各団体の採点
古典とされる戯曲や伝統芸能の題材を「現代版」として上演する際、もっとも陥りやすい誤謬は、その物語をより親しみやすく、簡単に解説することこそが、すなわち「現代化」であると思ってしまうことだと思います。
木ノ下歌舞伎版の「黒塚」もまた、もとの歌舞伎舞踊の展開の飛躍を心情的に補足し、より分かりやすくドラマティックな仕上がりを目指したものでしたが、同時に、この作品が所作(そのものは本家に及ばないにしても)の、一足一足を見せる「舞踊劇」であるという前提をしっかりと踏まえていることに好感を持ちました。
劇場の設備(箱馬等)をそのまま使って、作られた山(庵)の装置には多くの段差が仕込まれ、そこを上り下りする身体、またそのための時間が、主人公・岩手の心情表現に豊かに結びついていきます。岩手を演じる武谷公雄さんの好演と巧みな空間設計は、確かに現代の小劇場の世界に「舞踊劇」の伝統を浮かび上がらせるものとなっていました。
『黒塚』は昭和14年に発表された、比較的新しい歌舞伎作品なんですね。4人の僧たちが人里離れた一軒家に一晩の宿を求めます。老女が迎え入れ歓待してくれますが、なんと彼女は鬼だった…という歌舞伎らしい物語です。監修・補綴の木ノ下裕一さんと演出・美術の杉原邦生さんが、終演後のトークで作品解説をたっぷりししてくださったので、理解も深まり、木ノ下歌舞伎という団体への好感度も増大しました。以下、そのトークで知ったことも踏まえた感想になります。
木製の箱を組み立てた抽象美術でした。客席が対面式で中央に大きな柱があるため、席によっては見えないところもありますが、バランスの良いステージングだったので全く気になりませんでした。客席双方の死角になる部分もうまく使い、「見えないこと」も利点にした巧みな演出でした。カラフルな照明、意外な選曲、マジカルな場面転換は芸術的で娯楽性もあり、遊び心も粋です。
歌舞伎の台本どおりのセリフ、歌舞伎台本の音の数に現代口語を当てはめたセリフ、そして現代口語のセリフという合計3種類の言葉を混合し、現代人である観客に歌舞伎本来の魅力をわかりやすく伝えてくれます。まず原作の舞台を完全コピーする稽古をしてから、それをもとに新たに作り上げるそうです。だから俳優の足取りに重みがあり、言葉に説得力があるのだと思いました。
老女を演じた武谷公雄さんが素晴らしかったです。隅々まで意識が行きとどいた所作や表情のひとつひとつに深みがあり、ただ立っているだけで迫力がありました。すすり泣きをしても凄い形相で激昂しても、ひとときの感情におぼれることなく、常に自身をコントロールされています。じわりと足を一歩進めるだけの動作が歌舞伎の舞に見えた時、背筋がゾクっとしました。
客席が背もたれのない小さなイスだったせいもあると思いますが、1時間30分はちょっと長く感じました。もともと劇場ではなかった小空間での上演でしたので、もし再演があるならいわゆる劇場でも観てみたいです。
歌舞伎の黒塚をしっかりと学習し、その上でまったく違う黒塚を描きだすというその手法は巧み。
今回の黒塚という作品は歌舞伎では踊りがメインの作品。しかも歌舞伎の様式美とダイナミックさがあり、大きなステージでこそ生きる作品である。小劇場で現代版に生まれ変わらせるには大変困難な作品だと思われる。その作品にあえて挑み、これだけのクオリティのものを作り、歌舞伎の黒塚のファンの人でも納得するものを生み出す創作力は脱帽。
今まで何度かチャンスがありながら、今回木ノ下歌舞伎を初めて見たということを残念に感じたほど。これからも見続けたい団体だ。
原作歌舞伎の世界観を壊すことなく、丁寧に余白を埋めて、現代に通じるお芝居にしていました。
たとえば花組芝居のように女形が登場したり、衣裳が豪華絢爛だったり、歌舞伎のビジュアル要素を用いるのではなく、歌舞伎の本質をポップな現代演劇にして伝えてくれたと思います。
役者さんは皆さん素晴らしかったです。
特に老女岩手を演じた武谷公雄さんの技術は非常に高いと思いました。
照明も音響も音楽も転換も良くて、あの小さなスペースで組み立て式のセットでも、十分に歌舞伎作品として味わえました。
実際の歌舞伎では、メインの俳優以外の俳優はリアクションをしなかったりするので、現代劇に親しんでいる私は、最初はその方式に馴染めませんでした。
でもこの作品では、俳優それぞれが舞台での出来事にちゃんと反応していたので、違和感なく拝見できました。
原作の完全コピー稽古をやると聞いて、びっくりしました!
