ロマン
水素74%
こまばアゴラ劇場(東京都)
2018/09/06 (木) ~ 2018/09/10 (月)公演終了
満足度★★★★
アゴラは満席、客中に青年団俳優の顔も見え、三階席に案内された模様。
名の由来も語らぬこの風変りな的ユニットは、田川氏の書斎派な佇まい、やや稚拙な自作の紹介文、そして何よりどこか詰めが甘くアンバランスさが残るテキスト、にもかかわらず、独特な文体で現代口語演劇界隈の一隅にあり、何か期待させるものがある不思議な存在だった。青年団リンク水素74%からリンクが外れて水素74%と身軽なネームとなり、三鷹市芸術文化センターのネクストにも選ばれ、このたび黒沢あすか、遠藤留奈へのオファーと、演劇界の「世間」的には躍進の時を迎えているのか?などと勝手な想像をしていたが、残念な運びとなった。台本があがらず8月駅前劇場公演を断念、台本が上がって三重公演は上記二名に代わってザンヨウコ、小野寺ずるの参加で実現。今回の東京公演はアゴラで上演予定の劇団公演中止でたまたま実現した。上記二名の代わりは兵藤久美、島田桃依。主催田川氏の所属する青年団が公演を全面的にバックアップし、公演終了後は今回の責任をとって青年団を退団、及び演劇活動を当分自粛という。
芝居は私が見た水素74中一番「まとも」だった。まとも、の意味は目立つ破綻がなかった、くらいの意味だが、しかしその事はリアルを担保する。物語に潜む問題性について思考している自分がいた。
役者も良かった。ディテイルが穿たれている事が単純に嬉しい。同時に、当初の出演者ならどうだったろう、とか、どの役をやったのか、とか、この戯曲が結果「書けなかった」代物なんだな、とか、「十分な稽古期間が取れず客に見せるものにできない」が中止の理由だったがそれは台本脱稿した後の決定だったのか、とか、色々と思い巡らしながら見ていた。兵藤久美は何を考えているのか分からないが、おかしい。用松亮は登場時からクスクス笑いを取っている。中心人物である前原瑞樹がマザコンをリアルに好演。浅井浩介がハマリ役で、無理を通せるキャラの俳優力が田川脚本の成立を大いに助けている。折原アキラはダメ男の喋りを聴いてるだけでキショ心地いい。
田川氏の演劇はハッピーエンドを全く目指さない。半径何メートルかの日常から想像を羽ばたかせて、夢物語を描くのでなく、日常の「別のあり得る形」を思い描き、台詞化している。そのディテイルは面白い。だが敢えてメッセージに括らないがために、無理が来ない代わりに、平田オリザなら何らかの形で用意するだろうカタルシスがない。
ダメな状態から這い上がってどうにかしたい、なりたい・・通常の防衛機能が、この作り手にはなさそうである。落ちればそのまま落ちっぱなし。
リアリティという味方を得れば、切り取られた現実(仮想)には自ずと普遍的問題が必ず孕まれる。だが本人がそれを望んでいるのかどうか・・どこまでも正体の読めない存在だ。
二代目なっちゃんの愛人。
なかないで、毒きのこちゃん
OFF OFFシアター(東京都)
2018/08/21 (火) ~ 2018/08/30 (木)公演終了
満足度★★★★
初の劇団。小さなOFFOFFの劇場全体をフル活用。客席から登場するわ、走り回るわ、客を巻き込むわ、ステージ右側の楽屋スペースも開陳するわ、背後のオペ室の小窓からも台詞が漏れるわ。呆れた笑いに顔が引きつった。
前半(時間にして1/3程度か)の四人芝居はマンションの一室、蒲団のある風景。一組のカップルと女の親友の同居生活という危うい設定。リアリズム、三浦大輔系の赤裸々・酷薄なワールドは引き込むものがあったが、後半は反転と言っていい程様相が変わる。
笑う茶化師と事情女子
匿名劇壇
こまばアゴラ劇場(東京都)
2018/08/31 (金) ~ 2018/09/03 (月)公演終了
満足度★★★★
初お目見えatアゴラの日。この日はかなり幸運な部類の日になった。名は時折目にしていたが全くの未知数。蓋を開ければ言葉のチョイス、会話運び、構成、人物設定、俳優(キャラ演じ分け)、舞台処理・・どれもうまい!とつい讃辞を送りたくなるが、個人的にはとりわけ「ポリティカル」を内実を理解した知的な台詞として各所に織り込む姿勢に共鳴・・その一言で損をしかねない時世だけに。
一度ならず二度三度、お目見えしたい。
「ひかりごけ」三編
三条会
ザ・スズナリ(東京都)
2018/08/30 (木) ~ 2018/09/03 (月)公演終了
満足度★★★★★
3バージョンある内の恐らくオーソドックスな?男生徒編を観劇(教師風の役で女性も登場)。再演が重ねられている演目(2001年利賀コンクール最優秀賞からという)をこのたび漸く。三条会は数年前に違う演目を中途半端に観劇し(前半を見逃し)、ただ「演出が勝っている」印象のみ残す。
『ひかりごけ』は衝撃だ。2018年現在「斬新な」という修飾は当らないにせよ、数々繰り出される演出手法はテキストに即して瞬間瞬間必然性を帯び、小さな驚きと共に胸に落ちる。構造の強さというか、オリジナルの快活さが漲っていた。学ラン姿の夏目慎也とG.K.Masayukiの取り合わせは「ズルく」もあるが、、
「他のも観たい」・・終演後の客席から会話が聞こえた。左に同じ。
