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平田オリザ・演劇展vol.6

平田オリザ・演劇展vol.6

青年団

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/02/15 (金) ~ 2019/03/11 (月)公演終了

満足度★★★★

「走りながら眠れ」と、「思い出せない夢のいくつか」。
前者が大正時代、大杉栄と伊藤野枝による岸田國士戯曲のような?静けさの漂う会話劇。後者が年の行った芸能人とマネージャーと若い女性付き人(歌手になりたい)が銀河鉄道と思しい汽車の向かい座席で交わす会話劇(出入り有り)。「静かな演劇」である。

「走りながら」を、官憲の横暴で虐殺される運命にある歴史事件の被害者という前知識なしに見たらどう見えたか。だいぶ日も経って思い起こせないが、特異な関係とは言え夫婦である男女の関係は演技的に難物に思えた。反社会的な位置にあるなら、同居する二人はある種の倦怠に陥るか、終末観を帯びて性欲が増すか、生理的にはどちらかになりそうだ。だが不思議と睦まじい夫婦の「会話」を成立させねばならない。この戯曲はしばしば上演されているが、歴史上の著名人でなくとも成立する会話劇になっていなければならんのではないだろうか。やはり歴史人物でなきゃダメというなら、どういう歴史的人物であったか、の評価なり認識が込められていなければならんのではないか。

後者はよく出来た美術で古い機関車の車両の一部とそれが乗った線路が夜の橙色の照明に映えて美しい。兵藤&大竹の芸能人&マネージャーコンビと、同社に就職した若い女が、車中の間潰し会話を続けて行く。現実遊離した幻想的な場面もあって「銀河鉄道」に寄せているが、何かが最後に判明するようなオチはない。そこが不満。「銀河鉄道」でなくても良かった、と思える余地があるのが不満。ただ兵藤、大竹が醸す人物らしさの雰囲気が、味わい。
同演劇展でメリハリの効いた他の演目に比べて難しい素材だった。

革命日記

革命日記

映画美学校

アトリエ春風舎(東京都)

2019/03/06 (水) ~ 2019/03/11 (月)公演終了

満足度★★★★

昨年やられた同作品の青年団公演では2バージョンの内、リーダーを坊薗女史が演じる方を見損ねて残念がった記憶が。戯曲は面白く、映画美学校の発表公演は中々良い。
だが今回のは恐ろしくリアルな、まあ現代口語演劇じたいリアル追及型なのだが、同戯曲も含めて「リアルでなさ」を笑いにまぶして提供する平田演出舞台とは少し様相を変えて、リアルを犠牲にして笑いを取る的場面は一切なく(型の笑いは一箇所のみあったが)、人物像や関係性が全編にわたって丁寧に作られていた。
「今の時代、そういう(連合赤軍事件の粛清のような)事はない」という台詞にある通り、時代は限定しないものの現在に近い設定と思しく、社会変革を目指す活動に身を投じることになった若者の素直な心情、組織の矛盾の実態が、浮き彫りになって行く。作者的には社会変革の主体を気取る若きインテリの鼻持ちならなさ、打算、功名心、支配欲を内に秘めた発語を、笑う飛ばすために書いた戯曲であったとしても、作劇においては十分人物らの内面を汲んで台詞を書いた事だろう。対立する登場人物らそれぞれに感情移入できる舞台に見入ったが、これを平田氏が書いたのだ。

平田オリザ・演劇展vol.6

平田オリザ・演劇展vol.6

青年団

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/02/15 (金) ~ 2019/03/11 (月)公演終了

満足度★★★★

「隣にいても一人」を複数観劇。昨年幾つか同作品の公演情報をみて気になっていた。近作と思いきや2000年の作。まず韓国版から観る事となり、知らない作品なので台詞(字幕)を追うのに目が忙しくなったが、会場からは開幕からあちこちからクスリと笑いが聴こえた。何度か見て行くと「この場面でこの役者はどう出るか」と期待を込めて見る感じになるから、先走り笑いが漏れるのも判るが、最初は原因の判らない笑いにいささか混乱した。
「夫婦とは何か」について再考を促す作品で、破綻は元々あるがそれを最後まで見せる。笑いどころのある作品でチームによって違いが出るその部分が面白い。複数バージョンを見る醍醐味だ。

