tottoryの観てきた!クチコミ一覧

981-1000件 / 1809件中
過激にして愛嬌あり 宮武外骨伝

過激にして愛嬌あり 宮武外骨伝

オフィスワンダーランド・(一社)演劇集団ワンダーランド

座・高円寺1(東京都)

2019/06/05 (水) ~ 2019/06/09 (日)公演終了

満足度★★★★

初見のワンダーランド・テイストをほぼ裏切らない二度目の観劇であった。明治以降の文化人を紹介する舞台がその仕事の全般と言って良い竹内一郎率いる「劇団」だが、演劇好きから見ると演劇という手段の勿体ない使い方をする集団である。言わば文章の立体化の域を出ない。もっとも文は演劇のドラマ性を導く重要な一方の車輪ではある。ただ竹内氏の文体が文学的でなく子供向け伝記シリーズのようで、よく言えば人間の内面にまで主観を踏み入れない叙述だからそうなるのかも知れない。それでも前作に比べ宮武外骨という傑物が題材だけにそれを味わう楽しみはある。前作への大いなる不満は人物紹介の素材である情報が薄く、風刺画の北澤楽天と岡本一平の漫画漫文の紹介があり、両者に対立や盛衰の図を当てはめる世間に対し、否前者から後者が生まれたのだ、それにホラ(ここはフィクション)ある公園で(確か楽天が生んだ漫画キャラの)片足の悪い少女を介して二人は出会っていた・・これで説明しきれる程度の内容で、似通った説明の繰り返しは少々きつかったがこれは題材の問題だったとは今作との比較で言える。が、その宮武外骨も、私の望むような演劇的高まりは見せない。あくまで文章で引っ張っていく、それを役者が立体化して判りやすく見せている。
前作のフィクション部分は漫画キャラの登場だったが、今作は宮武本人が現代のある風俗雑誌の編集室に突然現れる。というのもカメラマンが風俗店でたまたま撮った写真に政治家の裏取引の現場が写り込んでおり、これを公表するか否かで紛糾していたからで。現在の安倍政権による報道圧力を揶揄しているが設定自体には現実味はない。この設定にどういうこだわりを見せるかが、分れ目だろうか。
俳優は口跡よく噛まないし(噛みそうな人が約一名いたがノリで乗り切っていた)動きも明瞭、座高円寺の広さも気にならず、抜き板を組み合わせた抽象美術(松野潤)は風格があり、音楽も的確で分かりやすい。だがこの勿体なさは何だろう。

カケコミウッタエ

カケコミウッタエ

日本のラジオ

三鷹市芸術文化センター 星のホール(東京都)

2019/05/25 (土) ~ 2019/06/02 (日)公演終了

満足度★★★★

日本のラジオ観劇も何気に回を重ねる中、間口の広いステージで観る新鮮さがあった。そして舞台のユニークな使われ方も印象的ではあったが、印象としての最大は屋代氏による翻案、原作『駈込み訴え』との絶妙な距離のとり方だろうか。文句を先に言えば、名瀬役の俳優の台詞が早口と標準語でない抑揚で聞き取れず、指定を誤っている(狭い劇場なら反響なく耳に届くだろう速度だったが)。そのせいばかりでないにせよ度々睡魔に襲われた、その上での以下感想。
原作の一人称の語り手(ユダ)に重なる粕井(フジタタイセイ)と、イエスに重なる名瀬(宝保里実)の構図の捉え方が面白い。特にイエス側からの(時間を超越して未来から語るような)応答が、ユダの屈折した感情が一方的に生れたのでなく関係の相互作用があった、という視点を示すところ(もちろんフィクションではあるが)。
「健康道場」なる宗教チックなサークルのような団体を設定し、そのメンバー数名(ひやかし会員含む)や共通の知人(独特なキャラを持つ兄弟)が交わす会話によって、健康道場やメンバーについての情報、またそれを通して人間の依存性や、宗教的側面や抗えない心情などメインテーマにどこか繋がるような視点を掘り起こす。そしてそこここにキリスト教のモチーフが鏤められている。
ちなみに健康道場は自然(の意思)という意味に近い「おひかりさま」なる存在をキーワードに、メンバーが話をしてそれを皆が聴くという儀式のようなピアカウンセリングのような時間を共有する、言わばサークル(信者を狭い教義に閉じ込めて搾取し団体勢力拡大を目指す新興宗教とは一線を画しあくまで「よい生き方」を目指す単純で純粋な団体という設定になっている)。
イエスに重なる名瀬は団体のリーダーでも多大な支持を集める存在でもないが、ユダである粕井は名瀬の天真爛漫さ、自由さを心中嫉妬を伴う感情で見ている。形象的には名瀬はアスペルガーや精神障害を想像させ、一見突飛だが何処か芯を穿った言動を行なう「天才肌」(見方によれば役立たずと一蹴されかねない)。その名瀬に作者は、健康道場での「話」はそれらしくアレンジした創作で、毎回メンバーを納得させる話を捻り出そうと努力した、との台詞を言わせる。だが頷くメンバーの中で粕井だけは違う反応をするのを「気にしていた」、とも語らせる。さらに名瀬は、自然を志向する健康道場で重んじられ発揮されるメンバーらの素直さを、粕井は「憎んでいるようだった」と言い、ユダなる粕井の人物像を捉えていた事を仄めかす。
終わってみれば、宗教や聖書や運動を揶揄するスパイスを時折まぶしつつ、自由な名瀬と些事に捕われる凡人粕井の構図をあぶり出し、互いに認識しあっていたというドラマ性によって溜飲を下げる中々上出来な作品に思えた。が、記憶は歯抜け状態。買って来た台本を読み直してみる事にする。

ネタバレBOX

台本を読んでみたらやはり見落しは多々あり、概ね雰囲気は掴んでいたようだが若干印象は変った。場面と場面(見落し箇所含め)の繋がり(因果関係)が普通にあり、思ったほど晦渋さはなかった。
一点、聖書の文言(を想起させる台詞)の挿入が唐突で、概ね巧く嵌ってるがいまいち効いてない箇所も。ただ全体として太宰の原作の要素を、フィクション性を下敷きに現代の卑近なケースに落し込む作業が成功しているように見えた。エピソードを補完するその他の人物も、しっかりフレームに収まっている雰囲気で。。
原作のフィクション部分とは、パン5つと魚2匹で何千人の腹を満たした有名な逸話がユダの奔走のお陰である事や、彼のそうした献身がイエスへの個人的な思慕からであった事など。愛が転じて憎さ百倍、命を引き渡すことになったという訳だが、このイエスとユダの関係に終始する原作に加え、周辺事情をこの芝居ではドラマに織り込んでいる。
「健康道場」に通う現代の「弱き人々」のハズい姿をイエスの弟子たちに重ねたり、名瀬が新団体を作った影響か、寂れた健康道場のリーダーをイエスに先行して福音を説いたヨハネに重ねたり(これは如何にも現代に引き付けた翻案だが)、ひやかし入会女やその妹(マリヤとマルタは唯一イエスの近親者で名が記される女性)や、名瀬のいとこだという田臥兄妹の無教育ながら筋を通す無手勝な存在が、イエスに従っただろう「弱き人々」の人物像をどこかなぞっていて、群像に見えて来る。

