遺産
劇団チョコレートケーキ
すみだパークスタジオ倉(そう) | THEATER-SO(東京都)
2018/11/07 (水) ~ 2018/11/15 (木)公演終了
満足度★★★★
先の「楽園」でのプレ企画(公演)の、本編に当たる2時間強の力作。
桟敷童子・原口健太郎出演ならそれだけのものが(戯曲に)あるに違いない、と期待させるだけエライ役者だが、そこを頼みに観劇を決めたが当たりであった。
劇チョコの本格芝居を一年振りに観た。
黄金バット~幻想教師出現~
劇団唐組
雑司ヶ谷鬼子母神(東京都)
2018/10/27 (土) ~ 2018/11/04 (日)公演終了
半分癖になりつつある唐組テント芝居。あの安っぽいというか乱雑な装置や、場末な雰囲気に、惹かれている自分がいるとでも? だが気まぐれに出かけて良かった。ここ何年かで観た数本の中で随一。かつてあった時代の熱気を呼び戻そうなどという企ては、多分ナンセンスの部類だと思う。だが時代にではなく、それを求める一人に、またある状況に応えるために演じ続けているという事なのか・・そんな事を思った。正直言えば今までは物珍しさに覗いていただけだった。
千秋楽。後方操作ブース脇に座った御大唐十郎の存在に誰も気づかぬ振りか、知らずか。鮨詰めにされた桟敷の人口密度も楽日で最大だったろう。舞台からは何やら知れない迸るものがあった。
今回も唐の文体炸裂であるのは当然として、後半見えてくる風景にはいつも以上に胸を掴むものがあった。主人公は元教師で、死なせた生徒を思うゆえにその後教師を辞め数奇な、というか珍奇な道を辿り、経めぐって今、民間学校「風鈴学級」を立ち上げようと再び「生徒ら」と相見える場面。唐十郎の芝居で初めて涙腺が緩んだ。唐本人はどう見ているだろう、と後ろを振り返ったが陰になって見えなかった。だが美しい場面は一挙に反転、「待ってくれ」と追う青年。女は、皆がふり返るのを「見た」。女(藤井)と青年(福本)、正体不明の男(久保井)のトリオが「黄金バット」の存在可能性を共有する無二の仲間で、危機が迫れば誰かが助けに現われるというのも勧善懲悪の少年漫画「黄金バット」的で判りやすいが、これが現代的なテーマと融合し、最終幕での屋台崩しは祈りの形を刻印して満場の拍手であった。
『ソウル市民』『ソウル市民1919』
青年団
こまばアゴラ劇場(東京都)
2018/10/14 (日) ~ 2018/11/11 (日)公演終了
満足度★★★★
「ソウル市民」「ソウル市民1919」の順で連日の観劇。二作とも、ソウル(京城)で文房具を商う篠原家の居間が舞台で、韓国併合前年の1909年のある一日の「日常」、そして十年後の三一独立運動の1919年3月1日当日の(さざ波程しか立たぬ)「日常」を描く。
青年団にとって「ソウル市民」は1989年の作、所謂現代口語演劇を世に出した記念碑的作品との事で、「1919」は約十年後の2000年だが、姉妹編の趣。10年という歳月がもたらした篠原家の変化より、「変わらなさ」が強調されているのに対応し、芝居の作りのほうも相似形となっている(舞台装置、人物構成、配役も)。
以前戯曲をどこかで読んだかした時の印象は何だかスカスカで何もなく、生身の役者が演じたら変わるのかな・・そんな印象だったが、確かに俳優が演じるとそれだけで面白い。のではあるが、やはりスカな印象は残った。
それは平田オリザ作品に共通するある雰囲気(実はあまり好みでない)もあるが、この作品固有の理由もあった。後者について少し言えば、植民地時代の朝鮮半島という舞台で、日本人が現代日本の感覚で存在し、台詞もある程度現代的である、というのはパロディとして成立するが、このテーマを扱うなら当然にあるべき植民地化の主体と客体との間の緊張関係が、この芝居に登場する朝鮮人との関係にはなく、といって日本人側がその関係に無自覚なのだ、という事実では回収しきれず、朝鮮人を演じるのも日本人感覚で良い、という手法が果たして妥当なのか、疑問が湧く。というか感覚的に違和感が否めず、手抜きに見えてしまう。
現代を設定したドラマにおける現代口語の効果と、この芝居での現代口語の効果は異なる事を示しており、この芝居が打たれた時のインパクトは実はこの時代設定と言語とのギャップにもあったのではないか、などと想像する。そうなると現代口語演劇なる代物は違ったものに見えてくる。
