tottoryの観てきた!クチコミ一覧

1241-1260件 / 1809件中
廃墟

廃墟

ハツビロコウ

シアターシャイン(東京都)

2018/03/13 (火) ~ 2018/03/21 (水)公演終了

満足度★★★★

ハツビロコウが初めて(?)鐘下辰男作品上演劇団の枠を出でて、三好十郎の重厚な議論劇に挑戦、なるほどと期待。私の結論を言えば、三好十郎のこの戯曲は、ハツビロコウの術は手に余った、であった。もっとも、それを言っちゃ古典戯曲の読み直しなどできない・・そんな声も聞えそうだ。焼け跡のまさに占領時代に書かれた戯曲を現代に「演劇的翻訳」するための何らかの策があったとすれば、それを具現するに技量が及ばなかったという事で、何が必要とされたのかが見据えられれば今後の挑戦にも光がさすだろう。そんな思いで辛口評を記す。

『廃墟』の近年の秀でた舞台は何と言っても2015年東演+文化座合同公演(もっとも他の「廃墟」は知らないが)で、小さな劇場の観客の目に堪える演技を、特に若手二人(対照的な兄弟二人)がやり切っていたのが記憶に新しい。
鵜山仁演出は、敗戦後の乾いた土と焼け朽ちた木、周囲を囲む植物的なもので舞台を覆い尽くし、「家」であると同時にそこが家屋の態を成さず「外」に通じる曖昧な空間(つまり囲いが無い、が外界とは一定の距離を保っている雰囲気)を作り、俳優をそこに置いた。これは生活を営む場の物理的な質感を出し、また思索の場にもなっていた。
敗戦後に残された道義の問題、責任の問題(1948年当時の情報で少なくとも作者の中で意識された問題)が示され、同時にこの問題が、2000年代の今も解決を見ていない事実が立ち上ってくる・・言わば戯曲の的確な読解と、現代への「翻訳」が為された舞台であった。
この2015年の「廃墟」がどうしてもモデルとなって立ちはだかり、見比べてしまう。

今回の舞台は、新劇サイドからの(正統的)アプローチでも、独自の方法論に基づく実験的アプローチというのでもなく、直感的に舞台を作って来たハツビロコウが、言わば自らを探る途上、新たな土俵で勝負した舞台、という風に言えそうだ。
だがハツビロコウ特有の、己を追い込んだ先に漏れ出るようなギザギザした発語が、この作品のテキストを通すとカバーしきれない部分が多かった。
シアターシャインの制約(左右の袖・壁に出入口が無く、奈落からの出入りしか使えないこと、舞台の奥行きが狭いこと)が、特に奥行きの狭さはマイナスして見えた。中央のテーブルの下が戦前あった地下防空壕に通じ、地盤が緩んだので修繕を行なっているから、これとは別の左右の床に空いた穴はこの“家”への象徴的な出入口かに見えたが、「天井裏」の設定に変えたのだとすれば、ここは「比較的自由に人が出入りできる家」というセミパブリック性を帯びた空間でなく、密室となってしまう。議論の口調は密室空間に親和性があり(ハツビロコウの得意技)、浮浪者の闖入は解釈不可能なまでに浮いてしまう。そうでなくやはり地上一階の床の上なのだと見れば、モードが密室であるのと齟齬がある。密室モードは、議論が起きればそれが人々の中心に置かれてしまう。何しろ他の関心事は台詞に書かれていないのだ。台詞が吐かれるところ、その言葉が舞台の、ひいては舞台上の人物全員にとっての関心事であり中心に据えられる、というのは家族のあり方にはそぐわない。鼻の頭を掻く者がいてもよいし、家族の営みを阻害する「議論」を行なっている事への疚しさが発語の端々に滲んでいたり、従って議論(というか口論)は舞台のどちらか片側でやっていればよく、でも厭でも耳に入るから家族皆に険悪の空気が伝染したりする。そのグラデーションの描写がこの舞台の条件では困難である事が、私には重要に思えた。父の本心吐露に至って家族はそれを中心にして存在する、という事がある・・こうして家族を描く、という側面が私はこの戯曲では非常に大事で、人物や集団の文脈を潜って出て来る言葉が、火花を散らすことで議論の言葉でなく「人物」が描かれることに帰着する・・この舞台が目指すべき地点はそういうことであったのではないかと思う。
まあオーソドックスではあるが、戯曲の台詞がそのように書かれている。その中からピックアップしたい議論、テーマがあったなら、それを軸にして改稿、翻案して上演するのが妥当だろうと思う。「廃墟2018」と題するだけの上演を貫くコンセプトが欲しかった、という事になるか。

おとうふコーヒー

おとうふコーヒー

劇団銅鑼

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2018/03/09 (金) ~ 2018/03/18 (日)公演終了

満足度★★★★

銅鑼は確か一度、3年以内に観ていた。野宿者支援グループの話で、ホームレス支援にまつわる若干緩めのエピソードを組み合わせたドラマだったが、味のある中心的役者の風情によって奥行きが深まり、ラストの強烈に明るい照明も劇的効果を上げ印象深い舞台になった。
社会性のある人間ドラマという括りでは、今回も同じ、老人ホーム(特養)が舞台の、死を間近に待つおばあさんと、何年振りかに訪ねて来た彼女の孫との交流を軸に進むドラマだ。
まだよく知らない青木豪氏演出への興味、詩森ろば脚本で「残花」が(戯曲を読んで)良かった事で、銅鑼との相性の良さにも期待して、足を運んだ。(詩森氏の新ユニットSerial Numberからの推薦メールも後押し。)

