。(二度は観れないが・・)

アップデイトダンス No.35「トリスタンとイゾルデ」

アップデイトダンス No.35「トリスタンとイゾルデ」

KARAS

KARAS APPARATUS(東京都)

2016/06/08 (水) ~ 2016/06/16 (木)公演終了

満足度★★★★★

物語性の濃さ。俳優がそこにいる・・
トリスタン(男)とイゾルデ(女)の物語は冒頭、薄暗がりの中にそれぞれ別個の場所、時間で映し出され、ぼうと浮かび上がるその構図で、片想いもしくは相思相愛でも悲恋の物語である事が如実に知れる。モノクロのような沈んだ色彩を使った『旅芸人の記録』だか『暗殺の森』だか?いつか観た映画の場面を思い出す。音楽が始まると「ワーグナー」の名が浮かんだのは、聴いた覚えがあるのだろう。正解であったが、他の楽曲同様に荘厳で耽美的で、後で調べるとこのお話は伝承に基づく物語で現存する形も一つではなく、従ってワーグナーの解釈が濃く反映していると思われる。二人の悲恋をこれ以上ない最上の愛と悲運の両極の間に捉えて、その美を讃える楽曲である。
哀切を湛える甘味で壮大な楽曲を背景に、これに遜色ないパフォーマンスをやり抜いたのが、このKARAS版『トリスタン・・』だとざっくり言ってしまって良い。
照明の技巧も相まって、実は粗筋も知らなかったが、物語の二人の主人公を演じる二人の踊り手は役を演じる俳優の顔を見せ、「踊り」の多彩な表現が駆使されながらも、いやおうなく音楽が喚起するものに呼応するのに精神を全開にせざるを得ず、背景たる音楽のポテンシャルに正確に「比例」したエネルギッシュな、感情を伴う踊り=表現を展開していたのが大変印象的だった。
(続きはまた。)

エダニク

エダニク

iaku

三鷹市芸術文化センター 星のホール(東京都)

2016/06/03 (金) ~ 2016/06/12 (日)公演終了

満足度★★★★

「会話」と「展開」の理想的な関係
ちょっと謎な台詞の意味が少し後で解かれる、良いリズムが「台詞のよさ」で、そこから発展する人物の行動が全体として関連ある図を描くようであるのが「プロットのよさ」、描かれた物語が普遍性をもち、真実味を帯びて観る者の心に刻まれるのが「良い戯曲」、・・などと知ったような事を言ってみる。『エダニク』は展開が面白い。だが印象としては静的で、間合いに漂う「心模様」に注意が向く。そして説明されない空隙が何かで満たされている、そんな雰囲気は好みだ。
屠場というだけで何か社会的なテーマを嗅ぎ取りそうだが、それはむしろ背景となって滲んでいて、ことさらにほじり出すようなやり取りもあるが、それはそれ、と。ある現実が切り取られたリアル感と同時に、飛躍のある部分はフィクションなのかそうでないのか、という微妙な線も、悪くない。演じた三男優への拍手。
三鷹芸文のキャパは少し大きく、客席がちらほら空いていたのも勿体無い。

埒もなく汚れなく

埒もなく汚れなく

オフィスコットーネ

シアター711(東京都)

2016/06/01 (水) ~ 2016/06/12 (日)公演終了

満足度★★★★

大竹野正典シリーズ。今回は評伝
瀬戸山戯曲、どこまで肉薄できるか・・・大竹野戯曲じたいの上演とは意趣が異なる、にも関わらず観てしまう(自嘲)『密会』以来の愛好者振りだが、さて「変わり者」「孤独を好む人」だのに周りにはいつも大勢の人が集まったという彼の人となりが少しばかり知れた、というより、彼をモデルにした一つのフィクションを見た感触だった。パンフにも「これはフィクションであり・・」との但し書きがあり、その意味、背景を様々憶測させられる。本作は作家とその連れ合いとなる女の関係が中心に据えられ、海難事故の時点と生前の場面を行き来しながら、大竹野の異色作かつ代表作とも言われる『山の声』に潜む作家のメッセージを汲み取り、二人の関係に重ね合わせて行く部分は、作者瀬戸山氏の功労と言えるのではないか。
 ただし不満もあった。大竹野という人物が生きた時間にどう振舞ったか、から更に一歩踏み込み、彼が「人間世界」をどう見たか、つまり彼は日本という社会の戦後の時代をどう見て、どう反応し、彼らしい足跡を残したのか・・・を見たかった思いが強い。その事によって故人の存在がある意味をもって、遺された者を力づけるものとして深く刻まれるような気がした。無いものねだりの感はあるが・・・

アベベのベ 2016

アベベのベ 2016

劇団チャリT企画

こまばアゴラ劇場(東京都)

