tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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フランケンシュタインー現代のプロメテウス

フランケンシュタインー現代のプロメテウス

演劇企画集団THE・ガジラ

ウエストエンドスタジオ(東京都)

2018/06/07 (木) ~ 2018/06/13 (水)公演終了

満足度★★★★

劇場で関係者に質問しそびれたのは、この作品が新作戯曲かどうか。戯曲に漲る作家的野心、完成度が、若い頃の作品かと想像させた。初めて訪れたウエストエンドスタジオは思ったよりしっかりとした劇場。接した二面客席。ワークショップ発表と思えぬ緊迫感。余韻をまだ残している。

ネタバレBOX

岩野未知の科学者とそのフランケンシュタインの名を掠奪した怪物役・守屋百子の対決・・孤立して行く科学者とその周囲の人物との関係・・創造主が被造物に裏切られるという、聖書のモチーフを借りた台詞が痛烈。
ツヤマジケン

ツヤマジケン

日本のラジオ

こまばアゴラ劇場(東京都)

2018/06/05 (火) ~ 2018/06/10 (日)公演終了

満足度★★★★

3、4度目の日本のラジオをアゴラで観たがここまで多数出演かつ長い作品は初めて。女子高演劇部の合宿先での数時間のお話。合宿(見知らぬ土地)という非日常の時間の中で、部活という日常(の人間関係)が再生され、日常でない事態が進行する様がうまく書かれている。人物の書き分けも面白い。各人に担わせた赤裸々な内面と内情の際どさ・危うさが、建屋に「棲息」する津山事件の犯人の存在といつしか共鳴をみせる。もっとも「犯人」がどういう時空に存在しているのかは不明だが、パンフに紹介された犯人の遺筆の文言を喋る事で辛うじて「津山事件」の犯人に重なる存在だと判る彼は、上手奥の墨にひっそり座っている所を幼児キャラの(まっくろくろすけに話しかけたりする)生徒に見つけられ、その後不思議な交流もある。ばかりか、彼の存在を仕方なく告げた、彼女につきまとう集団から浮いたキャラの生徒もその存在を認めたらしい事から、男は「実在」するらしい。
 登場しないが名が何度も挙がる人物として、合宿への往路で姿を消した部員=都井の名が何度も出てくるが、この名は津山事件の実際の犯人の姓(後で知った)。パンフレットには、一度も登場しないこの都井役の俳優名も顔写真も載っている(経緯は知らない)。女優達のショットを冊子にしたミニ写真集や、生徒たちのプロフィールを詳細に設定した台本等から、作・演出の人の「趣味」をつい想像する。がまあとにかく演劇部員全員の性格付けと不意を突かれる展開は、(作者は)男でありながら十代女子の生態を知悉するかに思わせ、作者の来歴や普段の生活をつい想像してしまった。
 映画『丑三つの村』(津山事件に題材をとった西村望のノンフィクションの映画化)でもおなじみの犯人の「決行」時の出で立ちが、最後にお目見えとなる。芝居中で「犯人」の存在を認知した先の生徒二人は、演劇部の中でもこのドラマの中でも華やかな位置を占めておらず、社会のメーンストリームから弾かれた存在にイメージが重なるが、この二人がほぼラストの暗転後、学ランにヘッドライト装着のスタイルで闇の中に現われると、何か溜飲を下げるものがあった。
 彼女らの「決行」を津山事件に重ねた事で、若者のシビアな生態に僅かばかり寄り添う(かつ津山事件の犯行の背景にも寄り添う)作者の心・・を垣間見るような気が。
 同世代から鼻つまみ者扱いされる者が、その世代を代表して立ち上がる姿、という解釈の方が、彼女らを蔑んだ部員たちへの復讐、構図よりは遙かに粋だろうと思う。

翼の卵

翼の卵

劇団桟敷童子

すみだパークスタジオ倉(そう) | THEATER-SO(東京都)

2018/05/29 (火) ~ 2018/06/10 (日)公演終了

満足度★★★★

桟敷童子の芝居は観た後ストーリーを忘れてしまう。(羽を生やして飛んでってしまう)
すみだパークスタジオという場所、内側に飾られた壮観な美術、そこでは受付・会場誘導体制に役者総出の気持ちの良い立ち働き、開幕すればスキーの如くドラマの助走路を転ばず滑走し、ジャンプと着地を為そうという能動的観劇に動員され、組織化される。この観劇パッケージを舐め尽くす事が、終わってみれば桟敷童子体験だ。
もっともドラマを分け入ってみれば(記憶を具に繙いてみれば)世界や時代や「今」に鋭く切りつけるものがあったりする。その鋭利さは桟敷の「型」によって飲みやすくされているが。とは言ってもこの劇様式に収める事が至難であるのは今回参加した原田大二郎演じた役「父」の理想形と実際との差を想像しつつ埋めながらの観劇になった事でも実感するのだが。
昭和の懐かしい感性、単語やシチュエーションにほろりとさせられる時、「今」の何が批評の対象であるのかは重要だ。全てにおいて「昔は良かった」わけはない。
毎度ながら、役者陣の貢献を思う。毎公演異なる役柄を演じ分ける板垣、ドラマの雲行の変化を僅かな言葉の粒立てで知らせてしまう大手、手練の原口、稲葉、婆役・汚れ役をそれぞれ担う鈴木・新井・・。各ポジションをしっかりと演じる好プレイによって得点に結びつけるが、客演の肌合いの違いを感知しフォローまでやる板垣以下の働きを見るにつきスポーツのようだ。
公演評というより劇団評になった。

吸血姫

吸血姫

劇団唐組

花園神社(東京都)