性的マイノリティという、ドラマの中心に据えても良い強い要素も傍流としながら、谷田川さほ演じる祖母の最期の「看取り」の日を中心に、まだ彼女の元気だった3、4年前の回想場面とを行き来し、現在の「台風の夜」での右往左往もシーンとして挟み込みながら、その嵐もやんだ嘘のような静寂を漸く迎えたとき、終幕(祖母にとっても、芝居にとっても)に向かって観客と演者とが一になる瞬間が、作れていた。
台詞量のない主役の人間味が、前回観たのに続いて、キーであった。
舞台は、入所者の終の棲家として類例のない試みを行なう岡山県の実在のホームが下敷きになっているという。スタッフや出入りの者らの個別エピソードも、そんな輪(和)の中に包まれ、自らは多くを説明しないお祖母さんの人格が、俳優自身の佇まいや表情でにじみ出ていた。
基本は喜劇タッチのストレートプレイという所で、若手(孫役と、トリマーの世界に幻滅した傷心女性)に、真摯に物事に向き合う役を負わせるハートウォーミングなドラマの範疇に収まるが、このフォームに収まろうとするのが「下心」な芝居とすれば、銅鑼の芝居は、役者自身がそのフォームから、役もろとも飛び出そうとする心の動きが・・見えたら本物だなァ・・そういう場面が幾つかあったなァ・・と、静かな感動に委ねてみて良いと思えた。

なお前説は谷田川女史が、スピーカーを通して(多分録音ではない)携帯電話の電源云々の挨拶を行なう。これが矢鱈フレンドリーで、完成された挨拶となっていた(岩井秀人に次ぐ和ませ技)。

ネタバレBOX

惜しむらくは・・シーンの年代を見失う事があったこと。
舞台が想定する特養の広間だかの正面下手寄りの壁には、「今日の日付」が手作りの模造紙で掛かっており、転換時には「2017年9月16日」(だったか?)とあるのが、年の部分の札を取り替えて「2014年9月16日」などとする。
この欠点は、それが大して目立つ張り紙でない事もあり、年の一桁部分だけを取り替える「動作」を、他の転換の動作に紛れて「気付かない」ことがある点だ。年代が変わっても、場所も同じだし椅子やテーブルなどセットも殆ど変わらない。(現在の時間になった時だけはベッドが中央に出され、祖母が寝ているのでよく判るが)
日付の取替えだけは転換作業の一番最後にやるとか、あるいは月日も変えるとか・・。盲点だったのか、あるいは私の観た回では一度取り替えミスをしたので、混乱してしまったとか・・。
もっとも話の大筋は最後には見えて来るので大きな事故ではないが、少しの改善で済むものならば是非。
父

雷ストレンジャーズ

サンモールスタジオ(東京都)

2018/03/07 (水) ~ 2018/03/11 (日)公演終了

満足度★★★★

まだ誕生間もない雷ストレンジャーズだが、過去演目から戯曲チョイスの傾向に気付く。欧州産の強い自我がなぞる人間の苦悩や滑稽を、普遍的言語にしきる強い作家的意志が立ち上る舞台。言語化されたそれは赤裸々な人間告発にもなっている。
今回で3度目になる雷観劇で、通して印象づけられるのが(戯曲チョイスに並び)俳優の演技、発声のある傾向。動作とともに発語させ、発語=行為である事を徹底させる「負荷」による役者の四苦八苦が、「噛み」や声量アンバランスにも表れたかと推察したが果たしてどうか。ある種の独特な統一感が魅力ではあるが、雷の本領とする所はこの先もっと見えてくるのではないかと、静かに期待している。

勧進帳

勧進帳

木ノ下歌舞伎

KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)

2018/03/01 (木) ~ 2018/03/04 (日)公演終了

満足度★★★★

杉原邦生演出版「黒塚」がキノカブ初体験の私は、「勧進帳」がその原型だったと発見。さりげなく現代の風俗・風物をしのばせた登場(即ち衣裳、言葉遣いなど)から、切なく歌い上げるラップ入りラブソングまで、趣向を盛り込みながらも「勧進帳」の読み直しを貫徹させる。その事によって逆に原作に忠実たらんとする誠実さが滲み出てくる。時代を現代に見たり義経の生きた当時に見たり自在に軸足を変える事のできる仕掛けは、主要人物以外が敵味方(義経側、頼朝側)双方の家来役を演じる形態や、弁慶役の外国人俳優が片言で関西弁を喋る面白みなど。それによって俳優は「媒介者」と位置づけられ、観客が能動的に想像力を使うべく誘導されていた。
感情の高まりがストレートに伝わり、ずっこけたりしながら物語に乗り、結末へと連れて行かれた。最近の私には珍しく睡魔が一瞬も訪れなかった(だから何だという話だが)。

罠

俳優座劇場

俳優座劇場(東京都)

2018/03/09 (金) ~ 2018/03/17 (土)公演終了

満足度★★★★

俳優座劇場プロデュースでは最初に観た「12人の怒れる‥」が素朴に良かったので、名作レパには期待してしまう所がある。
「罠」は作品じたい初見、脚本の良さの上に、舞台化の成果が審査されるというどうも演目らしい。観てみると、やはりネタバレに慎重なコメントは正しい感覚だと納得し、果たしてどう感想を書くかと考える。
しっかり作られた舞台だった。最後に全てが客の前に示されるので、これからご覧になる方は安心して最後まで見よ‥というのも妙であるが、その事から逆に考えると、この演目の課題は最後で矛盾を来さない程度に、何かを特定しない限度で、ある事態が進行しているようだと、(皆目霧の中ではなく)ある想定を可能にするように、演じられ作られていなければならない。「良い演目」とは言え、これは中々難しい。ヘタにやれば最後にやっと納得したがそれまでは三文芝居としか‥‥そんな感想をもらう代物になりかねない。
加藤忍演じる役も最初こそ収まり悪くみえたが、次第にらしく見える。皆がそれぞれ謎を湛え、今確信に満ちた動線を見せたのに謎が深まるという不思議。
コメディタッチではあるが、人物が覚える恐怖心に共振することもあり、そうした部分が舞台を見応えあるものにし、終演後もその感触は快楽として刻まれている。

