満足度★★★★
非常によくできたエンターテイメント
専用館ならではのセットや装置がうまく活かされており、開演前のわくわく感もある。
キャストは身体のキレがよく、どのシーンを見ても絵になる。特に、私が観た回は、男性キャストがよかった。
飽きさせない展開と演出で、2時間を超える上演時間が短く感じる。
これで、ストーリーが面白かったら言うことなしなんだけど。
満足度★★★★★
いつも「忘却曲線」の外にある
丁寧で淡々としながら、なにげない台詞が活きてくる。
あいかわらず時間と空間を交錯する演出は巧み。
吉田小夏さんは、どんどん研ぎ澄まされていく印象だ。
いろんなモノをそぎ落としたというわけではないのに。
ネタバレBOX
母は、子どもたちにとって、「過去」の象徴である。「過去そのもの」である、と言ってもいいだろう。
母の残した「日記を書け」という言霊は、残された子どもたちに「呪縛」として刻みこまれた。「日記」は「過去」そのものである。
母という地場は偉大である。トラックにぶっかって砕けてしまった父は、もう「いない」ので、過去なのだが、母は「過去であって過去ではない」。
つまり、「そこにいない」ことで「過去」でもあるし、「現在進行形」でもある。これは辛い。しかも、母の両親がかつて住んでいた家に住み続けているということも相まって、二重三重に掛けられた呪縛からは、子どもたちは絶対に逃れられないのだ。
呪縛を解くのは母しかいない。
だから、母は戻ってきて、その「死」によって、子どもたちを解放する。
母と子、姉妹と弟、そして、夫婦という「家族」という絆は、微妙にそのズレがある。そのズレが、ときには辛く、ときには温かい。声を荒げる姿は、誰しも自分の姿と重なって見えてしまうのではないだろうか。家族だからこそ、声を荒げてしまうことがある。これは他人から観るとキツイ。
その意味においても、本作で唯一の(今のところ)「他人」である山中という視点を入れたことは、うまいと思った。
実家から独立して暮らすということは、ある意味、ここの家族のように、誰かが家を出てしまったことに等しいだろう。
だから、この設定や台詞に実感できる部分がある。
遠くにいる両親や兄弟を想い、そこからは、弱いようで強い引力にいつも引っ張られている。
たぶんそれは、実は「死」ぐらいでは断ち切れることはないのだろう。
つまり、「家族」は「記憶」ではないということ。したがって、「家族」は「忘却曲線」の外にいつもある。
母と家の地場にがんじがらめの妻を夫は理解できない。しかし、たぶんこの夫だって、自分の家族の引力から逃れることはできていないはずだ。
2つの家族の引力に引っ張られつつ、夫婦は一緒になっているのだ。
だからぶつかりもする。相手側の引力しか目に入らないし。
ラストに、母が町に戻ってきて死を迎えてしまうのだが、それは、「母による束縛と解放」の手段ということらしいのだが、やっぱりイマイチ納得がいかない。
戻る理由(つまり出た理由)を具体的に示してほしいわけではないのだが、私にとっては、納得できる戻り方ではなかった。
まるで、「物語を終わらせるために死んだ」ようにしか思えなかったからだ。
私は、観ている間、後半で、母がネコに変わるあたりで、「ネコのように死んだ姿を見せないで消えていくのか」と思ったのだ。
だから、母の死は具体的な形ではなく、家族が「察してしまう」という方向で解放されていくのだと思ったのだ。
それは、すなわち、子どもたちの「独立」や「独立の芽生え」によってだ。
長女は、夫と家族を作り直し(てっきりラストに自分が「母」になって「母」との決別と、「母」とのさらなる強い関係性を構築するのかと思った)、次女は長い休息を終え旅立ち、三女は新たな家族の予感をさせ、長男もさらに一歩を踏み出すというような。
母役の方がたぶん一番若い方ではなかっただろうか。母は歳を取らないのだ。そして一番色っぽい。それは「パパに恋している」から。
それにつけても「パパ」は可哀想(笑)。
最後に母親に渡すのは、昼顔だったらよかったのにとも思った。
この舞台からは少々逸れてしまうのだが、こんな「家族」のカタチさえも、まるでメルヘンや昔話のことのように思えてしまう事件が多発することも事実でもある、というのも悲しいことだ。
役者はすべての方が、とても丁寧に演じていた。母を演じていた井上みなみさんは、過去の中で、艶々と活きている生命感が溢れていた。次女(小瀧万梨子さん)の強がった感じと、三女の大西玲子さんが印象に残る。
青☆組は、吉田小夏さん個人のカラーがとても強い印象だ。本人はすべてフィクションであるとおっしゃっているが、どうも「素」の本人がさらけ出されているように思えてくる。
具体的な吉田小夏さんのご家族の様子や内容ではない、「コア」の部分がだ。
それがコアであればあるほど、自分をさらけ出し、さらに他人をもさらけ出すことになる。そういう鋭さがあると思えてきた。
満足度★★★
どんどん宮沢賢治のお話が放り込まれる
ストーリーも広げていく。
結果、世界が膨張して長くなってしまった、という印象。
残念ながら120分が長く感じた。
ネタバレBOX
この劇団は、宮沢賢治がお得意らしい。だからどんどん物語に宮沢賢治の話を盛り込んでいく。
そして、登場人物が増えるごとに、宮沢賢治ワールドを軸に、さらに物語を広げていく。
そういうテイストは、面白いと思う。うまい具合に盛り込んでいくからだ。
しかし、面白みはあるものの、やりすぎではないか、と思い始めてもくる。
登場人物ごとに関係性を持たせたり、エピソードを重ねていくので、結果、全体が長くなる。というか、長く感じてくる。
そして、焦点がぼけるてくるのだ。
まず、誰が軸なのかがはっきりしない。
いろんな登場人物に、作・演が感情移入しているからだろう。
それは、もちろんいいのだが、観客にそれをそのまま見せてしまっても、こちらは消化不良になってしまう。
当然、ブドリが軸にあり、彼が妹の手を離したときに、貝の火を失い、視力を失う、ということから、本当の物語が始まり、それへの回答が物語のすべてになっていくのだろうが、その彼の物語が浮かび上がってこないのだ。
だから、ブドリと妹の関係が見えてこないし、なぜ妹が兄を赦さなかったのかがわからない。また、ブドリを追って火山に行ったアネルの意図もわからない。あっさりとブドリが火口に向かうことを認めてしまうし。
どうも、いろいろな関係がしっくりこなかった。
登場人物が多すぎるということもあるのだろう。サーカス団の女性たちは、賑やかなのだが、例えば、サーカスで何をしているのかがわからないし(黒子のようなひことはしていが)、いなくても成立したように思える。
そいういう、このキャラクターは必要があるのか? と思わせてしまうところが、長く感じてしまったことにつながっていると思う。
もう少し整理して提供してほしいと思った。
歌は楽しいと思ったのだが、「長いな」と思ってからのチェッカーズには、ちょっとイラっとした。教授にも歌わせることで、面白くしたいのだろうが、面白くなかったし。
また、衣装が、着物からカンフー的なものまでいろいろあったのが、どうも木に竹の印象しかしなかった。
役者としては、ブドリが熱演だったが、それが活かされてなかったような。また、ソンバーユーの存在には面白さがあった。
三兄弟の設定は面白く、彼女たちも熱演であったし、本来ならば、いい感じで狂言回しとなるはずなのだが、そうはなっていなかった。
また、男爵とTVのプロデューサーは、キャラの表現に細かいところまで気を配っていたが、味付けが濃すぎて(主張が強すぎか?)全体の雰囲気と合っていなかったように思える。彼のエピソードも盛り込みすぎだし。こういう役者ならば、もっと演出や設定によって、うまい活かし方があったのではないかと思うと残念だ。
満足度★★★
ちょっとがちゃがちゃした感じ
でも、かなり好きなテイストではある。
いつもフライヤーとタイトルに惹かれていた。
そして、初めて観た。
確かにタイトル通りだった、とは言える。
キャラが独特。
歌が楽しい。
だけど、そこに「愛」(あるいは偏愛)はあったのだろうか?
