tottoryの観てきた!クチコミ一覧

981-1000件 / 1883件中
国粋主義者のための戦争寓話

国粋主義者のための戦争寓話

ハツビロコウ

小劇場 楽園(東京都)

2019/09/24 (火) ~ 2019/09/29 (日)公演終了

満足度★★★★

ハツビロコウ@鐘下作品。不足のあろうはずが..との確信を此度も裏切らず、開幕から緊張の糸の弛む事ない舞台だった。下北沢「楽園」の圧迫感が作品に相応しい。緊迫をもたらす状況設定も巧い。理不尽な事態に押し出されるように兵士らの口から本音の呻きが放たれる。

新型爆弾投下の報も軍に届いた敗戦直前、原爆を搭載した敵機の東京来襲を阻止する作戦部隊が駐留するとある山中へ、ある男が飛行士兼指揮官として配される。命令を告げた上官は男の兄を知っており、優秀で人望もあったその兄に代って命運を委ねると言われた男は、飛行機の知識はあっても経験値は未熟、それでも尊い使命に身を奮い立たせて現地へ赴く・・という冒頭。時折ナレーションで語られる「手記」の記者がその男なのか、行方不明となった男の兄なのか、混乱する所があったが、少なくとも弟には「入隊によって訣別したい過去」があるらしいと判る。配属先の四人の軍人らは若い通信兵、伍長、曹長、古参兵(役職忘れた)と作戦要員に相応しく一定の知識や外地経験を持つが、状況が状況だけに絶えず怒鳴り合いぶつかり合う。
「次の投下先が東京12日(広島6日、長崎9日の次)」との情報(噂)に拠り、翌日の作戦遂行へと事態は急迫するが、人員確保先に浮上した近隣の谷底の村の村人との接触を契機に、「兄」が率いたはずの先遣隊30名の不審な失踪へと、関心の焦点が移って行く。
戦争物としては変わり種なストーリー。その所以は、弟が着任した日に目にする「先遣隊」が発掘したらしい箱詰めされた縄文集落の遺物である。ナゾの事態が解かれる終盤で、戦争の是非や大義、民族意識(ナショナリズム)を巡っての議論が人類史的視野から突き上げられる。
情報を受信する事しかできない山中で次の行動をめぐって互いに対立する部隊員たちは、作戦遂行のため徴集したものの山の祟りの伝説を恐れて早く村へ返してくれと懇願する村人の言葉を、兄たち先遣隊の失踪といつしか結び付け、それを否定したい者と一定の判断をしようとする者との感情的な対立としても過熱して行く。

対原爆搭載機迎撃作戦(作者の創作?)の実体は、片道燃料を積んだ木製の特攻機と変わらぬ代物。ロケット噴射燃料に相当すると思われる物質を用い、6分以内に成層圏に達し敵機を攻撃、もしくは体当りするというもの。
「理論上は可能」と上官は言う。お芝居上の話だから荒唐無稽もあり、と理解するか、日本軍の荒唐無稽さ(無策さ)を示す話と受け止めるか。いずれにせよ、華々しく自分を飾る死に場所を得た主人公は、作戦に執着する事で誤判断を部下に押し付ける事となる。さらに村人の非協力という事態に対しては、兄たち先遣隊30名の失踪の原因を(女子供しか残っていない村の)村人らの仕業だと断定する。
「見たいものしか見えない・信じない」(先日の浮世企画の芝居ではないが)、無責任極まる希望的観測、ご都合主義、つまりは戦時の日本軍の体質そのままを体現する主人公の言動。それが何に由来するものか、そこはかと示唆するものがある。
「国粋主義者」と化す主人公には、過去の負い目と、現在の浮かばれなさがあった。「それ」以外に己を価値づけるものが「ない」時、人は国家という最大の「公」に奉仕し、人知れず(と言いながら誰かには認知されるだろうとの予測に基づき)、浮かばれなかった己という存在・人生にせめて報いる選択を行なうもの。
はっきり打算で大樹に寄り沿える徒輩とは異なり、主人公のような不器用な人間こそ、芯からの国粋主義に身を委ね、自爆テロを厭わない人間になる。他に身を立てる選択肢が他にないからだ。
人間の尊厳や人権、正義、道義といった普遍的価値が疎外され、さらには家族や中間団体といった単位が解体された社会では、最大の価値ある実体は国家であるからして、術を持たぬ者はこれに殉じて名誉と利益を得ることを目指す。
逆に言えば、為政者が民を国になびかせようとするなら、道理が通用しない状態を徐々に作り出し、自力で社会的地位を確立できない状況を作り出せば良い。翻れば、今それは着々と進められている訳である。

ネタバレBOX

この芝居の底流に無念さがあるのは、この作戦の無意味さ虚しさというのが大きい。しかしこれは「今だから」分かる事だろうか。
芝居では部隊員らに「こんな作戦が本当にやれると隊長は思っているんですか」と疑問を吐かせている。仮に芝居のような状況が当時あったとして、実際にそれを口にできたかどうかは怪しいが、「認識」レベルでは正しい現状把握というものは戦争当時も存在した。
一方、理性優位の社会であるはずの現在、軍事的には配備の価値のないイージスアショアだの、旧スペックの戦闘機を兆単位の価格で購入する無意味さを、どう評すれば良いだろう。
米国追従による(米国離反を選択した場合と比較しての)獲得利益とは一体何だろうか。
事情は恐らく、あくまで想像だが蓋然性のある想像として、対米追随路線は既定のもので揺るぎなく、それを外れようとすると逐一チェックが入るまでに定型化された関係図が実体的にか、若しくは政治を動かす当事者の想定図としてか、出来あがっている事が考えられる。実体的にとすれば日米合同会議あたりを介して(霞が関の有力官僚も名を連ねるとか)、何等かのメッセージが政権幹部に伝えられる。それに反した行動をとる担当者に対し政治生命を断つ方法など敵さんには幾らでもある。
問題は政治家と官僚が、国内の者の顔色でなく、「アメリカ」の顔色を窺ってそれをやっている事であるが、明白なのはアメリカ追従が「国益」なのではなく(そうだと説明する方法はあるが後付けに過ぎない)、自らの政治生命を突如断たれる事を、全員が全員恐れて誤った道を進んでいるのが今の政治という訳だ。少し前の自民党には、独立派もあった。反目せずとも主張はする。今の安倍某の腰の引け方は何だ。それでいて国民に対しては高飛車である。あんなものいつまで元首の座に飾っておくつもりなのか日本国民は。素晴らしい結語に辿り着いたところで、お開きに。
桜姫