埋没

埋没

TRASHMASTERS

座・高円寺1(東京都)

2018/03/01 (木) ~ 2018/03/11 (日)公演終了

満足度★★★★

この舞台、「悪くないナ」と思った、という記憶は残っているが情景を思い出すのに時間を要した。その理由はTRASHMASTERS、という索引文字に付着したイメージでもって脳内検索しても引っ掛からないから。「埋没」のタイトルが珍しく内容と合致していたなァ、、という記憶から手繰ってダムに行き当たり、漸く埋もれた(早っ)記憶の蔓を引き出せた。持って回ったようだが、ストレートプレイの秀作の雰囲気あり。別にあちらが高尚で、こちらが二流という訳ではないが(B級的とは言えるかも)、バタ臭い中津留節(ひどく正しいのだが)を俳優が吐いても崩れないものがあった。
今回の客演者の役へのハマり度数、団員による新傾向の役への挑戦、戸外と屋内双方を同じ装置で表現する美術、照明の重厚さ等等、印象深い部分が優った。
「ムツカシイ」問題を細部に留意して描出しようとすれば「世の中簡単じゃない」要素の波に飲まれる。単純図式化するのは割合簡単だ。殊更な悪や敵(としての態度)を登場させ、それに抗わせるのが常套だ(そのうまい処理は、それらの風景を、ある者の主観がもたらした幻影、かもしれない、としてまとめる方法)。今作も親の時代と子の時代(現代)を描き、ダム建設反対運動の「運動としての輝き」(純粋さ)と分断の悲劇、建設が既になされてしまった敗北の今を、そのまま見つめるものになっている。反目して別れたかつての親友夫婦同士が、その子の世代において相見える展開は、希望だが、双方は親の思いをしっかり身に受けていて、和解が目的化していない以上、物語が単純にそこに向かう担保はなく、それによって救い上げようという事でもない。そう願うのは観客の私たち自身であって、人物らは、私たちが「気持ちよくなる」ために、心温まる結末を与える訳ではない。いやそれでも十分に温かな情景は垣間見えるのだが…。
過去シーンの百姓はどちらも若めの夫婦にみえたが、その一方の妻が自分の人生では考えもしなかった「金」がチラついた瞬間から中毒のように感覚を蝕まれ、狂っていく様子を演じた客演女優の貢献大。

eyes plus「鳥公園のアタマの中」展

eyes plus「鳥公園のアタマの中」展

鳥公園

東京芸術劇場アトリエイースト(東京都)

2018/02/27 (火) ~ 2018/03/04 (日)公演終了

満足度★★★

超短編『蒸発』2バージョン。鳥公園の観劇は過去3回程度か。三鷹、STスポット、アゴラ・・。最近のは逃している。「蒸発」は以前買った戯曲集に収録され、短いのでざっと読んだのだろう、何か思い出す部分があった。

今企画は各出し物1度切りの陳列展、のみならず、「作る」過程を見せるのだという。・・例えば「蒸発」の場合、なんと当日の朝に初めて顔合せて製作の作業をする。
色々と矛盾は感じる。上のような仕業は20分程度の演目だからやれるのであって、他の60分以上の作品でも同様なのか? 過程を見せる事じたいは良いとして、その意味は何だろう・・。というより面白さは? work in progressは「面白い」からお金を取って見せるのだが、どんな面白さを放つかは様々だろう。演劇は時間をかけただけ、面白さ、深さが増す、という事で言えば当日の朝集まって決めたものを「出し物」にするのは安上がりだが内容もその程度のものだろう、と思う。少なくともこの日の出し物は、そうだったと私は思う(言わば、ハズレ)。ただし私はトークまで見られなかったので、(出したものの後付け解説にとどまらない)面白い内容があったとすれば、大事な所を見逃したことになるが。
振付師・ダンサーの手塚夏子バージョンが、朝から行なった作業は、身体パフォーマンスではなく、戯曲の改稿。そしてそれは中途で終わってしまったのだが、改稿された部分と、残りの原文を「読む」というパフォーマンスになった。だが朗読ではなく、単に読む、淡々と文章を観客に紹介するにとどまる。しかも改稿の中身は、ト書きに当る部分がほとんどで、つまり人物がどのように佇み、動くかという、振付の言語解説のようなものだ。それをもって身体動作に変換する、という事を観客は脳内で行なうことで初めて、これはパフォーマンスとして成立する訳なのだが、読みがあまりに淡々と、それも小さな声量でなされるため、像が実を結ばない。その後西尾演出バージョン(2人登場)をやり、再度手塚バージョンをやって「出し物」部門は終わったが、2度とも同じ深さで私は眠ってしまった(残念)。「淡々と【改稿した戯曲】を読む」のではなく、どんな舞台上の風景を手塚氏は思い描いたのかを「客に想像させる」(少なくともその意図だけは伝える)パフォーマンス、であるべきだった。(もっとも手塚氏は喋りのプロではなく、読む出し物に決めた時点で限界抱えてるわけなのだけれど。)
一方の西尾演出バージョンは、二人で台本を持って読む。身体性も意識されていると感じたが、「意識してるヨ」という、まァ稽古の取っ掛かり程度にみえた。このバージョンは目的を「完成」に据えた上演の方向が見えた。しかし・・プロセスを見せるという「目的」が与えられた二人は、これをどういうモードで行なったのだろう。何を求められているのか、は明確だったのか。結局解説を聞いてみなければ分からない、「見せる」部分では自立できない出し物だったと言う事だ。
ただしこの作品じたいが難物なので、どうやろうが何だかよく分からないもの、にはなってしまったろう。
そう考えると、プロセスならば稽古風景を見せのが一つの正解ではないか。実際本番を目指した公演ではない以上、それも矛盾を抱える事になるのだろうが、「想定」して進める事がやれない演劇人ではないだろう。そこで上演にまつわるあれこれを役者とやり取りすれば、それはそれでかなりネタばらしを強いられる事になるだろうが、価値(値段)は高まるだろう。
その場合であっても、やはり時間を積んだだけ面白い議論に繋がるだろう事は確かに思う。

