ハンダラの観てきた!クチコミ一覧

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おかしな二人 女性版

おかしな二人 女性版

劇団つばめ組

池袋シアターグリーン BASE THEATER(東京都)

2024/08/22 (木) ~ 2024/08/25 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

 華4つ☆

ネタバレBOX

 尺は120分。板上は居間。ほぼ中央奥に窓。中年女性6人は皆友人でTVのプロデューサーをやっているオリーブの家に毎週末集まりボードゲームをやり乍ら雑談をするのがこの集まりの習わしである。物語の中心になるのはこのオリーブと異様に清潔好きで整頓好き、而も料理の得意なフローレンス。オリーブはバツイチ。元夫は競馬が大好きなギャンブラーで年中ゲル貧であり離婚後もすっては国際電話を掛けてきて援助を要請。その度に甘い言葉に載せられたオリーブは融通してやる。この過程が面白い。毎週集まるミッキー、ヴェラ、シルヴィ、レネーらは、こんなオリーブに様々な忠告の言葉を掛けるが友人たちの忠告などあって無きが如し。そんな状態が続くボードゲームゲームの或る時、行方不明騒ぎになっていたフローレンスが、漸く顔を出す。ゲームはサイコロの目で進んだ場所に記されている諸ジャンルの質問に時間内に答えるものであるが、駒を進めた者のみならず誰も答えられない難問にフローレンスは即答する。彼女は3人の子持ち。離婚話の末に家を飛び出していたのであった。結婚前は経理をやっていたが現在は専業主婦だ。従って飛び出しはしたものの自立して生活する術は無く自死騒ぎも引き起こしたのでオリーブ宅で同居することとなった。
 だがオリーブの性格はフローレンスとは正反対。片付けだの縛られることだのが大っ嫌いというキャラなのだ。料理も自分では作らない。物語のメインディッシュは、オリーブとフローレンスの同居生活のちぐはぐと対立が同じビルの別の階に住むスペイン系の兄弟、マノロとヘイスースとのWデートを巡って遂に爆発し同居生活が破綻するに至る部分だが、この現在起こっている女性同士の深刻な対立を茶化しでもするかのようにオリーブには2年前に別れたギャンブル依存症の元夫が金をせびる為に電話を掛けてくる。とその度に都合してやるという甘い側面を持ち、そもそも集まってくる女性総てが殆ど矢張り男女の関係には関与せずにいられないという状態である。結婚している者も多いが別れた者も、別れかけている者もあり浮気関係のあれこれ、旦那とのあれこれ、別れた夫とのあれこれ、女同士の友情を前提としてこれら色話の諸関係が描かれる為、個々の男女関係が各々のレイヤーを為し輻輳している点が脚本の上手さ。元々原作はアメリカのものだが、演ずるのは日本人、その点矢張り若干ウェットになっている気がする。もっとドライにエッジを立てると反発も大きいかも知れないがより面白い作品になるような気がした。無論、別次元のオチもあるから、そのオチは観て確認して欲しい。
雑種 小夜の月

雑種 小夜の月

あやめ十八番

座・高円寺1(東京都)

2024/08/10 (土) ~ 2024/08/18 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

 身につまされる観客も多かろう。何れの役者も自然体で良い演技をしているし、生演奏は無論のこと、照明も良いし、等身大の脚本、演出もグー。

ネタバレBOX

 板は可成り長い長辺の両側を客席に挟まれる形で中央に位置する。平台を用いて構成されているが板に上がる為階段を一段設けてある。片側に神宮の鳥居、鳥居対面に竹林がある。竹林の前には演奏者席。
舞台は地方にある神宮の団子屋の名店を中心に展開する。伊勢神宮や気比神宮には及ばぬものの神宮の格式は無論神社より高く可成り由緒のある社殿もあり、祭りは盛大である。この神宮の神官は非常に面倒見の良い人で皆から慕われた人格者であったが、盆の時期に急逝した。ところで地方では盆は旧盆を指し旧盆には祭りを催し先祖の霊を迎えて皆で祭りごとをするのが習わしである。この神宮の神官は、この人の人格の気高さからか或いは神職という職業柄か単にヒトに対してのみならず弱いもの総てに対して温たかく接し、放っておけない性格でその様はまことに神々の齎す慈悲の如きものであったから神宮には何と37年も生き続ける猫・小夜を始め8匹の野良猫が飼われていた。そして長生きすれば尾が割れて妖怪にも変化すると言われる猫の小夜には不思議な能力も備わっていたのである。その能力とは、追い詰められて苦吟するものがあると普段は決して鳴き声を上げないのに鳴くことであった。皆からおんちゃん、と親しみを込めて呼ばれる神官は生涯独身を通したが若い「息子」が居たのも小夜がこの「息子」が神宮の前に捨てられていることを彼に鳴き声で報せ保護させたからであった。この物語の中核を為す神宮周縁の土産物屋の中での名店団子屋の当代夫婦もおんちゃんの世話になって目出度く現在の幸せを掴んでいた。というのも日本には良くある家を継ぐことに纏わる問題で愛し合う二人の関係は本家同士の婚姻の障害として立ちはだかり本人同士は人柄といい、家格といいまたその能力といい双方の親、親族も認める良い関係に在りながら、唯一点、互いが本家であり長子が家を継がねばならぬと互いの親・親族が考えていることだけが結婚を阻害していたという事情があった。為に愛し合う二人は追い詰められ切羽詰まって駆け落ちを選ぶ。その時にも小夜は鳴いた。おんちゃんは、救いの手を差し伸べ団子屋の長女の実家の直ぐ目と鼻の先にある神宮の居所に恋人たち二人を住まわせることにした。この時既に長女は妊娠しており約半年後には臨月も近づき実家及び連れ合いの姉らも新たな命の誕生を愛でる気持ちにもなり、また本人達同士も血気にはやった心情から距離を置くことが出来るようにもなって御家制度より大切な皆の幸せを享受する道を選ぶこととなった。実家に戻った長女はやがて娘を産んだ。この子の誕生が溶けかけた氷の関係を一気に融和に導き両家の関係も正常化する。
 この他おんちゃんと養子の関係を結んだ捨て子の貫太郎も子供の頃こそ苛めにあったりもして精神的危機を迎えたこともあったものの、真の子として育ててくれたおんちゃんの心根の意味する処を理解するに至り素直に父さんと呼べる迄に成長した。他にも団子屋の親族で女医を営む弓が結婚もせずに独りで年老いた母の面倒を観てきたものの老いの所為で様々な問題を起すようになった母の面倒を見続けることが限界に達し、施設に預ける道を選んだ時に強固に反対を表明した今は団子屋の女将となった母とその娘たちとの骨肉を分けた者同士の争い等、どの家も必ず抱えている深刻極まる問題群を、何とか自分たちの知恵で解決し人間として生き抜く姿が、旧盆の祭りを背景に既に命の灯の消えた者たち、未だ灯し続け霊を迎える者たちの盆故の交流を通して浮かびあがる。そこに響く小夜の鳴き声。
 誰もが抱える人生の難問をさりげない日常風景に溶け込ませて描き温かい人情で解を導く優れた脚本を自然体で演じる役者陣の演技、演出も良い。また祭りの雰囲気を盛り上げる生演奏も効果的である。
こんなんほろんでいい世界

こんなんほろんでいい世界

愛しのボカン大作戦

本多劇場(東京都)

2024/08/07 (水) ~ 2024/08/12 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★

 物語の展開を最もダイナミック且つ緊迫感ある作品にする為に必要な大枠としての論理展開が対立構造として提起されていない為、凡庸な作品になってしまった。

ネタバレBOX

 本質的なことを示したかったことは分かるが、時代の表層に流され過ぎてはいけない。舞台美術もコテコテで内容に見合ったものになっていないのは他の総てと同様、ことのエッセンスを抽出しようとしていないからだろう。時代といえば分かったようなフリはできようが、新しさを衒って却って温故を忘却しているかのようである。尺も無駄に長い。
 以上上げた欠点は、状況設定の失敗が第1の原因だ。描かれる内容は、時代を唯漂うように浮きつ沈みつし徹底的に自分を見据えて世界と対峙することを怠り、結果何ら根底的な精神的地点にも辿り着けなかった表現者を目指す者たちが、オーディション無しで参加できるイベントに応募することで自分たちの犯してきた過ちに少しづつは気付き、様々にチャレンジしてゆく物語ではあるが、所詮己とは他者に他ならないという地点にすら自らの力で立つことができない為、更に踏み込んだ表現者たる道への参入も叶わぬことのみを知り続けてゆく構造を示しているに過ぎない。当然ダイアローグの形式を採る仲間内での台詞の遣り取りも台詞同士の間にあるべき緊張感に欠け、結果劇的緊張に欠ける。
 出演する役者陣の各々はそれなりにポテンシャルが高そうだが、それを活かせるような作品作りになっていないと感じた。残念である。
鴉よ、おれたちは弾丸をこめる

鴉よ、おれたちは弾丸をこめる

劇団うつり座

上野ストアハウス(東京都)

2024/08/07 (水) ~ 2024/08/11 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

