満足度★★★
舞台の上では、脚本と格闘していた
会場の雰囲気にマッチした、ちょっとスタイリッシュなテイストがある舞台であった。
だけど、そこには真剣勝負の格闘があったと思う。
ネタバレBOX
豪華な執筆陣に惹かれて観に行った。
その脚本と格闘している様が見えるような舞台だった。
そのせいか、演出が勝り、ややバランスが悪いと感じるパートもあった。
言い過ぎかもしれないが、その脚本家が行わない演出をあえて選択したような気さえした。つまり、脚本の意図とは違う演出をしているような感覚があった。
例えば、ゆっくり上演されるつもりのものをテンポを早くしたり、というような感覚だ。笑えるはずのパートが笑えなかったりと(その劇団で上演されれば、あんな感じで笑えたのになあ、と思いつつ見ていた。誰が書いたのかなんとなくわかったので。後で配られたチラシを見たら思ったとおりだった)。
全体は、虹のように、7つのパートに別れているのだが、音楽CDのアルバムで言えば、曲順をもう少し考えたほうがよいのではないかと思った。
ダンスの後のファースト・パートは、ダンスとのギャップを見せて、「つかみ」をきちんとしてほしかったと思うし、演出が似通うものが並びすぎるのも…。
7つの色のように、脚本だけでなく、演出も7種類用意できれば言うことがなかったかも。
さらに、音楽が意外とベタな感じで、特に歌詞のある歌が入ると、その歌に舞台の上を持っていかれてしまう印象がするところもあった。
ダンスシーンなのだが、ここの舞台はドタドタと音がしてしまっていた。床が箱のような構造になっているのだろう。
ある程度動きがあり、テンポに乗っているときはいいのだが、ラストのカノンのように、静かでテンポのゆっくりした曲のときには、プロのダンサーではないので、どうしてもステップまでは、曲に乗り切れておらず、美しい曲にドタバタという足音が響いてしまっている。あまり歩き回らない振り付けなど、実際の舞台に立ったときにそれを感じて臨機応変に変更するなどの必要があったかもしれない。
また、台詞を言いながら(繰り返しながら・この繰り返しのあるパートが、また多い)、何かをマイムのように行うところが随所にあった(例えば、サンタとトナカイがやって来るとか、カルタをしているとか)が、意味が見えすぎるわりには、台詞との関連性があまり見えてこないところがあり、逆にそっちばかりに気を取られてしまったということもある。
とは言え、「これはいいかも」と思うようなセンスの光る演出もあるのは確かだ。小道具のシンプルな使い方や舞台上でのバランスがいいのだ(脚立の使い方が秀逸!)。
役者さんたちは、全体的に無機質でスタイリッシュ、とても品を感じる演技であったと思う。
特に、金崎敬江さん自身の身体のキレがいいことが印象に残った。そして、女優さん3人ともが、台詞を言い演技をしているときに、見事に輝いていた。そこが見事。
満足度★★★★★
ニヤニヤ、にたにた、おおっ、おもしれー!
2時間50分という上演時間を聞いたときには倒れそうになった。
終わってみれば、2時間50分は、ニヤニヤ、にたにたしつつ、あっという間。
ネタバレBOX
上演時間を聞いた後、かなりゆるい感じの進行に、これだからこんな長時間になるのか、一体こんな感じでどうなるのか、と思いつつも、なんだか面白いのだ。
下品でキッチュで、グロもありつつの、お下品で、デタラメで、ハチャメチャで面白下品。
部屋がつながっているセットが無駄に面白い。
ほとんど意味なく、役者を左右にわざわざ歩かせる。
こういう遊び、おふざけは悪くない。
なんと言うか、まるで子どもが凄いおもちゃを手に入れたような感じに使い倒しているのだ。
「オレ、ポリス」なんて言う口癖に代表されるような、やっぱりそれほど意味のない台詞もとても効果的。特に誰が拾うこともなくどんどん、というかダラダラ進む感じが、ニヤニヤしちゃうのだ。
そして、怒濤の後半へなだれ込む。
玄関と押し入れがつながっていたあたりからの、畳み掛け、というか、ゆるい畳み掛け。どうでもいいような綱引き部の前フリがここで結実し、しかもそれが役に立たないという、どうでもいい感じがきちんと計算されている。
やるじゃないか、と思うのだ。
とにかく面白いから、終わってみれば、2時間50分はニヤニヤしつつ(ちょっと声出して笑うところもありつつの)あっという間。