ネタバレBOX
ウェスタンカーニバルとマカロニウェスタンとマカロニほうれん荘、そして、ウエスタンに西部デパートという言葉の遊びに、有楽町西武と日劇、ウエスタンカーニバルという組み合わせ。たぶんこの言葉を思いついたときに、作者は「やった!」と思ったに違いない。
そこから(たぶん)広げていった物語には、それらの要素が見事に散りばめられていた。ガンマンの3人の名前とか、マカロニウエスタンからのおなじみの場面とか。
ただし、それらは、単なる「なぞり」にすぎなかったのではないだろうか。「言葉の遊び」の枠からは出ることがない。それぞれへの深みも感じられない。どの要素にしても、もっとマニアしか知らないようなディープ感があってもいいと思うのだ。
いろんなキャラが出てきて、それはとても楽しいのだが、どうも均等すぎて焦点がぼけてしまっているのではないだろうか。
物語の焦点が絞り切れていれば、キャラクターの軸もはっきりして、物語が整理されたような気がする。
つまり、マカロニウエスタンでも、ウエスタンカーニバルでも、はたまた西部デパートでも、思い入れがほしいのだ。それは「愛」(あるいは偏愛)とも言う。
思い入れがあれば、とりあえず入れました、のような扱いにならず、こちらにも伝わってきたのではないかと思う。
アイデアから形にするまで、いろいろと下調べをしたと思うのだが、もっと深く知って、それを他人に知ってもらいたい、というような欲望があってほしかったということなのだ。
そして、歌も楽しいのだが、やっぱりそこは、ウエスタンカーニバルに焦点を絞り、ロカビリーやグループサウンズ風な衣装の工夫や振り付けがほしかった(それにしても、歌のときになぜ「カラオケ」にしなかったのだろうか)。
ガンマンたちが腰に下げているのは、拳銃でなくて、マイクだったりしてもよいはずなのだ。
そういう「絞り込み」がされていないので、「全部乗せ」的な味の印象になってしまったと思う。
フライヤーのイラストや当パンのイラスト、劇団のキャラクターなどの雰囲気はとても好きだ。
その雰囲気をもっとセットに活かしてほしいと思った。段ボールというのは楽しい感じはあるのだが、今のままだと、貧弱な印象がしてしまう。あのイラストのような感じをもっとゴリゴリに出していったほうが、段ボールであったとしても、もっと楽しいと思うのだ。段ボールだからできること、もあるはずだ。できれば、段ボールであることの「意義」までほしいところだ。
登場人物としては、誰もが面白要素を持っているように感じた。中でもアルバイトのヒメノ(メリルリン子さん)は印象に残った。そして、ルミを演じた伊藤昌子さんの怪演(意味なく回ったりする)は素晴らしいと思った。味もあるし。
次回は、『フランケンシュタインの婚活』というタイトルらしい。また、面白そうなタイトルを付けてくる(笑)。
ここは、面白要素をたくさん秘めているので、できれば、観たいと思うのだ。
満足度★★★★★
丁寧に積み上げられた台詞劇
場面展開や時系列の進め方の演出が巧み。
どの登場人物も役者がうまく魅力的。
会話がいいし、面白い。
思わず引き込まれた105分。
ネタバレBOX
長く生きていると、誰もがどこかに空白を持ってしまっている。
それを埋めないと生きていけない。
記憶は曖昧だ。
自分の都合の良いように置き換えたり、すり替えたりすることはよくある。
と、いうか、他人の記憶と違っているところがあったりすることも、ままある。
共通であるはずの出来事なのに、視点が違ったり、ポイントが違うことによって、記憶が異なるぐらいよくあるし、誰かと誰かを取り違えてしまうこともあったりする。
それが極大化してしまったニイムラという存在が現れる。彼は、同じクラスメートにとっては、重い黒い点となって、彼らの歴史に爪痕を残している。
それだけに、「ニイムラ」という存在に対する記憶は、なんとか一致させたいと思うのだ。それは、クラスメートたちにとっては、「真相」というモノが抜けてしまった、ぽっかり空いた「隙間」でもあるからだ。
そうした、「特殊な」、そのニイムラの存在は、この舞台で象徴的に位置づけられる。
何かを何かで補完する、埋める、という意味において、
それは例えば、亡くなった子どもの代わりに、夫の弟だったり、引きこもっていて、空いたままの記憶だったり、ココロの隙間を埋めるための、愛情だったり、ギャンブルだったり、お金だったり、未来に伸びる空白を埋める飛行機の折り紙であったり、ニイムラの事件に対する真相だったり…。
そんな、代替物でも心の平和につながったりする。
空いてしまった隙間(空白)は、埋めなくてはならない。とにかく、とりあえず手元にあるもので補完(補充)して、世界は危うい姿勢で、ようやく立っている。
なくなった何かを、それと同等の質量で埋めるには、そんな間に合わせで埋めるには、まだまだ不十分だけれども、「幸せ」と呼ぶには十分な質量ではあろう。
みんな、実はそんな感じでやって(乗り切って)いる。
そんな、なんとかギリギリに立っていて、「幸せ」な人々の姿があった。
あり合わせの何かで隙間を埋めて、それでもって、過去を、今を、そして明日を生きていくのだ。
役者では、ニイムラを演じた三浦俊輔さんが出色。シマウチ(中川智明さん)の体内から(暴)力が溢れそうなのに哀しい感じもよかったし、イサミ(岡田あがきさん)の女子力が高そうなところや、ワダ(堀越涼さん)のしなやかさも印象に残る。また、ナカヤマ(こいけけいこさん)の「あ、いるいる」感というか、男前なところが、中学の女友だちを思い出させてくれた。好感度高い。
ただ、カウンセリングをするのならば、ニイムラとはそれらしい会話が必要ではないのだろうか。基本的な手法ぐらいは一応ある上での、会話(カウンセリング)であったほうがよいのではないかと思った。また、睡眠薬の多量摂取で入院した元看護師に対して(本人は「そういうのじゃないから」と言ったとしても)、医師の「頑張って」の一言は不用意すぎるのではないだろうか。医師だから、それは逆効果だということぐらいは知っていて当然だろう。
あ、そうそう前作『スメル』からの引用とかがさらりと入った遊びが楽しかった。
満足度★★★★
なんちゃら〜としては、ストライ〜ク!