 お待たせした。敗戦記念日にアップした。当初発表箇所も若干変えた処がある。

ネタバレBOX


 言うまでもなく清水 邦夫の戯曲だが、一幕四場、初演は1971年10月、新宿アートシアター。当時の演出は蜷川 幸雄氏であった。今回の演出は篠本 賢一氏。学生運動が衰退後の世代である。板上は奥に裁判官席、上手壁際に被告用の椅子が並べられ、板観客席側センターには可成り大きな四角い板が置かれているが高さは殆ど無い。従ってほぼ素舞台に近い創りである。(注:序盤場転が多いが一部を除きいちいち場転とは記していない)
 オープニングでは1968、1969と繰り返しながらヘルメットを被り、タオルをメットのY字形の穴に通して投石している学生たちの姿、1968・1969と叫びながら高所から投石する学生たちの模様は、年代からいうと日大闘争からある意味バトンを受け継いだ安田砦をイメージした攻防であると解して良かろう。ライトが照らされているのは機動隊側からのものと判断した方が良い。その他機動隊の発するガナリ、騒音が入り混じる。
 場転、2人の若者が持っていた爆弾を浮かれ騒ぐショー会場に投擲、爆発させる。忽ち捕縛され裁判シーンに。若者たちは、当時流行りの口調でアジ演説さながらの革命的論議を吹っ掛けるが敵もさる者おいそれと同調はしない。それどころか体制の根拠たる形式或いは様式(裁判という形式を始めそこで機能する裁判長、書記官、判事、検事、弁護士等というキャラ)を執拗に用いつつ対峙し俄かに結論は出ない。
 そこに、奇妙な集団が登場する。総て婆さん。各々様々な特徴を持ち、古代神話に現れる神々のようにその特徴をその名として互いを呼び合い連帯している婆さんたちである。婆さんの代表格と言えるキャラが鴉婆、虎婆ら孫を持つ婆の他に何人かがいるが、中でも鴉婆、と呼ばれる婆さんの啖呵が粋である。「あたしたちゃ、人間の恥で黒く染まった鴉なんだよ。あたしたちのこころん中にゃ、人間の骨で削り、人間の骨で作った一本の笛が、いつも絹をつんざくように鳴り響いてるんだよ・・・」で始まる啖呵だがこの啖呵に含まれる言の葉の意味の深層こそ、今作の根であり、脚本家・清水 邦夫の主張であると捉えた。
 演出の篠本 賢一氏の演出の多くは当に本質に於いてその上演回限りの表現である演劇という総合芸術の裸形を活かす為に、関わる総ての者達の気をそのエネルギーが最大化して物質化を目指すような、張り詰め硬質化するような緊張感のある舞台作りをするケースが殆どだが、今作では清水の脚本を如何に生かすか? に力点を置いているように思えた。清水作品の清水脚本らしさが実によく出た舞台になっている。
 例えば如何にも詩の好きな清水 邦夫の作品らしくのっけから狂歌、川柳、俳句やらの如き五七五文型の短詩系オンパレード。二場のラストで遂にはアポリネールの傑作・❝ミラボー橋“のパロディー迄開陳される。
 場面変わって逮捕された学生2名。嫌疑はコンサート会場への爆弾の投擲・爆破である。第八法廷裁判長以下、書記官、判事らが各々の職務に従って作業に従事し、検事は被告人らの罪を上げ、弁護士は弁護の論陣を張って議論を戦わせている。
 其処へ闖入したのが捕縛された若者の祖母らと共闘する婆さんたち。各々極めて個性的且つパワフルな婆さんたちだが、彼女らは日本が大陸と離れて大陸との間に海を抱え島として独自の歴史を刻み始めた初期に在ったとされる原始の闇の初めからあらゆる権力及び機構にケツを捲ってきたと宣たまわぬばかりの猛者たちである。というのも女性の持つ妊娠機能で胎児が暮らす子宮内に満ちる羊水の成分はほぼ海水と等しい為か、比喩としても母と海が同質視される文化的伝統は広く世界に見られる。従って彼女たちの実年齢が幾つであるのかは関係ない。彼女らの論理に従えば1万年昔に在ったとされる太古の闇の恨みは、他の誰もが無いとは言えぬ以上(もっとあからさまに言えば脚本に書かれていない以上)、彼女らがそう宣えばそれが在ったとし、その身の内に抱えていると宣えば、それを認める他は無い。そしてその身を貫く恨みに苛まれながら新たな光を与えてくれる者を求めて生存し続けているのである。と言われればそれも認めざるを得ないのではないか? 一見、無茶苦茶な論である。
 然し今現在、そして今に通じるこの情けない人権無視の体制を営々と続ける不公平な支配構造を疑わないという発想自体が、体制に毒されて来た結果だとしたら? 毒されているかも知れないという発想そのものが予め予防されてきたとしたら? 取り敢えずはその辺り迄発想を広げる処からしか始まらないのではないか? 人間は見たいものしか意識上に挙げることは出来ない。開くことが出来ない視座なら先ずは自らで自らの目を切り裂くことから始めよう。この作品はこのような戦闘への招待である。
 反逆の原動力は現生を観れば分かるようにこの情けない世界状況。先ずは足元の我が国、日本の唾棄すべき為政者共への反逆を通して見つめよう。但し彼女らの反乱は体制を論理的に分析し批判的に解消するものでは無く仮借なき弾圧を加えてくる為政者そのものへの根本的治癒、即ち解体である。そして解体は多くの場合抹殺を意味する。
 ところで闖入した婆さんたちを相手に為政者サイドは先ずその本質たる形式(様式)を以て対抗しようとする。先ず裁判形式を整えようとするのだ。彼らの殆ど本能となっている精神傾向に拠れば形を整えること即ち『正式な史実の根拠となること』であり、正しく『正義の根拠たることなのである』が、婆さんたちにとっては異なる。
 裁判長から先ず宣誓することを求められた鴉婆は「トラホームで目が見えないから読んでくれ」と要求。書記官に読まれた内容は『良心に従って真実を述べ、何事も包み隠さず、偽りを述べないことを誓います』であり正確に理解されたが婆さんは再び質問した。「誰に対して誓うのか?」についてであった。この問いに応えたのは裁判長であったが『誰に?』と訝しむような趣があり婆さんに揚げ足を取られた。鴉婆「誓うといえば昔から神様とか仏様とか」裁判長『良心に、あなたの良心に』鴉婆「ちょっとおかしい、その文句じゃ、良心に従って・・・誓いますって、従うものに誓うのは変だ」と反論される。裁判長『では言い換えます。裁判所、裁判所に向かって』鴉婆「さっき良心と言った。裁判所と良心は同じか?」裁判長『同じです』鴉婆「でもあなたの良心って言った。あなたの良心ていや私の良心、すると私の良心が裁判所か?」裁判長『いい加減にしなさい。宣誓拒否ですか』と畳みかけ『宣誓を拒否した者は五千円以下の罰金』と過料を科す。その後も二人の遣り取りで言語矛盾を犯したのは総て裁判長という大失態を冒す。これに対し齢を重ねた婆さんの問い詰めは総て極めて論理的で正鵠を射て居た為体制は体制を御していた根拠そのものである論理形式を破壊され喪った。この様にして為政者の権威は潰え、権力は単なる茶番と化した。体制を構成していた論拠を自らの失態によって喪失した権威者たちは今や何者でも無い。即ち無用の存在である。無用の者が意味ある機構を維持することはできない。裁判権そのものが裁判官から婆さんたちへ移行した。かくして廷吏らも権威を喪失した裁判官らからの命令が無い以上動くこともならない。こうして裁判権は婆さんたちの手に落ち次々と判決が下されてゆく。先ず最初に刑を言い渡され執行されたのは検事、裁判長の息子である。刑の執行方法は刺殺。罪状は傲慢にも婆たちの申し出を拒否したこと。裁判官及び刑執行人は鴉婆。この後裁判官は虎婆に変わり被告ら(書記官、判事ら)を統一裁判形式で審理。結審した罪状は人間としての義務を何もしなかったことで検事は鴉婆の孫青年A。刑の執行形式は撲殺である。執行官は居合わせた婆たち。当然婆たちの手、拳は血に塗れ血の匂いを放っている。然し此処まで深い反逆の根を持たぬ孫が、機動隊の何度目かのアナウンスを用い裁判所所長が談判を申し込んで受け入れられ第八法廷に入った際、彼の退去時に婆たちの阻止の手を阻み女性二人を含む所長を解放してしまった。人情に流され、血の匂いに迷って死刑は余りに酷だと判断した為である。
 この機を逃さず残った人質は、官憲が踏み込んで来ないのは自分達人質に危害が及ぶことを恐れてであること。危害が及んだ場合、世論が黙っていないので襲撃してこない旨説明。従って人質を総て処刑してしまえば権力は忽ち反逆者を襲撃し全滅させることを主張して対抗しようとするが、そんなことで婆たちの怨恨が収まるハズも無い。また、青年Aが裁判長として振舞うに至った虎婆の許可も無く人質の女性二人及び談判に来た裁判所所長を敵方へ戻してしまった事に対する処遇も為されていなかった為、いつの間にか裁判長席に戻った鴉婆は次の被告として孫、青年Aを指名、婆が被告として指名した事情を説明した。然し乍ら彼には鴉婆の述べることの意味する処が理解できない。婆にとっては、この事実、自分を理解し得ないこと即ち自分ら婆さんたちへの裏切りと映る。刑は執行された。判決は死刑であった。執行者は実の祖母鴉婆。これを見た裁判長は、この期に及んでほざく。『な、何たることだ、肉親同士の癖に・・・尊属殺人は犯罪の中でも最も許すべからざる・・・』と。為政者の側についた新大衆の一人として杓子定規な説教なんぞ垂れていやがる。冗談じゃねえ! 虐げられた者達の愛は、捻れ捻れてこのように悲惨な結末に辿り着く他無い、という当たり前が、とんと分からねえ、すっとこどっこい奴! 烏婆さんがその懐剣を取り落としたことすら気付かねえ癖しやがって! この時、激高する裁判長に向かって弁護士が声を掛けた。『兄さん、落ち着いて』新大衆はその親族・眷属揃って新大衆たる敗戦国家中間層を為している訳である。こんな状況の中、青年Bがお婆たちの裁判を受けたいと言い出す。官憲からは最後通告が出ているが、虎婆が裁判長席に座り審判を始める。これも愛の審判であったが、一発の銃弾によって断ち切られた。青年Bは被弾して死んだ。結果、狙撃手らの手により人質1人を含め反抗者は総て殺害される。
 ラストシーンは殺害された総ての反逆者達が立ち上がり銃に弾丸を込めて発射するシーンで終わる。死んだハズの者達が蘇って来るばかりではなく、反逆そのものである武器である銃に弾丸を込めて発射する不可解と映り易いこのラストは、単なる願望では無い。これは、無論問題になっていることの本質が、本来総てのニンゲン(生命)が平等であり当然の事ながら貧富の差や階級・階層、性差、人種、教育レベル、習俗、習慣、能力などによる差別、区別を受ける謂われも無く生存することが可能である、あったシステムが、簒奪や収奪により権力という無体な機構に従属させられたことに対する根底的反逆の意思であり、これは決して滅ぼすことなど出来ない民衆の思考だからである。
魚雷モグラ’24