ネタバレBOX

破綻が決定的なのは、戯曲でも自己言及しているが、離婚が決定している夫婦それぞれの弟と妹がある朝突然「夫婦になっていた」と、戸惑いながら伝える二人に対し、まず弟の兄が言う、「そもそも何でそこで『夫婦になっていた』という表現になるんだ?」に表れており、ネックではある。換言すればその処理は役者に委ねられている。自宅に戻ってうとうとしたはずが、起きてみたら男の部屋におり、男は机に突っ伏して寝ていた・・。男も女も、互いに「夫婦になった」と確信している事が判った・・そのように数時間前の事を回想して語る二人だが、確信したのなら、もはや戸惑い続けることも、互いの兄や姉に相談することもない。確信できなければ相談するという流れにもなるだろうが、その時点で「これは夫婦になったという事である、という飛躍した解釈には走れない」、となる。「転校生」みたく突然有り得ない事が起きた、という事実を確信した時点で、二人はある秘密を共有する二人と自覚したなら、その秘密の意味を「夫婦になる」という行動によって検証しようとするだろう。そこに至る前段として、相手を伴侶として満更でないと自ら判定を下す、という選択行為があるはずで、「自分たちも戸惑っているんだ」という今だ判定せざる者の相談の形にはなり得ないのだ。逆に伴侶として不足があると感じたなら、不可思議な現象じたいを「何かの間違い」として忘れようとする、それだけだ。
ただ、神秘を受け容れたとしても男の側と女の側に温度差や、解釈の違いがある場合も考えられる。夫婦となる(=結婚?)とは何か、についての認識は、結局のところ互いの本当のところは判らない以上、定まらない。お互いを探りながら、同居しやがて家族を形成していく単位である事は認めつつ、それ以外の諸々は何も決まっていない、何のルールもない。「夫婦になる」という言葉でしか表せない状態についてのみ合意したという事態は、どんな夫婦についても同じではないか・・。
ただ、互いの一方的な思い入れを実現しようと(同床異夢?)結婚に至った夫婦(兄姉夫婦のような?)よりは、この二人のように、まず「夫婦になる」事を受け入れ、その他のことは成り行きで、話し合ってやって行こうという構えでいる方がうまく行くようにも見えるし、本来そういうものではないか、という含意がこの戯曲にはまあありそうだ。

ただしこの戯曲では「二人がなぜ互いを受け入れることを<選択>したか」までは言及していない。というより、伏せている。実はそこが肝心で、例えば木引・吉田コンビは容姿への根源的な自信がありそれを意識化しないように制御しているタイプに見え、相手の事も十分値踏みしているがそれを口にせず、「困っている」アピールを兄姉にする事で自分の「選択」の痕跡をごまかしている、という匂いがある。・・しかし見合いが普通だった時代も事情は同じく、「選んだ」にしても不安は大きかったろうし、「選択」の罪を帳消ししても誰も文句は言うまい。
一方林・梅津夫婦では女が「運命を受け容れていく強さ」を湛え、男は自分のような小説家目指すバイト男(ダメ男とも言える)に嫁が来たことをほくそ笑んでいる(有頂天を抑えている)姿がある。
韓国版以外は平田オリザ演出だが、リアクションや台詞も俳優によって変えてあり、平田氏はそういう作り手だったかと、認識を新たにした。
寒花

寒花

文学座

紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)

2019/03/04 (月) ~ 2019/03/12 (火)公演終了

満足度★★★★

昨年ハツビロコウがやった緊迫の同舞台を観た際、既に文学座の速報が折込に入っており、とても楽しみにしていた。が、会場がサザンシアターと知って躊躇した。文学座はアトリエ公演は大変良いが(「寒花」の初演もアトリエだった)、ホールに出ると途端に「新劇」の典型のような舞台になる。今回もその範疇になった。
もっともハツビロコウのが全てにおいて優れていた訳ではなく、旅順の監獄での日本人同士の対立の中でも、若い外務官僚が日本の侵略の正当性を激しく訴える場面は文学座は「正しく」(皮相的に)作っていたのに対し、ハツビロコウでは「彼の主張こそ真実」と見えかねない響きを持った(反論が台詞で書かれていないし)。激しい議論の格好良さ・熱さを追求した結果だろうが、トゥルースを脇へ置いたわけである(それにより両論併記が成立し、事実性を疑う主張が両論併記で同格扱いになればどんな事実も事実の座を奪われて行く)。
文学座のほうは台詞をヒロイックに吐かせたりはしないが、「そうしない」だけで長所と言えるかどうか・・。演技態が全体にコメディ向きで、この戯曲にこの形では(本人達の主観はともかく)表現者として高飛車に見えてしまう。演出の西川氏がパンフに書いていた初演時の(鐘下氏に執筆依頼した際の)懸念通りの舞台に、サザンシアターという会場向けの舞台にした時点で、恐らくなった。
テキストを受け止める観劇にはなっただろうが、私が描く鐘下戯曲の世界には遠くなった。

ネタバレBOX

見た形の違和感の筆頭は、安重根の舞台上の扱い。唯一韓国語を話せる(そのために招ばれた)若い通訳者と安の対話シーンでは、二人の間に生じた閉じた世界が見えたいところ、椅子に座る位置もオープン(客席側、センター寄りに傾けた斜め)で、芸が無い感じだ。これも大会場を考慮した結果か。
紅一点となる通訳者の精神を病んだ母親が、トーンの高い声で騒ぎ立て、劇的盛り上がりだけが目指されていてリアルでない(記号的に理解するのみ)。
音響も私にはいまいちだった。吹雪の音の高まった暗転からの開幕後、音がぐっと落ちて「閉塞性」を出したいが音が落ちきらない。聴こえる者だけに聴こえる、コン、コン、コン・・という音(キリストがゴルゴダの丘で礫刑になる時に手足に楔が打ち込まれる音)が脚光を浴びるシーンでも、演劇的盛り上がりを演出しようとしたのだろう、それまで使っていた音のボリュームを上げるとかでなく、それまで全く使われなかった金属的な「キーン、キーン、キーン」と別な音を聞かせる。ああ、劇的に演出しようとしたんだな、という「意味」として捉えたが、もちろん感興は湧いてこない。せめて元の音を加工したくらいにしてほしかった。
音楽もチェロ主体で悪くないが、音頼みに場面を閉じ繰るところに「役者だけで表現しきれなかった断念」を感じさせる。極めつきは最後、通訳者の母親が安を見て、亡くした長男だと誤解した事で瞬間訪れた平安を、安が受け止める不思議なシーンで終幕となるが、ここで音楽にオルガン曲を使う。選曲にも注文があるが、それは置いても、形が決まる前から聞こえていて場面の意味合いを押し付けられる。役者が表現したものを補助的に、うっすらと流す程度にしてほしかった。オペが粗い印象だが、これも「大会場」という事情から来るものか。
諸々残念だったが奮闘した場面もあって、それらは断片的だが良いものを残してくれた。作品が持つトーンは好きである。
エーデルワイス