2016/06/08 (水) ~ 2016/06/19 (日)公演終了

満足度★★★★

初日・チャリT3度目。
10年後の再演では時代が巡って・・。政治ネタを軽妙に、問題抽出を目的と割り切った昔で言う所の辻芝居?のテイストだろうか。昨年40min競演でIS人質殺人事件を扱った「イスラム国がやってくる!? アラ!アラ!アッラー!」の情報密度と説明の判り易さには、時事ネタ紹介の演劇活用の見本をみるようで感心した。
さて今回の再演、第一次内閣当時のようには、「アベ」を軽く笑えない。現在のアベの「危険」の象徴は改正憲法自民党案であるのは間違いなく、ただ、挿入した感のある部分は、芝居として勿体ない。
「ブラック企業」の呼称は10年前はまだ無かったと思うが、コンビニのバックヤードを舞台に描写された非正規雇用(バイト)たちの職場模様は、時代ギャップを感じさせない。ただ、コンビニ業界のブラックな側面はこの10年で随分暴露され、チャリT的にはこれ一つテーマにしても一作できるのではないか・・その点、今作では「コンビニ」本体は背景に収まり(その中で人は身勝手だったり困ったりしてるが)、批判を免れている風だ。
休憩中は電話を絶対取らない(人が取ろうとしても阻止する)慣習も、観客的には違和感なのだが、「振り」をどう「処理」するか、という部分は、流されてしまった感もある。
だが、政治ネタである事が明白な芝居が、居心地悪くなく最後まで見れてしまうのは、希少かも知れない。

ネタバレBOX

登場人物のほとんどはコンビニのバイト。元バイトも2名登場し、その一人は、向かいに出来たセブンの店長、元酒屋の息子で、遊びに来てはだべって行ったりする。彼はこちらの「店長候補」(主人公)と同級生で、張り合ったりしている。
さて、国民投票の日を前に、無党派が多数だが、(改正)賛成派はあからさまに賛成投票を訴えている。一方自覚的な懐疑派は一人のみで、学生。しかし彼は「自分が思った通りに投票すればいい」と、決して反対を訴えない。ただ、幟を持ってやってきたバイト(その時は国民投票改憲賛成を訴える青年団?の一員として登場)に対しては明快に反論して相手を論破してしまう。ここなのだが、いささか教科書的な反論にとどまった感があった。客観的な正論を述べるのだが、改正の結果大事なものが損なわれる場合、その事態を憂う感情を抜きに、ただ誤りをただし「正解」を述べるだけ、という態度は実際には考えにくい。もしそういう態度に見えるとすれば、戦略的にそう振る舞ってい る、自制していると考えられ、この学生はそうしている、との解釈をするかしないか、という事になるのだが、むろん、かような複雑な演技を求めるような芝居ではない。
淡々と矛盾を論破すれば、「改憲が正しいと単純に信じたアホ」は面食らうかも知れないが、本当の「敵」までの距離は遠く感じられる。この芝居を観て改憲に疑念を持ち始める人がいるかも知れないけれど、この問題は論理的に正解か不正解かを問う問題ではなく、人間的なあり方を(現に事実として奪われているその上に)制度として手放す事を、あなたが選ぶか選ばないか、行動するかしないか、という問題になる。もちろんその視点を作り手は踏まえているに違いないが、この論破の場面は、小気味よい勝利の場面、と「こちら側」は見ても、「どちら側でもない者」にはどうだろうか。感情の伴わない正論は胸に刻まれにくい。そこも勿体なく思われた一つだ。チャリTのテイストとの兼ね合いで難しい所だが。
「江戸系 諏訪御寮」「ゲイシャパラソル」

「江戸系 諏訪御寮」「ゲイシャパラソル」

あやめ十八番

サンモールスタジオ(東京都)

2016/05/27 (金) ~ 2016/06/05 (日)公演終了

満足度★★★★

「和」とロックンロールと、せかちゅー
花組芝居ってこういう感じだろうな・・想像していた姿がお目見えしたので、そうか、とすぐ納得した。大衆演劇の佇まいに通じるものあり。内面演技よりは所作・抑揚で意味を伝える能・歌舞伎のエッセンスが、冒頭などに溢れており、一方生演奏の存在感でもって50~60年代の懐メロ(ロカビリーやR&R)が割と大音量で流れ、演奏者は「演奏者」として舞台に登場して何かやってる、という芝居に見せている。素と役の切り替えなど一連の「形」として作られた序幕に、この舞台が「自由にやらせてもらう」空間である事を客に納得させる事に成功する。
以降は、「物語」の世界が、最良の形でオチを迎えるために書き手が凝らした工夫(多くを説明せず周りから囲い込む)に沿って展開される。この「物語」のディテイルに突っ込めば色々あるが、つづめてこの物語は「君が好きだ」の物語。好きになってからのあれこれはまァ見なくてよい。純粋に抽出され得る愛というものが存在する事の実証がドラマの叙述の目的となっている、そう見た。

ネタバレBOX

好みの問題だが、音楽は私の好みでなく、ただ二度使われることがなければ、許容できたと思う。テーマ曲的に選ばれた二曲ほどが二度流れ、少々うんざりした。二人が結ばれる、という意味で「お嫁においで」の安易な当て曲が、二回はないだろうという。。
10分間カセット

10分間カセット

張ち切れパンダ

【閉館】SPACE 梟門(東京都)

2016/05/26 (木) ~ 2016/05/29 (日)公演終了

満足度★★★★

私小説寄り
見込み無し、からの・・。劇団的には黒一点の深井邦彦ラスト出演公演という事だが、芝居のほうも黒一点的、女性目線。中学生時代の想い人を17年後の今もまだ・・・劇団の発祥も中学時代というから(これは保護すべき希少種)、今回の芝居は劇団自身へのオマージュのようでもあったのだ・・とは観劇後に諸事情を知って上書きされた印象であるが。 二作前の、自立した作品との印象からは少し違って、でもそれなりに毒のある、細部の「神」も微笑みそうな、現代口語演劇の成果ではあった。 

太陽

太陽

イキウメ

シアタートラム(東京都)