2018/05/05 (土) ~ 2018/06/10 (日)公演終了

満足度★★★★

ついつい足が向く唐組。今回は梁山泊の夏テントの常連・大鶴義丹の異母姉弟、美仁音・佐助が唐テントに。銀粉蝶を迎えて中堅の稲荷・辻らを外した布陣が特徴的だったが、実質座長久保井一人でも爺臭は十分。「やっちゃった」ベロ出しな生モードを使う資格を常連客からは得ているらしく、笑いが起きる。(こちとら常連でないからそこは無視して次の展開を待つ。)パズルの完成をみる興奮の度合いを「完成度」と呼ぶなら今作はそこそこ。だが良い気分になって花園神社を後にした。
客層は今までになく若者に溢れていた。俳優の世代に見合ってるといえばそうなのだが。
屋台崩しを今回は冒頭にやってのけ、颯爽としたオープニングとなっていた。

肉の海

肉の海

オフィス3〇〇

本多劇場(東京都)

2018/06/07 (木) ~ 2018/06/17 (日)公演終了

満足度★★★★

時空を飛び想念が舞う渡辺えり作品の世界は、久々の新作も同様。作者本人が言いたい事だなこれ、と丸分かりな台詞が宙に投げられたり、強引なドラマの舵切りが為される箇所も多いが、渡辺えりは後から回収していく。安定を良しとしない作り手の「手」をそんな所に見出す。正体不明の奇態な「音楽劇」がそこにあった。

ネタバレBOX

ただ、奇態であるにせよラストのカットアウトでの音の切り方は唐突で、本編の「わからなさ」に見合うラストになっていない気が。
例えば通常の倍の長さは暗転を入れる、切られる前のフレーズをリフレインして高めた上で切る、あるいは、カットアウトされた楽曲の「続き」をフェードインしつつ明かりを入れる、など収まりの良さは必要ではなかったか。
Q学

Q学

田上パル

アトリエ春風舎(東京都)

2018/05/25 (金) ~ 2018/06/03 (日)公演終了

満足度★★★★

主宰田上氏本人のプロフィールから想像される「らしい」舞台に漸くお目見え。田上パルじたいは過去アゴラで一度。他は映画美学校アクターズコース発表で松田正隆作品を岩に染み入れる水のように<浴びた>記憶。溌剌たる若者の生態に近い場所から、無論役者にとっては「過去」(高校時代)を演じている訳だが、脚本ともども肉薄。十代の学生の声にならない鬱屈を、叫ばせる言葉を紡いだ作者に拍手、というか感謝。

ネタバレBOX

アフターの古家優里(ダンサー)との小学校同級生トークも、二人の接点を掘り出す作業にいつしか自分のそれを重ねて甘酸っぱい時間であった。
楽屋 -流れ去るものはやがてなつかしき-

楽屋 -流れ去るものはやがてなつかしき-

ZOROMEHA企画

梅ヶ丘BOX(東京都)

2018/05/28 (月) ~ 2018/06/03 (日)公演終了

満足度★★★★

画期的な「『楽屋』フェス」から早2年。今回は6グループだが、注目は企画者でもあるZOROMEHA、また単独ステージの回があるstars、ぐるっぽちょいす(他の4つは2団体1公演の枠に収まる)と読める。
今回は公演スケジュールや参加団体の概要がなかなかつかめず、ZOROとぐるっぽは辛うじて探れたが、少々もどかしかった。そのせいというのではないが、観たのは一団体、青柳敦子主宰「ぐるっぽ」のみ。ここには2年前燐光群グループで女2をやった松岡女史も今回は女3(唯一現世にとどまるベテラン女優)で参加。青柳女史は演出、(ちょいす=choiceの意か?)選抜されたメンバーはバランスの取れた良い座組で、演技もさりながら「演出」も利いて思わず納得な場面処理が多々あった。
一昨年の楽屋フェス以後にも「楽屋」を3本ばかり観たが、一番泣けた。もっともお涙路線をチョイスして到達できる場所ではないのは確か。飄々と存在する幽霊二人が、その立場なりの真剣さと諦観の両面を持ち合わせている事、即ち生者をみる眼差しが「他人事」でありながらもある濃度で関心事でもある距離感、冷淡さと温情が彼ら自身の「あり方」から必然に導き出されているように見える事、そして二人の関心と目を釘付けにする、生者の側のドラマも・・。

さてこの回はぐるっぽ単独回で、テーマ音楽を提供した佐野篤のミニライブが芝居の前にあり、思いの外良い。3曲目を終えて「楽屋」上演へと移行するブリッジも誠に良い。余談、セットは2年前と同じもの。樋尾麻衣子の前説を初めて見、新鮮であった。
幸福な時間を有難うな休日であった。

消す

消す

小松台東

三鷹市芸術文化センター 星のホール(東京都)

2018/05/18 (金) ~ 2018/05/27 (日)公演終了

満足度★★★★★

細部を穿った、「実家に帰った気分」を催させるセット。壁の羽目板の幅といい、色といい、取ってつけたような絵の額の位置といい、台所の平均的なシンクといい床のビニルの汚れ具合といい、奥の縁側から覗く塀の内側(庭)の中途半端なスペースといい、勝手口の土間のサイズ(狭さ)といい、ワゴン上に置かれた物々(もらいもの土産物がひしめく)といい・・・地方性(これを地方的と呼ぶのも哀しいが)が濃厚に漂う二間の空間がまずデンとある。そしてここに配置される人物も、そこは小松台東、作りの細かいキャラを担って存在している。些末な事柄がその人物の本質・弱点を表出させ、それを感知する「近い人」の反応が作用しあう図は、やはり芸術の名に価する仕事だと思う。
なぜか人情喜劇に流れず、非人情悲喜劇の道を選ぶかに見える芝居だが、城山羊の会と違って人間の根っこを掴まえている。即ちサイコパス化したか、元から素養を持つ人間の「怖さ」は、あくまで他者の目が「奇異なるもの」を面白がる目線に逃げるしかないが、松本哲也の書くものは人間がニヒリズムに陥るにもそうなる経緯がある、と捉える。そこを丁寧に、恐らく想像もまじえながら、粒立てていく。この細部にこそ本質が宿る所以を観る者にも突きつけてくる、リアリズム。
・・小さき者共が所与の条件下で不満を燻らせながらも押し殺し、あるいは叶わぬ夢を見、代償行為や勘違いに逃避する姿。もっとも芝居は彼らをリア充でない者、と分類してもいないが。