聖書の当時、人を日常から離脱させる契機は厳しい社会状況と終末観にあり、「今まさにメシヤが来る」と終末を叫ぶヨハネから、「私が神だ」と説くイエスへのバトンは「人々を導く」上で不可分だったのではないか。人が腰を上げるための終末論(という言い方を敢えてするが)が、何のためであったか、現代から客観的に見れば明白。ローマの一定程度緩い支配の下で固着したシステム・・律法学者という支配階級がユダヤ教を背景に「正統性」を手にし、聖書的正しさを「説く」側に常に立って自らを批判の的となる事を交わすことのできる仕組みそのもの・・の欺瞞を暴き、人を苦しめている支配構造を壊すこと。ズバズバと言葉で暴き立てたイエスは最後に殺された。
今日本も「壊すべき」構造を前にしているが、どこから手をつけて良いのやら皆が手をこまねいている。でもって現状肯定することで平静を保っているがそこに無理があるから逆に公然と批判を行なう人間を敵視する・・ここまで来れば支配構造もなかなか堅固なわけだが、芝居の方はこの現代がステージだ。
「終りなき日常」を低年齢で悟ってしまう現代とは、「終末観を奪われた時代」と言えはしないか。もちろんバーチャルなレベル(映画、ゲームその他)では終末観が持て囃されるが現実は別という事になっている(というか別の現実の捉え方もあるよね~的にごまかすツールを多々与えられている)。従って、その反動として終末観の極致へ走ったオウム的な動きが生じたのも自然な事ではある。さて芝居での団体リーダー・茅場は変えようのない社会の片隅で、心を整え生き易さを見出そうという事をやっているが、まことに「意識を変えること」の総和が世の中を変える、これは紛う方なき事実。要は、どの方向に皆がほぼ一致して変わるのが良いか・・言論の戦いのそこが要となっている以上、「団体」なるものも意図するしないにかかわらず自ずと言論闘争、団体単位では勢力争いの土俵に乗ってしまっているという事がある。本来的には、より勝る主張が人々を感化し得るのだから多くの人々の意識の変革によって社会が変わる・・そのための言論であるという公式が成り立つはずだが、現代日本の場合、まず「変わらない」という事実があり、その上でやはり主張を行なおうと思う・・すると自らの主張に賛同を得ることは嬉しく減ることは寂しい、という感情の問題が持ち上がる。嫉妬が起きる。魅力的な言論・勝利に近そうな言論、ないしは集団に人は集まり女性も集まり、男はそこで良い地位を占めたいと欲する・・。そこでリーダーと成員の感情のもつれが(この話のように)生じたりもする。
だがこれは本来の目的であった物理的な変革が、脇にやられた結果である。変わらない現実を半ば知りながら、「勢力図」だけを意識し、せいぜい団体を引っ張るだけが目的化してしまった時、連合赤軍事件のようなものが起きる。事件にならないそうした現象は社会の成員全ての回りで起きている。
勢力図や「敵を倒したい」欲求などとは離れた次元で、正論は何かを見極めたい「動機」を持つにはどうすれば良いのだろうか、、。
本当の悲惨を直視するしかない、というのが私の現在の結論なのであるが。しかし自分を省みても意識の改革などというものを他人に期待する程虚しいものはない、位に考えておくのが丁度良いとは思っている。それでもおかしいものはおかしいと、言える勇気を常に問われている自覚は持ち続けていたいものだ。(一体何の話だ)
もーいいかい、まーだだよ

もーいいかい、まーだだよ

山の羊舍

小劇場B1(東京都)

2019/05/29 (水) ~ 2019/06/02 (日)公演終了

満足度★★★★

かの別役実フェスでは、同劇団による同会場での「うしろの正面だあれ」が秀逸だった。「別役は面白い!」との発見をさせてもらった一つだったが、今回は当日の体調と、案内係の勧めに(心中抗いつつも)素直に従って後方席に座った事も手伝って睡魔に襲われ通しになった。
別役作品に特徴的な「丁寧語」でのやり取りには、可笑しみを狙った場合もあるが、何かを秘め隠す効果もある。この作品では最後に忌まわしい事実が暴露される、というオチがある。ただ私としては別役作品の世界は戯曲が「劇的」のために用意したオチに収斂していく構造ではなく、(最も難易度が高いが)その場その瞬間のリアルさ、空気・ニュアンスが立ち上る事が理想だ。それには余程役の人物の言動を「飲み込んで」おかなくてはならないが。

ネタバレBOX

別役実戯曲は役者を選ぶ。かなり高いハードルを課す。その性質を今作も実証した。という事を言いたかった。毎度の繰り言だが。
別役作品の展開のシュールさと、人物の実感ベースのリアリティとを、両立させる収まり所を探り、決定するのは役者自身で、展開に「流されて」はならないし「依存して」もいけない、役の人物として自律的に存在しなければ場面も自律しないし面白味が湧いて来ないのだ。
書かれた台詞以上の状況を役者が書き加え、能動性を与える事で漸くどうにかなる。それがないと別役氏の書いた言葉は観客に伝達されても、面白さは付加されない。ストーリーに引き込む芝居でないこのタイプは、最近の演劇色の濃いお笑いのコントに近く、別役氏が用意するオチは保険みたいなものでこれ頼みで台詞を繋いで行っても「所詮この程度のオチ」である。(今思い付くのはシソンヌや長尺の東京ダイナマイト。東京03等はストーリー重視のタイプで当てはまらない)
名指してしまうが今回、存在が定まらず泳いで見えたのが娘役(幼い頃家を出ていった父の何十年振りの帰還を迎える兄弟達即ち長男・長女・次男の内の長女)。それらしい演技をしているのだが強さがない。人物の中に渦巻く強い指向性が、人の目を釘付けて離さないという、そういった何かを選び、見出だし、その人生を生きているように見えない。もし何か選びとっているのだとすればそれを何らかの表現に結実させる力量を持たないか、いずれにせよ相当な負荷を俳優に要求する戯曲の中心的人物に座るには、脆弱に感じられたのは正直な感想だ。
別役フェスで山の羊舎に並んで衝撃を受けた名取事務所「壊れた風景」も、ブラックなオチが付く話だが、この舞台の面白さというのも、ストーリーとその結語であるオチがもたらすよりは、他人のピクニックの食糧を最後は大勢でパクパクやる過程そのものにあった。
森山開次『NINJA』

森山開次『NINJA』

森山開次

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2019/05/31 (金) ~ 2019/06/09 (日)公演終了