魚雷モグラ’24

ウラダイコク

みらい館大明ブックカフェ特設ステージ(東京都)

2024/08/02 (金) ~ 2024/08/04 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

 今公演はWキャスト。拝見したのは楽日、かすてらチームである。

ネタバレBOX

 物語は1945年敗戦迄あと僅かという時期の長崎での物語。この期に及んで未だ真珠湾攻撃で用いられたと同じ型の魚雷を学徒動員で造らされていた女子学生や教師、地区指導員らの日常と8月9日午前11時2分のファットマン投下時の模様を描く。ユニークなのは、戦時体制下の女子生徒たちの前に現れるのが不思議なモグラ姉弟であることだ。而もこのモグラの姉は1人の人間の女性徒に凄まじい復習の念を持っていることである。理由は、この女生徒に父母を殺されたことであったが、人間にはその記憶すらない。
 女生徒たちは戦時教育をまともに受け止め、強制される価値観や道徳観、国家観や天皇を唯一の主権者とする大日本帝国憲法下で要求された社会規範を基本的には守り所謂優等生として生きる一派と、そんなことは本意でない、謂わばドイツのエーデルヴァイス海賊団運動に邁進していた若者のように一種アナーキーで人間としてより健全な「不良」グループ一派を形成する者ら、及びどちらにも属さない一般生徒に分れていた。この中でモグラの姉に呪われていたのは優等生グループの代表格の女子であった。彼女は所謂隠れキリシタンの末裔であるから宗派はカソリックの中でも最も厳格な宗派の一つであるジェズイット系、日本で人口に膾炙している言い方ではイエズス会系ということになる。このモグラの姉は神に祈ることでこの女生徒に復讐することを強く願うが結果として彼女のみならず長崎市民全員に大変な地獄を齎してしまった。モグラの姉はそこまでは望まなかったものの結果として原爆によって件の女生徒も被害を受け、多くの友を喪いこの後も苦しむことになる。その2人の会話の中で女生徒は自分が恨まれた訳を知り謝るが自分一人に復讐をして欲しかったと述べる。モグラもそうしたかったことが分かる答弁を返すものの幾らかは復讐を果たせたことによる安堵が無い訳でもない。何れにせよ、アインシュタインが導き出した以下の公式:E=MC²のEの項目に祈りの強度によるエネルギー発生があると仮定すると或いは相関関係が設定できるかも知れない。
 ところでこの強制労働に駆り出された女生徒たちを見守る教師の態度が当時としては極めてユニークなものとして描かれているのも今作の特徴である。というのも「不良」グループを決してありきたりなレッテル貼りで区別せず、例えば‟モサ“(掏摸の隠語)に財布を掏られた中年女性に掏られた財布を取返し追い掛けて返してやる等の善行も為している子供たちの良い面も評価しているかのような態度で接している等。因みに掏られた状況は分からぬものの一般にモサは集団でことにあたり直接掏る者、シキテン(見張り)を切(す)る者、掏った獲物を受け取り別の仲間に受け渡す者等が徒党を組んで犯罪を犯すのが普通なのでリアルな発想で検証すれば、女生徒が盗まれた財布を取り戻し、持ち主に返すこと自体が可成り難易度の高いことであることは言を俟たないが、まあ、小さなこと。義侠心に溢れた健全な女学生のイメージを示すには効果的な挿話と捉えれば良かろう。被爆時のこの女性教師の態度も立派である。
 何れにせよ少し頭の回る女生徒であれば、対米開戦で用いられたと同型魚雷をこの期に及んで製造させている大日本帝国の開発力の無さを忽ち見抜き、戦争は負けると確信を持って言うだけのことは出来る。何れにせよ被爆した無数の被害者の、世界で2度目の原爆攻撃による最後の姿を史実を踏まえキノコ雲の下で実際に起こっていたシーンとして再現する数々のシーンはリアリティーに富み、今作品の白眉でもある。会場からは、観客のすすり泣きや涙が鼻に流れすすり上げる音等が多く聞かれた。
 また、効果音等は殆ど口ジャミで表現されていたこともユニークな上演形態であったが、敗戦間近の日本民衆の窮乏を示唆しているようでもあり、また日本政府の文化事業に対する熱意の無さ、無関心を示しているようでもあり、政治屋及び官僚の非文化性を如実に示してこれはこれで示唆的だ。

 ところで、何故今原爆の話なのか? 根本的な問いが観客には問われていよう。今更言うまでもないが、ロシアによる戦術核使用の脅しと準備は着々と進んでおり、第三次世界大戦が始まるのではないか? との懸念は多くの民衆に共有されている。
息子

息子

劇団演奏舞台

演奏舞台アトリエ/九段下GEKIBA(東京都)

2024/08/03 (土) ~ 2024/08/04 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

 名作戯曲上演シリーズと銘打った公演のうち、今回は小山内 薫作の「息子」を上演。演出は池田 純美さん。登場人物は火の番をしている老人に鈴木浩二さん、捕吏にシンセサイザーの演奏も手掛ける浅井星太郎さん、若い男・金次郎に森田隆義さんの3名。時は江戸、季節は冬。雪の降る寒い夜。華4つ☆

ネタバレBOX


 板上やや下手には半畳程の畳が腰掛けの位置に据えられている。その畳の前に炭を埋けた火鉢。場面によって火の番と書かれた障子が火鉢の下手に置かれたり、上手に置かれたりする。上演開始前及び終演後舞台の上には降り注ぐ雪模様が映像及び雪籠を同時に用いて表現され背景に生演奏が入るので情感たっぷりだ。
 ところで今作上演は可成り難易度が高い。というのも時代背景や幕府の無宿者対策は可成り酷いものであったから、その事情を知らずに観ても金次郎の運・不運に関する言い訳の意味する処を大方の観客は理解することができないであろうからである。まあ、本質を見抜く目を持っている者であればこの傾向は現在でも変わることが無かったようであることが明々白々ではあり、所謂お上は下々を支配するのが大好きと見え訳も分からぬエリート意識をかさに着て庶民に対して実に冷淡な態度を取り続けている事実を観れば自ずと知れる処ではあるが。
 例えば渡世人の一宿一飯の恩義という言葉も戦国時代が終わり太平の世が来て尚人口の大部分を占めた農民の土地所有は長子相続に限られ他は渡世人になるか、職人になるかの選択が殆ど総てであった。而も無宿人に対する取り締まりは苛酷を極めたから季節や地方によっては一宿一飯はそれこそ大袈裟で無く命の存続に直接関わる大事で在り得たという状況が想像できる訳だ。今作の歴史的背景は一切語られていないから、小山内 薫が、私の想像する通りに状況を設定していたか否かは不明であるが、また金次郎は商人を目指して西へ行ったのであるから事情は異なるのかも知れないが、浪速商人と堺商人の質的差なども今作の背景に大きく関わっているかも知れない。何れにせよ、当時の世相、社会構造や制度を良く調べなければ、まともに今作を上演する為の準備すら難しい作品だとは感じる。而も良い役者というのは、先ず己をきちんと生きている者をいう。即ち自らを弁えている者であるということだ。これが中々難しいことなのだ。ソクラテス流に言えば汝自身を知る、という酷く難しい哲理である。これができて初めて役を演じても自然に見え、最も芝居で難しい間の取り方もまさしく自然な間として採ることができる。今回、火の番をしている老人と岡っ引き役のベテランお二人は流石にこれが出来ているが金次郎役はご本人の実年齢は兎も角、役の上では19の歳に江戸を発ち9年後に戻っている訳だから現在の満年齢で謂えば27歳。この年齢で己を知ることは至難の業である。この点間の取り方がやや不自然であったように思う。無論、沢山の嘘を吐いてもいる訳だから心理的な揺れも微妙に出さねばならず難しい役ではあるが、この点を克服できたなら更に良い作品になったと思われる。
 以上自分の感じたことを述べたが、この劇団の凄さはこんなに難しい作品に果敢にチャレンジし僅かな瑕疵は在るにせよ作品の奥深さや小山内 薫が描きたかったことは、キチンと観客に伝えるだけの作品にしている点にある。
愚者と星と死神についてのいくつかの考察

愚者と星と死神についてのいくつかの考察

feblaboプロデュース

エビスSTARバー(東京都)

2024/07/24 (水) ~ 2024/07/29 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

 観てホントに良かったと思える作品、華5つ☆!  若干説明を加えた(8.2)