実家を守り父を看取った弟(山田百次)が、長く都会暮らしをする兄(瓜生和成)に電話をかけ、話があるから実家へ戻るよう言い含めるシーンから芝居は始まる。最初瓜生氏と判別できなかった扮装の兄は定職も持てず、弟が旅費を持つなら帰る、という境遇。
最近亡くなった父、幼少時(弟が生まれた時)に亡くなった母、不在の二人を含めた家族史がもたらした兄と弟の「もつれ」を解きたい、という単純な動機(弟の)が、恐らくはドラマを貫いている。ただ、その家(実家)に出入りする有象無象が絶妙な距離に存在しており、家族だけのはずのプライベート空間を密度濃く占めている事が、加熱をもたらす。皆それぞれにあるあるな人物キャラを見せ、一見醜悪だが群像として立ちあがる。人物いずれも憎んだり嫌ったりしているが「関わり」ゆえに感情が生まれる。長く不在だった兄を弟が呼び寄せた行為に、その視点が意志的に選択されている事が見えてくる。周囲のゴタゴタエピソードを挟み込んで最後の最後まで真意を明かさず温存した構成も、その意図を裏打ちするものだった。

iaku演劇作品集

iaku演劇作品集

iaku

こまばアゴラ劇場(東京都)

2018/05/16 (水) ~ 2018/05/28 (月)公演終了

満足度★★★★

今年度のアゴラの目玉の一つ(自分にとって)iaku作品集は、初演をみた『粛々と運針』以外の3本をどうにか予約して観たが、どうやら『粛々』が本企画のメインだった模様(他は1時間程度の小品でもあり)。その「賑やかし」の三演目の中でも、人気戯曲『人の気も知らないで』が私には目玉。戯曲も読んでいたが、文字を追った感じではシュールかコメディでしかない前半からどうもシリアスな表情がチラチラと見え始め、最後は涙っぽくなる。これをどう作っているのか関心もあった。
三作品を観ての全体的な印象を、また機会があれば書かせてもらう事にして、一言書き置くなら・・『人の気』の戯曲が掲載された冊子に土田氏がコメントを寄せ、作者横山氏の成長を讃えていたのを思い出した。「うまさ」が目指されている、との印象が土田作品(それほど多くは観ていないが3つくらい)に通じる、というのが過去の小品を観た印象。これには戯曲だけでなく、今回作者による演出という事で、もっと深められたところが作者の読み(書いた意図)はここまでだったか・・?と、その限界を感じたという面も(作・演出どちらもやるのが小劇場のスタンダードだがこの作者については上田一軒という演出家が普段はついている)。
『エダニク』やあの『車窓から、世界の』を書いた同じ作者が、過去の自作も堂々開陳してみせてくれたが、試みは面白かったものの、iakuの現在と過去の関係(過去を経て今どうなのか)が霞んだ印象を持ってしまった。

「ムイカ」再び

「ムイカ」再び

コンブリ団

駅前劇場(東京都)

2018/05/25 (金) ~ 2018/05/27 (日)公演終了

満足度★★★★

コンブリ団の名は中京地方で独自の活動を展開するジャブジャブサーキットの舞台に(少なくともここ10年は)ほぼ毎回出演している車イスの役者はしぐちしんの所属(主宰)劇団として目にしていた。どこかで公演情報を見て「ちゃんと活動してる劇団なんだ」と判ったが、主宰が作・演出を行なうらしい事以外ほぼ知識ゼロ。OMS戯曲賞作の上演、しかも初の東京公演というので観劇した。
まずこの「初の東京公演」の、劇団の当人たちにとっての意味がもっと伝わって来たいと思った。のっけにこう言ってしまうと芝居単体では観客をねじ伏せられなかった、という側面が強調されそうだが、そう単純でもない。作る主体と舞台の内容との関係は切り離せないし、公演形態の選択も作品と不可分であったりする。つたなくとも「新人公演。応援よろしく!」でまとまる(それには価格も安くせねばだが)公演もある。地方から作品を引っ提げて大都市で公演を行なう場合、異文化との遭遇の機会という面がある。「才能発掘/アピール」という面も「成功」を夢見る向きには重要だろうが、(地方に限らずとも言えるが)演劇とは総合芸術であり作り手の固有の何かが結実するもの。「文化」は佇まいから漂って来るものだ。

さて「ムイカ」は解説にある通り広島に原爆が落とされた8月6日を指すが、この舞台では生死を分ける「時」としての原爆投下を象徴として捉えながら、人生の選択の局面や、生へ向かおうとする精神の風景を描いたもののようだった。固有名を持つ人物が、居るのかいないのか(居るとすれば一人、衣裳でも違いが判る女性)、人物を軸としたストーリーが現実世界に着地するべく描かれたテキストではなく、象徴的なシーンの連なり・重なりから、あり得る様々な「現実」を観客の想念の中に見いださせる、そういうテキストになっている。
終盤にイメージが集約していく流れがあり、照明が煌々と照って「現実」と地続きになるグランドゼロに上昇した所で、終幕、というまとめ方であった。ある事をギリギリまで語らず、結局語らない(だが観客の中に何かが生じる)、この「態度」が、この作品の評価の核になるのだろう。

アフタートークがあった。名前をみれば土田英生、テイストが全く合わないな、と感じた通り、ズルズルなトークになっていた。京都の学生時代に「演劇」分野で世代がかぶっていて、土田氏のほうが先輩なのだとか(見た目や何かは逆なのだが・・)。