桜姫

阿佐ヶ谷スパイダース

吉祥寺シアター(東京都)

2019/09/10 (火) ~ 2019/09/28 (土)公演終了

満足度★★★★

長塚圭史作品と言うと新国立劇場の子ども向けプログラムや他劇団によるリカバーを一度目にした記憶だけだったが、実際は本家阿佐ヶ谷スパイダース舞台も3年前に観ていた。「はたらくおとこ」再演は本多の後部席だったのだろう、舞台風景を殆ど覚えておらず「りんご」の話を交わす微かな記憶のみ。
今回の吉祥寺シアターでは客席を含め、舞台の建て付けがイイ感じ。不安定感とまとまりの絶妙なバランス。開閉式の床の穴が複数あり、物の出と人の消えがある。舞台最前には川に見立てられる長方形の穴がボッカリと開き、物を捨てたり人が飛び込んだり端から端へ抜ける道だったり。手前左右奥、舞台奥の下手上手袖にもハケるし、さらにに奥は溶暗している。
このどん詰まりの壁が、殆ど数秒の事だが開くと鮮やかな夜の街明かりが射し込み、人、そして車が通るのが目に入る。つまり劇場裏手の搬入口らしいと後で推察するが、仕込みであるのかどうか。いずれにせよ芝居の文脈とは無関係に突然、あたかも自然な流れのように挿入される。(つい先日KAATで観た庭劇団ペニノ「笑顔の砦」の終幕の暗転で、舞台が中央で割れ始め、逆光に映える一瞬の現象を目にするが、これと同程度に意図不明、かつ美しい数秒であった。)
ピアニカや鳴り物で構成される楽隊も、役者がやる。上演中は「やれる人」の集まりだろうと思っていたが、その位劇伴として完成度が高く、台詞の出しは(当然ながら)バッチリ。見れば何と我らが荻野清子。今回は彼女の劇音楽キャリアのきっかけとなった黒テントの方式(彼女が理想的と考えていた)を実行したのだとか。
阿佐ヶ谷スパイダースが大所帯の劇団として再出発した事を私は知らなかったが、その評価はともかく(今後の事になるだろう)贔屓女優・村岡希美氏の秀逸演技も拝め気持ち良く劇場を出た。 

ネタバレBOX

さて話は混沌としている。敗戦直後の一定現実味のある話が進行する中に、異界または幻の次元がいつか居座っている。
先の床穴がその予感を漂わせているし、孤児院から財産家へ嫁ぐ事になる女の出自は不明、挙式前夜に彼女と繋がる事となる男は記憶をなくした剣呑な復員兵。女は薄汚れた木偶を大事に持っている。その女との間の運命的繋がりを確信する篤志家は、かつて恋仲であった少年白菊と戦争ゆえに絶望し心中を試みて自分だけが生き残った過去があり、玉の輿に乗り損ねた(自ら破棄した)女に少年白菊の姿を重ね、死後も彼女に取り憑く事になる。婚約者に裏切られた金持ちの御曹司は零落し、裏社会を徘徊する。孤児の娘の「先生」であり世話役を買って出ていた中年女は例の篤志家のお付きの男とつるんでいたが、男が主の失脚を企図して勝負をかけたのに自滅して裏社会に身をやつす。復員兵と再会した娘は彼と夫婦となるが身を立てる術のない男の食い扶持のために自ら好んで商売女になる。男は女に導かれるかのように女を食い物にするヤクザ風が板に付いているが、娘が取った客が残らず逃げて困ると女衒が苦情を言いに来たあたりで、鶴屋南北の原作の匂いが漸く漂ってくる。

軍国少年や特攻還りの戦後の目標喪失、坂口安吾の「堕落論」を思い出しつつも、昔話に全く思われず、むしろ現代に通じるものを感じてしまうのは、現代の本質が混沌である事を表しているよう。
ミクスチュア

ミクスチュア

劇団 贅沢貧乏

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2019/09/20 (金) ~ 2019/09/29 (日)公演終了

満足度★★★★

2、3年前アトリエ春風舎で上演された舞台には鋭く光る才能の片鱗を見たが、後半息切れ気味で完結し切れなかったという印象からすると、直後の芸劇からのオファーには少々驚いた。喜ばしいというよりむしろ藤田貴大の二の舞に(と、私は酷評してしまうが)ならないかと不安がよぎった。背伸びして、抽象に走り、何か価値あるものを観た「ような気にさせる」お茶濁しのテクニックだけを育てる事にならないか、という不安。
主宰の山田由梨は本人が美女である事を差引けば(敢えて言及するレベル)、未だ海とも山とも知れない御仁との認識であったので、今回の観劇はエイヤと思い切りが必要であったが、見届けるべしと足を運んだ。芸劇の後押しは当てにならないと思いつつも期待を寄せて。
不穏な前置きはここまで。感想は袋綴じにて。

ネタバレBOX

演出面では実験的試みが幾つか為されていた。ただそれらは結果浮かび上るドラマ(的な何か)に対する効果として初めて評価が生まれる。
但し舞台の時間がどう統御されているかはエンターテインメントとして(たとえ晦渋な芝居でも)重要で、身体パフォーマンスとお芝居(凡そ3つ程のストーリーに属するシーン)はうまく配置され、物語と人物像が適度に謎を残しながら徐々に見えてくる流れのテンポは(映画なら編集の)職人的な成長があった(そこは山田氏の天分なのかも知れないが)。
しかし結果見えてくる物語(的な何か)は全体像として見えて来づらい。恐らく人間の何を見せたいのか、見たいのかが絞り込めなかったのではないか。
しかし中で非常に興味深かったのは風変りな仕方で繋がっているカップルの風景。作者もこの二人の事をもっと見たい見せたい思いが明確にあったに違いなく、他者と関わる態度について殆どゼロから考え始めさせるシーンを作っている。
その彼らと他者との接点も描いているが、そこに何が生じるのか丁寧に描けていない、というか掘り下げ切れず、仄めかしで終えている。
そして不特定多数が行き交う「ある社会」の風景の中に登場する動物(哺乳類的な何か)が、彼らと人間との関係の考察材料として書き込んだアイテムのようなのだが、よくある会話、よくある話の範囲を出なかった。
むしろ一般人である彼らが、別の役としてだろうが決まった時間ある場所に集ってヨガを行なう、この場所の不思議な空気感は印象的。自分の中で何かを連想しそうになりながら届かない何かがある。観客自身が言うのもなんだが「分からない(でも何か引っかかる)こと」は舞台の魅力となる。(演出家鵜山仁は意図的に「分からないもの」を舞台に「観客に考えさせる」だけのために入れ込むのだとか。)
底が見えそうな部分と深みのある部分とが斑模様な作品。「無理」がさほど見られなかったのが逆に救い。成長株の現在地を見た。