ネタバレBOX

 この素敵なタイトルはタロットカードの絵柄から来ている。自分自身は占いという一種の経験則を全く信じないとは言わないが、それが占い師の人生経験や経験則を基にした判断に過ぎないと考えるので神秘主義的な解釈は全く信じない。とはいうものの、とても素敵なタイトルではないか? 内容的にも無論、この素敵なタイトルを裏切らない。而も、今迄演出を中心に、脚本は脚本家が書いた物を主として上演してきた演出家・池田 智哉氏初の長編戯曲である。言葉と散々格闘してきたことが明らかな聡明な池田氏の書いた初の長編は、言葉そのものの鬩ぎ合いが実にヴィヴィッドに、而も一見人間としての基本が落剝したとしか思えない最近の日本社会の劣化状況に於いても有為な若者たちが紛れもなく存在し凌ぎを削っている現実を見せつけて希望の芽を見出さずには居られない。これだけ良い作品が出来上がっているのは無論偶然ではない。新宿の小さな小屋で数々の優れた作品を上演して来、その演出を手掛け、歌舞伎町という世界を代表する不夜城の一つを観てきた経験からの観察眼と優れた洞察力、観察対象からの適正な距離の取り方と対応を通して得た諸々の情報を分析・統合して判断する力、そしてそれを適格に言語化する力それら総てが相俟っての結果、設定が絶妙である。物語が展開する場も適切。因みに登場人物は総て女性である。
 オープニングから暫くは、ホントにアホだよな! と呆れるようなアホな会話をするこのバーにやって来た客も登場する。が、近頃流行りのジェンダー論やハラスメントに関わる論議のうち今作で扱われるのは後者である。というのも今作に登場するのは総て女性だから直接的にはジェンダーの入り込む余地がないのだ。
掴みでは素人の占い師が、このバーで働く娘を占っている。この時に出て来たカードがタイトルにも用いられている死神、愚者、星であるが、タロットカードは正の位地から見る場合と逆の側から見るのとでは意味が反転する。そういったカードの持つ二面性をも極めて上手く織り込み、才能の弱肉強食の世界に生きる芸人やユーチューバーVS既存の社会体制の中である位置を占めて生きている女性たちとのギャップを今流行りのジェンダーとハラスメントのうち後者を軸に炙り出し、良くメディアで謂われる内向きの日本人達が作り出している現代日本の人間論をではなく、寧ろ未だに御家制度を内在化させたある程度裕福で実存と向き合わずに過ごすことが出来、一応御家制度内の人間として振舞っていれば人間として最低限必要なコミュニケイションの最低限迄欠落させても生きてゆける結果、一神教の世界では当然な神と対峙する人間存在としての実存を生きる必要が無い為、人間としての内実迄喪失した状態をも浮かび上がらせつつ(これが冒頭に出てくるアホな客であるが、このキャラの名誉の為に申し述べておくなら、現在彼女が身を置いているのは芸人の世界。然しこの世界に彼女が入ったきっかけは友人が勝手に彼女のプロフィールを書いて養成所に応募し試験も通ってしまったので同期とコンビを組むことになった、という経緯があった。然し養成所の先輩からコンビが売れないのは、この女性の所為だと詰られたのがきっかけで、相方は才能があるのに自分が足を引っ張っているせいで彼女を芸人として成功させることができない、と悩み、妙案も浮かばず頼ったのが占い。占いのペースは1か月に百件も占ってもらうレベルで肝心の稽古もすっぽかす有様。だが、それほど真剣に悩み自ら決めきれないことの中に御家制度が深く息づいているように思われる)そのような現状に対して、どのように対峙してゆけば良いのかの示唆迄与えている。前段でアホにしか見えないキャラとして登場するのが、この実存を剥奪され而もその事実に気付きもしない女性ということになる。自分自身はガキの頃から協調性に欠けるといつも通信簿に書かれ続けたキャラでもあるし、海外で暮らした経験もそれなりにあるので人間が実存として各々生きることが当たり前であるという価値観の上に立つから、己の生き様を己自身で決められないというのはアホにしか見えないのが取り敢えずの判断になる訳だ。とはいえ各々様々な人生があり、その人生を生きる他の術は無いから各々が自らの位地を占め尚且つより稔りのある人生にする為に力になるのは、矢張り他者とのコミュニケイションを於いてはあるまい。而も一神教の諸外国人に比し日本人の多くは最低限のコミュニケイションを紡ぐ方法を知らない者が多すぎるようには思う。今作はそのような日本の状況をあくまで個々の関りを通して浮かび上がらせているのみならず、その恐らく唯一有効な対処法を提示している。その点が素晴らしいのだ。
 どの演者も良い味を出しているし、役を生きている。観て本当に良かったと思える作品である。
氷は溶けるのか、解けるのか

氷は溶けるのか、解けるのか

演劇プロデュース『螺旋階段』

スタジオ「HIKARI」(神奈川県)

2024/07/26 (金) ~ 2024/07/28 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

 べし観る! 華5つ☆

ネタバレBOX

 オープニング時、飯場で響く重機の音、掘削音。その騒音の中、測量用の緑板やカメラを抱え現場に大声で叫び声をあげているのは、大峰興行社長の大峰隆平。然し工事の騒音で喋りかけている相手には殆ど通じない。が、ややあって社員の白神篤紀が社長の傍迄やってくる。然し彼の話す言葉も全く聞き取れない。そんなシーンが掴みとして提示される他、篤紀の母で経理・事務を担当する白神ゆかりが役所に提出しなければならぬ書類を持って自転車で登場するもいくら声掛けしても工事の騒音に邪魔されて届かない。業を煮やして体当たりと笑いを誘うなど掴みは喜劇ペース。
 板上センターには工事現場の立ち入り禁止フェンス。フェンスにも、路面に置かれた立て看板にも立ち入り禁止の文字が記されている他、上手には矢張り立ち入りを禁止する為のロープが張られ、コーン等も置かれている。オープニング早々、駆け込んで来た駿介が立て看に躓き倒してしまうが、そのまま通り過ぎる。
 この後場転。ホルモン焼き屋・たかまつの店内。この日は、大峰興行旗揚げの日。先ず登場する主な人物を改めて説明しておこう。大峰興行で経理・事務を担当する白神ゆかり、息子でこの会社で働く篤紀、篤紀の高校時代の同級生で腐れ縁、冒頭で立て看を倒した鏑木駿介、その妹瀬里奈。瀬里奈は兄に飲み代を届けに来たのだが、この日は新会社設立と大峰隆平の社長就任を祝っての飲み会とあって誘われ飲み会に加わる。物語は大峰興行関係者と会社創立6年目に起こった事件(工事現場の水溜に落ちて亡くなった5歳の古清水孝介くんの父母・徹及び朱里と祖父母・佐倉井剛・朋子らが織りなす子を失くした親の余りに深い哀しみと内省に欠け剣呑な母と娘(朋子と朱里)がその本来最も大切な人に与える悪影響。無責任で無根拠なSNS社会のネット情報が事件当事者達に与える諸影響、書き込みをする人々の悪気はない場合も事実確認を怠ることによる誤認と誤認情報の拡散によって実害を被る者達の有様が硬軟綯交ぜて紡がれる。当事者のうち子を失くした親として最も深く傷ついていると考えられる朱里は、然し乍ら自らの不明を内省によって気付くこともできない愚か者であるが、深層心理では自責の念から逃れる為に他者に責任を転嫁しようとする。これは、母親・朋子の軽率な判断に影響を受けていると考えられる。2人に共通しているのは先にも述べた通り内省出来ないという点である。事故であるから直接責任は無いものの、矢張り,胎児を流産で失くしたことから母として産んでやれなかったことへの無念や遣る瀬無さを抱えた瀬里奈は、兄が立て看を倒した後、直しもせずにその場を去ったことが事件の一因となったかも知れないとの念から古清水夫妻の痛みを何とかフォローできないかと様々な手を尽くすが朱里は自らの非には目を瞑り他者に責任転嫁をするばかりなので齟齬は決して埋まらない。このような朱里に対し夫・徹は瀬里奈の心遣いに感謝はするものの未だ息子を死なせたトラウマからは立ち直れていない。朱里の性格は先に挙げたようにその母・朋子の影響がありそうだが「見た目が総て」と言い張り恬として恥じないプチブル・佐倉井夫妻で手綱を握っているのはあくまで母・朋子だからであり、父・剛は一種のオームに過ぎない。無論、このように役柄による嫌悪感を演じている役者に対して観客が抱けるのは各々の役者が、役を生きる演技を心掛けているからである。
 そしてこの劇団の実に上手い処はラストシーンである。物にスポットライトを当てることで物を象徴として機能させるのだ。
 ラストシーンはグラスにピンスポを当てる。無論入っていた飲料は飲み干されている。自分は老齢で既に多くの眼疾を抱えている為、グラスに氷が残っていたか否かを視認できなかったが、物語の内容からは氷は残っていると考えられる。今作のテーマの答えにも繋がっているのは無論だが、この劇団の真の凄さは、今作に於いても作品の重しとなっているのは役者としては登場しない、亡くなった5歳児・孝介であるという点だ。孝の字に親孝行の孝の字を当てている。登場人物各々についても考えればこういった深読みが出来る名が幾つもある。脚本の良さを演出と役者陣の想像力と技能、そして人間性によって深い処から掬い上げ観客の目の前に晒す。これが出来ている処にこの劇団の力量と凄さがあろう。
BACHELEAN バチェリアン

BACHELEAN バチェリアン

FREE(S)

ウッディシアター中目黒(東京都)

2024/07/23 (火) ~ 2024/08/11 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