ネタバレBOX

芝居の難点。まず「ムイカ」の時間が短いこと。
冒頭はしぐちしんの観客への語りから、他の人物らが登場し「(舞台側の)我々と(見ている)誰か」の関係をいじる遊び、そこから「ムイカ」の物語に移行していくのだが、観客・舞台の相対化と、本編との関係はさほどスムーズではない。もっともこれがコンブリ団の「言語」なのだとすれば、その完成度を上げてもらうしかないのだろうが、この問題は次の難点にも繋がる。
即ち、役者の演技、あるいは演技態が、厳密な意味で確立されたものだろうか・・今少し強度が問われている、と感じた。この劇世界を成立させるための象徴的な場面を演じることと、感情の裏付けをしっかり持つこと(精度を高め、鋭く表現する)とが両立し得ないものとしてあるとしたら、少し淋しいように思う。たとえ「相対化」をやりきる事を旨とするのだとしても、またその流れで本編に入り「相対化」の演技から言葉のニュアンスが浮上して劇世界をやがて形作る、という目論見なのだとしても、(象徴的作りであるだけに)言葉・発語の「力」がもっと欲しいと感じる。メソッドの問題だろうか。
はしぐちしん自身が登場する事は、テキストを体現するためには最良であり宛書きも入っているかも知れないが、テキストがより高みを目指している印象から、他の者に語らせる事を考えて良いのではないか・・と勝手ながら意見を持った次第。
アップデイトダンスNo.51「青い花」

アップデイトダンスNo.51「青い花」

KARAS

KARAS APPARATUS(東京都)

2018/05/17 (木) ~ 2018/05/25 (金)公演終了

満足度★★★★

『白痴』以来だろうか、だいぶ間が空いた。舞踊も見たいけれど“芝居”も目白押し。無論優先度が高い演目もあるが・・今回はさにあらず、時間がピタリ合って、向こうから手招き。
薄暗がりで少ない動き、というのはテキメンに誘眠効果をもつ(能も同じ)。今回も同様だったが、「みる」に価するシーンでありパフォーマンスだと脳は感じており、結果、両目の瞼を指で上げながら観た。
「青い花」とはノヴァーリスの詩集であった(この詩人の活字が拝めるのは岩波文庫の『青い花』くらい)。ただし鑑賞中はタイトルがその事とは思いもせず、いや、思ったとてそれが理解を増すわけもなく、ただぢっとをどりをみる。ある瞬間、「青」の光が射す。光に青を塗りたくったような「光」の持つ切れとは真反対の鈍重さの中に、言うなら隠微な場所に、佐藤利穂子が立つ。勅使河原の手が背後から、怪しくまさぐる。その光の中で(妖艶さ、はっきり言えばエロさを元来擁する)佐藤の身体が「その領域」を淵源とするものを滲み出させている。ノヴァーリスのテキストの正体を探る内にどこでも無い場所に迷い込み、生命そのものとしての「女であること」が暴かれた、とでも言うように。闇に浮かんで消える、命の内奥の物語の、断章? 
クラシックが効果的に多用されていた。『トリスタン・・』でも感じたが、長い歴史的蓄積があるのか弦楽器との相性が良い。

夢たち

夢たち

劇団文化座

シアターX(東京都)

2018/05/10 (木) ~ 2018/05/20 (日)公演終了

満足度★★★★

風変りな舞台だった。三好十郎のこの戯曲自体が戦前のもので(1940~42)、どこか牧歌的な匂いがあって戦争体制のただ中の状況の間にあるはずの緊張関係は戯曲の背景、というより戯曲の外に退き、読む側なり作る側がある種の読み込み方をしなければ「現代」の目には奇異な代物になる。
まず役者が戦前の東京下町の吹き溜まりのような長屋での「在り方」を掴みかねているか、戯曲がどっちつかずか。・・江戸人情噺のような人物の風情・口調が、語られるリアリズムに寄った台詞と、微妙にズレて軋んでいる。
戦争という状況を説明する台詞は僅かにあるが、大状況よりも個々の抱える事情、心情に焦点が当てられている。小さな営みを日々重ねる庶民の小さなドラマがそれ以上の何者でもなく綴られるのを、どう受け止めてよいか図りかねながらも、(他の三好十郎戯曲から来るものもあるのだろう)人間存在をみる熱い眼差しが、 舞台にそそがれているその眼差しに同期していく瞬間があった。舞台もそこへ収斂して、大団円のゴールを踏んでいた。主役と言える三郎が場面の一瞬、一瞬に変化し、存在の輪郭が上書きされた最後に映る「三郎像」を認め、芝居が漸く落ち着くべき所へ落ち着いていく。ゆらゆらと揺れて倒れそうな芝居を(戯曲の要請によるものだとしても)三郎が一人支えたと言って誇張でない感じを持った。

ネタバレBOX

「演技」に関する印象として、ベテラン若手にかかわらず「人物になりきれていない」「つかめていない」ために無為な時間が流れたように感じた瞬間が少なからずあった。これは戯曲のつたなさが役者に多くを要求するケースにも思われるが、最終的に役者は役をつかみ取って見せなければならないものだと思う。自分が役者である、という顔だけをしていると、目がそう見てしまうと、「芝居の時間」から離れてしまう。何より、その役者はその場に参加していない(どこか無理をして自分を隠し、空間的には参加しているというだけの状態)、と見えるのだ。その役者は「今、何者でもない」状態をさらしている事になる。まぁ私がたまたまそう見てしまっただけかも知れないが、確かな違和感であった事は確か。
たいこどんどん

たいこどんどん

こまつ座

紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)

2018/05/05 (土) ~ 2018/05/20 (日)公演終了

満足度★★★★

久々のこまつ座、井上戯曲を「普通に」上演した演目を初めて観た。ラサール石井演出にも興味あったが何より戯曲が面白い・・と言っても最後まで読み切らなかったのだがふと書棚にあったのを手にとると止まらず、読んでも「観たい」と思わせた。その核は、艶笑というやつ。江戸を発って主に東北を回る旅の話だが作者井上のアイデア炸裂。思いのほか長くなる二人旅の後半はどうなるのやら・・期待しつつ劇場へ。戯曲からもらった印象とかけ離れた所多々あれど、このたび主役(幇間役)に抜擢された柳家喬太郎師匠が予想外に良い。江戸弁は本業とは言え芝居の間もある。一方の若旦那役は急遽体調降板した窪塚俊介の代役に立てられた江幡秀久氏、年齢的に「若」旦那はどうかと思いきやこれが小事に囚われない商家の放蕩息子の味を出して正解。三時間超えの大作。幕末江戸が物語の始まり、二人の旅はちょうどタイムスリップするかのように時代の最先端から逃れた格好、して「ご一新」を知る事になるラスト。圧巻井上の筆力、またこれを調理した演出も光った、と最後には思わせた。

