ハンダラの観てきた!クチコミ一覧

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希望のホシ2018

希望のホシ2018

ものづくり計画

あうるすぽっと(東京都)

2018/06/13 (水) ~ 2018/06/17 (日)公演終了

満足度★★★★

 物語のトーンが、TV的な枠を超えていないのが残念。

ネタバレBOX

テイストはもろに「タイガーマスク」だし舞台美術なども細部まで拘って作られていない。全体にポリシーが感じられないのである。腕をねじ上げるシーンなども技が一通りなのでは、飽きが来る。もっとバリエーションをつけるか、一度だけにして欲しい。ラスト、沢木が仮面を被ってクライマックスを演じている時に、かつてのニコヨン仲間が仮面姿で現れるのも頂けない。
 舞台が一回こっきりの勝負だということの意味をもう少し掘り下げて欲しい。映像は編集が大きくものをいうが、生の舞台では演出がものを言うべきである。
 また希望は、espoirを意味する場合とespéranceを意味する場合の2つがあると思うがパンドラの函の底に残っていたのは、espéranceではないか? と考えるのは、単に自分の臍が曲がっているからだろうか? 然しながら、このように考えた方が、パンドラの函を開けたことの意味する所は幾層倍も深い。
 因みにespoirは実現可能な希望を、espéranceは、実現は先ず無理な希望を表すという差がある。
ピース

ピース

SPIRAL MOON

「劇」小劇場(東京都)

2018/06/13 (水) ~ 2018/06/17 (日)公演終了

満足度★★★★★

 今回は、どちらかというと今迄のどっしり地についた舞台美術というより、もっとモビリティーを感じさせる舞台美術である。
 この劇団は何時拝見しても、その脚本の良さ、演技の質の高さと丁寧で細やかな表現、演出の巧みと切れの良さに感心させられるのだが、今回も期待は裏切られることが無かった。是非、前提条件無しで見て貰いたい舞台である。(追記2018.6.26)

ネタバレBOX

詳細は、終演後に書かせて頂くが、設定も素晴らしい。どんな設定かは想像して欲しい。舞台美術でモビリティーがあると書いてある事がそのヒントである。(華5つ☆)
舞台上に作り込まれているのは、港に係留された船体のイメージであり、出港するのを待っている船の姿だ。無論、板の中央よりやや上手に置かれたテーブル用の造作や、椅子に用いられる箱馬、重なり合う船体の手前に置かれている箱馬などは、総て白である。空や海は照明で表現される。出捌け、下手は船体の合間に1か所、上手は船体と劇場の板へ降りる階段の合間に設えられている。
 話は、少子化の進んだ日本の今後の進路を決める為、厚生労働省と総務省が中心となって人間関係の中核となる家族の今後の方向性を決める為の参考データを取得する為、或る実験をすることが中心だ。この実験の為に集められた一般人が船客であり、担当する官僚たちは、このプロジェクトの成否で出世競争に差が出、参加した人々には成功報酬として下船後の10年間、あらゆる国税が免除される。選ばれたのは様々な世代、職業の人々であるが、報酬は、21日間の航海を終えて無事、目的地の東京へ帰りついたチームの協力者だけに与えられる。無論、チームは、この船の乗員だけではない。数艘の船に同じような条件で人々が乗っている。
 21日間の間に彼らが為すべきことは、疑似家族を演ずることである。シチュエイションはその都度、担当官僚から提示される。
 先に設定が優れていると書いたのだが、何故か分かるだろうか? 無論、船という一旦港を出てしまえば絶対孤絶の世界が、この話の舞台となるからである。即ち、基本的には、船上で起こることは、例えどんなに困難なことであろうと、船の中で解決せねばならぬ、ということだ。死を別にすればどこにも逃げ道はない。これ即ち、演劇として理想の舞台設定なのである、

レイニーレディー

レイニーレディー

ことのはbox

シアター風姿花伝(東京都)

2018/06/06 (水) ~ 2018/06/12 (火)公演終了

満足度★★★★

 Team葉を観劇。

ネタバレBOX

舞台上手に喫茶店、奥にカウンター、手前に4人用ボックス席など。中央は下手奥のスロープからそのまま上がり左折できるスロープ及び平坦な部分が平行して通り、やや高くなっている。その奥は2階部分になっていて、病院の屋上として用いられる。下手及び中央は、公園か何かのフリースペースとして用いられる。2階部分の高くなった壁に接してベンチ様の椅子。下手側壁前には植え込みが設えられている。
 オープニングで幸せの絶頂にあった玲子が、何等かの事故、事件に巻き込まれて不幸のどん底に突き落とされることは、作劇のセオリー通りということもあり、ミエミエだ。その後の展開も基本的な構造は、セオリー通りである。比較的若い劇団だから、まあ、仕方あるまい。
 玲子は。婚姻届を出しに行く途上で車に撥ねられ下半身麻痺、婚約は破棄され人生を失くしたという思いに囚われ、事故後2年が経過した後も加害者のみゆきに徹頭徹尾つらく当たるのだが、このガキっぽい甘えが、観客に嫌悪感を催させる所に狙いがあるのは、無論のことだ。この嫌悪感を煽る為に、みゆきの性格は極めて誠実、受動的に描かれている。而も、彼女は、責められることから逃げずに対応した結果、精神を病み、事故直後から心療内科を受診し続けているのである。
 ところで、ひょんなことからみゆきが付き合うことになった地元不動産会社の御曹司・隼人こそ、玲子の婚姻届にその名が書かれた相手だった。この事実が露見する直前、みゆきは元の職場である広告代理店に戻りビッグプロジェクトを推進することになっていたが、その矢先玲子から、降りるように命令された。彼女は悩むが、玲子の申し出を受け入れ、結婚を申し込んできた彼との間にできていた子(妊娠8週目)を下ろすことも、彼を諦めることも決断する。何故なら、玲子は不幸せなままなのに、自分だけ幸せになることは許されない、と考えたからである。
 茫然自失で馴染の喫茶店を訪れたみゆきの並々ならぬ雰囲気を感じ取ったマスター吉村は、彼女の悩みの深さを慮り、彼女の事情には一切触れず、自分がかつて経験し、一生涯自らを苦しめる心の秘密を語って彼女を救おうとする。この時のマスター役、加藤 大騎さんの演技が素晴らしい。
 この辺りから、展開が俄然良くなる。悩みに悩んだみゆきを玲子が突き飛ばした際、救急車を呼ぶ騒ぎになったのだが、流石にこの成り行きに玲子もショックを受け、入院しているみゆきを訊ねぶっきらぼうではあるが、詫びを入れる。漸く済んだことは済んだこと、己の地獄は己が精神を閉じ、依怙地になって居た為だと気付き、みゆきを許す。無論、みゆきが幸せになることも、出産することも、彼と結婚することも総て許すのである。
 その後、再び彼女を訪れたシーンでは、みゆきは2週間後には出産の予定で、途中階までしかエレベーターの無い病院屋上で玲子と会い、話をしていたのだが、雨が降り始める中、イキナリ産気づいてしまった。かつてみゆきに勧められたリハビリを始め、摑まり立ちなどはできるようになっていた玲子が、車椅子を離れ、必至になって医師らを呼びに駆けつける。結果、みゆきは無事女児を出産、名を歩美と名付けた。玲子の功労を娘の名にした訳である。
 