エーデルワイス

ブス会*

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2019/02/27 (水) ~ 2019/03/10 (日)公演終了

満足度★★★★

楽しみにしていたブス会を、芸劇で観た。芸劇での上演は初めてでなく、以前は普通にステージを組んだ形で、確か「女のみち20○○」を観たように思う。今回はゲージツ色豊かに?、モダンスイマーズ3部作を連想させる張出し装置(三面客席)で、奥に欧風の石積みの城のバルコニー、そこからなだらかな傾斜で手前まで同色(グレー)の敷石が攻めているあまり見た事のない美術だった。
自分としては見た目イマイチな装置で(これはサイド席からの見え方のせいかも知れない)、過去・現在とシーンがその場で転換する芝居の装置が抽象的になるのは判るが、高嶺の花として象徴的に赤く咲いたエーデルワイスと、お城の存在が重複して意味を食い合っているのがオープニング前から気になった。
一番手前と一段高い二番目がフラットな演技エリア。直方体の箱(床と同じくグレー)を動かして喫茶店のテーブルやベッドに見立てたりするのは機能的だが、やはり全体の景色(色と形状)がしっくりこないと、演じられるシーンも絵の中にうまく収まらず、開幕して暫く心地が悪かった。
芝居の方にそれがどう影響したか・・は自分的には大きいが、芝居の中身は軽妙に語られる「ある女の物語」から、私小説的なリアリズムへと人間描写が深まり、ペヤンヌ・マキの領分に引き入れた(と思しい)所からぐっと見せられてしまった。
女性の目線からはこの舞台はどう見えただろうか。。

『コンサート・リハーサル』

『コンサート・リハーサル』

時々自動

KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)

2019/02/28 (木) ~ 2019/03/03 (日)公演終了

満足度★★★★

演劇と所縁の深い時々自動を初鑑賞。初とはいえ何故か馴染みのある感覚を手繰ってみれば2000年頃TV放映された『幽霊はここにいる』(串田和美演出)にて、無機的な振付とメロディが舞台にガッチリ嵌っていて、音楽家の範疇を超えた「分野」の存在を見た。
ツボにはまること疑いの余地なく、敢えてそれを確認するまでもなかったのだが・・という言い方も変だが、都合の空いた時間に予定を入れた。予想を超えた引き出しの多さ。音楽シーンも、ダンスも美術もジャンルの境界が消されていく流れだが、こちら時々自動は、音楽製作と不可分に演劇がある、むしろ積極的に演劇している様子が窺える。それに加えて歌いも蠱惑的、ムーブや舞踊、芝居仕立てのシーンも、身体の端までブレがなくクリアだ。
今回大勢の出演があったが半数が「演劇畑」から呼び集めた人たち(部分出演)、他が「時々自動」(所属は知らねど)。楽器演奏を担うのは「時々」だが喋りや身体パフォーマンス、なにがしか掛け持ちし、二芸以上持つ人材が集まる才能集団。全てにおいてソツがなく予測の枠を上回ってくる。
コンテンツは何でもありの感、檻のような縦長の箱が運び込まれ「演劇」の装置の形となり、そこに実況中継と称して回すカメラの映像や、時々自動の「未来」の出来事を過去の記事のように伝える作られた映像を映写したり(最初これを過去の「実績」の披瀝だと勘違いし、不要なコンテンツだなと思ってしまった)。絶えず音楽の演奏があり、曲数からして音楽コンサートと称して間違いでないのだが、演劇作品を観た時のような濃厚さが身体記憶にある。
朝比奈氏は以前SPAC版『鳥』で舞台の立ち姿を見ていたが、今回あれがほぼ素のままであった事が判った。
終演後のロビーはにぎやかで、ジャンル越境の出し物である事を反映するように様々な風情の人等が談笑、芸術サロンの様相が刺激的であった。

オルタリティ

オルタリティ

TRASHMASTERS

駅前劇場(東京都)

2019/02/22 (金) ~ 2019/03/03 (日)公演終了

満足度★★★★★

最後に舞台に並んだ役者は6人。たった6人だったか・・。二部構成の前半後半で立場や状況の変化した数年後をそれぞれが演じたから「2人分」味わった訳でもあり、人的広がりを想像させるよく書かれた本だという事でもあるか。
近年のトラッシュの傾向である「議論劇」の(特に前半は典型的に)範疇だが、その議論のあり方としては随一の出来だと思われる。毎回出演とは行かない団員・龍坐の力量も見、川﨑初夏の円熟と滑らかさも見たが客演・樋田洋平の人間臭い役どころは何げに信憑性を場面に与えていた。