満足度★★★★

第一弾「サーカス」は(昨年の再演も)惜しくも見逃したが、これに劣らず香しいチラシに手招きされ、第二弾を観劇。
日曜の正午、沢山の親子連れ。第一弾の美術・衣裳ひびのこづえは消え、今回は衣裳のみ。白木色の床(地色が見える瞬間は一度ある)に見事な映写術で映像が映し出され、ダイナミックな場面転換を照明共々映像がこなしてしまう。ダンス公演ではあるが「忍者」と題しただけあってストーリー性のある場面や、予測を裏切る多様な場面が展開(転回)し、休憩を挟んだ後半は舞踊の比重が大きいものの、目を奪われる「忍者」スペクタクルを花開かせていた。(子供がぐずる瞬間はほぼ無かったと思われる。)

ネタバレBOX

忍者でこう魅せたなら、サーカスではどうだったろう・・と興味津々ではあるが、題材を突き詰めて行くより題材に遊ぶ趣き。当然ではあるが「舞踊」公演としてまとめられ、次代の舞踊への種まきの使命を忘れていない。ただ演劇好きとしては忍者という題材なら非人間的側面とその悲哀がテーマに浮かぶ。勿論その線では子供向け舞台にならないだろうけれども。。
獣の柱

獣の柱

イキウメ

シアタートラム(東京都)

2019/05/14 (火) ~ 2019/06/09 (日)公演終了

満足度★★★★★

不全感を残したにも関わらず☆5を打ちたくなる・・そのexcuseは一先ず省略。
本作初演は観ていた。またその元ネタを含む4短編から成る「図書館的人生」も10年近く前、放映されたNHKシアターコレクションで見た。これが私のイキウメ事始で、番組では他に昴「親の顔が見たい」、ミクニヤナイハラ、モダンスイマーズ舞台を紹介、劇団渉猟を始めた身にとってはNHK様様であったが、、僅か10年の間に日本最大のマスメディアがここまでの凋落ぶりを見せるとは思いも寄らなかった、当時が懐かしい。
は、ともかく・・星新一ではないがSFや超常現象モノの面白さは短編が最も適しており、アブダクション(宇宙人との接触)の可能性を示唆する現象に躍動する超常現象マニア2人+片方の妹の顛末を長編化した「獣の柱」初演は、気宇壮大な物語もいささか説明が勝って感覚面が追いつかず、悪い方の予想が当った格好であった。不出来に思えた作品、しかも再演は普段避けるところ、改良版「獣の柱」を見込んで予約した。冒頭浜田氏が客席に投げかける言葉そのままに、「言葉」を獲得する以前の感覚を探り、言葉での説明を先行させない事だけに注力したかのような、空気感を重視した舞台作りが今回の特徴であった。その意味で初演の影は跡形もない。この濃密な空気感は、巨大な廃墟のような具象と褐色系の照明、チェロ主体の旋律、「現象」を示す音響、そして俳優の絶妙な演技が作っているが、架空の世界に体ごと入り込んだ錯覚に観客をいざなう技が、星の理由。
久々のトラムだったが左右の壁に当日券客が立ち、「判らない」ながら好感触を残して帰路につく客を多く見受けたように思う。

ネタバレBOX

不全感とは、、要は「判らない」。だが「判らない」は必ずしも怪しからんことじゃない。
本作は高知県のとある場所が舞台。「隕石シャワー」の翌日に天文学サークルの若い新メンバーが近くにある小山で奇妙な死に方をしていた事を伝えに、古手メンバー(安井順平)がもう一人のメンバー(浜田信也)宅を訪ねる場面から始まる。
話を聴いた浜田は、その若いメンバー(窪田人衛)と二日前に出会っていた事を安井に伝える。浜田は隕石を探しに他人の土地である裏山に深夜こっそり忍び込んだが、手ごろな石を発見してほくそ笑んだ時、同じ目論見だったらしい窪田に出くわし、収穫があったかと問われるも真実を隠して追及を逃れる。
その回想シーンは、そのまま浜田と別れた後の窪田の動きを追う。彼は夜明け近くまで隕石を探し続けるが、そこへ「ラッパ屋」と名乗る男(市川しんぺい)が現われ、「幸せ」をやる、という。そして男の手に握られた「ある物」を見せられると、多幸感に浸り動かなくなる・・。この「ある物」と同じ物質に、安井と浜田も行き当たる。
浜田の家には出戻りの妹(村川絵梨)がおり、安井は久々に(成人して初めて)彼女を見て思わず好感触を持った事を口にし、後に添い遂げる仲になるが、二人の関係の深化には状況の変化が投影し「事態」の経過の巧みな描写になっている。閑話休題。浜田が隕石片を先輩(安井)に見せた所へ妹が入って来て、手からそれを奪って逃げ、兄をからかうのだが、思わず手からこぼれてテーブルにぶつけ、表皮に亀裂が入った事で兄はカンカンになる。だがこの亀裂から覗いた物質が、問題の現象を引き起こす事をこの段階で「面白おかしく遊びながら」知ることとなる。彼らが顔を強ばらせたのはその日の新聞の一面に、東京渋谷の交差点で発生した大惨事の写真を見た時であった。

芝居は現代と、二世代下った未来の話に二分される。現代の話は「謎」とそれをを解くヒントを与えられた三人が、急迫する事態に素手で立ち向かうスリリングな話。やがて巨大な「柱」が人口密度の高い主要都市のど真ん中に突き刺さり始め、東京を逃れて戻った高知には縁ある人らも集い、柱(の素材である物質)の秘密を知る数少ない人らが事態をどう受け止めるか、対処するかを束の間の平穏な時間に議論する。このシーンは中盤とラストに、倒置法的に挿入される。そして一気に未来に移ると、人々は現代とは全く様子の異なる世界に生息していた。
この未来の場面は常に夜で、場所が四国である事とも合わせて同劇団の『太陽』に通じる雰囲気がある。「現代」の登場人物は、ここでは語られはするが既に実在しない。正確には約2名ばかり変わらず存在していて、一人は浜田が人格を変えた状態、もう一人は現代の時点で既に離脱しており、半世紀経っても外見が全く変わらない二人の存在が、最も判らない一つだ。
「未来」を迎えた時から、その後を占う手掛かりは少ない。作者は描き切れなかったのではないかと私は感じたのだが。

「散歩する侵略者」は侵略意思を持った宇宙人3体(人間の体に移り住んだ)が、地球人ガイドと契約を結び、人類の概念を学習して侵略に備える話だったが、この侵略者に当たるらしい存在として、本作には島忠(薬丸翔)なる人物があり、「未来」でも変わらぬ姿で登場する。実は島は近頃突如失踪を遂げて話題になった著名俳優で、先の「ラッパ屋」と彼のアウトロー生活の相方(松岡依都美)がたまたま四国の山中で彼と出会うが、元の彼とは全く異なる人間となっている。
前川作品として普通に考えれば彼は宇宙人が乗り移った身体かと疑うが、誘拐され人格改造されたとしても、宇宙人がそれをした訳で、宇宙人の存在は残る。失踪した浜田も、同じ目に遭遇したと考えられる。
しかし作者は、「散歩する・・」とは異なる可能性を示唆し、観客に想像させようとする。
逃げ帰った四国で主要人物らが交わした議論の中で、「柱」はどのように生れどこから降ってくるのかを考えるヒントとして、ある調査結果が示される。柱は地球の成層圏の外から落下したとは考えづらく、またそれらしい観測データは見られない。「柱」とは、地球というシステム(あるいは意思)が自浄作用として製造し、落としている自然現象なのではないか・・。
これを古来人間は「神」という言葉で表象してきた・・。
(つづく)
らぶゆ