The Dark City
温泉ドラゴン
ブレヒトの芝居小屋(東京都)
2018/10/15 (月) ~ 2018/10/21 (日)公演終了
満足度★★★★
来年3月で40年の歴史に幕を閉じる芝居小屋での上演とあって駆け付けた。雛壇式のオーソドックスな客席は初めてか、久々で新鮮。八面六臂のシライケイタ氏の人脈か、俳優・劇評家多数来場。今回出演しない阪本篤も会場整理に出て、客席が収まった頃、4人が舞台上に並び、開幕を宣した(5分押し)。
敗戦直後の1948年に埼玉県本庄町で起きた住民+朝日新聞記者と暴力団の「闘い」の軌跡を通して、民主主義、ジャーナリズムとは何か(何であるべきか)を問うた舞台。
交錯するのは、事件の舞台、朝日記者らの逗留の場所となった老舗旅館が廃業し、取り壊しを迎えようとする「現在」。取り壊しの知らせを聞いた次女(清水直子)が20年ぶりに長女(みやなおこ)、弟(いわいのふ健)、老いた父(大久保鷹)が住む実家へ戻って来る、という場面が冒頭である。物書き(劇作家か脚本家か)で都内に住む次女と、実家のある地方に住む家族との確執など、「現在」のドラマは展開するが、中心は、事件の時点では旅館の長男であった父。彼を媒介して過去が蘇り、民主主義のためにペンと住民の団結で勝ち取った精神を眩しく振り返るという構図である。シライケイタ氏の脚本では、過去を照らす「現在」のドラマは完結したとは言えないが、「過去」を現在のように立ち上げる手法は演出と相まって成果があった。
大久保鷹がストレートプレイな場面で役者としての真価を発揮するのを非常に興味深くみた。
ニューヘアスタイルイズグッド
壁ノ花団
すみだパークスタジオ倉(そう) | THEATER-SO(東京都)
2018/11/02 (金) ~ 2018/11/04 (日)公演終了
満足度★★★★
受付の人に「再演か新作か」を訊ねると、確か「新作」と言った。実際は再演だった。
初めて味わう新感覚。「不思議ちゃん」と人格で名指したくなる芝居だ。
私が観た回は演劇人の客が相当数来場と見受けたが、その注目の芝居は型破りな文法で、作者なりの苦悶はあったのだろうがそれが見えず、客に媚びる瞬間は1秒もなく、気高く、妙な終わり方をしていたが言葉を言い切る快さが残った。達者な俳優にも助けられ、テキストの不思議ちゃんな風合いを醸していた。
初見の劇団だが嬉しい出会いである。
ああ、それなのに、それなのに
名取事務所
小劇場B1(東京都)
2018/10/12 (金) ~ 2018/10/21 (日)公演終了
満足度★★★★
別役実の新作公演。別役の痛快なる面白さを知った別役実フェス(3~4年前になるか)での名取事務所「壊れた風景」(真鍋卓嗣演出・下北沢小劇場B1)と演目以外同じだ。一年にわたったフェスで二本の新作が上演、その後は・・あったっけ? 病に臥しながら一劇作家が生涯に書く戯曲数の記録を、未だ更新し続けているんである。
日本版「不条理劇」作家と言われながら、別役実の作品は、奇妙な言動や展開に対する謎解きが後半にあったり、比較的「普通」なやり取りの結果としてたまたま奇妙な事になって行くというケースが多い。不注意や無関心、逆に強い思い入れなど、個々の個的事情が絶妙に組み合わさる事で奇妙な状況へと進む、言わばコントの要素がある。その不注意や無関心等の中に「それがためにかくなる事態になれり」を示唆する要素も当然ある訳だが、作家ご当人は作品に「狙い」(教訓?)が見えるのはよろしくないと考えておられるフシもある。
長い模索の辿り着いた先だろうか、それとも老境の為せる技だろうか・・今作は展開の飛躍の度合いが桁違いで、作者は散乱したそれらを終り近くで回収しようとした様子も窺えるが、回収し切れず、ピカソのようで遺跡の壁画のような、抽象画がそこに置かれた。
仄かに、人物連関図の「外部」(不知の領域)が肥大していくイメージがあり、予測できない外部からの関わりにどうやら翻弄されている人物らは、その事で視野が狭まり疲弊している事には気づかない様子・・今の日本の疲弊と政治的無気力が体現する一つのイメージと見える感触があった。「意味」から見放された世界(ディストピアと言って良いように思う)へと向かう予感でもある。