それにしても客席には著名な舞台俳優諸氏も多く、それは注目度だったりもするのだろうが、自分が知らないのも含めれば実は相当数居て、劇場は狭い演劇界の会合の場となっているのではないか、との懸念も。
君恋し

君恋し

劇団昴

東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)

2019/09/19 (木) ~ 2019/09/26 (木)公演終了

満足度★★★★

中島淳彦作と言うと何処かでやった音楽ライブ風の公演を観たのを例外として、殆どお目にかかる機会なし。たまたまそうなのか料金やや高めだし、何となく想像される「心暖まる/ちょっと笑い」系統では費用対効果が云々と候補から外れてしまう。今回は同じ時間帯に競合他公演なく、興味津々で覗いた。
「何となく想像される」芝居の範疇では確かにあったがリアルの断片が徐々に頭をもたげて来るあたりが、この作家の真骨頂(それとも「史実」の力)?判別はつかないがこれが意外に良かった(意外は失礼)。
二村定一にスポットを当てた舞台で、以前からあった素朴な疑問・・エノケンで有名な唄の「正式な歌い手」?として逐一この人の名が上る理由・・に判りやすく答えてくれたし、音曲と人の摩擦熱とで賑わしい楽屋の光景のどこかしらから吹く隙間風は言うほど温くない。芸の世界に身を投じた人生たちを遠慮会釈なくスリコギのように混ぜっ返し、引き潰す、その酷薄さもまた良い味なり。

役者自身が生演奏で歌う舞台としては達していたいレベルにあり、舞台に華をもたらした。特にアコーディオンの弾き手は元来役者だったがある舞台で楽器と出会い、プロに師事し他の楽器もやる今や演奏家の顔が主であるという人。だが演奏は勿論、風貌・演技も貢献度大。
願望や欲求を直線的に行動に表わす者共の一途さが、愛おしく、羨ましく、懐かしい。
旅一座の役者たちや小屋主、芸人志望といった役柄をこなす役者たちに安定感あり、戦後間もない日本の「裏路地」の匂いを嗅いだ感触であった。

「笑顔の砦」RE-CREATION

「笑顔の砦」RE-CREATION

庭劇団ペニノ

KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)

2019/09/19 (木) ~ 2019/09/23 (月)公演終了

満足度★★★★★

前作「蛸入道忘却の儀」はライブであったが今回は劇である。「ダークマスター」と同じカミイケタクヤの超リアル美術が舞台上を埋め尽くし、超リアル芝居が展開するという近年の(以前のは知らないので)ペニノ芝居。にんまり。「ダークマスター」と同様、料理が一つのポイント。緒方晋の緒方晋節も健在。リアルな生活臭が立ち昇る細部へのこだわりには脱帽。理想を言えば、客席はもっと舞台に近寄りたく、密な空間で味わいたかった。

アジアの女

アジアの女

ホリプロ

Bunkamuraシアターコクーン(東京都)

2019/09/06 (金) ~ 2019/09/29 (日)公演終了

満足度★★★★

長塚圭史作品はカウントしていないが三、四作目と思う。いずれも荒廃した風景の中、外部との連絡困難であったり食糧難だったりの状況で人間が這うように生きている様が描かれる。コクーン規模の広いステージでは初めて。新国立への書き下ろし作品という。東日本震災前(2006)の作品だが、近未来の関東大震災後というディストピア劇の舞台の背後には、フレコンパックが置かれていた。
初演のレビューを覗くと随分ニュアンスが違う。最大のポイントは、災害や窮状が人間を活性化させる「震災ユートピア」の皮肉を評者は芝居から読み取っている。
石原さとみ演じる女は立入禁止区域で兄(山内圭哉)と共に暮らし、遠くない過去に精神を病んでいたらしい形跡(認識の混濁)があるが、行動の性質は未来志向で積極性を帯び、やがて外国人集住地区で活動する男を慕うようになり、彼のために尽くしたいのだと最後に兄に告げる事になる。その前、兄は、彼女に思いを寄せラブレターを渡す若い警官に、両腕に無数の傷跡を作った阿鼻叫喚の日々を語り、恋愛への発展に釘を刺す。だが兄は妹を保護する役回りであるかにみえ、実はアルコール依存となり希望を捨てている。震災後の物理的な荒廃は、多くの例に漏れず彼を鬱にしたが、妹の方は逆に震災を契機に活性化していく・・。先の評者はその対比を読み取った訳だ。
初演の時点では「震災」とは阪神淡路大震災であり、災害ユートピアという言葉もよく聞かれた(当時は否定も肯定もない一般概念として用いられていたと記憶する)。
妹のためにあろうとしながら酒に溺れ心に闇を抱える兄の佇まいは秀逸で、表面上「悲劇的」な場面は全くないが「こういう人いるなァ」と思わせる人物がそこにあり、彼にとっての如何ともできない状況がじんわりと見えてくる、否、想像される(実際人の心は想像するしかない)。山内圭哉の俳優力を初めて実感。

ところで東日本大震災を経た現在の私たちには、この舞台は近未来ではなく現実の延長である。大震災を(たとえフィクションでも)上のような議論を喚起する道具立てに用いる気にはなれない。初演はそもそも今回とは芝居の組み立ても違っていたのではないか、と想像するが、資料はない。

物語を紡ぐ瑞々しい言葉が、ダメ小説家であったはずの男の口からこぼれ出る場面で、作家長塚圭史の作家たる証をしかと見た。

ネタバレBOX

石原演じるアジアの女はこの世では特異である所の「純粋さ」を持つ。(これを印象づける幾つかのシーンがあり、信じさせる演技も中々。)
「病」の原因となったであろう繊細さを保持しながらにして「病」を脱し、羽ばたいていく姿を神々しく眺めるほどに、彼女という存在の誕生は、地震がもたらした社会の崩壊によると実感される事実は、先の評者の言を裏付けるだろうか。
「震災ユートピア」の意味合いを少し考えてみた。
1.震災時=非常時の気分的な高揚は、確かにある。
2.「誰かの役に立つ実感」の機会、即ちボランティア活動が被災・被害によって可能になる。
もう一つ。3.震災前の社会にあった消し難い病理が、自然の脅威により駆逐された。