 フライヤーは気に入ったのだが。 

ネタバレBOX

 某大企業の次期継承者は、叔父がCEOを務める大企業の運営する施設の子供たち皆からも好かれる好青年、分け隔てなく誰とも話し而も一切屈託がない。心遣いが自然で差別や区別とは無縁の優しく温かい35歳の男。而も自分が大金持ちの親族で叔父から次期社長を譲られる位置に在りながら奢りがない。こんな男がもてない訳がない。そんな彼が素敵な彼女を見付けた。何度もデートを重ね3年が経ったある日、彼は彼女を打ち上げ花火が最も綺麗に見える場所に誘いプロポーズした。彼女も屈託のない、彼を心底愛し生涯を共にするに相応しい女性であったし、彼の真の魅力を魂の奥底から理解し共鳴してくれるような女性であると同時に何か困難があるような時にも靭さを発揮してくれるような可能性を感じさせる素敵な女性であった。その彼女はプロポーズを受けてくれた。その瞬間、打ち上げ花火が或る建物を誤爆してしまった。その建物の中にヤクザの事務所が在り彼はお礼参りに闇討ちされた際頭を強打され、結果記憶喪失症となってしまった。
 犯人は発見されず、時は過ぎた。叔父らは、会社経営に直結するこの事件を巡って対応を練った。その結果、今迄彼が付き合って来た元カノ全員を集め、記憶を失った彼が、改めて選んだ女性を彼の妻とする計画を思いついた。集められた女性は総勢11名。出会った経緯は様々で幼馴染から学生時代、社会に出てから等々で縁のあった女性達で何れも中々魅力的な女性達であった。この11名の女性の中で、記憶を失った彼が改めて彼が本当に好きになる女性が彼の妻の座を得るというオーディションである。このオーディションは大企業の選んだ優良会員向けに放映される。ルールは連絡を受けこのオーディションに参加した女性全員は、誰一人自分が元カノであることやそれが分かるような話を彼にしないこと。話した時点でその元カノは失格である。オーディションの行われる会場は沖縄にある高級ホテル、旅費、宿泊代他の費用は総て企業持ち。女性達の身の安全も企業サイドで保障する。
 セレクトは宿泊する日々に設定されたセレクションの為のイベントによって為されるが日を追う毎に条件は厳しくなる。当然のことながら 選ばれる女性達自身の合う合わないや、相部屋である場合には状態によって親しくなったりもする。恋のライバルでありながら同時に女友達としての関係も結び合う訳である。対する御曹司、モテる条件は総て揃っている男であるから自ら好んで離れたがる女性は居ない。その女性達の元カレや現地スタッフを務める男性の中にも魅力的なこれらの女性達に恋する男も出てくる。この傍流の恋が本筋の恋バトルに絡んで展開し、真剣に恋心を告白する傍流の男達の口説きに対しコクられた参加女性の答え、御曹司の応募者に対する真摯な応えが三つ巴の恋バトルとなって刺激的である。今作がドロドロの救いの無い作品に堕していないのは、恋を語る殆どの登場人物が真摯に相手に向き合った応対をしている点に在る。恋はある意味残酷である。だが選ばねばならぬ場合がある。その時、残酷を越えて唯一納得し合えるケースがあるとすればそれは互いに相手を心底思いやって対応する姿勢にしかない。今作で述べられる台詞には、それが在る。そのことが、今作を何処か爽やかな作品にしている原因であろう。
 ラストは、キャラ設定や展開から容易に想像できてしまうのが残念!
瀬沼さんのことを誰も知らない

瀬沼さんのことを誰も知らない

ライオン・パーマ

赤坂RED/THEATER(東京都)

2024/07/24 (水) ~ 2024/07/28 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

 板上は幾枚かの衝立で間仕切りをし、センターの衝立は真ん中が開閉できる。他の衝立は横向き、斜め向き等様々に角度を変えて配置され出捌けの際の袖ともなる。オープニングでは中央にラーメン屋慢々停のカウンターの背が見えるが、これは役者陣の演技が観客の真正面で演じられるようにされている訳で、演劇として当然のことだ。また下手手前のやや客席側には慢々亭の看板が見える。この間仕切りに用いられている衝立には各々文様が施されており、その文様は恰もジンベイザメの体表を揺らぐ海水中で撮影したようなもので中々魅力的である。尺は途中休憩約10分を含め150分余。ライオン・パーマは単なる喜劇を上演するという団体では無いから、今回も初演時とは大きく異なる展開を見せてくれる。無論、飛び道具としての瀬沼氏の存在感は今回も充分に表現されているが、一方共同体が成立し存続し続ける要件等も提示され物語に深みを与えている。尺は長いがスタッフの対応も良く諸所に配置された擽りや機能的に作用する脱臼の上手さに全く退屈は感じさせない。(追記7.28:04:20)

ネタバレBOX

 さて、問題は主人公、瀬沼のキャラである。30年前7歳だった瀬沼は2人居た。1人の名をアツシ、もう1人の名をジュンという。一卵性双生児の兄弟だった。父は父親失格のろくでなし、何かというと暴力を揮い、為に母は子供2人を抱えてシングルマザーとして暮らしていた。そんなある日、事件が起きた。荒れた海に出掛けていた兄弟の内の1人が行方不明となったのだ。街の者総出での捜索も空しく見付からない兄弟を探しにもう1人が荒れた海に向かった。そして、彼も一時、不明となった。暫く経ってから1人がずぶ濡れになって戻った。もう1人は? 不明のままであった。この町の住人は皆温かい。その住人達が総力を挙げて為した捜索が空振りに終わった。このことが住民たちのトラウマとなり悲劇のヒロインとなった母とその息子は間もなく町を去った。物語はその30年後、オープニングで出て来た、ラーメン繁盛店、漫々亭のカウンターで居並ぶ客たちを歯牙にもかけず悠々自適、スローモーと云うには余りに遅い遅々たるスピードで僅かに残ったスープと麺をそして叉焼を舐るように食べる男が居た。これが、アツシであった。悪評は瞬く間に広がり町はこの異様な男の出現に侃々諤々の大騒ぎ。
 ところで、漫々亭常連には面白いメンバーが居て彼ら彼女らは大方が最寄りの喫茶店の常連でもあった。このサ店のマスター草野は元高校教師。競歩の指導にも力を尽くしていた。現在もこのサ店でアルバイトをしているタカシが、競歩の有望選手なのである。更に現在も地元高校で教師を務めるライダーの女性教師杉本は30年前瀬沼兄弟のクラス担任を務めた小学校の教諭であった。そんなこともあって瀬沼兄弟のアツシとジュンを見分けられると豪語していた。他にも面白いキャラは目白押しである。タクシードライバーのコウジ。いつも一緒に居る幼馴染で役所勤めのカオル。元ラーメン店経営の高山は経営不振で店を畳み現在は全国のラーメン店を回って漫々亭に辿り着き、この店の味にぞっこん。大将のさくらいっしんに頼み込んで取り敢えず1週間の試用期間中に入手した全情報、注意点、改善すべき点などを最終日に一から仕込んで創ったラーメンを大将に試食させることで弟子にして貰えるか否かが決まる。
 また、この店に自分の小遣いを貯めては食べに来る猫舌の女子高生真琴がいる。シングルマザーの母奥村は町で唯一のスーパー・白川のパートタイマーである。物語の展開でこの奥村が、大将に気があるのではと町の人々がデートを設定する。出掛けたのは水族館、オブザーバー参加で弟子候補の高山、奥村の娘・真琴も参加した。
 話は変わるが、スーパーの店長・白川には入れ挙げているホステス・月子が居る。月水金は新たに入ったジュンが極めて優秀で感じが良く而もよく働くので遅番は総て彼に任せピンクムーンという名の店のNo1・月子の下に通い詰めている。面白いのは月子の如才なさで店長が毎回面白い話をしてくれるのが素敵、と店長の太ももに軽くタッチするとお返しに店長が必ず月子の体に触れようとする。が、その度にピンクムーン店長の矢島がいきなり席に入って来てブロックするのである。
 他にも面白いキャラは居る。全国津々浦々を回って限定販売をしているメロンパンの行商人などである。(この行商人、実は心を入れ替えた元DV亭主、この辺りも微妙。クスリ!)
 これら魅力的なキャラが換骨奪胎、思い掛けない脱臼を随所に仕掛け、伏線を回収しつつ、極めてスピーディーで要を得た場転で時に脱臼させ、時に伏線を回収しつつ滑稽でありつつ同時に‟人生の上手く行かないように上手くできている”構造を炙り出すと同時に、直ぐ誰の足下にも広がっており単に普段気付かないか、否気付かないフリをすることによって隠蔽している深淵を辛うじて渡ってゆく我らヒトの哀しさを示して深い。

ナイトーシンジュク・トラップホール

ナイトーシンジュク・トラップホール

ムシラセ

新宿シアタートップス(東京都)

2024/07/16 (火) ~ 2024/07/21 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

 現在の新宿と江戸時代のナイトーシンジュクを時代も場所も綯交ぜにし、表現する者達の業とそこに関わる飯盛り女たちの「恋」に纏わる手練手管とそのようにせねば生きて行けない社会的背景や何ら充実することの無い浮草稼業と世間には明かすことのできない疚しさが生み出す滓のような無限の侘しさ虚しさ、これらが飯盛り女たちの精神を内部から蝕む、刻一刻休むことなく。

ネタバレBOX


 それをそうと知りつつ己の業の成就の為にある意味遊び、或る意味身請けするほど真剣に戯れる男たち。(具体例として物語られるのは一九が追い掛けている小春と一九。東海道を西へお伊勢参りを一緒にしようと身請け話迄進んでいたのが、一九が小春に飽きてしまったことで一瞬にして崩れる等残酷な現実も描かれるが、小春も当初から一九を利用するだけ利用したら後はトンコを決め込む所存であったから、如何にも在りそうな話としてリアルな重しの役割を果たしている)何れも地獄を抱え地獄を抱える程度のことは単に登龍門への一里塚であることを重々知りながら不即不離、決して離れることのできないのも分かり切ったこと。而も生き抜き続ける為には滾々と自らの内から湧き出る創造の泉を枯らすことは許されない。
 以上のような創造する者の宿命を基本に綾なす恋模様を鏤め残酷な迄の離合集散をも突き放して描く。既に大成した表現者たちの持つしたたかさに対し、広重の恋は純愛に近い。カスミが入れ挙げているのはあくまでもキョウヤであるから広重を愛している訳では無い。而も彼女は自死してしまう。この手練手管と純情の対比も今作の美点ではある。然し幾つもの焦点を一作に詰め込んだ為、ギリギリの緊張感を伴いつつ収斂する構造にはなっていない。その点が今作の弱点でもある。
 登場人物は未だ殆ど無名だった頃の歌川 広重、広重が恋する飯盛り女・カスミ。葛飾 北斎、そのアシスタント・お栄、滝沢 馬琴(南総里見八犬伝など)、十辺舎 一句(東海道中膝栗毛)当時の出版社を経営した著名編集者・蔦屋 重三郎、編集者・竹内 孫八、カスミが入れあげるホストの名はキョウヤ。ホストクラブを経営するのは下級武士の娘で、広重の実姉。飯盛り女・カスミが体を売って稼いだ金は、押しのキョウヤの居るホストクラブに流れ、ホストクラブに流れた金はカスミに逢う為の資金として姉から広重に流れるという循環構造を為している。ところでキョウヤはカスミに冷たい。理由は彼は安楽亭 堂夏という噺家の大ファンで、それもネタにシュレジンガーの猫を振るような極めて特異な落語、当然一般受けはしない。堂夏には女弟子・志乃が居て彼女は二人落語(実質漫才)を提案したりする。様々な要素を分解、再構成しつつ現代と江戸時代を縦横に行き来する。然し根っこは硬派だ。表現する者として即ち創造する者としてまたそれに関わるプロとしての覚悟、地獄の処世をキチンと描いているからだ。一方、これらの生活が各々に齎す不如意、アンヴィヴァレンツや退廃、虚無感といったものも当然キチンと盛り込んで作品に厚みを加えている。
 別格の天才は北斎ということになるが、彼の台詞は重く説得力がある。同時に北斎のアシスタントを務めるお栄のプロ意識とリアルな現実認識も見過ごせない。
百こ鬼び夜と行く・改