ネタバレBOX

色々と考えさせられたが、結局終わった後で最も頭を占めたのは「如何に安く上がり、入場料収入でどの程度黒を出したか」だった。(大変失礼な見方だがそれが頭にこびりついたという事実)。疑念を呼び込むのは私の下衆な根性か、それとも、、
まほろばの景

まほろばの景

烏丸ストロークロック

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2018/03/01 (木) ~ 2018/03/04 (日)公演終了

満足度★★★★★

何年か前に公演を見逃して以来気になっていたが、漠然と想像していた路線を更に越えた領域に達し、これは好きな世界である。どう咀嚼してよいか判らずまだ手つかずだが、拐われ連れて行かれた場所は冷厳な風景で、心は驚愕に震え、頭は驚嘆で雀躍した。

上野動物園再々々襲撃

上野動物園再々々襲撃

演劇集団プラチナネクスト

ザ・ポケット(東京都)

2018/02/16 (金) ~ 2018/02/18 (日)公演終了

満足度★★★

感想を書きそびれていた。文学座主催の年輩者対象の演劇教室出身者を中心に作った集団で(だから坂口氏が演出も)、客層の中で自分が完全に浮いていた。
金杉忠男作品を実は一度も観ておらず、今作は平田オリザ脚色とはいえ何か原作の片鱗を嗅ぎ取れるかと思い、観劇。だが舞台はほとんど平田の現代口語演劇。セミパブリック空間である喫茶店風の飲食店に人が出入りする一場物で、音楽なし、最後はアカペラの歌で切なく盛り上がる的展開も、ひたすら平田オリザ作品であった。
俳優は例外なく一定年齢以上、若い役も助っ人を借りずに自前。さすがに無理のある役もあって、作品を優先するのか団員活用優先か、外部協力を乞うか自前でも完結できる作品を探す(作る)か、いずれかにしたい。
演技は下手ではない。ただ、そこそこ、という線を越えられない。途中「巨大な」間が空いた。注意力というより頭脳が追いつかなかったか。
心中あれこれ呟きながら眠気と闘って観ていたが、戯曲が導くものはあって最後の「劇的」瞬間は形作られていた。
・・そもそも平田戯曲をやるとは難敵に挑む覚悟なはず、前段での複数同時進行の会話も一応乗り切っていた。台詞は日常のトーンで喋る。日常っぽさのリアルを醸すのは感情の激する演技よりも難しい。というか、日常に近い身体状態にはなりやすいが、平田戯曲が要求する微細な変化を微細に表現する「作為」は、激烈な感情表現のそれと同じく高度に思われ、大変苦労されたな、とは思うが果たしてその伝える所を理解して上演に臨んでいるのだろうか・・?とふと思ったり。

ネタバレBOX

客の事をどう思っているのか?という疑問は、客席の上段二列程を残して分割する格好で左右のドアに通じる通路があるのだが、後方一列目に関係者の子供が椅子に乗って離れるとバタンと鳴って座面が上がるのを面白がって遊んでおり、前方ブロック最後列に座った私がチラと見ると付き添いの大人がすぐ退場させていた。一応気遣いがあるな、と思っていると、受付手伝いの関係者だかが途中入場してきて(人を案内している風もあり、その日だけの関係者ではないと思われる)、興ざめなドアの開閉音を何度も鳴らし、極めつけは、ラスト、次に拍手、というタイミングで(つまり芝居を終えた事を噛み締める無音の瞬間)、後方ブロックに座ったその関係者たちが一斉に立ち、バタンバタンと鳴らしてしまったにもかかわらず「しまった」「すみません」の一言も態度も「間」もなく、恐らくは送り出しの任務につかねばとばかりにドアの開閉音まで無遠慮に鳴らして去って行った事。関係者からリスペクトされない芝居のあり方はどこかで考え直した方が良い。この事が帰り道に最も考えたこと也。
深夜特急

深夜特急

オフィス3〇〇

ザ・スズナリ(東京都)

2018/02/18 (日) ~ 2018/02/27 (火)公演終了

満足度★★★★

鉄道員の父を題材にした鄭義信作の一人芝居を楽園で観たせいか、小宮氏扮する鉄道員の幕開き登場が抵抗r=ゼロで舞台に馴染む。渡辺えりらしくあれこれ錯綜して混沌とするも、空気が薄まって白みがかる綱渡りな時間あり、だが綱は渡り切り、最後には涙。ストーリーそのものよりも、ストーリー説明を借りた断片が色んな人生のモンダイや人間社会のモンダイを立ち上らせる、その瞬間の印象が強烈なのだろう。ぐぁーっと拡散濃縮する宇宙の鼓動みたいな?何かを感じさせる。悲話ではあるが救いと癒しの話。