原作が持つメッセージ、人肉食という題材も広く知られているが、その知られている作品をわざわざ舞台にしてまで目に入れる価値があるのか・・この問いは、例えば著名な俳優が出演するわけでもなく、著名な演劇人の肝入りでもない、謎解き式のストーリーでもない(要はエンタメ性の対極)、純粋に「ひかりごけ」という作品を鑑賞する事だけがこの観劇の目的だとしたら、どうだという問いだ。ある意味それは普通のことだが、その価値が「ある」事を実感させられる、堂々たる舞台だった。
地上波 第四波
STスポット
STスポット(神奈川県)
2018/08/24 (金) ~ 2018/08/26 (日)公演終了
満足度★★★★
音響の所に時折名を見る牛川紀政プロデュースの第四弾だという。昨年の第三弾はモメラスが参加。4演目の内、舞踊が3本、1発目がナカゴー・川﨑麻里子の一人芝居で、彼女自身の日常から引っ張ってきたかのようなオーディションエピソードの風変わりな語りに思わず引き込まれた。舞踊も三者三様、皆女性。好感が持てた二人は、身体を通して存在をさらけ出す要素があって、一人はほぼエロで女性の性欲まるごとの日常がテーマか?と。もう一人は動きのユニークさと、どことなく「私こんなだけど、何か」と居直るかのような様子に面白味。もう一人は技量を持っていそうなのだが「動き」からはみ出てくる彼女という「存在」が捉えきれず(型を破ろうとする意志はあったのかも・・だが)。創作は難しきかな・・と勝手に納得。
あの子にあたらしいあさなんて二度とこなきゃいいのに
升味企画
アトリエ春風舎(東京都)
2018/08/22 (水) ~ 2018/08/26 (日)公演終了
満足度★★★★★
合宿所の内部(狭い和室)と外(喫煙所のある庭っぽい四角とそれを取り巻く通路、通路に沿う壁にノブ付の扉)。具体性のある装置がまず目に快く入って来る。人物は高校演劇部部員4名と顧問。静かな演劇範疇の何気に高校生な会話から入り、ある特殊な状況が徐々に、うっすら見えてくる。合宿所での「現在」場面に時折、学校での「過去」が挟まれ、過去から現在に至る関係図が浮かび上る式である。ある一件に直接間接に濃密に関わっていた5名、登場しない重要「実在」人物(「現在」の中心人物と言ってよい)、その彼との関係が取り沙汰された登場しない死者(「過去~現在」の中心人物と言ってよい=女性)。言及されるだけの人物がぼやけて最初分かりづらいが、最後にはしっかりパズルは出来上がる。完成された絵はゴヤの絵の如くか、はたまた・・。現代の人間関係の病巣に踏み入り、誇張した物語にも思えたが、そう思うより前、演者らの細を穿つ演技と台詞とが相まって、演劇部という「閉じた世界」の歪な様相が立ち上がっている。
新しい才能を怖々目の当たりにする、この悦びは替え難い。
罪の滴り
白狐舎
東京おかっぱちゃんハウス(東京都)
2018/08/18 (土) ~ 2018/08/21 (火)公演終了
満足度★★★★
紅王国、白狐舎いずれも未知なる集団。どちらも1テーマを丁寧に掘り起こして劇化し、面白味があった。民家の一室、ダイアローグを交わす俳優の身体のありようを間近に「観察する」自分と、その視線に耐えて身を「さらす」俳優。この非対称性。つくづくえらいと思う。
前半はオウム事件で指名手配された長期逃亡者の男女をモデルとした二人の会話劇、それぞれ別の犯行にどう関与したか、など事件の細部に触れ、実相を探りつつも、そこにいるのはただ二人、その心の行き交いにフォーカスしたいような、そのままにしておきたいような、作者と書く対象の微妙な距離感。後半は主に猟奇殺人と騒がれた実際の事件を題材にミステリー小説を書いていた男と、女性編集者の、ある日の顛末。女の催促にあい、男は書けなくなったと漏らすが、男がどのようにして「書いてきたか」、それゆえ「如何に限界か」が男の口から語られ、協力を申し出た女は口述筆記を始めるものの、それでは済まない猟奇な事態に巻き込まれて行く。
どこかしら既視感のある物語ではあるが、言葉が俳優の体を介して立ち上る新鮮さがあって、それは「この瞬間、新鮮にあろうとする」以外に術のない所に俳優を立たせる「場」の力では、、などとまたテキトーな事を考えた。胡座の足はつらかったが、心地よい「芝居の時間」であった。
ロンギヌスの槍
風雷紡
d-倉庫(東京都)
2018/08/15 (水) ~ 2018/08/19 (日)公演終了
満足度★★★★
(立ち寄ったらえらく難解=意味不明の為推敲せり。)
風雷紡は二年振り二度目の観劇、前回は下北楽園の狭い(というよりせせこましい)空間で、物々しい歴史秘話が展開。d倉庫に移り、水を得たように空間を使い切っていた。役者もそれなりに出来る人達。
浅沼社会党委員長刺殺事件を基にしたフィクションだが、史実とフィクションの境界が不分明な所で、台詞の言葉が仮想世界を構築するためのものか、歴史事実を評したものかが分からず、引っかかる部分もあった。
60年安保の熱気さめやらぬ同年秋に起きた事件が史実、これをモデルに刺殺した少年を少女と設定を変えて主人公に据えている。