図書館的人生Vol.4 襲ってくるもの

図書館的人生Vol.4 襲ってくるもの

イキウメ

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2018/05/15 (火) ~ 2018/06/03 (日)公演終了

満足度★★★★

「図書館的・・」をNHKシアターコレクション(mmm..隔世の感あり)の放映で観たのがイキウメ始め。賽の河原とか(死後の世界)、台詞にアブダクションがやたら出てくるやつ(UFO目撃・接触。確かこれが獣の柱に発展)、自殺者の前に現われる奇妙な人達(輪廻転生サイエンス)など。あの時点から今日までの活躍を見ればやはり才能だったのだな、と感慨無量。
「図書館的人生」シリーズは二度目の観劇になるが、ある関連を用意はしているが三編とも独立した話で短編集である。判りやすいドラマだが「作り」の精緻さはイキウメの面目躍如。もっともイキウメ色(SF色)が減退した分不満の向きもあるやも知れない。
三編中完全なるSFは第一話目、自分の脳を箱に入れてしまった男の顛末だが、荒技な無理設定の無理をコミカル調で相殺するワザは手慣れたもので、実に見事な連係プレイ。
第二話は私が最も「図書館的」らしいと感じた(即ち気に入った)作品で、「不思議」度は最終的にはゼロとも読めるがそこに行くまで絶妙に引っ張り、余韻も絶妙。
三話目はほぼ日常ドラマ。夢の「不思議」が浸潤する様子もあり、「襲ってくるもの」の象徴的な「形」である物体が舞台にのしかかってくる(芝居の冒頭でフラッシュを焚いたような閃光が一瞬捕らえて以降出てこなかった<それ>が三話目で漸くお目見え)様子もあるが、不思議は仕掛けにのみあり、要は就活時期を迎えた主人公=女子学生が、同居する兄や交際中の彼との関係において予め摘み取られた「自立」の所在をめぐって悩み、試行するという、カテゴリーははっきりホームドラマだ。一見苦労の少なく脇が甘そうな彼女だが、兄や彼氏とのコミュニケーションの中に感じる違和感を無視できなくなる。やや古いモデルだが父権的で脆い男性像を仮託された兄や、優しさを交際関係(ひいては結婚)の契約要件のように差し出す平凡な彼氏の言動に対し、彼女は疑念を抱き始めるのだ。「優しさという名の押しつけ」(ひいては親切という名の管理)を、兄と彼氏が波状攻撃の案配でくり出すシーン構成がうまい。

イキウメ世界を構成した個性である女優二名の退団がきつい現状?でもあろうが、それ以上に時間が彼らに平等に与えるもの、即ち加齢の中で、前川氏の筆も変わっていく可能性がよぎる。普通のドラマも書ける前川知大、と言われる日も近い?(彼はいつだって人間ドラマを書いている、と私は思っているのだが)

夜明け前、私たちは立ち上がる。

夜明け前、私たちは立ち上がる。

TOKYOハンバーグ

サンモールスタジオ(東京都)

2018/05/16 (水) ~ 2018/05/20 (日)公演終了

満足度★★★★

唸った。TOKYOハンバーグ、Stone-Ageブライアントとも一度ならず目にしていたが、どちらの特徴がどうだったといった批評を一蹴する迫力であった。
この題材を語るための要素を取りこぼさず(とりわけ住民の「論理」の背後にある生活感覚と感情に丁寧に触れている)、各登場人物のドラマが描かれながらフィクションとしての展開の「無理」が殆ど感じられないドキュメントとも呼べる現実味があった。理不尽な現実を嗜虐的に突きつけたい邪な狙いが作り手になくとも、鬱々とする「現実」は必然に訪れる。この実話が最後に光明を見ることを知っていたとて「終わりよければ・・」とはなり得ないこの問題の性質をこの作品が踏まえている事が、言わば光明に思える舞台だ。
アフタートークで「希望の牧場」の吉沢さんという方が仰った言葉。・・大多数が「見たくない」現実でも誰かが言い続けなければならない。「現実」はこの話の文脈では、今日本の火山が活動期を迎えている事、関東大震災の発生周期の危険領域にとうに入っている事・・起こり得る事態として2020年、東京五輪の前に関東大震災に見舞われる可能性を誰も否定できない事。

舞台に戻れば、「見たくない」題材に取り組んだこのチームに拍手。拍手と言えば、カーテンコールで照明が慌てていた(終演を告げる役者の短礼のあと役者がハケる長い暗転の間、拍手が鳴り止まなかったので舞台側の明りを入れるのが自然な所、まず客電が上がり、追い出しを掛けられた状態に一瞬なった)。ダブルコールが今回初めて(だとすれば)とは意外だが、公演を重ねて芝居が、人物たちが膨らみを増し熟成するプロセスを想像した。記憶の中の色んなシーンが一々琴線を叩いてくる。

