青少年のための純恋愛入門
バザール44℃
STスポット(神奈川県)
2025/03/18 (火) ~ 2025/03/23 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
深谷氏の新ユニットへの興味で観に行ったのだが、タイトルからもっと頭でっかち系な抽象度の高い内容かとの予想は裏切られ、がっつりドラマであった。もっともタイトルに「入門」とある通りの(解説者ありの)講座形式を取り、進行するが、3組のカップルの恋愛模様が「恋愛入門」のサンプルのレベルを遙かに超えてディープな人間模様が描かれる。笑える場面は芯を穿った場面。一方台詞が輝く(美しい)場面もあった。
アンサンブルデイズ
Bunkamura
Bunkamuraシアターコクーン(東京都)
2025/03/20 (木) ~ 2025/03/23 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
東急デパート本体が早々に解体された風景は見ていたが、COCOONが残っていたとは知らなかった。懐かしさも手伝って、また新しく始動した本格的俳優教育プログラムの成果と松尾スズキ作品を観たさに、出かけた。
朱雀組しか観られなかったが、シングルキャストも何名か居り、玄武組と大きな差が生じる余地は認めず。というより松尾スズキのこの新作が3時間弱に及ぶ大人計画本公演並みの本域作品であり、時宜に適った笑える台詞やキレイに通じる荒唐無稽さと、役者志望の若者(彼ら自身でもある)を登場人物としながら痛い人間像、爛れた人間像を手心加えずに描き出す。要は、芝居の中身の方に引き寄せられていた。
約一名、遠目にも既視感のあった俳優はムシラセ等で何度か目にした女優。初見での印象(せいぜい二年前)に比してもスケール感が増し(芝居と役のタイプもあるのだろうが)、他の若い役者たちも松尾作品を奏でる要員として存分に振り切れた演技を繰り出している。
片チームだけでそれなりの人数がいるが、開始して三、四場面で既に俳優個々の役のキャラ付けが出来上がっており、脳内で腑分けされている。これまで松尾氏を劇作家としては我流、独特で舞台化ありきでどうにか成立しているタイプだと、何とはなしに思っていたのだが、彼らのために書き下ろした本作を観て改めて劇作家としての力量を流石と唸った。
多用される歌、群舞(ムーブ)もよく、アンサンブルもグレード高く、胸熱で終演の拍手を送ったのであった。
舞姫 〜盟星座の住人達〜
玄狐
サンモールスタジオ(東京都)
2025/03/15 (土) ~ 2025/03/23 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
チラシとユニット名に惹かれ、あらすじ、再演との情報、新派俳優が複数出演と見てつい(普段観ないテイストを味わえるかも、と)足を運んだ。
目指す物語世界はよく判り、期待しつつ観る。演技やミザンス面、あるいは脚本の人物描写なのか引っ掛かって追いづらく、睡魔が襲う(こっちのコンディションもあるが)。中々の時間をうつらうつらしてしまったと思っていたが、伏線が回収される終盤には物語の全容は見えており、像が脳裏に刻印され、眠った事実も忘れていた。
舞台となる(やがて取り壊される)劇場とそこに住む人々が作者の中に息づき、愛おしさをもって綴った痕跡が横溢し、取りこぼした伏線もありながら念一つで立っているとも見える舞台だった。
白い輪、あるいは祈り
東京演劇アンサンブル
俳優座劇場(東京都)
2025/03/19 (水) ~ 2025/03/23 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
正しく鄭ワールド。冒頭のいじりから一歩「物語」叙述に入ると一気に引き込んだ。
ブレヒトの「白墨の輪」を鄭義信流に噛み砕き、一々ツボを突く歌、心底を揺さぶる音楽と、秒単位で仕込んだ笑いで描く。
アンサンブル俳優それぞれの持ち味で「笑わし」が成立していたのも良かった。俳優座劇場閉場を飾るに相応しい芝居魂溢るる舞台。
狂人よ、何処へ ~俳諧亭句楽ノ生ト死~
遊戯空間
上野ストアハウス(東京都)