性別を変えた事で、一途に物を思う美しい少女、というキャラクターを得た。将棋ならば歩が金になったくらい「使える」。右翼少年も持っていたかも知れないナイーブな「純粋さ」は、男性をイメージするだけで「社会的」には犯罪者だという側面から逃れられないのに対し、女性とする事で「行動した女」の聖性(ジャンヌダルク)が際立ち、犯罪者の姿は背景に遠のく。その彼女に対しドラマの側が「現実」を突きつけていく、という展開になっている。
ただ芝居での主な言及は、彼女の家族関係、そして親の反対を押して入会する事となる右翼団体のこと。学校では左翼が「主流」である中で、右翼の彼女は「浮いて」いたとされるが、政治家刺殺に至る彼女の足跡は、強い意志によるものというより、十代の彼女の心模様の軌跡であった。実際「運動」とは(特に若い時期のそれは)そういった「気分」に左右されるもの。
彼女に大きく影響したものとしてこの芝居で描かれているのは、亡くなった双子の兄の存在。そして病弱な彼と一緒に作って父母に見せた、聖書劇(十字架にかかったイエスキリストの腹を槍でついたロンギヌスのくだり。もしくはそのくだりは二人だけの遊びのネタだったか・・忘れた)である。
ロンギヌスの逸話が語る罪=根源的な罪が、社会的な罪の概念と対置され、主人公が政治家を殺めた罪にも重ねられる。一般に語られる犯罪・罪についての言葉には確かに違和感がある。法を逸脱した者はワイドショーのいじりのネタにされるが、果たしてこの人らは、そして自分は、人を裁けるのだろうか、という・・。人間の本質から「行為」の意味を捉え返して、それは一体どういう「罪」なのかと問う・・「ロンギヌス」の逸話はその視点を与えるものだが、主人公が人間の本質に照らしてどうあったのか、実際よく分からない。
恋愛に似て運動も(時代の空気も手伝って)「熱に浮かされた状態」とされる一方、感性豊かで瞬発力ある若者が変革を為さずして誰が為そうか、という疑問ももたげる。(話は逸れるが..)近代日本は「上」に従順たる人材の育成には成功したが、健全な民主主義を支える自律性の発芽を促さずむしろ摘み取ってきた。戦後経済や技術を発展させた日本が現在負けを喫している遠因には、組織の硬直化・老害、つまりは既得権(前例が重視される)の維持拡大の目的を超えた高次の目的を見いだせない状態があり、「変える事」「変わる事」への恐れが「異論」を排斥する(空気読めないと蔑む)風潮を蔓延させている。
これを踏まえれば(踏まえなくても良いが..)、この芝居の基調には「物事を遂行した者」への肯定的な眼差しがある(たとえ犯罪でも)と言える。その事は批判すべきどころか、演劇がやるべき仕事がそこにあると評価したい。ただし史実としては、「左」派が日本の主流であった事は一度もなく、その「恐れ」を抱かせた現象があったに過ぎない。しかし芝居では当時「左」が世を席巻していたかのような描写があり、主人公の危機感を高め暗殺実行のモチベーションを最大化している。彼女の「歪んだ主観」を描いたと取れなくもないが、いずれにせよ彼女への英雄視の中に「世の危機」が背景として織り込まれる(即ち誤解)。
物語は、最終的に彼女が犯罪者であり「彼」を暗殺する事によっては変革は起きず、ただ一人の個人を抹殺しただけに過ぎない・・そう彼女に宣告するのだが、それでも消えない主人公への英雄視は、彼女の「状況への対応」に向けられる。
時代を現代に置き換え、もし「行動しえた者」を描くとしたら、どうか。非難、または英雄視される存在は、その「病的」あり方を「心」とその来歴に求めるだけで成り立つか。つまり政治的状況への「判断」の正否を問わずに物語化できるだろうか。恐らく、安倍晋三一人殺しても変わらない状況が作られている構造の壁を前にするだろう。
・・この題材を扱うならば、現在あるこの「壁」に引っ掻き傷くらい残したい・・。個人的な願望ではあるが。
ミセスフィクションズ夏の振替上演・上映会
Mrs.fictions
駅前劇場(東京都)
2018/08/17 (金) ~ 2018/08/20 (月)公演終了
満足度★★★★
Mrs.fictionsの長編舞台初観劇と期待した「月がとっても睨むから」の代わりに、『花柄八景』を映像で観た。ある劇場主催の落語縛りの企画に書き下ろしたものという。落語好きにも嬉しいディテイルが押さえられているだけでなく、ドラマトゥルギー的にも一々適ったりの筋立て。
TVで大失態を演じ、弟子にも逃げられた失意の師匠のくだりが一景、以後パンカーのカップルや、謎めいた少女、訪問販売員となった元弟子が師匠の部屋を出入りするようになる。八景とも師匠の部屋が舞台だが、バラエティに富む各場面とも収まり良く、景ごとに丁寧にシーンが仕立てられているあたりも何処となく落語の小咄の尺と小さなオチを踏襲するかのようで好印象。でもって物語も円満なラストを迎える。
冒頭の師匠の高座での喋り「地獄八景亡者戯」が振りとなっていて、珍妙な連中を弟子に入れて二つ目だ真打だと昇格させている一見元弟子の目にはヤケに映る師匠の振る舞いも、無念の内に実は死んでいた師匠の亡霊か、と。そうみれば納得もでき同情心も湧く。巧妙なのは師匠が既に亡き者なのか、今のは達観しきった姿なのか、確定できない曖昧さを残している点。