女優(おんなやさしい)とは、単に「優しい女」というだけではなく、やはり女優(じょゆう)でもあるということなのだろう。
それが恐ろしくもあり、優しくもあるということなのだ。
堀越涼さんのヒッキーで切ない感じがいいし、梅舟惟永さんのなんとも言えぬ雰囲気もたまらない。
他の出演者もキャラがしっかりしていて、もうそんな人にしか見えないのだ。安藤理樹さんがとにかく悪い人とかね。
満足度★★★★
とてもいい舞台でした
豊かさがあり、素晴らしい音楽劇。
ネタバレBOX
舞台の広さと天井高が見事に演出に活かされていた。
内容自体にも、奥行きを感じた。
客席のほうまで縦横無尽に使い、さらに壁に投影される星座なども効果的で美しい。
そして、林光さんの音楽はやはり素晴らしく、特に合唱部分の力強さがとてもいいのだ。ナマ歌の良さがある。
「誰がどうした」と語り手が入るので、ストーリーはとてもつかみやすくなっているが、それが少々多すぎるのではないか、と少し思った。
観客のことを考えて、トータル1時間30分の上映時間なのだが、あえて45分+休憩15分+45分にしたのだろう。
個人的な感想としては、一気に観たかったと思う。雰囲気を途切れさせることがないほうがいいと思ったからだ。
本当に少年にしか見えなくなってくるジョバンニ役の清水優華さんが素晴らしい。他の役者もいいと思ったのだが、台詞が台詞にしか聞こえない人がいたのがちょっと残念。
また、ジョバンニ、カンパネルラ以外の登場人物が、仮面を被っていたのだか、沈んだ船に乗っていた子どもたちと青年は、もっと感情移入したかったのだが、仮面が不気味すぎて、それだけが印象に残ってしまった。登場人物たちは、台詞だけでなく、その表情までも楽しみたいと思うので、これはもったいないと思うのだか。
さらに言うと、こんなに素晴らしい舞台なのだから、観客席についてもも少し居心地を良くしてもらいたいと思う。観に行ったときは、段差と段差の間が桟敷のようになっていたので、段差がなくなってしまい、前の人の頭で舞台がよく見えなくなってしまっていた。
会場自体は大きさも高さもあるのだから、せめて高低差をきちんとつけることと、桟敷席はできるだけなくしてほしいと思う。舞台を全身で感じたいと思うからだ。
とは言え、ここの他の演目も是非観てみたいと思った。
満足度★★★★★
違和感が違和感を包み込み、それは様式美にさえなっていた
台詞の最初の一声が発せられるまで、「4カ国語版」という表記がなされていたことを忘れていた。
そう、ドイツ語、英語、韓国語、そして日本語の4カ国語での上演だったのだ。
それらの4カ国語が、歌うように朗々と発せられ、あるときは唾を飛ばすほど熱を帯び、着々と悲劇へと向かっていくのだ。
ネタバレBOX
4カ国語という言葉への違和感は、すぐになくなった。不思議なことだけど。もちろん字幕の手助けは必要なのだが、「それぞれの役がその言語である」ことの意味すら見えてくるのだ。
主な配役で言えば、リア王がドイツ語、長女が英語、次女が韓国語、三女が日本語だ。
これは、それぞれの言語が持つ、音の響きとイメージがそれぞれの配役に膨らみを持たせているのではないか。
例えば、絶対的な王であったリア王は、老いてもまだ強権的であり、ドイツ語の響きが似合うのだ。終盤になるあたりでは、その台詞が過剰になり、狂気すら見えてくる。まるで狂気を帯びたようなリア王の末路は、こうであった、ということが理解しやすい。
そして、長女の夫の韓国語には、妻の父親(リア王)を敬う気持ちが表れ、儒教的な色合いが感じられてくる。
それらの4カ国語が、歌うように朗々と発せられ、あるときは唾を飛ばすほど熱を帯び、そして、何の違和感もなく相互に会話を結んでいくのだ。特に外国語を話す役者たちの声の通りと響きは抜群であった。
その声に導かれ、悲劇へ着々と進んでいく。
また、ナースが多数出てくる。その中には男性も混じる。看護師ではなく看護婦としてである。長女も男性が演じている。そういう違和感も投げ入れてくるのだ。
構成はとてもスタイリッシュ。衣装は和洋折衷の重厚さがある。舞台セットは、黒を基調しとて、引き戸が後方に並ぶだけ。これをピシャリと閉める音が、断絶などの意味合いを示していた。
背筋を伸ばして立ち並ぶ姿を含め、観客に正面を常に向いていて、どのシーンも一瞬一瞬が「画」になっている。
いろいろな違和感の塊であるはずなのだが、受ける印象は、「型」が決まるとでも言うおうか「様式美」であった。