2016/05/06 (金) ~ 2016/05/29 (日)公演終了

満足度★★★★★

イキウメの再演は新作のように新鮮
初演との比較・・・強調点が絞られ、際立ち方が変わっており、同じ戯曲なのに着地の仕方が違う、と感じた。その、あれこれは、また。
示唆深い隠喩にあふれた、「人間」を問うSF。
 

ネタバレBOX

 webを中心に情報を得て芝居漁りを始めた頃、以前NHKシアターコレクションが取り上げていたイキウメのサイトにも訪れ、「観たい、観よう」と思った時点でちょうど終わっていたのが『太陽』だった。幸い台本が売られていたので購入、面白く読んだから、蜷川演出版も楽しみに観た。高額な舞台に初めて手を出した。
 その後DVDをゲットしてイキウメ『太陽』初演も観た。戯曲を読んだ印象に近かった。全体のバランスが程よく、ノクスとキュリオという人種の創作と、これに派生する様々な問題群をドラマに書き込む才能にも感じ入った。

 差異を乗り越える感動が、この作品の核だが、一方で差異の存在に驚き、おののく人間の現実にも直面させる戯曲だ。
 今や人間は生物学的に同じ種だと、文明社会に生きる我々は知っているが、かつての人間にとっては、異文化との感覚的距離は相当なものだったのではないか。その原初的な恐れの感覚を、イキウメの未来の物語は観客に提供する。見事に、「新種」であるところの人間=ノクスを、描いている。
 論理的な正しさを端的に受け入れる前向きさ、強さ、「自我」に固執せず・・・といった性質は、何かを想起させるが、ざっくり言えばアメリカ人的?もっと言えばアンドロイド的。
 ところで前向きとは何だろう・・? 彼らは経済的に恵まれており、恐らく効率的な生産と分配を実現しており、利権を独占しようとしたりといったキュリオ的な非生産的・非効率的行動をとるものは彼らの中に居ないとか、そんなことも仄めかしている。
 だがその効率の目的は・・・種の再生産、子を産み、子孫の繁栄へとバトンを渡すことが種の、生物の究極目的だ、と割り切っているのだろうか・・・皮肉なことに彼らの出生率は1%から伸びず、殆どがキュリオからの養子、人口はキュリオのノクス化で増えているが、ノクスがノクスだけで繁栄できる基盤は出来ていない、などの問題も終盤に語られる。だがそうした事実は伏せられており、一般の人間(キュリオ)にとって、彼らは畏れ・憧れの対象である。昼間出歩けないというノクスの決定的な欠陥は、キュリオに有利であるし、ノクス優位の社会になっている裏づけは説明されないが、「事件」を起こしてノクス社会との交流を断絶(経済制裁)されたこの村が、荒み凋落した原因は「ノクスでなく、あなたのようなキュリオのせいで、自滅しただけ」と、10年ぶりに現われた「事件」の張本人に、子の世代に当たる二十歳の娘が訴えた言葉からは、様々想像させられるものがある。
 その娘は、ノクスとなってもう居ない母親の再訪をきっかけに、養子縁組を希望され、劇の最後の段階ではそれを受け入れる。キュリオがノクスになるにはワクチンを打ってノクスの血に感染しなければならないが、高齢になるほど困難になる。そこで若者にノクス化の枠を与えており、この村では年一度の抽選にたった5名の若者の中から1名が当選するという幸運な確率が話題にもなっている。「事件」を起こした男の姉は、父にも自死され一人で負い目を引き受けて村に残ってきた。その息子は自分には(お茶以外)何のとりえもないと感じ、ノクスに憧れ続けている。一方、娘の方はさほどノクスになることに関心がなく、ただ父親が娘に楽をさせたいとノクスになる事を願っている。
 実の母親からの誘いに、娘は最後の抵抗をする。四国ではキュリオの独立社会を築き、政府も機能しているという噂があり、一度見てみたいのでそのお金を用立ててくれ、と要求する。キュリオでいる事の正統性をどこかで信じていた娘だが、母の夫から先日視察で訪れたという四国の状況を聞いて、その説得力に幻滅を否めず、ついに抗う根拠を失い、ノクス化を承諾してしまう。
 その日。医師の立会いで、ワクチン投与と血の咬合が行われ、悶え苦しんだ末に娘はノクス化する。その結果が舞台上に明らかになるのは、村の父たちの居る場所を訪れた、新しい父と母に付き添われた肌も色白になった彼女である。その変貌ぶりが、怖くも悲しい。そして、父は娘を永遠に失った事を知り、号泣する。