ボーダーリング

ボーダーリング

やみ・あがりシアター

アトリエファンファーレ高円寺(東京都)

2018/06/07 (木) ~ 2018/06/10 (日)公演終了

満足度★★★★★

 やみ・あがり、今回は婚活する忍者を中心に、人生の墓場、結婚への助走を描く。

ネタバレBOX

劇団本公演としては「スピークイージー」が、前作ということになるが、実際には3月に劇小劇場で3月に上演された60分もの「とんぷく虫」が間にある。シナリオ、演出の妙でいえば、やみ・あがりが優勝と思っていたのだが、東北から強力なミサイルが飛んできた。観客の乗せ方、役者の身体能力の高さとそれを利用したある意味バカバカしさ、そして脚本と原作(太宰治「走れメロス」)のマッチングの素晴らしさ等々で水をあけられ残念ながら2位に終わったことを教訓に、今作では知に走る傾向に敢えて歯止めを掛け、役者のキャスティングにも身体強健という要素を入れて選んでいる点、また今作終演部での婚活ベテラン二人の掛け合いで結婚するのに理性が邪魔であること、寧ろ勢いや、何気ないきっかけの方が、遥かに目的を遂げ易いことなどが了解され、これが実践されることになる経緯を描くことで、理に走り、知的比重が高かったこれまでの作品群に対する乗り越えを今作で果たしていると見ることが可能である。評者の指摘を頭の中で理解するのみでなく、すぐさまこのように作品に反映させることのできるフレキシビリティーと頭の柔らかさ、実践への適応力の高さは流石である。
 無論、やみ・あがり独自の発想や展開力が殺されている訳ではない。単に制御され、より高度なレベルで統御されているだけだ。
鏡の星

鏡の星

劇団あおきりみかん

シアターグリーン BASE THEATER(東京都)

2018/06/08 (金) ~ 2018/06/10 (日)公演終了

満足度★★★★★

 今回のあおきりみかんは、初の外部演出に流山児事務所の小林 七緒さんが関わっている。彼女は、作家の持ち味を上手に作品に引き出すと同時に、その鋭さも俎上にキチンと載せる才能のある演出家であるから、長らく中京地区の女王の名を恣にしてきた鹿目 由紀さんと組んだらどんな化学反応を起こすかと愉しみにしていたのだが、流石に才媛お二人。互いの良さを引き出しながら良い舞台に仕上げてくれている。殊に、鹿目さんは、文化庁の派遣でイギリスへ行き、新たな体験をしてきたとあって拝見する側としては、何を彼女がイギリスで獲得して来たのかについて大きな関心を抱いていたのだが、この期待は裏切られなかった。今迄は、社会状況そのものには、余り触れずに様々な喩や象徴、例え噺で作品を成立させてきた彼女が、初めて世界や世界情勢と向き合い、社会生活を営む人間をその社会を構成する掛け替えのない個々人として描いているのだ。社会のディーテイルは、各々の性格として身体化されているので、話の大きなストリームの中で、実に自然に状況を体現してゆくことができており、その上適度な擽りが入るので猶更自然に観客に世の中の不条理を訴え掛けてくるのだ。
 基本的な舞台美術は極めてシンプルで、板の一番奥に平台を置いて10㎝ほど高くし、その中央に高さ2m。巾1mほどの枠を設え、これを中心として手前に来るほど互いの間隔を広く取って,中、手前とシンメトリックに左右1つずつ枠が置かれている。
 場面、場面で必要な場合は、箱馬や、模擬カウンターなどを用いながら、地球と鏡の星、それぞれの運命を掛けた物語が展開してゆく。
 内容については、東京公演の後、九州公演も控えているので、観てのお楽しみということにしておく。更に詳しいことは、全日程終了後に追記するが、今迄とは一風異なったあおきりみかんを楽しむことができる。(華5つ☆)

フランケンシュタインー現代のプロメテウス

フランケンシュタインー現代のプロメテウス

演劇企画集団THE・ガジラ

ウエストエンドスタジオ(東京都)

2018/06/07 (木) ~ 2018/06/13 (水)公演終了

満足度★★★★★

 板を囲む客席は、「を反時計回りに90度回転させたように設えられ、上演中の光源は総て、ほやの付いたランプであるから、仄暗く嫌でも想像力を高める。演技は、どの役者の演技も熱演、船を囲んだ氷山の崩れる音? か、時折轟く凄まじい轟音は、観客の身体をも震わせる。(華5つ☆)

