4.48サイコシス(演出:飴屋法水)
フェスティバル/トーキョー実行委員会
あうるすぽっと(東京都)
2009/11/16 (月) ~ 2009/11/23 (月)公演終了
満足度★★★★★
頭蓋骨と自我の中の、孤独の、固まり。
「驚いた」と言うべきか「震えた」と言うべきか。
言葉が可視化され、舞台のような場所の中に、緻密に組み上げられていた。
音楽のような調べが聞こえる。
言葉が刺さる。
言葉が、礫のように飛んで来る。それはまるで、錆びていたりして切れ味の悪い、とてもイヤな刃先のようなヤツで、それなのに身体に刺さる。
客席にいるので、耳も目も閉じることができないので、刺さる。痛い。
演劇って凄いなと素直に思う。2時間10分は長く感じなかった。
ネタバレBOX
観客席に案内されて、まずはちょっと「えっ」と思う。
そして、幕が開いてからは、「あっ」と思う。
単なるこけおどし、あるいはケレン味かと思う間もなく、そんな思いは一瞬にして崩れ去った。
フェスティバルトーキョーが開かれている会場の中で、おそらく一番「演劇の会場」という姿をしている「あうるすぽっと」だったからこその驚きでもある。
「演劇を観る」という行為を何の疑いもなく、あうるすぽっとのアノ座席に座って行おうとしていたのが裏切られたからかもしれない。
これが、例えば、にしすがも創造舎だったら、多少の気持ちの用意をしていたかもしれないからだ。
舞台となった、かつて客席と呼ばれていた場所で繰り広げられるのは、言葉と視覚と音のモザイク。
それは、かつて舞台と呼ばれていた場所だった客席にいる私たちに容赦なく降り注ぐ。
そして、緊迫感に縛られそれは続く。
言葉が痛い。特に繰り返される言葉は辛い。
音が降ってくる。鍛えた身体が提示される。
交わされるのは、会話ではない、答えのない自問自答の繰り返し。
なのに、だからこそ、こちらに届く。
あるいは、だからこそ、受け取ってしまう。
音と役者と肉体と台詞と言葉と音楽と人の動く音と動作そのものと金属音とノイズと重低音と鈴虫の鳴き声が空間を組み上げる。
それらが作り上げて見せているのは、作者サラ・ケインの内面なのだろう。最後に感じた意識なのであろうか。
かつて客席であった空間を前後左右上下とくまなく使う。まるで隙間を埋めなくてはいけない、という強迫観念のように。
舞台をそのように、広く、大きく使うことで見えてくるのは、逆にその空間の範囲、狭さ、限界だ。
天井近くで出されるノイズは、まるで「ここまでしかありません」と告げているよう。
あうるすぽっとという、切り取られた、他と分離された空間がすっと浮かび上がる。その外には出ていかないような空間がある。内へ内へと組み上げられる。
観客の中にも同じように組み上げられていく。
それは、あたかもサラ・ケインの脳内のようで、壁や天井は、頭蓋骨のよう。それはさながらサラ・ケインの心の中のようで、壁や天井は、開くことのない自我のよう。
われわれ観客とそれらを隔てているのは、「血」。生死の境にある血。生きている証でもある血。
だから、リストカットは「あちらの世界」ではなく、境界線の上で行われる。
サラ・ケインは「あちらの世界」に行ってしまった。
その一瞬前の「頭の中」を、その一瞬前の「心の中」をわれわれは、興味津々で客席に座り、覗いているのだ。
舞台で、健康な肉体やスポーツが繰り広げられるのは、病んだ心と身体が渇望する妄想。
いろいろな自分がいて、いろいろなことを考える。外国の人が話す日本語の違和感は、自分の中の異物でもあり、違和感でもある。
ラストにかつて観客席であった場所は、観客席であることを開始し、舞台にいるわれわれは、われわれが演じる舞台の幕が開くのを拍手をしながら待つことになる。
どうでもいいことだけど、「血の池」深くて驚いた。
そして、ホーミーのような歌声にはとても震えた。
白キ肌ノケモノ【満員御礼!次回は三月!】公演写真up中!
ACTOR’S TRASH ASSH
笹塚ファクトリー(東京都)
2009/11/14 (土) ~ 2009/11/15 (日)公演終了
満足度★★★
魅せる雰囲気はあったのだが
外伝だからか、物語の軸がどこにあるのかがイマイチつかめない。
ただし、展開はスピーティで2時間の上演時間は飽きなかった。
ネタバレBOX
かつて土蜘蛛と呼ばれていた一族を祀る塚を守る老婆、そこに旅人が訪れる。そして、白狐丸の話を老婆から聞く。その彼らは一体誰なのか。
白狐丸は、外道丸とともに刀狩りと称して武士から刀を奪っていた。白狐丸は、白い肌に赤い目をしていた。彼は一体どこから来たのか。
かつて都の軍に滅ぼされた土蜘蛛という一族がいた。その一族の生き残りが村人をさらい、自分たちの仲間に仕立てていた。その企みはどうなるのか、そもそも彼らは何者なのか。
さらに現代、土蜘蛛の塚に死にたいと思っている女子高生が訪れる。そこに現れたのは、見えないはずの少女。なぜか女子高生だけには見えてしまう。その少女はなぜそこにいるのか、そしてなぜ見えないのか。
そんないくつかのエピソードが3つの時代を重ねて進んでいく。
とても魅力的なスタートだった。
しかし、結局のところ、物語の軸がとこにあったのかが見えてこない。
つまり、白狐丸の年老いた母と、年をとった外道丸、白狐丸の息子のエピソードがなぜあるのかがわからなかったし、死にたいと思っていた女子高生の話も、物語の中でうまく組み込まれていたようには感じなかった。
つまり、土蜘蛛の妹ソラの話を聞いても、死にたいと思っていた女子高生は特に何かを感じたわけではなく(単に昔の話を聞いてあげただけ)、単に母親の手紙を読んで死ぬことをやめただけであって、白狐丸の物語との関係はない。
そもそもソラが死んだのは、土蜘蛛と白狐丸が出会う前なので、白狐丸のことは知るはずもないのだし。
年をとった外道丸、白狐丸の息子がどうして出会ったのか、というか、白狐丸に子どもがいたの? と思ったり。
ソラが、なぜ成仏できなかったのか、そしてどうすれば成仏できるのかもイマイチわからず、なぜ白狐丸のことは知るはずもないソラがクローズアップされているのかもしっくりこなかった。
さらに言えば、白狐丸が自分の妹を殺してしまう理由(物語としての理由)、彼は苦悩して何を得たのか、または何を得なかったのかもわからない。
雰囲気だけはかなりよかったし、いろいろなエピソードの散りばめ方にも惹かれたのだが、散らかっただけで、全体の束ね方、というか、物語の落としどころみたいなものが見えてこなかったのが残念。
盛り込みすぎたのかな、とも思う。
特に現代のエピソードは、その決着の仕方も含めて取って付けたような印象。
見せ場であるはずの殺陣があまりよくなかったのと(特に前半)、一部の出演者の中に、台詞を言っています、という感じの人がいたのが、少々辛かった。
いらない里
ホチキス
吉祥寺シアター(東京都)
2009/11/07 (土) ~ 2009/11/15 (日)公演終了
満足度★★★★
最初フライヤーを見たとき、『いらない星』って読んでいた
前作『アルバトロス』もそれなりに楽しめたのだが、その前の『おわりのいろは』が好みだった私にとって、今回の『いらない里』は、まさにど真ん中!