何にもない。
ぼんやりしている。
でも、なんちゃらだから面白い。
ネタバレBOX
ちょっとだけ真面目な話をしよう。
私はそれほど昔からのファンではないのだが、ここ数回観て思うのは、彼らは「コメディをやっているわけではない」ということなのだ。
「結果として笑いが起きる」のだが、コメディではない…と思う。
コメディとして見ても「ゆるい」という視点から、それなりに楽しめることは確かであるが。
しかし、強いて言えば、この劇団のやっていることは、「不条理劇」が一番近いのではないだろうか。ご存じの通り、「不条理劇」というのは、意外と笑いが起きたりする。それをもっと笑いの方向に煮詰めていったり、いかなかったりすると、あひるなんちゃらの感じになると思うのだ。
ちょいちょい挟まれるメタな感じも。
コメディとしては、その基盤となる人物像が、あまりにも歪だったりする。思い切って言うと、軽いノイローゼな人たちしか出てこないのではないかと思うほどだ。
今回で言えば、友人を意味なく拒絶する女性だったり、豚肉を腹一杯食べたいがためにUFOを呼ぶ女性、さらに何でだかわからないが、毎日草野球をしている男、面白そうだったら(非番の日が前提だが)、悪事的なことをしてもいいと思っている警官など、明らかに歪で異様である。彼らの応対はさらに変である。
不気味とも言うかもしれない。
当然それはわざとそうしている…はず。
「そんな変な人いないよ」と言う人もいるだろうが、作・演をしている関村さんだって、そんなことぐらいわかっているはずだ。
もちろん、劇団の全員もわかっているはず。
そんな世界がいつもここにはある。
現実にありそうな状況もしくは設定の中で、思わぬ人間的な反応から笑いを誘うような、コメディとは明らかに立脚点が異なるのだ。
そんな世界を前提に物語が構築されている。
あひるなんちゃらを観ていつも感じるのは、「コミュニケーションを取りたい人たちの必死さ」である。
ウソやデタラメを言ったとしても、コミュニケーションをとっていたいという姿、痛々しいほどの姿がいつも見られる。
とんでもないことを言って、次の会話につなげていくことでの、不安の解消とでも言うか。
今回で言えば、小学校だけ行っていない女性とその友人の会話なんて、まさにそれである。「友人(メル友)」という言葉の周辺を、着地点を互いに知りつつも、いつまでも周回しているのだ。
「笑い」というお砂糖の中に、言いたいことが隠れている(いや、隠してはないか)。観客はお砂糖舐めて「甘い」と言いながらも、その中にある「変な味」に気がついたり、つかなかったりする。隠し味のように、その「変な味」に気がつかなくても、ひと味足されることで、深みが増しているのだ。
ただし、その「変な味」を「不快」に思う人も当然いるだろう。理解できない変な味だからである。それは、麦茶かと思って飲んだら麺つゆだったような不快感ではないだろうか。コメディかと思っていたのに、である。
毎回、当て書きであろう役者もいい。繰り返し客演している役者はその空気を確実に自分のものとしているように思えた。そして、ボー立ちと言えるような佇まいは、不条理である。
あひるなんちゃらの役者は、その足腰が強いような気がする。その存在感は、ホームであってもアウェイであっても際立つ。
JACROW『北と東の狭間』で中国人パブに通うポケベル社長を演じた根津茂尚さんは、独特のダークさを出していて、さらにラストでの表情への振り幅が素晴らしかった。今回、毎日草野球をしている男とは、ある意味紙一重の存在感であったと言える。不気味さ無邪気さの狭間を漂う野球男(背番号16)。JACROWは、その本質を見抜いてのキャスティングだったのだろう。
ミクニヤナイハラプロジェクト『幸福オンザ道路』でキャスティングされていた黒岩三佳さん。ミクニヤナイハラプロジェクトはご存じのとおり、怒濤の展開に、激しい動き+高速の台詞である。どう考えてもあひるなんちゃらとは違いすぎる気がする。しかし、黒岩さんの凄い瞬発力&テクニックを買ってのキャスティングだったのだと思う。
今回で言えば、UFOを呼ぶ女性に「泊めてもらってもいい?」と聞いて「……いいよ」と答えるのに対しての、黒岩さんの「いいのかよ」の鋭い台詞は、その速度としても音量にしてもあまりにも凄すぎて、感心しながら笑ってしまった。
また、役者としての関村さん……は、アノ、あれはよかったですね、そうそう『あまうめ』…は出てはないか。まあ、ここでは横に置いておこう。
とにかく、この2人の外部出演を見ても、ただ者ではないことが理解できるのではないだろうか。
とにかく凄まじいのだが、あまりにもあっさり演じているのでわかりにくいのかもしれない。
でも、それが目的ではないのでそれはそれでいいと思う。
劇団の紹介で「微妙にズレていく会話の行き着く先には結局何もなかったりする」ときちんと言い切っているように、結局たいして何もなく、言ったことを投げっぱなしにしてみたり(そんなトラップ的なことがいろいろ散りばめられていて)、なんていうところも好ましいと感じてしまう。
結局、あひるなんちゃらは、私にとっては確実に面白く、確実に楽しませてくれる。
幕が開く直前ぐらいから、うす〜く流れる、テーマソングに耳をそばだてるあたりから顔はゆるみ、最後までゆるみっばなしである。
笑っちゃうのである。
あの衝撃のラスト、100年後の盆踊りは最高だった!
だらだらと「あひるなんちゃらはコメディじゃないんじゃないか説」みたいなものを書いてきたが、あひるなんちゃらの公式ステートメントとして「われわれはコメディ劇団である」と宣言したとしても、私は「アウト!」とだけ言って、責任をとるつもりは毛頭ないとだけ付け加えておく(笑)。
満足度★★★
後半の高まりは大好物だ!
なんと言っても、劇団名がカッコいい!(笑)
その劇団名と、このフライヤーである。
「濃さ」を期待せずにはいられない。
しかし、思ったほどの濃さはなかったかもしれない。
もちろん、味は濃いので、ソースで言えば、とんかつソースとウースターソースの中間の、中濃というところか。
……それはさすがに違うか(笑)。
ネタバレBOX
舞台の上のセットがとても素晴らしい。高低差や左右、そしてブランコまで。
しかし、意外にあっさり風味だった。特に前半が。
なぜそう感じたるのかと思いつつ見ていたら、思い当たったのが「人間臭さ」。
娼館が舞台であり、それなりの雰囲気を持つ役者たちが揃って、艶を競っているのだが、彼女たちやお客の男たちの「人間臭さ」が臭ってこないのだ。
すっきりときれいな印象だ。
ドロ臭さのようなものが感じられれば、主人公であろうテコの境遇がもっと鮮明になったような気がするし、それに対するハシの無表情な雰囲気も際立ったような気がする。
いろんな要素が解け合った前半は、それなりに面白いと思ったのだが、残念ながらもうひとつ乗れなかったのはそういうことかもしれない。
ただし、テコの独白から始まるラストへの進行と、ラストの雰囲気は、「大好物」(!)と叫んでもいい空気感があり、これが全編であったならなあと、思ってしまった。
最後に盛り上げるという意図もあろうが、この空気感で全編を覆い、さらにラストを盛り上げてくれたならば、最高だったと思う。
仇の娘ネルバ(中里順子さん)の背筋の伸びた堂々とした感じと、ハシ(市川勇さん)の不気味さ(ラストの結婚式での笑いは恐ろしい)が特に印象に残る。また、テコ(牛水里美さん)の衣装を替えながらのながらの、気持ちの変化はなかなかだった。あの独白シーンは特に好きだ。
そうそう、男女の睦みごとをベッドを回す、という行為で見せるのは実に面白い。男が汗を流してベッドを回すのだ。
それと、お客の男たち(だけ)の衣装に施された、アノ造形物はお下品でとってもいい。
期待値が大きかったので、ちょっと厳しめの☆の数になった。
また観たいかも。
満足度★★★
楽しさ溢れる舞台
「子どもに見せたい舞台」シリーズのvol.4。前回の『ドリトル先生』も楽しんだので、今回も出かけた。
やはり楽しい。入場のときから楽しい雰囲気に溢れている。
前のほうの桟敷に座る子どもたちの、きらっきらした目も含めての舞台であったと思う。
100分の舞台を子どもたちに飽きさせず見せる力は凄いと思った。
今回も役者たちの生演奏が楽しい。
前回に引き続き当パンもちょっと凝っている。
ネタバレBOX
ご存じ『ピノッキオ』の物語なのだが、例の「ウソをつくと鼻が伸びる」という設定がなく、それが非常に残念だった。
