サイゴ
Oi-SCALE
座・高円寺1(東京都)
2010/04/21 (水) ~ 2010/04/25 (日)公演終了
満足度★★★★
現代の闇に切り込んだ問題作
ネットを通じて集団自殺する人たちは、それぞれ事情はあるにせよ、どんな心境なのだろうと想像しようにも、自分にはまったく状況が浮かんでこない。この芝居は、それを演劇という形を借りて再現し、個々の心に問いかけてくる。
現代を切り取った作品だが、作り物めいた虚しさがなく、台詞が自然で、説得力があった。パンフに時系列の説明図があったのも親切だ。舞台の間口が広く、ワゴン車も登場させられるほどで、照明を暗くし、舞台空間をよく生かした演出だと思ったが、もう少し狭い舞台のほうが集中でき、観やすい気はした。実質2時間30分と上演時間が長く、集中するだけに疲労感が残った。
ネタバレBOX
何度か登場する踏み切りの遮断機の装置が生きていて、人間だけで電車を表現したのにも感心した。
俳優では、自殺した警察官の遺児、大木昇の川元文太、昇の同級生でフリーター・須藤勇気の村田光、性的虐待から妹を救うため父を殺した湯田の林灰二の3人に実在感があった。自殺サイトの管理人でリーダー的存在の吉井怜は透明感あふれる演技で悲しみが観る者の心に染みとおる。デニーロ気取りの運転手、浮浪者、不気味な医師、3役を演じ分けた宮崎敏行が面白い。
普通、作・演出家は軽い役に回ることが多いが、林灰二は主要な役で出番も多いのだから感心する。
自殺した父の後を継いで警察官になった昇の兄・大木肇の古山憲太郎は、弟に「うまいものを食いに行こう」と誘う場面が自然で良かった。こういうストイックで情味のある役を演じると出色の人。役者は普段の生活が演技に出るという見本のようだ。ブラボー・カンパニーの「大洗に星はふるなり」では慣れない喜劇で悪戦苦闘したようだが、彼は本来、今回のような役柄が合う俳優なのだ。林灰二が自らこの役にオファーを出したのもうなずける。
不倫離婚スキャンダル以来、いまやすっかりTVから姿を消したお笑い芸人、長井秀和が肇の上司松尾を演じている。俳優に転向したいのだろうか。幕開きは口の中でモゴモゴつぶやいているので台詞が聞き取りにくかったが、後半はよくなっていた。なぜ、最初から声を出さないのか。芸人としても滑舌はよくなかった人で、いまにも得意ギャグで「集団自殺、まちがいない!」と言い出しそうだった(笑)。
自殺動機があまりよくわからない登場人物もいたのが気になったが、1人1人、車の向こうに消えていく場面、湯田が昇に電話する場面は切なくてやりきれなくなった。
死にたいだけなら1人で死ぬだろうが、ネットという仮想世界で知り合った通りすがりの他人同士であっても、同じ目的につかのまの繋がりを求めて死んでいく。言い知れない絶望と孤独の淵に立った人たちの姿が胸に突き刺さった。
PerformenⅤ~Purgatorio~
電動夏子安置システム
ザ・ポケット(東京都)
2010/04/21 (水) ~ 2010/04/25 (日)公演終了
満足度★★★★
両バージョン観た私もパフォーメンの1人?
昨年、初めてこのシリーズを観て「こういう手法もあったのか」と虜になってしまって以来、待ちに待った最新バージョンである。
いつも観ている「多少婦人」に竹田氏が脚本を提供したことがあり、この劇団の存在は早くに知っていたが、普通のコント集団だと思っていて、多少婦人のメンバーから客演の案内が来ても、素通りしていた。いま思えば、残念なことをしたものだ。
「神聖喜劇」と銘打ち、宗教や哲学の薀蓄が語られるのかと思いきや、中身は現代のコント、しかもそれにもちゃんと哲理と連動しているというところが好みだ。劇団内の分業制が徹底しており、見事な職人芸的なチームワークも魅力のひとつ。たまたま気の合った仲間が集まって演劇やっているという感じではなく、劇団員一人ひとり、パズルのピースのようにそこにはまるべくしてはまっているような印象を持った。役者陣の個性がとにかく魅力的で、
客演者自身もこのシリーズのファンであるというだけに、劇団員との一体感が素晴らしい。また、客演俳優を本拠地で観たくなるのが、この作品の特質でもある。昨年は千秋楽に急遽チケットを知人にいただいたので、1バージョンしか観られなかったが、今回は念願叶って1日で両バージョン観ることができ、満足です。と言ってる自分もまんまと竹田氏の思惑通りに動いているのかも(笑)。
ネタバレBOX
今日までの期待感が大きく、雷鳴と共にタイトルバック映像が出た瞬間、鳥肌が立った。「律動」のダンス場面は、昨年のほうが躍動感があったと思った。今回、主役の少年役に「多少婦人」の石井千里が抜擢された。シリーズを通して出てくる少年役は、渡辺美弥子、「多少婦人」の阿部恭子、片桐はづきらが演じてきた儲け役であり、学生時代から石井を観てきた者としては感無量、娘の晴れ姿を見守る気分だった。石井はしゃべりかたに独特の癖があり、一度観たら忘れられない個性の持ち主で、本公演では「多少婦人」のときとはまた違ったオーラを感じさせ、昨年の片桐はづきとはまた異なる存在感を見せた。今回の役で、初めて彼女の資質に注目した人もいると思うと嬉しい限りだ。
今回一番ギョッとしたのは岩田裕耳のアシンメトリーの髪型で、右半分が剃られている。心中期するものがあるようで、役者としての意気込みを感じた。アイメークにも凝り、群舞のシーンでも本物のアンティーク人形のような不気味さが出ていた。
豪華すぎる(?)客演陣では、特に、新野彩子、横島裕、添野豪、山川ありそ、小玉久仁子、高田淳、猿田モンキーが印象に残った。新野と横島は人間離れした可愛らしさがある。小玉久仁子は気のせいかもしれないが、昨年のときよりもホチキス色が強く感じた。
「配線」の場面で電気屋を演じる横島を観ていて、なぜか東京サンシャインボーイズ時代、伊藤俊人が主役で演じた人の好い電気屋を思い出させた。伊藤の電気屋も混乱に巻き込まれていく役だったっけ。
コントのパターンは昨年とも共通している。個人的にはMバージョンのほうが面白かったが、「挿入」では、昨年のなしお成、高松亮の対照的な掛け合いのほうが数段面白く、今回は多少だれた。やはり、今回、外部出演で抜けたなしおの存在の大きさを改めて感じた。こういうコントのテンポの作り方は、何気ないようでもなしおが群を抜いているからだ。「多層」は、Fバージョンの「雑音」とも似た部分があるが、「多層」のほうが芝居として面白く、岩田の頑固な父親と小玉のテンションの高い母親が可笑しい。
澤村一樹の大げさな2枚目気取りのロミオが笑わせる。「ゴルフ大好き小野部長」のテーマソングに乗って繰り広げられる道井良樹のコンビニトイレ争奪コント「条件」が絶妙。昨年の電車の座席争奪コントより面白かった。
「長い」という声があったので2バージョン連続観劇を心配したが、まったく杞憂に終わった。初見のときもすんなりこの世界に入れたので、よほど好みに合っているのだろう。
武蔵小金井四谷怪談
青年団リンク 口語で古典
こまばアゴラ劇場(東京都)
2010/04/17 (土) ~ 2010/04/29 (木)公演終了
満足度★★★
羊頭狗肉の面白さ
こじつければ共通点も見出せないこともないけれど、はっきり言って鶴屋南北の「東海道四谷怪談」とはほとんど関係ない内容です(笑)。
ハナから南北の世界を現代口語で見せようと思って作った芝居とは思えなかったけど、笑えたので、まぁ、いいかという感じです。面白いけど、正直、タイトルについての肩透かし感はいかんともしがたく、「古典を現代口語演劇で」という仕掛けをうたう必要があったのか、疑問です。「四谷怪談」とするのには違和感があります。ただ、トリビア的には面白い共通点をみつけたので、古典に興味のあるかたはネタバレをお読みください。
ネタバレBOX
「武蔵小金井四谷怪談」は、父親役の猪股さんの怪演ぶりが面白かったです。自分は「北斗の拳」というマンガをよく知らないので、いまひとつ作者の意図の面白さがつかめなかったですが。もう少し原典に沿った話かと思って観に行ったので。
原作の「お岩の怨念」にまつわる話とは無関係。会話の中に「東八(とうはち)道路」というのが出てきて、これが実在する道路名ということを知らなかったのですが、この芝居に登場する直美は原作では直助権兵衛という役に当たるんですね。で、直助権兵衛は「藤八五文奇妙!」という江戸の薬売りの売り声で登場する場面がありまして、「とうはち」という音が共通するんです。でも、はたして岩井さんがそれを意識して引っ掛けたのかどうかはわかりません。
また、この公演は2本立てで、もうひとつ落語のまねごとみたいな「男の旅 大阪編」という芝居がくっついてるんですが、これは四谷怪談とは関係ない芝居。岩井さんは「廓の女郎買い」を現代的に見せています。大阪の某所にあるいわゆる「チョンの間」の話なんですが、南北の「東海道四谷怪談」には現代の「チョンの間」と同じ江戸時代の私娼窟(淫売宿)が描かれてるんですね。お岩の妹のお袖がそこで夫の佐藤与茂七と再会してしまうのですが(ちなみに、今度の公演のあらすじの解説に「直助が与茂七を殺す」と書いてありますが、直助が殺したのは実は与茂七ではなく、入れ替わった別の赤穂浪士なのです)。
ですから、この2本目の落語の芝居のほうも、まんざら四谷怪談と関係ない話とは言えないわけです。「男の旅」は「東海道」に引っ掛けてあるような気もしますが、これも岩井さんが意図的にそうしたかどうかはわからないですが。
「東海道四谷怪談」の三角屋敷の場は「袈裟と盛遠」という源平時代の三角関係の逸話と共通してるので、初めてその場面を観た時、南北が当然それを意識して書いたと思い、歌舞伎役者の人に質問したのですが、「いや、南北に関してそういう話は伝わっていませんねぇ」と当惑されてしまいました。また、「三角屋敷」というのも地名であり、三角関係とは関係ないわけです。「東八道路」と「藤八五文奇妙」、「チョンの間」と四谷怪談の「淫売宿」の話、岩井さんも巧まずして芝居に織り込んでいたとしたら、鶴屋南北に似た感覚の戯作者なのかもしれません。
