『パンパンじゃもの、花じゃもの』
劇団天然ポリエステル
小劇場B1(東京都)
2019/10/17 (木) ~ 2019/10/20 (日)公演終了
女性バージョンを観劇。
今月は初の劇団に見える機会を多く得た。一定水準の俳優を客演に呼べる分母を形成し得た若手集団の一つ、という所。初見でなかった俳優は真島一歌くらい(が観劇中は別の女優と勘違いしていた)。話もさる事ながら俳優に見せ場を作るドラマの趣、つまりは最後は皆良い人、過ちは許され、精一杯生きてるノダ、という。戦後の混乱期はそうしたドラマにはうってつけの背景設定で、女優冥利を体感するに外れなしと言われる役=娼婦たちの話(男優ならば兵士なのだそう)。
話はと言えば、自己犠牲の美学で批判精神の脆弱さを糊塗するお決まりの構図で、土地の権力者の横暴も「俺はお前に本当に惚れていたんだぁっ」の一言で免罪される心地悪さは、無論これを現実に置き換えればの話。芝居のほうはテンポよく俳優も見せ場でそれぞれの魅力を存分にアピール。生い話ではあるが伏線が思わぬ展開で回収な場面もあり、健気な女性たちの残像もあり、無為な時間を過ごすよりは幾らか良いと思えるちょっとした料理。
小刻みに 戸惑う 神様
劇団ジャブジャブサーキット
こまばアゴラ劇場(東京都)
2019/10/17 (木) ~ 2019/10/20 (日)公演終了
満足度★★★★
何作目のジャブジャブだろうか。今回は主宰はせ氏がリスペクトを表明する平田オリザの拠点、アゴラにて、今までになく「考えオチ」にこだわらず自然の流れを尊重した台詞運びが印象的な舞台であった(はせ独特のカーブのきつい端折り台詞も時折掠めるが)。
この「変化」は(記憶が正しければ)公演時いつもキャップを被って立つはせ氏が好々爺な装い、ベレー帽にチャンチャンコという変化とも関係するのだろうか。しかも物語はとある劇作家の葬儀が執り行われる斎場の控え室に出入りする者達の人間模様。よく判らない「釣り」関連の細かに挟まれる逸話などもどこかはせ氏らしいのだが、話の軸はシンプルに死者の弔いであり、湿っぽさを嫌うはせ氏の筆も、死者を偲ぶ残された者をサイコパスにする訳に行かず、理想的な離別が描かれている。
霊の一人として登場する劇作家本人の具体的なエピソードは控え目で、周囲の人間との「関係」が彼らの様子から逆照射するように浮かび上がる所は泣ける。はせ氏は自分に当てて生前葬よろしく理想的な別離の形を描いたものとシンプルに想像したが、冗談か本気かは判らない。だが少なくとも、同じ日に斎場の2階の会場で葬儀予定の元政治家に作者が当てつけたような最後の顛末(暗転中の録音音声で、家族葬のはずが通夜を明けての告別式には各地からぞくぞくと弔問客が訪れマイクロバスも仕出弁当も足りず電話はひっきりなし、数十の弔電は全て1階の楡原家に当てたものだとの報告等々がかまびすしく・・)は地味に笑えた。微妙なバランスの上に成立した秀作。
・・なのだが、これは芝居にも登場する二代目僧侶にどこか重なる「得体の知れない」作・演出はせ氏の意図に沿った結果なのかどうか・・作り手のこだわった部分とはズレた所で秀作か佳作かいまいちか、評価しているように思えたりする。はぐらかしのジャブジャブの後味はやはり残るのであった。演劇とは奇妙な代物だ。
なにもおきない
燐光群
梅ヶ丘BOX(東京都)
2019/10/02 (水) ~ 2019/10/23 (水)公演終了
満足度★★★★
梅ヶ丘BOXの狭小空間の圧迫感を活用した舞台。チラシの時点で念頭にあった『屋根裏』(2002年以来再演を続けるヒット作)をやはり思い出させる、特徴ある空間に多彩なエピソードを盛り込んだ作り。四角の空間(屋根裏)や右から左へ下る坂(今作)じたいは、その実体をアピールしている訳だから、ひどく具体性を帯びるのに、言葉が喚起するイメージによって何かを象徴する抽象的な図形のように見えて来る。「屋根裏」のように、じっと見てると別物に見えて来る錯覚は、単なる傾斜の板だけでは起きなかったが、狭い斜面上を行き来する二次元感覚から、ふと奥行を見せる照明が入ったり、(観客を含めた)劇場空間を感じさせる演出など趣向は考えられている。