らぶゆ

KAKUTA

本多劇場(東京都)

2019/06/02 (日) ~ 2019/06/09 (日)公演終了

満足度★★★★★

多数の客演でまとめ切った舞台・・と思いきや、殆どがKAKUTAメンバーだったのには驚いた。多田女史はなるほどだが、森崎氏までが。。他の初顔も実力派で、このたびの著名俳優四名をまじえての本多劇場舞台は、この分母あって「実」を伴うものになった、と思えた。何より嬉しいのは秀作『荒れ野』からポテンシャルを落とさず力作を生み出した作家桑原女史の仕事。彼女自身が出演する芝居ではしばしば、自力で芝居を回して閉じ繰りをつけようとする所が見られるが、今回は(タイトルに重なる台詞は背負わせていたが)自身の役どころを生き生きと楽しんでいた。冒頭からテーマ性の面ではトップギアで発進という感じ(映画「オーバーフェンス」を髣髴)、二場面(時空)並行で進むドラマが収束を見る事なく一幕を終えると1時間半、後半1時間で休憩含め3時間弱、それでも芝居にもっと浸っていたい思いが勝った。様々なテーマ満載だが盛り過ぎと感じさせずそれぞれの問題が絡まりながら、「彼ら」にとっての出所後ルネサンスの時代が、「本当にあったのか判らない・・いつか忘れてしまうんだろう」と終幕ある人物が冷たく振り返る日々が刻まれる。繋がりが紡がれていく順風な経過は、それ自体夢のようで、それ故忘れて行く劇中人物とは正反対に観客は、「架空の話」なのに「あった」ように脳裏に残っていく。

ネタバレBOX

変則的ではあるが作者は話の終盤に震災をぶち込んできた。この件に「言及する」事じたい不快を催す心理コードが広がる今、果敢にこれに触れ(私の勝手な仮説だが)演劇人桑原裕子の中の「骨」を示した。コールで俳優の笑顔も見えたラストは、震災までの「夢みたいな」日々を早晩忘れて生きて行くだろうとの予言を他所に、「日々」の舞台であった農村を映した短い情景によるが、そこに三人の姿がある。このドラマでは多くの人生が交わるが、ここで顔を揃えた三人が何によって結びつくのか・・さり気ない筆致でこの場面を据えた事だけでも本作の価値を語るに十分。
ボッコちゃん ~ 星新一 ショートショートセレクション ~

ボッコちゃん ~ 星新一 ショートショートセレクション ~

東京芸術劇場

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2019/05/30 (木) ~ 2019/06/02 (日)公演終了

満足度★★★★

後でパンフを見て、ナショナルシアターという歴史ある劇団が韓国にあると知って小さなショックを受けた。韓流が近年の文化政策の成果だとよく言われたが、こと演劇に関しては1950年(朝鮮戦争の年!)に国営の劇団が設立された小さな事実は日本との大きな差を思わされる。日本で数少ない公立劇団は1976~兵庫のピッコロシアター、1997年~静岡のSPACとまだ歴史は浅い。
さて星新一である。ショートショート数編を順次上演して1時間半。スタイルは原作に適っていた。基本は小説の地文が語られ、会話が織り込まれる形で、地文と会話の比率も作品により様々。最初の「ボッコちゃん」は新しく作ったロボットの話で、説明の合い間にボッコちゃんの短い会話が時々挟まれる。観客は星新一のテキストにまんまと乗せられ、次はどんな会話が・・と前のめりに。上演スタイルの説明としても最適な滑り出しだ。天井を低く見せ、エピソードの変り目でシルエットを作るホリゾントや装置、その他照明や演出上の技術に加え、何より力量ある役者で舞台上が劇空間として十分豊かに満たされるので、小説のエッセンスを壊さないナレーション形式がむしろ適している事を実感する。
演出家はパンフに「星新一の作品はコメディ、寓話、悲劇の三つのカテゴリーに分けられると気づいた」と書いていた。原作は非常に簡略にストーリーを書き綴っているため、私がそうだったが悲劇的でもシニカル、コメディでも皮肉の視点がノイズのように混じり、寓話の教訓など本心ではあるまい、と処理したものだが、数年前に星新一作品を読んで魅了された(その後ほぼ全作品を読んだ)というこの演出家はストレートにこれらを舞台上に表現していた(まあ演劇にするとなればストレートであらざるを得んかも知れないが)。その姿勢が作品昇華されるのは終りに近い作品で、言葉が心奥深くに届いて来た。
字幕上演だと知って構えたが、比較的前方端席では字幕だけ追って舞台がおろそかになるのでは、との心配は杞憂であった。台詞の無い時間(ノンバーバル表現)も十分あり、全体として出し物の完成度を達成している。

「ボードゲームと種の起源・拡張版」

「ボードゲームと種の起源・拡張版」

The end of company ジエン社

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/05/29 (水) ~ 2019/06/09 (日)公演終了

満足度★★★★

3331での試作版?に出演した役者(沈)を、ちょうど前日観た芝居で見て、一癖二癖あるあの役を誰がどうやるんだろう、なんて事をふと思ったが、拡張版は全く別の話であった(重なる役、エピソードは当然あるが)。拡張版よりは「完全版」、の語を当てたくなった。
登場人物も増え、「群像」が立ち上がった。ゲームが盛り上がりつい喜声を発する場面がある。それとは対照的な静かな場面が殆どだが。俳優に当て書きしたような風貌に応じたリアルなキャラが、説明の少ない台詞の背後を観客に読ませる。
試作版と「別物」と思わせた最大の特徴の一つは、ドラマ中のゲームの意味合いが増し、またゲームはルールが確立して(開演前から5人が楽しんでいる)本気でやっているのが分かる事。急迫の事態から逃れてきた者が「こんな時に」「だからこそ」との枕詞で語るゲームとは決して「価値ある重要なこと」の対極ではない・・人物らを少しばかり輝かせるラストの風景はその主張を実証するように形象され、一つの現代解釈を提示していた。
舞台はアゴラを横に使い、A3程だろうか白い板が折り重なるように壁一面に貼り付き、下手に高い段を作っている。出入りは従って正面奥(奥行きを感じさせる狭い隙間=エレベに通ず)、上手壁のドア、そして客席下手死角にある奈落の三つ。正面に当るバルコニーも効果的に使える。これは自由度が高く大変うまくした使い方だった。

骨ノ憂鬱

骨ノ憂鬱

劇団桟敷童子

すみだパークスタジオ倉(そう) | THEATER-SO(東京都)