奥行きと広がりがあっていい舞台だったと思う。
ホチキスは、不思議とプラスチック的な印象がいつもしてしまう。
土とか汗とか埃の感覚がない。
つるっとしていて、手触りがいい感じでもある。
今回の物語も、演出も演技も手際がよく、すっときれいに進行していく。
ネタバレBOX
コストカットする側だった自分が、コストカットで辞めさせられ、コストカットで廃止される天文観測所を守るという物語。
とはいえ、そんなに深刻な話でもなく、「なんだ、一市民の親子が趣味にしていることを、市の財政で支えるのかよ」とも思いつつも、なんとなくそこに突っ込ませることもなく、「思い入れ」とか「思い出」みたいなもので、廃止回避に躍起に(あるいは意固地に)なる。
現実的に考えれば、実に甘い話だけど、リアルで深刻な財政難やコストカットの話ではないし。
そして、なにはともあれ、小玉さんだ。
彼女の強烈なキャラと怪演は、毎回ほとんど同じとも言えるのだが(笑)、なぜか普通に演じている他の役者から浮きすぎることもなく、また、邪魔することもないという、非常に希有な存在だ。小玉オン・ステージの独り舞台にならない、嫌みさがないところがいいのだ。演出の巧みさもあるのだろうか。
これはもう何と言うか・・・言葉が思い浮かばないので、ま、そういうことだ。
さらに、初めと終わりの歌の雰囲気はよかった。ニコニコしながら観てしまった。
この歌に表れているように、役者全員のハーモニーが巧みで、物語に集中できるのが、ホチキスの良さでもあると思う。
また、ホチキスは、3作しか観ていないのだか、今回のように大きな劇場でも、前回のようにやや小さい劇場でも、セットの作り方と見せ方、使い方がウマイなあといつも感心してしまう。
それと、不思議なのは、フライヤー。
前回の『アルバトロス』は、舞台内容そのまんまだったのだが、前々回と今回のフライヤーのイラストがどうも舞台の印象と異なって見えてしまう。
特に今回は、「田舎」がテーマのように見えていて、実はそうでもなく、東京の郊外の設定でも成り立つような内容だったし、イラストの土着的な、かつ、着物姿が淫靡な雰囲気まで醸し出していたのだが、そういう要素はなかった。
そもそも説明文にあるような「田舎」への想いは、それほど強くなかったように思えるのだが。
主人公にとって故郷を象徴するのは、妹だけであり、親が話の中心に出てこないからそれへの磁力みたいなものが働かず、最後に人に還っていくというような感覚がないのは少し残念。
最初のほうに書いた「プラスチック的印象」は、そういうことにも起因するのかもしれない。
タイトルの『いらない里』の「里」は「星」によく似ている文字だけど、結局そんな話の展開になるとは。
チャイニーズスープ【作:平田オリザ×演出:柴幸男】
元祖演劇乃素いき座+龍昇企画
こまばアゴラ劇場(東京都)
2009/11/10 (火) ~ 2009/11/15 (日)公演終了
満足度★★★
スープの味付けは、ちょっと不条理
先日観た『ヤルタ会談』もそうだったけど、今回もその設定だけで面白いって思ってしまう。
シンプルな、あっさり風味なのに不思議な味わいがある。
ネタバレBOX
元スパイの老人(失礼・笑)2人が、話しながら、スープを作るという物語だが、一体ここはどんな場所なの? と思ってしまう。
そしてさらに、一見、お料理番組のようにスープを丁寧に作っていくのかと思いきや、剥いたはずの皮や料理道具までもスープ鍋にぶち込んでしまう。
それは、さながらスープに不条理のスパイスを利かせたような。
その展開は、野菜や調理道具の配置も併せて、思わせぶりすぎたような気もしないでもない。
2人の会話には終着点みたいなものはなく、そもそも会話していることには、積極的な理由があるわけでもない。単なる暇つぶしの会話で、内容もとりとめがない。
だから会話が弾むわけもなく、間が空いて当然。
そんなとりとめない会話だけど、見せてしまう巧みさ。
ただ、年老いたスパイから見た、冷戦終結後の世界観みたいなものか、あるいは彼ら自身の生活感みたいなものかのどちらかが、もう少し浮かび上がってくるものかと思ったのだが、そういう話でもないような。
錦繍 KINSHU
ホリプロ
天王洲 銀河劇場(東京都)
2009/11/04 (水) ~ 2009/11/13 (金)公演終了
満足度★★★★★
墨絵のような美しさ
シンプルな装置の中で、静かに浮かび上げる運命の哀しさ、そして一瞬の光。
すべてを読んでいるわけではないのだが、宮本輝の小説の中では、原作となる『錦繍』が一番好きだ。
好きな小説なだけに、期待と興味で上演を観た。
とても素晴らしい舞台だった。
言葉にならない「何か」をすくい上げていたのが、原作の小説だった。
そして、そのすくい上げたものをさらに、舞台にして見せてくれていたのだ。
ネタバレBOX
原作の往復書簡形式を見事に舞台化していた。
手紙というものは、相手を目の前にしてコミュニケーションをとるものではなく、相手を脳裏に思い浮かべながら綴るものだ。
そのときに相手への想いが、ペンに直結するのだが、自分の気持ちを言葉にすることは、自分との対峙でもある。
自分の意識の下にあった気持ちがふいに浮かぶこともあれば、ホンネから無意識に遠ざかることもある。
特に男女間の手紙はそうではないだろうか。
さらにこの舞台での、かつて夫婦であった男女がまた偶然出会い、言葉もあまり交わさずに別れていった後の手紙は、自分の気持ちを巡る言葉の探索や言葉にすることの逡巡、せめぎ合いがあるだろう。
相手との会話であり、自分との会話でもある。
ホンネを語ること、知ることは恐ろしいものであり、自分の人生を否定しかねないからだ。
そんなもどかしさが見事に描かれていたと思う。
白と黒を基調としたセットと衣装、それなのに、華やかに見えたりするのだ。
休憩を入れて3時間20分の長さは感じず、舞台に釘付けになった。
当然だが、どの役者もじっくりと「人」を見せてくれた。
人の気配や影を感じさせる演出も心に残った。
舞台で生演奏される尺八も効果的であり、ストーリーに関係するモーツアルトの曲との響き合いも美しい。
「錦繍」は、そのタイトルからも、大切な色がある。したがって、その色だけは舞台で、鮮やかに見せてほしかったと思うのだが、あえてそうせずに、台詞に込めて観客にゆだねたのかもしれない。
しかし、個人的には、大きな舞台で冴える色を観たかったという想いはある。
シンプルな装置や演出は、今年観た『春琴』のイメージにやや近かったともいえる。
甘い丘
KAKUTA
シアタートラム(東京都)
2009/10/30 (金) ~ 2009/11/08 (日)公演終了
満足度★★★★
甘い匂いが受け入れられるか
「生きる(生きていく)」ということが、ぶっきらぼうに投げ出されたような作品だった。
ぶっきらぼうだけど、優しい
「仲間」というより「家族」の営みに近いぶっきらぼうさと、優しさ。ときに残酷だったりもする。
ネタバレBOX
オープニングにどきりとさせられた。
「生と死」が扱われるのだ、というような狼煙のようなオープニング。
甘い丘は、女たちが(再生し)「生き続ける」ことのできる丘。
女性がメインの物語。
かつて、例えば映画『天国と地獄』では、丘の上は天国で下は地獄だったが、この丘は、周囲からは「堕ちていく場所」として認識されているらしい。
なかなか皮肉の効いた設定だと思う。街から見上げると、モクモクと煙を吐く「誰が行くのだろうか」と思われている工場がいつも見える。
つまり、下の街からこの丘にやって来るのには、それなりの覚悟と諦めが必要ということなのだ。
「甘い」香りに誘われるように、訳ありの者たちが丘に引き寄せられる。
サンダルを作るゴムの臭いは、「甘い」らしい。
それに対して、好きな匂いだと言う、作家や探偵は、この丘を必要をとしていない。
逆に、この丘を必要としている人には、受け入れにくいイヤな臭いに感じてしまう。
「場所」に対する嫌悪感、ここまで堕ちてしまったという想いが、甘い臭いを拒絶するのだろう。
それなりの覚悟と諦めをもってしても生理的に拒絶してしまう感覚か。
しかし、この丘は、この工場は、この工場で生きる人たちは、誰もを受け入れてくれる。それは少々乱暴だったり、雑だったりするが、誰もを拒絶しない。去っていく者に対しても同じだ。干渉しないということでもない。
ここはどん底ではなかった。
死をも意識した女が、死のうとする女を助ける。確実に再生していく姿がそこにあった。
ここが帰る場所だと思う者には、いつまでも甘い匂いを振りまいてくれる丘だ。
ちよっと不思議な前向きさが気持ちいい。
「ヤルタ会談」/「隣にいても一人~関西編~」
青年団
学習院女子大学 やわらぎホール(東京都)
2009/11/07 (土) ~ 2009/11/08 (日)公演終了
満足度★★★★★
やっぱり青年団は面白い!
