記憶の通り路 公演情報 東京演劇集団風「記憶の通り路」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    名前だけは随分前に知っていた劇団。何と言っても目を引くのが<レパートリーシアターKAZE>なる自前の劇場だ。アトリエを持つ劇団は多いが、間借りのため制約があったり、古びたそれらとは一線を画して、表に高々と看板を掲げた十割自前な劇場である。大久保通りを背にして右手にある天井の高い展示スペース(普段は舞台装置やトラックでも収納しているのだろうか)の受付机で受付を済ませると、左手の建物の1階入口でなく、幅の広い外階段を昇って行く。幅が広いせいか?負担感がさほどない。体感的には2・5階ぐらいか、入ると階段式客席の裏手で、ぐるっと前に回って客席へ登っていく。そこにはこの劇団が望んだ理想的なサイズの劇場空間があった。水が張られた長方形の背後に板があり、照明を当てられた水面の波紋を映して絶えず影が揺れている。天井高く周囲は黒の闇に吸い込まれている。開演後「板」は動いてその浅いプールの屋根となったり、上へ引っ込んだり・・舞台上の視覚美が一貫して保たれ、詩のような幾つかの場面が重ねられていく。
    さてその舞台。今年は30周年企画として数公演を掲げ、今回は何年か前に話題となったタイトル『なぜヘカベ』の作者による新作(この作者のものは幾つか上演している)。チェーホフ、ブレヒトと海外作品を中心にレパートリー上演を重ねる劇団の今回の上演は単体で評価できないものがある。(→ネタバレへ)

    ネタバレBOX

    実に沢山の演劇の「形」がある。私が「演劇」の範疇と捉えているのは、現実の飽きたらなさからやむにやまれぬ思いの発露として現前したもの・・芸術は皆そうだと言えるかも知れないが、そうなのだと思う。
    耽美的な舞台、美しさだけを目指したような舞台も、その狂おしさは時間と共に移りゆく現実が美をそこにとどめおけない無常観に由来すると感じるし、結末の見えるような人情芝居もその背後に人の情に与れず去り行く人の背中を想像すれば(ご都合主義が勝ったものも当然あるが)舞台上に美談を作り上げたい動機も分かる気がする。
     と来て、強引だがこの段落で今回の芝居に視線を移す。
     抽象的な表現だし戯曲である、と大括りできる。海外の作家のものでもある。ただしこの作者の作品を(書下ろしで)上演し続けている劇団である。レパートリーシアターとしてあろうとする劇団にとっては、今回の新作も、新たな鉱脈を探り当てようというのでなく、この作者と仕事をし続けている、という側面が重要だと思われるのだ。
     私自身はこの作者の過去作品を一作も見ず、それは今回の舞台の理解にとって当然不利な条件だが、「初見の者に不親切」との理由で不平を言う気になれないというのが正直な気持ちである。
     「言葉」もさる事ながら、舞台上の造形もそれに劣らず抽象的で、何より美的である。そこに何が込められているのか、テキストとの関係が不明である以上この造形を評価する資格もないが、一つだけ敢えて言えば、地上10メートル(くらいはあるだろう)に設置された劇場空間の独特な味わいと、可能性に強く印象づけられた。

     もう一つ、「?」を残したのが役者。「語り」を担う者の佇まいがあったが、演技者という佇まいに見えなかった。感情移入を「しない」形象を意図的に行なっているのか、どうなのか・・そのあたりも独特な後味である。
     冒頭に戻れば、独自の方法論やこだわりは「現実世界に一針刺そう」という気概と裏腹であるに違いない、などと想像してしまうが、残念ながら今回の観劇のみではこの劇団の核を捉えられず。要再訪である。

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    2018/09/04 07:28

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