狂人教育 - 人形と俳優との偶発的邂逅劇 - 公演情報 演劇実験室◎万有引力「狂人教育 - 人形と俳優との偶発的邂逅劇 -」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    このサイズの劇場で万有引力を観るのは初めて。万有引力は「上」も使う。スズナリは縦に長い箱なんだと気づかされた。箱を埋め尽くしてなお足りない蠢きが出どころを求めて熱を帯びている。やはり身体能力が高い役者揃いなだけに動いて当たり前、動いてナンボとばかりである。
    10年以上前に観た同作品の流山児事務所版とは、比べようがない。恐らくあちらの方はかなり演出・趣向が入っていた(逐一場面を覚えていないが)。今回は比較的戯曲に忠実な上演として眺めていたが、やはりこの作品が私は好きである。
    万有引力版では、家族の構成員以外(人形遣い)はアンサンブル的位置づけであり、人形遣いが人形らしいしぐさを見せたりする。この世界全体が人形によって構成される世界だ、という比喩とも。
    操られる側である人形の(疑似)家族は、現実世界の家族が仮託されている。ただし家族の成員が「私」(最も若い次女)によって紹介された所によれば、かなりサイコな人物たちであるが。この「家族」というコミュニティを場として進行する物語は、家に出入りするドクトルが残した「この家にきちがいが一人いる」という言葉の波紋である。物語の後半、事態は急展開して行くのだが、人間の本質はこれ、と言わんばかりにシンプルな、一つの寓話となっている。
    万有引力版はビートの利いた音楽・歌が多用され、アクセントとなっていた。

    ネタバレBOX

    「狂人教育」の語が示唆する所を読み砕いてみると、、
    「一人いる」と言われた狂人にならないたために自らを「例外」としない振る舞い方へと自己統制していく事から、それに飽き足らなくなった段階で、「例外」をあぶり出す行為へと集団が方向づけられる。内なる敵を作り出す事もその一つだろう。以前映画で観た『悪霊』に、こんな場面があった。・・自らを先進的な集団すなわち革命の担い手と規定する者ら、ロシアの片田舎で西欧の最先端思想を居丈高に振りかざしながら、その集団の中で有利に振る舞おうとする者が、早速ある人間を焦点に定めて裏切り者と仄めかす。「狂人」と同様、「裏切り者」は「排除・処分さるべき存在」を指す一つの概念であり、これを人中に投げ入れる事で集団は排除機能を果たすべき集団となる。人は血の同盟に加担して行く事になる。
    「狂人教育」での「排除・処分さるべき存在」は「きちがい」であり、この「排除」のお墨付きを与える概念が投げ入れられる事による効果を「教育」と呼ぶとするなら、今なお人はこうした概念に惑わされ続けている「世の中」の実相が浮かび上がる。

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    2018/11/21 00:55

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