2019/05/21 (火) ~ 2019/06/02 (日)公演終了

満足度★★★★★

一面の草木、池、正面に木造家屋といういつもながらの山村あたりの舞台設定だが、飾り込んだ美術の前面や植物の所々に半透明ビニールが張ってある。今思えばビニルハウスの象徴だろうか。台詞の乗りもスタンダードな桟敷童子だが一点、ドラマ構造が違う。現代の男女二人(稲葉能敬、大手忍)の既に現実でない対話の中に回想として挟まれる男の幼少時代の出来事が大部分を占める。現代での出来事のあたかも手がかりとして展開するひたすら懐かしい過去の描写が、次第に胸を満たして行き、最後に現代へと引き戻された時、謎解かれる事のない不条理の現実が突きつけられる訳なのだが。
数年前劇団の転機とも思わせた『体夢』とも何処か通じる(風景はいつも通りなのに)シュールさがしっかりと桟敷童子の手の内にあるのを不思議な気分で眺めた。

音楽劇『11人いる!』

音楽劇『11人いる!』

Studio Life(スタジオライフ)

あうるすぽっと(東京都)

2019/05/18 (土) ~ 2019/06/02 (日)公演終了

満足度★★★★

独自な劇団Studio Lifeをこのたびタイトル&原作者に惹かれて初観劇。ホスト系な男優を揃え、売り出さんが為の劇団(会社)と思っていたが主宰の倉田淳は(文字だけ見て勝手に男を想像していたが)実は女性で一人社長、舞台ありきの集団と納得。もっとも劇団の歴史は長く、団員は一定年齢層(恐らく20~30代)に集中しているから何らかのシステムがあるのだろう。
さて舞台の方は開演後暫く、正直「男優アピール芝居」との先入観で珍物を愛でる心持で眺めていたが、違和感を味わっている内に心地よくなり、俳優らは大真面目にストーリーを紡いでいる。自然物語へ注意が向かう。頑張りの賜物で話の面白さに引き込まれていった(原作を知らない事もあって展開が気になる訳でもあるが)。
宇宙のファンタジーは受験競争という現代的要素と、チームプレーに伴う諸困難、そして名誉ある撤退を選ぶ勇気、ジェンダーの揺さぶり等ふんだんな娯楽要素を含んで織り成され、伏線(最大のそれは11人いる事)が回収された大団円とストーリー的には言う事なし。

ネタバレBOX

気になったのは衣裳とウィッグの取り合わせ。11名のキャラを迷わず認識できた、という事では機能を全うしたと言えるが、地球人以外の「宇宙人」にどういう特徴を与えるかはデザイン上難しい問題だが、いま少し目は喜びたかった。
歌。マイクを通した声は生声が持つ劇的インパクトはないが、全員がそこそこ歌え、既成曲の伴奏に乗って劇用の歌詞が歌われる雰囲気には合っていた。一曲目の「宇宙のファンタジー」の替え歌が流れた時はギャグかと思ったが・・。できれば元曲が知りたかったが、パンフにも記載されていなかったのは残念。
Taking Sides~それぞれの旋律~

Taking Sides~それぞれの旋律~

加藤健一事務所

本多劇場(東京都)

2019/05/15 (水) ~ 2019/05/29 (水)公演終了

満足度★★★★

2度目となる加藤健一事務所。風姿花伝で今年観たパラドックス定数蔵出しシリーズ最終公演がやはりフルトヴェングラーを題材にした主宰若き頃の本で、指揮者+楽団サイドの目線でナチとの攻防を描いた作品だった。一方「Taking Sides」は、戦犯裁判の前段、この指揮者のナチスへの協力という疑惑を追及する取調べの過程を取調官目線で描く。
国内外の名作を長年にわたって紹介し続ける加藤健一事務所の味はよくも悪くも座長・加藤健一の存在感で芝居をまとめてしまう所だろうか。演じる取調官は戯曲としてはもっと違ったキャラを想定しているように感じたが、これはこれで成立しているようにも見え、「加藤健一一座」という一つのシステムが既に確立しているのか知らん、とも思う。みれば鵜山仁演出。またも「演技は役者任せ」説を実証したような。

ネタバレBOX

凄惨かつ祝祭的世界大戦を終え、戦後処理に奔走する連合国軍と介入を受ける敗戦国、ナチスのホロコーストを筆頭に全てが白日の下に暴かれ、全てが分かりやすい構図の下にあった。やがてレッドパージに及ぶ「明快さ」への傾きが、この取調官をも支配しているように見える。音楽の事を何も知らない俗物キャラを担うこの男と、音楽を解する秘書、若い部下、訪問者(ピアニストの妻)、指揮者本人、元楽団員の5人という対照的な二項を拮抗させるが、音楽への言及が作品に趣きを与えているのは上記パラドックス脚本とも共通するところ。本作ではとりわけ天才指揮者に心酔する人物の心からの告白が、芸術を圧政と戦争の闇の中に咲いた美の像として浮び上らせる。構図としては取調官が徐々に焦点化されて行き、男の言葉を引き出す形で脚本はうまく閉じられている。一人の天才音楽家の名誉という問題から、ホロコーストの事実へと観客を導いていく。
1001

1001

少年王者舘

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2019/05/14 (火) ~ 2019/05/26 (日)公演終了

満足度★★★★

広い新国立での少年王者舘。ペーターゲスナー氏が評したアングラ精神の現代の正統な継承者(系譜は違えども)がこの小屋を自ら選ぶ事はないだろう。一年前速報を見て驚いたと同時に不安も実はかすめたが、果たして、クオリティ落ちのない舞台成果であった。天野天街的演劇はどれを取ってもリズムや世界観が同じで、思うに天野天街の芸術、というものが内部で進化しており、その進化過程を眺めるという事になっているのだろうと思う。従って変わらない部分は何も変わらず、しかしその中で奇想天外な発想が新たに加わる事で更新されている。「1001」は私の知る少年王者舘の集大成であり、部分的には腰を抜かし、腹筋を揺らした。幸福な時間を過ごせた。
新国立劇場で予め席を予約して観劇したのは初めて。初めてと言えば今回は新国立によるプロデュース公演でなく少年王者舘公演であり、(恐らく天野氏が出した条件だと思われるが)異例の事だ。

ネタバレBOX

少年王者館の作品は繰り返し提示される言葉やイメージがまず関連の無いもの同士として(場面のリレー的展開の途中に偶然のように)出て来る。それが別の経過を辿りながらもう一度、いや何度も反復され、別の繋がり方で出てくるという伏線回収が、音楽や速度が高まることで劇的瞬間を作る。途中の場面は別役実を髣髴するナンセンスなやり取りや天野流リレー台詞(台詞尻の音と次の台詞頭の音を重ねる)をループ状にした奇妙奇天烈なパッケージが絶妙で「降りて」来ないとこんな代物は作れない。数珠繋ぎの展開にカットインするのは映像であったり突如の暗転や客電が点いてのアナウンスであったり。その挿入素材も伏線に含まれ、正しく回収して行かねばならない。小芝居の成立と、音響・照明・映像効果は小さな小屋でこそのスペクタクルと思う所があったが新国立でも見事な精度であった。
ただ一点、気になったのは終盤とラストに登場する定番の夕沈ダンスで、これも天野氏以上に手の内の決まったお馴染みの振付が、広さを持った分だけダイナミックさが生じにくかった。手の大きな振り(回転)や縦軸回転など機械的な動きは小さな劇場では視覚的に圧する力を持つ(同じ目線で見ると尚迫力)が、新国立では客席から俯瞰でき、エリアも広い。徐々に速度を増す・動きの密度が高くなる・人の位置の移動や入れ替えも同じく速度か頻度が増す、等といった変化の「形」が欲しく、難度の高さを要求したくなった。意味を超えた「感覚に訴える」舞台成果がこの高みに至ったことによる要請だろうか。