しかしこれを担う役者の働きは大きく、らしくない?顔芝居を見せていた森尾舞がこの「奇妙な世界」に貢献していた。
授業
SPAC・静岡県舞台芸術センター
静岡芸術劇場(静岡県)
2018/10/06 (土) ~ 2018/10/28 (日)公演終了
満足度★★★★★
1950年代に発する不条理劇の代表的作品の一つだが、作者イヨネスコの名も、戯曲も、かつて持て囃されたのと同様の感化力を頼むだけの霊力を持つわけではないと(他の上演の例から)思っていた。西悟志演出は見事にこの「古典」戯曲を現代に立ち上がらせた。演劇活動をこの十年行っていないと観劇後に知って驚いたが、宮城監督が奇才と呼びブランクを押して依頼した価値は少なくとも実証した。老教授と若い女生徒、女中の三人芝居だが教授を三人の男優で演じ、女中にはスタッフの一人が正にスタッフ然として扮する(事実その通りでカーテンコール3回に姿を見せず4回目で漸く呼び掛けられて登壇していた)。明快な演出方針が十二分に生きた舞台だ。
起用された菊池朝子の痛快なムーブも含め、絶えず動き回る教授。三人が分担して三分の一の負担、とはならない。広い舞台の奥のカーテンから登場して、客席側中央に置かれた台(2×1.5間位?の椅子が2台乗った主要演技エリア)まで、役の交替のためにスタスタスタスタと歩く距離は長い。また二人、時には三人のユニゾンやら台詞一節ごとのリレーやらをやりながら、女生徒を追い詰めて行く教授の狂気を表現する。
「狂気」・・初演当時は記憶も生々しかっただろうファシズムの不条理さ(滑稽さというニュアンスも感じられる)が、この作品の中に表現されたと人々は感じたに違いない。理屈もへったくれもない論理=無意味な言葉の羅列を捲し立てて女生徒を心理的に組み敷いていく過程がそれである(戯曲には冒頭のト書に女生徒は始め快活だが次第に弱々しくなり、逆に教授は始め丁重だが徐々に威圧的になる趣旨が指定されている)。
女中が序盤と途中、くれぐれも興奮しないようにと忠告に来たにも関わらず、口うるさい母親を遠ざける駄々っ子よろしく耳を貸さず、自らの快楽を貪るように「授業」に入れ込んでいく教授。最後には生け贄を殺してしまうが、これを何度も続けている事が、その後処理も任されている(買って出ている?)らしい女中とのやり取りに仄めかされる。ちょうど前戯から挿入、終着の射精に至るプロセスに似ている、という感想は男性特有のそれだろうか。。だがある面権力の甘味さは性欲を含めた人間の欲求に直結するもので、教授はまさに権力を行使する事を欲し、事実そうしたと見える。解釈はどうあれ、ここでは教授が嗜癖のように「授業」を繰り返していた、との事実が露呈する。
これに対し、西演出は戯曲にないシーンを最後に付加する。これについては好みや賛否もありそうだが、戯画化された惨劇である本作を、作者の意図はともかく娯楽のまま据え置いた数十年を怠惰として、更新する事を潔しとしなかったという事でもあるだろうか。趣向にはやや照れもあったに感じたのは、読みの浅さかも知れない。
初日、俳優の一人二人は動きをこなしながらの台詞が危うい瞬間もあったが、さすが乗り切り、世に二つないゲージツを生み出していた。大満足である。
キネマの神様
秋田雨雀・土方与志記念 青年劇場
紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)
2018/09/14 (金) ~ 2018/09/23 (日)公演終了
満足度★★★★
>思い出し投稿
青年劇場らしい笑いあり涙ありの、少々「出来すぎ」な人情喜劇、それが休憩込み3時間という長丁場。にもかかわらず最後までだれる事なく興味深く観た。
ドラマの太い柱は映画愛。それも都内の名画座(モデルは飯田橋ギンレイホールとか)が舞台となっている。映画「ニューシネマパラダイス」の各テーマ曲がオープニングから随所に流れるが、曲負けしない内容である。古き良きキネマの全盛期から変貌を遂げた映画産業の現状にフォーカスした点も、ある年齢を超えた層にはウケが良いだろう。もっとも映画は演劇ほど周縁化されてはいないと思うが。。