それがないので、教訓的な面白み(笑)にやや欠けてしまったように思えるのだが、遊びほうけて怠けているとロバになって、売り飛ばされてしまうというエピソードは健在で、「夏休みの宿題をしないでロバになった子はいないか」と、なまはげ的な客いじりが挟まれ、同伴の親は少し愉快かも(帰宅してから「さぼっているとロバになるよ」とか子どもに言ったりするんだろうな・笑)。
ラストは原作通りに、ピノッキオは人間の子どもになるのだが、それは「子どもたちは、親や先生の操り人形から脱して1人の人間になれ!」と、いうテーマでは、もちろんないのだが、教育と躾で一人前の人間になる、という物語でもなかったようだ。
そこにあったのは、「親の愛」だ。
ピノッキオを、その枝から作った森の女神は、ピノッキオを我が子のように思い、ピノッキオがどんなことをしても、寛大に許すし、ピノッキオの生みの親、ジェペットじいさんもそこは同様である。
いわば、「罪と赦し」の物語であったようだ。
すなわち、ピノッキオが人間の子どもになったのも「海の女神(くじらの形をしている)のお腹の中から出てくるときに、いろいろなことがあったため」ということで、「良い子になるから」的な、善因善果なんてこととは関係ないように見えた。
つまり、我が子のことは、無条件にすべて赦すということなのだろうか。
まあ、舞台の上では、ピノッキオが無分別にやりたいことだけ勝手にやるわがままな子、という印象も薄いので、「罪」というほどではないのだが。
その代わりと言っては何だが、ピノッキオは「これからどうする」と自分の未来について悩むシーンが目に付いた(分身が出てきて)。「ずっとこのままなのか」なんて悩むのだ。これは大人に向けたメッセージのようだった。
なんたって、人間になったピノッキオは、まだ悩むんだから。「うわー! 人間になれてよかったぁ〜」なんてノー天気ではないのだ、ピノッキオは。
ピノッキオを騙すキツネとネコは、どうやら戦で負傷を負ったという設定らしいのだが、あんまりその点には触れなかったなあ。
終演後、役者たちが衣装のまま、ずらっと並んで送り出してくれるというのも、子どもたちにはとてもうれしいことだろう。
満足度★★★★★
気がついたらDVD買ってたよ
いや、無理矢理とか、催眠商法とかでなくて、自分の意志で(笑)。
隕石少年トースターは、大阪の劇団で東京初進出らしい。でもって、観劇後、次いつ観られるのかと思ったので、ついふらふらと物販に行き、前作のDVDを買ってしまった。まず舞台のDVDなんて買わない私が、である(まあそんなことは誰も知らないとは思うけど)。
つまり、とっても面白かったということなのだ。
とてもわかりやすく丁寧につくられたコメディで、心地よい。
こんなコメディが観たかったのだ、と思うほど。
楽しかったな、観てよかったな、と心から思い、DVDを胸に帰宅する私でした。
ちなみに、シアターグリーンのチラシラックに、隕石少年トースターの無料DVDが置いてある。過去のダイジェストと、なんと過去の短編(30分)が収録されているので、観劇の日程が合わない方は、それだけでも手にしてみてはいかがだろうか。
ネタバレBOX
宇宙エレベーター内のレストラン厨房という設定。それはまさにタイトル通り。
その厨房で、スタッフたちが繰り広げるコメディ。
コメディにありがちな「面倒臭い人」を1人か2人設定し、その登場人物を中心にして、それをいじり倒すことでコメディを成立させる、というパターンがなかったところに好感を持った。
確かに面倒臭いシェフという登場人物がいるのだが、彼は常にコメディの中央にいるわけではなく、月生まれの宇宙人や新人の料理人、オーナーなどもその設定に合わせて、面倒臭い人になるのだ。
それがいい。
ストーリーは、ややもっさりしていて、丁寧すぎる感もあるのだが、説明すぎということでもなく、ゆったり観るのには丁度いい塩梅であったと思う。それは心地よくもある。
とは言え、単に脳天気なのではなく、つまんないコメディだと、笑わせるための設定に逆に自らの退路を断たれ、無理矢理だったり、あり得ない展開になりがちなところを、そうせずに、きちんと「攻めていく姿勢」が垣間見られたところに、さらに好感度がアップするのだった。
丁寧に台詞を重ねて笑いを取ることを基本としながら、ドタバタも挟みつつという構成も、厨房だけのストーリー展開にほどよい緩急をもたらしていた。
細かい伏線も丁寧に拾っていくしね。
演じる役者たちも、全員がとてもいい味を出していた。誰というよりは、全員がいい仕事をして、きちんと印象に残る。
これならば、次回も是非観たいと思うのだが、残念なことに大阪の劇団ということだ。
とても好きになってしまった隕石少年トースター、早い時期に、再度東京公演を実現してほしいと願うのだった。……できれば、今回客演もあった劇団衛星と2マンで。無理か(笑)。
ちなみに、こりっちで、東京公演が始まる前に東京公演の「観てきた」が数多く埋まるという珍事が起きていて、正直「あ〜あ、やっちゃったなぁ」と思ったのだが、その中にきゃるさんの「観たい」の書き込みがあり、それが目にとまったことで、行くことに決めた。その書き込みには感謝します。
満足度★★★★
記憶と罪と贖罪
とにかくうまい、役者も演出も構成も。
役者のパフォーマンスの引き出し方や、舞台での配置&構成、そして、それらすべてを含めた演出が巧み。
それに、きちんと応えている役者もいい。
装置(セット)もとてもうまい配置で効果を上げている。
ネタバレBOX
ある女性のモノローグから始まる。
どう見ても普通の状況ではない状態で、自身のこれまでについて語る女性。
女性の記憶の中で、彼女と家族、主に「兄」について語られていく。
しかし、「兄」について語っているようで、実は、その先には確実に「母」がいた。
表層的には、兄との暗い記憶の中で、母とのねじ曲がってしまった関係が、語られていくのだ。
それがいつも彼女の根底にあり、「家」から離れられない。つまり、「家」=「母」なのだ。
その関係によって、彼女の友人との距離感がうまくいかない。
ただし、友人には恵まれていた。
記憶はいつも美しい。その時代は輝いてしかいないのだ。
彼女の輝ける時代は、「家」を意識しなくてすんだ、つまり、家から通える範囲に生活があった高校生のときまでで、それは彼氏の遠距離によって少し歪んでくる。
これは、あくまでも「女」の物語であり、「男」には「顔」がない。父親の存在も希薄だ。
舞台の上で、女性たちは衣装を頻繁に着替える。
そして、着終わった衣装は、記憶のように舞台の上に脱ぎ散らかされる。それは記憶の中に澱のように堆積していく。
友人が過去の男について、語るときに、1枚1枚衣装を脱ぐたびに男が変わっていくのだ。
「服」というのは、とても大切なメタファーであり、具体的なモノでもあるということ。
男性には理解しがたい感覚だと思う。
このあたりの表現方法は、さすが女性ならではだと唸る。
役者もとてもいい。
同じキャラクターを瞬時に別の役者が演じてみせる。
しかし、違和感は一切ない。体型も年齢も、もちろん顔もまったく違う女優が演じているのにだ。
女優さんの名前はわからないが、主人公の友人を演じて、付き合った男を語ったり、結婚式のスピーチをした方が、特に印象に残った。その明るさと優しさが主人公を支えていたのだと実感できる演技だったと思う。
ただし、あのラストは好きではない。というより嫌いだ。
冒頭から、普通の状態ではない場所と状況にある主人公が、とる、最悪の選択ではなかっただろうか。
あの重苦しい雰囲気からは、そのラストが直線で結ばれているようにしか見えなかったからだ。安直だ、とまでは言わないが、もっと考えてほしかったと思う。それは、演劇のストーリー展開という意味においても、主人公の記憶を見せられた観客の気持ちにおいても、だ。
主人公は、兄対する罪の意識と、後に判明する母に対する罪の意識が重なり合ってくる。それによってさらに追い詰められたとしても、赦しはどこかにあるのではないだろうか。「眠る」は「赦し」ではないのか。
甘い、と言われるかもしれないが、ラストは、彼女が本当に愛していた家族に救われるべきではなかったのか。
それは幻であったとしても。
満足度★★★★★
ウギャー! なんだコレ! 面白いぞ!
フライヤーの雰囲気からアングラ&アングラしている舞台を想像していたが、どうやらそうでもなかった。
じゃ何だったのか? と問われれば、「ウギャー! 少年王者舘だ!」とだけ答えておこう。
「ウギャー!」と思わず叫ぶほどの、激しい驚きがそこにあるわけではないのだが、ニヤつきながらの、心の中での喝采と思ってほしい。
この楽しい舞台は、わずか90分!