百こ鬼び夜と行く・改

仮想定規

中野スタジオあくとれ(東京都)

2024/07/18 (木) ~ 2024/07/21 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

 板上は開演迄客席側に名前入りの提灯が十ほど置かれており、ホリゾンントには天井から床まで届く幕が等間隔に三枚掛かっている。蝉と蛙の鳴き声が喧しく聞こえている。蝉は油蝉等。

ネタバレBOX

 明転後、提灯は出演者たちによって持ち去られるので実質板上は殆ど素舞台の様相を呈するが場面、場面によって大木の根、小振りの岩(注連縄が張られた)等が置かれる。因みにラストシーンでは蝉の鳴き声にヒグラシの鳴き声が交じり季節の移り変わりと寂謬を極めて自然に而も効果的に示している。
 物語に登場するキャラクターは殆どが人間には見えない存在達である。(神、妖魔、妖怪等)が無論舞台上ではそのような衣装や被り物を付けた役者たちが演じているので観客は想像力の翔を広げていれば良い。舞台は過疎化の進む地域。大切な神社の世話をする者も絶えた。殆どの住人は老人でその力も既に失っていたからである。この集落に30代の男がやって来た。得たり、とばかり町内会長は新入りの神原一に集落の厄介事を押し付ける。右も左も分からぬまま神原はそれを引き受けることとなったが、ミッションは近隣住人が訴状を提出したことで具現化した。内容は神社境内に在る池の蛙たちの鳴き声が煩くて夜も眠れないから対応して欲しいというものであった。
 ところで、この訴状の意味する処は極めて深いものであった。何と通常は人の目に見えない妖怪・妖魔・物の怪等不可思議なものたちが関わっている可能性が浮上してきたのである。当初神原は蛙たちの住処である池に礫や石を投げて蛙撃滅作戦を採っていたが池の中から人の言葉を喋る蛙が現れた。そして訴えたのである。「石を投げないで下さい」と。神原は無論驚いたが話をしている内に自らの非を認めて謝り、雌だと知れた彼女に名前を与える。即ちそれ迄亡羊とした存在であった彼女は特別に聖別された存在となったのである。こうして彼らは友となった。この蛙を通して神原は位も高く力も強い妖怪やこの神社の主・要石らと面会する。要石を中心とした九尾の狐、河童、酒呑童子、烏天狗、鉄鼠らが真相を突き止めようと総がかりで調査した処、何と人間の欲望を差配する神・第六天が蛙の喧しい鳴き声を始め近頃頻繁に起こる天変地異の原因を為していることが分かった。因みに第六天とは仏教用語で欲界六天の最高位に位置し魔王と解されることもある神である。この第六天が人間が自然の摂理を破壊せぬよう心を砕き善導し続けたにも関わらず人間が愚かの限りを尽くし挙句の果てに自らの傲慢と愚かさ故に自然の摂理を破壊し続けてきた。既に殆ど取返しの付かない処迄きたというのに一向その愚行を改めようともしない。神は己の不死を賭けこの愚行と対峙するに至ったのであった。その結果、猛烈な雨や嵐がこの地域をも襲うこととなった。要石とその仲間、神原、蛙、町会長らが第六天が神木としてこの神社に立っていた頃とは異なり太い切り株を残して無残にも伐採されて以降、その無体、人間どもの想像力の余りに残酷な迄の欠如に対する怒りや不条理、虚しさ、侘しさ、底なしの絶望が生み出した怪物と戦うことになる。この時九尾の狐は嵐の只中で咆哮するが、その咆哮は狼がその高い誇りと命を賭けて鋭く気圏を切り裂く咆哮にも似て神々しいばかりだ。
 役者陣の熱演、想像力を刺激する脚本、田中正造ではないが、真の文明とは山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるものだと言うことが訴えられていると言うことが出来よう。
カズオ

カズオ

世田谷シルク

アトリエ春風舎(東京都)

2024/07/13 (土) ~ 2024/07/15 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

 舞台美術は極めてシンプル。ホリゾントに衝立を設け場面によってその中央部分を開閉することができる。閉まっている時は、袖を形成することになる仕掛けだ。出捌けは袖両側とセンターの3か所。板中央に横長のテーブル。奥に椅子2脚、手前にベンチ。尺125分。こなれた演技だ。華4つ☆(追記8.2 )

ネタバレBOX

 2人の役者が十二役を演じるのは脚本自体がそのように組み立てられた作品だからであり、役者の技量、早変りの際の手際など役者のテクニックを観客に見せるタイプの芝居がコンセプトだと感じたが、であれば主要な要素であるタップダンスシーンでは、キチンとタップを刻んで欲しかった。タップの基礎を何度スローモーに繰り返してもタップダンスの切れの良いリズミカルな高揚を観客は味わうことが出来ない。利賀村の演劇フェスにも参加しているらしいから実力派なのだろう。それはこなれた演技からも充分分かるが、であれば猶更キチンとタップダンスを見せて欲しかった。率直な感想である。
 物語は銀行支店長を勤める父が偶々駅でカズオという男を拾い家へ連れてきた。カズオは息子の家庭教師となりいつしかその母と男と女の関係を持つようになった。母はカズオに入れ挙げて様々なブランド品を貢ぐようになり父が家庭の資産管理をもして居た為、母は貢物を買う金をサラ金から借りていた。その額総額300万円。この件に気付いた息子は狂言詐欺を思いつき、自分は誘拐されたことにして身代金を要求するが、上手く行かなかった。そこでモデルガンを買い込み、友人と父の務める銀行を襲う。無論強盗する為である。然し12歳のガキ2人の稚拙な犯行、忽ち取り押さえられてしまった。父は銀行を止めタップダンサーになった。その顛末が描かれたのが今作という訳である。
授業

授業

劇団ゆらじしゃく

シアターシャイン(東京都)

2024/07/14 (日) ~ 2024/07/15 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

 イヨネスコの「授業」は世界中で未だに再演され続けている不条理劇の傑作。今回ゆらじしゃくの演出を担ったのは劇団主宰者でもある高野さん。イヨネスコの脚本に内在しているフロイトの深層心理解析的視座からより、現在の我々の生活により密着した視座からの演出が為されている。(追記後送)

朗読劇 夏月夜十景

朗読劇 夏月夜十景

エムズクルー

新宿眼科画廊(東京都)

2024/07/12 (金) ~ 2024/07/16 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

 ベシミル! 最高レベルの朗読劇。脚本、演出、物語展開の機序、役者陣の実力、舞台美術、照明、音響も見事であり、各々が上手く噛み合って楽しめる。華5つ☆。尺は約90分。

ネタバレBOX

 開演前には何と憂歌団の曲が流れていた。大好きなバンドなのでいきなり引き込まれる。それにしても何とセンスの良い曲たちであることか! 釜でしか生まれなかった本物のブルース。流石に音響も劇場用とあって細部の音までクリアに拾っており、自分の部屋で聴く安物の音響装置では味わえない音色だ。先ずこれにイカレタ!
 明転するとこの鰻の根床のように細長い空間を、演者に京都ゆかりの方がいらした所為かとても上手に用いていることに感心させられた。舞台美術はホリゾントに衝立を設けて袖を拵え、上演中には溜まりとして用いつつ、出捌けに使われる。床几形式の椅子は格子になっておりベンチ式に用いたり、片側の足を床に立てて用いたり、予め設置してある木柱二本の各々と組み合わせて全く別の構造物を作り出したりと千変万化。天板の丸い椅子三脚も各々高低差があって朗読する演者が座ると声の位地が自ずと変わり微妙な声音の発生源の位地がずれて極めてポリフォニックに響く。劇場長辺側には行燈に見立てることのできる朧な照明が灯っているが作品に応じて総ての小道具のレイアウトは適宜変化する。
 この際のセンス、場転のスピード等も見事だ。また噺の内容によって擬音効果を巧みに用い臨場感を盛り上げるのも、ハッシと叩いて噺を進める手際も見事、祭囃子で音響を用いる以外、殆どは演者自らが小道具を用いてこなす。用いられる器具は按摩の用いる女笛からチベット仏教の仏具、波音を発生させる道具等々多用であり、実に効果的に用いられる。
 構成も巧みでかつては良く行われたという怪しげな者達の登場する百物語のような作品群から選ばれた短編数編及び劇仕立ての世話物長編二編。演者は何れも芸達者、声量も適宜で間の取り方が見事なので演じられる個々の作品総てに命が宿り極めてヴィヴィッドに迫ってくる。最高レベルの朗読作品群である。
駈込み訴え