夜、ナク、鳥

夜、ナク、鳥

オフィスコットーネ

吉祥寺シアター(東京都)

2018/02/17 (土) ~ 2018/02/24 (土)公演終了

満足度★★★★

戯曲を読んで観劇したかったが結局読まず。女優らの存在感。簡素な舞台。ドラマは日常と犯罪の背中合わせ。中年女友達三人の、それぞれの日常、そこに新たに「友達」に(自発的ではないが)加わろうという女性に「一線」を越えさせる局面で、園子温『冷たい熱帯魚』の同様の場面を思い出した。秀逸な話だが、以前コットーネでやった『海のホタル』が同系統に思われるが、こちらは何場面かを掛け持ちする装置がリアルに作られ、日常を残すその風景に「犯罪」が重なると戦慄を覚えた。今回のは象徴的な装置だから、場面を作るのは役者の身体一つ。瀬戸山美咲の他者作品演出は初めて観たが、私が想像したよりうまく処理していた。ただ大竹野作品の「喜劇」面は出ていたが「猥雑」がもっと加わりたかった、と思った。

真実

真実

文学座

東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)

2018/02/24 (土) ~ 2018/03/05 (月)公演終了

満足度★★★★

渋谷はるかの居ないOn7を観、本拠地文学座での立ち姿を初めて観て、やっぱりいいなと思う2月の宵。喜劇にして辛辣。真実と嘘を巡る実験の被験者=主人公が約一名浮かび上がって来る。二組の男女の間にあった真実が最後に謎解かれると同時に、真実と嘘を巡る議論の作者なりの結語も明らかになるという良く出来た戯曲だった。お目当ては渋谷女史であったが、出だしの男性との会話では声量の差が気になった。が、喜劇調には心地よく歯切れよい声、その中で渋谷女史は真実味を帯びたナチュラルな佇まい、この存在が、笑うだけの喜劇で芝居を終らせなかった、かな。会場にはOn7メンバーの姿もあった。

『毛美子不毛話』『妖精の問題』

『毛美子不毛話』『妖精の問題』

Q

STスポット(神奈川県)

2018/02/14 (水) ~ 2018/02/18 (日)公演終了

満足度★★★★

Q久々二度目の観劇。『毛美子不毛話』:武谷氏出演の二人芝居、濃くなる。との期待を超えて、「異化」部分をブリッジに、あり得る本音ばなしの変則表現。一人称で語る主人公は女性、その他多数を演じる武谷が背景(もっとも主人公から分化した存在としても登場するが)。際どい?奇妙モードの場面も妙にはまって面白く見た。
周囲に求められる/自ら求める目標値と現実との落差が人を懊悩の日々へ叩きやる。その心の見る現実だか幻影だかが、「こんな夢をみた」式オムニバスでない一個の人物にまつわる光景として、その多相なありようとして見えてきた。
「渾身の作」という言葉に、この作品は相応しいと、当日パンフに作演出のコメント。そうだとすればそうかも知れないと思わせる痕跡はあった。

-サテライト仮想劇-いつか、その日に、

-サテライト仮想劇-いつか、その日に、

福島県立相馬農業高校飯舘校

アトリエ春風舎(東京都)

2018/02/11 (日) ~ 2018/02/12 (月)公演終了

満足度★★★★

東日本震災の被災県から高校演劇の作品が招待される。幾つか目にしたが実に多様で(その中に飴屋氏の「ブルーシート」も位置づけられるのだろう)、興味深い。
本作はサテライト校という我々には耳慣れない呼び名で呼ばれる学校の内、元の場所(避難勧告解除となった原発周辺の地域)にこの3月に「戻らなかった」唯一の高校の演劇部が、僅かな部員で作り上げた「その日」を仮想した作品。
原発事故から既に7年、十代の学齢期にとってこれは長く、サテライト校に元あった場所の避難民が通う率は低く、殆どが地元(福島市)から通う生徒、しかも他校に行けない受験生の滑り止め校となっている。たとえプレハブ作りでも、こうして地元に「根付いた」学校が元あった飯館に、実際に戻る学校の生徒が作る演劇であればまた別の意味合いを持つが、この作品は「仮想」して作られた事により逆に観客の想像力を刺激し、単に学校の移転の問題にとどまらない視点へと導く。
演じるのは4名の高校3年生、下の年代は居らず、今期で演劇部は廃部となるという。キャスト4名の内役者として所属していたのは二人、他の二人はスタッフ志望だったのを舞台に立たせた。脚本は2016年赴任してきた顧問により、早速部員に提案され、その時点から作り始めたものだという。決して上手とは言えない彼らが丁寧に、必死で演じて紡がれる物語が次第に、和紙をすく時に厚みを持ち始めるように、確かなものになり、涙しないでいられない場所に連れて行かれる。全国大会にも出る事になった・・最初は予想もしなかった事になったと、トークで生徒が述べていたが、無欲な彼らと「演劇」との関係が恐らく優れた「伝達」をもたらしたと、実感を裏打ちする証言だった。「終わっていない」事故、「これからも続く」社会、人生。

ヒッキー・ソトニデテミターノ

ヒッキー・ソトニデテミターノ

ハイバイ

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2018/02/09 (金) ~ 2018/02/22 (木)公演終了