ネタバレBOX

ラストを見て感じたこと・・
「舞台」の出来が全てではない、と断じてしまうと語弊があるが、舞台作りは「完成」に向かう道程を辿るものだとしても、舞台の目標は「完成」ではない(なりにくい)、と思っている。もしそれがあるとすれば、完成によって浄化され、「忘れてしまう」時間を提供する芸術、という事になるだろうか。そういうものがあっても良いと思うし実際多くある。
ただ、棘刺す痛みを伴わない感動などない、とは大人の感覚だろうか。いや、話が逸れた。
・・舞台装置の正面、パイプを組んだいまいち美しくない形(その組み方で放射能のマーク=ハザードシンボルを表す)がバリケードの表象として最後に漸く符合する訳なのだが、照明が落ちる手前、団結を確かめあい、見えない明日に徒手で立ち向かおうとする者たちの姿が固まり、残影となる。音楽は「悲壮さと勇壮さ」を謳うシンプルなもの。芝居はその手前まで、終景への準備となる友との再会や本心の吐露、そして和解のシーンが人物それぞれに点描され、疑心が生み出す人間への底知れない暗鬼のイメージが霧消し、凡庸だが自分自身に立ち返った者たちの姿が現われる。中部電力社員が吐き捨てるように言う「何十年も同じ事を繰り返してきた、いい加減終わりにしましょう!」の言葉を自分では本気で言える台詞として叩きつけながら、それが恫喝に当たるとは気づかない言葉の欺瞞に住民達は易々と丸め込まれず、「生活感覚」からそこに含まれる嘘を嗅ぎ取っている事が無言の内に漂ってくる。それが自然な反応だと信じられる佇まいを獲得した事がこの舞台の成果だろうと思う。
ただ・・と冒頭に戻れば、終幕を飾る団結の美景が、悲壮感の中に醸成された団結であるという事が、芝居の「完成」(閉じくり)には必要であったのだとしても、戦後の日本が幾度となく経験した「運動の終息」を、むしろ予感させるラストでもあった、というのが個人的には惜しい。人を悲壮にさせた圧迫が消えた時、紐帯の弛緩が始まるのも世の常である。難しい課題であり、舞台の仕事でやれるのはそこまで、あとは観客自身が考えること・・そう言い放てるだけの仕事ではあったが、その事も考えずにはおれなかった。
今、僕たちに出来る事。あと、出来ない事。from 2001 to 2018。

今、僕たちに出来る事。あと、出来ない事。from 2001 to 2018。

シベリア少女鉄道

赤坂RED/THEATER(東京都)

2018/05/03 (木) ~ 2018/05/13 (日)公演終了

満足度★★★★

伝説的な奇想の数々・・・と聴いていたシベリア少女の過去作品だというので飛びついた。昨年に続き二度目。「しょせんお芝居」、現実ぢゃない、本当ぢゃない、嘘。虚構性を殊更に強調する冷や水のオンパレード。「いかにもドラマ」な典型例を茶化す(役者は「その演技」を無心にやってみせる事で笑になる)。微妙な間合いや口調で醸し出される「ズレ」の瞬間を、待ってましたとばかり客席から笑いが起きる。
昨年のオリジナルは「よく考えた」と思えたが、今作には(「復刻版」という先入観からではなく)目新しさを感じなかった。
物語は二つの流れがあって後に合流するという形。まずは高校演劇部員、顧問教師とその周辺の人物。冒頭顧問がかつて映画を志し、一人空回りした学生時代のくだりが短く提示され、やがて女子部員の舞台を目指す思いにかつての自分を重ね合わせた顧問が彼女の背中を押す事を自らの使命とする、という動機の設定がある。一方別の場所では、小惑星接近の危機を共有する研究所と政府、ミサイルで破砕するための計算を一人で担う女性研究者が実は歪んだ考えの持ち主で、ある破砕の方法をとった事で人類を無性生殖が可能な種としてしまう、という事が起きる。なおクローン技術も彼女は極めていて、自らの分身3体を「計算」に当たらせてもいるが、ともかく彼女にこの行動を止めさせる事は当然ドラマ上の中心課題に据えられる。
ドラマの設定を終えた所で、いとも簡単に時空の裂け目から過去や未来に行ける展開となる。「世界を終わらせないため」に時空を超える。だが過去の自分と同時存在するため、役が足りなくなる。「都合により」な舞台処理をやむなく行なう。過去の自分を追っているシーンでは、上手へはけるとドタドタと下手へ駆けつけ、素知らぬ顔で登場する、という「演技」をみせる。果ては役者が足りないため人形を置いてアテレコで喋ったり(録音も使う)、その人形がずらりと並べられたり。
つまり、総じてハチャメチャな設定の劇を「やらされている」光景が、ドキュメントとして(バックステージドラマでなく「上演されている劇」そのものの上演という形で)提示されている、とも言える訳である。

昨年のと同様、一つの実験ではあるのだが、人形を置く、という型破りな処理がエスカレートする今回の舞台。初演時に比べて熱度を上げ切れなかったとすれば(初演を観ていないので判らないが)、その原因は何かと言えば、初演当時との「時代」の違いである事の他、考えにくい。(役者は達者だし場面を成立させる表現は的確で隙がない。)
恐らくはクローンという話題が当時は最新科学のトピックだった事が大きいのでは?と思う。生物学的にはその「種」の個体であるはずのクローンの役割とは何なのか、「人形」とどれ程異なるのか・・哲学的な疑問を喚起し、知的関心を撹拌した生命科学の一つの知見は、今やある理解に落ち着いていて、水底に沈殿している状態なのだろうと思う(あまり話題にならないので他人がどう考えているか判らないが)。即ち、仮にクローン技術による人間が生まれたとして、彼とて人間なのであってそれ以外に対処しようがない・・。確かイシグロカズオの作品にこれを題材にしたものがあった。
・・初演舞台が観客の心を掴んだ様子を、そんな事を材料に想像するのみ。

グッド・デス・バイブレーション考

グッド・デス・バイブレーション考

サンプル

KAAT神奈川芸術劇場・中スタジオ(神奈川県)

