吐くほどに眠る 公演情報 ガレキの太鼓「吐くほどに眠る」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    記憶と罪と贖罪
    とにかくうまい、役者も演出も構成も。
    役者のパフォーマンスの引き出し方や、舞台での配置&構成、そして、それらすべてを含めた演出が巧み。
    それに、きちんと応えている役者もいい。
    装置(セット)もとてもうまい配置で効果を上げている。

    ネタバレBOX

    ある女性のモノローグから始まる。
    どう見ても普通の状況ではない状態で、自身のこれまでについて語る女性。

    女性の記憶の中で、彼女と家族、主に「兄」について語られていく。
    しかし、「兄」について語っているようで、実は、その先には確実に「母」がいた。
    表層的には、兄との暗い記憶の中で、母とのねじ曲がってしまった関係が、語られていくのだ。
    それがいつも彼女の根底にあり、「家」から離れられない。つまり、「家」=「母」なのだ。

    その関係によって、彼女の友人との距離感がうまくいかない。
    ただし、友人には恵まれていた。
    記憶はいつも美しい。その時代は輝いてしかいないのだ。

    彼女の輝ける時代は、「家」を意識しなくてすんだ、つまり、家から通える範囲に生活があった高校生のときまでで、それは彼氏の遠距離によって少し歪んでくる。

    これは、あくまでも「女」の物語であり、「男」には「顔」がない。父親の存在も希薄だ。

    舞台の上で、女性たちは衣装を頻繁に着替える。
    そして、着終わった衣装は、記憶のように舞台の上に脱ぎ散らかされる。それは記憶の中に澱のように堆積していく。
    友人が過去の男について、語るときに、1枚1枚衣装を脱ぐたびに男が変わっていくのだ。
    「服」というのは、とても大切なメタファーであり、具体的なモノでもあるということ。
    男性には理解しがたい感覚だと思う。
    このあたりの表現方法は、さすが女性ならではだと唸る。

    役者もとてもいい。
    同じキャラクターを瞬時に別の役者が演じてみせる。
    しかし、違和感は一切ない。体型も年齢も、もちろん顔もまったく違う女優が演じているのにだ。
    女優さんの名前はわからないが、主人公の友人を演じて、付き合った男を語ったり、結婚式のスピーチをした方が、特に印象に残った。その明るさと優しさが主人公を支えていたのだと実感できる演技だったと思う。

    ただし、あのラストは好きではない。というより嫌いだ。
    冒頭から、普通の状態ではない場所と状況にある主人公が、とる、最悪の選択ではなかっただろうか。
    あの重苦しい雰囲気からは、そのラストが直線で結ばれているようにしか見えなかったからだ。安直だ、とまでは言わないが、もっと考えてほしかったと思う。それは、演劇のストーリー展開という意味においても、主人公の記憶を見せられた観客の気持ちにおいても、だ。
    主人公は、兄対する罪の意識と、後に判明する母に対する罪の意識が重なり合ってくる。それによってさらに追い詰められたとしても、赦しはどこかにあるのではないだろうか。「眠る」は「赦し」ではないのか。
    甘い、と言われるかもしれないが、ラストは、彼女が本当に愛していた家族に救われるべきではなかったのか。
    それは幻であったとしても。

    8

    2010/08/21 08:27

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  • KAEさん

    >誤解しないで下さいね。私、ドキュメンタリータッチの芝居を否定するつもりは全くありません。

    それは了解していました。
    どうも細かいニュアンスなんで、書き方が悪かったかもしれません。
    すみません。

    >あーいう思考法が身についた人間は、最後にあーいう選択になりがちらしいという、データ的判断で、作者が、あのラストを選択されたのならと仮定して、そういう傾向的な判断で、演劇のラストを捉えるのは、私の個人的演劇基準とはちょっと見解の差を感じたということが言いたくて

    ということですよね。

    私はそれはそれでも(そういう手法であっても)構わないと思ったのですが(今回についても)、ただ、今回のあのラストは、「心情的(あるいは感情的)」には賛同できないな、と思ったのです。KAEさんもお書きになっているように「再生の物語」だったらよかったのにと。
    かといって、今回と異なるラストが、この舞台にとって最良であったのかどうかは微妙かもしれないので、難しいなぁ(笑)、とも思ってます。