仕事の合間に暇を見つけては縁側に座って中の様子をみている元弟子が、師匠の姿を通して落語への愛を見いだして(思い出して)いる事だけは確実で、師匠が幽霊であるか生者であるかはその事にとっては二次的な問題だ。
・・「面白ければいい」言葉には出さないが、型破りなキャラと喋りのパンク男とパンク女、掴み所のない少女を通して、師匠はそう言いたいのではないかと想像されて来るし、実際観客は彼らの喋りを面白いと感じる。もっと聴いていたいと思わせる喋りの魅力を放たせるのに成功している。(「ねえ、あれやって」と少女に乞われてパンク女が一くさりオープニングを語るのが「シド&ナンシー」で、彼女が最大のリスペクトを捧げてそれを語り尽くすだろう事が全身から伝わって来るので、さわりだけやってお茶を濁したようには全然見えない。)
こんな落語があって悪い事はない、こんな落語家のなり方があっても構わない、落語の定義など誰が知っていようか・・そこに落語がある、そう思われればそれは落語だ。そして江戸の粋、これを説明する無粋を働きはしないが、武骨で馬鹿正直なパンクゆえにぶつかりあっているカップルは存在そのものが落語の登場人物をそのままにして体現しているし、「自分には何もない」事を一切恐れない存在である謎の少女も、相通ずるものがある。
彼らとのハチャメチャな師弟生活を営む師匠を眺める元弟子の眼差しも(恐らく)変化して行く。2013年の5人芝居。
記憶の通り路
東京演劇集団風
レパートリーシアターKAZE(東京都)
2018/08/28 (火) ~ 2018/09/02 (日)公演終了
満足度★★★★
名前だけは随分前に知っていた劇団。何と言っても目を引くのが<レパートリーシアターKAZE>なる自前の劇場だ。アトリエを持つ劇団は多いが、間借りのため制約があったり、古びたそれらとは一線を画して、表に高々と看板を掲げた十割自前な劇場である。大久保通りを背にして右手にある天井の高い展示スペース(普段は舞台装置やトラックでも収納しているのだろうか)の受付机で受付を済ませると、左手の建物の1階入口でなく、幅の広い外階段を昇って行く。幅が広いせいか?負担感がさほどない。体感的には2・5階ぐらいか、入ると階段式客席の裏手で、ぐるっと前に回って客席へ登っていく。そこにはこの劇団が望んだ理想的なサイズの劇場空間があった。水が張られた長方形の背後に板があり、照明を当てられた水面の波紋を映して絶えず影が揺れている。天井高く周囲は黒の闇に吸い込まれている。開演後「板」は動いてその浅いプールの屋根となったり、上へ引っ込んだり・・舞台上の視覚美が一貫して保たれ、詩のような幾つかの場面が重ねられていく。
さてその舞台。今年は30周年企画として数公演を掲げ、今回は何年か前に話題となったタイトル『なぜヘカベ』の作者による新作(この作者のものは幾つか上演している)。チェーホフ、ブレヒトと海外作品を中心にレパートリー上演を重ねる劇団の今回の上演は単体で評価できないものがある。(→ネタバレへ)
スマートコミュニティアンドメンタルヘルスケア
ホエイ
こまばアゴラ劇場(東京都)
2018/08/18 (土) ~ 2018/08/27 (月)公演終了
満足度★★★★
初演をみたときの正直な感想は、ノリで一晩で書いて推敲せずに出した代物、だった(うん、よく出来たと思う、と山田氏はパンフに書いてたが盛ってるな~と思った)。今回、作品が持つ良さがよく出ていた。会場が春風舎からアゴラに変って劇場が持つ「枠」の堅固さからか、大揺れな中身も安心感を持ってみられた事、また恐らく個々の演技もかなり微調整され「作為」の跡があった。他に見られない言わばぶっ飛んだ世界だが、しかし作る側としては骨のない軟体動物でなく、飽くまで脊椎動物な作品でありたい願望が漂っていて、受け止め方はやはり難しい。
ロリコンのすべて
NICE STALKER
ザ・スズナリ(東京都)
2018/08/15 (水) ~ 2018/08/19 (日)公演終了
満足度★★★★
初。数年前の『日本の劇』賞公演(新見南吉のお話)で純朴な女子学生姿で登場し、ラストをさらった白勢未生の名を見つけて観劇した。役名も白勢。白勢ありきの舞台だった(と私には見えた)。
本筋に当る「現代」の教師とある生徒との(教師の主観で描かれた)エピソードと、それに絡むおよそ2つのエピソードが順繰りに展開され時間経過を刻む。本筋エピソードでの、小中高と成長していく白勢と教師のやり取りの点描が印象的。「現代」とは、実は私達の現代(2010年代)のことで、芝居における「現代」は数十年?先の未来となっていて、その時代に発見された古い文書を元に2000年紀初頭のエピソードを復元した、という設定になっている。発想は面白いが、絡んで来るエピソードの位置づけが判りづらく、一組の男女のエピソード(未来の)が良い具合に煮詰まると、カットアウトで「・・という夢を見た」と話す女性とその聞き役の男との場面に移る。この二人がどの時代の話だったか思い出せないが(どの設定でもなかったかも知れない)ともかくこのエピソードがブリッジとしてはめ込まれているからか、深みの点ではどうにも浅く、厳しいものを感じた。