また今作では、奇妙な振り付けで無言で斜面を行進する姿や、シュールなシーンが多彩さを印象づける。失踪亭主や炭鉱、秘密の埋葬空間といったエピソードは具体的な「物語」に属するが、中でも炭鉱の筑豊方言を使っての台詞は書き手・坂手洋二の腕を見せつける名調子で、具体と抽象のバランスの崩れを巧みに回避していた。
ただ「なにもおきない」とはワードとして別物の「なにもしない」を接合するあたりは力技であった。伏線とその回収という点ではこのワードを示していれば収まりよかったかも知れないが、口当たりの良さを求めているのか君は、と一蹴され兼ねない気もする。
どん底
新国立劇場
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2019/10/03 (木) ~ 2019/10/20 (日)公演終了
満足度★★★★
黒沢明監督の日本版「どん底」以来つくづくこの作品が好きである、と今回も実感。ただし数年前初めて観た原作版の舞台は、黒沢版が染み付いているからか、最終盤のやり取りが長く間延びの印象は今回も然り。世の中を見切った者らがそれぞれの仕方で日々を傷つき傷つけ合いながら逞しく生きる様は、やはりどこか江戸の長屋話の登場人物に通じ、群像の中に輝く生が描かれる珠玉の一編であるのは確か。
レッツゴーギャング
劇団東京ミルクホール
小劇場B1(東京都)
2019/10/09 (水) ~ 2019/10/14 (月)公演終了
満足度★★★★
演劇部をそのまま大人にしたような女子劇団がある一方、男子オンリーもある。開幕ペナントレースに近い雰囲気を感じたのは単にそのためか。男子体育会系。
もっともこちらは女役を男子がやる。主宰佐野バビ市本人が女装にこなれていて、大衆演劇の出し物よろしく途中日舞を披露。登場だけで拍手をもらっている。
この集団、以前space早稲田での北村想戯曲リーディングという企画の一作品を受け持ち、所属劇団員を含めた俳優の切れの良さと肩の力の抜けた劇の捉え方、自由さが印象的であった。いつか観たいと思って「漸く観劇に至った」という思いだが、随分歳月が流れたと思いきや未だ3年だった。
笑いのための台本で、ガバと黒幕を落とせば笑点の舞台。演者それぞれの物真似に始まり、本筋はリアル返上の荒唐無稽なスパイ物? 設定は昭和一桁としたがあちこちで現代が無節操に出入り自由。しかし犯罪集団と官憲との追跡劇の行方を、いつしか追っており、不意にホロリとさせる所も。だが基本お笑い興行。
PROMISED LAND~遥かなる道の果てへ~
ネオゼネレイター・プロジェクト
「劇」小劇場(東京都)
2019/10/09 (水) ~ 2019/10/13 (日)公演終了
満足度★★★★
初観劇の集団。昨年1月東神奈川での豪快活劇「浜の弥太っぺ」にも(ゲスト?)出演していた大西一郎主宰「ネオゼネ」を一度観たかったが、初見は躊躇するもので。俳優陣で観劇を決めた。神奈川に所縁のあるユニットと聞くが下北沢「劇」小劇場にて出迎えたスタッフや観客にも何処となく「所縁」な雰囲気が。
不思議な快い味わいは独自のもので、予期せぬ劇世界の発見は視界の開けるような嬉しい瞬間であった。多彩なうんちくを役者が喋る時間は(所属俳優がたまたま出演もしていたが)ジャブジャブはせひろいち氏の文体に似、後半はゴドーのもじり、というよりゴドーの二人に別役風な秀逸な対話をさせ、舞台には風が流れ、時に疾風が吹く。人は旅人(人生は旅)であるという暗喩、達観、旅人でありたい憧れと切望、言わばロマンこそ「物語」の命脈。出会い又別れ行くも旅人であるが故。人生の答えへ導く風の道が、あるいは扉が、人それぞれに隠されていると物語は告げているような。
終夜
風姿花伝プロデュース
シアター風姿花伝(東京都)
2019/09/29 (日) ~ 2019/10/27 (日)公演終了
満足度★★★★★