観てて楽しい。
「ヤルタ会談」
ちょっとだけ、がちゃがちゃしていたけど、役者のキャラクターが活きてて、とにかく面白い。
史実と虚実を混ぜながら、細かいところでチクリとやったり、笑わせたり。戦後の冷戦体制や現在も進行中のいろいろな世界情勢の大本になった史実だけに、観る側の知識もある程度は必要ではないだろうか。
「隣にいても一人~関西編~」
恐ろしいほど「間」が絶妙。ネイティヴの関西人から見るとイントネーション等はどうなのかはわからないが、繰り広げられる会話の応酬は、関西の外にいる者としては、いや〜関西風味、と思ってしまう。物語も面白いし。
学習院女子大のホールにある舞台の上に客席と舞台が設置されていて、アゴラぐらいのキャパになっていた。装置はシンプル。
ネタバレBOX
「ヤルタ会談」
スターリンがナイス! チャーチルの葉巻には笑った。ルーズベルトはどこか愛らしいし(笑)。
スターリンとチャーチルの不仲な感じがあればもっとよかったかな。
中学の社会科の授業で上演しても面白いのではないだろうか、と思ったり。
「隣にいても一人~関西編~」
朝起きたら夫婦になっていた、という一見不条理な物語。カフカ? なんて思って観ていたら、カフカのことがすっと出てきて笑わせるあたりのセンスはさすが。
家にいて、徐々にリラックス感が醸し出されていくあたり、突然夫婦になった2人のぎこちなさ、離婚間近な夫婦の微妙な息の合い方など、出演者すべてがうまいなぁと。
そして、2作とも、食べたり飲んだりする芝居だった。
ろじ式 ~とおくから、呼び声が、きこえる~
フェスティバル/トーキョー実行委員会
にしすがも創造舎 【閉館】(東京都)
2009/10/23 (金) ~ 2009/11/03 (火)公演終了
満足度★★★★
一瞬一瞬が絵になる
博物誌
生活物
動き声を発するオブジェたち
あるときは、舞踏・ダンス
またあるときは、合唱
ネタバレBOX
タイトルにあるテーマを背骨に、各パートごとに構成されている。
それは、舞踏やダンスにも似た構成であり、実際に舞台で表現されるものも、それ似たような感覚のものだった。
白塗りの顔で、まったく同じ衣装でカテゴライズされた出演者たちが、音楽に乗せて、声を発し、身体を動かしていく。
発する言葉と、その様子、そして舞台装置にある標本類から、まるで博物誌のような印象を受けた。
過去の遺物を留めることは、舞台にも現れる昆虫網を持った少年たちのようで、「ろじ」という言葉とともに郷愁を誘う。
ただし、白塗り同じ衣装に塗り込められてしまい、同じ動き、言葉を強いらた個性は、その存在を発することはなく、まさに、骨となって個別の名前ではなく、種の名称だけを付けられてしまった標本のようだった。
もちろん、体型などから個人の認識は可能だが、意図はそうではないのだろう。
同じように白く塗り込められてしまう、舞踏では、その白塗りから、立ち上がる個性があるのとは対照的だ。
「絵」としては美しいのだが、舞台にいるのが役者ではなく、動き、言葉を発するオブジェのように感じたのは私だけだろうか。
「ろじ」という抽象的な概念から、さらにそこに生きた「人」へ落とし込んでほしかったように思うのだ。
まさに、舞台の外では、屋台村のような路地でわいわいと、食べたり飲んだりしている人がいるのだし。
また、音楽に合わせての台詞と動きが、内容はそれぞれ違うものの、パターンとして同じなので、少し飽きてしまった。
途中にあった、競りなしでの動きは、力があり、素晴らしいと思ったし、女性たちが頭に小物を乗せ、言葉を発する様は、ケチャのような気持ちのいい音楽にさえ聞こえたのだが。
さらに、多くの出演者が舞台にいるときに、手を抜いているのか、気が抜けているのか、なんかちよっと違う動き(動きが少なかったり、ぴっと力が入っていなかったり)をする人がいたのに、全体を見渡していると気がついてしまい、少々残念。
台詞の中で、固有名詞はしょうがないとしても、そうでないであろう台詞が、大勢で言うので、何て言っているのかつかめないところもあり、なんか悔しかったり(笑)。
これらの印象は、維新派に対する期待が大きすぎたのかもしれないのだが。
生きてるものはいないのか
五反田団
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2009/10/17 (土) ~ 2009/10/31 (土)公演終了
満足度★★★★
その存在が薄まってしまったか? 過去のモノになってしまったか?