2025/03/19 (水) ~ 2025/03/23 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
久々に遊戯空間の芝居空間をがっつり食らった。テキストの文体が何とも味わいがあって大変好み。言葉の文体は「芝居の文体」にも正しく変換され、昭和初期だろうか噺家・句楽を取り巻く者たちの会話や、再現される逸話が洒脱で泥臭くて、演者の佇まいも昭和の調度、着物、江戸口調とも相俟って只々小気味良い。
文学としての戯曲の魅力を放つ近代古典に通じるものがある(小山内薫の「息子」とか、真船豊作品、三好十郎の台詞にも)。
パンフによれば原典は吉井勇の<戯曲>との事。件の落語家を主人公とした一連の作品を篠本氏が構成したものらしい。
こんな作品があったとは、少なからず新鮮な風に思わずむせた。
XXXX(王国を脅かした悪霊の名前)
お布団
シアター・バビロンの流れのほとりにて(東京都)
2025/03/08 (土) ~ 2025/03/16 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
面白い。この劇団?の一見思想理念先行・ハイアートな構えに比してのこの「物語性」は・・何だなんだ?? 実に饒舌に物語るではないか・・と少々驚いた。もっとも最初にアゴラ劇場で観たお布団も「物語っ」てはいたが、「仮説の実践」的雰囲気があった。
「マクベス」とあるからその翻案ないしは新解釈的な、スピンオフ的な芝居であろうとは予想したが、ここまで話を作り上げますか・・という。
今回は観ておこうと思っていたが、どうにか観られて良かった。青年団俳優にも久々にお目に掛かれて良かった。
後でパンフを見ると、今回は娯楽性高い物語叙述を試みた、という趣旨の主宰のコメントがあった。作者の意図どおりの結果だったという訳だが、普通にストーリーテリングで勝負する土俵での演劇を、暫くは続けてみてよろしいのでは、と思った次第。
お伽の棺
有限会社ベルモック
すみだパークシアター倉(東京都)
2025/02/19 (水) ~ 2025/02/24 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
そう言えば感想がまだだった。
本公演、桟敷童子の二名には絶大な信頼を寄せているが、横内氏の知らない演目そして今回は(作ではなく)演出に起用された深井氏と、未知の領域である。が、結果は、良い出し物だった。
この女の「正体」については最後まで(表向き素性が明かされた事になっているが)杳としている。二つの「解」があって良し、異端者差別への暗喩としても芝居は成立していた。鶴の恩返しに似た展開が、異国人の設定でなされるが、芝居の引力は「でも実は・・?」という謎めきである。その意味で掟に縛られた村の母息子、また長者の使いとの因習臭いやり取り、古めいた衣裳、装置が効果的。「実は」、がありそうなのである。ただその暗示がドラマの中で生きるには、異端を排斥した「捕り物」が終わったラスト、その後の顛末は一切語らせず、鶴の姿に戻り飛び去ったのでなくてはならなかったのでは・・と思う。従って、女が脱ぎ捨てた白い布に付いた血の色よりも、飛び去った事を暗示する真白が正解ではなかったか。血の汚しだけは最後気になった所であった。
山道に倒れていた女を連れ帰り、人助けをした時点では無自覚であった息子の本音が、母の拒絶により形になる「おら女房が欲しいだ」の台詞に対し、「よそ者を入れてはならぬ」と追い出すよう言い含める母も、その理由が建前であり息子を奪われたくないのが本音とも見え、それ故か、息子の不納得を招く。あるいは然程に魔力を発する女が村での平穏な生活を脅かす事をガチに恐れたのか。。いずれとも取れるのだが、母が殺されるべくして殺された(事故であれ)事実として納得してしまう所がある。
妖しの棲みそうな世界観が上手く表現され、好みであった。
最後の最後に長者の使いに語らせる村の「真実」は、世に語られる「本当」「正直」の危うさを露呈させており実に巧い。実はこの真実が、正当とは言い難い身分差の絶対化によって生み出されている事には、たとえその解消が困難な今であっても、自覚的でありたいとは思う。悲劇はそこから生まれたのであるから。
不思議の国のマーヤ
ティーファクトリー
吉祥寺シアター(東京都)
2025/02/15 (土) ~ 2025/02/24 (月)公演終了