ネタバレBOX

アウフヘーベン即ち成長して行く中津留戯曲が、今回辿り着いたと見える場所は、容易に正解を出せない問いに最後まで解答を出さなかった事、だろうか。唯一人理性に従う(西欧的自我を重んじる、と私には見えた)龍坐の役は、空気読めない奴と疎まれながら、頼り甲斐もある(があまり感謝されない)特徴的な役どころで、修羅場となる後半では主として彼と彼以外との潜在的対立があり、問題のありかを掘り起こすようなやり取りがある。それを議論のための議論でなく状況に即した対話に書き切った事が今作でとりわけ評価したい部分だ。
龍坐の役の言動は、現在日本を没落へと導く、戦前と変らぬ為政者(や役人や財界)の体たらくを鋭く批評する視点を提供するもので、正論を提供してはいたが、その位置をも新たな状況によって揺さぶり、問い掛ける。
ただし(先ほど「正解」を出していないと書いたが)終盤で龍坐が予言のように呟く人間の「弱さ」についての洞察は、実証されたように描かれていた。これはラストの「愛」についてのやり取りを恐らく呼び込むためのもので、こういう部分が中津留氏らしい筆致と言えば筆致。別の書き方もあったろうと言ってみても仕方ない。
この舞台の言外の声が、こうしてここまで極限状況を想定し、現前させた舞台を君は客観的評価だけして終わらせるのか、それで良いのか、と言っているように思える。「ひかりごけ」という小説が半世紀以上前に我々に究極の問いを投げていたが、今改めて問われてやはりたじろぐ自分がいる。
ヤン・リーピンの覇王別姫 ~十面埋伏~

ヤン・リーピンの覇王別姫 ~十面埋伏~

Bunkamura

Bunkamuraオーチャードホール(東京都)

2019/02/21 (木) ~ 2019/02/24 (日)公演終了

満足度★★★★

数年前チケットを取っていたのに見損ねた「シャングリラ」のリベンジで、早くにチケットを取った。贅沢な出し物。私は詳しくはないが「覇王別姫」は紀元前の項羽と劉邦の戦いの一幕、その中の「十面埋伏」の場面という事である。日本で言う「平家物語」のように語り継がれた物語で、筋は判らないが、敗退することとなる側の王と妃との別れが「戦い」の物語の伏流としてある、ような感じ。二時間超え。
主要登場人物もアンサンブルも「芸」で目を引きつけ、物語を彩り、舞台美術・照明の劇的効果に、琵琶の生演奏まで一流揃い。映画『覇王別姫』で使われた音楽も時折流れ、色を添えた(アジア大陸の叙事詩を演出するあの音使いの嚆矢は坂本龍一による『ラストエンペラー』と思っているがどうだろう)。
さてこの贅沢な出し物のエンターテインメント性を堪能し、満腹となった私は、アジアの代表的舞踊家ヤン・リーピンを再び見ようと思うだろうか。。今のところ、私には一度味わえばよい冥途の土産くらいに思っているが、人間の欲は測り知れないもので。自分探しの途上で舞台に一度立った者が病み付きになるのも同様か。・・駄弁が過ぎた。

平田オリザ・演劇展vol.6

平田オリザ・演劇展vol.6

青年団

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/02/15 (金) ~ 2019/03/11 (月)公演終了

満足度★★★★

「忠臣蔵武士編」。以前の演劇祭で観た演目だが、私の演劇リテラシーが耕されたのか、すらすらと台詞の意味もユーモアも良く入って来た。おまけに感動さえおぼえたりして。急迫の事態に直面した大石以下の赤穂の面々が、「どう身をふるか」を砕けた現代口語を用いて突き合わせ、やがて問題を掴まえる共通理解を獲得するまでの経過が絶妙な要約で表現されていた。
ウクレレを弾きながら台詞を言うなど、ギャグ的に巧いとは言えないアクセントも、無音楽の青年団舞台ではオアシスの効果。

平田オリザ・演劇展vol.6

平田オリザ・演劇展vol.6

青年団

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/02/15 (金) ~ 2019/03/11 (月)公演終了

満足度★★★★

「銀河鉄道の夜B」。おや?と思えば平日なのに子ども連れ客が数組。「銀河鉄道」とは言っても青年団流に「子ども対象」の芝居がどう作られるのだろう?成程、開幕と同時に引きこまれたのは、青年団流だが子ども目線で語る学校の先生の語り。ジョバンニを巡って子どもの残酷さが表れる所の簡潔な表現。音楽の無い青年団芝居は子どもに優しくはなく、中盤から大人向けになった嫌いはあるが・・。確かに「銀河鉄道の夜」の物語を漏らさず味わったが、時間はきっちり60分であった。

台所太平記~KITCHEN  WARS~

台所太平記~KITCHEN WARS~

劇団ドガドガプラス

浅草東洋館(浅草フランス座演芸場)(東京都)