違和感同士がぶつかり合うわけでもなく、そこに平然とした姿ですべてが存在しているのだ。
これは、ちょっとした感動だ。
ただし、個人的にはナースだけは、最後まで違和感を感じてしまった。どうやら、それには大いなる意味が込められていたようなのだが。白い衣装(ナース服)に違和感を感じてしまったのだろう。それこそが意図でもあったのだろうが。
満足度★★★★★
音の渦。死と死者と、生者のためのオペラ。
スパイラルホールという会場、そして演奏の編成からも考えて、いわゆる、朗々と歌い上げるオペラではないと思っていたら、やはりそうだった。
四方のスピーカーから音が渦巻くステージ。
素晴らしい組曲とそのライブ。
ネタバレBOX
ストーリーは説明文にあるとおり。
物語は、ボソボソとしたモノローグと会話によって紡がれていく。また、字幕だけのシーンさえある。「歌」が直接的に物語を語るわけではない(台詞という点において)。
「歌」は、死者と生者の「嘆き」と「唸り」であり、それらが観客を延々取り巻く。そしてそれが物語である。しかし、ストーリーを追う物語ではない。
メキシコには有名な「死者の日」という祭りがある。骸骨の衣装を着たり、骸骨の飾り付けがされたりする。「死」や「死者」との距離がそういうお国柄ということもあるとは思う。
「死者」が「生者」と紙一重にいて、その差が微妙な関係にある。
「家」のイメージである扉が徐々に降りてきて、窓に蓋がされ「棺」となる。この感覚なのだろう。
全体的に暗く、緊張感が漂う。演奏家たちも自由に舞台と客席の間を動く。麦の束を持って、風の音を執拗に鳴らす、あるいは、シューシューと口から息を吐く音を響かせたりもする。コントラバスやいろいろなモノが立てる「音」が美しい。音響の強弱と繊細さが見事であり、また、四方から聞こえてくる音も精緻に組み立てられていた。
「死」もしくは「死者」の組曲と言っていいだろう。それをライブで演奏しているのだ。
トロンボーンは、その楽器自体の輝きとともに生命を鳴らしていた。石川高さんの笙は、あるときは風であり、あるときは宗教であった。
田中泯さんは死の気配を振り撒き、独舞では壮大さすら感じた。
濃密な100分であったと言っていいと思う。
ただし、現代音楽が苦手な人には100分の苦行であったかもしれない。
もっとも、この内容のチラシ等を見て、いわゆる朗々と歌い上げるオペラを想像して来た観客はわずかではないだろうか。なんと言っても会場が、スパイラルホールであるわけだし。
一点だけ気になったのは、数人の少女たちが出てくることだ。他の出演者が指の先まで、意味として観客に晒している(演奏者も歌い手も踊り手もすべて)のにもかかわらず、彼女たちの緊張感のなさは、全体を弛ませてしまっていた。
イノセントなアイコンとして(天使的)の活用だったのだろうと思われるが、歩き方も不安げで、表情もシーンごとに定まらず、さまざますぎていた。きちんと意味と理由を説明して演出していたのだろうか、とちょっと思った。あるいは、それを含めての演出なのかもしれないのだが。
残念
やる気は感じた。
ただし、いろいろなものがそれに追いついていないという印象だ。
ネタバレBOX
主人公の成長ドラマにしては、葛藤が浅いし、小説を書くということが非常に安直に使われていた。
恋愛ドラマとしては、男女の気持ちの動きがまったく見えなかった。と、言うより、主人公の彼女が一切出ないので、彼女の気持ちがわからないのだ。もちろん、彼の彼女に対する気持ち(熱さ)も感じないし。
そもそも、主人公の彼女は、別の人と付き合っていたのを、主人公が何度もアタックして手に入れたと言う。そのときの彼女が彼と付き合うことを決めたのは、彼が書いた小説を読んで、こんな小説を書く人ならば自分も大切にしてくれると思った、ということ。これって、何度もアタックしたことと、微妙な関係にないだろうか、すっきりしない。
また、その彼女は、主人公と別れた後に、主人公が嫌っていた上司と付き合うのだ。当然、元彼の上司(同僚)であることは承知の上だろう。だって、主人公は、バーでさえ、上司のことを愚痴っていたぐらいなのだから、彼女は知っていて当然だ。
そんな彼女に魅力があるのか? と思いつつ見ていた。ひょっとしたら、彼女が舞台に登場しないことで、観客の気持ちをそのように向けて、ちょっとしたどんでん返しがあるのかも、と思ったら、まったくそんなことはなかった。