ネタバレBOX

 先ず注目すべきは、ヴィクター・フランケンシュタインも怪物も女性が演じていることだろう。怪物が、己のアイデンティティーについて深く悩む中でヴィクターとの約束に至ったのは、己の相似物の創造であった。即ち同類の他者の創造である。Rimbaudではないが、凡そ存在を意識する存在が、自己の存在を正当化できるのは、他者に因って己が誰々であると認識される限りに於いてである。Je est un autre.なのである。Rimbaudは、天才であったから、通常Jeに対する繋合動詞êtreはsuisでなければならない所をわざと三人称単数のestと表現することで客観性を表しているのである。
 アイデンティティー問題は、何度も出てくるが本質は以上の点にあろう。だが、今作の呈示する問題はこればかりではない。アイデンティティーの揺らぎは、現代人の殆ど総てが抱えている問題であろうが、この揺らぎ故に現れ、各自の存在感を脅かすもの・ことこそ問題なのである。それを効果的に描く為にこそ、ヴィクターも怪物も女性が演じているのだとしたら?
 ここには、LGBTやジェンダーという極めて現代的な知の問題が提起されていると言えよう。アホな保守党議員などには想像も及ばないような微妙で本質的な問題が提起されているのである。
 他にギリシャデルポイのアポロン神殿に刻まれているという格言γνῶθι σεαυτόν(汝自身を知れ)やデカルトのCogito ergo sum.(われ思う故に我あり)などの科白も出てくるのは、今作が単なるゴシックホラーではなく、優れて人間的且つ普遍的なテーマに貫かれた作品であることを表している。メアリー・シェリーが原作を書いたきっかけが、例えバイロンに誘われ詩人のシェリー(後の夫)らと共にレマン湖畔で過ごした際に提案された怪奇譚創作の提案だったにしてもである。
 原作では、怪物は極めて知的であり、その知力によって、人間の未来をも昏いものとするに足る存在なのが、今作でも踏襲されている。このことは、現代の科学で制御できない技術が齎す危険を訴えると共に、作られた怪物が実は名づけようもない即ち社会の構成単位としては認知されていない何らかの存在でしかないという深く哲学的な問題を提起している。その存在が、極めて人間に似ていることからくる本質的問いは、人間の鏡としてである。従って、怪物がフランケンシュタインを名乗るのは偶然ではない。そして彼に関わる総ての人々を殺害してゆくことも。怪物は、己のアイデンティファイしようのない「存在」の非社会性を創造者・フランケンシュタインに体現させることによって、彼を己の鏡へと逆転させたのである。ラスト、怪物は冒険家から、フランケンシュタインの実験ノートを手渡される。怪物が彼の遺体と共に去ったということは、怪物がフランケンシュタインを生き返らせる可能性をも示唆していると言えよう。このことは、善悪の彼岸に於いて知の追及が為されるであろうこと、それが知を持つ生き物の業(カルマ)であること、そして新たに齎された知は、それが完全に制御されない限り、常に総ての生命を滅亡に導きかねない両刃の剣であるという事実も。だから、我々は思い出しておく必要があろう。デルポイの神殿に刻まれたもう一つの格言”度を越すなかれ”を。

時代絵巻AsH 其ノ拾弐『白煉〜びゃくれん〜』

時代絵巻AsH 其ノ拾弐『白煉〜びゃくれん〜』

時代絵巻 AsH

シアターグリーン BOX in BOX THEATER(東京都)

2018/06/06 (水) ~ 2018/06/11 (月)公演終了

満足度★★★★

 真の主人公は、誰か?(華4つ☆)

ネタバレBOX

 幕開きは平家琵琶の音と共である。謳われるのは、日本最大の叙事詩、平家物語である。誰でも知っているその冒頭“祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 娑羅双樹の花の色盛者必衰の理をあらはす 奢れる人も久しからず ただ春の世の夢の如し 猛き者も遂には滅びぬ 偏に風の前の塵に同じ”というアレである。今作、表向きは、頼朝、義経の父に当たる義朝が主人公であるが、この冒頭、そして史的人物評価の点から見ると、矢張り真の主人公は、後白河ということになろう。
 扱われた時代は、保元・平治の乱の頃であるから1156年から1159年辺りを中核とする鎌倉幕府成立前の一時期。権力の実権が、貴族から武士へ移行するきっかけになった時代ということになる。義朝、清盛も未だ若く、各々が源氏の棟梁、平家の棟梁となった頃である。天皇の実権が揺らぎ、上皇や摂関家は実力を互いに行使し合うことも、己の力と政治力だけでは最早困難となって千日手のような、三竦み状態にあったと見て良い時期、各有力者は、何かを目論見、実行に移す時、新たに台頭してきた武士階級に依存せざるを得なくなっていた。だが、制度及び権威は相変わらず貴族の側にあったし権謀術数も貴族サイドに牛耳られていた。興味深いことに、新興勢力である武士の意識も己が棟梁としての正当性を担保する為には朝廷の権威を必要とした点だ。桓武平氏、清和源氏という呼称を上げるまでもなく、その根底にあったのは、血の、即ち血統の優位性である。このような意味合いに於いて、日本という国の現代にも続く前近代性という特質は、顧みられねばなるまい。
 閑話休題。自分が今作の真の主人公だと思うのは、実は今様狂いの後白河である。彼の編ませた「梁塵秘抄」に登場する“遊びをせむとや生まれけむ戯れせむとや生まれけむ”は、今作の中で何度も繰り返される。双六も同様である。一方、囲碁や将棋も政治の駆け引きに散々用いられてきたことは、歴史の示す通りであり、今作では双六が用いられていることは一目瞭然である。
 第七十七代の天皇として即位した後白河は、己が、中継ぎでしかないこと、己のように高位な皇族にあっては、バカのふりをすることが生き残る条件であること、有為転変の憂き世を過ごすには、倦怠の直中で遊びに活を求める他に道が無いこと等々を実に良く知っている。その彼が、他者に君臨するに当たり一種のゲームセオリーを用いている点にこそ、彼の抱える地獄が現れているのであり、彼の命令の非人道性も単に時代や封建体制の産物というより、アンニュイという名の怪物の所為であると捉えたい。同時に彼自体、このアンニュイの中で、唯一の武器である知を用いる怪物として顕現している。
 以上のこと総てが、冒頭の平家物語に照応していると見るのだ。従って、自分の解釈では、後白河こそが主人公なのである。
連鎖の教室