3に着目。災害に備えよ、とか、テロに備えよといった防衛的な構えを促す風潮は、実は改めるべき「現在」の問題から目を逸らせるばかりか、「現在」が正常で良い状態なのである、という前提を知らず知らずに受容させる。何となく「現状に異議を唱える」事が憚られる。そういう効果がある。
今の日本社会もかなり「病理」が進んでいるが、この「進み方」も含めて膠着した状況は、恐らく人間自身の手では改める事は出来ないんだろう(今までやれなかったのだから)。
防災の視点と、災害を戒めとする視点はベクトルが逆である。
ユダヤの神はかの民族をその罪に報いて何度も滅ぼしたという。懲りない人間の歩みというのは、「こじれた状況」をリセットする超越的な他者を必要とする、という事か。
誰そ彼

誰そ彼

浮世企画

駅前劇場(東京都)

2019/09/19 (木) ~ 2019/09/23 (月)公演終了

満足度★★★★

「ドリンカー」以来3年振り二度目の浮世企画。前のも同じ駅前劇場(確か)で、両面客席を組み台上を見上げる具合だった。今回は通常の仕様だが室内を斜めに配置して具象を適度に省略しながら動線のバリエーションを可能にしていた。
前回との共通点はこれと言えないが、何処となく「らしさ」を覚える。作演出の今城文恵女史の個性は、和物に馴染みが濃いところ。「和」の心を具現したような存在(人間でない)が今作のヒーローであり「人間」を見定める目の存在だ。
超常現象やファンタジーのネックは「ルール」の設定であるが、(ぼんやりな部分もあるにはあるが)うまくストーリー化できた。多種の「非人間」がにぎにぎしく、いけ好かない人間に一泡吹かせる要素も含みつつ、実家の処分を巡る兄弟の対立図の推移を見つめていく。大詰めで予期せぬ災厄が訪れるがこれを如何に理解すれば良いだろう・・何かを連想させるが言葉に乗せづらい。だがこの展開を書ける所がこの作家の特性であるようにも思う。ゴヤの絵を思い出す。

リーグ・オブ・ユース 〜青年同盟〜

リーグ・オブ・ユース 〜青年同盟〜

雷ストレンジャーズ

シアター711(東京都)

2019/09/15 (日) ~ 2019/09/23 (月)公演終了

満足度★★★★

翻訳劇上演のあり方の点で、とても魅力的な個性が当初から感じられる雷ストレンジャーズ。イプセンの比較的マイナー作品でも十分期待して観た。最前列で、お面に書かれた名前(アルファベットだが)もチラチラと見ながら、中盤以降はほぼ人物判別でき、物語を味わえた。
因習のはびこる町に改革の志を持ってやってきた青年の、風見鶏的決断と我欲と無原則(無哲学?)によって敗北を喫する話をみながら、私は町びとの方に肩入れしていた。芝居もそう作られていたと思う。

愛と哀しみのシャーロック・ホームズ

愛と哀しみのシャーロック・ホームズ

ホリプロ

世田谷パブリックシアター(東京都)

2019/09/01 (日) ~ 2019/09/29 (日)公演終了

満足度★★★★

三谷幸喜作品を一度は観ておくべしとチケット購入したが、数年前もそう思って観たのを後で思い出した。確かコメディアンの生涯とかで記憶に埋もれていた位で印象もいまいちだったが、比較して今作はなかなかの印象を残した。重大事件に挑んで解決、という筋は「ないらしい」と含み置いたせいか、謎解き要素が複数盛り込まれたのがむしろ加点された感じ。観劇土産になるようなメッセージ性は特段なかったが、戯画化された役たち(演技)であるのに日常の時空に住まう人間の香りが脳裏に残るのは不思議なもので。二、三のアンリアルを除けば、人間を描いた作品であったとの後味である。値段は高いし三谷作品への期待に対してどうであったかはファンには無視できない要素だろうけれど。。
音楽の荻野清子も楽しみの一つ、以前初シアタークリエ観劇となった芝居で十数年振りの荻野ワールドへの期待が、救いようがない舞台(俳優はうまいが本がダメ)もろとも崩れた記憶が生々しいが、コメディ調の三谷作品と相性の良さを見せていた。だが黒テントが松本大洋のフシギ世界を舞台にした音楽劇で自由奔放に煌めいていた荻野清子をもう一度、どこで見られるだろう。

ネタバレBOX

ニール・サイモンは人間の輪郭を浮き彫りにする行動を書き込み、人間の意志を事態(運命)が凌駕する様を描くが、そこに神の配剤を仄めかす劇作の巧みさがある。・・そんな風に言えるとするなら、三谷幸喜は「配剤」が上位にあり人間のリアルが幾許かスルーされる面がある(そうした作品はピン桐で山とある。三谷はうまい書き手である前提での話)。
今作の美味しい場面。最終局面で兄とのカードの勝負がある。同席者全員参加しての「自分のカードを推測するポーカー(自分のカードだけ見えない)」で、シャーロックが兄と自分のカードの大小を推定していく過程などは三谷が得意としていそうで一つの山場だ。ここで発揮されるシャーロックの記憶力は発達障害の人にしばしば見られる驚くべき画像記憶の能力を連想するし、兄の弟に対する保護本能とある種の嫉妬心もひどく納得が行く(言葉で説明されるのが何ともだがミステリーの謎解きとはそういうものか)。兄が嫌悪するシャーロックの探偵業への適性の実証過程にもなるこの場面は、三谷氏の巧さである。
一方兄の退散後、喜劇の中心的役回りに八面六臂であったワトソンと、シャーロックの間で余談的に蒸し返される話題は、シリアス調だが人間ドラマの締めとしてはいまいち、というのが私には人間のアンリアルの方が気になってしまう。

ちなみにカード場面で総出となる出演者は、盟友二人の他、シャーロックの兄、シャーロックに相談に来る能天気な警部、料理が自慢の家政婦ハドソン、医師の夫より人気のある女性医師のワトソン夫人、シャーロックを担ぐため兄が仕組んだ一芝居に協力した売れない大部屋女優(シャーロックに理解を示す)の7人。
警部は冒頭からシャーロックの出したクイズ(これを解いたら相談を受けるとの約束らしい)に翻弄され、答えを言いに何度も部屋を訪れる。
大部屋女優はワトソン共々、兄がシャーロックに餌のようにぶら下げた「事件」の真相解明とともに兄の手下だった事が判明するが、この場所が気に入り出入りするようになる(苦労を知る女にシャーロックの影の方が琴線に触れているらしい様子がじんわりと伝わり、本作の唯一仄かな恋愛の要素である)。
家政婦は兄が所望した「スコーン」を作る最中に起きた小さな事件でスポットを浴びる。
残るは才媛ワトソン夫人が最終場面、「話題」に浮上しワトソン共々スポットを浴びる訳なのだが、、