実演鑑賞
前作「ヘルマン」に続いて、ダンス等の異色の試みを見たさに今回も出向いた。前作が「何故今ヘッセか」の解答を得たくて得られた気がしなかった感想と、今回は「何故今回これをやったか」の答えがやはり自分には見えなかった点で、似た後味であった。インド舞踊がある種の高揚をもたらす「効果」は実感したが、少女にとって「神」(一神教の神でない)が一つの媒介となって世界へ足を踏み出す支えとなった、という所の説得力が私には今ひとつ迫って来なかった。神を巡る議論については、一神教(ユダヤ~キリスト教)での様々な神学論争が実は現代においても存在し、人間に目指すべき世界像の指針を示そうとするもの、との期待に神学は応えようとしている事を知る自分にとっては、甘い議論にはケチを付けたくなる。一神教も多神教も「人間が生み出したもの」であるが、一応建前としては「神が先に存在し、人間は神によって作られた、もしくは神より劣った存在として生まれ、試練を課せられている・・といった具合に神との関係を整理する。そういう用い方をするために人間は神を作り出した、とも言える。
例えば人は自分の化身を持っており(ヒンズーで言う所のブラフマンであったり、何とかであったりが劇中に出て来る)、そういう存在がある、という自己相対化が如何に身を軽くするか、というのは仮設として分かる気がするのだが、新興宗教も一つの信仰のあり方を提供しているんじゃない?という所に結びついてしまう。ただ新興宗教の弊害は組織の体質であり儲け第一主義が蔓延るからで、純粋に信仰のみを問題にすれば(オウムさえも)それはそれでその有効性を見出す事もできる・・となる。また別の見方をすれば、劇に登場する神々を、歌舞伎町のとあるゲイバーのコミュニティに置き換えても成立する、という気がする。私は未経験だが、想像を逞しくすると、男女関係も含めた「利害」を超えた関係性が築けるから、ある人たちはそこへ集うのでは・・と思う。少女が出会う相手はヒンズーの神々である必要があった、とまで言える何かが、やはり欲しいと思う。それがこの作劇に対する感想で、私的にはやや淋しい観劇であった。
若手演出家コンクール2024 最終審査
一般社団法人 日本演出者協会
「劇」小劇場(東京都)
2025/02/25 (火) ~ 2025/03/02 (日)公演終了
映像鑑賞
満足度★★★★
コロナによって映像配信なるものが実現し、初めてこの企画を目にしたのが5年前。2019年度の3月だからコロナ急性期。2月後半あたりから大手が公演を取り止め、小劇場は3月に入ってもしぶとく打っていたが4月緊急事態宣言でゼロになった。第27班・深谷氏は2019年度の最優秀賞受賞で知ったのだった(忘れていた)。翌2020年度はぽこぽこクラブ・三上氏。
ユニークな演目が並んでいたが何しろ画像音声が粗いため見るのに難渋する、その印象もあって積極的に観には行かなかったが、今回は申大樹の名もあって覗いてみた。相変わらず定点撮影で録音もシンプルだが随分と見やすくなっていた。
1演目目から順に観た。まず申演出の「野ばら」。
深海洋燈はまだ一度も観れていないが流石、金守珍の薫陶を受けた才人に違いなく、原作の小編を劇中劇風にし、日本の戦争時代の少女たちの交流をベースに、そこに登場する不思議な少女が「野ばら」を読んでいる、という構成。音楽、歌・踊りに女性教師(佐藤梟)が縦横無尽に場を席巻する笑わせ場面あったりと盛り沢山。毎回の短いポストトークではコンクールでは珍しい作り込みの美術を一様に話題にされていたが、梁山泊仕込みのトリッキーな舞台処理もそれを感じさせないスムーズさであった。
ただ、演出を離れて作品という事で言えば(作も申大樹)、現代における戦争への認識に二つの戦争悲話が届いているのか、という部分では、「戦争」の語り口が定型的に思えた。いや元がそういう作品だから、という弁もありそうだが、主人公の二人の女友達の死が最後に来る日本の戦時下の話と、いつかの時代のどこかの外国の国境に立つ二人の兵士の物語が、「戦争悲話」で括られてしまうと、物語世界が狭くなる感じがある。演出等でありきたり感を大いに解放し、見事なのではあるが、テキストのレベルで言えば、「戦争はやめるべきだ」「世界から戦争をなくすべきだ」という、犠牲者の存在の裏返しとしての反戦の論理(大島渚が前にこれを「単純正義論」と言っていた記憶がある)が如何に弱いか・・その事を戦後の日本人は見て来たのだと私は考えている。