再演である。
新作「生きてるものか」との2本立てである。
だから、「生きてるものはいないのか」と「生きてるものか」と比べてしまうのはしょうがない。
タイトルも似ているし。
似ているのはタイトルだけじゃないし。
ネタバレBOX
「生きてるものはいないのか」は、死が怖くない。それは死に気がついて死ぬまでの時間が短いのと、誰にでも訪れるということから。
だから、死より取り残されてしまうことのほうが恐怖である。最後の1人になりたくない。
そして、死の理由とかはあまり詮索しないし、やけにジタバタしない。
一方、あまり、ジタバタしないのは、新作の「生きてるものか」も同じ。ただし、そこには命の愛おしさを感じた。
「生きてるものか」が存在している今、「生きてるものはいないのか」と比べてしまうのはしょうがない。もちろん、それは好みの問題だけど。
新作「生きてるものか」がラストの風景に見事集約、収束されていく中で、「生きてるものはいないのか」のラストは、じんわりと広がる感じ。
人がたくさんいるのに孤独であるというラストの哀しさ、ひよっとしたら世界でたった1人かもしれないという、底知れぬ怖さは十分に感じた
後味は悪くないのだが、「生きてるものか」で感じてしまった後味が良すぎたので、「生きてるものはいないのか」の味が少々薄まってしまったように感じた。
とは言え、「生きてるものはいないのか」が古くなってしまったり、過去のモノになってしまったという感覚もない。そのあたりの表現が難しいところだか。
食べ物の味付け的には、薄味が好みなのだが、舞台は強いモノに印象が残る。それは単に「濃い」という意味だけではない、後印象。
完全に別の作品というほどの距離感でもない、この2作品は、並べて味わうことが前提に上演されているし。やっぱり食べ比べてしまう。
人々が訳もわからず次々と死んでいく話ということは、まったく同じなのに、こうも印象が違うのだ。
というより、それだけ(あえて言えば)の話なのに、この2作品を作り上げた力は感動モノだ。
1つひとつのエピソードと繋がりが見事だし、わずかな台詞なのに見事にバックボーンみたいなものを感じさせてくれる。こうしたエピソードが全世界で繰り広げられているという、広がりまでも感じることができるのだ。
どこかの家電メーカーでは、「今自社で売れ筋の製品が売れなくなるような次の製品を生み出せ」的な意識で製品開発をしているという。
前田さんは、そういう意味では、自作を超えて行ったのかもしれない。
今回の2作併演は、それを明らかにするという意味では、成功だったのだろう。
また、「生きてるものか」だけを上演していたら、タイトルとその内容で「二番煎じ」的なレッテルを、うっかり貼られてしまいそうなだけに、前作との上演は必要だったとも思える。
モノを生み出していき、それを誰かに見せるということは、やっばり難しいものだと、素人の私は思ったのだ。
蛇足的に書くと、「生きてるものはいないのか」は、役者間のコミュニケートがなんか、あまり良くないように感じた。変なズレみたいなものがあるのだ。なんかすっきりと繋がっていかない。ズレが面白みのような形で提示されていれば、面白かったのだが、それは感じられなかった。その違和感は何なのか気になった。
異常事態の中で初めて出会う人と人のズレにしても何か違和感。ピンポイントでのズレや違和感なのであれば、意図しているのだともとれるのだが。
そんな中、ナナ役の笠井里美さんが良かった。生きている実感があったし、特に都こんぶの粉にむせるあたりは秀逸だった。
で、この2本を1本の作品にして、第1部「生きてるものはいないのか」休憩、第2部「生きてるものか」の3時間モノにするっていう手もあるんじゃないかと思ってみたり。
か・ら・く・り
劇団岸野組
本多劇場(東京都)
2009/10/16 (金) ~ 2009/10/25 (日)公演終了
満足度★★★
うーんなんて言うか、なんか残念的な
おっと、この物語、一体どうなるの??
というスタートに対して、どうも、なんか、なんかねえ。
期待とは違ったというか、なんと言うか。
歯切れが悪くてすんません。
何が悪かったのかよくわからないけど、なんかちょっと残念的な感じ
ネタバレBOX
江戸の長屋、文七が朝起きたら女房のお夏がいないことに気づき、知り合いの同心と岡っ引きを呼んでくる。
長屋の連中も出てきて大騒ぎになっているところへ、ひょっこりといなくなったはずのお夏が帰って来る。
ところが、文七が「これは女房のお夏じゃない」と言い出す。長屋の連中は間違いなく女房のお夏だと主張する。
もともとこの夫婦は、訳ありで、大店のお嬢さんだったお夏と文七が手に手を取り合って、駆け落ちさながらに家を出てきていた。
そしてお夏の実家では、2人の仲を今も許していない父親が亡くなったという。遺言によると、その全財産は娘のお夏に譲るということだ。
さて、このお夏は、本物なのか、それとも偽物なのか、何か「からくり」があるのか、で物語は進む。
ああ、なんかワクワクするじゃないですか、この出だしは。
そう思いますよね。
で、結論から言えば、この物語自体が少々古典的であり、設定が江戸時代で、同心が、目明かしが、というスタイルぐらいが丁度いいという程度の推理ものだった。
この物語の中心にある「からくり」が、わかったところで、「はぁ、そうですか」というぐらいだし、その後の展開も「あぁ・・」となる程度。
もともとの原作のタイトル「罠」を単純に「からくり」として、台詞でもそう言っていた。
と言うか、「からくり」よりも「罠」のほうが意味的にはしっくりくるような気もするのだが。
それはいいとして、ラストにすっきりと胸がすくような話というよりは、どんよりとする話でもあるのだが、なんか、全編、全体的に楽しげで、それがこのストーリーとの雰囲気において、どうなのかな、とも思ったり。
所々に笑いがまぶしてあり、大笑いしながら、ラストがどんよりというのもいいのだが、それほど笑えるわけではなく、その対比が楽しめるわけではない。
笑って人情もののオチになるのかなぁと期待して観に行った者としては、なんか、もうひとつ足りないというか、何というか、残念的な感じが、ちらほら。
謎解き自体がそれほどではないのだから、何か別の要素に重きを置いて見せてくれてもよかったのではないかと思ったり。
役者が特別に悪いということはないのだが、どうもすっきりとしない心持ちであった。
客演の戸田恵子さんは、すっとしてて、とても素晴らしいと思ったのだが。
細かいことだけど、夜鷹が眼鏡をしているっていう設定はありなのかな。大切な設定なんだけど。江戸時代の眼鏡って高そうじゃない?
この「罠」という芝居は、最近どこかで上演されたような気がするのだが、そのときはどうだったのか知りたくなったのであった。
OH!マイママ
劇団NLT
博品館劇場(東京都)
2009/10/22 (木) ~ 2009/10/25 (日)公演終了
満足度★★★★
ベテラン世代だから表現できた爆笑コメディ
エンジンがスタートするまでは少々もたついたが、いざエンジンがかかるとフル回転。
観客は、笑おうと準備万端だったので、いったんそこに火が点いたら、そのいい雰囲気で一気にラストまで突き進んだ。
周囲が笑うと、笑いやすいし、それにうまく乗って笑うと、とっても気持ちいい。
2時間25分(休憩15分含む)
ネタバレBOX
物語は、説明にあるとおり。
再々演があるかもしれないので、肝になるネタバレは書きません。そこを大笑いしたし。
そのあたりをいろいろ書きたいのだが、今回ばかりは我慢しよう。
説明にもあるように、キーマンとなるアメリカ人のフランク大佐が出てきてからは、話が一気に回転しだし、あとは笑いっぱなし(ちょっと大げさかな)。
予想外だったり、予想内だったりの物語の展開を、役者さんたちが、とてもいい味で支え、気持ちのいい舞台が展開していった。
謎の部分をいつまでも引っ張る訳ではなく、その秘密の内容をうまく転がすところが、この脚本の面白さであり、見事だと思った(メイドの伏兵もあったりして)。
そして、それをきちんと観客に届けるのは、役者のうまさであり、味なのだろう。翻訳コメディに、いかにもありそうな人物設定だったが(特に息子)、見ている側がすんなりと入っていけるところが、ベテランの役者さんたちの素晴らしいところだと思った。
ちょっとした仕草や表情がとてもいい(特にフランク大佐の微妙な立場の表現が)。「味がある」と言ってもいい。
この年齢の方たちだから、過去のことや現在起こっていることに対しての許容範囲が広く、それがこの物語の柱でもあり、ベテランの役者陣がその雰囲気をうまく出していた。
「あれ、何だろう?」と思っていた、オープニングのダンスもうまく繋がっていくし、物語の収束のさせ方にしても、ちょっといいのだ。
いわゆる「人情喜劇」というわけではないのだが、人の繋がりや人の歴史、人のやさしさのような部分あたりに、思いを馳せることになるのだ。
カカフカカBig2
カカフカカ企画
アイピット目白(東京都)
2009/10/15 (木) ~ 2009/10/25 (日)公演終了
満足度★★★★
【大脱獄】バカバカカしさがバクハツツ!!
ああ凄い。
素晴らしいバカバカしさが全編に溢れる舞台。
ずっと顔が緩んでいる阿呆面で観劇していたことだろう。
鏡があったら恥ずかしいぐらいの阿呆面だったことは間違いない。
なんかすべてが意外といい塩梅。
胸焼け、胃もたれしないというか。
ひょっとしたら、技巧派?