2019/02/16 (土) ~ 2019/02/25 (月)公演終了

満足度★★★★★

天晴れよくぞ!と思う間もなく終いまで持って行かれた。パンフにはそろそろネタ切れと作演出望月氏の弁であったが私の中では今回の新作は随一。曲も悪くない歌は歌える動きもよし、多くが若手だが役柄を演じ分けて甘えがない。恐らく私には新作であった事が何げに大きい。時は敗戦から6年、朝鮮戦争の特需で経済復興を遂げた日本、話の舞台は熱海、前年の大火からこの街も復興を遂げつつある中、高台に住む谷崎潤一郎宅へ青森から新しく女中に雇われてくる娘を先輩女中らが駅で出迎える朗らかなシーンから始まる。街の花形はタクシー運転手、女中らとの恋の兆し、だが街を裏で牛耳る組は長が市議となりヤクザ稼業から足を洗ったとは言え、観光都市化が目論まれる街の経済には裏社会が影を落とし、大火の原因にも疑惑が。一方この街には「戦勝国」に帰属する中国人、朝鮮人も風俗商売に凌ぎを削るが、戦争で分断された祖国と、その惨状をてこに経済復興を遂げる日本への複雑な思いも展開に絡んでいく。米朝会談を控え、南北雪融けの時に南北分断を望むかのような奇妙な論調が出回る日本の現在が、台詞の端に顔を出す所に「今」を感じた次第。清と濁、光と闇が背中合せ、シニカルな楽天性が真骨頂のドガドガを堪能した。

Opus No.10

Opus No.10

OM-2

ザ・スズナリ(東京都)

2019/02/22 (金) ~ 2019/02/24 (日)公演終了

満足度★★★★

OM2は近年の二作品を目にしたが、同じ会場(日暮里SunnyHall)で全く異なる趣向。挑戦的な表現形態の背後、遥かに霞む山の如く臨めるメッセージ性の重層感があった。が、抽象性が高く過激化する要素を孕む印象。個人的には応援したい部類だが今回なんと「演劇」の聖地(私の勝手な命名)、我らがスズナリでやるという。
OM2 in スズナリの図が全く浮かばなかったが、良い感じの予測の裏切り方に「地点」が過った。両者全く異質だが。
劇場に入るとほぼ一面に段ボール箱が積まれ(大小様々で銘柄入りの古いやつが巧みに隙間なく壁化され)、白抜き升目の画像が映写され全体を覆っている。
やがて中性的少年的佇まいの喋らない役者が現れ、椅子で読書を始めると加工された段ボールから同じボール紙色の筒がにょ~と飛び出て、脱力な・時に熱い断続的な喋り。紙をペタンめくって今や顔を晒し、ガヤガヤ、不条理演劇風の始まりだが、やがて風景が一変。ここまでの序盤の迫力は申し分ない。
ただ、客席で受け止めた破壊的エネルギーに転換した感情の背景を倒置法的に説明して行く中~後半、少し別の局面が見えたかったのは正直なところ。
熱が高まる後半、憲法条文が文字表示や群誦で混じるが、条文を印籠の如く差し出すニュアンスが混じるとこれは面白くない。それはOM2のコアな部分である佐々木敦のパフォーマンスに、彼が登場人物を担った具体的エピソードに留まらないイメージを喚起できるかに大きく左右され、私に見えた部分が全てだとすると佐々木氏の時間は長い。私の希望は時間を削る事でなく、彼(に仮託された人物)が受けた凌辱が質的に持ち得る位相がパフォーマンスによって広がってくる事だ。
象徴的表現というものに的確か否か(正解)など無いのかも知れないが。。

ネタバレBOX

様相を変えた作品でも毎回変わらぬのが、中心的存在である怪優佐々木敦のパフォーマンス(演技)、また後半に登場の舞踊の女性も。
今回の「芝居」の登場人物は基本一人、父の訃報に駆けつけた霊安室の前で動けなくなった男の脳裏に甦った、父との幼少時代の記憶。そこからの自分語り(嘆き節)が、静けさの中から始まる。
ある受難の人生を憑依させ、言葉を反復して次第に爆発的エネルギーに達する・・それが私の見た3舞台に共通する彼のパフォーマンスの本質と見た。今回は幼い頃隠れてやっていた女装が見つかった事で父親から非人格的扱いを受ける事になったという告白だったが、スズナリという会場では彼の濃すぎる演技は伝わり過ぎる程伝わり、その事も先述した彼の独壇場が「長い」と感じた理由かも知れぬ。
今回は暗黒舞踊流の白塗りの裸体が後半登場する。だが裸体でない男の中でなぜ一人だけ全裸なのか、また男性が服を着ていてなぜ女性が二人も乳を出すのか、そのあたりの説明が十分でなく、「最後の手」を使ってこのあとどうなるのか、と心配が過ってしまった。

最後の手段と言えば、一度見た芥正なんとか言う暗黒舞踏のパフォーマンス(亡くなった首くくり拷象(字に自信無し)を見た最初で最後の貴重な機会ではあったが)の、ただ立派な一物を隠さない事で「抜き差しならなさ」を伝えんとするもその何かはよく解らないという、あの体験が過り、あまり喜ばしい思い出でないのである。
抜き差しならない生にとって、出し惜しむ物は無いに等しく、刹那に永劫をみる生の捉え方は、「終わりなき日常」の彼岸、憧れの対象になり得る。一瞬の燃焼への憧れは若年であるほど強く、三島の切腹はこの野性の惹起を企図したものに違いないが、望むと望まざるとに係わらずやってくる日常に甘んじる事が必ずしも「変化を拒む」守旧の姿勢だとは言えない、そこを押さえない事には、堂々巡りから抜け出せない、、という為され尽くした議論に戻って行く。(自分が見た)暗黒舞踏の突き詰め方に触れると、その事を思い出してしまう。全く個人的な偏った感覚かも知れず、今回の舞台がそれそのものという訳ではないが、そちらに傾いて行かねばいいな、との希望でつらつら書き付けた。
オペラ『遠野物語』