駈込み訴え

中瀬古健

MUSIC BAR道(東京都)

2024/07/05 (金) ~ 2024/07/07 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

 ベシミル! 迫真の一人芝居だ。力量のある役者にしかできない。追記した7.8 8時39分

ネタバレBOX

 言うまでも無い。太宰治の作品である。演者は中瀬古 健氏、一人芝居だ。演出は望月六郎さん。観客席正面に設えられた板は高座仕立ての台。この奥に流し。上手が出捌けのドア。シーンによって台上に机の機能を果たす小道具が置かれ、講談の高座のように時折、机を叩きながら演じられるが、このシーン以外で机状小道具は床に置かれて邪魔にならない。下手側壁には台詞の一部であろうか? 何ごとか書きつけられた紙片が数枚貼られている。作品内容は極めて重い。というのも太宰がその作品を書き、発表した時期を振り返ってみると日本が絶えず戦争をしていた時代と敗戦後のごく僅かの時代、最も激しい混乱困難の時期である。今作は、キリストとユダの関係を描いた作品であるが、このユダの屈折は、戦時中に共産党シンパとして活動し関連雑誌を広く買い集めては人々に配布したりもしていた太宰が、言ってみればマルクスの基本的には人間理性を信用し、その上で未来に賭けた共産主義の理想に共鳴して特高の監視が常識であった時代に反体制の運動に関与し、後それを「裏切る」形になった自らの在り様に心底震え戦き悩殺されたであろう原体験を基に書かれた作品と解釈することが可能であると考える。太宰に関しては道化の意識などということが良く言われることは承知している。然し道化は道化でも「リア王」に登場する道化の台詞の刺さること、刺さること。この台詞が太宰のような弱そうで強靭な神経を苛んでいたとしたら? それこそが、今作の肝だとしたら? 華があり、一挙手一投足の隅々まで気の充溢した役者・中瀬古 健氏ならではの迫真の舞台である。
 こう述べただけでは分かり難いと思う読者も居るであろう。補足しておこう。太宰が己の苦悩を重ねてユダを描いたのであるとすれば、それはどのようなレベルに於いてであろう? 自分は以下のように考えたのだ。それはアイデンティティーとアイデンティファイの間にある落差に蜷局を巻いている矛盾に在るのだと。即ち共産主義思想に賭けようとし、幻滅して離れた己の思想行為は己の内面に於いては納得し得る論理的帰結であったものの、世間的には非合法だったと考えられるマルクス主義関連雑誌等を購入して配布したりしていた訳だから、受け取った者が感化され非合法であったであろうマルクス主義的思想に染まっていったとすれば現実的に逮捕・拘禁・拷問を含めた自白強要等々の処分を受けることが容易に想像できる。その思想を選んだのは個々人であるにせよ、そのきっかけを作ってしまった事実は消せないから人々から恨みを買い、論理的必然としてアイデンティファイはし得ないということになる。このアイデンティティーそのものに纏わる二層構造の間の矛盾を賢明な太宰は極めて深く、而も良く判っていた。その塗炭の苦しみを中瀬古 健氏はその一挙手一投足を演じる際の強弱や間、キリストを演じる際のどこかしなやかで地底に於いてもほの明るさを見せるような雰囲気を纏って演じることで決してブラックではないユダ、而も同時に影のように拠り所の無い朧であるが故に果てしの無い苦悩という酷い苦悩に苛まれる者の底無しの深さをも体現して見せていたのである。
 当然の事ながら今作には明確な回答等無い。掛かるが故にユダの訴えが有効性を
持ち得て居るのであり、文学として残り続けているのである。それが意味する処を現在日本で身体化したことの意味は大きい。
BOX IN THE WORLD

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T1project

新宿シアタートップス(東京都)

2024/07/03 (水) ~ 2024/07/10 (水)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

 本日はsideAを拝見。面白い。ベシミル! (追記7.8 9時44分)

ネタバレBOX

 さて、今作のテーマはidentityである。ではアイデンティティーとは何か? 即答できる人はそう多くあるまいから、一応自分が考えるその定義らしきものを記しておく。アイデンティティーとは即ち、或る個人が己の内的世界に於ける存在の意義を自己矛盾無く措定し得る状態である。と同時にニンゲンという存在は漢字で書くと人 間。これはヒトという生き物が他者との関り無しに生きて行けない生き物であり、生きてこれなかった生き物であるという人間個々の他者との関係を必須とした存在形態を現していると解釈することが出来る。換言すれば、先に述べた通り己自身の内部での矛盾無き統一が、その個人と関係する社会と矢張り矛盾なく統合され遅滞矛盾なく機能し合うことである。これが為される状態がアイデンティファイされた状態だと考える。従ってアイデンティティーという言葉が日本で用いられる場合、人間存在に不可分の社会的関係を含む二層構造の矛盾無き統合を含む概念と捉えるということだ。
 板上レイアウトはsideBとほぼ同様、無論話の内容は異なる。時期設定は近未来。社会はエリート層と下層民社会に完全に分断され下層民は差別され権利もへったくれも無い有様。大学を出ていようが様々な資格試験に通っていようがそれが既に時代遅れの技術であれば雇用サイドから顧慮されることは一切ない。当然仕事にも就けない。正社員になれる訳もなく派遣等でも職にありつけば良い方である。そんな時代、大学を出て正社員として就職、懸命に働いたものの首を切られたまゆみが、この得体の知れないエリアに吸い寄せられるようにやって来た。電話機の取り外された電話ボックスから何者かが話し掛けてくる。それは彼女の痛い処を突く言葉の群れであった。それは彼女の仕事に対する上司即ち社会の評価であった訳だ。当然、彼女は面白くない。オープニングで凡そこれだけの情報が与えられる。そして次々に他の人々が寄ってくる。その各々がこの場所に吸い寄せられたかのようにも、惑星直列が在る確率で必ず起こるように何か或いは誰かに吸い寄せられるかのようでもある。集まった者達は三種類の存在だ。一つ目はエリート層、二つ目は下層民、そして三つ目はバグともいえるゾミア的存在。
 因みに此処に関わる登場者はエリートとしてのAI(はぐれ者を含む)、普通の人間、そしてデータの無いコンピュータ上ではバグとして認知されるであろう、非存在的存在。これら三つの要素が矛盾なく同時に同空間に存在する必然性を探り回答を得ることが今作で為されていることである。既に惑星直列の件である確率でそれが必然であることは説いた。その謎が明かされてゆくのである。近未来、人間の開発したAIが人間の能力を凌駕しヒトをその支配下に置くという懸念はITを用いていることが当たり前となった昨今誰もが抱えている漠然たる不安である。今作で登場するAIたちもヒトとそっくりの姿形はしているが情報に基づいて作成されたイマージュに過ぎない。(そのイマージュを演劇だから本物の人間が演じているだけである)その実際にはイマージュに過ぎないが世界を統御するエリートとして機能している「存在」と実際の人間即ち下層民、そして不確定要素を表すゾミア的人間(データ無し)が一堂に会する必然性とそのことをエリート層が気にかけて介在してくる理由とは何か? が今作の面白さである。答えは分岐点だ。その分岐点で最上の登場者の誰かが最上機種AIであることが判明するが、全能のそのAIがニンゲンに対しどのように振舞うか? がこの全能の絶対者の判断に委ねられる。してその判断の結果は? 愚かな欲望の為に愚行を繰り返してき、人類などと呼称するには大きな矛盾を感じざるを得ない人類にどのように振舞うのか? 滅亡? 或いは? その結論を出すに至った全能の存在の内実は? 今作では敢えてその解答を表現していないが、観た者には明白であるように思われた。
【延期公演開催】エアスイミング

【延期公演開催】エアスイミング

演劇企画イロトリドリノハナ

小劇場B1(東京都)

2024/07/04 (木) ~ 2024/07/07 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

 演出をも担当の森下さん、共演の室田さんお二人が一所懸命に作品と格闘して練り上げた秀作、ベシミル! (追記7.7 17時11分)