ネタバレBOX
ちよっとした小ネタ的なやつが、演技にも台詞にも衣装&メイクなどに丁寧にふりまいてあり(女王とプリンセスの髪飾りとか!)、その全部を特に拾わないあたりが潔い、というか、全部拾ってたらキリがないし。
だけどサービス精神はたっぷり、どっぷり。
デフォルメされたキャラクターが満載。だけどお腹いっぱいにならない適度さが、あるところが素晴らしい。
適度にお下品で、適度に過激っぽくて、適度に笑える(もちろん大笑いもある)。
舞台を引っ張るエネルギーは凄いのだが、不思議に疲れない。
単に力押しで、ぐぃぐぃといくわけではないのだろう。
適度さがうまく演出されていて、嫌味さをまったく感じないっていうのにも驚いた。
結構、技巧派?
普通に近い登場人物が、狂言回しで、ひたすら突っ込みを熱演する、名無しの太郎と、春゜子(バルコ)だけというのもいいのだろう。こういうキャラクターがいい箸休め的な感じになるのかもしれない。
(たぶん)アテ書き的な配役なのだろうが、こういう人はこの役で、これができる人はこれで、呂律が固い人はこの役で、みたいな配役がうまくって、どんな舞台でも1人ぐらいはいる、「ああ、この人は・・・うーん」みたいな人がいなかったのもいいのだ。
どうでもいい話で、なんだか変な人たちが次々と現れては、物語を揺り動かす。揺り動かしながらも、きちんと(?・笑)と収束させる力は見事。
やっぱり、技巧派?
ぜひ、もう1本のほうも観たい! と強く思ったのだが、どうも日程が合いそうにない。残念。悔しい。
で、最後に正直に告白すると、ラス前のなんかゲームのパロディらしき展開で、周囲の若者たちが大笑いしていた中で、もうひとつ笑っていなかった、ケームをまったくやらない私がいたのだ。
あ、そうそうこの日のイベントがまた凄まじかった。
今回上演したのラストの約40分間分を、なんと5分間で再度上演するというものなのだ。このバカバカしさが素晴らしすぎる。
生きてるものか【新作】
五反田団
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2009/10/17 (土) ~ 2009/11/01 (日)公演終了
満足度★★★★★
シンプルなのに面白くて、じんわりせつない
ああ、なるほど、という演出の面白さはあるのだが、物語はシンプルな構造。
なのに面白くって、じんわりと後から時間差でいろんな感情がやってくる。
台詞と演技の不思議なリズムで、「行間」を読み取らせるような演出と脚本が見事。
ネタバレBOX
「死」が世界に突然やってくる。
もともと「死」は無慈悲なものであり、突然なもので、歓迎せざるものであるのだが、それをより強く感じた。
誰のもとにも分け隔てなく訪れるということも。
それぞれの人生の一端を垣間見せるという手法がうまい。
その人の生活・生き方が、すっと見えてくる、浮かんでくるようなところ(まるで行間を読ませるような感じ)が、とてもいいのだ。
オープニングは死屍累々で、まだまだのたうち回って死んでいく人がいる、という効果音(バタバタとばたつく音)も聞こえていたのだが、それに気がつくのは、物語が動きだしてから。
「結局みんな死んでしまった」というのは、オープニングであり、逆転で、つまり死→生に見せているため、「死」の凄惨さや辛さはあまりすぐに感じない。しかし、その人のことが少しわかってくると、さっきまで横たわっていた姿(死体)が脳裏をよぎり、じんわりと、そんな感情も時間差でやってくる。
さらに、オープニングを見て、知ったことによって、ラストが効いてくる。
ラストが、時間的経過でいえば、物語のエンディングではなく、スタートなのに見事に、この舞台のラストと成り得ており、さらに、命をいとおしむ、小さな幸せ的な、せつなさが観劇後襲ってきた。
とても印象に残るいいラストだった。
ただ、この脚本に(あるいは台詞が)合わないのではないか、と感じてしまった役者の台詞が、「台詞」に聞こえてしまった。単に初日だったということなのかもしれないのだけれど。でも、そこを強く感じてしまったスタート直後がちょっと退屈になりそうだった。
そういう意味では、前田さんが、とにかくいつもの口調だし、自分の言葉だから当然かもしれないが、とにかく「言葉」に聞こえた。
そして、枡野さんも、不気味キャラクターが見事だったし、佐藤さんや、待ち合わせをする女性の方も、すっとこの世界に入り込んでいて素晴らしかった。
後半はとてもよかった。笑ったし。
「革命家」のネタバラしも最高。
ちょっと気になったのだが、役名の言い間違いが2カ所あったことだ。後のほうは(自分の名前で相手を呼んでしまう)、前田さんが切り返して、笑いにしていたのだが、前のほうは(森さんと林さんを間違えていた)、何か意味があるのかと思っていたのだが、どう考えても間違っていたようにしか思えない。後ろのほうのときには、同じ舞台にいる役者さん2人が吹いているように見えたし、前のほうでは、「森さん」と紹介されていた「林さん」が戸惑っているように見えたのだが。
また、演出のため、後ろ向きにはけるので、役者が入口で、扉にぶつかってしまう、という状態が2、3回あったのだが、これもそれを見ている役者さんが笑っていた。その笑いもぶつかりも、素っぽく見えたのだけど・・・。
2回続くと、ひよっとしたら、後ろ向きで歩かせるということで、当然起こり得るハプニングとして演出したのか? と思ったりした。
ま、それらが不快だったというわけでもなく、笑っちゃったからどうでもいいことではあるのだが。
落語の国のプリンス
極楽歌劇団
北沢タウンホール(北沢区民会館)(東京都)
2009/10/16 (金) ~ 2009/10/16 (金)公演終了
満足度★★★★
肩の凝らない面白ミュージカル
タイトル通り落語をテーマにした、ミュージカル仕立ての舞台。
芸達者が揃っていて、すべてが気持ちよく進行する。
観終わって「ああ、楽しかったな」と思えるような舞台でもあった。
ネタバレBOX
落語の国のプリンス=与太郎・・ああなるほどね、と思いつつ観劇。
ストーリーは、説明にある通りで、江戸時代の大阪で、空から降って来た赤ん坊が、与太郎と名付けられ、貧乏長屋の住民に育てられる。その与太郎は、地獄で閻魔様や大石内蔵助に出会ったりしながら、自分の出生の秘密を知る、というもの。そのストーリーに、落語のいろんな話を盛り込んであり、歌などを交えながら、トントン進む。
ちなみに、その秘密とは、与太郎は、悪い方向へ進んでいる人類を一回リセットするために、神様が送り込んだ、人類滅亡のための最終兵器(!)だったという思いもよらないものなのだが。
ファンがいるのか、舞台と観客とのコール&レスポンス(笑)も滞りないし、とにかく観客が温かい。それも当然、なんと言っても、劇団の、お客さんを楽しませようという気持ちが強く現れていて(それも強烈なものではなく、いい塩梅で)、こちらも、ほっこりした気持ちで観ることができる。
ただ、マイクを付けての舞台なのだが、音量がやや大きく、普通の台詞はいいのだが、叫んだりすると耳にキンキン響いたのが、ちょっと辛かった。
噺劇と落語の会
北沢タウンホール
北沢タウンホール(北沢区民会館)(東京都)
2009/10/13 (火) ~ 2009/10/14 (水)公演終了
満足度★★★★
面白かった!