落語のほうも役者さんたちが面白かったですが、芝居というよりWSを観てるような感覚でしたね。
このお芝居を観たかたには、ぜひ本家の「東海道四谷怪談」も観て頂きたいと思います。
春の海
世田谷シルク
シアター711(東京都)
2010/04/08 (木) ~ 2010/04/11 (日)公演終了
満足度★★★
今回はちょっと・・・・
好きか嫌いかと聞かれれば、世田谷シルクは好きな劇団である。
まず、いままでの形式と少し変え、オリジナルの新作に挑んだ意欲を買いたい。
また、これまで築き上げてきたこの劇団のスタイルに敬意を表すれば、本作のみを取って劇団を評価することも避けたいと思う。
まだまだ可能性を秘め、発展途上にある劇団だと思うので、今後にも期待している。
ただ、もしも、先入観や予備知識なしに本作を初めて見たとしたら、自分は、また次回も観てみたいとは思わなかっただろうというのが正直な感想である。解説文から内容を想像していたときのほうが楽しかった。それだけ、期待感が大きかったのだと思う。
ネタバレBOX
過去と現在が入り混じって描かれ、劇の半ばまで時系列の仕掛けがよく理解できなかったのが、あまり楽しめなかった理由だと思う。
児童対象の理科の実験塾とダム開発をめぐる人間関係という着想は面白いと思ったが、自分の長い観劇歴の中では、本作はさほど出来のよい芝居だとは思えなかった。
過去と現在の場面をシルクお約束のダンスでつなぐが、配役表に書いてなければ、あのダンスが海の生物たちを表しているとは理解できなかったと思う。
わけのわからないお遊戯に見え、タイやヒラメの幻影が眼前には浮かんでこなかった。役者は楽しんでいるが、格別上手なダンスを踊るわけでもないし、演出的にも新鮮だとは感じなかった。むしろ、2005年ごろから、大学の学生演劇でさんざんこういうダンスを見せられてきて、いささか食傷気味である。
ダンスはこの劇団の特徴でもあり、好きだと言う意見も多いようなので、いちがいに否定するつもりはないが、マンネリに感じられなくもない。
「山田君とヤドカリ」の描き方も想像したほどの意外性がなく、山田君のセリフが背景スクリーンに投影されるが、スクリーンの海中模様や役者の頭が邪魔で字が読みとりにくいのも気になった。
ダム開発について、はるこが「ダム」を憧れの「海」に見立てることで、何とか自分を納得させようとしたという場面と、酒屋の町田が「狭い町でダムができたら新規のお得意を一から開拓することがどんなに大変か」と語る場面に、リアリティーが感じられた。☆3つはこの2つの場面に捧げたと言ってよい。
ファンタジー的要素がある芝居でも、堀川さんの台詞には何気ないひとことにも味わいが感じられるのが魅力だと思う。
所見の日、ポカポカ陽気だったので配慮してくださったのだと思うが、空調が寒すぎてからだの芯まで冷え切ってしまったのも辛かった。厚手の上着を持っていなかったら、耐えられない寒さだった。
とりあえず寝る女
箱庭円舞曲
駅前劇場(東京都)
2010/04/02 (金) ~ 2010/04/06 (火)公演終了
満足度★★★
気になったことがあって・・・
初めて観る劇団でしたが、なかなかよくできた面白い芝居でした。上演時間は2時間以内に収められたのではと思います。2時間15分は少し長すぎたかと。初日の終演時刻は10時10分前でしたから。
庭の雪に始まり、桜で終わる。季節感があり、舞台美術も凝っていたが、建物考証上は疑問点があるのでネタバレにて。
ネタバレBOX
団地の親睦会長の小林タクシーが面白い。山本晋也監督を若くしたみたいな感じで、そう言えば、山本晋也監督はにっかつロマンポルノの「団地妻シリーズ」で有名になった人(笑)。
ふだんから仲の良い、村上直子、片桐はづきの姉妹役対決も見ごたえがあった。
赤澤ムックの千代海が仲裁に入っていき、声だけでやりとりが聞こえてくる場面も面白く、表舞台では別の会話が進行していたので、集中して聞けず、ちょっと残念なほど(笑)。
気になった点が3つ。
①「団地」という設定だが、舞台美術は2階があるし、一戸建てに見えてしまい、違和感があった。出演者に確認したら「ふつうの団地の1階でメゾネットタイプの設定」だと言う。
私はかつて団地の間取りの変遷について公団に取材した経験があり、最近の建て替え団地も実際に見てきたが、メゾネットタイプや、久慈夫妻のように団地の1階をギャラリーや店舗に使ったり、戸建てタイプの分譲団地が出現したのは90年代になってからで、比較的新しい話です。
団地の建て替え再開発というのは90年代後半から盛んになったが、昭和40年代ごろに建てられて老朽化した団地が主で、10年程度での団地建て替えは考えられません。また、区の区画整理に関連するような話になっているが、団地の取り壊しは公団の領分で、民間のアパートとは違い、区が区画整理事業の一部として個別に交渉介入するのは筋が違うと思います。また、メゾネットというのは構造上、上階に影響が出ない最上階の部屋であるか、一戸建て方式の新型分譲団地の建物であると考えるのが普通です。これが古い団地であると仮定すると、その点が不自然に感じます。以上の点から、今回の家の構造は納得できなかった。
②玉置玲央の職業が、台詞上では、一流企業に勤めて3年、プロジェクトのリーダーをやっていることになっているが、それであんな真っ赤な金髪なのはいかがなものか。最初はフリーターの役かと思っていました。たとえ、アート関係の企業でも、一流企業であればなおさらのこと、社員は外部の人間とも会う機会があるし、金髪は認められないと思う。金髪であるのが、物語上の必然性でなければ、俳優はスプレーでも黒髪にするべきではないでしょうか。宝塚歌劇団でも、芝居上、金髪をスプレーで黒く変えて出ている生徒はいるのだから、不可能ではないはず。
③村上直子の喪服の着付けがひどい。半襟の後ろが4センチもはみ出ており、舞台上で赤澤ムックが帯を直してやる場面があるにもかかわらず、フォーマルの帯のお太鼓が低く膨らみすぎ、たれをあんなに長くたらす着付けはありえない。あれじゃまるで廓のやり手婆の帯です。粋筋の女でもあんなふうに帯は結ばないので、赤澤による帯の着付け方にも疑問を感じた。とても表に出かけられる着付けではありません。
姉娘が和服を着慣れていないという設定にしても、あれはひどすぎます。
面白くするだけでなく、こういう細かい点にも気を配っていただきたいと思います。今回のようなリアリティーに欠ける点があると、気になってしかたありませんでした。
『Apres la pluie』 (雨上がりに)
PROSPEKT TEATR
APOCシアター(東京都)
2010/04/01 (木) ~ 2010/04/04 (日)公演終了
満足度★★★★
大人が楽しめるお洒落な雰囲気の芝居
フランス語字幕付き日本語演劇。フランス人演出家による日本人俳優の芝居。どこか能を思わせる舞台演出で大人が楽しめる洒落たお芝居だった。有名な俳優を起用した芝居ならこういうユニット企画もあるけれど、小劇場系ではこの手の芝居は少ない。そう思って公演情報を登録したのだが、大人向けの芝居が好きなら、今回ごらんになれなかったかたは本当に残念だと思う。俳優にとっても、よい経験になると思うし、今後もオーディションによる上演を行っていくそうなので、このレビューを読んで興味をもたれた俳優さんにはぜひチャレンジをお勧めしたい。
都会の雑踏の音、ヘリコプターの轟音、雨音、ヘッドフォンから漏れ出た音楽以外、まったく音楽を使用しないことが、むしろ芝居に集中させてくれた。最近、個人的に、小劇場演劇特有のアクの強さや喧騒きわまる演出に食傷気味になっていたせいか、このシンプルな演出に心洗れるようなすがすがしさを感じた。じっくり稽古に時間をかけただけあって、若い俳優陣も力演していた。
ネタバレBOX
もう2年も雨が降っていないという都会の高層ビルの屋上。厳禁されている喫煙を求めて、オフィスの人間が集まってくる。
フランス女性は靴のお洒落が好きというが、舞台には美しい婦人靴が並び、登場した女優たちがそれを履いて芝居を始める。
第一幕が冬、第2幕が夏という設定で、全11場、2時間の芝居だ。
娘の養育権をめぐって妻との離婚話で揉めている総務部長(古賀テンマ)。妻を深く愛しているのに、会社の多くの女性たちから言い寄られて困惑しているイケメンのプログラマー(塔門あきお)。
総務部長と愛人関係にある尻軽な金髪秘書(神之田里香)。聡明で有能な栗髪秘書(串山麻衣)。正義感が強く、栗髪秘書に好意的な黒髪秘書(小林千恵)。女性部長(キムナヲ)の信頼厚い赤髪秘書(及川莉乃)は、イケメンのプログラマーが好きだが、郵便配達人(山本泰弘)に好意を寄せられている。郵便配達人は向かいのビルに突っ込むヘリコプターを目撃する。総務部長と女性部長は栗髪秘書を抜擢しようとするが、栗髪秘書は出世して社内で実権を握り、女性部長はクビになってしまう。赤髪秘書は郵便配達人の性的魅力にひかれ、会社をやめて田舎暮らしをすると言い出す。総務部長は娘の親権を妻に奪われ、絶望し、女性部長の鼻っ柱の強さに妻の姿を重ね合わせ、嫌悪する。妻が突然失踪したプログラマーは妻の姿を捜し求め、狂乱する。
そんな彼らの上に奇跡的な雷雨が降り注ぐ。すべてはリセットされるのだろうか・・・。明確な答えは示されないラストシーンだ。
配役表に名前はなく、秘書は髪の色を冠して区別してあるのが面白い。舞台面に人がいても、顔を伏せ、その人物は舞台にはいないという設定は能と同じだし、秘書が鬘をとって下地頭のまま現れる場面などは、役が鬘によって決められる能の“鬘物”の発想を生かしているようだ。
ときどき、台詞にフランス語の単語が混じるほか、台詞の雰囲気は翻訳物そのもの。総務部長が「長年、日本の会社で働いてきてるけど」と言うから、舞台は日本の多国籍企業なのだろうか?