 さてもう一つの、というかこの芝居の中心エピソードは、村の境界での門番となったノクス男と、先の息子との交流だ。このノクス男の言動も、ノクス的人格をうまく表現している。論理的に考え、それをそのまま言葉にする。だが彼はキュリオに敬意を持っている。ノクスにはキュリオのような絵や文学を生み出すことはできない、キュリオの芸術は素晴らしいと考え、言わばリベラルだ。これは、別のノクスがキュリオの欠点に対する軽蔑を抑えられないと吐露するのとは、異なるノクスの例になる。門番男は、息子の「友達になりたい」との申し出に、応じる。断る理由がないから、という感じである。そして二人は互いの益となる物品を交換し、対話し、本心も打ち明けるようになり、最終的に息子がノクスへの憧れが自分への劣等意識に発していることもぶちまけ、それでも「キュリオは素晴らしい、君も素晴らしい」と言って憚らない彼に苛立ち、不満をぶつける。「じゃあその俺はなぜ幸せじゃないんだ!」「君の弱さは、君の問題だ。キュリオかノクスかの問題じゃない」冷徹に突き放す男の対応がノクス的だが、それでも息子に語り続ける男に、飛びかかっては投げられ、力つきて泣く息子。
 ある時、10年前の事件の張本人、息子にとっては叔父に当たる男が村に戻ってくる。そしてその事件と同じことをやる。息子と門番男が仲直りして、じゃれあっているのを見て、「何かもめ事ですか」と介入し、門番男に手錠をかけてしまう。「今、もめてたよな?」 そうじゃない、と言ってもきかず、「夜明けまで、1時間もないな」と言って去る。手錠を切るための一騒動、最終的には腕を切り落とすが、このあと叔父が現われ、この十年が何であったかが語られ、悪びれる事もない弟を制裁することを、姉は許す。息子と、娘の父が叔父にかかって行くが、最後には、門番が流した血にしこたま顔面を浸し、「何だ、これ、おい!」感染した男は悶え死ぬ・・・という一幕もある。
 そして、娘のノクス化を経て、息子が最後にとる行動は・・・・

 この作品は、「人は皆同じ」と、本当に言えるのか・・と問う。
 戯曲は差異・差別の視点だけを追うのでなく、「太陽から背を向けて生きる人種」としての悲しい宿命に、気づきつつあるノクスの「心」も描き出している。
 差異の克服という視点と、二分された両人種の本質的な差異という、この二つの視点が交錯し、示唆深い場面が重ねられて行く。 とめどなく流れる「人間的な」感情が、それとは異なる存在との対比で、これほど美しく目に焼きつくものだとは・・・・文句の言いようのない舞台。

 村に生きるキュリオの肌の色が、小麦色で美しかった。(特に両女優)

8月の家族たち August:Osage County

8月の家族たち August:Osage County

Bunkamura/キューブ

Bunkamuraシアターコクーン(東京都)

2016/05/07 (土) ~ 2016/05/29 (日)公演終了

満足度★★★★

ビッグサイズのウッドハウスは狂気を包み込む
ナイロン100℃以外のケラ演出舞台を初観劇。二度休憩の三場、三時間強の長丁場を丁寧な作りできちんと見せていた。
 麻実れいをキャスティングした理由が開演後まもなく知れる。ステロタイプ(麻実れい的な)を当てはめた感が最初はしたが、三時間、狂気と透徹を緩急をつけながら演じ切る「特権的肉体」はそう居ないのだろう・・・というか狂気・退廃をデフォルトで演じる役者は、と言うべきか・・・などと思う。
 大小の「事件」が、人物たちのヴェールを一枚一枚(時にバッサと)剥がして行き、なおかつ「事件」はご都合的でない。太い幹が現れてくる、というか、作ってみればこんな感じか・・と出来上がったパズルかミニチュアの街を、それでも感慨深く眺めてしまう・・そんな後味の舞台である。
 現われた風景(家族の)は、スキャンダラスで調和を望むべくもない姿形をしている。まあそんな現実だから、そうでない形を切望する人間というものでもあるな・・、と性善説的な要素は担保してあって、従ってスキャンダルをスキャンダルとして際立たせる狙いなのだとすれば、やや20世紀的古典と言える「家族神話」解体物語の文脈に位置づけられそう。 とは言え、真実が露呈する意表を突くタイミングや鋭いリアルさには、屈服させられる。精緻な模型には、「精巧であること」の価値がある。
 作品をみれば、2013年映画化された作品で、トレイシー・レッツは俳優から転身してこの作品を書いて上演(2007)、評判を呼んでブロードウェイ進出、トニー賞、さらにはピューリツァ賞を取ったという問題の作品との事である。同作家の舞台では、燐光群がやった「BUG」も秀逸だった。
 秋山菜津子のキレ具合を久々に堪能。

ゴジラ

ゴジラ

リブレセン 劇団離風霊船

ザ・スズナリ(東京都)

2016/05/18 (水) ~ 2016/05/29 (日)公演終了

満足度★★★★

初★離風霊船。なるほど。
伊東由美子を初めてはっきりと観た。
芝居・・・お茶の間と、ゴジラと、ヤッホー山彦君。ネタバレになるが、ゴジラは隠喩でなく「登場」する。という時点で既に隠喩的、ドラマなのだが、これは何の隠喩である、といった解説らしき言葉を一切使わず、作者はドラマを進めて行く。平易で、飾らない、ある種の演劇チックな台詞満載ではあるが、それも含めてみれば素朴な、お話と言える。現実味という点ではとうにメーターを振り切った展開でありながら、流れるのは日常の時間で(それが芝居を浮つかせない手綱になっている)、俳優は目いっぱい戯画的にキャラ設定して汗だくに演じるのに、どこか行儀のよさが恐らくは戯曲に備わっていて、あくまで真面目に突き進む人物の意思を作者は貫徹させ、最後にダメ押しのように実直な台詞を畳み掛ける時、どうやらこの「芝居」の骨のようなものが見えてくる。そんな具合にこの舞台の現象を楽しんだ。と同時に、座長の自在な演技者振りや、舞台装置の懲りよう、俳優たちの堅実な演技も堪能し、それらが報われた舞台であった幸福を覚えながら、劇場を後にした。
はっきり言えば、芝居の趣向になっている部分はしばしば古さを醸すのだが、「隠喩」の巨大な謎かけの引力が働き、その引きつけただけの回答を観客に受け渡す戯曲の強みがある。 