夫人が去り際に渡した「例の薬」によりワトソンが毒死する寸での所でシャーロックに止められる。ここでシャーロックは僅かなヒントを繋げてストーリーを描く彼一流の推理を開陳するが、このストーリーはワトソンという人物や、シャーロックとの関係をより鮮明にして新たな全体像を提示する、事にはならず、若干の無理が滲む。
最初は兄の依頼で始めたシャーロックと同居を今はむしろ相応しいものと受け入れているワトソン。それは診療所が妻一人で切り盛りでき、彼女のほうが患者を沢山集めている事情もあり、若手の医師見習いの某も順調に育っているとの由。
だがカード勝負のあった最終日、翌日から妻はヨークシャーでの学会ではなく、ベネチアへ行くと(ワトソン不在のタイミングで)周囲に漏らす。これをシャーロックはワトソン夫人の現在の良人、新米医師とのバカンスだとワトソンに断言し、実は君はその事を既に知っていると告げる。
後は推察の通り?であるが、ワトソンの「計画」なるものはシャーロックの口に語らせてもなお杜撰さを隠せないが、「それがワトソンらしい所でもある」と、シャーロックはワトソンと一対一の謎解きの弁の最後に付け加える。最後にというのがミソ。つまりそれを言うまでは「まことしやか」に観客が耳を澄ませて聞き入る想定なのである。だがそのかん観客、否私は、シャーロックはいつ「なあんてね」と言って話を中断するかを待っている。少々居心地の悪い時間である。

私がシャーロックならこの時、ワトソンの「軽卒」や「杜撰」を指弾する前に、その「軽卒」「杜撰」が彼の何を示すものか、を刺すだろう。彼のささやかな復讐は「本気」であったのか、シャーロックに見破られる事を本当は望んでいたのではないか、ワトソンはシャーロックにとって無二の友人であったがワトソンにとってはどうであったのか、そしてそれらの疑問をシャーロックは彼一流の言辞で浮き彫りにさせていくのではないか。
ミステリー調のこの作品「らしさ」を維持するにはあの程度が丁度良い、との判断もあったかも知れないが、ニール・サイモンならその疑問こそ最大の問題にしたのではないか。。
クソ真面目に考えてしまった。
オペラ『ふしぎなたまご』+オペラ『おじいちゃんの口笛』

オペラ『ふしぎなたまご』+オペラ『おじいちゃんの口笛』

オペラシアターこんにゃく座

俳優座劇場(東京都)

2019/09/12 (木) ~ 2019/09/18 (水)公演終了

満足度★★★★

「歌劇場(かげきじょう)」は歌も多いが基本お芝居(オペラ)で、2編の最初「ふしぎなたまご」は短編、二本目の中篇「おじいちゃんの口笛」の途中で休憩となった。
チャペック作という1つ目は、以前こんにゃく座で観た「ゴーゴリのハナ」を思い出す可愛い不条理といった雰囲気があったが、残念ながら体調のせいで入眠。
2つ目は2人の子どもと初対面のおじいさん(とその友達のおばあさん)との交流を描いた、素朴で切なく美しい佳品であった。おじいさん役の大石氏の佇まいが決め手と言えるか。台本広渡常敏(原作有り)、装置は池田ともゆき、演出加藤直。
一点。最後に子どもたち2人だけによる歌(おじいさんに捧げる歌?)に移る前、うんと間を取ってほしかった。情感が湧き出す頂点で歌い出す・・くらいな感じ。
林光の音楽に出会ったのは学生時代みた映画『人間』。難破した船上の飢餓という極限状況を描いた作品でジャズ風の音が鳴る。不思議な取り合わせだが何とも印象的で名前を覚えてしまった。

表に出ろいっ!

表に出ろいっ!

演劇ユニットMR2

STスポット(神奈川県)

2019/09/15 (日) ~ 2019/09/16 (月)公演終了

満足度★★★

先日見逃した東京デスロックを同時日にやってたら一も二もなく(観に来たのに)・・とボヤキながらSTスポットを訪れたのは、野田秀樹作の珍品である出演者3人の同作を知りたさから。未知の演劇ユニットに一つ紹介してもらおう程度の構えで出かけた(一応websiteも覗いたが正体は知れず)。
元気に楽しく(自己満足でなく)芝居をやってる風景は良いものだが、1シーンのドタバタ・シチュエーション芝居とは言え、野田作だけに毒というかシビアな側面が終盤に向かうにつれ無視できなくなる。笑いが怖さに追い付かれてしまう。・・戯曲はそのようなのだが、このユニットはのっけからリアルを担保する梯子を外してしまっている。後半まで勢いで押したのはよく挑戦したと労いたくもあるが、戯曲本位でみれば押し切れるものでなく、正攻法勝負を避けたと見えた最初の心証が消えずに残った。
戯曲の核を読み違えてる、などと評せば「マジメかよっ」と返されそうでもあるが、芝居はマジメにやっていた、と思う。が、仲間内なノリに馴染んでいる様子は残念の範疇。勿体無い。

ネタバレBOX

話は、とある夜、父母+娘の3人が出産間近の飼い犬を家に残しては出て行けない状況の中、各々大事な用事(自分の趣味)へ出掛けようとしている事が判明し、私が、俺がと三つ巴の攻防、最後は外部との連絡が取れず、自分らも外へ出られない「密室」状況を迎える事になる。そこに至るための奇想天外な行動を必然化していくのが役者の奮起のしどころであり笑わせどころ。

初演データを見た。父=能楽師の役は中村勘三郎に寄せたもので、太田緑ロランスと黒木華のダブルキャストが娘役、やはり野田秀樹が母役らしい。歌舞伎役者勘三郎がお能の摺り足で父の威厳をアピール、を想像して思わずうまい、と思ったが「役」と「本人」が交錯する絶妙な線だ。
今回の上演に戻れば、今回の出演者も(実は父役を女が、母役を男が演じて笑いを狙っていたのだが)父役を男の人柄や仕事に寄せてキャラを作る線もあったのではないか。
配役で奇想天外をやってしまうと、リアルの土台が弱く、土台と突飛な行動のギャップは当然弱くなる、というわけであるが、しかし(先日の「さなぎの教室」で書いたが)「形代としての身体」による演技は演劇の可能性の広がりを予感させる。惜しむらくは、今回の上演はまず「美的でない」事。そして性別のギャップに挑戦する勇気は買われても、役作り面を冷静にみるなら父はもっと父らしく、母は母らしく人物造形をやれる余地があった。もっともそこを追求し始めれば今回の配役も無用となりそうだが。
あつい胸さわぎ