しかし、欧米の女性というのは、どうして相手に立腹して罵るとき、性的な屈辱を意味する口汚い言葉を使うのか。いつも映画などで不思議に思う。日本の女性の感覚では、まずありえないので、違和感がある。
特に印象に残った女優は女性部長のキム・ナヲ。当代の新派の水谷八重子を若くしたような雰囲気で、八重子がまだ水谷良重だった30代のころ、バタ臭くてこんな感じだったなぁなど懐かしく思い出した。
この女性部長は、冬に寒い屋上にノースリーブのブラウス姿で上がってきて、夏には長袖のジャケットを着ているのが、ちょっと不思議だった。
また、「卵巣」を「らんす」と誤読している俳優がいたのは残念。「らんそう」が正しい。だれも気づかないのだろうか。
小さな丸い座席の折りたたみ椅子に2時間は、まちがいなく腰に負担がきつくて、辛かったが芝居の内容はよかった。
スタッフワークが悪く、不親切だったのは残念。会場入り口がわからず、横手のドア前に、寒空のなか10人ほど行列ができてしまい、スタッフの知り合いが携帯で中に連絡してようやく移動できた。まちがいやすい表通りに面した横手に、誘導の紙を貼るとか、スタッフ人数はいるのだから、横手も見回ってほしかった。ドリンク付きの公演なのに、会場に飲み物を持ち込めない指示も最初に出すべき。注文直後に、開場が始まったが、整理番号が若いので、焦ってしまった。
復讐回帰
劇団銀石
シアターグリーン BASE THEATER(東京都)
2010/03/30 (火) ~ 2010/04/04 (日)公演終了
満足度★★★★
言葉との格闘技
「太陽系誕生譚」に「魔笛」や「忠臣蔵」「東海道四谷怪談」や「アンネの日記」やらが複雑に絡み合い、観客の頭も混乱しそうだが面白かった。万人にウケル芝居ではないと思うが、この劇団には強烈な個性がある。
佐野木さんは「夢の遊眠社」で野田秀樹が頭角を現してきたときに感じたものを思い起こさせる。私、個人的には、あの当時、野田さんのブッ飛び感には付いていけなかったけど、佐野木さんにはそのような隔絶感はなく、じゅうぶん楽しめてます。ことば遊びが、どこかシェイクスピア風で、理屈抜きに面白い。
佐野木さんは才能のある人だと思うし、プロデューサーが違う視点でサポートしているのも評価できる。
舞台装置や照明、音響、劇団の名物ともいえる浅利ねこの衣裳なども戯曲をよく助けていた。でも、苦言がひとつあるのでネタばれで。
ネタバレBOX
ストーリーを説明すると長くなるし、今回の場合は、とにかく実際に観に行って確かめるべし、という芝居ですね。
登場人物が多く、全編、言葉との格闘。役者の滑舌が台詞についていけない箇所も多々みられたが、それはしかたないかと目をつぶります。
主役のパミーナの浅利ねことタミーノの加藤諒はこの世界でよく生き、奮闘している。
紅や白粉を流して意思表示するという場面は、元は中国の故事から来てると思うが、文楽や歌舞伎の「国戦爺合戦」の錦祥女の「紅流し」のくだりを思わせてハッとしたし、最後の戸板の裏表に男女が張り付く場面は「東海道四谷怪談」の趣向を面白く生かしていると感心しました。
最後にどうしても気になったことを書きます。劇中「ぐんくつ」という台詞がでてきたので、「軍靴=ぐんか」のことかと思い、PPTで作者に質問したら「軍靴をぐんかと読むとは知らなかったが、自分はリズムや言葉の響きを大切にして書いているので今後も変えるつもりはありません。ぐんくつで行きます」との答えが返ってきた。PPTでは時間がなかったので、あえて反論しませんでしたが、「ぐんくつ」というのは明らかに誤読なのですよ。製靴業は「せいかぎょう」と読むが、「せいくつぎょう」とは読まない。「靴」は重箱読みはしないのです。「革靴」は「かわぐつ」と読むが、どちらも訓読みです。ショートブーツのような靴を「短靴」と言い、こちらは「たんぐつ」と読みますけどね。
「音の響きがいいから変えない」というのは「屁理屈」というもので、これは、個人の好き嫌いの問題ではなく、「ぐんか」というひとつの名詞なんです。軍人の履く編み上げ靴を指す名詞なのです。
現に「ぐんくつ」って本来はない言葉だからこそ奇妙な響きで、私など耳に心地よいどころか、かえって耳障りだから気づいたのです。「軍旗」は「軍規」と音が同じ「ぐんき」ですが、あえて「ぐんき」で「ぐんはた」とは読みません。たとえば、「滑舌=かつぜつ」を「かつした」と読んだり、「田園」を「でんえん」でなく「でんその」と読んだら、変でしょう?「ぐんくつ」はそれと同じことです。
確かに「ぐんか」と言うと「軍歌」とまちがえそうなので、どうしても「くつ」と読ませたいなら「軍人の靴」と言い換えるべきです。演劇という言葉を扱う仕事をしている人なら、胸を張って誤読を通すなんて恥ずかしいことですよ。麻生太郎ではないのだから。試しに調べてみると、最近の国語辞典には「軍靴」ということばは載っていないんですね。戦後のなせるわざなのか、まあ、こんな言葉は平和のためには使われないほうがよいのですが。漢和辞典にはちゃんと載っています(「軍靴」の「靴」は「化」にヒゲのつく旧字を使うのですが)。
佐野木さんも何かの本で「軍靴」という字をみつけて使ったのでしょうが、誤読はあくまで誤読なので、私のようにそれを知っている者が聞けば、「役者が台本の字を読み違えている」と誤解するか、「作者が誤読したまま上演している」と解釈します。そんなところで表現者の意地を通してもプラスにはならないのではないでしょうか。小劇場のような狭い世界だから許されるが、中央劇界でそんなことを主張したら、識者に笑われますよ。才気のある劇作家だけに残念に思います。
つづき
賛否両論
ギャラリーLE DECO(東京都)
2010/03/24 (水) ~ 2010/03/28 (日)公演終了
満足度★★★★
好感がもてる小品
「つづき」という題名。ある時点からの「それぞれの人生のつづき」を描いているからか。また、彼らの人生はこれからも続いていくという意味も込められているかもしれない。
戦場カメラマンが主人公の芝居と聞いて、もっと重苦しい内容かと想像したが、意外にライトな感じで、音楽も良く、1時間15分という上演時間もギャラリー公演という形式にはふさわしく、作風も好感の持てる小品となった。
旗揚げしたばかりで知名度も低いと思うが、もっと多くの人に観て貰いたかった作品だ。
ギャラリー公演を行う場合、予算との兼ね合いで選んだのか、空間の特性は関係なく、長時間の公演を組む劇団もあるが、やはり狭小空間では観ていて疲れてしまう。わたしは、ギャラリー公演は短めに感じるくらいの芝居がちょうどよいと考えている。今回、客席をすべてフラットに配置したので、後方の客は見えにくかったと思う。多少、段差をつけるべきだったろう。
主演はモダンスイマーズの古山憲太郎。私の残り少ない人生の中で、彼はおそらく最後に惚れこんだ男優だと思う。
彼よりも演技の巧い人や器用な人、カッコイイ俳優はたくさんいるだろう。だが、俳優の究極の魅力はその生きざま、人間性がいかににじみ出ているかに尽きる。こんな当たり前のことに年をとってからようやく気づいたが、古山憲太郎はその意味でも稀有な存在。魅力ある男優である。背中がよい。
もう少し年をとったら、背中で芝居のできるいい俳優になれるだろうと期待している。
ネタバレBOX
両親から受け継いだ写真スタジオの土地を売ろうとしている斉藤(古山憲太郎)。戦場取材のため、まとまった金が必要になったこともあるが、これまでの生活をリセットしたいという気持ちも強い。そんなところに戦場で知り合った旧友のカメラマン山下(大窪尚記)がフラッと遊びに来て、斉藤が契約しようとしている不動産会社の社員正田有希(いのこまりこ)と再会。山下と有希は10年前、牛丼屋でアルバイトをしていた時代の同僚で、山下は内心、有希に好意を抱いていた。
斉藤が土地を売ると知って、山下は裏庭に住み着く野良猫の親子の身の上を異常なまでに心配する。バツイチの山下にとって、その猫は家族同様に大切な存在だったのだ。また、同業の斉藤の才能にも嫉妬し、ライバル意識を持っている。
失恋を苦に自殺を図ろうとしたことのある有希は、現在の不動産会社の社長に自殺を止められたのが縁で、その会社に就職し、社長の愛人となっていた。
斉藤を尊敬し、戦場カメラマン志望の青年、岡田(清水智史)が働きたいと何度も頼みに来るが、斉藤は相手にしない。「戦場に出たときは、旅の延長線上。おまえも一人で旅に出てみろ」と言うだけだった。岡田には2年間引きこもりの経験があった。
斉藤は、戦場で撮った一枚の家族写真が認められて受賞したのを機に、あれこれ提案して編集長とぶつかり、仕事も干されて、世間から忘れられた状態。山下が気にかけている裏庭の野良猫にも懐かれない孤独を語り、将来に行き場のない不安を抱えていた。
山下は日本を出ようと決めるが、岡田が猫を引き取ってもよいと言うので、安心する。そんなある日、有希の会社が倒産し、土地の売買契約は流れてしまう。ショックを受ける斉藤。せっかく、踏み出そうとしていたのに、いま、戦場へ出ないと自分を取り戻せなくなる、と。
有希は、社長の愛人だったために、他の社員との距離があり、職場で浮いていた自分に気づく。
4人それぞれ、心に傷をかかえながら、微妙に人間関係がつながっている。
有希の社長の友人が斉藤の土地を買いたいと申し出、斉藤は旅立てることになり、岡田も一人旅に出ると決意する。
斉藤と家族写真への思いの描き方が浅く、ストーリー展開にもうひとひねり起伏がほしかった気もするが、石戸良は次回作を期待したい作家だ。
山下役の大窪、岡田役の清水が役柄に合っていて、真実味があるのが良かった。紅一点、有希役のいしこまりこは、学生のように演技が硬いのが気になったが、はつらつとした若さがある。
「戦場カメラマンの特技」として斉藤が岡田の前で歴代幕僚長の名前を挙げる場面、ふだんは台詞の少ない寡黙な役が多く、暗記が不得意と言う古山には気の毒な場面(笑)と思ったが、何とか言い終えてホッとした。何より、本物の涙を流しての熱演には心を打たれた。
舞踏会へ向かう三人の農夫の妻
かもねぎショット
ウッディシアター中目黒(東京都)
2010/03/25 (木) ~ 2010/03/31 (水)公演終了
満足度★★★★
20年後の初見でした
不条理劇とダンスパフォーマンスをミックスしたようなお芝居。
ストーリーが少々わかりにくいが、私は好みだ。
「これがかもねぎショットなのか・・・」とある種の感慨を持って観ていた。
わたしがこの劇団名を初めて耳にしたのはいまから約20年前、設立当初だった。小劇場ブームの真っ只中で「かもねぎショット」の上演スタイルは当時は斬新かつ衝撃的だったようで、たちまち人気劇団となり、毎公演、注目されて、専門家による評価もかなり高かったと記憶している。