映画関係に勤め、実績も積みながら今岐路に立っているらしい主人公のエッセイがBGM付で読まれる。彼女は、父が映画評(感想)を書き付けた何十冊もの大学ノートを発見する。ギャンブルで平然と借金を作る奔放な父(原作者原田マハの実の父がモデルだという)の唯一の健全な?娯楽が映画。その父が頻繁に出入りする近所の名画座が、エッセイの題材。ドラマの初動は、家族のお荷物であった父が映画雑誌の出版社からの申し出を受け(これには娘も噛んでいる)、映画愛全開で映画評を書き始める、というもの。だが家族がホッとしたのもつかの間、父は自宅に寄りつかなくなる。実はネットカフェに通いづめ、そこを仕事場に四苦八苦キーボードを打っていた。出版社へはメールで原稿を送る。だがキーボードを打つ手は亀並みに遅くたどたどしい。見かねたネカフェの若い従業員が援助を申し出たり、世代のギャップを物とせず突き進む疾走感が良い。疾走の先には、、ネットに上がった映画評にやがて厳しい反論にして優れた評論(英語で書かれたものを翻訳して掲載)が寄せられるようになる。それに「父」も反論し、そのやり取りが一部で評判を醸す。最初の勝負は「父」の降参に終わる。父は何せ素人だが鷹揚な性格でもあるらしく、やり取りを楽しむ風もあってちょっとした人気を博するにまでなる。出版社の狙いは当ったという訳だ。最後には降参の旗を上げる父だが、「次はこれだ」と弾を打つ。・・そんな折り、娘の旧友が渡米する事となり、翻訳を依頼していた彼女がコメントの主をやがて突き止める事になる。今は引退した名だたる映画評論家の名が浮上し、そしてそれが事実であったという所で、出来すぎ感も極まるが、これが不思議と「あり得る」と思わせるのは、部分的にだが書かれた文章、著名な映画の評論文が(父・反論者ともに)紹介され、それがある説得力を持つ故だ。おざなり感を回避している。そうして物語の「疾走」は行き着く所まで到達したかに見え、そしてはたと現実に突き当たる。父、そして好敵手たる評論家が迎えている「老い」であり、そのその先の死である。
・・私が見事と感じたのは以下。「父」が書く称賛の評論に対し相手はそれを厳しく指弾するという構図が、やがて孤独な評論家が父の前に心を開いたかに見える。その事じたいは、相変わらず「出来すぎ」なのではあるが、これはこの芝居の基調に流れる「ニューシネマパラダイス」のドラマ性と位相を為している事。その事によってこのドラマは中々深みのある完結を迎えた。映画を観た人なら、「あの感じ」は判ってくれそうに思う。
美しい村
タテヨコ企画
小劇場B1(東京都)
2018/10/24 (水) ~ 2018/10/28 (日)公演終了
満足度★★★★
数年前の借景芝居(ふうの芝居)の印象が強く、その後みた劇場(雑遊・OFFOFF)公演が普通である事に却って戸惑ったものだが、今回は先入観を捨て「普通」に観劇。
今回は柳井祥緒の作でもあったが、らしい作品でありながら「柳井色」が薄れているのには好感が持てた(微妙な言い方になるが..)。
ビシバシと 叩いて渡る イシバシ君
劇団ジャブジャブサーキット
ザ・スズナリ(東京都)
2018/10/26 (金) ~ 2018/10/28 (日)公演終了
満足度★★★★
ジャブジャブサーキット初見は七、八年前になるが観たのは三つ四つ。ここ最近は一昨年の作品を戯曲(雑誌テアトロ掲載)で味わったのが最後。岐阜からいつも凄いな、と、最近お目に掛らない弘前劇場(こちらは結構観た)と並んで地方でこそ育った個性というものに思いを馳せるあの感覚が蘇った。
わたし、と戦争
流山児★事務所
ザ・スズナリ(東京都)
2018/10/17 (水) ~ 2018/10/24 (水)公演終了
満足度★★★★★
明日(24日)が千秋楽とは。。地味なタイトルから想像しなかった人間ドラマが詰まっていた。戦争は背景どころか主題そのものだが、「戦争」という単語は殆んど口にされない。「先の大戦」のステロタイプなイメージに依存せず、戦争をしている近未来の日本を現在と地続きの時空に描き出す事が出来ていた。瀬戸山氏の作は過去ミナモザで目にしたが、今作は出色である。ドラマの舞台を「今、ここ」、即ち「わたし」の日常に今までになく近寄せた事で戦争に肉薄し、普段考えも及ばない「戦争する日本」の断面が描き出されていた。
特筆は、「戦場」を潜った女性の微妙な心理を静かに熱演した林田麻里。
杉山至の美術は勿論の事、仮想の空間を信じさせるスズナリという小屋の持つ力にも心底感じ入った。