歌舞伎は所作やセリフの抑揚も独特ですから、体得するために相当なお稽古をされたのだと思います。
完全コピーの通し稽古をUstreamで配信したそうですね、見たかった~。
終演後のトークも、90分やってもらってもいいぐらい面白かったです。
公式サイトにアップされた木ノ下裕一さんのラジオ番組風(笑)、音声ガイダンスも聴きましたよ!
驚きの快作。
これまでの木ノ下歌舞伎の実績からして期待値は高かったけども、十六夜吉田町スタジオという小さな空間で、こんな派手なエンターテインメントが観られるとは想像していなかったこともあり。なんといっても、鬼婆を演じた武谷公雄の演技があまりにもダントツに群を抜きすぎていた。今、これを観ないでどうする?、という気持ちになり、初日に観たにも関わらず、次の日もまた当日券で観てしまった。さらにその後もまた当日券に並んでみたのだが、あまりにも人が満杯なので、キャンセル待ちの券を他の人に譲って(多くの人に観てほしかったから)泣く泣く諦める……という始末。
『黒塚』はどこかで耳にしたことのあるようなシンプルな物語である。この、いわゆる「現在性=アクチュアリティ」がほとんどないはずの作品に、いったいどうしてそこまで惹きつけられたのか? しばらく考えていた(それだけ舞台のイメージが残留する力も強かった)。
ひとつは、ジャン=フランソワ・リオタールによって「大きな物語の喪失」と言われて以後の、日本の若者たちの「物語れなさ」という深刻な問題……要するに、自分たちの「今ここ」の閉塞感を何らかの形で訴えるより他に方法がない、という問題があったとわたしは思うのだが、それに対して、近年の文脈(労働問題、震災と原発……etc.)をあえて無視して、古(いにしえ)に眠っているシンプルな物語を力強く持ってくる、という方法を採っていたこと。『黒塚』は単にかつての黒塚伝説を掘り起こしただけではなく、さらに他の「眠れる無数の物語」の力を現代に亡霊のように蘇らせ、それによって観る人たちの心を揺さぶることに成功していたと思う。それは歌舞伎版の「黒塚」をただなぞるのではなく、元の黒塚伝説の様々な異説を主宰の木ノ下裕一が調べ、それをもとに演出の杉原邦生がエピソードを付け加え、全体を再構成した、というところに拠るところが大きい。彼らが挿入したエピソードに、日本にかぎらず、ギリシャ悲劇などにも見られるような普遍的といっていいようなモチーフがあったことで、物語一般(様々な物語)を感じさせたのだろう。
だがそれは一歩間違うと陳腐な「よくある話」になるという際どい試みでもあったはずだ。それを救ったのは、やはり老女=鬼婆を演じた武谷公雄の存在だろう。かつての「特権的肉体論」に比べてひ弱であると(たぶん)されてきた現代の俳優の中から、圧倒的な技量を持った存在がついに現れたという感じがした。武谷はモノマネの名手でもあるのだが、そのモノマネの技によって、かつての名優の幻影を突破したのではないかとも思う。(詳しくは、6月末発売の「ele-king(vol.10)」という音楽雑誌に書きました。宣伝みたいで恐れいります。)
杉原と木ノ下のコンビは、アフタートークでも夫婦漫才並みに息の合ったところを見せており、この完成度の高いトークもまたこの作品の魅力のひとつと見なしていいと思う。ただやっぱり作品そのものの感動だけで退出したかったかも……と感じた人もきっといたはずなので、作品が終わってからトーク開始まで、もう少し時間を設けてもいいのでは?、と感じた。
彼らの試みは、歌舞伎を単純に破壊的に現代に移し替えるということではなくて、かなり丁寧に原作を読み込んでいるし、伝統芸能へのリスペクトを感じさせる心憎い目配せも随所に散りばめられている。稽古でまず歌舞伎版の完コピをした、という手法も活きていたと思う。
音響(星野大輔)、照明(中山奈美)、衣装(藤谷香子)、といったスタッフワークも素晴らしかった。特に音響は、繊細さと、邦生演出ならではの爆音との両方を見事に実践し、豊かな音の空間を実現していたと思う。