シーンによってハートウォーミングな展開が見られたり部分的に良さがあった。ただドラマとしては本筋に当たる教師と白勢の物語が、他のエピソードの挿入でお預けを食い、ようやく最後に十八歳になった白勢と教師の緊迫の対面を迎えると、やっと芝居らしくなる。この短いエピソードでは持たないから装飾を施してエピソードを増やしているような具合に見えるのも、リアリティに濃淡があるせいで、やはり「付け足し感」を拭う人物描写が欲しいというのは正直な感想。
お茶と同情 Tea and Sympathy
劇団フライングステージ
OFF OFFシアター(東京都)
2018/08/08 (水) ~ 2018/08/12 (日)公演終了
満足度★★★★
久々二度目のフライングステージ。公演を直前に知って運よく空き日に観劇できた。一回目は2016年「新・こころ」(初演2008)で、その頃よく名を目にしていた関根信一の正体は・・?と思っていたら氏主宰劇団の公演情報を知ったので新宿はspace梟門へ赴いた。実際はその一月前に舞台上で役者姿を目にしていたり、その後の演出作品・講師を務めたワークショップ等、等で正体不明でも何でもなくなったが、ただフライングステージという劇団の謎めきは未だ私の中にあって、また関根氏の演出にはスッキリと理に適った処理の跡が感じられ、気になる事の一つだった。
果たして舞台は二年前観たのと同じ独特な風合い(悪い意味でない)があった。「gayの視点」という事が大きいと思うのだがそのわけは、俳優が舞台上に立つ時(客演もいるし劇団員が必ずしもゲイとは限らないと思いつつも)「当事者性」が香り立つ(観る側の勝手な想像で)という効果が一つ。今一つは、これが重要に思われるが、ある事柄についての「共通了解」を持たない客を想定した提示の仕方(場面の切り取り方や言葉のチョイス)。gayという生き方に纏わる問題(差別・マイノリティといった)を学ぶ副読本かと思う程分かりやすく、前回観た「新・こころ」がやや婉曲表現であったというのもあるが今回はテーマを逸らさず直球であった。問題を立て、それを整理するような具合に、「物語」も一場面一場面が簡潔にまとめられて進む。「誤解」を生みやすい事柄を「説明」する順序の大事さ、周到さにおいて関根氏自身が手練れなのだろうけれど、無駄なく、キャラが明確、悶着あって鎮火、また何かあって落ち着く、という起伏を受け止める潤滑油に笑いがさり気なく、きっちりと仕込まれている。そうして物語はある逃れられない根本的な問題を浮かび上らせる。
普遍的テーマとして表現すればそれは「人に知られると不利益な真実」を抱えた個人と他者との関係のあり方。教育実習生として訪れた学校で主人公の青年は、全校集会での挨拶で「自分の事」を生徒に話しておきたいと希望したが教頭に反対され、他の教員が集まって討議したが結果的に彼は自らその希望を取り下げた、というのが冒頭。以降「彼ら」を見舞う困難によって最終的に、状況の側から「賭けに等しい選択」の道が主人公に用意され、彼はそれに応じるように、進み出る。
本作の解説にもあった米映画の王道と言えるドラマのモデル(感動しつつも日本ではああは行かないよな・・と嘆息が漏れるアレ)が思い起こされるが、言葉を選ぶように発する青年の台詞を、観客は一音も聞き逃すまいと注視していたと思う。・・二週間の実習を終えた月曜、全校集会で主人公は別れの挨拶をする事になっていたが、目の前にいる生徒の間から侮蔑語を投げつけられた事で、彼は逆に自分が本来そうしたいと願っていた言葉を言うのである。勇気を奮ってひと言目を声に出そうとする瞬間、葛藤や恐怖にふいに襲われ、一瞬だが言葉に詰まる。それまで表情に出さないタイプに見えた彼が初めて動揺を走らせる演技には「真に迫る」もの・・手垢のついた言葉だが・・があった。
人が持つ感情をさらりと見せるその瞬間は、それは演劇が普通に持つ力だが、この場合「露見」と言うに等しい。この舞台で持ったインパクトの背後事情は、こうだろう。・・「共通了解のない観客」を想定した、事実を淡々と描写して進行する劇とは、我々の現実>日常感覚から逸脱をしないという事である。「台詞によって説明された状況が役者の身体・顔で後追い的に説明される」と見える形式は、人物を作り上げる演技アプローチと異なり、淡々として見える代わりに、物語の饒舌な語り手となる。高校生同士のやり取りなど戯画化されているが、ボケと受けの掛合いで言うと戯画的形象(ボケ)は受ける側の真実を浮上させるコミット法、笑えるのはリアルが浮上するからだ。
たとえフィクションでもこの物語は恐らく「当事者」にとって日常の、現実の延長にある事を免れない性質の事柄だ。それゆえ殊更心理を説明しない情景描写(現実の光景を見る感覚を逸脱しない)にとどまる事が要求されるのではないか。
青年が一瞬見せた動揺(表現としての)は、テキストの指示に対する身体的「説明」ではあるが、抑制された物語叙述から「露見した」かに見えた(彼ら側からすれば「さらす」事となった)表情にはテキストが必ずしも要求していない(それが無くとも成立する)余剰が見え、それだけに際立った。観客は「事実」を受け取ったに近い出来事としてそれを見たと思う。
清々しく舞台が終わり、立ち並ぶ演者たちの表情には、観客である私達が感じているのと同じ地平にある風情があった。お金を取って舞台を努め「させて頂いた」と、恭しく礼をするのでも、お互いで濃密な劇場を作り上げた共闘者に向ける笑顔の挨拶でもない、素朴で愛着のある表情だった。