バック・トゥ・バック・シアター『スモール・メタル・オブジェクツ』
東京芸術劇場
池袋西口公園(東京都)
2018/10/20 (土) ~ 2018/10/29 (月)公演終了
満足度★★★★
確か以前観たはず、と思えば数年前のF/Tトーキョーの招待作品で。オーストラリアの劇団で、所謂障がいを持つ人たちの活躍する、障がい故の個性が活かされた皮肉の効いた舞台は印象的だった。今回は公園奥の客席周辺以外は普段の公園と変わらない開放された広場で、芝居は行われる。客はヘッドフォンで、台詞と通訳を聴きながら芝居を観る。
この芝居の魅力・・2014年だったかの上演で感じたそこはかとなく湧いてくる感動を、思い出した。これは「後から効いてくる」というやつである。
セイラム
sortie
新宿眼科画廊(東京都)
2018/10/12 (金) ~ 2018/10/16 (火)公演終了
時折観劇する日本のラジオ、今回は5本目位だろうか。毎回少しずつ印象が変わる。思わせ振りが巧く、「どっちだろう(彼の本心は)」の境目を狙う匙加減の出来る作り手。だが今回は体調のせいか、台詞が遠くで鳴ったり遮断されたり(早い話がうとうと)。役者の佇まいといい、説明し過ぎない台詞といい、ミステリー仕立ては十全で観る気も満々であるのに、筋書きが何も掴めなかった。痛恨。
野外劇 三文オペラ
東京芸術祭
池袋西口公園(東京都)
2018/10/18 (木) ~ 2018/10/28 (日)公演終了
満足度★★★★
これが500円!と、あまり金額を強調すると主催者の思いに背くようだが、正直な感想だ。(これについては後述。)
池袋西口公園は周囲との仕切りと言えるものがなく、その中心が噴水の目印になる大きな円と、それに接する中位の円が描かれているだけ。公園=広場にとって大事なのは境界でなく、そこに自由な空間がある事・・そんなコンセプト(?)に呼応したかのような本公演の会場は、奥(バス停と反対)側に組まれた階段式客席を起点に、広く丸く上演エリアを囲ったとは言え、上演の都合で置かれた収納小屋や、飛び飛びに置かれた矢板のフェンスの間から、丸見えである。開演30分前に行くと、囲いに沿ってずらりと半周行列ができていた(それでも十分座れた)。
階段客席の前に厚ゴムのシートが円弧形に敷かれているのが無料自由観覧席(0円)だ。雑魚座りだがさほど狭くなく、昨夜(日曜)は風がなく軽装でも十分しのげた。
オーディションを経た腕に覚えある役者陣達の本域演技。広いステージを縦横に走り、セットを移動させ、台詞に必ず動きがともなう(役者の力量が試される)リズミカルな展開、生演奏、聴かせる歌、照明音響映像、どれをとっても申し分ない仕事が、なぜ五百円なのか。芝居の中身と共にその企画主体に関心が向かう。
東京芸術祭、というどこかで聴いていそうでいないのが上演主体の呼称だ。ネットでみても「東京芸術祭2018」と今年の案内しかないが、当日配られていた「ガイド」によれば芸術祭はF/Tトーキョーを含む5つの事業で構成され、その総合ディレクターが宮城聰、そして芸術祭「直轄」の事業が入場料五百円の『三文オペラ』という訳だ。
芝居について一言。楽曲はクルト・ヴァイル作曲のものが全編用いられている(上演許可の付帯条件らしいと聞いた事がある)。なお日本語訳はSPACのブレイン・大岡淳名義だったが、この新訳が優れものであった。歌詞にはぶっきらぼうな直裁な(直訳風)言葉を当て、詩情に流れる事をきっぱり断ち切る一方、会話には現代日本の砕けた俗語が啖呵売よろしく詰め込まれ、この芝居の登場人物の階層(=貧乏人・アウトロー)をぐっと近く感じさせるのに成功した。難点一つはマイクを通した音では早口が聞き取りづらく、特に語尾が落ちる台詞が厳しくなった点。
さて芝居の内容もさりながら、次の事を考えた。「安い」という事について。演劇の現状についての宮城聰の言は正しい(挨拶文を参照)。その問題意識からの今回の企画。
500円に200名程度を乗じて10万円の入場料収入として、何かの足しにはなるにしても支出に遠く及ぶまい。「東京芸術祭」として予算の分母を高め、この公演のコストをひねり出したに違いない。宣伝費を抑えた感はある。海外演出家を起用してオーディション形式を取り、ギャランティーの拡大を抑えたかも知れない。とすれば彼らはお金より名誉を選ったのであるからして、栄誉にふさわしい拍手を送るべきだ。