ネタバレBOX

 舞台美術は極めて洗練されたお洒落なもの。板が客席に”」“状に囲まれていることは周知の通りだが‟」”の対面の出捌けのある辺をAとし時計回りにB,C,DとするとA辺の手前に流し、流しの下にバケツ、その手前に塵箱、壁に沿って右側にはタオル、バスタオル、場面によって毛布等布製品が置かれた三段の棚、更に右側の壁手前には、デッキブラシ、箒、はたき、モップ等の清掃道具がキチンと収納され立て掛けてある。B辺の手前、C辺寄りの壁には茶系の色をしたベンチ(上蓋が開閉式になっており、場面によって小道具を出し入れできるようになっている)。板中央には船型の浴槽、当然その脇には蛇口が設けられており、湯水ケアの為のマットが敷かれている。また。C/D辺のコーナー。D/A辺のコーナーには丸い天板の木製椅子が一脚ずつ置かれている他、D辺の端客席の段には手摺の付いた階段があり、二人の収容者が一日のうち最も自由に行動できる掃除時間に掃除をする対象になっているエリアがある。因みに壁面の模様は下部に蒼穹を思わせるブルー、上部はタイル張りを模し空に浮かぶ自由自在に姿を変える雲を想起させる白。而も各升目は小道具の出し入れができるように開閉式になっており、出し入れの際には暖色系の色が付く。ここから取り出される小道具にはウィッグ、水泳に用いるゴーグルや帽子、シャボン玉を作る為の液体の入ったコップにストロー、ペルセポネーがドーラに贈ったプレゼントの撹拌機等の小道具が取り出され収納される。因みに下段の壁からも泳ぎの補助浮き輪に見立てたフラフープが出し入れできる細工が施されている念の入れようで、極めてセンスの良い、而も繊細で1924年当時の英国で実際にあった触法的精神病患者として収容された良家の子女であった被収容者の、現在の常識では考えられない半世紀に跨る理不尽極まる拘束という有様を可視化した。{実際の収容所は昏く陰湿であったであろうと想像される現実とは裏腹に異常とされた収容原因ペルセポネー(ポルフ)及びドーラ(ドルフ)のケースが描かれる。}ペルセポネーは妻帯者と恋に落ちて子を産み社会的不適合者としてこの収容施設に送り込まれた。ドーラは葉巻を嗜み、過度に男性的態度を取ったことが触法とされ今作の物語が始まる2年前の1922年から収容されている。因みにペルセポネーはドリス・デイの大ファン、ドーラは読書好きであり軍隊についても詳しい為、ペルセポネーの入所以来、先に入隊し階級も上の古参兵が後身に指導するという形で人間関係を形成してゆくが、触法精神病患者として収容される人々には女性が多かった。理由の一つに女性でありながら賢明であることなどが理由になった。このような歴史的背景を鑑み白いタイルの一部に触法的精神異常とされた人々の守護聖女・ディエンプナの肖像が飾られている。(今作で物語られた内容では、彼女は父にレイプされた結果子を孕み而も出産した子を実父に殺され自殺した女性であるとのこと。自分の記憶に間違いが無ければ10世紀頃に実在した人物であるという)
 ところで、自分はあらゆる芸術作品は解釈によってしか延命し得ないと考えている。今作の舞台美術も演出をも担当した森下 知香さんと共演の室田 百恵さんお二人の作品に係る長く真摯な討論を踏まえて“実際に精神を病んでいた訳でも無い二人の女性が上流社会で社会的恥と見做されていた価値観に抵触したというだけの理由で体面を守るという利害関係のみから娘を精神異常者と見做し収容施設に強制的に送り込んだ親や親族たちの「狂気」をこそ断罪した作品である”と人間として考え、作品の深い社会的闇(ジェンダー、宗教、習慣、世間体、常識及び精神異常というレッテル貼りによる強制排除の実態と被収容者達の拘禁故の様々な症状発生等々の被害者独自の精神的変異や、その時々での彼女らの内面を表象する重要アイテムの一つとして、このように実にキチンと整理整頓され、而も子供たちがウキウキして外で遊びだしたくなるような晴天と紺碧の海そこに浮かぶ白い雲をベースにしたような壁面の色彩。水辺に出、それこそ宇宙遊泳にも似た水泳感覚を、より宇宙遊泳に近いであろうエアスイミングで実現させていた、ペルセポネー、ドーラ二人に代表させた触法的精神異常者とされた多くの人々を文化的にもサポートする為に敢えてこのように明るく繊細で気持ちの晴れる美術にしたと解釈できるとする次第だ。
脚本と一所懸命に格闘したればこその、この爽やかさが選ばれていようが、この爽やかさを壊さぬように而も社会そのものの異常性即ち「狂気」を炙り出すことに成功した二人の女優(演出も担当した森下 知香さんと室田 百恵さんお二人の演技も称えたい)も今作の魅力である。
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T1project

新宿シアタートップス(東京都)

2024/07/03 (水) ~ 2024/07/10 (水)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

sideB-existence-を拝見。T1projectらしい心に響く作品。ネタバレは全開にはしていない。観劇の興が醒めかねないからである。終演後に追記する。

ネタバレBOX

 板中央よりやや下手に電話ボックスらしき物があるが、電話機は見えない。このオブジェ奥に大きな衝立。衝立の端迄が袖となり、出捌けはこの1か所衝立の手前にはビールラックのような物が3個(うち2個は重ねてあり、その横にもう1個が置かれている)、下手側壁奥にはエアコンの室外機の機能部分を取り外した物が2段重ねにしたビールラックを挟むように置かれている。上手ホリゾントの手前にも矢張り下手の物と同様にエアコン室外機の樹脂製枠が置かれ地面に接する辺りには申し訳程度の緑が見える。上手側壁近くには四角いオブジェからにゅっと棒が斜めに突き出したような物がある。また上手客席の縁には土嚢のような物が置かれている。
 開演前には、都会の喧騒音が流れている。オープニングと同時に電車の通過音、続いて激しい衝撃音が木霊する。
 と男が独り現れ、意味不明な独り言を呟きだす。何故か混乱し、苛立っている模様。男には何かが聞こえているらしいが、幻聴であるのかも知れない。かなり長い独り言の内容からは、男が婚約者に訳も説明されぬまま絶縁を迫られたらしいことが分かる、男には婚約者が総てであった。そこへ別の男が現れる。新たに現れた男は、極めて理屈っぽく独り言を呟いていた男が幻聴を聴き、妄想に混乱しているのではないか? との疑義を提示した為追っ払われてしまった。その後、この場所には次々に様々な人物が流れ込んでくる。奇妙なことに後で流れ込んで来た人物たちからは、同じ地下鉄に乗っていた人だという既視感が告げられる。何故、人々は此処へ来たのか? ここは何処でどんな場所なのか? 等は当初一切分からない。そのうち最初の男が聴いていたのは明らかに幻聴ではなく、電話機の取り外された電話ボックスから着信音が聴こえ、実際に対話者が居るらしいことが、徐々に分かってくる。何となれば後でやって来た人々、一人、一人に対しても電話が掛かってきたからである。個々の発信者は各々の最も大切な人であった。
迷子

迷子

WItching Banquet

Half Moon Hall(東京都)

2024/06/27 (木) ~ 2024/07/03 (水)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

 ベシミル!

ネタバレBOX

 Musicalは基本的に余り好みではない。何となれば大抵戯曲の内容が余りにも単純化されてしまい、内容的に深みを欠くケースが多いからである。脚本重視の自分はこれが原因で好みではないのだ。然し、今作は例外であった。曲想、歌詞、生演奏が物語の内容に見事に調和し恰も演劇そのものに溶け込んで融和しているかのようであったからである。演劇の醍醐味と音楽の素晴らしさが相互に高め合うような効果を生み出していた。戯曲自体の良さも無論のこと、役者陣の演技も何れ劣らぬ良い出来である。
 舞台は、小さなホールだから余計な装飾は一切ない。位置と高さの異なる板をその1枚、1枚が踊り場となるような塩梅で配置されている。それだけであるのが良い。客席は“」”の形で組まれコーナー部分が通路になっている。場面によっては役者の通路ともなる。
 登場する演者は都合6名。長男・堅一(東京で勤め人をしているが、母の治療弟の面倒見などで有給休暇を取って帰省中)、香子(母、堅一が大学に入学して東京で暮らすようになって以来精神を病み統合失調症を患っているが、薬を飲むことを拒否しがち。理由は家族を守る為の通信が聞こえなくなるから)真紀(偶々、夕陽の綺麗な場所で母が消え入りそうな様子の真紀を見付け連れ帰った元ホステス、アルコール依存症で息子が1人居るが離婚した夫に子供の親権を奪われた。原因はアルコール依存による育児放棄)次男・智哉(既に体は大きくなって大人並みだが知的障害を持ち知能の発達は小学校1年生程度。言い出したら聞かない、アニメのヒーロー・ジャスティスが大好き)、お手伝い・登紀子(通いのお手伝いさん、極めて有能で気が利く。長い間この家に務めていることとてきぱきと仕事をこなし而も人情の機微を良く弁え母の悩みの受け皿、弟の遊び相手やだ駄々を捏ねた時の調整役すら最も見事にこなす賢婦人。こんな人なので家族全員から信頼され家族同様の扱いを受けている)Voice(母が薬を飲んでいない時、その妄想の具現化を表象する存在、夢幻能の片鱗を感じさせるようなキャラであり、母の幻聴とその苦悩の深さ、異様性をも表現するように見える)
 さて、物語の粗筋をざっと記しておくと、真紀の居候している大きな家は地域の資産家のお嬢様であった香子の持ち家、夫は香子と智哉2人の世話に疲れ果て堅一を呼び戻す為に「お前のせいで母はこうなった、面倒を見ろ」と連絡した後、失踪。行方不明である。真紀自身は努めて明るく振る舞い、智哉のお気に入りにもなったが、近いうちに5歳になる我が子のことがずっと気掛かりである。因みに息子を連れ去られて半年、自分が病院に搬送されたのは4歳になっていた息子が隣家に連絡をして救急車を呼んでくれたからであった。アルコールを断ち、現在も飲みたい強い欲求に何とか抗っていられるのも息子を思えばこそである。一方堅一は、こんな真紀に心を惹かれている。然し現実問題として薬を飲むことを隙あればスルーする母、スルーすれば幻覚症状に襲われることが分かり切っているにも関わらず油断すればいつ何時スルーするか知れない母と知恵遅れの弟を抱え、家族同然のお手伝いさんを解雇することも憚られる中、経済的合理性からもこの屋敷を売り、自分も東京の勤め先に戻って母と弟も東京で施設に入れることが最適ではないか? との考えにも中々最終決断が下せない。余りにも優しい性格なのだ。そんなこんなで家族全員と居候1人が全員、悩みに打ち沈む中、唯1人日常生活目線で合理性を発揮し先導役を務めるのがお手伝いの登紀子である。今作の成功要因は、この人間関係のバランスにあると同時に登場する人物総てが全き善人であることだ。Voiceは謂わば影の存在なので当然物語レベルでのリアルには含まれずその影を含めた全体の雰囲気をフォローしていると考えて良かろう。
 以上に挙げた今作の特徴を用いて何が為され、何が為されなかったかについて検討してみることにする。為されたことは、どの存在も他の存在を浸食しない点にある。即ち完全にヒトとして同等なのである。為されなかったこととは、優生保護法に在った本質、即ち有益・無益、有用・無用といった区別を根拠にした差別が一切無いことだ。現実にはあり得ないかも知れないこのことこそ、今作を優れた作品足らしめた要因であろう。各々の思いが全編を満たし現実には在り得ないユートピアを実現してみせた。これもまた芸術表現の力である。

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