先に述べた今作に投入された幾つものイメージの中で、一つ特徴的だったのが日本の戦争時代に言及したシーン。井村昂演じる大人(老人)が戦争体験者として存在し、もう記憶の奥へ隠れてしまったがピカドンという語や、夏の正午の玉音放送や赤の部分に穴の開いた日の丸を振る人々等が出てくる。舞台は反戦だとか現政権への牽制などの意味と結びつく他の要素は見えないが、厭われがちな剣呑な素材を放り込んだ所に(劇団公演に拘った事とも合わせ)体制に対するスタンス表示の意図が天野氏個人にあったのではないか、等と想像してみた。
何処までも拡がるイメージ世界を彷徨う体験は、何時までも遊び続ける子供と一緒にいるようでやがて疲れ、気だるい夕暮れが訪れる。戦争という大人のお遊びにもやがてその時はやって来て・・白骨に被せた土の上で、ひぐらしの声をきく。。
『DZIADY 祖霊祭』

『DZIADY 祖霊祭』

シアターX(カイ)

シアターX(東京都)

2019/05/21 (火) ~ 2019/05/21 (火)公演終了

満足度★★★

シアターXによる「レパートリー・シアター」を始めとする主催公演(入場料1000円)の海外招待公演を初めて観た。グロトフスキ研究所との共作で、日本人2名(能シテ役+囃子方)も参加し、彼の国の芸術界の巨人であるらしい人物の詩をベースにした出し物。ロビーでの楽器演奏に始まって観客共々場内へ、日常から舞台へのフラットな移動(開演後はいつの間にか舞台部分がセリ上がっている)。音楽演奏の時間的比重は大きく、「芝居」部分でも背後で音が鳴り、出し物全体が「儀式」として提示されている事は推察された。
が、何にせよ残念なのは、言語が判らない。「演劇」を見たい観客にとっては歌詞の分からない音楽を聴く時間を経て、「演劇」に餓えた舌にそれを滴らせて欲しいのだが、音楽、歌や踊りの合間に辛うじて「演劇」要素が挟まれるも、モノローグ主体で短く、しかも伝えたいのは発語者の身体状態(感情)よりは言葉の内容であるらしく、そうなると言語が判らないのは中々つらい時間であった。せめてパンフを事前に渡すか(パンフは退出時に渡していた)、何らかの手引きを用意するかがあって良かった(場面の小見出し的なものがプロジェクターで表示されるが、ヒントになるにはもう一つである)。
人で溢れた終演後のロビーの一角で、日本人出演者と彼を取り巻く人との会話を漏れ聞いた所では、準備時間は殆どなく出演者の顔合わせ日(恐らく当日)に大まかな流れを決めただけで本番を迎えたとか。
破格の料金での公演では当り外れもあろうし今回はやや厳しい観劇となったが、こうした招待公演を毎年継続的に打っている事には舌を巻く。いい具合に成果を上げながら続いて欲しいものだ。

ネタバレBOX

今年はポーランドと日本の国交樹立百年だという。100年前と言えば日本では大衆文化やジャーナリズムが花開いた大正期。やがてナチスドイツと手を取り合い、ポーランドは1939年ドイツの侵攻を受ける。終戦後はソ連の覇権の下に敷かれた約半世紀。
他国を侵略した経験のない国(民族)と経験のある国(民族)との精神性の違いに、私は思いを馳せる事があるが、その契機は韓国朝鮮人の存在であり、類似の民族として思い浮かべるのがユダヤとポーランドだ。
であるので、舞台に立つ彼らが舞台上で他者とどう関係し、観客とどう関係しようとしているか、演劇のどういう機能を踏まえて舞台に立つのか・・そんな事をいつしか読み取ろうとしていたが、やはりよく判らなかったのは上記の如し。
演劇に限らず芸術作品はそれを生んだ時代や状況、場所や国などの文脈に規定されないものはなく、演劇の感動・興奮の大前提である共感とは、この文脈の共有に発する。他国の芸術との接触にはまずこの問題がある。演出家として国際的に知られたグロトフスキの研究実践がポーランドにある事を知ったが、再び彼国の演劇に触れる機会はあるのか知らん。
10分間2019~タイムリープが止まらない~【ご来場ありがとうございました】

10分間2019~タイムリープが止まらない~【ご来場ありがとうございました】

中野劇団

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/05/24 (金) ~ 2019/05/26 (日)公演終了

満足度★★★★

当日一か八かで出掛けたが、開演ギリの到着でも入場できた(場内ほぼ満席)。キッチリ2時間娯楽作品、中身は一体何?不安半分で観始めたが、まず関西弁が作る風情にすぐさま引き込まれ、やがて「10分間」との闘いへと突入する。副題にあるのでネタバレにならないと思うが、タイムリープを主人公に受難の鞭を打ちすえる無慈悲な現象として描きながら、苦痛を細かな偶然性の笑いにまぶして事態を進行させるのに成功しており、作品カテゴリーとしては軟派に振り分けられそうだが厳としてハッピーエンド有りきには見せない所が好感。個人ユニットから劇団化したと書かれていたが団員3名の他も皆出来る役者で、台詞に頼らない役者の風情で説明し得る余白を残しており、脚本の改稿なのか役者の(この舞台での)成熟なのか、情報密度が高い。「同じ事の繰り返し」というハードルも、発展して行く場面での間合いも完成と言える域。

ネタバレBOX

脚本は、役者の「風情」が饒舌に語る印象にも通じるが、キャラ設定が細かで、作者の実体験を想像させる(例えばユキが同窓会に「呼ばれない」理由は語られないが、どことなく見えて来るキャラが想像を促し不足感に繋がらない、など。)
仲間には決して「理解されず」終えるのが良い。
軽佻浮薄な謀反を起こせ(けいちょうふはくなむほんをおこせ)

軽佻浮薄な謀反を起こせ(けいちょうふはくなむほんをおこせ)

LiveUpCapsules

サンモールスタジオ(東京都)

