各団体の採点
役を演じるということ、すでに語られた物語を語ることの意味とは……といった、演劇にまつわる「前提」への疑いを身体化、空間化すること。あるいは演劇によって召喚される(はずの)あらかじめ失われたもの・ことの正体、その立ち現れ方を探ること。おそらくは、そんな意図を持って上演された作品なのだと思います。
俳優たちは自らの名前/役名を名乗ってみせるだけでなく、それぞれに、複数の役を「演じ(ようとし)て」いる。物語の流れそのものも相対化され、時には複数の人物によって「噂」調で語られたりもする。
こうした手法、考え方自体は挑戦的とも言えるのかもしれませんが、なぜそれが『ハムレット』という題材を通して行われるのかが見えず、さらに、落としどころのない懐疑を身に余らせたまま時に絶叫し、場内を走り回る演技、演出は、どこか閉じられているようで、観客として何に向き合うべきなのか、あるいは何を拒絶されるべきなのかといった入口にさえうまくたどり着けませんでした。
演劇という芸術の形式や古典戯曲と格闘し、そこに(肯定だろうが否定だろうが)新たな表現の可能性を求めるならなおさら、その対象にいったんは寄り添うほどじっくりと、堪えて向き合うことも必要なのではないでしょうか。そうしてはじめて、現在形の思索は鍛えられていくのだと思います。
シェイクスピアの戯曲『ハムレット』を題材にしたパフォーマンスでした。日本で『ハムレット』といえば、上演されない年はないと言えるぐらいの有名古典戯曲です。多くの人が知っている作品をどう上演するのかを観たかったので、出演者が『ハムレット』とどんなきっかけで出合ったのかを言葉で説明されても、興味をそそられませんでした。たとえば「この公演に出ることになって初めて『ハムレット』を読んだ」など。
『ハムレット』を等身大の自分たちに引き寄せて、自分たちにとっての『ハムレット』を見せたのかもしれませんが、残念ながらシェイクスピアの『ハムレット』の方がずっと面白いと思いました。
終演後のトークには構成・演出の橋本清さんと出演者全員が登壇し、全員の自己紹介がありました。予想通り、自己紹介だけでトークの時間が終わってしまいました。質疑応答時に橋本さんが答えられたことを、最初からお話しされた方が良かったと思います。出演者全員の自己紹介が行われたのは、「せっかくなので」という理由でした。橋本さんは、ある状態や自分の気持ちに正直に向き合って、その場に居合わせた人々とありのままを共有することを、第一義とされているのではないかと考えました。もしそうならば、観客の気持ち(主に欲望)も想像してみて、それも「ありのままの状態」に一部だけでも組み入れてみてはどうかと思いました。
劇の世界に連れ去られるという言葉があるが、まさに劇場全体が舞台になり、我々観客はその舞台の世界の住人となり、劇を目撃するという形式。
演出家が目指すところはどこまでもハイレベルである。ただ、まだその形が、あまりに新しすぎるがゆえに観客がついていけない部分があり、そのギャップの中で劇的感動をどう体験させてくれるかという課題を感じた。しかし、このスタイルが完成したときに、凄い作品が出来そうだということはひしひしと感じる。今後に期待したい。
役者さんがそれぞれに「ハムレット」との出合いを語り、色んな人の記憶と「ハムレット」というお芝居の断片を見せられたように思います。
音楽は出演者の1人に相当するほどの存在感と主張があって、かっこよかったです。
照明も工夫があったのでお好きな人はいると思います。
行き着く先がわからない繰り返しは計算なんでしょうね。
とらえどころがないので「いつ終わるのかな」と考えながら座っている状態になりました。
よくわからない時間と空間の中に投げ込まれ、放っておかれて、実験データを取られているような気分にも。
観客に対するいわゆる「サービス精神」といったものは感じられなかったし、面白いかどうかと問われると、私は「面白い」とは答えられないんですが、「演劇って何なんだろう」と考えることができました。
私自身に全てがゆだねられていたんだと思います。
構成・演出の橋本清さんはご自分の欲望に忠実で、本当に興味のあることだけをやるタイプなんでしょうね。
ありがちな娯楽性はなく、メッセージを伝えようとしているわけでもなさそうでした。
自分の主張を広く伝えるために演劇をやってる方は少なくないと思うんですが、橋本さんはその逆で、難解であることも込みで「観客が好きに感じればいい」「お好きにどうぞ」という姿勢を徹底されているようです。
アフタートークに出演者全員が出ていて、役者さんの自己紹介だけでほぼ終わってしまったのは残念でした。
演出家の方からもっと本質的なことを話した方がいいと思います。
可愛いデザインのチラシに作品概要が載っていたので、当日パンフレットに挟み込むと良かったんじゃないでしょうか。
トークの最後に「質問があれば訊いてください」とアナウンスして、橋本さんも出演者もロビーに出て来られました。
観客を置き去りにせず、対話を求めていることに好感を持ちました。
ブルーノプロデュースは、これまでドキュメンタリーシリーズと称する一連の作品群の中で、「記憶」を扱ってきた。それだけならばありふれているのだが、扱うのが作家本人の記憶ではなく、つねに他者の記憶である、という点が興味深いと思ってきた。今作では、そうした他人の記憶にアプローチするこれまでの試みを、すでに語り継がれている『ハムレット』という物語にいかにして接続するのか、というところが見所となるはずだったのだと思う。
しかし端的に言ってこの作品は「失敗」だったと思う。若者たちの声がひたすらぎゃーぎゃーと鳴り響くのを、ずっと聞かされるという苦行……。正直なところ、審査でなければ途中退出したかった。声、にはもっとこだわってほしい。
こうなったのは、彼らが何かしらの「挑戦」をしたからでもあると思う。「挑戦」のないところに「失敗」はないのだし、そうしたチャレンジ精神は嫌いではない。ただこれを少なくとも「失敗」と断じる人物が客席にいたのは事実だし、それはおそらくわたしだけではない。そのことは、演出家だけではなく出演した俳優たちにも受け止めてほしい。舞台は(当たり前だけど)演出家だけがつくるものではないのだから。
それと違和感が強くあったのは、この作品で示されている「若者」の姿で、実際に若い俳優が演じているとあたかも「当事者」のように見えはするけれど、このイメージは果たして本物なのだろうか? 「ダラダラした若者」というイメージを捏造し、なぞり、反復していくのは、わたしにはあまりよろしくないことのように思える。『ハムレット』が遠い世界の物語であり、理解できない、馴染みがない、読んだことがない、といったことの「素朴な」無知の表明も、正直なところもう聞き飽きたと思うし、それはとりあえず近づく努力を最大限にしたうえでもう一度話をしましょうよ、という気持ちになってしまう。自分たちの「素朴さ」の中に閉じこもるのはもはや甘えでしかないのではないか(彼らの持っているピュアネスには惹かれる部分もあるけれど)。世界にはもっと豊かなマテリアルがそこかしこに散らばっているのではないか。そして、それをたぐり寄せていくのが、現代のアーティストと呼ばれる人たちの仕事ではないだろうか。
好きな俳優たちが多数出演していたので、作品としてそれが活かされなかったのは正直なところ残念。でも変な話だけれども、観終わってから一月半くらいが経過した今、ま、そうゆうこともあるでしょう、長い道のりの中では、みたいな気持ちになっているのも、また事実ではあります。