したため#6『文字移植』
したため
こまばアゴラ劇場(東京都)
2018/08/11 (土) ~ 2018/08/14 (火)公演終了
満足度★★★★
ポストトークは和田ながら+渋皮まろん、後者が前者の考えを聞き出す質問者役という図になっていて、和田女史の「演出家」職への若い野心を垣間見るトークだった。
窺えたのは和田ながらメソッドの片鱗ではなく、ただ取り組む対象である戯曲を前にしてその料理法を模索する、その自分なりの思考の進め方を持っている、という事のようだ。競技に挑むように戯曲に挑む、この遊びが楽しく、これを仕事にして行けたらどんなに良いか・・成長と拡がりの途上にある躍動がとりわけ伝わって来る。
今春の演出家コンクールでは二日とも和田演出の発表を見逃したから今回はリベンジでもあったのだが、渋皮氏によれば「コンクールとは印象が随分違う」という。だが和田氏は「実は同じなのだ」という。
同じ、とは演出家の姿勢が同じなのであって作品から受ける印象が違う、という事をどう作り手は思うのか、についての返答は聞かれなかった。そこを問題にしない強い作り手なのかも知れないし、自身の中の「これしかない」と思える答えが実は様々な選択肢の一つである事を相対化できていないだけなのかも知れない(相対化できる事が創造者にとって良い事なのかどうかは判らないが)。
さて舞台の方は、小説の地文を4人の役者(男女二人ずつ)が分担しつつ発し続け、しかも様々な「動き」を課せられる。このアプローチは地点を思い出させる。「テキストをどう役者の身体に負荷をかけつつ語らせるか」。演出家の発想が問われる。
私の感想だが、まずこの小説というのが、一人の女性翻訳家が一冊の本を訳す仕事のためにカナリア諸島の中のある島に逗留する、そのかんの主人公の苦闘と現地人との接触がもたらす思考の、一人称による語りなのだが、「翻訳」という作業に伴う苦悩(産みの苦しみ)がよく表現されている、と感じた。文体がそうであるし俳優の動きと語りも小説の世界を舞台上に立ち上げる事に貢献していた。
だがこの「翻訳家の苦悩と彷徨」の物語が万人の興味を持つものかと言えば疑問が生じる。私はひどく親しみを覚えて聞き入っていたが、一歩間違えば「どうでも良い」と思ってしまいかねない心許なさも時折よぎった。
それだけに終盤のアクティブな作りは、渋皮氏によれば前半との間に断絶があり、感想の中には「後半の巻き返しがすごい」というのもあって、この芝居をある意味言い当てていたが、終盤の<それ>はそれまでなぞっていた小説の世界からの離陸ではなかったか。原作を斜め読みすると、終盤主人公が何者かに追われて逃走するくだり、推測だが「翻訳」に伴うありとあらゆる煩わしさを戯画的に表現したものか、「苦悩」のパンチドランカー状態が見た狂気の夢か・・いずれにせよ翻訳の苦しみと、そのために地球の果てを訪れた自分に対する問いの延長に、逃走劇は置かれている・・と想像される。だが舞台のほうは「言葉」を言わせていた前半と、役者の身体ごと主人公の「逃げる」行為を体現する後半では、舞台の成り立ち方が異なり、後半は小説が持つニュアンスから空へ舞い飛んで行った印象だ。だがまあそれも有りなのかも知れぬ。
冒頭、姿の見えない俳優の声(小説の文をリレーで、妙な区切り方をして読んでいる)が響き、やがて照明がゆっくりと入ってくると、横一列につるされた4枚の(顔を隠す程度の)透明アクリル板の向こうに役者が立っている。目の前に飛び込んだのは知った女優の顔(アルカンパニー『荒れ野』で鮮烈だった)、暗闇では「演技しい」な声やなァ位に響いていた四人の声色が、視覚による情報が付加されると別の響きを持って来る。そう言えばチラシには役者名が書かれていなかった。演出家・和田の自負だろうか。・・そんなこんなで声と顔と、動きとを駆使し俳優はしっかりそれらをこなしていたものの、小説の地文を読む、即ちリーディングという今回の出し物にやはりほしかったのは、和田氏が「なぜこれを選んだか」、いや、そんな疑問さえ封じるほど必然に思える何か、である。
排気口
イデビアン・クルー
世田谷パブリックシアター(東京都)
2018/08/09 (木) ~ 2018/08/12 (日)公演終了
満足度★★★★
井手茂太氏による「演劇」舞台以外での、つまり舞踊でのパフォーマンスの鑑賞は初めてが。「それ」と思い出す事ができるのは少し古いがMODEのカフカ作品で、一人苦悩する主人公とその周りでシステマティックに集団化された動きとの対比が演劇的効果を上げていた。
舞踊という抽象性の高い表現形態では、表現された形(シニフィアン)がどの意味(シニフィエ)に対応するかを測りかねる事など「ごく普通」と言えるが、今回はある面で判りやすく、ある面で判りにくい・・その塩梅に特徴があるなとまず思った。
舞台は日本旅館の広い四角い一室、そこをメインに、スケルトンで左右・奥へ広がる空間が「黒」の中に浮かび上っている。要はそこが「旅館」であるのは間違いはなく、判りやすい。登場する人らの衣裳の殆どが着物で、旅館の仲居、小間使い、芸者、番頭といった風なキャラ分けがあり、着物以外を逗留者とするなら三、四人という所。