改訂の巻「秘密の花園」

改訂の巻「秘密の花園」

劇団唐組

花園神社(東京都)

2016/05/07 (土) ~ 2016/05/15 (日)公演終了

満足度★★★★

風物詩的と化した、くすんだ紅テント。お祭りだっ
状況劇場・紅テントの劇世界を、書物でしか知らない私は、その系譜にある新宿梁山泊、また唐ゼミ等でその匂いを嗅ぐのみで、唐組観劇は一昨年から今回ようやく3度目、唐十郎自身が営々と「芝居」を続けて現在に至ったその拠点集団で、一体何を繋いで行こうと意志し、そして何を残したのか、全く想像するしかない。今回、私は「出涸らし」という言葉がネガティブにでなく肯定的な微笑ましい意味合いで浮かんで来た。何かを変えたい!変えられる!そう願ったかも知れないあの世代の熱度は当然なく、しかし唐的世界の「おいしいところ」はこの芝居小屋に来て味わえる、そんな客のために、興行を続けて来ている。この先劇団の大きな飛躍はなく、唐十郎作品じたいいずれはネタが無くなる(再演は出来るが)。では何を渡し、何を継いで行くのか、それを模索し続けた何十年かの足跡だけは濃密にこの場所に眠っているのだろうと想像した。
 歌舞伎のように役者登場の際掛け声がかかるのも、この興行が季節ごとにやってくる名物となっているとしたら、相応しい。そこから深くて大きな、大時代なメッセージを受け取ることはたぶん出来ないし、そこが勝負の場ではない。唐十郎という作家の世界でしか存在しない人物像や、詩情も確かにあり、70~80年代にノスタルジーの対象となっている敗戦直後の光景や、当時(現在)の人々の織り成す光景は、実際の光景でなく「強烈な主観」が見せる光景である。だから時代の制約は逆になく、古さを感じさせないのはそのためなのだろう。
 もっとも、主要作品の時代設定は確かに古いし、道具の建て込みは精緻さとは真逆で、テント芝居の華であるラストのテント崩しも何となく「お約束でした~」で終わってる。(その点梁山泊などは大々的に感動的に作っているのとは、対照的。)慣れちゃってる、なのに続けているその足腰が、唐式に感じる謎である。
 初夏と秋の風物詩が、末永く続きますように。

 (アングラ小劇場運動の立役者でもあった蜷川氏が亡くなった。替えの効かない才能、唐十郎もその一人。)

ネタバレBOX

唐組で見た唐十郎作品はどれも初見で、その中では最も好きな戯曲だった。主役の青年の「性」に言及しながらもプラトニックな雰囲気、彼を翻弄する二人の女(実の姉と彼が訪ねていく家の妻=同女優が二役)の奔放さ、この組み合わせがすこぶる良く、男が記憶喪失なのか、場面じたいが彼の心象風景なのかが不明なまま話が進んで行く宙ぶらりんな具合も良い。
 答えがわからないまま、たまさか目にした風景や思い出した小さな出来事から、無限に広がる詩情が語られて、違和感が無いという不思議。
 彼を取り巻く人物たちも異形で、秀逸だ。夫=久保井研、殿と呼ばれる男=辻孝彦。辻氏の「殿」は、バカ殿よろしくちょんまげを立てて紋付羽織で現れるが、そういう存在である理由の説明もなく、台詞のリレー・ゲームを援助する。この「当然に存在する」風情が、これを成立させてしまう風情が、この芝居じたいの謎めき具合と共に、いわく言いがたい味だった。
クノセカイ

クノセカイ

劇団普通

Gallery & Space しあん(東京都)

2016/05/11 (水) ~ 2016/05/15 (日)公演終了

満足度★★★

初、劇団普通。
日本のラジオ・屋代秀樹氏のweb公開戯曲を取り上げ、「劇団普通」流演出を試みたという事のようだ。御徒町駅から徒歩10分ほどの木の門扉と庭のある日本家屋の二間を使い、観客は奥の間から庭の見える居間をステージとして眺める形。木造建築の中で演じられるイタリアのマフィアの話は、天然照明、音響無しで二時間弱、静かに、地道に場を重ね、ラストへと辿り着いた。「日本のラジオ」を二度ばかり観て、言葉少なく行間を読ませる映画的なタッチと、適度な「暗さ」が好感触だったが、本戯曲は変わり種。何しろイタリア人の名前を呼び合う。ジーナ、サルバトーレ、その中にファウストとクラウディア(ドイツ名)が出て来て、これは内容に絡むが、入り組んだ人間関係が、主に二つの時代を行き来する場面の積み重ねの末に、見えてくる。
 ただ、興味深いものはあった一方、それ以上踏み込もうという気を殺がれたのは、この近距離で(外からの雑音もあったが)台詞が聞こえないこと。極端な場合は「口パク」に等しい。的確な演技が為されていれば、声が聞き取れなくても抑揚や表情等でどうにかニュアンスを汲み取れる事もあるし、逆に効果的な場合もあるだろうが、実力あっての話。役者の半数が「超・小声」を駆使していたが、これが効果につながっていた役者は一名、他は小声と大きな声を使い分けて緩急があったが、気になった2名は終始小声で、しかも耳をそばだてて聞けば演技が必ずしも正確でなく、台詞もろとも沼の中である。
 それはあたかも地声を聞かれて人物像が壊れてしまうより、台詞を犠牲にしても「雰囲気」を維持するのが得策だと、演出なのか本人かが判断して、やっちまったかのようで。
そういう立ち姿じたいが、役のイメージ以前に俳優の心構えが問われるような問題になりかねず(誤解だとしても)、「聞こえない台詞」だらけにした演出意図は全く理解ができなかった。
 短いコマを重ねて縺れたヒモをほどいて行く謎解き型の戯曲の、種明かしの面白さが、全体としては見えてきたので難を逃れたという事だろうと思うが、俳優の努力が「声量」一つで泡に帰しかねない(私の中ではもう帰してしまったが)事例は、中々ないと言えばない経験だ。貴重な・・という事で。
 客の動員に難点があるものの、日本家屋で打たれる芝居の趣きは代え難い。過去観劇した三公演が思い浮かぶが、どれも良かった。今回も何はともあれ「場所」が良い後味を残した。