前回、噺劇を観たときに感じたのは「落語のまんまでいいんじゃないの?」だったのだが、今回は「噺劇って面白いな」と素直に感じた。
しかも、中入りを挟んで約120分、落語3題+噺劇2本という盛りだくさんの内容だったが、どれも楽しめた。
次々と適度な長さの演目が続くのもいいのだろう。
ネタバレBOX
落語の桂九雀さん、柳家小権太さんの面白さは当然としても(特に座長?の九雀さんの落語は大爆笑だった)、噺劇(落語の内容を普通の着物で、セットも小道具も扇子・手拭以外は使わすに、複数の役者が演じる)も面白かったのだ。
今回のゲストは小宮孝泰さん(落語も披露した)で、そのお芝居がなんともいいのだ。「うまいなぁ」と思った。噺劇という舞台の持ち味をうまくつかんで表現しているという印象だ。
噺劇とは、落語を演じるのだが、自らも落語をやる小宮さんだから落語の所作のような動きを盛り込み演じていたようで、そう感じたのだと思う。
つまり、小宮さんは、「芝居」と「落語」を橋渡ししていたように見えたのだ。
もちろん、他の役者さんたちも、かなり芸達者な方たちで、「芝居」としての舞台を、キリっと作り上げていた。彼らの演じる、お妾さん、元芸者、蜆売りの子どもに、ねずみ小僧、どれもカタチがいいというか、格好がいいというか、塩梅がいいのだ。お妾さんの明るく艶っぽい雰囲気、元売れっ子芸者としてのキリっとした佇まい、台詞回しのカタチがいい大泥棒という感じのねずみ小僧。
特に、蜆売りの子どもの方は、確か前回は、艶っぽい女性を演じていたのだが、今回は子役、それなのにピタッと、芝居らしくはまっているのには舌を巻いた。
さらに前回の噺劇は、その演目のためか、ここに戸があって、部屋がこうで、という説明的な動きがかなりあったのだが、今回は、それがあまりくどくなく、場面展開もすっきりした演出が効果的だった。
特に九雀さんが落語を終え、そのまま噺劇の説明から「転宅」への導入するあたりは、お見事だった。
残念なのは、客席がびっくりするほど空いていたことだ。
残りの2回の公演はどうなのかわからないが、面白くなってきたこの企画、続いてほしいと願うばかりだ。
私たち死んだものが目覚めたら
shelf
アトリエ春風舎(東京都)
2009/10/09 (金) ~ 2009/10/18 (日)公演終了
満足度★★★★★
張りつめた中の美しさ
絵になる「美しさ」もあるが、隅々まで神経を張り巡らし、研ぎすまされたような美しさが舞台で繰り広げられていた。
それとは対照的に芯に「力強さ」もある舞台でもあった。
美しさと力強さの前にあって、ただ集中して観ている私があった。
ネタバレBOX
最初に全登場人物が舞台に現れる。その姿、フォーメーションとも言える位置関係、構図にため息が出た。
たぶんどの席から観ても美しいものだったのだろう。
そして、その位置が彼らのいる位置(付け)・場所を示しているように感じた。
物語が進行するに従って、登場人物の位置が微妙に動く様は、その時々の彼らの位置づけであり、意味であるように見える。
当然、主人公の彫刻家ルーベックは終始ほぼ中央に位置し、彼を巡る女性たち、彼の夫人は前から、昔モデルをしていたイレーネは後方より、現れて去る。
その動きも美しい。
黒子役になった保養所監督の、舞台上の空気を壊さない移動や、顔のまったく見えない尼僧看護人の手の動き、角度まできちんと計算され、見事に決まっている。たぶん呼吸の1つひとつまでコントロールしないと、この表現はできないのではないかと思った。
もちろん、ルーベック夫人とイレーネの動きや向き、位置などの決め方も美しい。
また、ルーベック夫人は疲れた美しさ、イレーネは強く強靭な美しさを見せていた(まるで生者と死者が逆になったよう)。死者と生者を見事に示す2人の衣装の配色(血の色と死の色)もとても良い。
そして、ルーベックの目はラスト近くまで虚ろに見えた。
イレーネの強く強靭な姿は、療養中であるのだが、彼女の中には、まだ強靭な想いが秘められているのと同時に、ルーベックの、彼女に対する感情の反映だったのではないだろうか。
モデル時代のイレーネの、ルーベックに対する想いは薄々感じていたものの、当時の彼にとっては、創造こそがすべてであり、イレーネの気持ちは踏みにじっていた、という「後ろめたさ」があり、それが、突然現れたイレーネに対して「怖さ」とも言える感情が呼び起こされ、彼女の強さとなって感じてしまったのではないかと思うのだ。
つまり、ルーベックが見ているイレーネ姿を、我々も見ているという感覚だ。
イレーネは、ルーベックが彫刻にかける想いは、自分への愛だと思って献身的に尽くしたのに。そこに、彼女の勘違いがあったのだろう。
クリエイターが創造にかける情熱の凄さは、周囲を巻き込まざるを得ないほどのものであろうことは想像に難くない。イレーネは、ルーベックのそれに巻き込まれてしまったのだろう。
そして、彫刻が完成し、後に残ったのは、報われないイレーネの抜け殻。そして、彼のもとを去ることになる。しかし、「私たちの子ども」とルーベックの作品を呼ぶように、まだ未練だけは抜け切っていない。
ルーベックも、当時は、創造に対する自分の想いと、モデルに対するの想い(美への想い)と、それへの愛情が区別できる状態ではなかった。
しかし、創造への熱意が失われたときに、最高潮にあった当時の自分を思い出し、それがすべてイレーネから発せられたものだと思い込むのだ。というより、そう信じたいのだろう。
自分の創造の源が枯れてしまったのではなく、それは小箱の中にまだあり、また開けることができると信じることで自分の存在が正当化されていく。
その小箱のキーは、まさにイレーネである。
そして彼女は、再び自分の前に現れた。
かつてルーベックとイレーネは、互いに互いを必要としていた。ルーベックはイレーネを素晴らしいモデルとして、イレーネはルーベックを愛の対象として(ルーベックの情熱を取り違えてしまって)。しかし、互いの「愛」のベクトルは一致していなかった。
そして、今回の出会いも、互いを必要として強く結びつきたいと思っているのだが、やはりそれぞれの「想い(愛)」の対象は一致していない。ただ、一点、「あの頃に戻れるのではないか」ということだけは一致していて。
「芸術家」という言葉に縛られてしまった男、「愛」という幻に縛られてしまった女、ともに過去にとらわれてしまっていて、今を生きていない=死んでいるのも同然であった。
再び出会ったことで、死から目覚めることができると信じていた。
しかし、そんな昔に戻れるはずもなく、2人の想いは永遠に同じ方向に交わることはない。
したがって、2人を待つのは悲劇のみだった。
イレーネの影は、黒い衣装の尼僧看護人だが、実は彼女の良心・常識であり、ルーベックとのつながりを拒むものであった。
生きる者の猥雑さと強さは猟師が発散していた。もはや生きていないルーベックとイレーネにはない要素であることが浮かび上がる。
ときおり、聞こえる音楽もとてもよかったし、やはり、役者の佇まいも最高だったと思う。
台詞も美しく、古典的な太い幹を感じる戯曲だと思った。
そして、わずか80分なのに、たっぷり感があり、とても幸福な気持ちで小竹向原を後にした。
河童橋の魔女
劇団ジャブジャブサーキット
ザ・スズナリ(東京都)
2009/10/07 (水) ~ 2009/10/11 (日)公演終了
満足度★★★
少々ぼんやりした感じ
ストーリーも各キャラクターも。
物語はちょっと面白くなりそうだったのに。
ネタバレBOX
何が隠されているのかが明らかになっていくというものなのだが、説明に書かれていたとおりであり、明らかになっていくものもそれほど意外でもなく、という印象。だから、いわくありげに引っ張ることもないのにとも思ったり。
それぞれのキャラクターが薄い印象。その内面まで見ることができない感じ。
母娘の関係にしても、イマイチぴんとこなかった。リアリティが感じられなかったからか。したがって、ラストに母と出会う姿にも感動には結びつかず惜しい気がした。