少女たちは確かに犠牲者であったが、既に一個の考えを持つ彼女らは同じく人としての責任にもさらされ、友達を殺した者=「戦争?」への恨みを持つとするならば、その矛先は自分にも向くものだろう。「はだしのゲン」のゲンらが訴える相手も見出せず虚空に向かってピカドンのせいじゃ、と言う。せいぜいがあれを落とした人間への恨みつらみを言うがそれは戦争を起こした者(日本の上層部)にも向かうが、今や存在するかも分からぬ相手に、言っている。このお話の少女も誰に向けるべきかも分からず「戦争め」と言うしか、その時は術はなかったかも知れないが、今舞台を作るにおいては当時そうであった彼女たちを、今の私たちが評するなり掬い上げるなりして、何かを付け加える必要がある。劇においてそれが何なのかは作り手の問題だが、「戦争」が悪い、のは分かっている、その先を考えなきゃ何も変わらない・・そんな一抹の思いが見ていて過ったのは確かであった。
ラストを締めくくるまでの大がかりな道筋は金守珍ばりに考えられていたが、作品性もそれに相応しく深く周到なものであってほしい・・欲を言えばの話。
他の作品についてはまた、ネタバレにでも少しずつ書いてみる。
淵に沈む
名取事務所
小劇場B1(東京都)
2025/03/07 (金) ~ 2025/03/16 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
テーマを深く抉った上質な作品をこう飛ばしている名取事務所の観劇頻度が上がって来るのもむべなる哉。
内藤裕子は「灯に佇む」「カタブイ、1970」「カタブイ、1995」に続いての名取事務所への書下ろしで、今作も流石だなと感服した。
作者は今、法律の条文を人(日本人)の耳に鳴らせたいのだな、と思う。特に、理念法(憲法や、各法律の目的の項=立法目的としての理念が書き込まれている事が多い)、「カタブイ」続編の方ではその条文(確か日米地位協定等もあった)を読む場面が幾つもあり、些か固いテキストとなっていた。私たちの生活が「法律に規定されている」厳然たる事実は、とりわけ沖縄では(法そのものの是非も含めて)切実であるが、その事を本土人が軽視してはならない。それには法律が「私たちを取り囲んでいるもの」、日常と地続きにある感覚で捉えなければ・・と、勝手な推測ではあるが、作者は今その思いを強く持って居る、そう思った。
これを経ての今作「淵に沈む」でも開幕後、簡易ベッドに横たわった青年がうなされるように憲法の条文(前文)を音読(暗誦)しており、夜だったのだろう、周囲から「うるさい!」「静にしろ」と罵声を浴びる。場所は牢屋に見えたが、実は精神病棟の一室であった。
精神を病む彼のそれ(独語)は「症状」であった事が後に分かるが、冒頭のインパクトを狙ったかの出だしに私は構えてしまった。「本当は大事な条文なのに軽視されている」、だから今一度ここで(彼に語らせるという形で)読ませて頂く・・的な、直接的な関連はないけれど広く捉えれば全て憲法問題とも言える正当性でもって「条文のアナウンス」が敢行されている、と警戒したのである(別に警戒せんでよろし、との意見もあろうけれど)。
私たちが怖れをもって想像する「収容所」に等しい精神病棟は、あの恐ろしげな冒頭場面で象徴的に表現され、不可欠なシーンだったかも知れないが、結論的には、「法律を勉強していた」彼が独語で呟く(又は叫ぶ)のは憲法条文でなくても良く、であればメッセージ性の強い、かつ定型のそれでなく、少し捻りの効いたチョイスがあって良かったか、とは思った。
さて物語は温かみのある話であり、精神病棟の鋭利な刃のような酷薄な現実の中で、安全圏(ドラマを見る者にとっての、でもある)を確保しようとするものだった。その証拠に、体制に組み込まれ、正しい判断と行動が出来なかった事を悔いる者を含めた「良い人達」に対し、病院の体制側を代表する存在は院長一人である。この一人の「悪役」も倒しがたい状況に、精神疾患を20年の間に寛解させた青年のささやかな「施設外での」人生の再出発を支えようとする四名の姿がラストに揃い、危うい現実の中で人を支え、支えられる人と人の関係とコミュニティこそ、まずは答えなのである、と終幕のシーンが語るのを聴く(私の捉え方だが)。