「何が起っているか」は具さに判らないがニュアンス的なものはしっかりと存在している。「音」が隙なく空間を彩り(音響:島猛)、全体に流れていた音楽が一ヵ所に絞られ、ラジオから流れ出る音に収まるといった、空間を意識させる技から、微かなノイズでも意図的だと分かる技術(性能)が、照明ともども空間の解像度を密にしている。これに見合う緻密な身体パフォーマンスになっているかと、目を凝らしている瞬間があった。
旅館での様々な人間模様が、描かれているに違いない。ただそれら一つ一つの「出来事」よりは人間観察の眼差しの行き着く先(人間観、のようなもの?)が、表現したいもののように思われる。ただそれが何かを明示する事はできない。できないが、終りに向かうにつれ輪郭と呼べるものを掴みそうな予感、のようなものはあった。
目に入ってくる形には「意味」を意識させるものがある(これが井手氏の振付が演劇向きな理由か)、が、実際のところ「逐語的」意味は伝えたい目的ではない。技術的に高度なのかそうでないのかも私には判らないが、快い瞬間は多々ある。ただ身体パフォーマンスの視覚的な快感に素直に浸れないのは、「意味」がチラついてそれを読み取ろうとしてしまうからだが、終局、そうした「意味」の片鱗は全体の中に溶け込んで、「意味」を成しえないものとしての人間の風景を見た、という着地であったように思う。時折見えた人物の表情や何やが、「見た」実感を支えていて、自分が「見ていた」のは人物たち(それぞれが担った役の?)だった気がする。
観劇の大きな要因は宮下今日子の名を出演者に見出した事で、今作でも私の目にはこの役者の実在感が半端でなかったが、特徴的な存在は他にももちろん居て、「場面を演じる」姿として強く色づけされている。総員がキャラを担って「物語」を構成しているらしい事は、判る。残影は群像劇の躍動より、そのバラバラ感にあり、哀しげであるのだが。
福島三部作 第一部「1961年:夜に昇る太陽」
DULL-COLORED POP
こまばアゴラ劇場(東京都)
2018/07/21 (土) ~ 2018/08/05 (日)公演終了
満足度★★★★
意表を突かれた内容だった。数年前アフタートークか何かで谷氏が福島取材について話していたが漸くお目見え、しかも三部作に結実する第一弾とあって期待全開、否、怖々覗き見た。
第一話は高度経済成長期の日本の地方と東京の構図が軸になっている。その二つを結ぶ鉄道の車中が、当時流行った歌謡曲(失念)がゆったり流れる中ムーヴで示され、一人去り二人去って残ったのが、物理学専攻の東大学生(主人公)、そして男女のカップル。行先は共に主人公の実家福島の双葉町とあって意気投合。芝居の主たる舞台はその双葉町、「日本のチベット」福島県の浜通りである。3年後の東京五輪もまだ遠い(情報伝達状況も当時は違う?)、だが未来は仄かに明るく、貧しくとも活力溢れ、戸外には子どもの世界が広がっていた時代、古き昭和の戦後の人びと(特に地方の)の意識・風俗がいささか戯画的にこれでもかと描写される。そ田舎へ、原発立地の話がやってくる。
「流れ」に抗うのが如何に厳しかったか、今振り返れば嘘であった「安全神話」を如何にして言い含められたか。そこにどんな「ドラマ」があったか。既に知られている歴史を辿る話ではある。だがそれだけに誘致の話がまとまった時、複雑な思いで見守る主人公(孫)に祖父が念を押すように三度言う「おまえは反対しなかった」、最後には泣きが入り、確信犯的に「現在」の目が重ねられる。それが反則にならず演劇的場面として成立した時、この話を始めた発端の事実(原発事故)が迫ってくる。
self document 01
早坂企画
アトリエ春風舎(東京都)
2018/08/03 (金) ~ 2018/08/05 (日)公演終了
満足度★★★
設問として掲げられた「嘘と本当」、こいつは演劇では一筋縄でない代物なわけで、この言葉を無前提に口にした時点で、発話者の嘘っぽさが滲む。というわけで「嘘と本当を見分ける」などという誘導には一切乗らず(乗れず)、それに代わる何らかの提起を待ったが、眠気に襲われない時間内にそれを発見する事ができず、終わってしまった。名乗られつつ姿を現さない名である(主宰の)早坂彩が、最後まで登場しない事により、結局真剣に観てもピースは埋まらないパズルを眺めさせられていた感。
うまく相手を喜ばせるための嘘になっておらなかったのでは・・と。「本当」を開陳したい衝動が「嘘」を支えている、あるいは本当を浮き彫りにするためにこそ嘘がある、というのが演劇における「本当と嘘」の関係であるなら、本来「嘘」だらけである演劇では「本当」にフォーカスするのが正しい探求の態度ではないか・・などと遊びのない理屈もつまらないものの一つではある。
枳殻の容
TOKYOハンバーグ
小劇場 楽園(東京都)
2018/08/02 (木) ~ 2018/08/05 (日)公演終了
満足度★★★★