あつい胸さわぎ

iaku

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/09/13 (金) ~ 2019/09/23 (月)公演終了

満足度★★★★

アゴラでiakuと言えば「車窓から、世界の」、と思っていたらもう三年前。瑞々しい清冽な空気の中に駅のホームが浮かび、人間模様を「覗き見」する感覚だった。元来笑いを書き込む関西の人らしい(?)作家のようだが昨秋の「逢いにいくの、雨だけど」のようなシリアスなのもある。本作は前半笑わせるが本題は神経過敏な十代の懊悩、年不相応な事態にも遭遇するがその受け止めも含めて「大人」への移行期の懊悩、が大きくは描く対象に見えた。俳優がその持ち味を如何なく発揮して躍動する舞台に。

ネタバレBOX

三鷹公演でも見た橋爪未萌里が今回「ちょっといい感じの年上の女性」を演じていた。彼女の同じ職場のシングルマザーに枝元萌、その娘・芸大一年生が主人公でチラシの女性(辻凪子)。彼女と同じマンションに住む幼馴染で、高校は別で一度も会わなかったが今回同じ大学の学生となって久しぶりに遭遇する片思いの相手(俳優志望)に田中亨、母の職場に東京から中途採用で係長になった独身男に瓜生和成。夏。橋爪は3月に話していた彼氏とは別れ、フリー。という事は登場人物皆フリー。必然、話は恋愛へ傾く。
人間関係図から眺めると、主人公がややおっとりに見え、それはそれで味があるが、もっと的に近づけるなら、母の遺伝子を継いで元気に振舞ってみせるが脆い、クラスで割と人気なキャラ、だが恋愛に不器用というギャップ・・そんな人物像も想像した。ただ、おっとりに見えてしまう(悩みがない人と思われてしまう)風貌はそれゆえの悩みも含めて様々な想像をさせた。
〇〇Pソファ第2回公演『喜劇 暗がりの代筆屋』

〇〇Pソファ第2回公演『喜劇 暗がりの代筆屋』

〇〇Pソファ

シアター風姿花伝(東京都)

2019/09/12 (木) ~ 2019/09/15 (日)公演終了

満足度★★★★

選曲に素直な心根が。代書屋でなく代筆屋。冒頭、軽快な音楽に乗って日々の仕事に勤しむフツウ組と、何故か深夜に働く「醜男」の対比をマイムで提示。この現代翻案の部分でやや退潮してしまうのが勿体ない(シラノの翻案前提)。分け隔てしない社長、「友達」になろうと言う若い俳優、そして夜に代筆を依頼して来たヒロイン。意外に慕われる根底には、シラノが武勇と詩の傑人であったように梶野は人を感動させる文章の才がある、と設定すればスッキリする。またシラノの場合その欠点が社会的地位に影響する訳でもなく、力点はむしろ欠点に悩む自意識を乗り越えようとする「心意気」にある。そしてその美徳は孤独にあった老境の彼に報いを与える。
話を冒頭に戻せば、昼勤務の社員が醜い梶野が夜どんな仕事をして収入を得ているのかを知らない事や、見た目に最も冷たいのは見ず知らずの他人であって顔見知りならもっと微妙な線があるだろう・・といった所が序盤のモヤモヤなのであったが、予想外の早い段階で話に引きこまれた。シラノの借用だけでない光る台詞もあり、最終的には無理のない翻案にできていた。
評価点に殺陣、転換(装置)、素直な演技。

日の浦姫物語

日の浦姫物語

こまつ座

紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)

2019/09/06 (金) ~ 2019/09/23 (月)公演終了

満足度★★★★

たまに観るこまつ座。今回は説教節で物語られる「その昔」(平安時代?)のお話。井上ひさしの初期の作品との事だが、高貴な家の兄妹が犯した近親相姦の顛末を作者が敢えて書いた背景は知らないし、原典の有無(創作かどうか)も知らない。結論的には、良いものを観た。芝居のあちこちで不思議とくすぐられる。高揚感もある。
日本に近親相姦に対する禁忌が存在したのかも私は知らないが、説教節の一つの演目であるのなら仏教の戒律にあるのかも知れない。
ただ性の過ちを自らの「罪」として内在化する精神構造はどこか西洋的で、「物語」を終えた語り部が、聴衆と対峙するラストは聖書の逸話を思い出させた。
因みに「穢れ」の観念は外的な(世間の)視線を内在化する事はあっても、「罪状」に対する内省はなく人を更生させることはない。
1980年代のスイス映画に『山の焚火』という秀作があった。芝居の前段の状況はこれに近いものがあり、後段のは『オイディプス』だ。もっとも本作は「悲劇的」が目的地ではなく、母が「女」の顔を見せる部分が艶笑譚のタッチであったり。不思議な味わいだ。初演時の宇野誠一郎の音楽に時折、現代感覚の音が入るのが良く、舞台を締めていた。

おへその不在

おへその不在

マチルダアパルトマン

OFF OFFシアター(東京都)

2019/09/04 (水) ~ 2019/09/16 (月)公演終了

満足度★★★

「ばいびー、23区の恋人」観劇。確か立ち上げ公演で上演した一つで「面白かった」口コミも多かった記憶あって観劇の合間の空き時間に観劇。2ステージの役者数が違うのは何だ、と思っていたら、成る程登場人物二十数名をもっと少ない役者が掛け持ちする様も見せ所にできる作りという訳であった。
この作品はセットの凝り具合や演技の深まりによって随分と適正価格が変わりそうである。
ただ作者はこの着想で押して行けると考えているのか、人物の背景や行動の動機に腐心した様子もなく、最終的に主人公がこのドラマをどう閉じたのか、その瞬間はぼうっとしてアレと思った時には芝居が終っていた。
ぬいぐるみハンターの観劇は1回に終わり、主宰は同名義での活動を何処となく悲観的なコメントを残して停止したと記憶するが、その一度観たのに比べて現ユニットのは「形から作る」度が増した印象(ただの一度で勝手な感想だが)。深めるべきはやはりどこまでも人物、今少し掘り下げて欲しく思った上演だった。

スリーウインターズ

スリーウインターズ

文学座

文学座アトリエ(東京都)

2019/09/03 (火) ~ 2019/09/15 (日)公演終了

満足度★★★★★

一家族を通して綴られるクロアチア現代史・・否、歴史と共に歩んだ家族の物語。アトリエ公演ハズレ無し記録は無理なく更新(観たのは4~5回だが)。蹄型に客席に囲まれた舞台の配置、動線、人物の形象いずれも理に適って、細部から芳香が立ち上る。遠い国の歴史と文化、エートスを俳優を通して感覚した。