演劇鑑賞人口の偏在が宮城聰の指摘の中にあったが、このように敷居を低くしてなお、私の周りには「演劇好き」又は「演劇に関わっている人」が占めていたという印象だ。だが、日本で演劇人口を増やすことは、民主主義や「おかしい事はおかしい」と言える社会を築いて行く事と同じで、時間のかかる作業なのだ。
最大の気づきは、恥を白状せざるを得ないが「安い」=「安物」と認識してしまう思考が働くこと。お金を払った以上はその元を取ろうとして価値を自ら高めようと操作する。長生きするにはポジティブシンキングも大事だが、芸術とはそういうものだと思えばストレスもかかるまい。
それはともかく、今回の公演はかなりクオリティの高いものだったが、その認識と並んで「タダ」という算盤勘定が働き、そのものの価値を引き下げようと脳内回路が自動的に動くのが判った。
野外劇「三文オペラ」を体験したればこその気付きは、芸術と対峙する時にそのような処理をしてはならない事、もっと別の回路を育てねばならない事、それが経済に飼い慣らされた豚にならないための抗いである事・・心すべし。終演後に微かに湧いた疼きの正体であった。
レディ・オルガの人生
ティーファクトリー
吉祥寺シアター(東京都)
2018/09/29 (土) ~ 2018/10/08 (月)公演終了
満足度★★★★★
これほど主人公に感情移入した芝居には暫く遭遇しなかった。このテーマ・素材で川村毅は1980年代にその名も「フリークス」と題する戯曲を執筆・上演、今回は同テーマの「その後の今」の捉え直しという。タイトルのオルガとは、前世紀に実在した人物だが芝居は一代記というより、2018年現在の「私」にオルガの人生が重なり、今の「フリークス」たち=サーカス団を想定した場末の小屋(地下小劇場のような)を舞台に基本は物語が進む。
ティーファクトリーは割と最近一度だけ開演に遅れて中途半端に観劇したが、舞台全体の暗い美しさだけは印象にとどまった。今回はその印象を強めたと共に、演劇とは溢れ出るものをそこに注ぎ込むものでありたい・・なんて事を思わせた力強い事例。芸、技にではなく、主人公その人に拍手を送る自分がいた。
強いて言えば、オルガを演じた渡辺真起子の全く気取らない「徹する演技」には、心酔した。
竹取
世田谷パブリックシアター
シアタートラム(東京都)
2018/10/05 (金) ~ 2018/10/17 (水)公演終了
満足度★★★★
シアタートラムは「世田谷パブリックシアター」の小さい方、というポジションだが「広い」と感じる事が多い。小劇場と感じた芝居を思い出すと、『グッドバイ』(シス)、『クリプトグラム』、昔観た「地域の物語WS」発表とか、韓国現代戯曲リーディングもか。それらを例外として、「大型劇場」で観た感触が強い。「夜への長い旅路」(梅田芸術劇場)、「管理人」「散歩する侵略者」(2017)、「お勢登場」など。今回の「竹取」も黒を基調に奥行きが生かされ、広い、と感じた。まあそれはどっちゃでもよろし。
パパは死刑囚
劇団チャリT企画
座・高円寺1(東京都)
2018/10/10 (水) ~ 2018/10/14 (日)公演終了
満足度★★★★
劇団色を決める役者、というのがある。例えばあひるなんちゃらの篠本+根津。旧・野鳩の佐伯。ナカゴーの川﨑+高畑+篠原(いやここは全団員だ)。そしてチャリT では内山奈々+熊野善啓という事になるだろうか。特に意図していなかったがどれも<笑>系だ。看板俳優とも違う。常に客演者の中にあって舞台を支える演技に長けたベテラン俳優も、必ずしも当てはまらない。ふと思い浮かんだのが燐光群・猪熊氏。思えば多くの<笑>のシーンを担ってきた。
逆に、例えば劇チョコの特徴的な三俳優は、演技力もキャラ立ちも十分だが、如何に「役」になれるか、人間を演じられるかが優れているという評価になる。役者の身体的特徴は(声も含め)個性であって演技にも個性は当然生かされるが「色」にはならない、というのも、「なる」演技の結果、我々は「なった」人物を見、人物を通して物語を味わう事になるので、観客の目の前にその個性が立ちはだかる訳ではない。そういう自在さ(ニュートラルさ)こそが役者には求められると昔から聞くが、<笑>の場面では客は「人物」でなく役者その人自身の中におかしさを見ている、という構図になるのだろう。毎度お馴染みの吉本新喜劇の芸人はその典型だが、、当り前な話を随分しつこく書いたような。