ネタバレBOX
スタートの前説から、一発かましてくれる。ここで、「オオッ」と思ったわけで、このスタートは、メビウスの輪のごとくラストにつながっていく。
終わりはない、それは始まっていないから、というラスト。
どこだか不明のセットもいい。使い方を含めて。
舞台の上では、どこなのか、誰なのかが不明のまま、しかも、「舞台である」ということをもひっくるめて、すべてが混沌として混じり合い物語は進んでいく。
進んでいくのかどうかということも、実は定かでない。
照明や音楽の切り替えが面白い。と言っても、それできちんと一見区分されている表裏(や前後や虚実)の内容が、そこに安定しているわけでないことは、後々わかってくるのだ。
それは、ゆるいインパクトを与えてくれる。
観る者は、糸口を探しだそうとする。
しかし、幾重にも張り巡らされた言葉の糸は、観る者をあらゆる方向へといざなう。ちょっとした悪夢のようでもあり、目まぐるしく、観ている者を強く引き込む。
細かいつながりと、それを手繰る観客の意識を断ち切るような演出も本当に素晴らしい。
時代や場所も人も記憶も未来も過去も、その人の存在も、まったく明確ではなく、ゆらゆらとしている。
しかし、ぼんやりとしているわけではなく、何もかもをカットバック、あるいはクロスカッティングして怒濤のような台詞とともに物語が溢れ出す。
溝が傷ついたレコードのように、けたたましく繰り返されるエピソードに、「中略」の文字での、おふざけの塩梅やセンスは素敵だ。
そこには言葉だけが、言葉遊びというよりは、さらに過剰な様相で、次々と現れては、台詞や物語の中に埋もれていく。そして、積み重なる。
台詞だけでなく、プロジェクターを通して舞台に現れる文字遊びも愉快だ。必要以上に「死」を意識させすぎて、それはギャグにまで到達する。
「ハウステンボス」「ナガサキ」という街の持つ地場のようなものが、「戦争」の歴史を引っ張り出すが、そこにだけ、何かを込めているわけではない。
つかんだ情報は、つかんだそばから崩れ落ちる。
女優度が高く、ここは女系の劇団ではないかと思いつつも、男性陣の「立つ・座る」だけというエピソードには、笑った。気が変になりそうなほどの繰り返しが凄すぎる。
ほぼ主演だった、ひとみ役の黒宮万理さんと昭和40年代のイチロウ役(キャスト名不明)が好演。
ひとりを演じた夕沈さんと、青いベストで壁や障子を食べた方、イチロウの母役の方(いずれもキャスト名不明)の3人の、キレの良さが印象に残る。
エンディングでの、恐ろしいほどの連続。連綿と続くDNAの螺旋を彷彿とさせ、それに続くダンスも、これでもかというほど、しつこい。演じる者のカタルシスがそこにある。
いつまでも終わらない、過去から未来への、人類の愉快で悲しいダンスが続く。
終わらせる方法を忘れてしまったのかと思うほど。
この終わらせ方(台詞)は少々紋切り型ではあったが、着地点があり観客席で一安心した。
次回も是非観たいと思うのだが、残念なことに名古屋の劇団なのだ。
また東京公演を行ってほしいと願うのだった。
満足度★★★★
ひつじだ! ひつじだ! デカイひつじだ!
ひつじが確かにいた。
観客は笑顔。
小さなお子様の中には、大泣きしたり、半泣きで「帰りたい」と訴えている子もいたけど。
TACT/FESTIVALのほかの演目も見たかったなぁ。
ネタバレBOX
「1匹逃げた」というアナウンスの後、10分押しぐらいで、いよいよひつじが登場! 「あれっ、デ、デカイ」という第一印象。どうやらほかの観客も同様に思ったらしい。そんな空気が開場を包む。
そして、一番大きなお姉さんひつじが観客に乱入。
「おや、このシーンどこかで観たことあるぞ」、笑顔の阿鼻叫喚…。あ、そうだ新日プロレスのブルーザー・ブロディの入場シーンだ(あ、ブッチャーとかシンも同じだけど)。リングに上がる前にチェーンを振り回し観客を蹴散らす、というアノ雰囲気だ。ひつじの入場時に脳内に『移民の歌』が流れた(ウソ・笑)
ちなみに、お姉さんひつじに追い回された子どもは、大泣き。可哀想だけど、それも含めて『ひつじ』だった。
でかくて怖いのと、無表情はやっぱり怖いのかも。
考えていたよりも、もっとひつじだった。無表情と口の動き、さらに常に上下するお腹と、つま先立ち、もう、素晴らしい。それは笑顔で観てしまうしかない。
コヨーテかオオカミに襲われたひつじが勝ってしまうのは、しょうがないかな。
終演後、ひつじと羊飼いがカーテンコールで現れたが、それを見て「ああ、人間だ」と。無表情に表情が生まれるだけで、「人間」になるということを再確認した。
今回、この舞台は気になってはいたのだが、時間的には無理だろうと諦めていた。しかし、しのぶさんのつぶやきに背中を押されてなんとか時間をつくり出かけた。よかった。つぶやきに感謝。
他人の感想は、好評も不評もとても参考になる。もちろん、不評=見ない、ではなく、不評でもその内容によっては、「見たい」となるものもあるのだ。
満足度★★★★★
コントっていう、わかりやすい皮を被った何か、だったような気がしている
笑ったし、唸ったし。
満席だったのもうなずける。
ちょっとセンスのいいフライヤーに惹かれたんだけど、結果、これはいいモノを観たのだった。
ネタバレBOX
この劇場をこんな風に使っているのを初めて観た。
それは、どの席からも舞台が近くなることを目的としているのだろう。
イス4つ、とかのシンプルな装置・セットも可能だったのに、あえてこのようなセットにしたのも素晴らしい選択だったと思う。
オープニングの雰囲気から、これは鉄道というキーワードを(鉄分多い表現をすれば)連結器のようにして連なっていく、コントの連作かな、と観ていくと、(鉄分多めの表現をすれば)ちょっと終着駅が違うようである。
単に連作コントが単純に1つにつながっていくのではなく、「演劇」としての全体像が浮かび上がってくるのだ。それは鉄分多めに言うとすれば・・・しつこいっ!
まあ、とにかく鉄道がキーワードであることは間違いはない。
基本は、2人芝居。彼らは、いろいろな役を必ず1対1の状況によって演じる。そういう形は、コントの印象が強いのだが、実際に行われていたのはそうではない。彼らは、コントとして役をやってます、というよりは、その役を演じている、というほうが妥当だった。
とにかく、成り切り方がうまい。テンポもいい。引き込まれるテンポだ。2人とも最高だ。
1つひとつのエピソードは、コントに仕上がっていて、「笑い」も十分にある。だけど、確かに、ボケ&ツッコミ的な要素はあるのだが、そういうコントではなく、実にいい台詞と間(&タイミング)で笑わせてくれるのだ。こういう笑いを観たかったという欲望を満たしてくれる。
この気持ち良さはなかなかない。
コントっていう、わかりやすいキーワードで、誰でも入れるように間口を広げ人を引き寄せ、結局のところ何か別の世界に連れて行ってくれるような、まさにこの舞台の中の列車のような世界であったとも言える。
中盤での、1人芝居風の展開から、それが「形式的にも物語的にも」1人芝居ではないということに気がついたときの、ちょっとゾッとするようダーク感もいい。なんとなくにやにやして観ていたら、冷水を浴びせられたようだ。
うまいよ。
各エピソードの微妙な時間差や異なる場所での結びつきもうまい。
そして、ダークな感じから「最近はナスやキュウリも用意してくれないし」と言うあたりで、少しコントとは違う方向へガチャリと、(鉄分多めに言えば)レール切り替えポイント切り替えてくる感じがいい。
さらに「パンと魚」「銀貨30枚で裏切る」の展開は、漫才台本の形をとりながらも、ラストに結びつくという、なんかシビレる展開になっていく。これはちょっといいぞ、と思った。それらを、細かい説明なし、さらりと言ってのけ、さらに笑いのほうに持って行く手法も含めていいのだ。
また、そのエピソードの中の台詞「悪いことは必ずばれるのだ、ばれることによって、許されるのだ」(そんな感じの台詞)は、ドストエフスキー的展開じゃん、なんて思ったり(もちろんキリスト教的だから)。
まさかと思うけど、今回の登場人物は、1+13名ってことはないよね?(笑)
裏切りは必ずばれ、そして、それはバレることによって(必ず)許されるという、凄まじいラストになるのだよ、これが。笑いの中で。
これが何かの集会だったら、思わず入信しちゃうよ。しないか。
次回も必ず観ようと思ったのだった。
満足度★★★★★
2010年の夏目慎也は、スターチャイルドになったのか?
やっぱり東京デスロックは面白いじゃないか!