2019/05/22 (水) ~ 2019/05/26 (日)公演終了

満足度★★★★

初めての団体だったが、はっきり題材で観劇を決めた。
川島雄三をよく知るとは決して言えないが『幕末太陽傳』には故もなく入り込んだし、晩年に撮られた洒脱な『しとやかな獣』『女は二度生まれる』や『貸間あり』『雁の寺』等のメジャー所よりは『洲崎パラダイス赤信号』、次いで『風船』(TSUTAYA様様)に、映画監督・川島雄三の凄みが表われていると私は感じる。
閑話休題。舞台はその「幕末太陽傳」撮影現場を借りて、当時の映画界と川島その人を捉えようとしていた。初めて見る作・演出者だが中々、面白く観る事ができた。川島は評伝の主人公になりがちな人物ではあり、その代表的作品の一つである「幕末・・」を使ったのもベタに思えるが、役者陣の好演もあって張りのある舞台ではあった。事実として浦山桐郎や今村昌平が居た現場で、銀幕の舞台裏話としては比較的知られた類なのだろうが、史実をなぞる快さがある。そしてこの史実(単なる事実)に投げつける作家独自の台詞の中にヒットもあり、舞台は生き生きと今を呼吸していた。
何より川島雄三「らしさ」(私は写真でしか知らないが)を彷彿とさせる主役の佇まいは、他の人物とのコントラストもあって大変特徴的、不思議な構図であった。他の人物もキャラに即した役者を揃え(今村は実際あの顔だった気がしてきたし浦山には細身の辻井氏を当て写真で見る帽子を着用)、人物の絡ませ方のチョイスも中々よく、要所に絞りながらこの題材を一通り舐めたと思わせた。
演技的にもう少し幅を持ちたい部分もあったが、言葉足らずながら川島雄三の「軽佻派」たる所以を伝えてくれていた。

ネタバレBOX

フラさん(主役のフランキー堺)は登場せず、イマヘイが代役をやったり無対象で作る。石原裕次郎に金が掛かっており出番を増やせというプロデューサーの要求をよそに、ひたすらフラさんのシーンを撮り直す川島。その姿に重なって来るのは自分がかつて観たこの映画でありフランキーが痛快に演じるシーンだ。幕末太陽傳を見ていない観客は、どうだったろう。
落語でもそうだが(違うバージョンもあるが)肺をやられた事が判り品川あたりで養生を、というのが「居残り」の理由だと佐平次は仲間にだけ漏らす、これは実はうまい弁解なのかも知れないが、どことなく先の短い命が過ぎる。川島本人にも重なる。この憂さを啖呵一つで吹き飛ばす主人公にえも言われぬ情趣が漂う。
落語家自身もこの演目が好きだと明言するのが多いが、険しい状況に自らを置く佐平次なる男から醸される、測りがたさ・奥深さと、対照的なのが新撰組として登場する石原裕次郎で、川島は見事に石原を活用しながら彼を主役でない座に甘んじさせている、この贅沢なやり口もこの映画を特異なものにしている。
恐るべき子供たち

恐るべき子供たち

KAAT神奈川芸術劇場

KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)

2019/05/18 (土) ~ 2019/06/02 (日)公演終了

満足度★★★★

初日(プレビュー)観劇。大昔の遊機械◎全自動シアター公演(TVで視た)は別にして・・白井晃演出舞台(=新国立劇場中劇場)には「金の無駄遣い」位の感想しか持たなかったのだが、今回は題材に惹かれて観た。至極真っ当にしっかりと作られた舞台で、奇想天外な装置で勝負、な印象は以前と変わらずだが今回は悪くなかった。度肝を抜く装置以外に何~~んにもない新国立中劇場での2作(「天守物語」「テンペスト」)の詰まらなさはプロデュースの問題だったかも知れないと考え始めたこたびの観劇であった。

原作を知らず映画も観ずにいたジャン・コクトーの「恐るべき子供たち」の話の筋は、明らかにこの系譜の芸術的古典として完成度を持ち、判り易い。悪魔的本性を見せる子供たちの存在は、現在もはや物語世界でも現実でも珍しいキャラクターでなくなったが、ホラーでなく文学作品である事の節度は、子供らの行動に何がしかの理由を与えている点だろうか。
5人の子供たちを男女2名ずつの若い俳優が演じ、他の面々(大人)はコロスとしてほぼ背景に退いている。彼らの年齢は不詳だが、(経済的制約がない分)逃げ場のない純粋な苦悩に支配された身体をよく表現していた。

新浄瑠璃 百鬼丸~手塚治虫『どろろ』より~

新浄瑠璃 百鬼丸~手塚治虫『どろろ』より~

劇団扉座

座・高円寺1(東京都)

2019/05/11 (土) ~ 2019/05/19 (日)公演終了

満足度★★★★

3月末のひとみ座70周年公演「どろろ」とはどうしても比べてしまう。もっとも自分的にはヒット率の低い扉座を今回は「どろろ」だから足を運んだ。ひとみ座の原作の魅力を見事に舞台上に迸らせた人形劇舞台がやはり完璧すぎた。「どろろ」を扉座が初めて舞台化した2004年の舞台を観たならまた違った感想もあったかも知れぬが。
人形劇との表現形態の違いが、漫画(アニメ)作品の翻案に際しての制約に繋がっていそうだが、好みで言うと「どろろ」の世界の基調は、あの秀逸なアニメ版主題歌(どろろの歌)に尽き、ひとみ座による原作理解は、ラストに総員顔出しでこれを歌った事に表れている。
この作品とこの歌を生み出した戦後の熱い時代は、マス・ストーリーからこぼれ落ちた個のささやかな主張に視線を向ける時代に座を渡すが、2010年代の今日は「権力者も一人の人間」といった個の視点が如何にも陳腐で、むしろさび付いたマスの正論を立て直す時だとすれば、「どろろ」はどう読みたいか。
49のパーツを魔物に奪われた百鬼丸を生んだ張本人・景光の権力欲は、その正当化の論=「乱世を終らせる為」も虚しく今度は民を縛り民から搾り取る権力維持再生産(平和をもたらすためでなく自らの権力のための権力行使)に走る。幾多の先人の轍を踏む景光に対し、やがてマス(=農民ら)が鍬を手に立ち上がっていくラストは、ドラマ構造としても百鬼丸という存在の由来に直結する素直で自然なありようだ。
扉座のそれは、浄瑠璃の型を導入し、太棹三味線に義太夫の謡いが流れる愁嘆の場面が部分的に挿入される。これがあまりうまく行っているように見えないのは、例えば心中物ならば惹かれ合う男女と世のしきたり(大人の事情?ロミジュリ的な)との葛藤というテーマは人間の本性に即し普遍的であり得る、つまり「抗い難さ」がある。愁嘆に相応しいのは抗い難さだ。「どろろ」の登場人物は抗い難さを嘆く姿など見せない。百鬼丸が自棄になってもそこに留まらせぬためにこそどろろは彼に付きまとっていると言っても良い。或いは仇討ち物ならば忠義よりは復讐心、情に全身を委ねるカタルシスが想起されるが、この類型にもそぐわない。
「どろろ」は魔物の類が登場するという360度どこから見てもフィクションな話。権力欲にかられた男が(既にその時点で魔物の存在に幻惑されていたとも)生まれ来る自分の子の体の部分を魔物に与える約束を結ぶ。そして生まれた百鬼丸は手足目鼻耳舌内臓などなど49箇所のパーツを奪われており、父景光の手で殺されようとするが命ある子を生かそうと母の手引きでたらいに入れて川に流される。彼を拾った医師は彼がまだ生きており、心の声を発する事に気付き、手当を与え義足その他を作り、心の声を通じて会話し人並みに暮らせるよう育て上げる。そしてある日、魔物に奪われた体を取り戻せという何者かの声を聴いて旅立つのだ。そして出会うのがどろろというコソ泥。孤児の彼は百鬼丸が危機に及んで使う武器(腕にはめ込まれている刀)に惹かれ、付いていく。そして魔物たちに出会い、戦い、体を取り戻していく。この二人の関係がドラマとして大変魅力的で、どろろは百鬼丸の「刀欲しさ」に付いていく、と説明するがその実は怖い物見たさではないか、いやもっと、人間的に惹かれているのではないか、そして突き詰めれば幼い頃両親に非業の死を遂げられた過去と、響き合うものを感じているのではないか・・決定的なのはどろろが女の子である事。この関係に多義的な、しかし何か必然を認めさせる所が手塚治虫という芸術家の凄みでこの作品の人気の源に思われる。
これを扉座は、「どろろ」を一つの古典として据え、浄瑠璃の型に収めようとした。そして変形を施し、どろろを男のおっさんに変え、百鬼丸を心の声の存在と、身体を(ある程度)取り戻した状態の二体に分離し、心の声には若い女優を当てた。一言で言えば、まだまだ味わう余地のある原作を古典化するのは早い、というより勿体ない。