風姿花伝プロデュース第一弾を飾った「ボビー・フィッシャーはパサデナに棲んでいる」の同作者の作品。演出然り。「パサデナ」と同じく夜部屋で交わされる会話を聴き入る濃密な会話劇であるが、前回は何処か外出から帰宅した一家族のそれ、今回は母の葬儀で久々に顔を合わせた兄弟とその連れ合いとのそれ。老成による退廃と傲岸さ、ナイーブさは岡本健一にしか出せないのでは、と思わせる嵌り具合。栗田桃子、どこかで見たが誰だったか(例によって役者名チェックせず観劇)、思い出せない程の役柄の振り幅・・等々言葉にするだけ野暮に思えてくるので止めにする。
家族という内臓の脈動に4時間弱(途中休憩2回)、どっぷりと浸かる贅沢な時間であった。
亡くなった中嶋しゅう(「パサデナ」に出演)の「5回までは応援する」との言(遺言となった訳だが)に応えた風姿花伝プロデュースのその回を迎えたが、もう5回は続けて欲しい。演目の選定は大変だろうけれど。。
ゆうめい『姿』
ゆうめい
三鷹市芸術文化センター 星のホール(東京都)
2019/10/04 (金) ~ 2019/10/14 (月)公演終了
満足度★★★★
下北沢演劇祭いらい久々2度目のゆうめいat三鷹。情報ゼロ・期待せずの初観劇(at下北沢)は終ってみれば面白く、作者の分身である男が体現する被虐を若い俳優の持てるエネルギーがギリギリ昇華するも、昇華より被虐の事実性(ドキュメンタリー性)に利があった、という記憶。私小説的舞台だけにネタの枯渇を心配したが(勝手な心配だが)、その後も公演を打ち、今回の三鷹公演では、やはり被虐の体験告白的要素をベースにしながら、独特な舞台を作った。
体験に基づく事実性が滲む舞台と言えば、例えばハイバイがそう。これと守備範囲は異なるが、確かに現代性があり、ウェルメイドでなく痛みに向き合わせる舞台にこだわろうとする作り手の意思を感じる所あり、舞台が提供するものを素朴に楽しんだ。
今回足を運んだ決め手は俳優陣だったが(最近俳優で観劇を決める事がしばしばある)、期待にたがわず「独特」の劇世界を支えていた。
ワーニャ伯父さん
都市雄classicS
アトリエ春風舎(東京都)
2019/10/04 (金) ~ 2019/10/07 (月)公演終了
満足度★★★★
アトリエ春風舎で時に遭遇する才能の萌芽(いや既に練達の域?)。端的に面白かった。
ワーニャ役を演じる事になったうつ患者がだけが部屋着状態で、他はエンジ色の白衣(色付きでも白衣と言うらしい)をまとった医療スタッフ。このうち体型・髪型の似た女優2名の固体識別に時間を要し、また役の掛け持ちもあり、声量の加減も様々であるので今何が起きているのか分からない時間が結構ある(体調によってはそこで睡魔が襲う)。だから一度戯曲をおさらいして観るのが理想なのだろうが、前知識がなくとも見られる。で、きっと面白い。舞台には病院の時間が流れており、その枠組の外から透かし見る「ワーニャ」は、本題ではあるが形として本題でないという構造であるので、見れただけお得というやつ。さらに終盤では本域の芝居に浸かることが出来る。
うつ病患者の風情がよく出来ている。最初、劇をやってみようという構えから読みが始まり、やがて役になり切ったかにも見えるが、後半、暫くワーニャが登場しない場面では上手奥で他の役者が喋っている間、何やらロープを持って来て天井に掛けようとして諦めたり、水を張った洗面器を持ち込んで顔を突っ込んだ所を看護師に止められたり、どこからかナイフを手に入れ腕をまくった所で看護師に止められたり・・笑えないがコメディである。
演技エリアはほぼ上手奥のベッドとその周辺。舞台手前には来ない。他の役も同じくだが、役者自身と劇中の役との微妙な距離がキープされる。この「距離」があるからこそ、飲み込み易い青汁の如く、伝わってくるものがあり、作品の巧みな媒介のあり方が探られていた。笑える美味しい場面が多々ある。役者も柔軟に機敏によく演じていた。
役者と役との距離は、観客と役との距離を縮める、という仮説を立ててみると、「現代のどこかの病院での上演」という設定はチェーホフの時代との時間的距離の縮め、我々に近づけている。ベッド上で語る終幕前のソーニャの台詞が隣りに佇むワーニャ役の患者の中に沁み込んで行く様を、自分の事のように眺めていた。
異邦人
劇団民藝
紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)