異界の者たちは、人間には見えないという設定なのだが、その「見えない者」という芝居がもう少し感じられてもよかったように思える。そして、人間たちが死に近づくことによって、段々見えてくるようになるという設定であれば、もっと納得がいったのではないだろうか。
異界とこの世との交点である河童橋ホテル、そこは、死というものに近い人しか行けない場所。そして、異界の者と人が接する場所でもある。
こういう設定と、ラストの展開(セットのことなど)を含めて考えると、大変失礼な言い方かもしれないが、まったく濃くない、というより薄めの劇団桟敷童子のように思えてしまった。
桟敷童子との大きな違いは、情念みたいなものが感じられないところだ。ただ、それがこの劇団の個性や流儀なのであれば、単に好みの違いということなのかもしれないのだが。
もちろん、桟敷童子とまったく同じテイストのものを観たいということを思っているわけではない。それぞれの劇団の色や味を味わいたいと思っている。
情念のようなもののなさは、生に対する意欲を失ってしまった人たちが舞台にいるのだから、自ずとそうなるのかもしれないが、「死」に対する「生」、生きていることのエネルギーみたいなものが舞台になければ、対する死へのイメージも定まらないように思えるのだ。
なぜ、自ら死んではならないのかが、見えなくなってしまうのではないだろうか。それは、異界の者たちの人に接する方法についても同じで、異界の者たちの人に対するスタンスと、存在理由が定かになっていないように感じてしまうのだ。
観る方としてはそこがもどかしい。
全体的にメリハリに欠ける気がした。すーっと物語が流れていくだけで、ひっかかりがない。だから、壁が開いて森らしきものが見えても感動も驚きもない。開いた壁も、広くもなく、狭くもない、まさに中途半端な幅が開いたという感じだ。
出演者は、それぞれのキャラクターにあまり見えない。作家は作家に見えないし、娘は何歳なの? と思ってしまうし、お母さんはお母さんに見えず、特に酔っぱらっているはずの姿は辛かった。女性の後をつけてホテルに来た男は、嫌な雰囲気満載だったが、それでもその男のバックボーンが見えてこない。
そのように登場人物を見せるのには、なぜか理由があるのかと思っていたが(つまり、演出的な)、特に何もなかった。つまり、各キャラクターがそれらしく見えないので、各人の深さにつながってこない気がしたのだ。
異界の者たちも印象が薄い。女性、年寄り、子ども、という記号的な印象のみが残るだけ。
特にホテルのオーナーが、一緒に暮らそうと持ちかける女性の異界の者は、その魅力がどこにあるのかが、わからない。彼が惹かれる女性であれば、観客にもなるほどね、となんとなくわかるような、フリのようなものが必要だと思うし、彼にもそういうそぶりが必要ではないかと思う。それが感じられないので、彼が女性に言う、一緒に山を降りようという台詞が唐突にしか聞こえない。
せめて笑いがもっとあれば、印象は大きく違っていただろうが、取ろうとした笑いもほとんど笑えなかった。
劇団の人がその世代なのかもしれないが、ガンダムのアムロネタは引っ張り過ぎではないだろうか。そんなに引っ張って、面白いのかな、アレ。
とは言え、最後まで飽きずには観られたのだが。
ヒマラヤと嘘
ハイバネカナタ
調布市せんがわ劇場(東京都)
2009/10/08 (木) ~ 2009/10/12 (月)公演終了
満足度★★★★
シンプルに面白かった
前説で上演時間が約2時間と聞いたときには、ちょっと身構えたけど、まったくそんな長さを感じさせなかった。
集中して、楽しく観劇。腰は少々痛くなったものの。
物語が面白く、話の繋げ方や進行方法にもストレスを感じない。
各キャラもデフォルメはあるものの、嫌味ではなく、それぞれがしっかりと立っていて、わかりやすい。
セットの上下左右の使い方は、模範的とも言えるようなもので、無駄がなかった。
つまり、演出も手際もよかったのだと思う。
ネタバレBOX
長女の死から、お互いにウソを言うことで、相手を安心させることしかできなくなってしまった母娘。
しかも、互いにウソをついているであろうことは薄々感じているのに、なかなかウソであることを告白できないでいる。その告白は、ほんの紙1枚の薄い先にあるのに、それを破ることが互いにできないのだ。まるで自分のウソに溺れてしまいそうになっているのに。
母ソウは、あまり流行らない食堂を切り盛りしている。母とヒマラヤ(!)を一緒に登山した男アゲオも食堂を手伝っている。
そのアゲオはソウと一緒にヒマラヤに行った体験から、映画を撮っているとウソをつき、ソウを新興宗教の教祖に祭り上げている。
娘アイは、大学の登山部に入り、母が何かを感じたらしい、ヒマラヤに自分も登りたいと密かに思っている。しかし、その登山部は、母が教祖となっている宗教の資金集め団体だった。
母ソウは自分が教祖になっていることも、娘のアイが怪しい登山部に入っていることも知らない。もちろん、アイも自分が母が教祖の宗教に取り込まれていることは気がついていない。
アゲオも、自分が仕掛けた宗教に関連した登山部にアイが入っていることは知らない。
母と娘のウソの上に成り立つ危ういバランスは、そろそろ限界かもしれないと互いに思っている。
宗教騒ぎとそれをかぎ回る刑事たち、そして、なぜか幽霊が見えちゃう(そのことは実に軽〜く出てくる)登山部の部員エガワが、絡まりあって、いろんなところにある、危ういバランスが崩れてきだし、ホンネや欲望が姿を見せ始める。
ソウがウソをついていることをアイに告白しょうと思うことで、宗教も終わりだとアゲオは悟る。
そして、(予定調和かもしれないけど)母と娘を取り巻く物語のエンディングを迎えるのだ。
母と娘がついていたウソは、「冷やし中華の作り方を知らないけど、メニューに入れてしまった」「彼氏が出来ているのに教えなかった」「死んだと言っていた父親は実は女を作って家を出ていた」「黙ってバイトをしていた」と、実に他人からすればどうでもいいことなのだ。
しかし、この親子にとっては、母に、娘に、ウソをついている、という状態が問題であるのだ。そんな、真っ当で真面目な家族の話が一番の軸になっているということは、ササクレ立っている私の心(笑)に沁みて、気持ちよかったのかもしれない。つまり、どことなくソフトな雰囲気(宗教がらみなのに変なダーク感もないし)が全体的にあったのが、心地よかったのだと思う。
ラストにある「季節外れの初雪が降るときに和解する」という予言があったのだが、てっきり、「お互いのホンネを書いた紙(1枚1枚に書かれており、輪ゴムで止めてある)」がフリだと思ったので、それが都合良く(笑)地震で降ってきたときが、それかと思っていたら、本当に初雪が降ったのだ。これは紙が降っただけで、季節外れの初雪としたほうが、よかったのではないかと思った。
細かい台詞で面白いことを言っているのだが、ことさらそれをクローズアップして「ここ笑ってください」という雰囲気がないのも好感が持てる。ただ、もう少し笑えてもよかったような気もするが(変なくすぐりみたいなものにはクスリ、ククスリとはしたけど)。
セットはシンプルながら、舞台をうまく使っており、無駄がなかった。ネットカフェから食堂に、ヒマラヤまでになるんだから。
狂言回し的なアゲオ位置づけの、宗教を仕掛けるのキャラクターは、ちょっと大げさで鬱陶しい(テンションが高い)のだけれども、この勢いがあるから物語が展開していくのだなと思えたし、自分のやっていることへの高揚感だと思えば、それほど違和感を感じなかった。また、娘のアイと母のソウキャラクターもなかなかいい。一番真っ当なキャラクターで真っ直ぐさが現れており、この物語の内容にふさわしかったと思う。一番素っ頓狂なエガワも、いい味を出していた。特にこの4人は印象に残った。
それにつけても、母娘のウソは白日のもとに現れたのだが、アゲオのホンネはどこにあるのかがわからないままだったのは、少し残念。彼の心の中も見えるようになっていれば、かなり素晴らしいものになっていたように思えるのだ。
ティーチャー!!