富士見まで行ったかいがあるってものだ。
野外の使い方と取り込み方が、物語においても秀逸。
ネタバレBOX
富士見市民文化会館キラリ☆ふじみの池の中に設置された舞台で行われた。
野外であるということをうまく活かし、さらにそれらの要素の取り入れ方も見事だ。
演出で時々打ち上げられる花火(音だけでなく火薬の香りも人類の歴史にとって不可欠)や車のエンジン音、そして野外の空気感までも舞台装置として取り込んでいた。
台詞によって、その状況を逐一取り込むというのも面白い。
ヒトザルから人類への数百万年の歴史と、2001年から2010年までの歴史。人類の歴史の中で、象徴的に「コトバ」にしてすくい上げられた「歴史」と、個人の「歴史」のパースペクティブ感が素晴らしい。
改めて「歴史」は「コトバ」にして切り取る以外、手にすることができないものであると感じる。歴史として残るのは、コトバにして加工された事実と言われるものでしかない。その曖昧さの上だけに歴史はあるのだ。だからいくらでも意識的、あるいは故意に歴史は刻むことができる。と言うより、意識的、あるいは故意にしか歴史と呼ばれものは存在することができない。
その意味で、「ヒトザルは、コトバを手にして歴史を手に入れた」(概ねそんな意味の・笑)は名台詞。
個人と世界の境界が曖昧になっていくのは、野外の劇場が劇場と世界との境界が曖昧になっていくのに等しく感じられ、まさにこのテーマとマッチした舞台がそこにあったと言っていい。
個人の歴史はそこはかとなく、(小さな)哀しみがある。世界(社会)の歴史にも、(大きな)哀しみがある。哀しみに大小なんて実はなく、単にそれが「コトバ」によって連綿と連なっているだけ。
夏目慎也の住む風呂なしの部屋の裏には、連なる世界の歴史が見え、人類の歴史も連なっている。当然と言えば、あまりにも当然な事実なのだが、それは。
本日のゲストは、2001年に生まれた希宇(きう)くん。ちょっとあざとい(笑)ゲストの選定だが、これも見事。さすが!
かくして、東京デスロック立ち上げから10年の重しを脱ぎ捨てた、2010年の夏目慎也は、下北沢風呂なしのアパートに住む、スターチャイルドになっていくのだった。ん? そうなのか?
モノリスという存在がヒトザルから人類への橋渡しをしたのであれば、夏目慎也がスターチャイルドになっていくのための「モノリス」は、実は「東京デスロック」だったというオチでもあるのだ。
モノリスで一瞬にして「試された」ヒトザルと同様に、「東京デスロック」というモノリスで10年かけて「試され」「変化」していった夏目慎也というヒトザルの物語でもあった。「演劇」という「道具」を手に入れたヒトザル(たち)なのだ。
それはまた、私たちも同様で、宇宙の歴史からは、ほんの一瞬の時間という曖昧な軸の中にあって、何らかの「道具」を手に入れ、宇宙にとって、あるいは人類にとっての「変容」を続けているにほかならないということなのだ。変容には大小の概念もなく。
うんと未来に、われわれが肉体を脱ぎ捨て、感情だけの存在になったとしても、たぶん「演劇」という概念は存在し得るというメッセージも込められていたようにとらえた。スターチャイルドがいるし(笑)。
ラストで全員が池の向こうへ遠ざかり、その後の静寂は、なんて美しいんだろうと感嘆した。野外の空気も味方にした一瞬でもあった。
そして、2010年以降の夏目さんは、犬を2回飼うらしいのだが、その歴史の中に、「風呂付きの部屋に引っ越した」と「青年団に受かった」の2つは入れてほしかったと思うのだった。
それにつけても、多田淳之介さんは、夏目慎也さんLOVEなんだなぁ(笑)。
確かに、夏目さんいいよなぁ。
満足度★★★★★
昭和の匂いが濃く、いかがわしくて、文学的
さすが寺山修司だ。
そして、J・A・シィザーの音楽がいい。
舞台には熱気がある。
100分の上演時間はあっという間だった。
ネタバレBOX
サードと呼ばれる高校生が、IIB、新聞部、テニス部というあだ名の友人たちとどこか遠くへ行こうとして、お金を稼ごうとする。
お金は、サードとIIBが客引きをし、新聞部、テニス部の2人の女子高生が体を売ことで稼ぐことになる。
そのやり取りの中、サードは客であるチンピラを殺してしまい、少年院に入ることになる。
少年院には、いろいろな犯罪で送られてきた少年たちがいた。
その中の1人、短歌と呼ばれていた男が、その少年院時代を振り返るのだった。
冒頭の4人の高校生が、演じる役者の実年齢とのギャップもあり、非常にいかがわしさをプンプン振りまいていた。特に、女子高生のいかがわしさは、とんでもないほどだ。
後にATGで映画になるのだが、その一連の台詞のやり取りは、まさにATGの空気感満載だ。台詞の感じがあの時代を思い起こさせる。
物語は、「なぜ満塁は罪なのか」あるいは「ゲームセットあるいは延長」などという、野球用語を使った10の章に分けられ、そのタイトルにストーリーを重ねながら語られる。
台詞が饒舌で、美しい。特に、短歌やどもりと呼ばれる少年たちの独白に、寺山修司が見え隠れする。
演じる役者も熱がこもり、うまい。
主要ないくつかの役以外は、1人数役をこなしているのだが、その切り分けがとにかくうまい。少年から大人、裁かれる側から裁く側などの役の変化も見事に体現していた。
例えば、ヤクザの男を演じた岡庭秀之さんが、とにかくエグイ。驚くほどイヤな男を演じていた。その彼が、オシという、言葉を話さない自己主張の乏しい男も演じていたのが凄いと思った。観劇後、当パンで配役を見て初めてわかったぐらいに落差のある役を演じていたのだ。
主役のサード(テツさん)をはじめととして、役者たちの面構えがいい。ごっつい。そのごっつい面構えから、寺山修司の台詞が滲み出てくるようだ。
少年院の少年たちのフードという衣装(フライヤーの写真にある)も没個性にする意図がある、少年院という場所をうまく表現しているし、個人を隠すという少年法をも暗示しているようで深い。
舞台は、独特のセリが空中にあり、また、客席の、左右前後までも使うので、立体的に演劇を味わうことになる。
せり出しが高いので、その下の席だけでなく、(たぶん)ほとんどの席で、見切れてしまう(役者の顔が見にくい個所が生じる)のではないだろうか。ただし、客席で演じられる様子は、台詞さえ聞こえれば問題ないし、最初のうちはそれが気になったのだが、会場の全体を使うことが段々わかってきてからは、気にならなくなった。
音楽は、一部を除き、生で演奏していたようだ。J・A・シィザーさんの曲は、当然のごとく、寺山修司さんの戯曲との相性は良く、それには昭和の香りが色濃く漂う。
途中の歌が、生歌ではなかったのが少々残念ではあったが。
もっと、いわゆる、泥臭い、アングラ風味の舞台が繰り広げられるのではないかと思っていたのだが、意外とそうでもなく、ストレートで、とてもわかりやすい演出だったと思う。
今回の舞台は、19時開場・開演となっており、少々わかりにくい設定だが、10分前に来るように、ということと、整理番号順に入場する、ということがチケットやフライヤーには書いてあったのでそれほど不安ではなかった。実際に、10分前に行ったところ、19時少し前には開場して、さほど待たずに入場でき、そして(たぶん)19時10分過ぎには観客全員が入場できたようだ。
例えば、他の劇団やライブのように、開演の30分前を開場にして、整理番号順の入場とすると、その10分前(つまり開演の40分前)には並ばなくてはいけないことになり、さらに開場後、開演まで待つ時間が長くなるので、夏ということもあり、そういう設定にしたのだろう。
係員の誘導もきちんとしていたし。
結局、開演は19時15分頃で、約100分の上演時間だった。
演劇実験室◎万有引力は、また観たいと思った。
そう言えば、J・A・シーザーさんは、いつからJ・A・シィザーの表記に変わったのだろうか。
満足度★★★
味のある役者が揃っている
それぞれのキャラクターがうまく活かされている。
だが、全体的にふわっと広げてしまった感じで、物語の中心となるべき軸が薄れてしまったように思える。
それなりに面白いところもあったのだが。
また、2時間を少し超える上演時間は、体感的にも社会人のルールとしても長いと思った。
ネタバレBOX
