ゴンドララドンゴ 公演情報 燐光群「ゴンドララドンゴ」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    終わってみれば坂手ワールド
    正直な感想。坂手式構築による脚本は、揃えたネタの量は毎回唸らされるものの、その「用意した」ネタで、タッパのある建造物を作る、毎回の新作じたい驚きではあるが、これまでは俳優の脚本の咀嚼が追いつかない、という印象があった。今回は脚本をどうにか築けた、俳優の仕事の比重が大きかった、という印象だ。もっとも、今回の芝居のテイスト、漂う空気は大変好きであった。
    脚本話の続き・・・それなくして成立しない関係で結ばれた各要素が、全体で一つの世界を成すのが完成された戯曲、という事からすると、たとえば「ゴンドラの歌」の言及などは無くても良い気がしたし、「そぎ落とし」にかけて良い部分が2,3残った、粗さのある脚本だったな、という印象は否めない。
     だが演出・演技の面は瞠目させられるものがある。「クイズショー」で用いた舞台使いを今回も用い、基本素舞台で(静謐とは程遠い芝居だが)さりげなく美術が美的に貢献している。(何もない舞台に椅子一つで美しいのがスズナリ。)
     でもって、俳優が面白い位置取りをするこの美術の特徴が、今回はより生きて、今の燐光群の双頭?大西氏と猪熊氏による滋味溢るる二人芝居が、ごく至近距離で展開する。客席と地続きの「空気」が台詞と演技、そしてこの至近距離での関係に生まれている。
     物語は、燐光群にしてはファンタジック、しかも手垢のついたと言える物語のモデルを、どこかで見たという気にさせないのが流石。 ただ、演技が変わるはずの二名の演技が変わらない(変えられない?)ので、人物の関係性が甚だ判りづらかった点は、やはり工夫したい点だった。
     かの80年代から、巡り巡って時が経ち、「至近距離」のシーンが戻ってくる。あの二人と、そして・・(世代の継承)。
     今なお、どっこい存在している「ゴンドラ」の上で、時を重ねた上にある「現在」をかみ締める者らと、それを見上げてそれぞれに感慨をかみ締める人々。客席からは、至近距離の俳優の体の隙間から、遠くの人々が覗いてみえる、その構図も味である。
     この芝居に流れる「気分」は、末期的な時代をわれわれは生きている、という感覚で、そのコンセンサスが終始流れている。時代に対して思想的なたたかいを言論という形で挑みかけている構えが、言葉にならない次元でずっと地下水のように低周波数で流れている。
     今作の戯曲には、メタシアター、というか俳優が自己相対化する台詞が書き込まれている。冒頭のあたり、「演劇」のことが話題にあがり、現実の俳優としての彼らが「観客」について語りながら、客席を眺め渡すと、舞台は「現実」の時間と地続きになる。亡くなった蜷川へのオマージュ的な話題、アングラ出身なのに商業演劇に・・など笑えるネタが、燐光群としては珍しく「俳優が素で喋って成り立つ台詞」として組み込まれていて、しかしながら演技は「芝居を演じている」態を決して崩さずやり切る。
     舞台と客席との風通しの良い自在感と、厭世気分(‥の中にも望みを見出そうとする暗い決意‥)が、絶妙に両立していた。

     芝居じたいは乾いた言葉の応酬で疾走感あり(それでも2時間超え)、追うだけで疲れる舞台だが、「今この時代」というものを敏感に意識させる演劇。現在を呼吸して生まれた今この時のための演劇だと、感じた事であった。

    ネタバレBOX

    個人的には客演の尾崎太郎(「楽屋」フェスに演出で参加)を舞台上に発見したのは驚き。東京演劇アンサンブルの演技のイメージはある意味特徴的なので強烈、それが燐光群のポンポン繰り出す事を要求される説明台詞に「心」が追いついている感じが、逆に新鮮。
    アンサンブルを観てきたゆえの個人的な感想だろうけれど、妙な感覚で興味深いものがあった。

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    2016/07/29 02:55

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