精神病棟の現実を告発したルポは既に1970、80年代にあり、障害福祉のあり方も変遷を辿ったが、私もよくは知らないが、知的障害について言えば、強度の障害は家族との同居が難しく施設を頼るケースが少なくない。施設建設が趨勢だった1970年代を過ぎると、施設から地域へ、となったのは確かで(海外からそうした潮流が輸入された所もあり、厚労省のそういう部分での功績は認める所だ)、介護業界も保育業界もそうだが、今は人材育成もさる事ながら障害福祉でも平均年収より100万以上低いと言われる分野だ。医療の方も構造的な改革が進んでいるが厳しい状況に追い込まれている医療機関は多いと聞く。そんな中でこの劇のような精神病院(精神科のみの単科病院)が何十年間、ヘタをすれば死ぬまでの長期入院を病院側が進めようとする事が起きるとすれば、悲劇だ(通常の病院が3ヶ月で患者を退院させたがるのと精神科がどう異なるのか知らないが)。長期化により「諦め」が心に住み、生活習慣がそれに合わせて変わる。医師や病院の「やってる感」のための服薬や治療行為が行なわれてしまう。
古くは「カッコーの巣の上で」が描いた精神病院の無残な現実が思い出される。行きがかり上収容される羽目になったとある男(はみ出し者)が、図らずも病院内にもたらした自由と解放の日々(それは最も的確な治療でもあったと観客には見える)と、病院に都合の良い管理法とそれを裏付ける旧い知見への揺り戻し、挙げ句は男自身が電気ショック療法などで「精神病者にさせられて行く」様は強烈であった。
障害者という弱者は常に「軽視」されるのであり、軽視する正当性を健常者は手にしており、彼らを縛る大義名分があり、彼らの同意が医師らの得になる訳でもない(彼らの不同意は医師らの不都合にはならない)。非対称な関係が力の一方的な行使を許し、都合よく支配し・される関係が成り立つ。
院長役の田代隆秀は「灯に佇む」で良き医師を好演して記憶に残った俳優、以後内藤作品で見る事が多いが、今作も悪い医師役を好演。同じく常連の鬼頭典子女史も良き女医を変わらず好演、センシティブな患者役に西山聖了、MSD役の歌川貴賀志、他の役者たちもハマって半ば「地でやってる」かのように見えた。
女子と算数
NICE STALKER
ザ・スズナリ(東京都)
2024/12/25 (水) ~ 2024/12/29 (日)公演終了
映像鑑賞
満足度★★★★
配信を鑑賞。公演序盤の観劇予定がワヤになり結局行けなかったのだが、延期が重なり2日のみの公演だったとは。そして「段ボール彼氏」ver.とは欠員を補うための策から付いたネーミングだったのか..。Aniversary公演とは言っても通常営業、と思っていたが思いの強い過去作のリバイバルであったようで。確かに..その思いが迫って来る作品ではあった。不完全を補うべく奮闘する役者が前面にどっかと存在する中で物語が(というかそのスピリッツのようなものが)揺ら揺らと立ち上がって来る。一人の鈍感な(と一応されている)男を巡る恋愛譚で吐かれる恋心、打算、愛を滲ませる台詞に、突如数式が割り込み、板書されて授業モード、ギャグで落とすがその解にしっかりオチが仕込まれている。この数式という「非感情的なるもの」と恋愛に不可避な激情が絶妙に絡む。イキウメを持ち出すのも何だが、淡白な数字(世界の真理)が人間存在に冷徹な法則以上に有機的に関与していた発見の驚き、に通じる所の感動の要素である。これを総員挙げて具現しようとする熱がこの舞台を覆うのが映像からも認められ、思わず手が拍手をしていた。
血の婚礼
劇団俳小
駅前劇場(東京都)
2025/03/05 (水) ~ 2025/03/10 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
俳小の海外戯曲上演を観始めた最初が「群盗」。d倉庫で躍動の舞台に大満足した。この舞台の演出も菊池准氏であったとパンフに。
新劇系の俳優の客演を入れつつ公演を打つ俳小は、今回も主要な役レオナルド他に客演を配していた。さてその出来は・・