が、私自身は縁がなく、今回が初見。CoRichの若い観客のかたにどのように評価されるのかも楽しみであった。
ネタバレBOX
衣裳はヨーロッパの時代劇風なのだが、女性の役名は全員和名。次男と三男はもらわれっ子で血がつながっていないという三兄弟が町をめざして旅に出る。長男の嫁、如月こと、きさちゃんには旅先の長男からときどき手紙が届く。三男の嫁、弥生こと、やいちゃんは、きさちゃんの読む手紙の一文でだけ、三男の様子を知るが、三男は町へ向かう途中、出会った女に恋をしている様子。次男も三男も最初に出会って好きになった女をアデレードと名づけ、
以来、惹かれた女はすべてアデレードという名で呼んでいるらしい。次男の嫁、皐月ことさっちゃんはかなり変わった女で、猫にしか関心がない予言者のような人物。
如月は夫たちを追いかけて町へ旅立つ決心をするのだが、そのころ、夫たちはお城の舞踏会(実は武闘会?)に参加し、蜂巣状態に撃たれて絶命していたのだった。
男の旅と家で待つ女たちのやりとりの場面が交互に出てきて、間をダンスでつなぐ。謎の街の女と皐月の両方を演じる渡辺信子が不思議な雰囲気の女優で、中性的というか、最初、男優の女形かと思った。
如月の笠久美の意図的に抑揚のない台詞回しを聞いていると、いまでは小劇場では珍しくないこの演技形式が、80年代後半から90年代初頭の小劇場芝居で生まれたことを思い出した。
三兄弟を演じる男優三人も三様の個性。中でも次男の金井良信が得体のしれない、いかにも小劇場らしい雰囲気を醸し出していて印象に残った。弥生の栗栖千尋の芝居が90年代の小劇場風なのに驚いた。こういう雰囲気の女優さんがまだ残っているとは。
弥生の母の吉村恵美子の「間」が良かった。如月の母を演じる大草理乙子もラッパ屋所属で懐かしい劇団の女優。タイムスリップしたような気分だ。20年前、かもねぎショットの特徴について語っていた人の話の印象とさほど変わらぬ雰囲気の舞台だった。
時間が止まっているような感覚。猫を演じた主宰の高見亮子さんの舞台挨拶を聞きながら、ああ、昔、仕事場でこの人に会ったことがある、と思い出し、懐かしい気持ちになった。あのころそのままの控えめで楚々とした少女のようなひと。
当時の人気劇団の多くは解散し、主宰であった作・演出家たちは時代の寵児となって外部へ活動の場を移している。しかし、現在も「かもねギショット」は
存続し、よく言えば、水の流れるような活動を続けている。正直、最近はこの劇団への90年代初めのような観客の熱狂ぶりは伝わってこない。
私が観た日は客層も中年以上の人が多かったが、芝居のテンポがいまの観客の感覚とは少しずれているかもしれない。
劇団の個性は大切としても、その時代、時代の新しい観客に支持されなければ、劇団としての未来はない。
難しいところだが、「継続は力なり」であってほしい。
相対的浮世絵
キューブ
Bunkamuraシアターコクーン(東京都)
2010/03/18 (木) ~ 2010/03/28 (日)公演終了
満足度★★★★
切ない後味
あの世とこの世、相対する世界の人たち。「相対的浮世絵」。奇妙なタイトルで「浮世絵」が目をひいたが、作者の解説によれば、海外から帰国した直後だったので日本語にこだわりがあり、自分から見た世の中を活写する=浮世絵となったらしい。
出演者の一人である安田顕が公演プログラムの一文に、子供のころ、仲の良い友達にしてしまった心無い行為への悔いについて語り、人は誰でも心に蓋をして生きている部分がある、だからこそ、人の真摯な姿を見たとき、心が動くのだと書いている。これを読む直前に、新聞のエッセーで、ある作家が似たような子供のころの体験を書いていたのを読んだばかりなので、自分だけでなく、そういう思い出というのはあるものなんだなぁと共感した。決して悪気はないのに、なぜか親しい、しかも非のない人の心を傷つけるようなことをしてしまったら、いつまでも覚えているものなのだ。
まあ、この話は子供時代の小さな意地悪とは次元が違う話だが、「心に蓋」という共通点はある。
土田英生という作家の深さに心打たれた作品です。
ネタバレBOX
高校時代、卓球部の部室の火事がもとで智朗の弟達朗と智朗の同級生の遠山は亡くなってしまう。出火の原因は智朗が窓から投げ捨てたタバコだった。弟は兄が中に取り残されたと思い、部室に戻って煙に巻かれてしまった。遠山は、倒れてきたロッカーに足を敷かれて身動きがとれずに亡くなった。生き残った智朗と同級生の関。最近になって達朗と遠山が二人の前に現れるようになる。待ち合わせ場所はいつも夜で、墓地のある公園の東屋。彼らは「お化けではない」と言い、この世に出てくるには、「生前のことを決して恨んでいないこと」が条件らしい。二人にはお目付け役の野村という初老の男が付いてくるが、死者三人の姿は智朗と関にしか見えない。
会社員の智朗は経理の女子事務員と不倫関係にあり、会社の金を使い込み、600万円も帳簿に穴を開けている。一方、高校教師の関は、女子高生好きで教え子と次々関係を結び、父兄にばれそうになっている。
姿が見えないことを利用し、遠山は智朗の600万円を補填し、達朗は関の教え子の一件の証拠の揉み消し工作をはかる。
いったんはうまく行って智朗と関は喜ぶが、死んだ二人はこの世のことに関わってはいけないという掟を破ると、二度とこの世に出てくることができない、今後智朗たちとも会えない。だから、金も揉み消し工作も元に戻させてほしいと言う。生きている二人は、いまの生活が大切だからそれはできないと断る。これでいいんだ、会えなくたってかまうもんか、だって俺たちは生きているんだから、と智朗と関は笑い合う。このときの「だよなー」「まあなー」という高校時代の二人の口癖による掛け合いがいい。
しかし、結局智朗と関は二人の頼みを承諾し、智朗は女子事務員の口から使い込みがばれ、高校時代のマドンナだった妻にも去られ、会社をクビになり、会社からも提訴されるかもしれず、関は智朗に520万円の金を用立ててやるが、学校をクビになる。元通りになったところで、遠山と達朗は、「スッキリした。これであの世に帰り、もう出てこない。」と言って、明るく消えていってしまう。
やはり、生者と死者の間には、越えられぬ壁があり、互いの領分を侵して付き合ったりしてはいけないのだろう。
終わり方の後味が悪く、本当に死んだ二人はあれでスッキリできたのか。何もかも失った生きている二人のこれからの人生を思うと身から出た錆、元に戻っただけとは言え、気の毒になる。
しかし、生き残った二人は、何と愚かな生き方をしてきてしまったことか。終幕、お目付け役の野村の姿が智朗と関には見えなくなることで、四人の気持ちの決着を暗示する。亡くなった二人に対して心の中でずっとうしろめたさを持ち続けていたであろう生き残った二人の思いに引き寄せられ、達朗たちは現れたのかもしれない。切ない幕切れだ。
関の安田顕の髪型がマッシュルームカットなので、出てきたとき誰なのか一瞬わからなかったが、達者な演技で笑わせる。達朗の平岡祐太は初舞台ながら自然な演技に好感が持てるが、二度ほど相手と台詞がぶつかり、不自然な箇所があった。会話の「間」の問題だと思う。
内田滋の遠山は関の「おれは悪くない。関係ないもん。ちゃんと消防署に電話かけたし、火を消そうとバケツに水を汲みに行った」という言い訳に怒る場面に説得力があった。智朗の袴田吉彦は、遠山の内田との「ドスコイ、ドスコイ、ドスコイ」「ノコッタ、ノコッタ、ノコッタ」という高校時代のギャグ遊びのときの照れた表情がいい。死んだ二人のあの世でのお目付け役の西岡徳馬が面白い。自分の話をしようとしていつも「面白くないからいいです。聞きたくないです」と達朗と遠山にさえぎられてしまうが、彼の話は面白そうで聞きたかった(笑)。
既に亡くなった大切な人ともし再び会うことができたら、と人は夢見ることもある。しかし、実際にあの世から来た死者が生きているときのように現在の自分たちの生活に介入してきたら困惑してしまうだろう。
人は悲しみの中にも、どこかで区切りをつけて生きているのだから。
六角堂を思わせる東屋を中心に、能の橋掛かりを意識したという道のついた舞台装置のアイディアが良かった。この世とあの世が交叉することを視覚的に表す見事な舞台空間となっている。
山脈(やまなみ)
東京演劇アンサンブル
ブレヒトの芝居小屋(東京都)
2010/03/20 (土) ~ 2010/03/27 (土)公演終了
満足度★★★★
若い世代にこそ観てほしい名作
「夕鶴」「蛙昇天」「子午線の祀り」「オットーと呼ばれる日本人」などで知られる劇作家・木下順二の追悼公演。
木下は「山脈」で、反逆と不倫を描いた。木下の言葉を借りれば、「本質的に非常にエゴイスティックな恋愛」を通して、生涯のテーマである「個人が抹殺されることによってでなければ、歴史ってのはつくりだされてこないだろう」という主張を浮き彫りにしている。東京演劇アンサンブルの芝居は、いつも観た後に深く考えさせられるものが多く、本作もそのひとつ。
戦争中、軍人でない市民たちは、いったい何を思って生きていたのかを追体験でき、やはり、若い作家が想像で描く戦争とは違う。その点で、若い人に多く観て貰いたい作品。所見の日も、いつもと違い、若い観客で満席だった。
上演時間3時間(休憩こみ)だが、まったく長さを感じさせない。
ネタバレBOX
ストーリーは公演情報に詳しく載っているので、そちらをご参照ください。
「不倫」をする女性がよく口にする「たまたま好きになった人に妻子がいた」という言葉。この劇のヒロイン、村上とし子もそのひとりである。婚約者村上省一(劇には登場せず)の親友、山田浩介と出会ったとき、山田には既に妻子がいた。が、2人は互いに強く惹かれあい、恋に落ちた。
とし子の夫となった省一は出征し、東京大空襲のあと、「とし子を安全な場所に置いておきたい」という思いから、山田はとし子と姑の村上たまに山村への疎開を勧める。農村経済研究者の山田は東京に残り、疎開先にときどき、訪ねてくるが、2人の関係を知らない姑は、妙な噂が立つと困ると警戒する。
「あなたは出征兵士の妻なんですからね」ということに縛られ、息をひそめて生きているとし子は、山田の研究の一助になればと、農村の風習の聞き取り調査を続けることで、苦しい恋に耐えていた。調査はノート5冊分にも達している。とし子は山田に「もうここに来ないで」と言い、山田は偽名でとし子に何通も手紙をよこしたが、とし子は返事を出さなかった。やがて、とし子の夫が戦病死した報が伝えられた直後、突然山田が村に来て、「赤紙が来た」と伝え、広島に入隊するので、ひと晩泊まって明日の朝早くここを立つと告げる。それを聞いて、とし子の中で緊張の糸がぷつんと切れる。「残された30時間、山田と一緒にいたい、自分も広島に行く」と。
