満足度★★★★
これは演劇ではないシリーズ後半1作目を観劇。既に3演目とも見終えた。
個別に評するのが難しい作品群で、何か言葉を添えようとすると身もフタも無い言葉が口をついて出そうになり、前衛の世界ではそれは逆に敗北、作品に勝ちを譲るだけの当て馬・・? それでも何か一言。
カゲヤマ気象台(作演出の名)のsons wo:は以前一度だけ目にしていて、1ステージ2演目あった一つのみを観たので完全とは言えないが、後半の演目は人物らの突飛な所作や扮装の比喩の対象を定めきれず、リフレインの多い舞台だった、とだけ。今回も「繰り返し」の時間が長く、この作り手の特徴とは早合点か。
「文章を読む」行為を微積分する新聞家と比べれば、順に登退場する三人(男二人女一人)はモノローグを発しているのかモノローグっぽい口調で誰かに喋っているのか(ダイアログ)、という風に見え、<演劇>を観るいつもの感覚で「関係性」を読み取ろうと、つい前傾姿勢になるのだったが。
各自、喋る「身体」は内向きで鬱屈し、「明朗な声で明確に感情や意志を伝える」のが演劇のベース、といった健康優良児な演劇イメージを拒絶する感じがなくもなく、また俳優三人が序盤に吐く言葉がちょっと思わせ振りでもあり、様式の解体と、再構築を期待させる出だしだった。
・・・が、断片でしかない個々の俳優が、舞台上に会して漸く始まるのは、鬱屈度が高くやや知的キャラを担う男による、他の二人への怪しげな誘導(イメージとしては洗脳)である。具体性のないぼんやりした言葉が、鬱屈からの悲壮味を伴う「もっともらしい」響きで二人に投げられ、精神修養らしきものを二人に施すという場面が後半延々と続く。
「・・して下さい」というオーダーに、二人はただ従順に上体を揺らし、腕をブラブラと上げる。「正解権」を完全に相手に手渡してしまった人間との非対称な光景はオウムの麻原を連想させ、その問題提起にも思われるが、不要にしつこく、だれる。同じような体験に観客を巻き込む意図があったか知れないが、そこだけ追求する意義には賛同しがたい。
示唆されていたのは、この鬱屈したタイプの青年がある一貫性を持つ事で主体性薄の他者を操る先導者にもなり得ること、誰しも悲喜劇の種をその内に持っていること、でもあるか。
いや、主題やメッセージを伝えるのが目的なら、むしろ既存の、正統な舞台様式を借りてでもやろうとするのが正しい。
消去法で残るのは、追求されているのは演劇の新たな「あり方」の提唱者となる事(の名誉)、であるか、表現したいものを表現するための最良の手法の模索、であるか。後者から前衛は生まれるとすれば、この表現主体の求めるところはまだ判らない。