渇いた蜃気楼

渇いた蜃気楼

下鴨車窓

こまばアゴラ劇場(東京都)

2016/05/13 (金) ~ 2016/05/15 (日)公演終了

満足度★★★★

あ、蜃気楼。
タイトルが振りで、劇中符合する効果(観劇中は気づかなかったので効果になってないが・・)。冒頭の振りが最後に出てきて閉じられるパターンなど、戯曲とは振り(謎かけ)の回収(謎解き)である、とシェイクスピアなどを読むと思うけれど、また別の話(失礼)。
 昨年の公演は途中からの観劇で、リアル劇なのかどうなのか判別する材料を得なかった。今回拝見した結果、リアリズムである。が、どこか、その場面から浮遊してどこか異次元に飛ばなくもない雰囲気を醸す瞬間がある。微妙な、意図の判然としない、けれど鋭利な刃でサッと切れたような(流れる血にも気づかない)ドキリとする台詞があったり、不安定なシチュエーションが注視を促す。もっとも二人の男女にはどうやら信頼、そして愛がみえ、現在に影を落とす過去への言及を経て、ハッピーエンドである。過去の不幸な出産が台詞(のない反応)で仄めかされ、最後の景で影を払拭される訳だが、妻の心象風景を描いた芝居だったのか、とも思えたり、解釈を多様に許容する空白の多いテキストが、想像力をたくましくさせる。他の作品も観てみたいと思った。

演劇

演劇

DULL-COLORED POP

王子小劇場(東京都)

2016/05/12 (木) ~ 2016/05/29 (日)公演終了

満足度★★★★★

「空気」は周到に作られ、演出される。その極意。
感動はしても行動にならない、ぐっと来て涙が流れても本当の勇気は湧かない・・・そんな「演劇」どもをなぎ倒し、ここに確かに「演劇」屹立せり、と見届けた。良い芝居を見た後は笑顔で談笑も可だが、ここは旧交を温める場面にそぐわない。その場所を鋼の刃先に喩えるなら、居心地よく佇む場所では勿論なく、何処かは知らねど何処かへと促されて立ち去る場所である。活動休止は消滅と同じでないが、「なくなること」の視野で「演劇」がその本来の使命を探り当てようとして探り当てた場所なのだとしたら・・。
 舞台上で起こったことが全てで、他は要らない、と潔く去らせてくれのは、この芝居が「良い芝居」であるための点数はきっちり稼ぎながら、その余韻にではなく「演劇」が既に明白に導き出しているある真実のほうに浸ることを促しているから、だと感じた。(うまく言えないがそんな感じだ。)
 多彩な趣向はあるが色目使いになる事なく、ただ一つの目的に全てを集約した「潔さ」「硬質さ」が直球のように腹に来た。
 ダルカラは実はまだ2作目(谷賢一作は4作目)、俳優の顔も初めて間近で見た。個人的思い入れのある燐光群『ブーツ・オン・ジ・アンダーグラウンド』で特徴ある役をやった東谷英人が今回も核になる役に。とにかく‘物凄かった’渡邊りょう(悪い芝居)、これも初めて間近に見た‘できる’小角マヤ(アマヤドリ)など、各俳優がこのお話の中心にある「出来事」の周辺で渦巻くそれぞれ感情を、精度と熱度をもって表出した。かく導いている脚本力もさりながら、人間の複雑な感情を的確に表現する俳優の姿にこそ「格好良さ」を感じる「演劇」、これぞ「演劇」の鑑。
 ところで「演劇」とは食ったタイトルだが、劇中で「これは演劇です」の意味では使われない。少なくとも、人を食ったタイトルでない、とまで。後は劇場で。

ネタバレBOX

 子ども同士の「絵本」のような世界と、汚濁した大人たちのシリアス世界が並行して進む。いずれ二つは結合するが、子ども=希望、大人=失望・諦めという対比的な両世界の結合は、「絶望的展望」か~ら~の~「希望」、とはならない(なぜなら子ども世界のMが成長した結果が、大人世界のMだから)。だが、時系列を超越する演劇の呪文で、この後先は逆転する。(というか、そう見ることも可能。)
 子ども世界は寓話的で、台詞は大人の気の利いた言葉だったり、子供らしかったり、身体的にも観念的にも自由に飛び回る。この「子ども世界」に登場してくる車イスの少女、すなわち少年Mが恋する相手が、ゲスト出演者に当てられる役だ。今回は堀川炎、クレヨンしんちゃん系の雰囲気を醸していたが、「子ども世界」の要であり、演者によって雰囲気が変わる面もありそうだ。眩しいほどに輝く子ども時代の、その中のヒロイン役は、黒と白の対照の一方の極点として神々しい存在(大人世界8人に対し、子ども世界は3人だし、負担も大)。劇団女優降板の穴埋めに有力な助っ人を招んだのも納得だ。
 さて、「大人世界」はリアルでシリアスな息詰まる半密室劇である。とある学校、問題はいじめが絡むらしいが、複雑な様相だ。
 似たような、念押しのような対話の繰り返しごとに、「出来事」の輪郭が立ち上がる。そしてその「問題」はどういう力学が働いてか、悲劇的に歪められており、この力学に抗おうとする教師Mが葛藤する、そういう話。その意味ではシンプルな話だが、最後の主役教師がとる行動に、刮目すべし(「カムイ伝」のラストに匹敵する・・とは行かないが、「まんまとしてやられる」意味では同じ)。
 観客は、どうやらこの教師Mが辿り着いた感覚が正当である事を見分けるが、この感覚からの行動は貫徹されない。なぜか・・これを示しながら、問うている。果たして敵は何なのか・・・