作・演出大西氏の知己に当る実在の人物(サッカー界では有名らしい)が話の題材で、しかも女性による一人芝居。全く予想できない舞台風景を確かめようと「楽園」へ赴いた。主人公(舞台には居ないそのサッカー選手)の生前のパートナーが、永田女史演ずる役。これは世に最もありふれたドラマのシチュエーションだ。だが私の知る(さほど知ってはいないが)TOKYOハンバーグは単なるお涙頂戴にしないはず、と、さして根拠があるとは言えない予測をしながら、見始めた。大西氏の芝居は「後から分かってくる」印象があるが今回も例に漏れず。ただ作りは非常にシンプル、ほぼ時間経過に従って話は進んでいたように思う。特筆は一人の人間の(有限の)命という「概念」に還元せず、「彼」の実在感を空間に止めようとした事。生きた時間こそ愛おしい。媒介者である彼女が、それに全力で臨んでいた。
死ンデ、イル。
モダンスイマーズ
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2018/07/20 (金) ~ 2018/07/29 (日)公演終了
満足度★★★★
1年強に1作ペースで打ち続けた劇団最新公演3作の一つ。どれも思い入れがあるが三部作中もう一度観るならこの作品だった。
この初演(2013)の一つ前、2012年吉祥寺での「楽園」再演(何かの賞を取ったらしい)は、私にはどこか限界感が感じられた公演だった。舞台総体はともかく俳優(個人)の背後にざわつきが見えてきて、この煮詰まりは「劇団を続ける意義」にまで及ぶ性質のものに感じたのだ。
劇団活動を着実に続け、やがて評価も高まったある時期に恐らく、劇団が揺さぶりにあう。劇団に帰属する事の恩恵と「出世」(映像に起用される等)の可能性とを天秤に掛ける瞬間、というのが一般的なのだろうが、さういふ状況を舞台から何とは無しに想像してしまった(俳優の周辺情報など一切知らず、単なる想像の先走りかも、だが)。少なからず食傷と幻滅に沈んだある時、webサイト上に劇団を刷新するPRが載っているのを見た。新人女優一名の入団、入場料一律3千円、劇団の原点に立ち返って先を見通し、探っていく・・イノセントな宣誓の文句が連ねられていた。
再生モダンスイマーズの第一弾が『死ンデ、イル。』である。「再出発」のきっかけが大なり小なり、東日本大震災の影響にある事は想像に難くなく、スズナリで上演されたこの芝居は被災地からの避難家族の話だった。
この時の舞台の出来は(少なくとも私の観た回は)あまり良いとは言えなかった。新団員の初々しくも拙い演技、スズナリという場所、震災にまつわる話である事、客演や古手の演技スタイル等々が、有機的に作用し切れず、「試み」の第一弾はギクシャクしたものだったと思う。が、新たな船出を期した記念碑的公演になった事は確かだ。(後の二作にも通ずる質的な何かを言い当てたいがうまく言えない)
今回の三部作連続上演は、新しい作品順のプログラムとなったが、再生の原点に照準が据えられた事に納得をする。個人的な話、この演目の番が回って来るとやはりこれは観て置かねばと急き立てられる思いになり、当日券に並んで後方の座席に座った。
シアターイーストに場所を変えた『死ンデ、イル。』はその事だけで一見小洒落た芝居に成り変わっているが、蓬莱戯曲の極小なドラマの手触りどこでやろうと変わらない。極小から視界を引いても細部の確かな遠景を見る事を約した舞台の水準は、入場料とのバランスで言えば笑ってしまう程だが、この劇団はやり抜いた。
草苅事件
しむじゃっく
高田馬場ラビネスト(東京都)
2018/07/21 (土) ~ 2018/07/29 (日)公演終了
満足度★★★★
スタッフ欄でよく名を目にするしむじゃっくを初観劇。肋骨蜜柑フジタタイセイ作・演出、即ちしむじゃっくプロデュース公演。
何やら賑やかでB級だけどそれが自由さで、面白味があった。狂躁曲に踊る「会見」の時間は演技態もリアルベースに非ず、冒頭とラストの「会見」前後の清掃員との肩の力を抜けた(ナチュラルな)会話にむしろ不得手感が滲む若者の舞台。
フジタ氏の戯曲には一、二度まみえたが現代思想の言語を大胆に台詞に織り込んでしまう。今回はヴィトゲンシュタインの「語り得ないもの」の解釈がさらりと語られ、ドラマに接続するにはあまりに大上段で面映ゆい台詞なのだがなぜか収まりが良い。(この書き手の戯曲の収まり所を言い当てているかも知れない)
記者会見場。とある文学賞の最優秀賞受賞作の作者が来席しておらず、代理人と称する女性が「受賞に値しないので辞退する」と告げにきた事に発して、紆余曲折の後のラスト、「その小説=物語は読んだ人の中で実を結んだに過ぎず、実際は白紙であった」という結論に向かう。ここに及んで脳内補完機能は発動、「観念として捉えれば面白い」モードで急場をしのぎつつ、「ドラマじたいは破綻」という結論を受忍すべく脳は体勢をとる。
この極論を場内の人物らが受容する事はリアルにみれば「狂気」であり、実はその様を描きたかったのでは(その線は役者の力量を超え、演出もそこを狙ったと思えなかったが)、そんな解釈を促す「飛躍」は、思想領域が純粋に生きる抽象世界を舞台化したい欲求から来るものだろうか。
役者が生き生き、楽しく演じている事が劇のアトモスフィアを醸成するという事があるが、この芝居での俳優のそれは「楽しく」もキワ物の部類、だがそれでもその効果はあるという事のようで、ともかく悪い気分でなかった。