ネタバレBOX

個人的に琴線に触る主題というのが、高邁な理想(夢、とも言うか)とその挫折。痛苦の体験から立ち上った理想や夢であれば尚のこと、それが無慈悲な現実に敗北していく物語は涙を堪えられない。換言すれば「理想」の存在が「現実」を照らし直し、そこに物語が生まれる(単なる苦痛、理想との対比のない痛いだけの現実は無味乾燥であり我々はこれに冒されている)。理想の敗北のモデルとして前世紀最大のそれはコミュニズムの理想とその瓦解だろうが、ユーゴの場合、これに(既に実現された)多民族の共存という理想があった。1990年、ニュースは連邦議会からスロヴェニアが退場し、それを受けてクロアチアも議会を去ったと淡々と伝える。「終わったわ」・・家族はユーゴ崩壊を認識する。
遠い欧州で起きたその後の悲劇を伝えるレポートは、ルワンダと並んで自分の胸を疼かせた事件の一つだったが、「理想」はあたかも上からの強制ででもあったかもように分断からジェノサイドへと雪崩れ込んだユーゴ。この歴史の当事者(舞台上の人々)は、2011年のある夜、翌日に結婚式を控えた妹を祝うため駆け付けた長女の発言をきっかけに、家族と民族の歴史、現実と理想を総括せんとするかの勢いで厳しく対立する。姉と妹の潜在的(思想的)対立が顕在化するのは「家」(家屋のこと)に対する考えの違いからだった。
1945年建国の年に、何も持たなかった「私たち家族」は「家」を得た。その背景には共同と互助の理想がある。この家には戦前までの家屋の所有者、貴族の末裔の娘が(父がナチ協力で連行されたため一人で)寄る辺なく潜んでいたが、「仕立て」の技術を見込まれ同居する事になった顛末も「戦後の我が家の出発」を彩る。だが今、「家」の1階と3階の住人は長年の住処を追われ、時々大きな音が響いて来る3階は今荷造りの最中であるらしい。実は次女の結婚相手は新時代の申し子的成功者で、住人は金を渡して追い出したという事が後で判る。
3階には長女のかつての恋人が、老母と住まっていた。家族皆が眠れぬ挙式前夜、まだ物音のする3階を長女は訪ねる。その時男は、兵役から帰還した後の自分の振る舞いを詫び、未だ好意を寄せてくれている事に一方ならず思う、と前置きした後、自分らは不本意ながらに出て行くのだ、残念ながらあなたは自分にとっては敵になってしまったと、憤りを堪えながら吐露する。皆が眠れない夜は緊迫の夜と化す。
舞台に登場しない婚約者は幾つかのいけない商売と無関係でない会社の主である事を、長女がネットで突き止める。そして「他の住人たちは、脅されて出て行く事になったの?」と妹に問い質す。またその男を妹の婚約者として認知した父母に対しても疑問を向ける。父母は、その男と自分らとの「考え方」の違いに初め愕然としたが、どうにかそれを乗り越え、折り合いをつけようとしているのだと複雑な思いを吐露する。ところが妹は「あの人は私のお願いをきいてくれただけ」と言い、今この国で「いけない」事に関わっていない商売なんてあるのか、と反問する。そして「彼」は節度を弁えていると擁護し、さらに言う。クロアチア人がどんな目で見られるか知っているだろう、ろくな仕事もない、女は売春婦、違う? ・・それでも長女は、「それ(家を独占すること)は間違っている」と苦悶の顔で言う。これしきで負けるかとばかり、次女は最後に言い放つ。「皆どうしたの。明日は絶対に暗い顔をしないで、笑って。クソみたいな私の人生の中で、たった一回きりの幸せなんだから」(以上台詞は逐語的でなく記憶から)
家族という閉じた物語の中で、人物が歴史的存在としても見えて来る、俳優の仕事は見事であった。
暴力先輩

暴力先輩

NICE STALKER

ザ・スズナリ(東京都)

2019/09/11 (水) ~ 2019/09/16 (月)公演終了

満足度★★★★

前回同じスズナリで観た劇団とは観劇前日まで気づかず(脳味噌溶解)。もっとも気づいたとて予習材料にはならず、白紙の心で劇場へ入ると、ふわっと明るい書割りが目に入り、肩の力が抜ける。
芝居の方も、客席対応の女優の前説から、照明変化後も客席対応の女性(最終的に主役)が客席に向って「開演しました」と、敷居の低さ。
冒頭の女性があるファストフードで「先輩」と対峙している。説明は、ない。だが明らかに何らかのモンダイがある、その問題の「解決のため」として、幾つかのエピソードが紹介される(ドラマパート)。媒介として「みしゃむーそ」が登場、儀式のように繰り返される「型」は芝居の見方をやさしく提示、型の反復は笑いに繋げやすくもあり、ある種のノリ(いささか珍妙だが)を持つが、回想式に描かれる一見戯画的なエピソードが意外に見入らせた。現代日本を酸味たっぷりに切り取った「あるある」を味わった。

ネタバレBOX

「現実」のモンダイは終盤詳述され、心に闇の破滅指向の男を、救い出さなければ芝居は終われないとばかりの展開に作者の苦労がしのばれたが、「逸話」が持つの深さに比して現実の「解決」の流れは浅く、恐らく作者も納得できるラストでなかったのではないか。「こういうのでないと観客は付いてこない」と自嘲的な台詞も。
女優の類似キャラがエピソードごとに反復される言動で強調され、しっかり笑いを起していた。
私の恋人

私の恋人

オフィス3〇〇

本多劇場(東京都)