山田は何度も拒絶するが、とし子は聞き入れず、姑を捨て、駆け落ちしてしまう。しかし、広島に原爆が投下される・・・・。
そして終戦。村では、出征していた疎開先の農家の長男富吉が帰還し、妹のよし江の婚約者マサハルもまもなく帰還できるという。「石にかじりついても生きて帰りたい」と言っていた山田は亡くなってしまったのだ。
とし子が村にやってくる。自分らしく生きた証のあるあの山脈の村をめざして。疎開先の農家で原爆のことを聞かれ「あなたはどうして助かったのか」と聞かれても、とし子は答えない。「君を安全な場所に置いておきたい」という山田のことだから、そのとき、山田はとっさにとし子を物陰に隠し、約束どおり、「守った」のではないか。そう思うと切ない。
村に清らかな思い出と救いを求めて訪ねてきたとし子だが、背を向けて帰ることを決意する。役場で働く原山と再会し、あの日の山田との語らいを述懐する原山。彼らの前にあるのは紛れもない「戦後」。残された者は生きていかねばならない。とし子が「歩けば歩くほど向こうに行っちまうような」山脈は、日本人のめざす戦後の理想をも象徴している。
とし子の久我あゆみは、いまは亡き劇団主宰の広渡常敏が桐朋短大時代に発掘した秘蔵っ子で、本作が産後復帰作となった。第1部の耐える女より、第2部でヤミ屋の顔を持ち、米をめぐって富吉とわたり合うときの度胸の良さにグッときた。とし子はこの先、きっと逞しく生き、男性社会でも成功するにちがいないと思わせた。もしかしたら生涯独身かも?(笑)こういう生死を賭けた恋を経験したら結婚はできないかもしれない。
山田浩介の公家義徳はいつもながら誠実で魅力的な好男子ぶり。村上家の姑たま・志賀澤子は、いかにも東京の良家の奥様らしい風格。農家の姑ミツ・原口久美子は、前回「桜の森の満開の下」で妖艶な魔性の女を演じた人とは思えない変身ぶり。ミツの何気ないひとことに客が笑う。それは真面目な台詞なのだが、彼女の「間」の良さからきているのだ。農家の嫁きぬ・町田聡子の凛とした実直さが印象に残る。町田には「青年団」の女優の雰囲気がある。きぬは町で働いた経験があり、姑にきつく当たられていた。戦後も農家の嫁として、粗暴な夫の妻として耐え忍ぶ半生が待っている。富吉の松本暁太郎はこの日、どうしたことか2度ほど台詞のとちりがあったが、その際、稽古でもないのに首を振るのはいただけない。とちっても役になりきるべきだ。演出もする人だけにしっかりしてほしい。この芝居で一番よかったのは原山の竹口範顕。山田への共感ととし子への思いやりを感じさせ、玉音放送を聴いた後の心情の揺れを語る場面が秀逸で、作品のテーマを観客に強く訴えかけた。彼の実直な演技が、芝居に厚みを持たせた。原山が語る、帰還してきた農村の若者の終戦直後の虚脱感を聞くにつけ、戦後の減反政策、自給率の低下などによる今日の日本の農業のゆくえに思いを馳せざるをえなかった。いつの世も為政者によって振り回されつつも、したたかに生きていく農民の姿を感じる芝居だった。
演技以外で気になったのは、まず舞台装置。本水のせせらぎを設けてあるのは感心したが、いくつかの段差の台に無造作に白い布がかけてある。最初は残雪なのかと思ったが、中央の台が室内という設定で、そこも外部と同じく中途半端なサイズの布が敷いてある。ここだけうすべりを敷くとか、室内の感じを出す装置にしてほしかった。いつもは凝った舞台美術を作る劇団なので疑問だ。
また、大空襲にあい、疎開してきた村上家の嫁姑がこの時節でもんぺを穿いていないのは不自然。農民との対比を示したのかもしれないが、たまが言うように都会者が目立たぬよう暮らすなら、なおのこともんぺを穿くだろう。たまが山の手の奥様のように大島紬の着流しというのはいくら田舎が安全地帯とはいえ、空襲警報はあるので、のん気すぎる。
遠ざかるネバーランド
空想組曲
ザ・ポケット(東京都)
2010/02/10 (水) ~ 2010/02/14 (日)公演終了
満足度★★★★
逆説的ネバーランド
ピーター・パンの物語をどう描くのだろうという興味で観に行った。想像していたのとは違っていたが、なかなか面白い芝居だった。
全体に観客満足度が高いようで、みなさんのレビューに言い尽くされている感じで、楽しく読ませていただいたせいか、自身は書きあぐねてしまった。
ほさかようは、深層心理的な世界を描くことが好きらしく、巧みである。私が若手の劇作家の力量をはかる基準のひとつとして、もし、これをメジャーな俳優の配役で、中央の劇場で上演したとしたらどうだろう、お金をとれるだろうかというのがある。その点で、ほさかようは期待できるひとりだと思う。作家としての個性はまったく違うが、20代のころの坂手洋二に将来性を感じたときと似た感覚を持った。
ネタバレBOX
「一緒に空を飛ぼうよ!」とピーター・パンは子供たちを誘う。ひところ盛んに言われた「ピーター・パン症候群」は大人になりたくないというモラトリアム現象だが、この劇のピーター・パンの「飛ぶ」も現実逃避ではあるが、大人にならないことというよりもっと深刻な、文字通り、死のダイブを意味しているらしい。終盤登場人物がそれぞれ「いずみ」を名乗って、ネバーランドは実は主人公の少女の心の中の世界であることがわかる。ともあれ、役者がみな適役で、ピーターの中村崇、小玉久仁子のタイガー・リリーなど、いかにも見た目それらしい雰囲気が出ている。小玉久仁子は「時間のムダ!ムダ!」と前回のホチキス公演の役のアテ書きの様な台詞も出てくる(笑)。作・演出家の中には脚本至上主義で「役のアテ書きは邪道」と言い切り、さほど俳優に関心を持たない人もいるが、ほさかようは日ごろからいろんな芝居での俳優さんをよく観ているのでは、と思った。これは人によって好き好きだと思うが、私は俳優の個性に関心を持つ作・演出家のほうが芝居も面白くなると思っている。
トゥートルズの二瓶拓也が「夕ご飯のハンバーグが冷めないうちに食べなさいと言ってくれることが本当のやさしさ」と訴えるところは胸が詰まった。彼は、本当に童話から抜け出したようにあどけない(笑)。台詞を言うとき、いちいちマイクを使って囁くフック船長(中田顕史郎)がおかしい(笑)。ルフィオの石黒圭一郎(ゲキバカ)など、最初のほうに倒されてしまうので、出番が少なく、もったいない気もした。少年(斎藤陽介)が最初、出てきたときはただのひねくれものかと思ったが(笑)、終盤に向けて徐々に正体をみせていく描き方も巧い。ビスカ役の横田有加は、まことに人魚らしく美しい。海賊フォガーテの尾崎宇内はアングラ芝居のときとまったく違う印象で面白いなーと思って観ていた。私がアングラ芝居で観ている俳優はなぜか、近頃、違う役どころで良さを発揮しているような気がする。若いうちからいつも同じような役どころを演じてイメージが固まってしまうよりも、機会があれば、いろんな劇団に客演していろんな役に挑戦して引き出しを増やしてほしいと思っている。実力のある俳優に対してはなおさらそう思う。
ウェンディの清水那保はCoRichでも人気があり、前から観てみたいと思っていた女優だが、台詞を言うときに首が常に前に出る姿勢の悪さが気になった。時折こういう女優を見かけるが、癖なら早く直したほうがよいと思う。母親(武藤晃子)が冒頭、絵本を読み聞かせることや、妖精のティンカーベル(これも武藤晃子)がやけにオバさんくさい理由も、だんだんわかっていく。だが、ティンカーベルは、ネタバレせずに妖精の間はもう少し妖精らしく振舞ってもよかった気もする(笑)。
主役の西内裕美の降板で脚本を一部書き直さねばならなかったようだが、それでもこれだけに仕上げたのは見事。機会があれば、本来のストーリーで再演してほしい。ズバリ書割そのもののようなセットがラストに大道具転換されるのもよく考えられていると思った。ラストで学園物になっていたのが、ちょっとガッカリしたが、これは私の個人的な好みの問題なのであしからず(笑)。
私が子供のころ、民放TVで「ディズニー・ワールド」とかいう番組があり、あるとき、ディズニー・アニメにより「人間の感情と理性」を説明的に描いた作品が放送されたことがある。「感情のカンちゃん」と「理性のりーちゃん」という子供の姿をした2つのキャラクターが人間の頭の中に棲んでおり、頭の中の自動車のハンドルをめぐってしじゅう主導権争いをしている。男性には男の子、女性には女の子の姿をしたカンちゃんとリーちゃんが棲んでいるという、子供にもわかりやすい設定に大いに感心したものだ。今回の公演を観て、そのアニメのことを思い出した。どこか共通点を感じる。
ろばの葉文庫でセット券を購入し、カラーコピーを使った美しいチケットだったが、今回受付で回収されてしまい、手元に残らなかったのが残念。予約リストにチェックを入れるだけではダメなのか。釈然としない。
凡骨タウン
モダンスイマーズ
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2010/02/05 (金) ~ 2010/02/21 (日)公演終了
満足度★★★★
木下恵介の「惜春鳥」を思わせる作品
もともと、暴力場面が多い芝居は苦手で、しかも、前作を観ていないので人間関係がよくわからない点もあったが、引き込まれ、胸を深くえぐられた。
正装し、ご馳走を並べたテーブルにつく出演俳優たちを撮影したフライヤー。一見、公演の記念写真のようだが、この物語の登場人物たちにはまったく無縁の世界なのだということが芝居を観るとわかる。逆説だけにいっそう切なくなった。
この芝居を観た直後に、名匠木下恵介の「惜春鳥」を観る機会があり、時代状況も人物設定もまったく異なる作品だが、非常に酷似したものを感じた。
「惜春鳥」は会津を舞台に幼馴染の同級生の友情と裏切り、挫折を描いた作品。この映画の中で主人公の青年が悟るのは「立場が違えば心情的に理解できる部分もあるけれど、自分は自分の生き方しかできない」ということ。木下作品は救いようのない人間関係や貧困の泥沼の中で懸命に生きる人間を描いて感動を呼ぶ。蓬莱竜太のこの作品もまた、現代の「惜春鳥」だと思った。
ネタバレBOX
劇の冒頭、早乙女がケンに語る「もしも、俺がおまえだったら、こうするという考え方はまちがってる。その人間に生まれたら、何から何まで条件は同じ。まったく同じことが周囲にも起こり、違う考え方や生き方なんてできっこない」
という意味の台詞。これが胸に突き刺さった。この台詞で始まらなければ、感情移入して観ることはできなかったかもしれない。この町に転校してきたケンは妹と祖母と3人暮らしで、ほとんど寝ている祖母の口癖は、「金持って来い、食べ物持って来い、男連れて来い」だった。たとえ盗んででも、ケンはそれを実行し、祖母は時にはケンを布団の中に引き込むこともあったという。