連鎖の教室

甲斐ファクトリー

OFF OFFシアター(東京都)

2018/05/30 (水) ~ 2018/06/03 (日)公演終了

満足度★★★★

 苛めを扱った作品。
 この問題は、根深い。殊に皆と同一、同質であることを良しとするこの「国」の苛めは陰惨だ。(追記2018.6.3 09:36 華4つ☆)

ネタバレBOX


 その陰惨を補完しているのが、人間的な尺度で物事を捉えず、世間体や評判で善悪を処断してしまう我ら日本人の傾向だろう。総てはファクトから始めねばならぬ。そして、ヒトが人として存在する為には人倫が守られなければならない。その為の基礎が、罪を背負う姿勢なのである。
我らは五感で、多くのことを認識する。そして認識を基に、判断を下し、行動する。苛めの問題でことが深刻になるのは、今作でも示されている通り、知って居ながら知らんぷりをすることによってである。だから、今作でも示されているように、苛めを無くす為に一番大切なことは、シカトせず悪いこと悪いこととして指弾し、行動することである。その為には戦わなければならない。時には命の危険を覚悟しなければならないこともあろう。自分が苛めの対象となることも容易に察しが付く。だが、己が人間になる為に、人間であり続ける為には、このような戦いが必要なのは言うまでもない。そしてそれは、非暴力の戦い、ディベートによる戦い、実践による戦いでなければならないのだ。
 ところで、苛めの問題を報復の連鎖として捉え、これをメディアの安易な表現「テロの連鎖」、民族紛争や収奪・被収奪と等値してしまうのは、矢張り違うだろう。少し具体的に考えてみれば、この過ちは誰の目にも明らかだからである。
一例を挙げればガザのデモに対するイスラエルの攻撃では死者だけで60人以上。日本の新聞は、このように派手な、TVで絵になるようなニュースしか流さない。然しガザが巨大な監獄と形容されるのは今に始まったことではない。西岸でもパレスチナ人の土地が、日々収奪され、テロ対策を名目に作られた延々たる壁は、中東では時に血や金よりも貴重な取水源をパレスチナ人から奪う為だという事実は、多少世界に目を向けている人間の目には余りにも明らかな事象である。
 また、ガザのデモ弾圧での彼我の軍事的力量の圧倒的な差異からも分かるように、力を背景にした軍事占領・収奪と差別、支配は国際法、ジュネーブ条約などでも到底許されることではない。比較するなら、何故このような問題が、こんなにも長く続いているのかについて、イスラエルに住むシオニストや、彼らの政策を支持するイスラエル国籍の人々のだんまりをも描くことで示して頂ければ幸いである。
 しっかりした作品を創ることのできる力量のある劇団と観た。いつかこのような問題にもチャレンジして欲しい。
大正浪漫に踊る~天空を翔るハイカラ姫たち~

大正浪漫に踊る~天空を翔るハイカラ姫たち~

劇団Brownie

小劇場B1(東京都)

2018/05/30 (水) ~ 2018/06/03 (日)公演終了

満足度★★★

 タイトル通り、踊るシーンの多い舞台だ。当時の女子学生の典型的なスタイルは、現在でも女子大の卒業式でお目に掛かるような黒の短靴に袴、上は華やかな振り袖、頭髪にはリボンを添え、その色は、彼女達それぞれの自己主張のようでもある。

ネタバレBOX

 板垣 退助の率いた自由民権運動が盛り上がりを見せ、川上 音二郎のオッペケぺ節が大流行した時代には、この潮流を面白く思わない連中も居た。板垣は、こういった連中によって暗殺された訳だが、今作で何度も言及されている民撰議員設立建白書が提出されたのは1874年、岐阜遊説中に刺殺されたのが1882年であるから、今作で語られる時代は、敢えて錯誤が解消されないまま設定されている。いくらエンタメとはいえこれはちと酷い。
 例示すれば、彼は妾腹の娘をこの政治的状況から護る為、妻の経営する女学校へ入学させていたということになっているが(これは大正時代であるから1912~26年)同期には、後の平塚らいてう(1886.2.10生まれ)、与謝野晶子(1878.12.7生まれ)、宮家筆頭の娘らも居ることになっており、女子の恋話を咲かせていたことは言うまでもない。然し、らいてうと晶子の年齢差から、これも在り得ない。今作は、エロ、グロ、ナンセンスと評される大正時代を、踊りを多用することで艶やかな側面から見せようとした物語と言えようが、その分時代が急転直下してゆく動静を伝える点では弱い。というより余りにもハチャメチャである。実際に存在した時代の浪漫を描くのであるなら、創作と雖もこれは外し過ぎという感がしてならない。艶やかさを描くだけなら、完全に架空の世界を設定した方が良いように思うからだ。

