チャリTはある社会事象やテーマを咀嚼し、多角的に検証する知識・情報を踏まえて、これを良いあんばいに噛み砕いてお芝居で説明する技術に長けている。作者樽原氏は知識を踏まえ、決して押しつけず客観的知識や多様な見解を嘗めつつ、問題を炙り出す展開を書く。そして熊野は、シリアスとおふざけが混在したような二枚目寄りの風貌を武器に、「問題」に翻弄される主人公を、内山は背の高さと声・滑舌のアンバランスといったおかしみを武器に平然とコンサバ、保身、無思想で風見鶏な庶民の役どころをやって、楽しませてくれる。
もう少し<笑>について。
笑いを生む要素はざっくり言って二つあると考えられ、一つはドラマが描く「人物」の行動や他者とのすれ違いなどドラマ即ち脚本に起因するもの、今一つは役者本人の持ち味・特徴、ナンなら観客が「その人自身」と見えているそれ、である(「劇団色を決める俳優」の持ち味)。
さて今回は死刑制度、と予想のつくタイトルだが、話のほうは一直線にそこに向かう訳ではない。とだけ書いておく。
私の知る限り(3~4本)のチャリTとしては、劇場も大きいが芝居としてもNLTと並べて遜色ない?喜劇舞台で、その合間にチャリTらしさが見え隠れし、最後にその本性を出した。・・そのように観た。
「問題」は重く、このような讃辞はそぐわないが、拍手物だ。目の前にハッピーエンドへの道があり、芝居的にはもう逸れる訳に行かない道程を辿った末、どう「問題」をあぶりだすのかと期待。チャリT的まとめが待っていた。グロいと言えばグロいし生ぬるいと言えばぬるいのかも知れぬ。
私らは問題を「突きつけられている」。例えば2017年7月刑が執行された再審請求中のN死刑囚、彼は冤罪の線が強いとささやかれていたとか。再審請求を受け入れた結果判決が覆えるなどという前例を作られては困る官僚(組織)の都合によって、、と憶測されている。
ちなみに法務省側は、「刑の引き延ばしのための再審請求には厳しく対処を云々」とコメントしたという。
「お上」に住まう人らの目には、不遇(受刑者となった事)にある人間は「不正をする人間」だと映るのか・・と言いようの無い怒りが湧いて来る。
芝居のラストについては、恐らく正解などないのだろうが、私は程よき所に収めた、という感想である。
想稿 銀河鉄道の夜
ことのはbox
新宿シアターモリエール(東京都)
2018/10/10 (水) ~ 2018/10/14 (日)公演終了
満足度★★★★
ことのは2度目の観劇、待ちかねた日であったが。。
初めて訪れたシアターモリエールは、新宿駅近いビルの二階にあって200席程か、天井はそこそこ高く客席の傾斜は緩やか。この傾斜の客席は個人的に「ショー」を眺める完全受け身な構えにさせられる気がするのだが、軽演劇の似合いそうな小綺麗な劇場だ。
できれば開演前に席に着き、雰囲気を味わいたかったが、味わうどころか大幅に遅れた。
従って芝居が得心の行くものでなかったとしても理由を説明できない。言えるとすれば以前読んだ戯曲の印象との違いについて、だろうか。
戯曲の印象は、あまりに知られた「銀河鉄道の夜」の原作を対象化して距離を取りつつ、原作の物語をもう一度追いかける、「今」という時に捉え直すものだった気がする。対象化するという事はメタ構造を内包することにもなる。(きちんと覚えていないので勘違いかもだが。)
「見よ、飛行機の..」のストレートな作りで魅せたことのはが、このやや変則な戯曲をどう仕上げるのか、勝手に胸を脹らませた自分としては、今回のステージはあまりに素直。いつか「メタ」的表現を垣間見せるかと待ったが最後まで、どこまでも疑いなく「そのまま」な演技、無防備とも言える若者の演技。
歌ありの音楽劇で、踊り専門のダンサー・グループもいるが、イメージの拡がりを助けるより、比較的ひねりのない曲調と踊りが「素直」過ぎて色調を限定してしまい、世界の拡がりが感じられなかったのが不服。敢えて音楽劇を選ぶなら歌が舞台をさらって行くくらいでなければ。。とは高望みか。
オーディションで集められた、一、二名を除き若い役者たちの技量には合った舞台と、言ってしまうのも安易に思う。