2019/09/26 (木) ~ 2019/10/07 (月)公演終了
満足度★★★★
民藝への書き下ろし第2弾となる中津留章仁戯曲。悲壮感目一杯であった前作とはガラッと雰囲気を変え、地方都市の日常の変化をゆったり流れる時間の中に描き出していた。劇団銅鑼に合いそうな(イメージ狭すぎか)最後にはほのぼのとした大団円を迎える芝居は中津留作品では希少、確かにパンチが弱いと感じる。ただ「心温まるいきさつ」には、テーマである所の外国人(本作ではベトナム人)と、現在の日本社会と人が出会う接点のリアルな風景があった。
今作では外国人労働者(技能実習生)の搾取や人権無視の「被害」状況よりは、ベトナム人労働者と日本人との関係が一定程度形づくられた「その先」の段階が描かれている。取材先がそうだったのか、主役樫山文枝が生きるコメディ調に合う設定を選んだのか判らないが、舞台となる洋食屋をはじめ老齢で農家を営む男、外国人を雇い入れる地元企業の上司や管理職も、外国人との共存は大前提と考えている、事実接点がある、その状況での悲喜劇となっていた。
(中津留にしては)物足りないと感じるポイントは、地元企業で働くベトナム青年が職場に嫌気をさして仕事を休み、一方「ベトナム人従業員に手を焼いている」と主任が上司に相談している案件で、幾許か仄めかされた人権侵害や搾取の顕著な実態はなく、拍子抜けするあたり。
相談役になる団体職員が、件のベトナム青年と主任を引き合わせる事2回。やがて見えて来るのは文化の違いによる認識・感情のギャップであった。
ヘイトに通じるネグレクト、つまり互いをヘイト出来る距離が保たれたケースではなく、逆に関わりが生じたからこその問題。仲の良い者同士が比較的小さなこと(新婚夫婦が味付けの好みでぶつかる的な)で反目してしまうケース。これは歩み寄ろうとするが故にこじれ、離れてしまう、ある意味で一歩進んだ望ましい関係の提示とも言える。ファンタジー要素はあるが、舞台が地方都市である所に現実味がある。
程よい距離を持ちながらの共生という事では、外国人の居住する大半の地域でそれは実現されている事を考える。外国人が「知人」となる職場の風景を思い起こすと、相手が片言だろうと一旦認知してしまうと「○○国人」という属性は後退し「○○さん」になってしまう。だから問題化せず意識もされない(集団になればまた違うのだろうが)。パンフに曰く作者が「この問題を取り上げている作品を見ない」のも、そのあたりが理由かと推量した。
日本人にとっての「外国人」を意識させる、印象的なシーンがオーラスにある。・・それはただ、今や常連となったベトナム人たちがいつもの風景のように洋食屋に入って来る、というだけの描写なのだが。俳優のラインナップを見ると、店を訪れるだけのベトナム人役として5名ばかりが配されている。これが見事に「東南アジア人」となっている。髪型、会話の調子や風情は、私にはベトナム人かインドネシア人かフィリピン人かペルー人かの違いまでは判別できないが、ある共通性、開放的で直接的で、己に対する自然体の誇りがあり、人に対する愛着を表わす笑顔を持ち・・といった印象を体現している。
息子に店を譲ろうとしている一代目とその夫人が、彼らを迎える光景の中に、お題目でない共存を示唆する種を見る思いがした。言葉を連ねる作家だが、時にこういう場面を作る。そこが不思議な魅力でもあり、やはり捨てがたい作り手である。
体育の時間
玉造小劇店
ザ・スズナリ(東京都)
2019/09/26 (木) ~ 2019/10/01 (火)公演終了
満足度★★★★
中島らもが生前リリパットアーミーなる劇団を作っていた事を随分後になって知り、震災の直後にあった公演『桃天紅』(山内圭哉演出)で、らも舞台の世界を垣間見た由。件の劇団の演出を担当したわかぎゑふが元団員らと立上げた劇団を知ってより2014、2015、2019と観てきて今年は2度目だが、中島作品とは皆どれも毛色の違う割かしマジメなストレートプレイであるので、これを関東で観る意味は何だろうとつい考えてしまう。