前半は、状況と人間関係の説明が主で、なかなかドラマが始まらない感じだった。そのドラマも、最初は3姉妹の微妙な関係を、それぞれの内面に入り込みつつ描いていくのかと思えば、恋愛がらみのエピソード展開から、ドタバタコメディへと進む感じになっていき、後半、なんだか気持ちを吐露し始めて、最初の3姉妹の関係へと戻りつつ、微妙な空気になっていく。で、ラストのオチは、やっぱりコメディだし(笑ったけど)。
やや重い内容を、コメディ的な笑いを交えつつ描こうとしているのだと思うのだが、残念ながら「重く」なるはずの部分はそう感じない。
妙な状況で失踪してしまう女に対して「みんなで追い込んでしまった」的な、感情を吐露していくのだが、どう考えてもそんなに大げさな印象は受けない。
もちろん、人ひとりが消えてしまったのだから、大変なことではあるのだが、それは恋愛モノにありがちな、3姉妹が次女の親友の手助けをしただけで、それもそんなに手の込んだ酷いことをしたわけではない。
だから、「なんということをしてしまったんだ」的な台詞が効いてこないのだ。
コメディ的な要素にしても、冒頭の助走部分が長すぎて、なかなか本題に入らないもどかしさもあって、笑いに結びつかない。
「何がポイントなのか」「何を伝えたいのか」が、明確になってこないのだ。
現実を直視しない3姉妹が、物語の中心にあり、それを描こうとしているのだろう。しかし、姉妹絡みの1つひとつのエピソードが弱いというか、深くなっていかない。
弟のことと、オカルトと、ほれ薬に、UFO、そして誕生ケーキの百物語という組み合わせはうまくつながっているのだが(このつながりは、正直とても面白いと思った!)、それが本来の中心である、3姉妹の関係とうまく結びついていないのだ。話としてはもちろんつながっているのだが、内面を抉り出すというか、そこまででなくとも、姉妹の気持ちが表れてくるぐらいの感じはほしいかったのだ。
弟の友だちが多いし、会社の社員のエピソードもそんなに必要あったのか、と思う。劇団員みんなを均等に、それなりに出演させるためにこうなったのだろうか。それによって、周辺部を描きすぎたように思う。
そこが懲りすぎたため、本来描きたい3姉妹のことが疎かになってしまったのだろうと思う。
3姉妹をどーんと中心に据え、彼女たちを取り巻く、恋人や夫となる人、弟などを散りばめていけば、軸がしっかりとしたのではないかと思う。
また、エピソード的にも、会社が秘密裏に行っている輸入についても、合法的なのか非合法なのかが判然としないし、社員が知らないと言うのも不自然だ。それによって、HIVがどうとか、と言われても微妙な感じではある。
そのことが特にクローズアップされるわけでもなく、単にそうでした、というだけでストーリー的には流されてしまう。
前半に、次女の友人が下着姿でうろうろしていて、それを人の目から隠すというエピソードにしても、それが笑いに結びつくのかと思えば、べつにそこを膨らますわけではなく、さらっと流してしまう。
そういう、流してしまうエピソードが多い感じがする。だったら、わざわざ時間をかけて描く必要はないと思うのだ。
軸の周囲をキャラクターやエピソードで広げすぎてしまったように思えたのだ。
例えば、変な形の箸置きのエピソードにしても、それがどんな意味があるのかを知らせた上で、壊すという行為になるのほうがわかりやすいのに、大学生がうっかり壊してしまうというエピソードを挟んでしまう。そのやり取りは、それほど面白くないし、箸置きの持つ意味合いにとっては、大学生のくだりは不要なものに思える。
それを例えば、高価な箸置きだ、というよりは、次女にとって大切な思い出だ、ということを最初に告げておけば、それを壊してしまった大学生の焦りも活きてくるし、すでに壊れていることを、実際に壊すシーンにうまくつなげればもっと面白くなると思うのだ(とは言え、やはり大学生が壊すエピソードは不要だと思う)。
結局、全体的にいろいろと取捨選択して、絞ったら、もっと面白くなったのではないかと思うのだ。素人考えではあるけれど。
後半に行く前に、字幕で前半のその後がどうなったかを見せるのだが、演劇なんだから、普通に暗転後、夏の風景で、台詞によってあの後何が起こったのかを、観客に知らせるべきだったのではないだろうか。
それと気になったのは、この会場は、21時に退館ということらしかったのだが、19時開演で約2時間の上演時間ってどうなのよ、と思ってしまう。それは最初からわかっていたのだろうから、それに合わせた上演時間にするか、早く始めるのが場所を借りる側のエチケット、社会人として守るべきルールではないのだろうか。
かなり辛口に書いてしまったけど、とにかくこのキャラは貴重で、面白くなりそうな予感もあったので、そのもどかしさもあり、あえて書かせてもらった。
満足度★★★★
どんな時代でも、どんなシチュエーションでも、日常は確実にある
そんな世界観を、ダラダラした日常会話とともに見せてくれる。
「神は細部に宿る」とでもいうか、どーでもいい会話が延々と続くのは日常なのだ。大がかりなセットとともに。
大がかりなどーでもよさ。
そこには、哀しさや切なさも潜んでいる。
ヨーロッパ企画は、非日常下における日常をうまく描く劇団になっているようだ。
ネタバレBOX
ヨーロッパ企画の舞台を観ていて感じるのは、どんな時代でも、どんな状況でも「日常はある」ということ。
「水の7日間」(笑)と呼ばれる天変地異らしき後、水位が上昇したことで、地表のいろんなところが水没した世界。
さらに、海には汚染された廃液が流れ込み、人魚という生き物も生まれている。
そんな歪んだ、末期的な世界。でも、それは日常なので、細かい説明はない。
しかし、そんな大変な世界なのに、水があるから「だからサーフィンでしょ」とばかりに、サーフィンを始める若者たちがいる。
特に仕事にも就かずに。
大変なことになっているはずで、ドラマ的にはそれをどう生き延びるか、という展開になっていいものの、ここではそうならず、いつ終わるともしれないダラダラした生活が続いている。
サーフィンをして、水の中からいろんなモノを拾ってきてはお金に換え、そのお金で食べ物を買って、またサーフィンをする。
ファストフードを五感を研ぎ澄まし、スローフードとして食す、なんてどうでもいいことがそこでは延々繰り広げられている。
どうでもいいことは、日常だ。
すべてを受け入れているというか、現状がすべてであり、そこには普通の生活がある。
『ボス・イン・ザ・スカイ』でも、ドラゴンが出てくる世界になのに、それは普通の状態であり、そんなことよりもロックフェスのほうが気になっていた。『曲がれスプーン』でも、超能力があることが日常だったから、超能力がどうこうというよりは、日常の生活が大切だった。
一見、非日常なのだが、彼らにとっては日常である、というのは当然で、それをうまく表現していると思う。
何かを声高に示すのではなく。
いつもながら、息の合った日常会話を再現するような、ダラダラした会話が秀逸だ。まるで、そこで普通にしゃべっているように、どうでもいいことを口々に話したりする。
この劇団ならではの、息の合い方であり、それはいつも素晴らしいと思う。
あまりにも普通すぎるので、その凄さは実感できないかもしれないのだが。
どーでもいいことが繰り返され、日常が消費されていく。
だから、社員を海に落とすシークエンスのしつこさも最高だ。
しかし、日常を切り取った物語なので、シチュエーションが風変わりであればあるほど、観客はドラマチックな展開を期待するのだが、それには肩すかしを食らわせてくれる。いつもそんな感じだ。
そこが持ち味でもあると思う。
それは、いつまでも学生気分にある大人たちの話でもある。「いつまでも学生気分」「モラトリアムな状態」は、この劇団の中央にあるのではないだろうか。今回も、結局2人の会社員が、会社を辞めてサーフィン生活を始めてしまう。それは、文明とか社会へのアンチテーゼとかではなく、単に「いつまでも学生気分」が味わいたいからではないかと。
とんでもないシチュエーションなのに、その世界の一場面、日常をすぱっと切り取って見せるだけなのだ。
だから、大したことは何も起こらず、内容が薄く感じてしまうのかもしれないし「オチ」らしきオチがあるわけでもない。