 タイトル通り、踊るシーンの多い舞台だ。当時の女子学生の典型的なスタイルは、現在でも女子大の卒業式でお目に掛かるような黒の短靴に袴、上は華やかな振り袖、頭髪にはリボンを添え、その色は、彼女達それぞれの自己主張のようでもある。
板垣 退助の率いた自由民権運動が盛り上がりを見せ、川上 音二郎のオッペケぺ節が大流行した時代には、この潮流を面白く思わない連中も居た。板垣は、こういった連中によって暗殺された訳だが、今作で何度も言及されている民撰議員設立建白書が提出されたのは1874年、岐阜遊説中に刺殺されたのが1882年であるから、今作で語られる時代は、錯誤が解消されないまま設定されている。いくらエンタメとはいえこれはちと酷い。
例示すれば、彼は妾腹の娘をこの政治的状況から護る為、妻の経営する女学校へ入学させていたということになっているが(これは大正時代であるから1912~26年)同期には、後の平塚らいてう(1886.2.10生まれ)、与謝野晶子(1878.12.7生まれ)、宮家筆頭の娘らも居ることになっており、女子の恋話を咲かせていたことは言うまでもない。然し、らいてうと晶子の年齢差から、これも在り得ない。今作は、エロ、グロ、ナンセンスと評される大正時代を、踊りを多用することで艶やかな側面から見せようとした物語と言えようが、その分時代が急転直下してゆく動静を伝える点では弱い。というより余りにもハチャメチャである。実際に存在した時代の浪漫を描くのであるなら、創作と雖もこれは外し過ぎという感がしてならない。艶やかさを描くだけなら、完全に架空の世界を設定した方が良いように思うからだ。

















あなたの名前を呼んだ日

あなたの名前を呼んだ日

ふれいやプロジェクト

シアター711(東京都)

2018/05/29 (火) ~ 2018/06/03 (日)公演終了

満足度★★★★★

 タイトルから察しがつくように初産の母と子を中心に据えた物語なのだが、無論それだけで済むほど単純ではないのが世の中である。(追記後送華5つ☆)

ネタバレBOX

一方、人間は理性と感情とを持つ。そして、大抵の日本人は、世間体を大変気にする。だから、権威に頼りがちだ。経験の無かったことに関しては猶更である。
 核家族化の進んだ現在では、初めて子を産んだヤンママに適切なサジェッションを与えてくれる年配の女性が周りに居ないことが少なくない。そして旦那は仕事に追われて中々、女房の相談に乗ってやることもできないケースが多い。女性雑誌には、こんな状況に追い詰められたヤンママに「権威」の威光を嵩に着たテクニカルな記事がこれでもか! といった按配で載っている。こんなあれもこれもが、そして夜泣きをする赤子が、独り悶々とするヤンママを襲うのだ。
寂しい時だけでいいから

寂しい時だけでいいから

劇団フルタ丸

浅草九劇(東京都)

2018/05/30 (水) ~ 2018/06/03 (日)公演終了

満足度★★★★

 舞台はグレードの高い不動産物件の展示場。主人公は、この展示場のガードマンである。舞台正面がリビング。リビングの奥はガラス戸で向こうが見える。下手に上の階へ上がる通路。リビングのやや左手上階にガードマン控室。その下手が煙草などが吸えるスペースになっており、上手がこの部屋への入り口という間取りだ。この舞台美術も素晴らしい。側面の壁には、樹木の表皮で紡いだような如何にも高級感の漂う、落ち着いた壁が見え、調度もしっかりした作りの物が据えられている。(華4つ☆追記2018.6.19 01:19)

ネタバレBOX

  寂しさという意味でも、マッチがキーポイントになるという点でも、「マッチ売りの少女」と似たテイストの作品である。然し、今作ではその寂しさを抱えるのが男、それも大の大人であり、この寂しさは単に個人の力量や判断違いが齎した結果であるというより、個人というものが成立する以前の精神状態しか持たぬ多くの日本人が、核家族化し、グローバリゼーションの齎した社会に対する防御も持たずに日々向き合っている現実との中で、じわじわと敗退していることから来ている点で大きく異なる。
 この心寒い状況を偶々警備の先輩から貰ったマッチを擦ると見せてくれた夢現が、彼をその一員として迎え入れた“家族”として立ち現れるという設定は見事である。何となれば実家にもずっと戻らぬ彼を、丁度、マッチ売りの少女が求めたぬくもりそのもののような幻影家族が、癒し、生きる喜びを与え、彼自身が生まれ変わったのであるから。ここには、単にDNA継承者でしかない乾ききって無味乾燥な「家族関係」ではない理想が具現化されている。このことによって、家族を構成する各々にとっては痛く、而も深い内省を強いるのである。
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しあわせ学級崩壊

ART THEATER 上野小劇場(東京都)

2018/05/30 (水) ~ 2018/06/03 (日)公演終了

満足度★★★★

 舞台中央に斜めに置かれたテーブルを挟んで左右一脚、奥に3脚椅子が置かれている。手前には、紐で恰も出入りを防ぐ鉄条網のように結界が張られている。開演前、着衣の形は異なるものの白の衣装を纏った女5人が、或いは立ち、或いは座るなどを繰り返しながら揺蕩っている。背後には、音響のような効果音のような雑音でもあり得るような音が続いている。(華4つ☆追記2018.6.19 0:47)

ネタバレBOX


 開幕と同時に男が一人加わり、舞台前面に出てきて中央に胡坐をかくように座る。上演中、殆どのシーンでディスコにでも行ったような大きな音が鳴っており、役者達はマイクを用いて科白を発してゆく。皆役者が若いので、噛むようなことはないが、兎に角音が大きいので科白が聞き取りにくいのは事実である。
 女たちは姉妹という約束事の中で暮らしているが、血の繋がりはない。描かれるのは、2011年3月11日を挟んだ3日間。女たちは、罪を抱えていると考える者、慕う者、屹立しようと足掻く者など様々な態様は示すものの、揺蕩っているようである。それは、津波で流され、或いは原発人災で故郷を追われて流離い、デペイズマンを抱えてアイデンティファイしようの無い己を醒めた意識ばかりが突き放すような状況から及び己の内側に蠢く混沌そのものから発する正体不明な何者か双方からの追放である。他にどうしようがあると言うのだ! 己の罪ではなく、否寧ろ献身故にこそ追い込まれたこのような立場に対して。世間の風はあくまで冷たい。
女の平和

女の平和

劇団櫂人(解散しました)

上野ストアハウス(東京都)