まず上田亨氏が音楽(+演奏)と見て「あ」と思う。この方は舞台を音楽で染め上げてしまう事があるのだが、今回は大変良かった。挿入歌・踊りは多用されていたが、しつこくならない線(歌い方、振付には多少注文を付けたくはなったが、収まりづらく感じた理由は恐らく駅前の難点=天井が低く俯瞰の光景が見せにくい点等が影響した感)。開幕を知らせるように音楽が鳴ると、フラメンコ・ギターの音色、これをキーボードで演奏していて驚いたが、曲もギター演奏仕様の楽譜で全く違和感がなかった。
さて「血の婚礼」は、自分の中で別格な作品。十数年前松田正隆氏の晦渋な演出で観たのが最初で、後は新国立研修所公演(よく演じていた)、前に無名塾で観た同作者の「ベルナルダ・アルバの家」がむしろ同じ世界観を体現していて、印象が重なっている。だがもっと遡るとカルロス・サウラ監督のスペイン映画でこの世界観の洗礼を受けた事を思い出す(同監督は「血の婚礼」も撮っているが私が観たのは別)。
婚礼の日に花嫁が奪われ、その夜が血の夜となった。・・「血の婚礼」の筋書きは言えばそれだけだ。主人公となる花嫁の、結婚に対する両端に引き裂かれる感情、その葛藤のグラデーションの心情が、人の根源的欲求の「ある顕われ方」として生起する。ある時は花婿に「ずっとそばにいて」と求め抱擁する行為に、ある時は花婿を遠ざける行為に・・。茫漠として不可解な精神の深淵を想像する事を促される・・自分にとって本作はそういう作品である。
この花嫁の生まれ育ちも、村人の間で囁かれる場面があり、一方の横恋慕の男も家系(血)の噂がある。そして新郎である息子を殺される事となる母も、自分の夫と息子(兄)を殺された過去を血の仕業(宿命)として語る。花嫁のみならず相手の男の説明不能な欲動も、彼の妻の目を通して炙り出される。この妻も婚礼の日を心穏やかならぬ思いで過ごしている一人。何かと彼女を遠ざける夫に、彼女はついに(愛の不在に関わらず)「あなたといる人生しか私にはない」と悲壮な決意で迫り、男は呪われた運命であるかのように頭を垂れ、それを受け入れるかに見える。(一幕の終盤に見せるこの場面で私の周囲の女性客たちは涙を拭っていた。血が巻き起こす不条理の中に一抹の人間の理性の確かさを見てわずかに救われる瞬間。劇中最も胸が熱くなる場面だった。)
だが戯曲の基調である不穏な空気は消えない。二人の姿を見ればつかの間の安堵があるが、二人が離れる度に「見えない何か」への不安がもたげる。不可解さゆえの不安。
その意味で、演技的には、台詞に表れない(いや台詞のみならずアクションとしての「演技」にも表れない)要素が、つまりは役者がまとう佇まい、容姿、存在から滲み出るものが表現を大きく左右する。努力では迫り切れない領域がある、と言おうか。。
俳小の本舞台は鋭く迫る場面を生み出していたが、トータルとしてはやはり「随分難しい作品に挑んだな」という感想が最初に来る。
芝居に「完成」は無いと言うが、創造的模索の道程を見た感である。作品をじっくりと眺めながら、様々な考えを生起させ、二時間ニ十分の道程を歩き切った疲労と共に帰路についた。夜はよく眠れた。
韓国現代戯曲ドラマリーディング ネクストステップVol.2
日韓演劇交流センター
座・高円寺1(東京都)
2025/02/28 (金) ~ 2025/03/04 (火)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
続いて「ハウスソナタ」を観る。この日は余裕の到着で丁度良い席を確保。が不眠気味がじわじわ来て寝落ち多し。台本を手に、時に移動し空間を認識させる通常のリーディングだが、戯曲紹介の企画とは言えリーディング表現の可能性を見たい欲求から、評価も細かくなる。以前のこの企画では通常3演目が並び、演出、演者は別々だから良い意味で?コンペの要素ももたげるが、二つとなると一対一の対決の様相が(そういう見方をすれば)出てしまう。
今作は韓国現代の風俗、社会の空気感、生活者の気分が台詞の背後にあり、従って地味に難しい素材と思われた。交通整理上の難しさと役者の演技が見合っていない、と感じる場面が多かった(平易な言語による会話だが、言葉ヅラに出ない文脈の情報が多い事が想像された)。
冒頭は語り手の障害ある子を指揮者に見立て、他はズラリとオケの楽団員のように譜面台を前に座って指揮を待つ形。期待させる出だしだったが、役者が喋る台詞の裏の書き手の意図とそれに対する正解を脳内で再構成する作業が序盤から始まった。