関西弁。約一名喋ればたちまち新喜劇臭が立ち籠める女優さんが居るが、風情ある関西弁の芝居と言えたのは前作くらい。関西弁自体に既にプレミア感は無い昨今だが。わかぎゑふ女史は歴史上の出来事を題材に戯曲を書く事が多いようだが、笑い多くフィクション性の高い演出が施される。
今回も要所で笑わせ、役者も元気があったり達者だったり(唯一見知っていた俳優みやなおこは前見たのと全く異なる役柄に感心。)
女子スポーツ界の黎明期を、十代が通う当時は珍しかったスポーツ専門の学校(女子体育学校)を舞台に描いた佳作である。運動選手役は一人を例外として皆男性が演じ、これが悪くない。現在のスポーツがどう成り立っているかを改めて考えさせる先人の苦労話であり英雄譚。
舞台となった時代(大正・昭和)、古い観念や女性蔑視・処遇格差の壁に向って挑んだ先人たちを、綺麗事でない側面も合わせ描いている。そこに作者の「思い」を感じ取ることはできた。
瘋癲老人日記
劇団印象-indian elephant-
小劇場B1(東京都)
2019/10/02 (水) ~ 2019/10/06 (日)公演終了
満足度★★★★
先般高円寺で二十年振りに拝んだ近藤弐吉の特権的肉体に再び見えた。
演出・鈴木アツト氏の名は幾度か目にしたが(あるいはリーディング企画か何かの演出を観たかも知れぬ)主宰ユニットは初めて。恐々会場に入り、開演を待つ。結果的には初感触の舞台であった。
原作者谷崎潤一郎自身が三度結婚をし、最初の妻をめぐっては友人に売り渡す話を付けるだの、作品のイメージに違わず「色」の気のある人物だったようで、『鍵』や本作など晩年の作は老齢となった作家自身がかなり投影されているにも違いないが、老人エロ小説でありながら売りはエロでなく赤裸々な一人の老人の性の苦悶と苦悶から滲み出す快楽である。
私の関心は究極に滑稽で痛切な人間模様をどう舞台に乗せたか、な訳だが、この題材で浮ぶのは三浦大輔の超写実的演出、または朗読にお芝居要素を添える程度の演出か。。本作はいずれでもなく、原文を尊重した作りでありながら(近藤氏をオファーした理由が判る)俳優の肉体が主役の舞台であった。
「海につくまで」
津あけぼの座
こまばアゴラ劇場(東京都)
2019/09/28 (土) ~ 2019/09/30 (月)公演終了
満足度★★★★★
アゴラ劇場と提携関係にある津あけぼの座(三重)プロデュースの二人芝居。出演は関西出身俳優・坂口氏と数年前三重へ拠点を移した第七劇場・小菅氏、共に三十代(確か)。劇場の企画の経緯は判らないが良い仕事になった。俳優の身体能力が実証される80分動きまくる「ロードムービー」は一人多役・多場面・映像並のカット転換によって見事に成立していた。チンピラ2人を主要登場人物としてその他様々な人生模様(二人ないし三人)が伏線的に挿入されるが、それぞれ経緯あって最後には皆、南の海へと辿りつく。冴えない二人の海を前にしてのラストが、他の様々な人生行路と(直接的な接触はないが)交差し、「世界の中・歴史の中で」たまさか生まれて終える小さな人生の悲哀と輝きを圧縮して見せる。上演中休みなく疾走する役者の身体(と汗)が必死に浮かび上がらせようとする人生を、観客は想像により補いながら掬い取る、水面下のコミュニケーションが会場の熱にもなっているが、適度な冷却としてアドリブ的場面の挿入もあり、それと意識しない内に乗せられてしまう。うまい。
国粋主義者のための戦争寓話
ハツビロコウ
小劇場 楽園(東京都)
2019/09/24 (火) ~ 2019/09/29 (日)公演終了
満足度★★★★
ハツビロコウ@鐘下作品。不足のあろうはずが..との確信を此度も裏切らず、開幕から緊張の糸の弛む事ない舞台だった。下北沢「楽園」の圧迫感が作品に相応しい。緊迫をもたらす状況設定も巧い。理不尽な事態に押し出されるように兵士らの口から本音の呻きが放たれる。
新型爆弾投下の報も軍に届いた敗戦直前、原爆を搭載した敵機の東京来襲を阻止する作戦部隊が駐留するとある山中へ、ある男が飛行士兼指揮官として配される。命令を告げた上官は男の兄を知っており、優秀で人望もあったその兄に代って命運を委ねると言われた男は、飛行機の知識はあっても経験値は未熟、それでも尊い使命に身を奮い立たせて現地へ赴く・・という冒頭。時折ナレーションで語られる「手記」の記者がその男なのか、行方不明となった男の兄なのか、混乱する所があったが、少なくとも弟には「入隊によって訣別したい過去」があるらしいと判る。配属先の四人の軍人らは若い通信兵、伍長、曹長、古参兵(役職忘れた)と作戦要員に相応しく一定の知識や外地経験を持つが、状況が状況だけに絶えず怒鳴り合いぶつかり合う。