2018/05/30 (水) ~ 2018/06/03 (日)公演終了

満足度★★★★★

 描かれているのは、スパルタの属したぺロポネス同盟とアテネを盟主としたデロス同盟との27年に及んだぺロポネス戦争の頃であるから、今から2200年以上も前のことになる。作者は、戦争に反対し続け、批判的な喜劇を書き続けたアリストパーネスである。(追記2018.6.1 03:08)

ネタバレBOX


 自分はもう数十年前に岩波文庫で今作を読んでいるが、今回の上演で使われている訳は佐藤 雅彦さんという方が10年程前に訳したものだという。分かり易い現代語の訳が選ばれ、シャチコバらず、エンターテインメントとしての本領を発揮しながら而も同時に本質的であるという作品に仕上がっているのは、櫂人の劇団員各々が原作の登場人物に近い実年齢の役者達で、演技が自然なこと、演出家の作品への本質的な理解が正鵠を射ていること、そして我々の生きている現代日本との橋渡しが上手くいったということである。
 無論、今上に挙げたことだけで、此処までバランスの良い作品となった訳ではない。冒頭、現代日本が戦争に巻き込まれそうな状況や世界の紛争が示唆されたり、今作の舞台が遺跡と看做され観光客らが訪れて写真を撮りあったりしている所からギリシャ時代に飛ぶという形で始められているなど、時代と空間の橋渡しが工夫されているばかりではなく、ぺロポネス戦争以前の戦争を戦った世代であるジジ、ババ世代が現にぺロポネス戦争を戦っている後代に対するコロスとなって登場し、而もコロスの役割である現実情況への距離を置いた観方や批評性を示すと同時に時には示唆するという役割すら与えられていることを最大限利用し、舞台上での現役世代VSリタイア世代という距離が、劇を観ている我々と2400年前の時代との距離の縮図であるという構成を為している。
 但し、アリストパーネスの凄さは、このジジババ達の関与は、彼ら、彼女らの合意も又、合戦紛いの舌戦を幾度となく繰り返した結果漸く得られた知恵であり、それが彼らの年の功という経験知を通して漸く後代に伝えられる賜物であるという点だ。ここにも、アリストパーネスの揶揄が潜んでいるとみるべきであろう。
 女たちの戦略は、講和が結ばれるまでは徹底的に、性の相方を拒む、ということであったが、アテネ側、スパルタ側何れも男共は、己の性的欲望の未遂に欲望を肥大させ既に爆発寸前なのであるが、この状態を極端に肥大化した陽物で表し、これが本人の頭や顔とごっつんする様で、何とも言えぬ陽性な可笑しさを現出させた演出は見事である。
 また、終盤、講和の為った祝いの席で、素面の時の外交をけなす弁とその論理はアリストパーネスの真骨頂を表し流石に古典として残るだけの作品であると感心させられる。全く古びていないどころか、改めてこの天才の尋常ならぬ才能を感じさせるに充分なのだ。実際、どんな科白がどんな具合に表現されるか。舞台で確かめて欲しい。
はこぶね

はこぶね

劇団おおたけ産業

新宿眼科画廊(東京都)

2018/05/25 (金) ~ 2018/05/30 (水)公演終了

満足度★★★★

 Bチームを拝見。(華4つ☆)

ネタバレBOX


 旧約聖書に出てくるノアの方舟と絡めて、神の声らしきものが聞こえるようになった引き籠りの弟・タロウは、魂の形状も見て取れ、その形状から前世のことが分かるということで、信者が生まれてきた。
熱心に魂の浄化を求める者・瀬村(ミシュマル)は、そのストイシズムによって世界を裁断し、周囲との人間関係を緊張させている。一方、現実に生活能力の乏しいメシア(グル)を頂点として、このままでは滅亡してしまう世界を救済する為には信者たちがガーディアンとなって彼の生活を支えるべきだと考える者・烏丸は、魂の浄化を通して自他の関係を改め世界変革に一石を投じようとする宗教のようなこの精神活動を、一種の経営理念の下に政治的に変質させ組織化してゆこうとする。また在る者・八幡(ヤヌーカ)は、インドへの旅で放浪の持つ本質、生きながらの死を通じて精神世界へ旅立ってきた者として独自のスタンスを保っている。またストイックに精神世界を追及するミシュマルの目付け役として参加したものの、ミイラ取り変じてミイラとなった浜(ピンケサン)、そしてタロウの面倒をみている姉(ハナコ)、自分が子供の頃から繰り返し見る夢とタロウの見立てが合致したことから前世の話に興味を持ち、傍目からはデートと看做されるような付き合いになりながら、タロウはあくまで友達と考える女(鳩山)と既に信者となっている者達との齟齬や彼女を連れて来た張本人である烏丸の嫉妬を通して紡がれてゆく物語は、緩やかな紐帯によって平和と安穏に満たされていたエデンの園に知恵が毒を注いだように、烏丸が方法的・政治的組織制覇を目指すことによって生まれた他メンバーとの距離感やよそよそしさ、ざらつく苛立たしさと烏丸の鳩山への嫉妬、タロウの鳩山への片恋という感情が崩壊を齎してゆく過程を描いて秀逸。ラストへの飛躍に必然性を感じられないことが残念である。このラスト部分は自分にとっては余分であった。日本の伝統的詩歌の形式として用いられる返歌のような効果を狙っているのであれば、もう一捻り工夫が欲しい。登場人物たちが、物語の進展に応じて衣装をキチンと変えてくる丁寧な作りもグー。
 
注:信者たちの名の横についている()内の名は、タロウが信者たちに与えたホーリーネームである。
キリグス

キリグス

AnK

北千住BUoY(東京都)

2018/05/25 (金) ~ 2018/05/28 (月)公演終了

満足度★★★★

 3つの短編で構成された舞台、上演順に①「インクルージョン」「ウーノ」「マイアポカリプス」の3作、2時間強。BUoyはちょっと変わった空間だが、この奇妙な空間に非日常性を上手に生かした舞台づくりと観た。(追記2018.5.28 4つ☆)