 言えるのは、こうしてドラマ化されなければ(Mが葛藤しなければ)、「空気」というものは普段は見えない。我々の生活と同じく。
 空気を読み、空気に流され、無難に立ち居振るまい、必ずしも無難な選択でなかった事に、後で気づけば良いほうだろう。
 「空気」というものがその時、生まれ、流される光景を明瞭に示したこのドラマの最終局面は、ありがちなシーンではあるが、「空気は意志によって生まれる」、という事が重要だ。
 学校で自殺未遂をして救急搬送され、全身麻痺状態にある娘を、卒業式に出してほしいと、父親が土下座をして頼んでいるのに、否定されてしまう異常事態を、観客も受け入れてしまっている。
 この「演劇」には、この異常さを正しく認識し、行動する人物が登場しない。せいぜい、父親をまじえた会合をシナリオ通りに進めようと「打合せ」を厳しく取り仕切る上司に、「指示通りに動くのはごめんだ、自分の感じた事を言う」と、抗うのが精一杯。
 代わりに、その父親が行なった「いじめ」告発の過激な行動のお陰で、いかに児童が萎縮し、また「自殺」という行為によって児童たちが心理的悪影響を被っているか・・・学校や父兄側の見解が、まことしやかに語られるのだ。父兄代表のある男が「子どもたちの安全安心」のためと称して登場し、その「正論」の欺瞞が見え隠れする場面も描いてあるが、芝居の中では尻尾を掴まれない。
 その一方で、娘の父親がひとり、大声で謝罪し、何度も土下座をし、娘の思い(卒業式に出たい)を遂げたいと言い募っている。確かに血の気の多そうな父だが、周囲の冷めた、理解を示さない態度の中で、ただただ「お願い」を続けている。彼の存在によって、学校側の「不当さ」は際立たず、学校側の「対処」への真剣さが際立つ。
 ・・彼は娘の容態についても語り、辛うじて上下に動く腕で意思疎通ができるようになった、今彼女は質問に答える事ができる、食事のこと、そして卒業式のことも・・と、腕を動かしたその瞬間のことを話す。周囲は聞き入っている、が、「空気」そのものは動かない。彼の言う事は大勢に影響しないのだ、という「空気」がある。客席からこの「空気」の正体を読むに、その父親への「レッテル」だ。「この人はこういう人だからな。。」そんな空気。観客をも味方につけられない構造が「演劇」では作られている。

 さてこの「空気」なるもの。 ここでは、少女を学校に来させないように立ち働く上司の、使命感を語る口調や態度に影響されて作られているとも見える。彼の「意志」が、空気を作り出している。
 この娘の卒業式出席をめぐる問題は、対話によって解きほぐせば結論は変わるはずなのだが、そうならないようなうまい「立ち回り方」によって、空気が作られている(維持されている)訳である。
 ・・空気とは即ち、「対話や議論を省略して結論をたぐり寄せる」方法、であり、「空気」には、その結論へ導こうとする強い意志が含まれている。そして、その意志を感知した者によってさらに再生産される共有物である。
 安倍首相がテレビ番組に出たり報道にイチャモンを付けるのは「意志」をマーキングする行為で、逆に野党の露出を抑制するのは、「意志」を伝える回路を奪う事で、影響力を遮断しているのにひとしい。