    2010/08/25 08:11

    アキラ様

    誤解しないで下さいね。私、ドキュメンタリータッチの芝居を否定するつもりは全くありません。

    ただ、あのラストについて、舘さんのお考えを又聞きしたところ、あーいう人生で、あーいう思考法が身についた人間は、最後にあーいう選択になりがちらしいという、データ的判断で、作者が、あのラストを選択されたのならと仮定して、そういう傾向的な判断で、演劇のラストを捉えるのは、私の個人的演劇基準とはちょっと見解の差を感じたということが言いたくて、そういう傾向を提示するなら、ドキュメンタリーや精神医学講演会でする範疇だと感じたという視点で、「ドキュメンタリー」という語句を出したまでのことです。

    でも、とにかく、アキラさんも私も、この芝居に、のめりこんで、観劇中、ずっとナオの人生を仮想体験したが故の、こうしたコメントのやりとりに帰結したと思いますから、基本的に、お互いの心に、この芝居が深く沈殿しているのは、同じだろうと思っています。

    私も、舘さんの創作劇、益々、今後が楽しみでなりません。

    2010/08/24 12:26

    KAEさん

    >その芝居が進行する中で、登場人物に、何か変化が起き、そのことに誘発されて、観客にも変化が連鎖する…、そういうタイプの演劇が好みなんだなと、私は、この作品を観たことで、自分の演劇に求めている要素がはっきりわかった気がしました。

    同感です。ただし、淡々としたドキュメンタリータッチであっても、作者の意図は込めることができると思いますので、私はそれはそれでよいとは思います(今回はドキュメンタリータッチではないように思えました)。

    今回とは異なる、私が「こうしたら」と書いたラストは、素人考えにしかすぎませんので、見せ方によっては、ひょっとしたら、逆にKAEさんがお書きになっている「芝居じみている」ものになる可能性が強いかもしれません。
    「そんな風に赦しがあるなんて、あり得ない」っていうように。

    難しいですよね。今回の作・演出は、そういう意味では最善の方法だったかもしれませんね。個人的な感情は別にして。

    >そのことに誘発されて、観客にも変化が連鎖する

    という意味では、まさに今回の舞台はそうであったかもしれません。それはひとえに優れていた舞台だったからこそ、このように舞台の中に入り込んだ感情や意見が、感想やコメント出てきたのでしょうね。

    ますます次回も楽しみになってきました。

    2010/08/24 05:34

    アキラ様

    ああいう境遇であのような過去を背負ってきて、そして、ラストに自分の犯した過ちに気がついて…。というのは、直線的に思えてならなかったのです。
    それと、感情的に納得できないということが相まって、あのラストには賛同できないのです。

    アキラさんがおっしゃるこの部分、たぶん、言い方は違えど、私と似たようなお気持ちなのではと思いました。

    私が、観て来たコメントで、「ラストで、一気に、あーこれはお芝居だったのねと、気持ちが引き戻された」という主旨の文章を書いた時、その「お芝居」というのは、「これは芝居じみている」というようなニュアンスで使う、ネガティブな感情からでした。

    私は、あのラスト直前までは、ナオの人生を追体験し、同感や疑問を感じ、時には、ナオ自身、兄、母、友人と、あの彼女のストーリーに語られる人物に、自己投影して見入っていたので、あのラストで、一気に、これは舘さんという作家が書いた虚構の世界の出来事で、「あなたとは無関係なフィクションに過ぎないんですよ」と、いきなり突き放されたようにも感じ、それで、残念な気持ちが倍増したのかもしれません。

    これだけ、現実世界で、様々な事件が起こっているのですから、こういう人生を送った人は、こういう終焉を迎えるものですと、まるで、ドキュメンタリー仕立てで、ラストを考察、構築するのではなく、作者の目線での、演劇ならではの、演劇だからこその、何か、観客の心に、光射すラストを選択して頂きたかったのかもしれません。

    こういう人間はこういうラストですよという、精神医学的考察なら、ドキュメンタリーや精神医学の講演会で、語られれば良いので、わざわざ観客がチケットを求めて、劇場まで足を運ぶ演劇の世界においては、自ら創作した人物に、作者なりのサジェスチョンを与えて頂きたくなってしまうんでしょうね。

    その芝居が進行する中で、登場人物に、何か変化が起き、そのことに誘発されて、観客にも変化が連鎖する…、そういうタイプの演劇が好みなんだなと、私は、この作品を観たことで、自分の演劇に求めている要素がはっきりわかった気がしました。

    アキラさんも、もしかしたら、そうなのかもと思いましたが、違ってますか?