2019/08/28 (水) ~ 2019/09/08 (日)公演終了

満足度★★★★

オフィス3○○観劇の頻度も上昇中の此の頃、スズナリの二回りもある本多劇場を所狭しと駆け、踊り、歌い、早変り、また駆ける此度は僅か3名(+アンサンブル4名)によるフシギな舞台を観た。いつもの中編成が小編成となっても色は変わらず、渡辺えり自身の未完のテキストを演出家・俳優の渡辺が力技で舞台に仕上げた印象(いつもの3〇〇)。最後的には、難しい原作に挑んだものだ・・という感想になるが、これはミュージカルでもある。情感をくすぐる歌や、音楽と絡んでの立ち回りの妙が重要な側面としてある(との考えに則って劇を見た)。
三勇の一、フィーチャリングは「気になるアーティスト」=のん、「御大」?渡辺えり、そして「僕らの味方」小日向文世。濃ゆ~い舞台を味わうつもりが少し様相が違う。要約すれば「私歌っても凄いんです」(渡辺)、「職人の性、体動いちゃう」(小日向)、「実は音楽やってるんです」(のん)という心の声が聞こえそうな三者の息つく暇ないショーとなっていた。
のんの威力は半端ないが、その根源は若さ、無垢さにある。透明な声はかのアニメ声優で尋常でない寄与をしたが、一つのんオンステージ・コーナーを演出した(らしい)のは頂けず。もう随分歌を披露した後の、ギターにカジュアル服(役柄では礼服とシルクハット)が新鮮でない訳ではないが、彼女の歌は声帯によるのかある音域で裏返る。音程が不安定になる箇所があって、どの歌も同じ。もっと効果的に(絞りこんで)披露してほしく終盤は観ていたが、オンステージはそれに加え楽屋受けっぽく不要に思った。それを除けばまずまず、初舞台で堂々たる仕事ぶりであった。
小日向文世は2000年頃『幽霊はここにいる』を(放映で)見た時、何気に衝撃だった。声が心地よく、台詞をこなすように喋るが独特にリズミカルで、必死に演じるのとは異なる役との距離感が、舞台上に自由な風を吹かせていた(串田一美演出がそういう人でもあるが)。役者という「仕事」を面白いものに感じさせる不思議な感覚は、しかしその後舞台上の氏を見なかったため味わう事がなかったが、このたび彼の的確で緩急自在な身のこなしは健在、懐かしさを超えて胸熱くするものがあった。
渡辺えりの歌唱はパワフルである。渡辺私歌っても凄いんですえりとミドルネーム付で名乗っても文句を言う人はいないのでは。。

新国立でリアル美術を見たばかりの長田佳代子が、ファンタジックな空想舞台を作り、フシギ舞台に貢献。
さて私の最大関心であった原作『私の恋人』のモノガタリについて書かずにおれないが、結論的には、期待はもう一つ叶えられずに終えた。理由はいつか、ネタバレにて。

潜狂

潜狂

第27班

三鷹市芸術文化センター 星のホール(東京都)

2019/08/23 (金) ~ 2019/09/01 (日)公演終了

満足度★★★★

食指が動いた理由を会場に来て思い出した。下手にグランドピアノ、上手にドラムス。楽器に合わせたような鏡面加工の黒い床や台の側面が、控えめな照明に光沢を放っているといった具合。音楽が大きく入り込んで来る、その瞬間は冒頭に訪れた。ドラムをこれから叩こうとする青年に、年輩の女性が指導するように声を掛ける。(手を打ちながら)「最初はハイハット」。・・オモテ(強)ウラ(弱)と物語序章的に秒刻されるリズムの中、役者が各所で会話を交わす。「同じリズムをキープし続ける事」。・・鳴り続けるリズム。「オープン」(小節の最後にシンバルを開いてチーと鳴らす)。・・長い時を刻んで行く。場面は続く。「次はスネア」(三拍目に入れる)。・・「最後はバス」(一拍目)。各所で進行する場面に、拍を刻む行為が重なり三重奏、やがて映写板が浮かび、タイトル、俳優スタッフ名が映し出され、一気に暗転(音も落ちる)。
作り手は形態にこだわっている事が分かる。「生演奏」をやってしまう音響家?も居るがそれは「音響」の範疇、であるのに対し、お話じたいに音楽が絡み、物語の必然で流れた音楽が結果的に「音響」効果を持つことになる演劇の一形態は、それ自体珍しくはないが、この舞台のような繊細な現代口語の登場人物に寄り沿うストイックな「音」、またピアニストとして登場する者が行う実演(素人からすれば十分「弾ける」人だがコンペには落ちる微妙な実力のライン)などは、稀有な形である。そして王道とも言える劇を締めくくるバンド演奏(劇中場面とも解釈でき、かつ劇の気分を包み込む音楽でもある)。萌える。
「アフロ」(演奏される「チュニジア」のリズム)と聴いて懐かしさに眩惑する自分には、音楽要素たっぷりの舞台なだけで点数ボタンを連打してしまうが、もっと成熟した彼らを見た時のために満点は控えておく。

リハーサルのあとで

リハーサルのあとで

地人会新社

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2019/09/01 (日) ~ 2019/09/10 (火)公演終了

満足度★★★★

地人会新社プロデュース公演二度目の観劇(前身の地人会は未見)。前回『豚小屋』は舞台こそ我が居処とばかり緩急自在であった北村有起哉と、田畑智子の濃密な二人芝居であったが、今作は三人、とは言え実質二人の対話劇×二組といった構成。長台詞も多い。そうだイングマル・ベルイマン作だった、と後で思い出した。劇は稽古後の演出家と女優、そしてかつての女優であるその母との対話。対話のテンポ感を見せる場面もなくはないが、俳優それぞれが単体でどのように存在しているかに目が行く。鋭く見入る観客の前で俳優は体まるごと舞台上に晒されるシビアな「現場」の趣きであった。初日、榎木孝明(初見)は貫禄を見せ、台詞の噛みがあっても余裕の風情だったが、机に座って台本をめくる所がカンペーに見えたのは残念(実際そうだったかも)。若い女優アンナは初々しさを出すなら正解だったが、役は母親失格な女優を母に持ち幼少より老成したかのような屈折を底辺に持っている今日この時、他に自分の居所を見出せない女優という職業への思いも同様に屈折しているはずで、今回の森川由樹にこの役はハードルが高かった。驚嘆は一路真輝の母親。演出家の言わば想念として登場するが、舞台奥から歩いてくるのが視界に入った時から空気がガラリと変わっている。私は何と貴重な存在を知らず見過ごしていたか、と後で名を確認して初見である事を恥じ、否、悔いた程。寸分の隙もなく連続性があり赤裸々に役の存在そのものを体現するのを凝視した。パンフには殆ど初めての挑戦、と書かれていたが、女優ここに有り、幸運な遭遇であった。

ネタバレBOX

演出家の深慮と達観、しかし俳優との関係ではしょせん、生け贄のような裸の存在に優位を示しているに過ぎない立場、むしろ女優の側に男には制御しがたい情念(生の輝き)が渦巻き、その魅力を観客の前に見せて差し上げなさいと演出家はただその裏の役回りに徹する、その営みが、稽古を終えた稽古場で展開しているようにも見える。客観・俯瞰の視線と主観の眼差しを目まぐるしく行き来する「演劇」の本質をその事によって言い当てたとも言える重層的な劇。

このページのQRコードです。

拡大