「次の投下先が東京12日(広島6日、長崎9日の次)」との情報(噂)に拠り、翌日の作戦遂行へと事態は急迫するが、人員確保先に浮上した近隣の谷底の村の村人との接触を契機に、「兄」が率いたはずの先遣隊30名の不審な失踪へと、関心の焦点が移って行く。
戦争物としては変わり種なストーリー。その所以は、弟が着任した日に目にする「先遣隊」が発掘したらしい箱詰めされた縄文集落の遺物である。ナゾの事態が解かれる終盤で、戦争の是非や大義、民族意識(ナショナリズム)を巡っての議論が人類史的視野から突き上げられる。
情報を受信する事しかできない山中で次の行動をめぐって互いに対立する部隊員たちは、作戦遂行のため徴集したものの山の祟りの伝説を恐れて早く村へ返してくれと懇願する村人の言葉を、兄たち先遣隊の失踪といつしか結び付け、それを否定したい者と一定の判断をしようとする者との感情的な対立としても過熱して行く。
対原爆搭載機迎撃作戦(作者の創作?)の実体は、片道燃料を積んだ木製の特攻機と変わらぬ代物。ロケット噴射燃料に相当すると思われる物質を用い、6分以内に成層圏に達し敵機を攻撃、もしくは体当りするというもの。
「理論上は可能」と上官は言う。お芝居上の話だから荒唐無稽もあり、と理解するか、日本軍の荒唐無稽さ(無策さ)を示す話と受け止めるか。いずれにせよ、華々しく自分を飾る死に場所を得た主人公は、作戦に執着する事で誤判断を部下に押し付ける事となる。さらに村人の非協力という事態に対しては、兄たち先遣隊30名の失踪の原因を(女子供しか残っていない村の)村人らの仕業だと断定する。
「見たいものしか見えない・信じない」(先日の浮世企画の芝居ではないが)、無責任極まる希望的観測、ご都合主義、つまりは戦時の日本軍の体質そのままを体現する主人公の言動。それが何に由来するものか、そこはかと示唆するものがある。
「国粋主義者」と化す主人公には、過去の負い目と、現在の浮かばれなさがあった。「それ」以外に己を価値づけるものが「ない」時、人は国家という最大の「公」に奉仕し、人知れず(と言いながら誰かには認知されるだろうとの予測に基づき)、浮かばれなかった己という存在・人生にせめて報いる選択を行なうもの。
はっきり打算で大樹に寄り沿える徒輩とは異なり、主人公のような不器用な人間こそ、芯からの国粋主義に身を委ね、自爆テロを厭わない人間になる。他に身を立てる選択肢が他にないからだ。
人間の尊厳や人権、正義、道義といった普遍的価値が疎外され、さらには家族や中間団体といった単位が解体された社会では、最大の価値ある実体は国家であるからして、術を持たぬ者はこれに殉じて名誉と利益を得ることを目指す。
逆に言えば、為政者が民を国になびかせようとするなら、道理が通用しない状態を徐々に作り出し、自力で社会的地位を確立できない状況を作り出せば良い。翻れば、今それは着々と進められている訳である。
桜姫
阿佐ヶ谷スパイダース
吉祥寺シアター(東京都)
2019/09/10 (火) ~ 2019/09/28 (土)公演終了
満足度★★★★
長塚圭史作品と言うと新国立劇場の子ども向けプログラムや他劇団によるリカバーを一度目にした記憶だけだったが、実際は本家阿佐ヶ谷スパイダース舞台も3年前に観ていた。「はたらくおとこ」再演は本多の後部席だったのだろう、舞台風景を殆ど覚えておらず「りんご」の話を交わす微かな記憶のみ。
今回の吉祥寺シアターでは客席を含め、舞台の建て付けがイイ感じ。不安定感とまとまりの絶妙なバランス。開閉式の床の穴が複数あり、物の出と人の消えがある。舞台最前には川に見立てられる長方形の穴がボッカリと開き、物を捨てたり人が飛び込んだり端から端へ抜ける道だったり。手前左右奥、舞台奥の下手上手袖にもハケるし、さらにに奥は溶暗している。