    2010/08/23 20:29

    KAEさん

    >あら、アキラさんも、私と同様、前回からの御観劇だったのですね?

    そうなんですよ。


    >このラスト、脚本構成と演出面から考察すれば、なかなか大した選択だとは思うのです。

    私は、作者には申し訳ないと思うのですが、選択としては、一番ありがちな方向ではなかったかと思うのです。ああいう境遇であのような過去を背負ってきて、そして、ラストに自分の犯した過ちに気がついて…。というのは、直線的に思えてならなかったのです。
    それと、感情的に納得できないということが相まって、あのラストには賛同できないのです。


    >本当に、吐くほど眠って、その後、家族や友人に呼びかけれて、もう一度、生きながらえてほしかったのです。

    そう思います。
    彼女は、すべてを自分で背負って、自分の中だけにすべてを押し込めてしまったことで、事故とは言え、過ちを犯してしまった。だからこそ、彼女は外部との関係性によって赦されてほしかったと思うのです。

    2010/08/23 03:48

    アキラ様

    あら、アキラさんも、私と同様、前回からの御観劇だったのですね?

    このラスト、脚本構成と演出面から考察すれば、なかなか大した選択だとは思うのです。

    でも、アキラさんもおっしゃるように、この主人公の半生にずっと真剣に向き合ってしまった観客として、このラストでは、どうも納得し難い思いが湧いてしまったんです。
    このストーリーは、彼女の一生のお話ではなく、半生のお話にしてもらいたかったなと思うのです。本当に、吐くほど眠って、その後、家族や友人に呼びかけれて、もう一度、生きながらえてほしかったのです。

    井上さんの「父と暮らせば」のように、生き残ってしまった罪の意識で苦しむ後で、家族や友人の存在が、彼女の抑止力になってしかるべきな気がしてしまうのです。
    彼女は、勾留されて、あーして、カウンセラーに、自分の生きてきたストーリーを語る中で、家族の本当の思いに気付き、あんな素敵な友人達を悲嘆に暮れさせてはいけないと悟ってもよいのではと思いました。
    あんなに、結婚式で、自分のために感極まって泣いてくれるような親友がいたら、私なら、彼女のためにも死は選ばないと思います。期せずして、自分が命を奪ってしまった兄や、被害者の分も、親友の子供の命を育むのに協力することで、生きながらえる道を選べるのではと思ったのです。
    カウンセラーの語ることで、母親の真実にも、自分の思いにも気付く瞬間があった筈だなと…。

    本当に、これは、個人的好みの問題かもしれませんが、私は、この芝居は、贖罪の末の再生の物語であってほしかったと思っています。

    2010/08/22 23:58

    KAEさん

    コメントありがとうございます。

    同じような感想ということで、私も心強いです(笑)。
    それにつけても、ガレキの太鼓は、前作から1つ大きくなったような気がしますね!
    (いやまあ、前回と今回しか観てないんですが・笑)

    2010/08/22 05:57

    アキラ様

    本日観劇後、自分の感想を書く前に、アキラさんのレビューを拝読させて頂いたのですが、ネタバレ部分まで、含め、何から何まで、私と酷似した御感想でしたので、大変驚きました。
    もし、アキラさんのレビューを拝読せずに、自分の感想を書いていたら、まるで、盗作かと思われるのではと感じるくらい、私も、同じ感想でした。

    ところが、私、PCの引用作業がどうも苦手で、アキラさんの文章を引用しにくいため、自分のコメント欄に、何度も、アキラさんのお名前を出してしまいました。
    もし、お読みになって御不快だったら、お許し下さいね。

    2010/08/21 23:07

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