満足度★★★★★

ヒッキー・カンクーン・トルネード再演を遠方まで観に行きホクホクだったのを思い出しつつ、必見枠の本作(これも再演)を観る。俳優に恵まれた、とのパンフでの言に同感。古館寛治も楽しみだったが体調不良でこの日まで降板、代わりに登板した松井周について岩井氏が冒頭で説明し、2日で台詞を覚えるなど「我々のレベルになれば」訳ない、が、敢えて逆に「台本をもってやる」という風にしてみた、と言う。いきなりドッと笑いを取っていたが、実際そうなのではないか、と疑ってしまう瞬間があった程、「台本持ち」が芝居上邪魔になる事は凡そ無く、最終的にキーとなる役を「彼の方がハマり役だったかも」と思えるまでに松井氏は演じていた。という一事も感動に拍車をかけたかも知れない。
岩井秀人らしい、繊細な問題の中に人間の公平や共生や互酬や、関係の根源を問い、それが人間が「今存在する」ための全てと言って過言でないのではないかと考え始めさせる芝居。役者それぞれの演技の面白さを追求した方向性が部分を担って全体を魅力的に仕上げている。
岩井演じる引きこもり支援施設で働き始めた男性の物語上の位置取りがズルい(「ある女」に通じる)感もあるが、フェリーニ「道」以来普遍的なテーゼでもある。
笑いと深刻、情緒が別々に存在せず互いが表裏に密着している。

喜歌劇『天国と地獄』

喜歌劇『天国と地獄』

オペラシアターこんにゃく座

俳優座劇場(東京都)

2018/02/08 (木) ~ 2018/02/18 (日)公演終了

満足度★★★★

「天国と地獄」はオッフェンバックによるオペラで、スタッフ欄をよく見れば「編曲」寺嶋陸生・萩京子とあった。
原曲のある作品。音楽が作品性を決定する、と言って間違いでない芝居(こんにゃく座も)があるが、これはこんにゃく座のでなくオッフェンバックのオペラにこんにゃく座スパイスをふったもの、と言うべきもの。
山田うん振付、杉山至美術と、先鋭的な舞台を期待させるスタッフ陣が目を引いたが、私の目では、この振付、美術、こんにゃく座従来の色、その他の(加藤直の?)色が主張しあってツゴツとぶつかっている。新作に久々に取り組んだ構成演出の加藤直は原作の「何でもあり」の徹底した喜劇力を頼みに包み込もうと考えたのか。ドリフの寸劇の混乱のラストや、滑稽も極まれりのタイミングで終える落語のような、ダイナミックなオチのない場合の「着地」が最大の課題で、そこがうまく行かなかったために心からの拍手にならなかったように思った。 
色々引っ掛かる事の多い舞台だったが、無時代のありきたりなドタバタに終らせないための手を尽くした実験舞台と言えるか。ただ「現代」に響かせたかったとしたら何がポイントだったか。楽曲は既にある。勝手気儘な意見を許されるなら・・、知られた楽曲以外は脚色でなく新たに詞・曲を付ける。また杉山至の地獄の美術はどう曲げてもデスメタルを誘引する。パロディ的にでも挿入する手は無かったものか。
天国地獄に共通するのが意匠としての巨大な額縁で、天国では正面に「絵に描いたような」清潔さ、悪く言えば四角四面で面白みがない・・(もっとも前半の現世場面でもこの額縁はズデンとあるのだが)、休憩中に組み替えた地獄の装置は、この額縁がひん曲がった状態で横たわっている。そして最後には地獄からの道行に使うための台状の橋が、額縁の反りあがった部分を潜って、下手奥から上手手前と置かれる。凡そ50cm位か、低ければ置く意味がなく、高すぎると額縁が歩行の邪魔をするので已む無くその間を取った寸法と見える。この装置が色んな面で失敗に思えてならなかったが、橋を「上を歩く」と「下を歩く」という物理的機能に狭めず、この台が地獄を象徴する大事なアイテム、くらいに祀り上げる効果、役者の動きとしては装置と絡めたムーブなりが欲しかった気がした。「後ろを振り向いてはならぬ」の道行きに至って、ああそのためのものかと理解するが、途中で切れた道では結果バレバレ(「後ろを振り向かずに」渡りきれるかどうかを見守る場面は「夫婦とは添い遂げるもの」かどうか、即ち芝居のテーマに関わる趣向であるのに、渡り切れない事が判ってしまうのは興ざめ)。

オペラ楽曲を歌うユリディス役のハイトーンボイス(ベルカント唱法?)を聴くに及び、この一座が基礎力に裏付けられた人間の集団である事を思い出す。普段のこんにゃく座の舞台では中々披露されないこの声が響けば一芸披露の趣き、拍手もので、お得感あり、となる。祝祭性と皮肉と、後者を狙ったが前者のベースが堅固で、完成には一歩届かず。もっとも「完成」とは何か、という話もあるが・・

ネタバレBOX

互いに別の良人を持つ熟年?夫婦の末期的関係を、修復する使命をおびた天界の者(狂言回し=セロンとヨロン)が、その使命を言明して劇は始まる。夫人が思う羊飼いは実は地獄のプルートーで、騙され命を差し出してしまう。何だかだで天国の場面、ところが夫人が居ない。議論の末、退屈な天国をおさらば、地獄へ行こう!と気勢を上げて列を組み、賑々しく退場して幕。
休憩後に地獄の場面、どうやら幽閉されているが鍵が掛かって開かない。夫人の心を目覚めさせるには、、鞭の音でなくキスの音。そこは天界のジュピターの変身術に期待、任せておれと蠅に化けて鍵穴から侵入し、スキンシップを図ると夫人は何かに打たれたよう。「可愛い蠅」を発見すると、惹かれ合い思い合って抱き合うまでに至る(サイズがどうなっているかは不明)。そして夫人が表に現れると、音楽教師の夫の弾く忌まわしいヴァイオリンの音。
だが、結局の所最後に夫婦は修復「しない」のだ。
このオチを面白く迎えるには、修復する風向きがあったり、物語上のモチベーションを持ちたいが、それは希薄。物語の定型をも茶化した原作の展開だが、「予想を裏切る」「引っくり返す」と認識されるだけの「別の予想」がくっきりと示されないので、今一つ意外性を味わう事ができない。今、「自由」を唱えるだけの「不自由」、それも男女間の恋愛の不自由があれば一つのモチベーションだし、関係修復しないと困る事があるのであれば、修復へのモチベーションになるがその点が希薄。それがこの演目の弱点。
見よ、飛行機の高く飛べるを