当日配布の紙によれば、酒井女史演出のことのはは以後団員を募集し劇団化するという。若い出演者との仕事が、「育てる」関心を刺激し、継続性のある舞台作りの形が築かれるなら、意義の大きい公演であったと言えようか。
ドキュメンタリー
劇団チョコレートケーキ
小劇場 楽園(東京都)
2018/09/26 (水) ~ 2018/09/30 (日)公演終了
満足度★★★★
古川健脚本の文学座公演が観られず残念がっていたら、ほぼ直前に「楽園」での公演を知り、「チョコレートだから見応えあるはず」と自分に言い聞かせて観劇した。不思議なもので、芝居の出来は宣伝への力の入れ具合と意外に対応している(「はずだ」と言い聞かせたのはそういう訳)。こちらの勝手ではあるが、チョコレートケーキには期待度が高い。だからそのレベルに達していない事の「欠落」に気が向かう。
史実を題材として秀作を生み出してきた劇団だが、史実・事実を扱う難しさを今回考えさせられた。端的な感想は、当時このスキャンダルを知った時の感覚というか、驚愕に見合う深さに芝居が届いていないというものだ。
問題の根の深さを「理解する」記者(ルポライター?)という設定に無理があったのではないか。まず彼の職業の現状がはっきり見えていない。安定を保証された大手メディア記者ならそれを投げ打ってでもこの問題をやろうとしている、のか、フリーライターがこれをスクープに名を売りたい願望があるのか(もちろん正義感は誰にもあるとしてだ)。演じた彼は恐らくは後者に属すると思うが、どちらにしても、彼の生活に繋がる部分がどうなっているのか、様子からは窺い得ず、もどかしかった。
「問題」を背負い切れる人間など滅多にいない。何がしか欠点、弱点を持つ、その人間が、ある真実を前にする、その実態は彼の許容できる範囲を超えて、存在している・・そのようにしか人間ドラマの中に大きな問題は描き得ないのではないか、という事をこの芝居で考えさせられたのだった。
最後まで記者は弱みを見せなかった事で、逆説的だが、どこか「語り切れなかった」感じが残ってしまったのだと思う。
『常備演目を仕込む』
東京アレルゲンシアター
WAKABACHO WHARF 若葉町ウォーフ(神奈川県)
2018/09/27 (木) ~ 2018/09/30 (日)公演終了
満足度★★★★
数日おかずして、実験色濃いパフォーマンスを鑑賞。
「常備演目を仕込む」とは突っ込み所満載なタイトルだが、茫漠としたその文言よりも、内容を指した語句=「翻訳にまつわる三部作」に当然客としては目がいく。作り手が「どう」仕込むかは、そっちの話、客としてはさしあたりどうでも良く、「何を」仕込む(見せる)かだけで十分な訳である。意地悪くみれば、「仕込む」作業ですから、と、プロセスに過ぎない事を予め断っておこうという予防線のようで、やはりどうでも良い。
翻訳家・作家の和多田葉子「動物たちのバベル」リーディングは観ること能わず、「劇場版 後ほどの憑依」「盲人書簡」の二本立てを観た。いずれも2、30分の作品で、終演後は出演者2+2=4人総出でアフタートーク。「作る」過程での話が披露されていた。
前者は比較的まとまった「作品」で2015年岩手での初演(野外公演)を経ており、「翻訳」にまつわる多彩な場面が構成されていた。後者は今回初めて、佐藤朋子(アート系の人らしい)にコラボを申し入れた山田カイルとの仕事だったが、佐藤がノートPCを開いて座り、背後に映像を映しながらのナレーション、照明変わると椅子に座った山田カイルが寺山修司との個人的な「接点」(?)などをざっくばらんに流暢に喋る、というのを何度か行き来し、冒頭とラストには寺山修司がエッセイに残した曰く付きのレース(競馬)を映像で流し、それじたいは趣き深いものがあったが、パフォーマンスとしてはよく判らないものであった。
トークで進行の山田カイルが佐藤に「自分との仕事でやりにくかった事は?」と単刀直入に訊くと、コンセプトについての話はそれはそれで共有可能だが、それを「形」にする段階で感覚的な開きが大きかった・・。それでそれぞれが用意したものを別個に発表する形になったとのこと。
渾沌として形をなさない宇宙のような作品は、今後取り出し可能な常備演目=素材となったのかどうか・・。