オペラ『遠野物語』

オペラシアターこんにゃく座

俳優座劇場(東京都)

2019/02/07 (木) ~ 2019/02/17 (日)公演終了

満足度★★★★★

上出来である。「遠野物語」の舞台化としては「奇ッ怪」シリーズ第3弾、前川知大脚本舞台を思い出す。柳田国男本人に対する処遇を通して、「異界」の豊かさを浸食して行く現実(戦争であったり恐怖政治であったり)が重ね合わせられていたが、肝心の「遠野物語」の逸話たちがあまり前面に出て来なかった。不可思議物語を周到緻密に立ち上げる前川氏には扱いが難しかったのだろうと推測した。
では長田育恵はどうだろうかと。さすがであった(考えてみれば長田作品をこれまであまり褒めた事はないが)。「遠野物語」では、書物に収録されたエピソード群がうまく物語に配置されていた。登場する柳田国男(髙野うるお)と同じ聞き手として観客も、東北出身の作家志望の青年の語る話を聞く。その物語が舞台上で演じられる部分が趣深く大変よい。
まず舞台高く作られた装置が岩肌のくすんだ色、上手寄り手前に控えめに顔を出す草に存在感がある。伊藤雅子は機能ばかりでなく美的印象も残す。
真鍋演出の指示なのかどうか、台詞のうち歌でなく普通に喋る部分を一定確保し、芝居として入り込めて歌も効果的に挿入される塩梅が良かった。三者による作曲は細かく場面ごとに割り振られていて、場面が変わると趣きが変わったり、物語との豊かな交流が実現していた。ちなみに楽器はピアノ、チェロ、フルートに打楽器であるが打楽器奏者がビブラフォンも用いるため音程のある楽器も4種類、場面の色合いに広がりが出た。
台詞だけの場面では、こんにゃく座の「歌役者」の達者な演技力を見せられたのも新鮮だった。
観終えればオーソドックスな遠野物語だが、そのオーソドックスを立ち上げた長田女史に「良く書いた」と感服である。遠野物語収録エピソードの厚みが、流れる現実の時間を対比的に見せている。そして現実のドラマでは遠野出身の青年を主人公に据え、(史実をどの程度反映しているか判らないが)彼の上京時点から東京の場面(柳田国男との接点)、帰郷後の生活までを辿り、うっすらと寒い世相を背景に人間存在の悲しみや滑稽さ、厳しさの中の温かさといったものが凝縮して見える終幕も、何げに上出来である。

平田オリザ・演劇展vol.6

平田オリザ・演劇展vol.6

青年団

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/02/15 (金) ~ 2019/03/11 (月)公演終了

満足度★★★★

「コントロールオフィサー」は新作のようで2020東京五輪を話題に取り上げた会話劇。華やかなイベントの舞台裏の下世話な人間模様がリアルタイムな話題だけに笑いを誘う。

ネタバレBOX

舞台は予選競技後のドーピング検査が行われる待合室で、同一種目の選手が水を飲んで尿意を催すのを待つ。選手は順次入って来て、横一列の椅子に座り、知らぬ仲ではなく普段着な会話。椅子の背後には検査員が一列に並んで丁重に対応すべく控えている。制服は緑で揃えたスポーツっぽいやつ(競馬場の旗振る人みたいな)。選手らはオリンピック出場の有無が決まった直後だけに感情表出も直載、表舞台に立つ俳優たる選手はスタッフらに警戒を弛めてプライベートな話をつい漏らすが、明け透けな発言がどう聴かれたかとふと後ろを見たり。一方決して私情を出してならないスタッフは規則を読み上げる以外無言の直立不動が却って、僅かな揺れを目立たせる構図、miseryな選手とのやり取りで益々頑なに表情を殺すなど、コントなリアクションを許容する。挙動でその方向へ舵を切っていたと思しいほぼ白塗り化粧の背高女は、よく見れば宮部純子だった。
ディテイルで世界を立ち上げディテイルで笑わせる、よく出来た出来立ての舞台。
やがてテレビを筆頭に一色に染まるに違いない五輪「騒ぎ」に今から辟易している自分には、非国民の謗りから身をかわす避難場所に心安らぐ思い。
唐版 風の又三郎

唐版 風の又三郎

Bunkamura

Bunkamuraシアターコクーン(東京都)

2019/02/08 (金) ~ 2019/03/03 (日)公演終了

満足度★★★★★

新宿梁山泊のテント公演を観たのが2000何年かで10年以上前。休憩2回3幕構成の3時間をスシ詰めで見たが、金守珍演出のポテンシャルはテントが劇場になっても変わらず、屋台崩しに劣らぬ恍惚の終幕であった。
「ビリーエリオット」のダンス教師役以来の柚木礼音は華麗な歌と身のこなし、初見窪田正孝は繊細かつ飄然とした「精神危うげな」青年にピタリ、突出した二人を軸に各役どころが個性を発揮し、私としては梁山泊陣も芝居に噛んで満足。