このどん詰まりの壁が、殆ど数秒の事だが開くと鮮やかな夜の街明かりが射し込み、人、そして車が通るのが目に入る。つまり劇場裏手の搬入口らしいと後で推察するが、仕込みであるのかどうか。いずれにせよ芝居の文脈とは無関係に突然、あたかも自然な流れのように挿入される。(つい先日KAATで観た庭劇団ペニノ「笑顔の砦」の終幕の暗転で、舞台が中央で割れ始め、逆光に映える一瞬の現象を目にするが、これと同程度に意図不明、かつ美しい数秒であった。)
ピアニカや鳴り物で構成される楽隊も、役者がやる。上演中は「やれる人」の集まりだろうと思っていたが、その位劇伴として完成度が高く、台詞の出しは(当然ながら)バッチリ。見れば何と我らが荻野清子。今回は彼女の劇音楽キャリアのきっかけとなった黒テントの方式(彼女が理想的と考えていた)を実行したのだとか。
阿佐ヶ谷スパイダースが大所帯の劇団として再出発した事を私は知らなかったが、その評価はともかく(今後の事になるだろう)贔屓女優・村岡希美氏の秀逸演技も拝め気持ち良く劇場を出た。
ミクスチュア
劇団 贅沢貧乏
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2019/09/20 (金) ~ 2019/09/29 (日)公演終了
満足度★★★★
2、3年前アトリエ春風舎で上演された舞台には鋭く光る才能の片鱗を見たが、後半息切れ気味で完結し切れなかったという印象からすると、直後の芸劇からのオファーには少々驚いた。喜ばしいというよりむしろ藤田貴大の二の舞に(と、私は酷評してしまうが)ならないかと不安がよぎった。背伸びして、抽象に走り、何か価値あるものを観た「ような気にさせる」お茶濁しのテクニックだけを育てる事にならないか、という不安。
主宰の山田由梨は本人が美女である事を差引けば(敢えて言及するレベル)、未だ海とも山とも知れない御仁との認識であったので、今回の観劇はエイヤと思い切りが必要であったが、見届けるべしと足を運んだ。芸劇の後押しは当てにならないと思いつつも期待を寄せて。
不穏な前置きはここまで。感想は袋綴じにて。
君恋し
劇団昴
東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)
2019/09/19 (木) ~ 2019/09/26 (木)公演終了
満足度★★★★
中島淳彦作と言うと何処かでやった音楽ライブ風の公演を観たのを例外として、殆どお目にかかる機会なし。たまたまそうなのか料金やや高めだし、何となく想像される「心暖まる/ちょっと笑い」系統では費用対効果が云々と候補から外れてしまう。今回は同じ時間帯に競合他公演なく、興味津々で覗いた。
「何となく想像される」芝居の範疇では確かにあったがリアルの断片が徐々に頭をもたげて来るあたりが、この作家の真骨頂(それとも「史実」の力)?判別はつかないがこれが意外に良かった(意外は失礼)。
二村定一にスポットを当てた舞台で、以前からあった素朴な疑問・・エノケンで有名な唄の「正式な歌い手」?として逐一この人の名が上る理由・・に判りやすく答えてくれたし、音曲と人の摩擦熱とで賑わしい楽屋の光景のどこかしらから吹く隙間風は言うほど温くない。芸の世界に身を投じた人生たちを遠慮会釈なくスリコギのように混ぜっ返し、引き潰す、その酷薄さもまた良い味なり。
役者自身が生演奏で歌う舞台としては達していたいレベルにあり、舞台に華をもたらした。特にアコーディオンの弾き手は元来役者だったがある舞台で楽器と出会い、プロに師事し他の楽器もやる今や演奏家の顔が主であるという人。だが演奏は勿論、風貌・演技も貢献度大。
願望や欲求を直線的に行動に表わす者共の一途さが、愛おしく、羨ましく、懐かしい。
旅一座の役者たちや小屋主、芸人志望といった役柄をこなす役者たちに安定感あり、戦後間もない日本の「裏路地」の匂いを嗅いだ感触であった。
「笑顔の砦」RE-CREATION
庭劇団ペニノ
KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)
2019/09/19 (木) ~ 2019/09/23 (月)公演終了