そういう異常な生活の中でケンは早乙女兄妹と出会い、早乙女の妹キヌ子とも互いに好意を抱くようになる。早乙女は、不良少年グループを統率し、仲間のしるしとしてからだに墨を入れることを強要。少年たちはひるむが、一番最初に刺青を施すことになったのはキヌ子はだった。キヌ子は少年たち以上に兄には絶対服従で、兄の命令で人に言えないような仕事もしてきたようだ。キヌ子はきれいな仕事(スーパーのレジ?)で稼いだお金だから、これを持って町を出るようケンに勧めるが、ケンはとどまり、仲間が離れても 早乙女に抵抗し、敗北の瞬間を迎える。回想場面も挿入されるので、前作を観ていないと時系列的にわかりにくくなるところもあった。
萩原聖人のケンは、真に迫った演技で、その説得力がこの芝居の根幹を支えている。私は萩原の舞台はこれ以前に一度しか観ていないが、そのときも妹と2人で世間から隔絶して暮らし、そこに入り込んできた男に支配される役柄だった。
千葉哲也の早乙女は不気味で迫力があって本当に怖い。古山憲太郎の演じるハルフミが足を引きずっているのは、当たり屋をやって生活してきたという設定だからだそうだ。木下恵介も「惜春鳥」や「冬の雲」でグループの中に1人足の不自由な若者を出しているので、そこも共通点を感じた。古山のもう一役、ケンの妹カナエの同棲相手ウメオが最初、同一人物なのかと思ってしまった。寡黙で暗いハルフミは適役だが、純朴なウメオも持ち味が出ていた。客演ばかり観ていて、本拠地のモダンスイマーズで古山を観るのは初めて。ウメオのユーモラスな演技にはブラボー・カンパニーでの経験が生きている気がした。キヌ子の緒川たまきは最近は舞台の仕事が多いが、やはりモダンスイマーズに客演したことのある鶴田真由と口跡や雰囲気が似ていると思った。佐古真弓はケンの妹カナエ、祖母を思わせる老婆との2役を演じ分ける。ケンを慕うナーの津村知与史は、饒舌で楽天的な演技が逆に悲しみを誘う。ケンと早乙女を結びつけたのはほんの些細なエピソードなのだが、青年が暴力団員となるきっかけというのも、頼るものなく、世間に背を向けてずっと孤独に日陰を歩いてきた若者にとって、暴力団員のわずかな温かさが胸にしみ、その道に入ってしまうのだと聞いたことを思い出させた。
孤独と貧困と暴力のやりきれない連鎖。ケンが抜け出す道はなかったものだろうか。
夜、夜中
害獣芝居
atelier SENTIO(東京都)
2010/03/19 (金) ~ 2010/03/22 (月)公演終了
満足度★★★
闇に挑んだ異色作
今回は劇とコンテンポラリーダンスを組み合わせたような実験的なパフォーマンス。
主宰が作・演出を担当する劇団が多い中、害獣芝居を主宰する浅沼ゆりあさんは自身で脚本は書かず、「身体を使った表現」を追求し続けている人。何度か上演している「火學お七」の初演は大学の新人公演だった。大勢の新人を起用し、アングラ群集芝居をまとめあげた手腕には目を見張ったものだ。
久々に届いたDMのカードのようなミステリアスなデザインに惹かれ、出かけることにした。この公演、DMが来たのも公演間近で、HPにも情報がUPされておらず、宣伝がふじゅうぶんだったのが残念。WEB担当者が今回出演していなかったためかと思われる。
ネタバレBOX
会場が、浅沼さんがかつて所属した明治大学の「実験劇場」の客席そっくりにしつらえられていて、懐かしかった。
夜。暗闇の中で、ひとりの少女が、闇の気配に身構える。観客も共に闇をみつめる。若い女性たちのとりとめのない会話が聞こえてくるのも暗闇の中。
夜のドレスを纏う女たちは、夜の精だろうか。黒、ダークブルー、真紅と、ドレスの色が変わる。タンゴの調べが怪しく響く。
夜の精と少女たちの動きを見ていると、歌舞伎の「だんまり」を連想した。「だんまり」は、様々な扮装をした役者たちが暗闇の中を手探りで歩き、多くはひとつの「宝物」を互いに奪い合って、最後は全員見得を切って幕となる短い舞踊劇(長い演目の一場面の場合もある)だが、「最近の役者は本当の闇を知らないため、だんまりの歩き方が下手」と言われて久しい。しかし、この公演では、俳優たちの歩き方がとてもよかった。若い歌舞伎俳優の「だんまり」より、闇の掴み方が巧いのではないだろうか。公演が行われたアトリエのある夜の住宅街もひっそりとして、とにかく暗く、闇に始まり、闇に終わった公演。観終わって江戸川乱歩の世界を浅沼さんに演出してもらいたいと思った。
怒りを込めてふりかえれ
ピーチャム・カンパニー
シアターPOO(東京都)
2010/03/19 (金) ~ 2010/03/22 (月)公演終了
満足度★★★★
あえて★4つ!
ピーチャム・カンパニーの前身に当たる劇団サーカス劇場、地上3mm時代を通じても、私が★4つを進呈するのは初めてのこと。劇団メンバーが大学生だったころから長年見続けてきた自分にとっても画期的なことだ。前回の公演を観劇したという人のブログに「屈葬状態」という表現があって爆笑してしまったが、今回はその客席の状態も格段にゆったりと改善されていた。狭小空間を感じさせない舞台美術のセンスも悪くない。ポップな背景に意図的に入れたわずかな裂け目が印象的だった。今回の劇の私の評価は限りなく★5つに近い★4つ(その理由はネタばれで)。ピーチャム・クラシックスのシリーズを2本観て、清末浩平・川口典成コンビはオリジナルより古典、それも翻訳ものの脚色のほうが向いているのでは、という感想をもった。東大在学中のサーカス劇場公演でもアングラ色の強いオリジナル作品よりも好評だったのは翻訳物の「カリギュラ」だったのだから。そこに真面目でオーソドックスな川口演出がうまくはまっている。清末氏は昨年の赤澤ムック脚色・演出の公演「赤と黒」でも脚本化する前段階の作業をサポートした。オリジナル路線で行くにしても、このクラシックスのシリーズはときどきやってほしいと思う。
ネタバレBOX
妻の両親の猛反対を押し切り、結婚したものの、出身階級の違いから、何かにつけて妻のアリソンをなじるジミー。そのアリソンにやさしく接する同居人 クリフ。この奇妙で危ういバランスのもと成り立っていた3人の関係に割って入ってきたアリソンの友人ヘレナにより、事態は一変する。ヘレナはジミーの横暴を非難し、アリソンは妊娠をジミーに告げられないまま、別れて実家に戻る決意をする。しかし、厳粛なクリスチャンでジミーに批判的だったはずのヘレナは意外にもジミーと関係を結び、同居し始める。ヘレナは、教会にも行かなくなり、男たちの取っ組み合いが始まると慣れたようにアイロンもさっと避ける適応能力のある女性。アリソンのように避けきれずアイロンでやけどするようなヘマはしない。そのせいか、クリフは居場所がなくなり、家を出て行くことを決意する。そこへアリソンが戻ってきて、ヘレナも出て行く。赤ん坊を失ったアリソン(中絶したのか流産したのか、台詞だけでは判別できなかったが)はやっとジミーの気持ちが理解できるようになったと言い、2人は元の鞘に納まる。ジミーは今日で言えば、言葉のDV男だ。アリソンのようにお嬢さま育ちで鈍さがあるか、ヘレナのように賢く適応能力にたけているかでないと、とてもこんな男とは暮らして行けないと思う。この劇の成功は何といってもジミー役の神保良介とクリフ役の八重柏泰士の熱演によるところが大きいと思う。2人とも、サーカス劇場や唐ゼミ☆の芝居に出ているときよりもずっと魅力的だし、実力を発揮できていた。こんなに素晴らしい俳優だったのかと、目を見張る思いだ。八重柏は前回の老け役もよかったが、今回も良い。日本人俳優にとって欧米の翻訳劇の人物を演じるのは、まず、西洋人という壁があり、動きなどなかなか原作の人物になりきれないものだ。キャリアも手腕も申し分ない俳優がやってこそ、何とか観ていられるというケースがほとんど。今回の若い2人は難役であるにもかかわらず、しっかりと役を自分のものにしている、物語の人物になりきれている、自然にその国の、その世界の人になりえたというだけでも、大手柄だと思った。
アリソンの父、堂下勝気は悪くはないが、この人、どの役のときもまったくしゃべりかたが同じで変わり栄えがしないのが気になる。
男優陣とのギャップが大きかったのが女優陣。神保、八重柏に伍した女優がそろえられたら、さらに素晴らしい舞台になったと思うだけに残念だ。アリソンのとみやまあゆみは、学生演劇ならどうにか及第点といったところでミスキャスト。この役は荷が重すぎる気がした。演技が硬く幼く、一本調子。どう見てもおどおどした東洋人女性で、この役として魅力が感じられなかった。
今回の公演は、HPの情報では他の2作と違ってワークショップオーディションの募集がなく、最初から出演者が決まっていたようなので、よけいに疑問を感じた。この役は大竹しのぶや寺島しのぶのように、“かなり女優としての血が濃いタイプ”の女優に向いた役だと思うからである。
ヘレナの赤荻純瞬も家に入り込んだ直後の演技はよかったと思うが、ジミーと関係を結んで同棲を始めてからの変化があいまいで、彼女の表情を見ていると、この役の性根がわからなくなってしまうときがあった。ヘレナも舞台女優という設定なのだから、もう少し華やかさがほしかった。衣裳も、男性のほうはあれでよいと思うが、女性の衣裳は色調に違和感があった。アリソンが前半、赤いシャツ(ブカブカなのはヘレナのときと同様、男物という設定なのか?)にオレンジのスカートという同系色でも難しい色の組み合わせがどうにも野暮ったい。しかもそのシャツのまま、スカートだけはき替えて教会に行こうとする。絵面上、もう少し考えてほしかった。舞台上の着替えの動きも、もたついていて美しくない。ヘレナも教会に出かける前の朝食で、スーツの上着を着ているが、食後に「階下でしたくをしてくるわ」と言う台詞があるから、食事の間はブラウス姿でもよかったのではないだろうか。濡れた野菜を触るのにスーツのまま、サラダの準備をするのが違和感があった。ヘレナを見ていると、寝るときもあの上着を着て寝るのでは、と思えてしまうほど色気がなく、役の上でも舞台女優らしく見えない。これは女優だけの責任ではなく、演出の問題もあると思う。学生時代も含め、男性中心の芝居が多かった川口氏は演出上、女優の扱い方があまり慣れていないのでは。前作の「アルトゥロ・ウイ」のときも同様のことを感じた。