新国立劇場演劇研修所「るつぼ」

新国立劇場演劇研修所「るつぼ」

新国立劇場演劇研修所

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2019/02/08 (金) ~ 2019/02/13 (水)公演終了

満足度★★★★★

「セールスマンの死」のアーサー・ミラーによる隠れた?名戯曲(少し前まで私はT.ウィリアムズ作と勘違い)。2012年の新国立劇場主催・池内博之主演の「るつぼ」は評判を耳にしたが、演出は今回と同じ宮田慶子(前芸術監督)。魔女裁判という日本になじみの薄い題材だが、現代の日本での上演に耐える作品である事が今回の上演でも証明された。最近やたらコールをしたがる風習に「右に倣へ」な雰囲気(長い拍手で役者を呼び出す理由は「そうしたほうが良い」空気だけ。みたいな。)を感ずるが、この舞台の役者らの奮闘には引っ張り出してでも拍手で応えたくなった。3時間超えの「るつぼ」を演じる俳優は俳優修業の成果発表にとどまらない鬼気迫る空気があった。
今の日本に置き換えるなら痴漢冤罪の被害(若い女性の心無い告発で無罪男性が服役した事例は一つに留まらないという)を連想させたが、真実は何によって明らかにされるものなのか、誤謬からやがて捏造された事実が真実となるこの芝居のような悪夢は今の日本と無縁の事柄とは思えない。
理不尽な状況の中でただ信仰厚く気高く死を受け入れる女性、高尚な死など似合わないと嘆きながら最後には自らの採るべき道を決断する男、彼の「心」に最後まで寄り添り彼の選択に心から安堵した妻・・一方で言いようのない愚かさを描きながら、一方で誇り高き生(死)を選んだ者らも群像として刻印した事がこの戯曲の名作たる所以である。千秋楽、この物語を「生きた」演者たちも誇らしく立っていた。

ハイドロブラスト(太田信吾)「幽霊が乗るタクシー」

ハイドロブラスト(太田信吾)「幽霊が乗るタクシー」

ハイドロブラスト

STスポット(神奈川県)

2019/02/15 (金) ~ 2019/02/17 (日)公演終了

満足度★★★

舞踊や映像等形態を跨いだ表現を追求‥的な文句に惹かれ随分前から公演情報を待っていた。速報時点では確か公演名は「領土」。舞台を見た印象もそうだが、内容を絞り切れず変転した事が窺えた。幽霊とは津波の被災地東北のそれ。演出者が現地で聞いた幽霊に関する証言が映像にも出てくる。ドキュメントな映像には説得力があるが、この素材が生きるような舞台が作られたかった。
出演者に託したもの・・まず幽霊に関する基礎知識。円山応挙の絵が日本の幽霊のイメージを作ったが他国では違うといった導入や、災害当事者の証言、映像にあった死んだ娘の冥界からの言葉、僧侶の出立ちで「朝には紅顔・・夕には白骨・・」とある蓮如の御文、など。映像が代弁する現実に対し、舞台ではその解釈的な事柄が展開する。つまり「説明」となっている。最終的に亡くなった娘は「良い子」が言うような台詞を吐き、幽霊とは自分自身の投影であるとの解釈で結論づけられる。
これら全て、私には冗長で不要に思われた。恐らく映像が持つ性質と舞台の性質の違いを把握した上で組み合わせる技術を持たなかったためではないかと想像した。舞台の補助手段として映像がある、のでなく今回は映像を軸に舞台を構成しようとした、その順序であればそれは難しかった。舞台人の補助を必要とする映像作品はあまり観ない。舞台を引き立てる映像なら、今その使い手は増えている。

RE/PLAY Dance Edit

RE/PLAY Dance Edit

Offsite Dance Project

吉祥寺シアター(東京都)

2019/02/09 (土) ~ 2019/02/11 (月)公演終了

満足度★★★★

「再生」のダンスバージョン。KAATでの岩井秀人演出版、本家(東京デスロック)版の上演と観てきた事でこのバージョンに大きな関心。が、「RE/PLAY」上演は今回初めてではなく、また舞踊家きたまりと多田淳之介との仕事も定例化して長いとか。
多田氏考案の「再生」とは、曲が流れ、それに合わせて動作が主体の芝居があり、30~40分続いて終わると、暫時の沈黙の後、同じパターンを繰り返す、というもの。通常3回。本家版はカラオケを順々に歌う形、岩井演出版は曲を聴きながら楽しんでいるパーティの風景。これの醍醐味は、選曲の妙と、役者らが段々と疲れて動作がいい加減になっていく所。厳密な意味での「再生」は(機械でない人体では)できない事を現象を通して実感し、「身体機能の延長」である機械の発達した現代という時代の身体性に思いを馳せる作品、と私は位置づけていた。
ダンス・バージョンでは、ダンスなりムーブなり、身体動作のプロがやる。しかも出演にAokid、岩渕貞太、きたまりと私でも知る名前に、アジア諸国のダンサー。彼らの「疲れる姿」を見ようと身構えたが、トークでの多田氏の話では、彼らは強靭な肉体の持ち主で「疲れない」事を特徴として見出し、その面白さを見ていた事が判った。また、「踊らないでくれ」とのダメをよく出したという。演劇では「芝居をするな」とよく言われるが・・
「RE/PLAY」はやや複雑な構成となっていた。一曲数分の動きを2回、また別曲(オブラディ・オブラダ)を10回リプレイし、そろそろ息遣いも荒くなった頃に、床にへばった彼らが会話を始める。日本語、英語、タガログ。その「生」の感じが良く、またそういうやり取りが設定されている。「出し物」としての身体性と異なる局面が見え、ここではダンサーから役者的身体(個性、人格が滲む所)として身を晒しているのが鮮やかな対照をみせる。
そして曲が流れ始める。躍動感ある曲に、ダンサーらは前半とは異なり、水を得たように得意な「ダンス」を披露する。面目躍如、ひたすら身体と動きの美に圧倒される時間となり、大団円と思いきや、これが終息すると再度同じ曲が流れ、「再生」プログラムがスタートする。たっぷり1時間半強の内容だったが、肉体の限界を味わう「再生」のコンセプトはここでは形態のみ継承され発展系となっていた。舞踊そのものがそうであるように言語化は難しいが、非舞踊の要素をノイズ的に混入する事により、舞踊の快楽を再照射するもの、だったろうか。