満足度★★★★★
前作「蛸入道忘却の儀」はライブであったが今回は劇である。「ダークマスター」と同じカミイケタクヤの超リアル美術が舞台上を埋め尽くし、超リアル芝居が展開するという近年の(以前のは知らないので)ペニノ芝居。にんまり。「ダークマスター」と同様、料理が一つのポイント。緒方晋の緒方晋節も健在。リアルな生活臭が立ち昇る細部へのこだわりには脱帽。理想を言えば、客席はもっと舞台に近寄りたく、密な空間で味わいたかった。
アジアの女
ホリプロ
Bunkamuraシアターコクーン(東京都)
2019/09/06 (金) ~ 2019/09/29 (日)公演終了
満足度★★★★
長塚圭史作品はカウントしていないが三、四作目と思う。いずれも荒廃した風景の中、外部との連絡困難であったり食糧難だったりの状況で人間が這うように生きている様が描かれる。コクーン規模の広いステージでは初めて。新国立への書き下ろし作品という。東日本震災前(2006)の作品だが、近未来の関東大震災後というディストピア劇の舞台の背後には、フレコンパックが置かれていた。
初演のレビューを覗くと随分ニュアンスが違う。最大のポイントは、災害や窮状が人間を活性化させる「震災ユートピア」の皮肉を評者は芝居から読み取っている。
石原さとみ演じる女は立入禁止区域で兄(山内圭哉)と共に暮らし、遠くない過去に精神を病んでいたらしい形跡(認識の混濁)があるが、行動の性質は未来志向で積極性を帯び、やがて外国人集住地区で活動する男を慕うようになり、彼のために尽くしたいのだと最後に兄に告げる事になる。その前、兄は、彼女に思いを寄せラブレターを渡す若い警官に、両腕に無数の傷跡を作った阿鼻叫喚の日々を語り、恋愛への発展に釘を刺す。だが兄は妹を保護する役回りであるかにみえ、実はアルコール依存となり希望を捨てている。震災後の物理的な荒廃は、多くの例に漏れず彼を鬱にしたが、妹の方は逆に震災を契機に活性化していく・・。先の評者はその対比を読み取った訳だ。
初演の時点では「震災」とは阪神淡路大震災であり、災害ユートピアという言葉もよく聞かれた(当時は否定も肯定もない一般概念として用いられていたと記憶する)。
妹のためにあろうとしながら酒に溺れ心に闇を抱える兄の佇まいは秀逸で、表面上「悲劇的」な場面は全くないが「こういう人いるなァ」と思わせる人物がそこにあり、彼にとっての如何ともできない状況がじんわりと見えてくる、否、想像される(実際人の心は想像するしかない)。山内圭哉の俳優力を初めて実感。
ところで東日本大震災を経た現在の私たちには、この舞台は近未来ではなく現実の延長である。大震災を(たとえフィクションでも)上のような議論を喚起する道具立てに用いる気にはなれない。初演はそもそも今回とは芝居の組み立ても違っていたのではないか、と想像するが、資料はない。
物語を紡ぐ瑞々しい言葉が、ダメ小説家であったはずの男の口からこぼれ出る場面で、作家長塚圭史の作家たる証をしかと見た。
誰そ彼
浮世企画
駅前劇場(東京都)
2019/09/19 (木) ~ 2019/09/23 (月)公演終了
満足度★★★★
「ドリンカー」以来3年振り二度目の浮世企画。前のも同じ駅前劇場(確か)で、両面客席を組み台上を見上げる具合だった。今回は通常の仕様だが室内を斜めに配置して具象を適度に省略しながら動線のバリエーションを可能にしていた。
前回との共通点はこれと言えないが、何処となく「らしさ」を覚える。作演出の今城文恵女史の個性は、和物に馴染みが濃いところ。「和」の心を具現したような存在(人間でない)が今作のヒーローであり「人間」を見定める目の存在だ。
超常現象やファンタジーのネックは「ルール」の設定であるが、(ぼんやりな部分もあるにはあるが)うまくストーリー化できた。多種の「非人間」がにぎにぎしく、いけ好かない人間に一泡吹かせる要素も含みつつ、実家の処分を巡る兄弟の対立図の推移を見つめていく。大詰めで予期せぬ災厄が訪れるがこれを如何に理解すれば良いだろう・・何かを連想させるが言葉に乗せづらい。だがこの展開を書ける所がこの作家の特性であるようにも思う。ゴヤの絵を思い出す。