折り合いをつけて生きながらもぶすぶすと燃えている社会や自分への怒りと焦燥感は、現代人にもある。実は観劇した日の帰途、電車内でまるでジミーのような男性に遭遇した。ジミーと違い、若者ではなく、2日後に52歳になるというこの男は、話しかけた若い女性乗客が自分を警戒し、無視する態度をとったと怒り、長時間、初対面の女性を英語交じりでののしり続け、「君はちっとも魅力なんかない。君のために言ってやってるのになぜ眠ったふりをする。俺の国、アメリカではこんなことはない。もっと、みんなフランクにいろんな話をするよ。俺は少しばかりテンションが高いだけなのに、日本人はだれも俺の相手をしてくれない。いまの日本に魅力を感じない、日本は嫌いだ(日本人のようだったが)」とひとり、大声で怒鳴りまくっていた。彼はたぶん、社会にも自分にも怒りを抱えて孤独に生きているのだろう。この芝居はまさに今日的なテーマを描いていると思った。
フジヤマタイガーブリーカー
MCR
駅前劇場(東京都)
2010/03/17 (水) ~ 2010/03/22 (月)公演終了
満足度★★
「TrackBackSystem」を観ました
CoRichでグランプリを受賞して以来、最近のMCRをまったく観ておらず、「観たい」一心で、よく公演内容を把握しないで空いている日時優先で予約してしまい、当日に「この初演を観てるんだった」と気づいた。
どうせなら、もうひとつのほうを観るべきだったかもしれないが、下ネタは好きじゃないので、これもどうも・・・という感じだ。
感想をひとことで言えば、初演のほうが良かった印象がある。初演のときなら星4つはつけたと思うので。以下ネタバレで。
ネタバレBOX
手元に初演の配役表がないので何とも言えないが、今回と違う配役の人もいたような気がする。ストーリーも台詞もほぼ初演と同じだと思ったが、初演はもっと「間」が良かった印象がある。「お姉さん」の前説の台詞の時事ネタも確か今回より面白かったはず。この芝居はレッド役の桜井さんの拗ねっぷりがとにかく面白く、それは今回も変わらない。初演は家族で観たが「MCRって面白くて好きだなー」と終演後話し合った。今回は、「いろいろレンジャー」のギャグの「間」がもうひとつ良くなかったのと、悪人グループの頭領役の演技が初演とはだいぶ違ったように思う。初演も女優さんだったかしら?まあ、あんなに暗く、病的な感じではなかったと思う。きょうだいだというグリーンとのエロチックな描写が今回観ていて気色が悪くなった。危篤の母親についてのリアクションがもう少し自然に笑えたと記憶してるし、青竜怪人も、いかにも中山競馬場で自暴自棄になっている男を連れてきたようなリアルさがあっておかしく、だからこそ息子が手を挙げないという箇所でドッと笑いがきたのだ(今回は客席がシーンとしていた)。
初演は単なるお笑いでなく、社会的な要素もきっちりと描いている印象が濃かった。正直、初演はインパクトがイマイチの芝居だと思ったけれど、これから良くなりそうな期待感があった。それだけに、あれれ、という戸惑いが今回残った。人気劇団になるには、こういうドギツさも必要なのかもしれないし、若い人たちにはそういうほうが好まれるのかもしれないが、私個人の好みとしてはあまりいただけない。
最初のアトラクションのレッドの反乱が初演ほど面白くなかったのは、全体の「間」の悪さも影響していると思う。アトラクションの中でレンジャーたちがこねる理屈も、初演のときはもう少しさらっとシュールな笑いを感じたが、今回は少しくどくなっていたせいか、面白く聞こえなかった。レンジャーたちが大勢で1人を蹴り飛ばす場面も観ていて気持ちがよいものではなかった。
ただ、バカバカしくても、音楽に乗って開き直ったようにいろいろレンジャーが踊るシーンは理屈ぬきにおかしく、好きですが(笑)。
桜井さんは好きな俳優さんですので、今後、ほかの芝居で観てみたい気がします。
「SHINGEN~風林火山落日~」 (ハムレットより)
WAKI-GUMI(脇組)
あうるすぽっと(東京都)
2010/03/14 (日) ~ 2010/03/22 (月)公演終了
満足度★★★★
翻案物としてはよくできているが・・・
戦国大名の武田家の滅亡をシェイクスピアの「ハムレット」仕立てで描く2時間40分(休憩込み)。正直、長くて疲れた。両隣の若い女性は退屈した様子で爆睡していた(笑)。何の理由か開演時間が遅れたうえ、上演時間自体も多少延びたが、スター俳優を招聘した公演なのだから、開演準備はきちんとやってもらいたいものだ。無料の配役表は用意されておらず、1部1200円のプログラムを買うように仕向けているようだ。脇太平のユニット芝居のパンフというのはいつも同じ作りで読むところも少なく、配役表のために1200円も出費する気は起こらなかった。この公演のフライヤーも、あうるすぽっとに最近行っていないこともあり、よそではお目にかからず、主役級以外の出演俳優の情報がとれない。脇が主宰していた「ちょんまげ軍団」なる劇団が銀座博品館劇場に初めて進出した際は、無料の配役表も配布されたのだが、回を重ね、有料になってからも数百円程度だった。現在はさらに出世したので配布しないのだろうか?世田谷パブリックシアターなどは有名俳優の出る公演でも配布しているが?最近は知らないが、以前、劇団新感線が新橋演舞場に出た際も、販売している豪華パンフとは別に無料の配役表も配布された。
無料の配役表については、ほかのかたも別の件で苦言を呈されていたことがあったが、昔からそういう慣例のない東宝系の大劇場は別としても、本公演は有名劇団とは言えない大衆演劇系の小規模公演であるのだから配慮がほしいところだ。
ネタバレBOX
オープニングの武田軍団の進軍場面。「人は石垣、人は城」とうたわれた武田武士の勇壮なイメージを表現しているのだろう、と想像した。しかし、長すぎてダレる。もう少し短くてもよいと思った。
芝居の大部分は、「ハムレット」の物語そのままを武田家の話に移しているがまったく違和感がなく、よくできている。
父信玄が何者かによって殺害され、三年の間喪を伏す必要から、信玄の弟の信廉が信玄の影武者を勤め、嫡子勝頼の母である由布姫までも信廉の妻となったため、勝頼の叔父信廉への不信感と怒りが爆発。信玄の亡霊に出会って謀殺の事実を知った勝頼は、狂人を装い、自分の身辺を探っていた重臣馬場信春を斬殺。信春の娘で勝頼の許婚も犠牲になって斬られ、レアティーズ=信春の嫡男昌信(となっているが誰?笑 史実では嫡男は昌房という名のはずだが)が勝頼を父の仇と狙う。そうこうしているうちに天下を狙う織田信長が間者の森蘭丸を武田の城中に送り込んで信玄の死を確信し、
長篠の戦いが始まる。勝頼は武田の頭領は自分だと言って譲らず、母の由布姫は「まだ経験が浅い」と反対するが信廉が譲歩するので勝頼は決行してしまう。結局、その通り、織田の鉄砲隊に負け、武田は滅亡してしまう。この芝居では母親は死なず、尼寺に入るのはオフィーリアならぬ母親の由布姫だ。
和泉元彌の勝頼すなわちハムレットは、芝居はまあまあだが、振り絞るようなしゃがれ声が聞き苦しく、見た目に反して颯爽とした若武者にならない。この人の父で狂言師の故・和泉元秀も悪声だったので遺伝かと思うが。段差の多い舞台での足取りなどは時代劇俳優らしくさまになっており、これは伝統芸能にいる人の強みである。簡単なように見えても時代劇の舞台での歩き方というのは型やコツがある。これができていないと、時代劇は興ざめ。最近の人では中村誠治郎の歩き方がダメな例である。ガートルードは武田信玄の室、由布姫で、汀夏子。昭和40年代、宝塚歌劇団で伝統ある「芝居の雪組」を率いた男役トップスターだけに、深みのある芝居をする。タカラジェンヌ、特に汀の世代はこういう役が得意なので安心して観ていられる。昨今のハムレットによく見られる安っぽい娼婦のようなガートルードにならなかったのは救いで、信玄の室としての気品と美しさ、情愛の深さを出した一級品。オフィーリアにあたる勝頼の許婚・縫(ぬい)は岡崎高子。北区つかこうへい劇団で主演したこともあるようだが、時代劇のお姫様の下手な見本みたいで魅力に欠けた。先日観た宝塚の娘役の蘭乃はなのオフィーリアのほうが、よほど型にはまらず巧かった。脇組常連の夕貴まおは森蘭丸役だが、ここでの蘭丸は「お蘭」と呼ばれ、これが男装のくの一なのか、色小姓なのか、芝居上判然としない。元宝塚雪組の男役で在団中は芝居の巧い子だったが、彼女の殺陣の巧さと容姿の美しさは時代劇での華。彼女も汀夏子の後輩に当たるわけだ。勝頼が旅一座に父の暗殺劇を演じさせるのも原作と同じでそれを和泉元彌のお家芸の狂言風に演じるのがご愛嬌。この旅一座の助けを借りて蘭丸が潜入するが、企みが発覚し、座員たちは皆殺しにされる。
ポローニアス=馬場信春は脇の片腕とも言える石山雄大が手堅く演じる。昌信は鼓太郎、信長はザ・コンボイ・ショウの徳永邦治で、それぞれ見せ場を与えているが、徳永は、扮装が信長らしいだけで、演技はさほど印象に残らなかった。最後まで残った疑問は、原作の「ハムレット」同様、父の亡霊が叔父の裏切りを明かすのだが、はっきりと信廉の差し金とわかる台詞はなく、信廉はクローディアスほど腹黒い人物には描かれていない点だ。勝頼を家臣の前で嫡子と定め、あくまで自分はリリーフ役と宣言。勝頼が陣頭指揮をとると主張したときも素直に譲る。と、なると、勝頼の狂気の芝居は単なる妄想ではないかとさえ、とれてしまう。信廉役がザ・コンボイ・ショウの石坂勇だから悪役にできない配慮なのかもしれないが、テーマにかかわることなので、そこはきちんと描くべきだったと思う。長篠の合戦以降、ハムレットのテーマがぼけ、短気な武将の滅亡物語になってしまうのも気になった点。
ペール・ギュント
SPAC・静岡県舞台芸術センター
静岡芸術劇場(静岡県)
2010/03/06 (土) ~ 2010/03/21 (日)公演終了
満足度★★★★
「自我追求」の壮大な人生双六
ジェットコースターのようなペールの人生を双六仕立てで見せていく宮城聡の演出が素晴らしい。「女を侮辱している」と言われてきたというラストシーンも彼なりの解釈で締めくくっている。2日がかりで上演する例もあるという長大な戯曲を約3時間にまとめてある。それでも、ペールに付いていくのは大変で、疲労は激しかった(笑)。この戯曲はイプセン自身、上演を想定せずに書いたそうなので、上演する側も観る側も「とにかく大変!」だと思いました(笑)。戯曲が描かれた時期が日本の明治維新あたりということも踏まえ、宮城はペールに近代日本の姿を重ね合わせ、国家を擬人化して描いている点が興味深い。
本作は、SPACの春の芸術祭でも再演されるので、興味をもたれたかたはそちらでご覧になるとよいと思います。首都圏や静岡近郊のかたなら、期間中、劇場まで週末、日帰り無料送迎バスツアー(片道無料の日もありますが)もありますので。
ネタバレBOX