2018/05/05 (土) ~ 2018/05/15 (火)公演終了

満足度★★★★

10年続けた劇団の解散宣言ののち身軽になった松井氏が果たしてどう違った一歩をみせるか。
松井色としては「変わらない」というまずは感想。「自慢の息子」のごちゃごちゃ舞台を思い出し、蒲団を重ねた基地で戯れたり泥池に入ってザリガニを探した子供の頃の記憶に接続すると、これは「心理」の劇なり、舞台が「箱庭」に見えてきた。
混沌は舞台上のみならずテキストにも。物語は恐ろしげなシステムが築かれたらしい未来の日本、山間のその場所に作られた中途半端な小屋が建ち、僻地らしいその場所で物語らしきものが展開する。古典的作品「楢山節考」は意外にしっかり踏まえられていて現代版、近未来版楢山節考として観られる。
従来の俳優・スタッフ共同によるものでなく松井氏と小説との対話で醸成されたものか・・。元団員野津氏がのったり中心的に立ち回る。見た目では板橋駿谷が一人せわしく舞台を回す。戸川純がそのキャラと台詞の取り合わせに一々笑いをもらっている。他に若い女優二名と松井。奇妙な塩梅だが群像劇。
秀逸なのは未来の設定で松井〝変態〟周の本領が十分発揮されている。が、問題はストーリーを進めるエンジンとして「楢山」のドラマが使われており、水と油のよう。この二つを演劇的に包摂してアウフヘーベンさせる終盤の奇抜な展開が、力業で芝居をどうにか着地させていたが、素朴な疑問が生じる隙はあった。
「楢山節考」のリアルは「食うものがない」というシンプルな事実の上にあり、この一事を巡ってのドラマであると言って良い位のものだ。この「楢山」の原理と、松井氏の生み出す秀逸な未来像(現代への揶揄)とは、趣向が少し違う、にもかかわらずストーリーじたいは原作の出来事を動力として進み、楢山の原理(人の食糧に手を出したものは村八分。原作では「楢山様が怒るぞ」、舞台では「よしなり様が怒るぞ」と騒ぐ)に依拠したシーンもあって、ところがテキストには窮乏の背景描写が不足で祖語が生じてしまう。そこだけ無視して観続けられなくもないが・・骨抜きの「楢山節考」にするなら徹底してやりきらねばなるまい。
といった所。個人ユニット・サンプルの事始めは手探りでも松井色健在、この先も楽しみ。

いたこといたろう

いたこといたろう

渡辺源四郎商店

ザ・スズナリ(東京都)

2018/05/01 (火) ~ 2018/05/06 (日)公演終了

満足度★★★★

二人芝居。イタ子とイタ郎の話、ではなかった。年増の女と若いめの女が初対面し、二人を取り巻く関係の過去と現在が会話から立ち上がって来るうまい脚本だが、お祓いやホトケオロシの場面が頻出するイタコ三昧な芝居でもあった。これが一人芝居だろうが息を上げる事なくやり切るだろう三上晴佳と、対するは林本恵美子なる初目見えの女優(年増役)。繊細さと大胆さとで緩急を作りながら、「事実」に関する言及は言葉でなく微妙な演技で伝えるところはさすが。であるが、畑澤の演出は禁欲的で、分かりやすい音響効果等は使わず、せいぜい照明の変化で、あとは役者が生身の演技で伝える。役者への信頼だろうか。

イタコについて印象的な芝居に『イタコ探偵工藤よし子の事件簿』がある。この芝居では、登場人物が視ているテレビのサスペンスドラマの人物が「現実」にも浸入してくるのだが、悩みを胸に仕舞い込んでいた女性の前にふいに現われたイタコ(工藤よし子)は、イタコの業に関するネタバレを口にする。「イタコは三つの事しか言わない」として、シンプルな言葉を挙げると、女性の胸の中に築かれていた堰が壊れ、号泣してしまう、という展開なのだが、「心配しないで」「ありがとう」・・正確には忘れたが、要はクライアントの心のつかえをとり、生きる背中を押してあげるのがイタコなのだ・・という説明がなされていた。
これを念頭に、という訳でもないが、演じられているイタコの憑依を見ながら、「実にうまく演じられている」のか、実は「本当は憑依されている」のか、今どちらなのかを注視する。イタコは「癒やし」の仕事だ、との観点を貫徹して見るもよし、そこを保留して(憑依があり得ると考えて)見るもよしだが、この違いは大きいと思われた。

愛とか死とか見つめて

愛とか死とか見つめて

渡辺源四郎商店

ザ・スズナリ(東京都)

2018/05/03 (木) ~ 2018/05/06 (日)公演終了

満足度★★★★

なべげんイタコ演劇祭、第1回!と冠が付く(普通一回目は一々「第一回」とか付けないしょ)タイトルの物々しさ(のパロディ)が可能ならしめたのは、我々の殆どが縁の無いイタコによる「ホトケオロシ」実演を芝居中に織り込めたこと(もちろん役の演技としてだが・・)。二演目ともその場面があり、適当に作ってやってるのでない事は実演の様子から伝わる(なぜそうと判るのか?は我々が信憑性を判断する根拠について考える好材料だと思う)。これは『もしイタ』を世に出した畑澤聖悟の「イタコ理解」あっての企画であり、そこには宗教というものが「人のためにある」べき理が自然に流れている、と思えた。なべげんは芝居という器を借りて常に何か勝負を仕掛けている。

「勝負」といえば、二演目を掛けた事もそうなるか。
もっともこの所、複数チームだったり、複数演目、短編集と長編の組み合わせとか、その公演を堪能したと言えるためには二度足を運ばねばならないような公演が増えているが、その経緯の詮索はともかく、なべげんは中身で勝負する。畑澤で二人芝居、工藤で三上除くオールスター(?)、どっちが得か、よ~く考えてみ・・ても比較材料がない所へもって「イタコ演劇祭」である。二つで完結という事なら、観るしかないか。

工藤千夏作『愛とか死とか・・』はストーリーが向こうからやって来るかのように自然で、意表を突かれても馴染んで行く心地よさ。なべげん独特の(各俳優のカラーの貢献による)コメディ色が波状で表出し、辛辣な展開を観る者に飲み込ませていた。特に音喜多の婆さん役には、意外に芝居に馴染んでいる事に感心しながらも可笑しさを抑え切れず(実は計り知れない貢献度)。久々に見た山上は役柄を掴まえており、この芝居の支柱。イタコと言えば『イタコ探偵・・』の探偵役・奥崎愛野は修行?から戻っての復帰一作目か・・的確さを増した印象。・・等々、俳優陣も輝いて見えた良作だった。
「いたこといたろう」は別稿にて。二作の比較について結論だけ・・甲乙つけ難し。