役者の力量と言ってしまえばそれまでだが、演出以上に翻訳が気になって戯曲本に目を通した所、まだ序盤だが戯曲の難しさ(翻訳上の難しさも)に直面。言動の微妙なニュアンスありきで書かれた台詞である事とか、台詞に込めた作者の意図を探るのが大変で、という事は翻訳段階で明確な解釈による語句のチョイスを留保している、とも見える。(要は読み進めづらい。)
良い戯曲は俳優が書かれた言葉をただ読むだけで作品紹介になり、のみならず更には作品を高揚をもって味わえるが、中々そこに到達しがたい感触。
ふと思い出すのは以前本企画で3作の一つを担当した演出家がシンポジウムで、準備段階でのトラブルで如何に困難があったかを縷々述べるという事があった。(演出の万里紗氏が何を思うかは判らないが。)
終演後は暫く作品を反芻し、想像逞しく思い描いたが、本作の着眼はユニークでその設定と今観た舞台の情報を元に自分が感動の内に劇を観終えた瞬間を想像した。想像できた。戯曲を読み直してみよう。
韓国現代戯曲ドラマリーディング ネクストステップVol.2
日韓演劇交流センター
座・高円寺1(東京都)
2025/02/28 (金) ~ 2025/03/04 (火)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
戯曲は未知数だが、演出を見るといずれも秀でた女性演劇人ゆえ、今回は両方を観たかった。観られて良かった。
まずは「火種」を拝見。
圧巻。戯曲も面白く、リーディングのレベルを遥かに超越した出来。手にした台本の存在も忘れてしまう桑原氏の捌き、完璧に役を体現した俳優らに驚嘆であった。
(という訳でリーディングである事をいつもは差し引くのだが今回は5星に。)
漲(みなぎり)
九蓮サイダー
Paperback Studio(東京都)
2025/02/27 (木) ~ 2025/03/02 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
3演目あって1ステージ2演目というパターンは前にもどこかであって何とも非効率・・と思ったものだが、直前まで迷ってやっぱ観たくなって足を運んだ。ちょっと覗いてみよう位の興味であるし・・とそこそこの期待を胸に赴いたのだが、paperback studioは思いの外遠かった。で、内容は期待を超えて良かった。3演目目(C)も観たくなった。
書下ろしの短編脚本の勘所を掴んで押し出し、ワンルームマンションの少し大きめの部屋のような小屋を劇の時空にした役者力に、感服。休憩ほぼ無しの美味しい二編1時間15分程度の観劇であった。ポストトークに演出家五戸氏とはラッキー。短時間ではあったが演劇について静かに語る言葉一語が樹液の如し。
かういふユニットは継続が課題だが、色んな挑戦の場として是非とも続けて欲しい。
オセロー/マクベス
劇団山の手事情社
シアター風姿花伝(東京都)
2025/02/21 (金) ~ 2025/02/25 (火)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
両方見たかったがギリギリチケットにありつけた(プレイガイドに残ってた)マクベスを拝見。二、三年に劇作家女子会。での、昨年は劇団アトリエでの「ドグラマグラ」(共に一人芝居)に圧倒された中川佐織はどちらに?と見ればマクベス組。となるとあの狂気をマクベス夫人を魅せてくれるか、、と自分の予想を確信していたら、7名全て女性俳優。中川女史はマクベス役であった。
75分にまとめたマクベスはムーブや集団表現を挟んで要所を描き出す作りで、その舞台として中央に円形の台、その奥部分に高い椅子を据え、王と臣下、城と下界の上下、下は台上と平場を使ってコロス的・舞踊的な円の動き、また上手壁側の階段も使って動きの変化を付けているが、カットインの真っ赤な照明やスモークも含めて全体としては割合に丸みのある(尖ってはいない)作品主体の演出に見えた。
そして叙事詩の主人公マクベスの、世界と己の人生への最高潮にシニカルな目線が、中川女史の低く抑えた(だが破裂音の混じる)声に抑制的統制的に籠められ、静かなクライマックスを作っていた。
無残な世界をその見開いた眼に映す(この世との別れの時に全身からの恨みを込めて)小さき存在は、外からの理不尽な攻撃をまばたきせずに見据える幼き子らの眼差しと同様に、己の内からなる不条理を同じく見据えている。この目が、今という時をも正しく見つめる目であるべき哉、と、はたと思わせられたのである。