ネタバレBOX

若者らしい素直な感性に好感を持てる舞台であった。①の作品では、妙なことにヨルダンの世界遺産であるペトラ遺跡のことを思い出してしまった。2004年に行ったのだが、その壮大に、流石に世界遺産と驚嘆した遺跡である。興味のある方は以下でどうぞ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%88%E3%83%A9
https://travel-noted.jp/posts/7447
 2本目の「ウーノ」は古典落語をベースにした作品だが、天狗を出し抜き、更に歯死神まで出し抜いて上手くやってゆく人間という生き物のしたたかさを表して苦笑いさせてくれる。捻りの効いた作品。
 3本目が「マイアポカリプス」だ。アポカリプスとは黙示録のことだが、今作では顔の国に住む住人が山を越え水も食べ物も豊かなユートピアへ出向き、其処から故郷を観て故郷の資源を収奪しつつ生きることに汲々をしている故郷の生活を振り返るという構造を持っている。中々に示唆的な作品である。役者の演技以外に映像とのコラボなども取り入れファンタスティックな舞台に仕上げている。


ゼロバヤシモトコたち

ゼロバヤシモトコたち

ジョン・スミスと探る演劇

新宿眼科画廊(東京都)

2018/05/24 (木) ~ 2018/05/27 (日)公演終了

満足度★★★

 ポール・ヴァレリーの文章に固定観念について書いたものがあるのだが、無論、彼は知性の人であったから論じられている内容も至ってノーマル、而も普遍的である。

ネタバレBOX



 ところで、今作実験的といえばそのように見ることもできるだろう。だが、その場合でも劇団名が、植民を進めたイギリスの尖兵として主として17世紀に活躍した人物のことを指しているのか、あるいは単にありふれた人名として用いられているのか、さっぱり分からない。
 何れにせよ、極めてパセティック否、パトスそのものを表現しようと努めているように思える。それは、“そのようである”ことによってエトス的次元を無視し、世の中がどうなろうが、自分の感知する所ではない、と宣言しているようにも見える。そしてその先のことを提示してはいない。
 主演の熱演は評価するが、もう少しパースペクティブを理知的次元で構成してほしい。
Silent Majority

Silent Majority

劇団龍門

サンモールスタジオ(東京都)

2018/05/23 (水) ~ 2018/05/27 (日)公演終了

満足度★★★★

 今作に主人公は居ない。このことが一般的にドラマツルギーを旨とする演劇的カタルシス構成の難易度を上げている。

ネタバレBOX

 どういうことかというと、描かれているのはあくまでサイレントマジョリティーだ、ということだ。これは、葛藤を通じて何らかのメッセージを伝える演劇としては、かなりの冒険である。こういった事情が齎す結果見えてくるのが、男女の存在様式の差異であろう。生物としては、女性がプロトタイプである。従って存在様式は、その生物学的基礎によって女性の方が、男性よりより深いと言わねばならぬ。つまり男は女性と比較した場合、非在に近いのである。このことが理由で男は縛られることを嫌い、自由やロマンを求めるのだ。そしてそれらは、未来へ向けての自己投棄によってのみ可能である。即ち男の存在とは、常に今非ざるもの・ことへの可能性追求である。
 だが、演劇は板の上で実際の人間が演じるのが普通であるから、物語として、主人公を置かぬ作りでは、滲み出る存在感が、観客に訴えてくるものの割合が高まる。こうなると、女優の方に分があるのではないだろうか?
 今作にはLGBTの人々も出てくるが、バーのママは、役の上ではン千万も掛けて自らの肉体を改造した人であるし、そのことの凄みは、パフォーマンスを披露する際の指使いなどに端的に見て取れる。
 一方、もぐらに嵌められて懲役を喰らった悪徳デカを支える外国人女性役の演技は、女性の存在感とその本質を表して見事であった。何より主人公の居ない今作にあって、存在の在り様と存在によって未来を孕む女性の深く狭い愛を表した演技が自然で得心のゆくものであった点がグー。
 主人公が居ない今作であるから、或る意味、宿命がその中心課題になるのは必然である。何度も出てくる自殺への道程、また恋に絡んだ刃傷沙汰、憧憬から一夜限りのアバンチュールまで、そしてLGBTとの・・・等々、この世に存在する愛のカタチが、それとなく織り込まれ擽りを入れてくれる。自殺へ至る場面は、陸橋下を走る列車が観客側に向かって灯される2つのライトによって単純明快に示される。無論、音響効果で臨場感が醸し出される。舞台中ほどから奥へ張り巡らされた鯨幕にも出吐けが設えられ、他にも上手、下手に1か所ずつ設けられた出吐けと共に合理的に使われている舞台美術もグー。
 更に完成度を高めるというか、実験的に創り上げてゆくのであれば、演出がシュールになって構わない気はする。即ち宿命を主人公と見做し、宿命に翻弄される人間を描く喜劇として舞台化するやり方だ。毀誉褒貶相半ばするリスクは容易に想像がつくが、成功すれば話題性・注目度はかなり増すように思う。

隣のゾンビ

隣のゾンビ

タッタタ探検組合

赤坂RED/THEATER(東京都)