あさどらさん

あさどらさん

十七戦地

座・高円寺2(東京都)

2019/05/16 (木) ~ 2019/05/17 (金)公演終了

満足度★★★★

開演直前に入場したが自由席で前3分の1の真ん中という特等席。
質素の極限のような前回公演とのギャップの激しさにまず笑った、というのも変だが、実は前回が「伏線」であったのかと訝るほどの変わりよう。そして座高円寺2が悪くない劇場だと初めて感じた舞台だった。装置の端正さ・明るさが印象的で手抜きを感じさせない。
柳井氏の本によくある独特なリアル逸脱(書き込まれてなさ?)の波に小突かれながら進む船が、朝ドラ印のマスト(あるあるな展開や、音楽)で乗り切って行くなか、これは朝ドラへの「揶揄」なのかリスペクトなのか、見定めようと見る時間は長い。だが追いかけた問いへの答えを与えられる事はなく、ただいつしかドラマが生むカタルシスに同期しているという奇妙な感覚があった。
部分的な詰めの甘さ(特に笑わせるポイント)を感じるも最後には辻褄を合わせる柳井作品の味が、中サイズの舞台でうまく出せていた。

ネタバレBOX

戦前のある時期に始まる、とある茶舗の年代記。リアル脱線の小波とは、二代にわたる茶舗の女将の物語で、なぜ二代目は姉でなく妹が継ぎ、姉は未婚の身で小姑のようなのかの理由が説明されていないのがその一例。これを「ヒロインは若くて華がなければならない」朝ドラというものの輪郭を示す敢えての設定(による揶揄?)と読めなくもなく、保留状態(揶揄なのかリスペクトなのか判らない)が延長される。
ところが大団円にて「朝ドラ」的感動の曲が流れると、つい「感動」の構図に巻き込まれ、場内は大きな拍手が起こる。ドラマの外側から内側へ、誘導されているわけである。
ただ、その効果を含めての「朝ドラ」揶揄ではないのか?・・という余地を疑わしげに反芻してしまう。(何せタイトルになってるので。)
お気に召すまま

お気に召すまま

ヌトミック

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/05/12 (日) ~ 2019/05/19 (日)公演終了

満足度★★★★

同時開催公演の【B】「Aokid presentsシェイクスピア(?)」を観劇、もとい、参加した。料金低めのイベント企画でなく「公演」である。休憩を挟んで2時間弱という割とガッツリな内容は前半パフォーマンス、後半ワークショップ。Aokidの手の内の広さが印象的で、冒頭の場内見学、Aokidの歌、ダンス、ドラマトゥルク朴氏の「お気に召すまま」短縮解説に合わせた振り、キャストとのトークで前半で休憩に入り、後半は参加型プログラムであった。
翻訳や変換の力は閉塞を打開する力でもあり、物事を一対一対応の意味に閉じ込める(リスク回避優先で組み立てられた論理に多い)風潮?に辟易する気分に、Aokidの陽気さはちょっとした救いの手であった。

お気に召すまま

お気に召すまま

ヌトミック

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/05/12 (日) ~ 2019/05/19 (日)公演終了

満足度★★★

ヌトミックの長尺パフォーマンスは今年初めの「これは演劇ではない」企画に出品された「ネバーマインド」以来2作目。
音楽要素の強い遊び心が自分にはツボではないかと思っていたが、今回は音楽アピールがやや後退。戯曲を手玉に取るスタンスから戯曲本位へ変化し(作り手の主観としては特に変化はないのだろうが)、ヌトミックなりの「演劇」製作の形跡を認めた。
といっても、ふわふわとして捕らえ所の無さは「劇的」への屈折、ドラマ解体欲求を思わせるが(昆虫に興味を惹かれた子供がそれを解剖してみる的な罪の無さ)。
音楽が持つ強さとは明快さ・潔さにあり、場面を瞬時に規定する力があるが、言わば場面を批評し相対化する小気味良さや新鮮さばかりでは、物語は立ち行かない。あるいは同じシェイクスピアでもマクベスなら、批評で埋め尽くした舞台も可能か知れぬが...。
そこで何らかの線を引いたようなのだが、音楽的抽象性の強さは音楽を用いてこそ。「形」を作るという創造領域に、手ぶらで挑んだような抽象性。
長く演劇を鑑賞していると、舞台を作り手にとっての一プロセスと見てしまう所があるが、今作は正に方法論の模索過程に見えた。
自分が上げた期待値に比しての星評価。

ネタバレBOX

今作は昨年のアゴラ演出家コンクールに出品した作品の完全版。コンクールは課題戯曲「お気に召すまま」(20分程の場面)を主催側の用意した青年団俳優を使って僅か1~2日で作るというもので、このユニットの発表は結構ウケ、評価も得たたらしいが、瞬発力が物を言う短時間の出し物と、一編のドラマを見せるのとでは根本的な違いがある。というのは判り切った事で、作者としては何らかの着想があったのだろう。
最近よくその尊顔を拝む松田弘子のソコハカと天然味な風情や、崩しの効く二枚目古屋隆太、性格良さげで真面目そうな原田つむぎ、性格ブスキャラ封印するもハラハラさせる深澤しほ、映画美学校出の舞台上の精神的負荷ゼロ?矢野昌幸・・・ヌトミックの奇妙な仕組みの中で、染み出て来る俳優の持ち味は旨味だが、演出・翻案の斬り込みは弱い。

このページのQRコードです。

拡大