見よ、飛行機の高く飛べるを

ことのはbox

シアターグリーン BOX in BOX THEATER(東京都)

2018/02/14 (水) ~ 2018/02/18 (日)公演終了

満足度★★★★

最初に戯曲を読み、後に青年座公演を観、そして今回。三つの体験の差異について考えてしまうのも、秀作戯曲である故か。青年座のは男の演出家、今回は酒井若菜という名からすれば女性に思われるが、性差のためかどうかは分からないが実は随分違う所があった。
青年座は広い舞台で喜劇タッチに描き、ベルエポックと呼ばれる大正の「良き時代」を振り返るノスタルジーの背景の上に、暗鬱な時代の予兆という色の線が引かれる感じがあった。二兎社じたい大人の喜劇色がある。
だが今回の小劇場での上演には、台詞の一つの活かし方としての日常性が相対的に減退し、全寮制女学校の生徒にむしろ相応しい緊張感が漂う。逼迫した物言いが「劇的」を増すありがちな様態とも言えるが、それぞれのエピソードがそのドラマ性を凝縮して提示されている印象だ。それは「時代」の色彩にも及び、女教師が芝居後半で取る行動がそれを余す事なく伝える。(大逆事件とその時代背景が脳裏をかすめる自分特有の見え方なのか、歴史をそれほど知らない者にも届いたのかは、判らないが。)
喜劇タッチは経験を重ねた役者が演じるのに力量的にも合致するとすれば、この作品の中心である女学生を演じるに相応しいのは彼ら年輩ではない。一々、激情の迸るのがこの作品に相応しい光景で、私は今回最も戯曲世界を具現した舞台に最後には思われた。
初見の劇団だが、秀作戯曲をきちんと舞台化する、という自分の中の予想に違わず。
プロデュース公演の常、来歴異なる人らが集う人間交差点の様相を終演後のロビーは呈しており、良い舞台なればこそ。だが一期一会の淋しさも。

かさぶた

かさぶた

On7

小劇場B1(東京都)

2018/02/03 (土) ~ 2018/02/11 (日)公演終了

満足度★★★★

新劇団所属30代女優のユニットOn7。渋谷はるかは不参加だったが6人のパフォーマンスを観る。台本の無い、物語ではない出し物は、コンテンツを揃え、うまく配置し、最後に余韻を残すように作らねばならない。身体を使うパフォーマンスは70分でも十分に濃い。若さを持ちながらも、老いへの道が確かに見える女30代の心の揺らぎ、希望と憂い、ある安定の中の所在無さが見えてくる表現だった。
土の上を素足で跳ね回る。土煙が湯気のように体から立ち上るシルエットが終盤、逆光の照明で見え、終演後にティッシュを当てると頬や鼻の穴は真っ黒。カーテンコールで「しっかり拭いて下さい」と低頭していたのは誇張でなかった。
ともあれゼロから自分(たち)自身をよすがに「伝えたいもの」「表現したいもの」を探り出し凝縮させた結晶である。パフォーマンスについては、漠として掴めない箇所もあったが、残像が後まで残る作品である。
他公演では未見だった渋谷、尾身、保以外の女優の中で、このかん観た印象的な舞台が蘇った女優も居た。この人数でのユニットが着実に精力的な企画を出し続けるのは珍しいのではないか。今後どんな形で何時まで続いて行くのか、荒波を超えて行って欲しいなどと、更に肩入れしてしまっている。

2030世界漂流

2030世界漂流

小池博史ブリッジプロジェクト

吉祥寺シアター(東京都)

2018/02/03 (土) ~ 2018/02/12 (月)公演終了

満足度★★★★

数年前web上でパパ・タラフマラの名を知り、どうやら評判のユニットらしいので「みたい!」と公演を調べたのが、解散前=最終公演の楽日前日だった。ニアミスを悔いてから数年、小池という人がそうだと耳にして、漸く鑑賞に至った。
ベースは舞踊だが、舞踊の割合を削って、多要素(音楽、演劇的シーン、うた、大道芸=ジャグリング、またはそれらを組合せたもの)を配置している。これには「舞踊」を一要素に過ぎなくする、つまり舞踊のステロタイプを解体する意図があったのでは・・と推測した。私としては、歌やジャグリングがあっても全然良いが、もっと舞踊としての完成、全うを欲するところ、そこに至ってくれず、寸止めで終わるという感覚であった。
パパ・タラの過去動画を見ると、やはり様々な要素・・音の変化に応じた変化、静止画として見せる場面(演劇的に凝縮されたシーン)、歌(ホーメイやブルガリアンボイス的な奴とか)などが舞台にぶち込まれていて、今回の出し物が確かにその延長にあると感じさせる。が、違いがやはりある。過去作品は舞踊の発展形としてではあるが「あるもの」を表現しようという目的への集中が明確で、アートであった。
一方、今回は「世界漂流」というタイトルが示唆する「寄る辺なく漂う我々」のありようにイメージを重ねる事はできるものの、世界を線(あるいは面)で切り取る作業の果てに見えて来る「何か」は、ぼんやりしている。
意味的に同じ線(方程式の傾きが同じ)が引かれて行くせいか、像が絞られて来ない。
もっとも抽象表現を受け止める受け止め方は多様にあり、ど真ん中を当てられた人もいたのかも知れないが・・私には少々抽象度が勝っていた。
「集中」という事で言えば、舞踊のベースに上モノを乗っける作業でなく、ベースが何であるか判らなくしている、という面があっただろうか。しばしば「歌う」場面になるが、本域で、あるいは日常感覚で、歌ってしまうと「演劇」的、「舞踊」的には弛緩の時間となる。時間というテーブルの上に、歌を「かぶせる」「浸潤させる」でなくただ横に並べたに過ぎなくなったのではないか。
パパ・タラ時代と異なる様相が生まれたとすれば、方法論じたいにその問題が含まれていた、という事ではないか。・・勝手な推測だが。