29回公演 フェードル

29回公演 フェードル

うずめ劇場

東京アートミュージアム(東京都)

2018/10/11 (木) ~ 2019/02/23 (土)公演終了

満足度★★★★

久々のうずめ劇場舞台を堪能。後藤まなみ、松尾容子、荒牧大道(藤沢友は相変わらず裏方)に、今回サルメカンパニーという若手グループが加わっての上演だった。
会場の東京アートミュージアムは細長い敷地に建てられた安藤忠雄設計の建築で、名前は洒落か?と思う位狭い。内部は「ああ安藤忠雄」と思わせるコンクリート打放しの内壁、中央あたりに細長い階段が壁に貼り付いてくの字に聳える。座席は入口から遠い側の奥に、横5~6人、5列程度設えられ、舞台の側には手前左側に伸びる階段と、それを避けて奥へ行き左側へはけるのと、出はけは2パターン。階段下あたりにはピアノがあり、時折役者がそれを鳴らす。「フェードル」はギリシャ悲劇を題材にとった17世紀の古典(発見されたのが近年だったか)、血の因縁にまつわる悲劇。主人公フェードルの「過ち」が彼女自身を苛み、若者らの残酷な死さが追い討ちを掛けて狂気に埋もれて行く猶予の時、吐かれる怨念、後悔、自己正当化の言葉が「劇的」を醸す悲劇の構造だ。暗鬱なクライマックスを体現する後藤まなみ始め俳優はよく演じていた。馴染みのない人にはストーリーが判りづらかったかも知れず、かく言う自分も判らなかったが類推しつつ「激情」の迸りを楽しんだ。
上演2時間、場所と演目の取り合わせもユニークで、土日中心にロングランの形態もいい。コンクリが石造りの劇場にも見え、ギリシャ悲劇が連想されたと推察した。ヨーロッパの主流であるレパートリー方式を引き寄せた感じだが(主宰のペーター・ゲスナー氏の問題意識は判らないが)、狭小空間で少数の観客という所は日本独自。借景芝居の宿命でも客としては贅沢感があってよい。会場の閉館時間を有意義に(廉価で)使えるなら、場所に根ざした事業として今後も継続して行ってほしい。

シェアハウス「過ぎたるは、なお」

シェアハウス「過ぎたるは、なお」

渡辺源四郎商店

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/02/08 (金) ~ 2019/02/11 (月)公演終了

満足度★★★★

照明その他、技巧を排した淡白な演出、技巧はテキストで勝負というナベ源。手がかりが台詞という舞台は体調次第で睡魔に屈するが今回もそうなった。戯曲を買って読み直し、舞台風景と重ね合わせ、ある種の感動に導かれた。工藤千夏と畑澤聖悟のリレー執筆(相手が書いたのをいじるのも有り)で結実した作品だという。ユニークな戯曲で、ブラッシュアップというよりもっと膨らませられそうな素材だ(SFだけに厳密な設定が必要かも知れないが..)。
ロボットや核動力といったアイテムは珍しくないが物語は独自。主人公である「母」(ロボット=人間と同じく子供らに愛情を注ぐ。それを使命としてプログラムされている)が、同型機種が動力エネルギー(ブルーコア)の事故を起こした事でシェアハウスという名の隔離施設に収容されている。そこは快適で家庭での思い出に浸りながら母は平穏な生活を送っているが、ある時、実在する(人間の)息子らが訪ねてくる。兄弟は少年の頃の夢(芸術家)とはかけ離れた道へ進み、兄は他国へ派兵する自衛軍に入隊、弟はテログループに所属する。地下数百メートルの施設では知りえない現実の情勢が、自らの陣営に母を引き込む行動へ兄弟それぞれを突き動かしたという事だが、少年時代の再現風景ともあいまって、彼らの「母親」への愛情(マザコン性)を窺わせもしてほろ苦い。銃を向け合う兄弟に対し母親はかつてのように「やめなさい!」と厳しく叱り、自分の使命を繰り返す。「あなたたちが健康を保ち、仲良く暮らしていくこと」。・・感動巨編に膨らみそうなプロットが示されていると思うのだがどうか。

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