2018/05/16 (水) ~ 2018/05/20 (日)公演終了

満足度★★★★★

 ホラーなのだが、タッタタの手に掛かると喜劇だよ~~が、滲み出てくる。

ネタバレBOX

この辺り流石と言わざるを得ない。陰謀もある。裏切りというか色仕掛けもある。而もゾンビだからホラーなのであるが、ソフィスティケイトされたホラーで、タップゾンビとパフォーマンスゾンビ、それからペットゾンビ迄揃っていて、墓守とはツーカーなのである。墓守の仕事は、毎朝、朝刊を持ってきてやること、だから南北戦争で戦死した元南軍兵士も世情に詳しい。序でと言っては失礼だろうが、墓守は、墓掃除もしている。こういったことも笑えるではないか⁉ 
 思いがけない場面で、観客の予想を裏切ってくれるパフォーマンスや科白があって擽りを入れてくれると同時に、舞台美術がシンメトリーを基調としていることから見て取れるようにベースが非常に安定しているのでソフィストケイトされた笑いが精巧なパズルのように実にキチンと収まるのだが、上に記したように予期せぬ擽りが入るので一瞬たりとも目が離せない。
 無論、ゾンビの話だから、舞台は墓場である。墓地を囲むように後景には、白い柵が張り巡らされている。舞台中央には、遺体安置所へ入る暗渠が口を開けており、下り階段が設えられている。その両側には墓石へ続く上り階段、墓碑銘は無論アルファベットで書かれている。アレンジされた南軍の旗の飾られた墓地すらある。墓石によっては、十字架を彫り込んだもの、十字架の形のものもある。下手墓地の手前には、木製ベンチがある。
 このようなセットで演じられるのは、実はゾンビの話ではない。それは添え物である。実際描かれているのは、ゾンビという形でしか表現し得ないほどに歪んだ我々の家族関係である。単純だが、深い。最高の料理の持つシンプルな深さを味わう為に、我々はここまで捻りを利かせなければ最早素直に現実と向き合えない時代にいるということが喜劇なのである。お見事!
キャガプシー

キャガプシー

おぼんろ

キャガプシーシアター(東京都)

2018/05/16 (水) ~ 2018/05/27 (日)公演終了

満足度★★★★★

 粗筋については、劇団の説明にもあるから割愛する。

ネタバレBOX

極めて切ない物語であるのは、登場人物たちの命名を見ても分かる通りだ。自分は、パレスチナの現状に思いを馳せながら観ていた。実際、パレスチナへ出掛けると障碍者の多いことに驚かされる。無論、ナクバ前から既に70年を超えるシオニストらのパレスチナ人に対する苛烈極まる虐殺の歴史の中で生き残ってきた人々の肉体に刻まれた痛々しい傷である。ホロコーストこそ、実行していないものの、その差別、弾圧の苛烈及び抑圧を旨とする占領政策は、ナチがユダヤ人に対して行った政策と変わらないことは、ホロコーストサバイバーの子供(サラ・ロイ)たちの証言などにも明らかである。
 大方の見方と異なり、つまり自分は現実の隠喩としてこの作品を見た、ということになるだろう。例えば不自然な表現が一か所、ツミがネズミに実父を殺害されたシーンの解釈である。ツミの父を殺害した直後家に戻って来たツミをネズミは切りつけ最初に両目の視力を奪うのだが、その後恰も勘違いをしたかのようにツミが、自分を襲った暴漢を追い払い助けてくれたのがネズミだと信じて、その後ネズミの齎した企画、キャガプシーショウに協力し続けることになる場面である。合理的に考えるなら力が男性より弱い女性が、己の命を守る本能レベルで咄嗟にこの嘘を自分にも信じ込ませたという風に考えなければちょっと納得できない。
 何れによ、エリザベス朝の演劇よろしく、白昼のテント公演は、太陽光の下での演劇公演としてシェイクスピアの作品を当時の人々が観たような環境で観るという極めて面白い試みでもあった。実際、物語の展開には、シェイクスピア的な要素がふんだんに入っている。どこがどのようにシェイクスピア的であり、ギリシャ悲劇にも通じるような普遍的な部分であるのかは、観て確認してほしい。
  ところで、シャイクスピア自身は作品で問題提起はしているが、回答は出していない。一方、今作は、ラスト間際で、回答のヒントを与えている。それは、矛盾率を如何に解決するか? に対するヒントであり、人は、夢見なければ生きられないという切実な“命”、生きるという命題に対するとても大切なヒントである。
俺の屍を越えていけ

俺の屍を越えていけ

feblaboプロデュース

新宿シアター・ミラクル(東京都)

2018/05/12 (土) ~ 2018/05/20 (日)公演終了

満足度★★★★

 90年代以来猛威を揮ったリストラという身近な問題を、通常とは別角度から扱って興味深い展開をみせた。

ネタバレBOX


 リストラ会議に参加しているのは男女3名ずつの都合6名である。若手から中堅の地方ラジオ局の社員達だ。自分達を育ててくれた上司を自分達の手でリストラしなければならない、という事実に罪悪感を感じている者が多いことが如何にも日本らしいといえば日本らしい。仕事は利害関係に過ぎないのだからと割り切る者が今作で意見表明することはない。
会議は他言無用、新社長命令である。実は時代の流れで斜陽産業となったラジオ局は、かなりの危機に陥っているのだ。意見が中々でないこと。多数決という日本人が最も選びそうな方法さえ、結果的に出てくる選択肢であり、仮に上司の首切りが自分達に出来なければ代わりに出席者の首が切られるということが判明して初めて有効な選択肢として多数決が選ばれるという有様。予め多数決をより有効にする為の奇数化策すら取られない。まあ、この点は、無効票や棄権などによって結果オーライとはなるのだが。
地方のラジオ局ということもあるのだろうが、中堅幹部になっているメンバー入社当時の競争率が僅か二十倍と描かれていることは少々驚きであった。自分達が新入社員の頃、メディアの東京での競争率は新聞記者で百数十倍、出版社編集部でも百倍を超える所はザラだったしTVも競争率は高かったからである。無論、コネありとなしでは結果として大きな差があった。まあ、余り些末的なことは良いのだ。
日本的は日本的で、尊敬する上司をリストラされることが決まった段階でその上司を切ることに最も強硬に反対していた中堅幹部の参加メンバーが、自らの意志で退社を決意するというオトシマエもつけたのだから。また、決定票を投じたのが、件の幹部が最後に目を懸け、自らが引くことを前提に未来を託した若者であった点から、このタイトルが採られていることを思えば、キチンとしっかりした流れが構築されていて、作品として評価できるものであったのだから。楽しめる。

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