自然をどうとか、自然がどうとか、文明がどうした、文明をどうした、などとという、メッセージ性を感じるもよし、感じなくともよし、なのだ。
観客は、日常の中にある、微妙な感情や状況などを会話の中などから、感じ取ることが必要になる。
感じ取るというよりは、隣で起こっていることをぼんやりと眺めるということかもしれない。
ちょっとした笑いの中も、よく見ると、結構、キツイ内容だっり、切なすぎる内容だったりするのだ。人魚の設定は、結構酷いし、廃液を浴びたりして。
それもこれも日常の中にあるという感じ。
どう考えても明るい未来が待っているようではないし。
まるで、ただ話しているようにしか見えない、彼らの演技は凄いなあと思ってしまう。
サーフィンUSBって、モロそうだった。バカバカしいけど(笑)。
満足度★★★★
[空組]とてもよくできたストーリー
さすがキャラメルボックス。
2時間をまったく飽きさせない。
ネタバレBOX
夫婦の関係を薩長同盟になぞらえて修復していくという着想&ストーリーが面白い。
夫婦間に生じる溝、その原因は、夫が気持ちを妻に言わないことを、妻が我慢できないということ、つまり、夫は「夫婦なんだから言葉にしなくても通じる」と言い、妻は「きちんと言葉にして伝えてほしい」と言うことだ。夫婦間のすれ違いの原因はそこにある、という、ややありがちな設定だけど、話の見せ方が面白いから、最後まで飽きないのだ。
そこがうまいと思う。
しかも、普通のテーマだから、普遍的で共感を覚えやすいし、わかりやすい舞台となっている。
そして、あえて言えば、龍馬マニアの、ややノイローゼ気味の青年(自分の中の龍馬と会話してしまう・笑)が主人公の物語なのだが、その不気味さ(夢見る少女ならばいいのだけど、いい大人が、と考えると・・・笑)、不自然さを感じさせない、演劇マジックのようなものが支配する舞台だった。
夫婦間で汗をかきつつ、走り回る岡本の気持ちを考えるとちょっと切ない。妥当なストーリー展開ではある。
「船出」のラストもうまい演出だと思う。
最大公約数的に誰が観ても楽しめるところが、いいところでもあり、物足りなく感じるところでもある。また、オーバーな演技と役者のキャラに頼った(ファンは温かい。出るだけで笑ってくれる・笑)感じが鼻につく人には辛い舞台かもしれない。
それと毎回感じるのは、立ち回りや気持ちが盛り上がるシーンで、ボリュームを微妙に細かく上げ下げする音楽の使い方には少々違和感を感じる。歌詞のある曲なだけに、ちょっと鬱陶しい。
でもエンタメとしては、やっぱり楽しい舞台ではある。
満足度★★★★
美しいホームドラマを、「喉に小骨の刺さったような刺激」とともに、少し奇妙な空気感の中で
独特の手触りがした。
これがこの劇団の持ち味なのだろう。
「人と人」とがぶつかったりすることが、「人間関係」でもある。
ネタバレBOX
きみどりさんという、キテレツな人が、そこにいてもいなくても、家族は適当な距離を保っていて、一時その距離が離れても、またしかるべき適当な時期に、適度な位置に戻ってくる。
距離的だったり精神的だったり。
つまり、きみどりさんが、いてもいなくても、この家族はこんな風になっただろうと言うこと。
基本、とてもいい関係で、仲の良い家族だったということだ。
ぶつかり合える「人」がいるというだけでも、関係性があるということであり、それは人間同士の付き合いでもある。
ぶつかり合える人さえいなくなった世界は、争いがなく、一見平和で、良さそうなのだが、ココロではつながっていない。
だから、この家族は、ココロできちんとつながっている、「いい家族」なのだ。つまり、そこここで、「家族が崩壊」している現実の中では、「美しいホームドラマ」でもある。
そして、きみどりさんも、その「美しいホームドラマ」の中に入っていたと言ってもいいだろう。ただし、それは少し哀しい。
「家族」と「家」と「場所」。
「きみどりさんは、家(うち)のおばあちゃんだけど、私のおばあちゃんじゃない」という台詞がいい。
それは、再婚した父親が聞いたら、かなり微妙な台詞であったりするが。そういうセンスは、うまいと思う。
昭和・平成と連なる、このストーリーの中で、きみどりさんの設定年齢を考えながら観たのだが、舞台の中のきみどりさんは、声を張り元気が溢れていた。しかし、設定年齢に近い役者が演じていたら、あの発声とは異なっていたし、もっと悲惨な印象を受けたと思う。特にラスト近くのボケが酷くなってからは。
きみどりさんが劇中で「ここで待っていないとダメなんだ」という台詞には、ぐっときてしまった。でも、あえて、ここを広げないセンスの良さがあるとも思った。
この舞台を、きみどりさんの視線で観ると、他人であっても、心配してくれる人がいて、友だちもできて、そして最期まで看取ってくれるなんて、なんて良かったのだろうか、などと思ったりもする。
それは、リアルな高齢者問題だったり。
そこのあたりをよく考えてみると、きみどりさんエピソードは、「家族」と言うよりは、昭和のご近所さん付き合いが、家の中で行われていた感じではないだろうか。
わいわいがやがやとして、人の悪口を言ったり、テレビの話をしたりという井戸端会議的な感じを含めたご近所付き合い。やっばり、人がいるから、ぶつかったりもするわけだ。
つまり、家族の物語でもあり、近所を含めた人付き合いの物語でもあったのだ。
劇中で何度もコールされるタイトルは、お芝居であるという現実に戻されることは不思議となく、きみどりさんが、喉に刺さった小骨のように、いつも家族たちのどこかを刺激している様子に思えた。
その「喉に小骨の刺さったような刺激」とは、すなわち「家族の存在」だったりもするのだ。特に思春期だったりの。
そして、どの役者もいいキャラクターしていた。そのハマリ具合が素敵だ。
満足度★★★★★
広島とヒロシマを後世へ伝える口伝隊
井上ひさしさんが演劇研修所の研修生のために書き下ろした朗読劇ということで、初演のときから気になっていたのだが、タイミングが合わず、観ることができなかった。
今回、やっと観るとこができた。
シンプルで、やはり素晴らしい作品だった。
「広島がヒロシマになる」という言葉のセンスと、わずか60分の上演時間なのに、その内容の濃さは、井上ひさしさんならではではないだろうか、と改めて思った。
ネタバレBOX
広島がヒロシマになった日に、生き残った3人の尋常小学校6年の少年たちは、焼けて新聞発行ができなくなった中国新聞社からのニュースを言葉で伝える口伝隊となる。
ところが、うち1人が原爆症のため病床についてしまう。残った2人は懸命に看病をしながら口伝隊を続ける。
そして、終戦。
数カ月後、米軍がヒロシマに進駐してくるという知らせがあり、少年たちの脳裏にはある考えが浮かぶ。
しかし、そんな中、巨大な台風がヒロシマを襲う。
冒頭、短い日常の描写から、原爆投下直後への様子を描くのだが、それは言葉(台詞)だけでも鮮やかにイメージがわき、息苦しくなるほど辛い。
そして、生き残った少年たちの境遇と、ニュースを通じて彼ら自身の口で語られる、戦中と戦後に行われ、語られる世の中の欺瞞は、やるせない。
冒頭からラストまで、どのエピソードも心を揺さぶられる。
取り組む役者たちの気持ちも強く伝わる。
シンプルな衣装で、年齢的にはたぶん同じ歳だろうが、幅のある年齢の役割を、ほぼ台詞だけでうまく演じていたと思う。
主人公の3少年の生きている、という感じや、新聞社のはなえさんを演じた方の、落ち着いたトーンが印象に残った。
ギターの生演奏も素晴らしいし、この舞台に見事にマッチしていた。
まるで瓦礫のような、舞台の中央にある小さなセットと、それに砂をざらざらと落とす演出もいい。
声によって、ニュースを伝える役割がある口伝隊の話なのだが、この舞台そのものが、広島がヒロシマになったことを、後世に伝える口伝隊の役割を担っているのだと思う。
だから、新国立劇場の演劇研修所では、研修生が3年次に取り組むべき作品として、この井上さんが書き下ろしたこの作品の上演を今後も続けていくだろうし、続けてほしいと願う。
この苦しみや痛みや悲しみを一緒に、未来にも届けてほしいと思うのだ。2度とこのようなことが起きないように。
新国立劇場の公演は、7/31までだったが、詳細は不明だが、板橋区立文化会館8/4(水)19:00開演の公演があるらしい。