コメディユニット磯川家
シアターグリーン BIG TREE THEATER(東京都)
2009/10/02 (金) ~ 2009/10/04 (日)公演終了
満足度★★★★
ここまでドタバタだと、逆にぃ気持ちいい、フルマラソン・コメディ
舞台がスタートして、最初は「えっ何?」という雰囲気だったが、一気にテンションが上がり、とにかく声を結構張るので、「こりゃ、この調子で全編やられたら、逆にぃ辛いかも」と思いきや、テンションは確かに全編この調子だったが、とにかく笑った。
逆にぃ、というか久しぶりにかなり声出して笑ってしまった。
実にしょーもないことで笑えてしまう。
逆にぃ、しょーもないことで笑えるのっていいなぁ。
ネタバレBOX
職員室で教師たちが繰り広げるとは思えない内容のドタバタ・コメディ。
実際にドタバタしていたりする。
鬱陶しいキャラクターしか出てこないが、逆にぃ、そうじゃないとこのテンションは持たせられない。主人公池田先生と金髪男の鬱陶しさったらないぞ!(笑)
そんな人いないとか、そんなことあるわけないじゃないか、とかいうようなコトはすぐにどうでもよくなってくる。
このテンションで2時間ぐらいを突っ走るのだから、フルマラソン・ドタバタコメディ。っていうか、逆にぃ、そう呼んじゃおう。
力づくというか力技の感じがするが、逆にぃ、かなり細かいところにも気を配っているところが好ましい。ちょっとしたフリとかもなかなかだし。
エンディングに近いあたりで、主人公がなんとなく人生的なキビのようなことをノタマウのだが、その長台詞を出演者が静かに揃って聞くというスタイルは、イニシエの藤山寛美率いる松竹新喜劇か! と思っていたら、ちょっとグダグタにしてみせるあたりがなかなかいい。劇団の年齢は若いけど、そんなスタイルを知っていて、ワザとやったであろうところが渋い。逆にぃ、オマージュ・・・ってことはないか。
そういう意味では「えっー」「いやいやいや」という最近の若手の舞台で「ココ面白いところですよ」というシーンでよく聞かれるこの台詞を、最初のほうで一気に無駄に何回も言わせているのも小気味良かったりする。
(関西のお笑いの人たちがよく使っている、この台詞が舞台でヘタに出てくるとうんざりしてたので。もちろんウマく使えていれば笑えたりもするのだが)
エンディングから本当のラストに行くまでが、意外と長い。かなり粘る、粘る、粘る。だけど笑えるから許せてしまう。この粘りは、舞台全編を覆っており、劇団の持ち味なのかもしれない。ホントに粘る。笑わせたい、喜ばせたいという気持ちの現れと受け取った。
関西若手ナンバー1と自ら名乗っているが、それもうなづける舞台だった。
関西にはこんな劇団がひしめいているんじゃないかという幻想も見そうになったほど。
また、観たいものだ。
それにつけても、関西弁をしゃべるのは、花屋の親父だけで、後はそうじゃなかったのはなぜなんだろう? 今までのほかの舞台でもそうだったのだろうか?
ファニー☆ロボット
宴劇団ホームカミング
遊空間がざびぃ(東京都)
2009/10/02 (金) ~ 2009/10/04 (日)公演終了
満足度★★
やっぱりコメディは難しい
残念ながら笑えなかった(正確には2回ぐらい笑ったと思う)。
70分なので辛い、ということはなかった。
意外と熱心に観たりした。
ネタバレBOX
最初から博士と助手のやり取りが長く、少々かったるい。それが笑えるのならばまだいいのだけれども。
しかも、その会話は、状況等の説明台詞が多すぎる(全体的な印象としてもそうなんだけど)。
特に最初に秘書が訪れるまでが長い。
秘書が訪れてから、博士を新型のロボットと偽るのだから、例えば、こういう展開のほうがよかったのではないかと思う。
それは、博士がベンチ(これはベンチよりもソファーにするべきだと思うのだが)に寝ている。助手が起こすが起きない。そこへドアのノックがあり、約束の人がやってくる。
博士は約束を忘れていて、慌てて、ロボットのフリをする。訪問者は博士が演じるロボットを本物だと思い込み、出来に感心する。また、散らかっている部屋もロボットがやったことにする。
博士の演じるロボットは別の部屋に引っ込み、博士は博士として登場する。
訪問者は、さきほどのロボットが博士にそっくりなので、さらに感心する。
そのやり取りで、何を作っている博士なのか、そして、訪問者は誰なのかが、博士と助手の延々続く説明なしで展開できるのではないだろうか。もちろんこれは単なる素人のアイデアなのだが。
(わざわざロボット製作の依頼で、人が訪ねて来るぐらいすごい博士が、普段はどんなロボットを作っているのかがまったく伝わってこないのも、どうなのだろうか)
最初に約束の訪問者が来るのが、今から1時間後という設定だったが、その設定の意味がまったくない。てっきりその1時間の間(つまりリアルタイム)に何かが起こるのかと思っていたら、単に部屋を片付けただけ。
だったら、約束の時間は、別に5分後でもいいし、1分後でもよかったわけだ。
わざわざ設定しているのなら、それにきちんとした理由がないのはまったく意味がない。それが笑いのためのフリであってもいいはずだが、それすらもなかった。
例えば、1時間後に来るはずの訪問者が、1時間早く来すぎて、博士たちは、訪問者を何かの勧誘と間違えてしまい、邪険に扱う的な展開だってあったはずなのに。
さらに舞台の隅を布で囲い、そこで博士と助手が部屋にいる人たちに聞かせられない話をするのだが、まるで、そこは別の部屋のようで、ひそひそ話すわけでもないのに、なぜかその声は部屋にいる人たちには聞こえないことになっている。
お芝居の決まり事というのでもなく、そこは、台詞でもあったように「大きな布」で囲まれているだけなのだ。だから声は聞こえて当然なのに、聞こえないことになっている。
てっきりそれが笑いのフリになっているのかと思えば(「マル聞こえですよ」と言われるとか)、本当に聞こえないらしい。布で間仕切りしただけなのにどうして? そもそもそこをわざわざ最初に布で間仕切りした意味がわからない。客が来るからということで、布を用意させて間仕切りしたのだ。部屋が散らかっているから隠したとは思えないし。声が聞こえない、という設定にするならば、ドアを立てて、初めから別の部屋の設定にしておけばいいことなのに。
社長が現れてからは少し面白くなってくる。こういう展開じゃないと。
ただ、バナナが出るたびのBGMが・・・。全体的にコメディっぽいところに、コメディっぽいBGMが流れるのだが、それが妙に安っぽい。その上、ロボットの登場でターミネーターの音楽って・・・。使うのはいいけど、笑いにしてくれないと。
そして、初日としてもカミすぎ。
・・・確かに、劇団メンバーの知り合いらしき人は、ツボって笑ってたんですけどねぇ。
コメディは初めてということなのだが、過去の作品は、ちょっと面白そうだったから気にはなる劇団ではある。
なんか4人のメンバーでガンバっている感はひしひしと感じた。