1984

1984

新国立劇場

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2018/04/12 (木) ~ 2018/05/13 (日)公演終了

満足度★★★★

小川絵梨子演出を久々に観て、新国立とは相性が良いかも・・大きめの劇場機構でこそ技も光る・・という印象をもった。傍証として数年前の『OPUS/作品』。相前後した『クリプトグラム』(世田パブ)と合わせて、シンプルな構造、コンセプトが明確な作品を得意とする演出家か、との印象だったが、一見「複雑」に見える今回の戯曲についてはどうだったか。

(オーソン・ウェルズとごっちゃになる)ジョージ・オーウェルは「カタロニア讃歌」でも有名だが何より『1984』が伝説的である(と言っても読んでないが)。戯曲化は比較的最近かと思われたのは、小川が殆ど完璧と言える舞台処理を施し、その処理法が現代的(映像の活用など)、そしてそれらが仲睦まじい恋人よろしく戯曲と呼吸していたと見えたからだが、大きく外れていないと思う。
ともかく途中までは「これはめっけもの」と心騒ぎ、圧倒され通しだったが、終盤、そして締めくりである種の失速感を感じたのは、なぜだろう?
・・途中まで素晴らしかったしメッセージは十分伝わったから良かった、と言えるのか、それは「せっかく見つけた逸品にケチを認めたくない」心理のなせる底上げ作用で、やはり何か欠陥があったのか・・。いや、今結論を出すことはすまい。

「戯曲と呼応した流れるような演出」は、恐らく前半戦での正解。後半のホラー映画のような恐怖演出の効果がむしろ不要だったのではないか・・と、何となくだが思う。このあたりで物語の背後の論理構造(観客が必死で読み取ろうとしている)が見えづらくなる感じもあった。(だがパンフでの対談によればこのあたりで小川氏は勝負していた意識らしい。)むき出しの恐怖は思考を吹き飛ばす・・そういう舞台はあまり無かったかも知れない(映画ではむしろ今や常套となっている。アクション映画さえホラーのように驚かせてナンボだ)。

映画版『1984』にあったシーンと流れが舞台でもなぞられ、大方原作を踏まえている事が判ったが、映画では諸々説明不足があり、舞台ではそのあたりが明確で、映画では不明だった部分がよく判った。即ち、超監視社会であるオセアニアの支配側の末端で働く青年ウィンストンの思想的立ち位置、鮮烈な出会いから恋人となる女性との関係、総統であり人間でもない(党そのものだという)ビッグブラザーと、反逆者ゴールドスタインに関すること。

やはり「引っかかり」は終盤である。オーラス、「現実」に片足を置く観客を「架空世界」から現実へと引き渡す役割を、俳優が担う・・という意味では、小川演出は「架空世界」の内部で決着させた(事になった)。というのは--最後にこの話は冒頭と同じ読書会の場面に戻り、間に挟まれた話はそこで読まれていた「1984」の再現だったというメタ構造が示され、このオチで一旦観客は安堵するも、黙々と机に向かって何事かしている主人公がふと、客に向かって主人公の不敵な笑みを浮かべ暗転となる--。こう書けば「割と普通」「あり得る」とも思われようが、舞台上はあまりに強いフィクション性を帯び、観客は否応なくそこに入り込んでいる。俳優がシビアに完璧にフィクション構築の要請に応え、「作り込まれた世界」が濃縮された様相を帯びる・・それほどに堅固に演出された舞台の世界は、劇場の外の現実とは、乖離しているのである。(話の内容が現実の暗喩になっている事とは別問題。)
「夢から醒める」時点で、体験の記憶を身体にとどめるための「現実とのつなぎ」が、私は舞台が舞台の内部だけで完結しないために必要だと考えているのでこうぐだぐだ書いているが・・、小川氏は「内部」での完成を自分の使命とするゆえに、戯曲が指示するものを表現し切ったと言える所で、幕を下ろしてしまうのではないか。(その感じを持った小川氏の舞台を思い出した。)
戯曲の原産国(英国)では、国柄と社会状況という色の付いたキャンバスの上に戯曲が書かれ、必然に何らかの具体的メッセージを帯びるものであり、つまりは「現実」との関係が不可分にある、それが演劇の自然なあり方なのではないかと(勝手に)想像しているのだが、今回の舞台で私たちは「英国の状況」を想像すべきなのだろうか・・と言えば皮肉が過ぎるだろうか。
小川氏の手腕が、「演劇を日本の現実にどうコミットさせようとするのか」を意識した戦線で発揮されるとどうなるか、そこを見てみたい。

私としては「架空世界」の外膜を俳優が破って出てくるくらいのラストが、そこまでの流れの完璧さに見合う、ある意味でバランスのとれた形であり、即ち非常に上質な「私たちの舞台」として結実する事になったのではないか・・「if」を想像するが、自分の発想がアングラに傾き過ぎであるかも知れない。

諸々ありながらも、エライ舞台を見た後味は否めない。
舞台装置・照明は大いに動員され、フルに使いこなされている。ダイナミックな流れの中に速替え、マジックに等しい入れ替わり、出はけがさり気なく織り込まれる。俳優の立ち位置、配置が関係性を雄弁に表し、美的でもある。
・・理屈抜きの「快楽」の世界だが、それだけでは何か不足が残るのだろう。欲しいのは「構築」の方向性に対する、離脱の方向、だろうか・・また蒸し返してしまった。

舞台の魅力を言葉で掴み切れていないが、舞台処理の鋭利さは、『プルートゥ』とは比較しようがないが、仮に順位を付けるなら次点、近年の暫定2位だ。

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