俳優たち。仏、フィリピンかインドの外国俳優2名と、個性ある風貌・体型の俳優ら十余名が、舞台上にほぼいつも居た。一旦はける事はあるが比較的すぐ出て来る。一つの絵を作る構成要素という意味があるのだろうが、例えば演劇的な場面が作られると、不要な人員がコロスのようにそれを見ていれば良いと思うがそれがなく、動くにせよ動かないにせよ、やはりそこで「芝居」をしている。従って総員が何らかの役を演じるという具合になっている。その時、実は各人は何らかの役を担って存在し続けていたのだ、という事になる。それは、全員が一場面を作るのでなく、各所でそれぞれ何か芝居的な関係を展開させているため、少なくとも皆一つは役を当てられているのだろうと推測させられるし、実際そうだと思う。
この役たちの物語が、演劇としての説明が足りないために十分に展開しない、というのも憾みである。
パフォーマー達の力量は確かだが、舞踊として完結しきれなかったのは全員が踊る事にしているので、(不得意な人もいるだろうから)多くを要求できなかったためだろうか、あるいは実はダンサーは少なかったのかな、など、あれこれ考えてしまった。(それにしては巧いが。)
舞台上に誰も居ない時間が、ほとんどないのは落ち着かなかった。居る時はほぼ全員居り、場面転換時に一旦皆がはけたりすると、漸く一区切りつくという感じになるが、程なく一人、また一人と現われて来る。舞台全体として「何か」を表現するというより、出演者のための舞台?
気持ちの良い動きや場面も沢山あったから良いではないか、と思いもするが、やはり何か不満が残ったというのは、何だろうかと考える。

それでふと思ったのは、舞台というのは、演劇は特にそうだが舞踊であっても、その場でその時間を過ごした共感が即ち「感動」の中身なのではないか。もっとも、感動をすぐ言葉で分かち合う事は難しいかも知れないが、人に喋りたくなるその体験は、例えば客席に自分一人しか居なかった時、同じ感動が起きるかと想像すると、「自分一人に見せてくれた」という別の感動はありそうだが、つまりは、何らかの共感を体験したという確信が、「感動した」という感情にとって重要なのではないか。
・・何が言いたいかと言えば、「解釈は人それぞれ」と突き放されると感動が薄まる理由は、「今どういう体験を共有したか」の確信が萎えるからではないか。共感・共有は、その表現が意図する「良きもの」を確信に変え、日々の力とするためにこそ必要であり、演劇が尊い芸術である所以はそこにある。
従って、私はこのパフォーマンスで例えば、「我々は厳しい時代を生きている」、あるいは「我々はどこに向かうのか何もわかっていない」、または「我々の時間とはこの世界を漂流するという事に他ならない」・・何でもいい、そのどれかを観客と「共有」できたと思えたらきっと嬉しかったなぁ。
実際、何の比喩であるのか分からないパフォーマンスが多かった。比喩を狙っていないのかも知れないが。

iaku+小松台東「目頭を押さえた」

iaku+小松台東「目頭を押さえた」

iaku

サンモールスタジオ(東京都)

2018/01/30 (火) ~ 2018/02/04 (日)公演終了

満足度★★★★★

関西の劇団iaku横山拓也氏が小松台東・松本哲也に、自作の宮崎弁バージョン演出の話を持ちかけ、実現した舞台という。
緒方晋出演に萌え、千秋楽に出向いたが、その緒方氏は「よそ者」役で標準語だった。喋りが緒方晋弁なので当日パンフの作者横山氏のコメントを読むまでは気付かなかったが。。
方言を殊更エキゾチックに、ノスタルジックに用いている訳ではない。ただ、東京は遠く、「地元」との折り合いを探ろうとする「地方」のリアルが胸を締めつける。
細かく行き届き、笑い所もこまめに仕込まれた、私には珠玉の舞台になった。サンモールスタジオらしい舞台(と、どなたかが書いてた気がするが全くその通り)。小さな小さな、半径何百メートル位の話が、人生というものに私達が抱く大きな感情を包み込むようなドラマとして立ち上がっていた。
(俳優としても)朴訥とした女子高生役(小川あん)と、その相手となる性格好対照の従姉妹役(納葉)のやり取りに始まり、終わる芝居だ。高校卒業後の進路をめぐって東京対地方の構図や、家族問題がからまり、生徒数の少ない学校での教師との微笑ましくも奇異な親密さや、タイトルと関係するこの山間の町の風習なども要素となってドラマを動かす。
冒頭、二人が何気ない会話から無言の「含み」をきっかけとする暗転になるや、私は早くも胸に何かが去来し、「ちょっと涙もろくないか」と自分突っ込みをしながら見始めた。脚本のちょっとした無理にも今は気付き、評価は甘いかも知れないが、この時の幸福感は翳らない。

このページのQRコードです。

拡大