バウンス
イデビアン・クルー
世田谷パブリックシアター(東京都)
2025/02/21 (金) ~ 2025/02/23 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
この舞台も刺激的だった。舞台の見てくれも出演者の動きと身のこなしもまず意味が詰まっていて格好良くコミカルで、人間模様の隠喩が満載。
音(楽)が気味良く、奥に向かって台を積み上げただけの全体が風景(河原の土手とか)に見える。秀逸。
ボンゴレロッソ 2025
A.R.P
小劇場B1(東京都)
2025/02/19 (水) ~ 2025/02/25 (火)公演終了
美しい日々
新国立劇場演劇研修所
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2025/02/11 (火) ~ 2025/02/16 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
見応えあり。
新国立の研修所公演は結構観ており意外に(?)当たり率が高いのだが、本作も「観に来て良かった」と初台を後にした。今期研修生の発表は二度観られた。先日の岡本健一演出「ロミジュリ」は有名戯曲の料理法=演出が攻めており、俳優らは古典世界を生きるよりは現代性を体現する素材として懸命に立っていた印象だった。「争い」の本質にこそ瞠目すべき、との明快な演出だった。
これとは打って変わって今作では、人物の存在を観察・凝視される現代口語演劇の登場人物として舞台に立ち、別の難課題にしっかり組み合っていた印象。松田正隆の初期戯曲?(ちゃんと調べてないが)と言われると分かるのは、他の代表作たちが徹頭徹尾リアルな現代口語演劇であるのに対し、象徴的・脳内風景とも見える場面が劇進行に介在している。そして十分魅力的な戯曲である。(演出は研修所で三度も取り上げたという気持ちは分かる。)
二部構成。前半は都会の一隅、木造アパート(台所は共同)につましく住まう互いに知らぬ間柄の二組の人間模様で、第二部へと向かう第一部のラストは貧しい兄妹が住む部屋での殺人事件(そうであったとは二部ではっきり分かるが)。一方の独身男が住む部屋では別種の破綻がじっとり進む。戯曲か演技の的確さか、新居の話さえしている婚約者との決定的破綻の原因が、後に能天気な元生徒(昨年まで教師だった男を慕う)がわざわざやってきて読み上げる「観察記録」によって「性生活」にあったことが暴露されるのだが、その前段で既に「それ以外にないよな」と観客は確信している。仄めかしとそれへの言及。男の「不全」又は「それの物足りなさ」がアイテムとなる物語はどの時代にも在るが、この時代におけるそれは救いの無さの象徴として十二分に機能する。
そして男が友人に弟の実家に身を寄せると言った九州の田舎の広い家の居間が、第二部の舞台。田舎が持つ開放性(自然に開かれている)と、この家の特徴だろう「人間の良さ」が、都会の毒を舐めた人間の躓き、傷を逆に浮き上がらせるが、悲観に飲まれそうな主人公たちが、どこか清々しさを湛えている。その微かな希望のようなものに胸がざわつく。
ヨゴレピンク
スラステslatstick
駅前劇場(東京都)
2025/02/19 (水) ~ 2025/02/26 (水)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
松本哲也作品は久々になる。行間に語らせる戯曲を書く特徴はあったけれど、今回はまた独特な世界。不思議な世界。特徴ある役者たち共々に、好物であった。
熟年縛りの婚活パーティの参加者男二人女二人、無対象で手前側にも参加者がいる設定のようで俳優らが正面を向いて椅子に腰掛けて並ぶ。右端の男は他が自己紹介する度に小さなカメラで構え、向かい側に気を遣いながら写真を撮る。後で彼は「カメラマン」だと紹介される。司会であるコーディネーター合わせて6人の芝居。無対象の人々がいる、という事もあるが、舞台上の余白、時間的空白で妙な間が生まれのがいい。思い切った場面の省略も、場転で流れるMが惚けていてこれがまた良い。