 閑話休題、しかし観客は次第に「事実」を知っていく。どうやらあの親父の言ってるのは本心だ、何か復讐心や見返りを求めてこの申し出をしているのではない・・・そう十分に「認識」をする。その認識に応じるように、東谷演じる教師Mが自分の意思を表出しようとする。
 ところが、観客は「事実」として父親の証言を聞きながら、彼に全的には同調して行かない。十分に彼の証言が事実であり、彼の心境が自殺をはかった当初とは違った所にあり、「いじめ」犯人を告発すると騒いでいた頃とは異なる事が知れても、いやその頃とは異なる彼だからこそ・・つまり「いじめ告発」という武器を捨てた丸腰の相手だからこそ・・、その要求を拒んでも手前の利害には影響ない、従ってこれは拒否して正解だ、といった算盤を、私も頭のどこかで弾いていたりするのだ。 さもしいこの性は何だ。忌々しい日本人の血だろうか。
 だが、最後の最後に、父親の言葉はやっと届いて来る(まあ脚本上の工夫でもあるだろうけど)。そして、見事に覆されてしまう。
 会合において、上司の仕切りのきつい中でも、「自分の意見を言う」意思を貫いていた女性教師がいたのだが、その父親が娘をしばしば「叩いていた」という事実を本人から聞いて、態度を豹変させる。「自殺の原因を作った本人かも知れない父」の頼みは聞けない、という判断になってしまう。
 本来、その娘や児童にとって何が良いか、それが問題であって、父親がどういう人間か(尊敬に値する人間かそうでないか)など、関係のない事である。が、この豹変をきっかけに、校長と上司ら「体制側」は攻勢に転じ、「そんな重要な事実をなぜ今まで話さなかったのか」という問題設定が上位に来てしまう。
 皆「知らなかった」と答える中、Mだけは正直に「噂として聞いていたが本当だとは・・」と答えると、「そんな重要な事をなぜ今まで・・」と非難され、この指摘がその「空気」ではテキメンに効く。一方父親は既に認めていた事実を新事実のように訴追され戸惑いながらも、そのことを謝り、良かれと思ってやったが悔いていると語り、しかも自殺の原因がそこにあった可能性も否定しない、私の命に換えてもいい、娘の願いだけは聞いてほしいと、ボロボロになりながら叫び、泣き、土下座をするのだ。 が、「空気」は硬直する。
 さて、女性教師の「豹変」は、彼が「自分の思い」をぶちまけようとした直前の事であった。もし彼が本音を「ぶちまける」のと、女性の豹変に始まる「暴力」問題のくだりと、順序が逆だったら・・。
 異常さの密閉空間に、正常さの風が流れれば、問題はその重さに相応しい重さで語られたことになった事だろう。いや、そんな理想的な空気など訪れなかったかも知れないが、「マシ」であった事は確かだ。
 が、実際には逆になったのであり、おそらくこれも、女性教師の「空気」に対する反応であった、という意味では自然な結末であった。

 この結末の後では、いかな「演劇」とて、打つ手はない。「こうならないようにしよう」と、ただ思うだけである。時間を逆戻しにして、オルタナティブな結末へ導く、そんな演劇的手法も有りと言えば有りには違いないが、これほど的を射た「結末」は後からどう覆そうと、きっと虚しいだけである。
 虚しい呪文を唱えて、舞台上で実行する「演劇」と、ここで言う「演劇」は、違う。
 ・・過去の(覆せない)悲劇的な事実を、舞台上で覆してみせる、そんな演劇がある(戦争を題材したものはそれにあたる)。そういうドラマになぜ涙が流れるかと言えば、まず「悲劇」が前提となっており、これをハッピーエンドに置き換えることで悲劇性が際立ち、「それをわれわれは悲劇と感じている(望んでなど居なかった、という悔悟)」証左と確信する、そんな甘い共有空間が出来るからだ。要は「悲劇を思い起こす」時間である。戦争はそれに相応しい、皆が共有できる素材であり、それはそれとして、意味のある事ではあるだろう。
 だが、事を「未来」に移してみる。未来を作るのは、他ならぬ私たち自身だが、「これから作って行く場面であり風景」である意味での「未来」と、「演劇」は相似・同義・同質ではないのか。
 その問いかけがこの芝居の最後に叫ばれるスローガンにはある。ただし、願えば未来は変えられる、といった一般論・励ましだけ抽出するのでは殆ど意味がない。
 「空気」というものに克てたためしがなく、ほぼ負け続けの私たちが、この芝居でのリアルな(あの)結末を直視せずに、その未来を語ることは虚しい、という事なのである。
 残念ながら、「空気」に抗わず、「空気」と対峙する場面を回避しながら、より良い未来を手にすることは「自己暗示」以外には無理である。残念ながら。
 自立した「個人」の総和としての、相対的に正しい「全体」を作ることが出来るか・・それがこの華々しい終演の背後に、もたげている問いだ、と受け取った訳であった。
  ひどく主観的かも知れないが、私なりの解釈だ。
楽屋~流れ去るものはやがてなつかしき~

楽屋~流れ去るものはやがてなつかしき~

燐光群アトリエの会

梅ヶ丘BOX(東京都)

2016/04/27 (水) ~ 2016/05/10 (火)公演終了

満足度★★★★

燐光群「楽屋」の楽。
二度目の投稿。燐光群キャスト別バージョン、最終日を観た。中山マリが女優Cの年齢を20歳も上回る設定でやはり見事に演じた(「あれでもう40よ」を「あれでもう還暦よ」と変えて笑わせていた)。
 一方で、役のキャラ・年齢等から相当離れていたとみえた女優A(樋尾麻衣子)。声の塩梅(がなりと抜きの組合せ)、怒りの演技が若い(「泣き」の入った怒り・・幽霊歴からして達観に至っていてもおかしくないのに)など、正直気になっていた。
だが。千秋楽でそれらも含めて全体がひとつの環に収まり、一つのあるべき「楽屋」が立ち上がっていた、と感じた。渡世人「斬られの仙太」の見栄切りつつの物言いも、低音にならない持ち声を駆使して必死に演じてひるまず、思わず涙が・・(もろいと言われればその通り)。
「人のいい」キャラへの憾みを終盤ようやく真情吐露して一個の人格を現わす女優B(松岡洋子)。 狂気にひとしい「役」への異常な執着と、人間的な感情を行き来し、古参幽霊にとっての小さな希望の種らしい佇まいもみえた女優D(宗像祥子)。 絶妙なバランスで一つの環ができ、そこに、私としてはいまいちそぐわなかった「三人姉妹」の語りでの行進曲の選曲が、芝居と融合して聴こえてきたものである。
かくして、「楽屋」の日々は終えり。謝謝。

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