開演前から、舞台には少年のような人物が1人すわり、双六の上で戦闘機や戦車の玩具を置いて、ちょうど子供がそうするように口で擬音を発しながら戦闘機を持って遊んでいる。冒頭、明治時代の女学生のようないでたちの女性が近寄ってくると、戦闘機のおもちゃを放り投げ、「撃沈!」と叫ぶので、女性は走り去ってしまう。この人物は、昔、私などが子供のころ、男の子が端午の節句にかぶって遊んでいた紙の兜そっくりの帽子をかぶっている(兜のしころの部分が戦闘機型)。舞台背景にはこの人物が遊んでいるのと同じ巨大な地図のような双六盤がスライドで映し出されているが、やがてさいころの目を描いた碁盤状の双六盤のセットに変わる。そして、この少年のような人物が俳優による器楽演奏者たちに対して指揮者の役割も担うのだ。それはあたかもペールの人生を操るように振舞う。
ペール・ギュントはもともとはノルウェーの民話に登場する伝説の人物だったが、イプセンによって19世紀を生きる近代人として生まれ変わった。宮城演出では、さらに近代日本国家の姿になぞらえられている。
ペールやおっかあのオーセも日本のむかしばなしに出てくる村人のような扮装で、日本人にはなじみやすくしてある。村娘イングリの結婚披露宴の場面は、ベトナム、タイ、中国、インド、韓国などアジアのさまざまな民族衣装に似た服装の招待客たちの祝宴となる。反対するおっかあを水車小屋の屋根の上に乗っけて、招かれざる客としてこの祝宴にもぐりこむところからペールの大冒険(?)的人生が始まるのだ。ペールは狭い共同体である村を飛び出し、トロルの国の異形の王女に見初められるが、ドヴル王はペールに王女とし結婚して王座を約束するためには、一般人にはゆがんだ見え方を正しい基準として受け入れることを要求する。しかし、ペールはあくまで自分を基準として生きているので、それを拒絶して出て行く。しかし、王女はペールの子を生んだといって「大人のような赤ん坊」を突きつけ、今後、どこへ行っても一生この子が現れ付き纏うと脅かす。トロルの国王が明治の元老で外務大臣の「INOUE KAORU(井上馨)」であるのが面白い。近代日本が外交デビューした当時と重ね合わせているようだ。実業家として富を得たペールが「諸外国」の扮装をした来賓たちとの祝宴でテーブルを囲み、「世界征服」の自分の野望を語って、来賓に警戒心を抱かせるあたり、列強国と張り合って、海外侵略に手を染め、それを快く思わない列強国との関係を暗示している。ペールを魅惑する異国の女性、アニトラは強欲でペールに貢がせるだけ貢がせて見捨てる。アニトラが中国風の衣装を身に着けているのが意味深(中国への多大な円借款、技術支援、企業の設備投資を行ってきた未来の日本?笑)。ペールは航海中難破して夢破れてしまう。強烈な自我追求の人生を送ってきたペールは、地獄への入門を悪魔に乞い願うが、悪魔は地獄に行けるのは「昼も夜も自分であり続けた者だけだ」とペールを門前払いにする。
ひたすら、自分であり続けたはずのペールが実は「真の自我」を手に入れることが叶わなかったとは何という皮肉。老いぼれ、疲れ果てたペールを迎えるのは原作では理想的な妻、ソルヴェールなのだが、宮城演出では冒頭、双六に興じていた人物。それは神なのか、ペールにみどりごであるイエス・キリストのようなワンピース状の白い聖衣を着せ、双六の「振り出しに戻る」部分に立たせるところで物語は終わる。「強烈な自我」を追求して生き続けたペールの人生も、所詮、神の手によって動かされていたという皮肉なのだろうか。原作は母親のオーセから始まり、ソルヴェールで終わるため、観客にはペールは母性愛に支えられてやりたい放題生きる人物ととらえられ、それが戯曲発表当時さえ、「男に都合よく描かれている」と批判されたようだ。
宮城演出は寛容な女性によって救われるという男の理想的なラストの部分を変えることで、この批判への解決策を試みている。
背景の双六盤に穴があき、舞台上の同じ位置にも切り穴があって、人物が出入りするところが面白かった。また、打楽器を中心とした器楽演奏も印象的だった。
シューマンに関すること
劇団東京イボンヌ
サンモールスタジオ(東京都)
2010/03/09 (火) ~ 2010/03/14 (日)公演終了
満足度★★
設定に頼りすぎの感
フライヤーから膨らんだ期待やイメージとは大きくそれた作品だった。クララとシューマンをめぐる愛の物語はある程度知られた話だが、本作の作者による独自の物語としての感動が薄かった。登場人物が多いが、エピソードが作者の頭の中で組み合わせられた感じで作品の中で呼吸していない気がする。もう少し話の筋を音楽家夫妻に集約して描いたほうがよかったのでは。ほかのエピソードを入れて逃げているような印象が残った。具体的にはネタバレで。
ネタバレBOX
まず冒頭のクララ、シューマンの愛の物語の紹介部分での俳優の演技に失望した。こういうシリアスな会話劇的な場面で俳優の声が腹から出ておらず胸から上で話しているというのは致命的。台詞が心に響いてこないからだ。シューマン&芦屋小太郎役の銀座吟八は額に指を当てたポーズから発せられた台詞のしゃべりかたが田村正和そっくりでふき出しそうになった。出版社の場面は本筋には影響しないし、重苦しいドラマの息抜き的場面なのかもしれないが、明らかに浮いている。その理由は台詞自体は面白いのに、社員のやり取りが演技のキャッチボールになっておらず、めいめい覚えた台詞をしゃべっているようにしか見えなかったから。場面によって次々チャイナドレスを着替えて出てくる女社長(秋定里穂)は、密貿易をやっている謎の女といったいでたち(笑)。声が美しく、若いときの阿木燿子みたいななかなかの美女。どうせなら、もう少しドラマにからむ役どころにしてほしかった。編集者(富真道)とベンチで短い会話をする場面があるが、これもあまり必要を感じない場面だった。いっそのこと、女流作家と女社長を一人の人物として描くか、原田をノンフィクションライターとして女流作家を省くか、人物を簡素化したほうがよくなると思う。女流作家が女性編集者原田に芦屋夫妻の周辺を取材させる必要性からか、原田の夫が重い心臓病を抱え、手術のための費用を必要としているという設定になっている。野球好きで妻のことに無頓着な原田の夫(望月雅行)の様子を描き、シューマンに取りつかれ利己的な芦屋と妻との関係との相似性も与えているが、描き方が中途半端になってしまった感もある。設定に頼りすぎ、人物の内面性が胸に迫ってこないため、感動がうすくなってしまったというのが私の感想だ。
女流作家(奈良﨑まどか)はスランプとはいえ、どうしてあんなに暗い表情なのか。芦屋の妻(蒼井まつり)も常に目をしょぼしょぼさせているし、女優が2人も陰気なのはやりきれない。女優を複数使うときは、はっきりとした色分けをして描いたほうが生きてくる。芦屋の銀座はデビュー当時絶賛されたころの過去の栄光を示す記事のスクラップブックを読むところが良かった。反面、目をむくばかりの狂気の演技が巧くないので、興を殺いだ。 断片的なエピソードをあれこれ入れるより、芦屋が狂気に至る過程と夫婦の情愛をもう少しきめ細かく描いてほしかった。
終演後、外に出ると作者らしき人に観客が「いろんなお話が詰め込まれていて、面白かったです」と話しかけ、「日ごろのいろんな思いを入れました」と答えていた。入れるのはけっこうだが、もう少し一歩引いて観客の立場になって書いてみるのも大切では?始まる前は「1時間40分なら短くていいな」と思ったが、終盤は少々飽きてきて、時計を見てしまった。
マクベス
世田谷パブリックシアター
世田谷パブリックシアター(東京都)
2010/03/06 (土) ~ 2010/03/20 (土)公演終了
満足度★★★★★
引き算の魅力が活きた
野村萬斎が最近演じてきたギリシャ悲劇ものや「国盗人」と比べても出色の出来栄えである。前作については、演技に彼の癖が出すぎていたため、私はあまり良いと思わなかったが、本作は、狂言とも共通する「引き算の魅力」が出ている。
萬斎は本作について「表現のうえでは狂言の『き』の字も感じさせないであろうこの演出作が、精神性や視点のうえでは狂言に通じるものが多大であるということは、自分自身でも非常に興味深い結論です」と述べているが、まさにその通りの作品です。余分なものを削ぎ落としながら、見事な構成・演出により、「マクベス」の世界を提示している。彼が狂言師だからこそ、演じ、演出できたと言えよう。
これを海外でも上演したいと思っているそうだが、海外でもきっと高く評価されるにちがいない。「マクベス」はさんざん観ている、あるいは、シェイクスピアは好きじゃない、興味がないというかたにもぜひ観ていただきたいと思う一作である。
ネタバレBOX
天球儀を思わせるオープニングの演出。天球から地球へ。「マクベスの地球」で起こった出来事をノンストップで見せていく斬新な演出。能の「邯鄲」のごとく、野望に満ちたマクベスの一生も天体の一部という虚しさが感じられる。終盤、紅葉が静かに散り始めるが、野望の血に染まりながら、朽ち果てていくマクベス夫妻の生涯を思わせる。魔女たちが最後にごろんと転がすがらんどうの人間の胴体のピースも虚しい。
マクベス(野村萬斎)とマクベス夫人(秋山菜津子)以外の役を、高田恵篤、福士惠二、小林桂太の3人で演じ分けていく。彼らが「悪魔のはらわた」のように蠢く肉体表現が秀逸だった。もちろん「3人の魔女」も彼らが演じるのだが、そのことにより、いつものような狂言回し役でなく、悪意のある道化師のごとく、まるで他の人物の正体も実は魔女であるかのような錯覚に陥るのが面白い。
萬斎のマクベスは、狂言師としての資質を生かし、役の性根をあますところなく表現し、しかもケレン味を感じさせないところが良い。秋山の夫人は安心して観ていられるし、舞台女優になるために生まれてきた人だと思う。官能的で強さと弱さを併せ持つマクベス夫人をよく表現している。たぶん正絹であろう衣裳の、袴のように硬く張りのあるフレアースカートがよく似合う。こういう衣裳は所作も含め、なまじの俳優だと着こなせない。
余談になるが、萬斎のことは水道橋の宝生能楽堂の終演後、母堂におぶわれて眠り込んでいた幼児のころより知っているので、昨今の活躍ぶりには感慨深いものがある。本業の狂言においては、わかりやすく演じようと思うあまり、「余分なものをくっつけすぎ」と感じるときがあり、狂言界の大御所的存在の演者からは「萬斎君は解釈をまちがっている」と断言されるほどで、この点においては私はまったく同感であり、どちらかと言えば、萬斎の狂言については否定的な見方をしている。彼の演技は狂言師というより、松羽目物を演じる歌舞伎俳優に近いときがあるからだ。それが彼の「華」であるという見方もあるが、評価の分かれるところでもある。
さまざまな演技表現を経て、萬斎が老境に達したとき、この「マクベス」のように余分なものを削ぎ落とした狂言を演じてくれることに期待している(残念ながら、そのとき、私はこの世にはいないだろう)。