また、主人公も彼女に対して、自分がリストラされたときに支えになってくれた、と言いつつ、身勝手なこと言い、そのため彼女は去っていくのだが、それに対する反省の色さえない。
何度もアタックして射止めて、身勝手なこと言って振られて、だけど復縁したいから小説を書いて、と、あくまで自己中心なのだ。
彼女の気持ちなんてどこにもない。なんだかなぁと思ってしまう。
だから、恋愛モノとしても、観ていて気持ちが入らない
結局、主人公は一体何をしたかったのか? ということだ。
小説を書くことに情熱があるわけではないし、仕事に一生懸命というわけでもない。彼女と一緒になりたいと思っているわけでもなさそう。小説を書くということが、単に彼女の気持ちを振り向かせたいだけというのには、共感できるわけがない。それなのに、一生懸命パソコンを打ったり、編集者のアドバイスを受けたりするシーンがあったりして、ちよっと白けてしまう。
主人公、ほぼ無表情と言っていいし。
最悪なのは、ラストに主人公が事故死してしまうらしきシーンだ。
ドラマチックを履き違えた、唐突なそんなシーンは、いかがなのものか。
いずれにしても、なんだか安い話になっているとしか思えない。
主人公の書いている小説の登場人物(主人公の分身のような)が登場するというアイデアは面白いと思ったのだが、今ひとつ物語に融合してこない。
彼らがいる意味が見えてこないのだ。
彼らが、主人公のことを回想するという感じの狂言回しになれば、すっきりしたように思える。と言うか、誰がこの物語を引っ張っているのかが、見えてこないのだ。あるバーに集う人々の群像劇というわけでもないし。
観客は正直なもので、わずか70分程度の上演時間なのに、時計を見てる人が数人いた。
物語だけでなく、演出のテンポが悪いのだ。
具体的に言うと、無言で会話しているように見せて、音楽を流すシーンがやけに多い。これって、全部カットしてもいいのではないかと思ったほど。
例えば、主人公が泥酔するシーンがあるのだが、暗転後、まずはバーに客がいて無言で会話していて、そこにマスターの妻がやってきて客に紹介する。そして、主人公が酔って入ってきて、マスターや客がソファに寝かせる。ここまでBGMで全部無言の会話。
これって、ここまで必要なのだろうか。暗転後、バーのソファに酔って寝ている主人公がいる、で意味は通じるだろう。
こんな余分な説明シーンが多いのだ。70分なのに。
また、ラストにサンタの格好をした主人公が、元上司を殴って元彼女のところへ向かうシーンがあるのだが、これも構成が悪い。
サンタが元上司を殴って、暗転。
主人公の書いた登場人物の会話シーン。「あれ走っているよ」の台詞でつなぐ。
サンタに扮した主人公が走るシーン。照明が彼の横から当たる。
主人公の書いた登場人物の会話シーンに戻る。彼らの会話で主人公が亡くなったことがわかる。
というのが実際の舞台なのだが、サンタが殴って走るシーンへのつなぎが悪くヘンな間が空いてしまう。映像作品のようなカットバックが、テンポ悪く入るからだ。
ここは単純に、
サンタが元上司を殴り、走り出す、そして横から光。
で、小説の登場人物がその顛末を語る、
というのでよかったのではないだろうか。
主人公が亡くなるということの是非は横に置いて。
他の登場人物のエピソードも、それぞれ悲喜交々なのだが、それが別に本筋にかかわってくることはなく、例えば、マスター夫婦の妊娠に関するエピソードも、意味なく人の出入りがあって(会話のズレを演出したいがための人の出入りがあった)、説明的に演じられる。それが後で物語に活かされるわけでもないし、それほど笑いが起きるような内容でもない。
役者については、申し訳ないが、誰もその役に見えなかった。例えば、やり手のはずの上司は仕事ができるようには見えず、マスターの妻は編集者には見えない。バーテンダーも所作やカクテルや飲み物を作っているのが、単にコップに何かを注いでいるだけにしか見えず、プロの感じがしない。
バーのバイトや振られる客の本業が裏に見えてこない(具体的な本業を舞台上で説明せよ、と言っているわけではない)。つまり、役が背負っているはずの生活が見えてこないのだ。
厳しいことを言うが、公演を打つ前に、何かやらなくてはならないことがあるのではないだろうか、受付の印象がとても良く、役者も頑張っていることは、十分に伝わってくるだけに、残念でそう思ったのだ。
満足度★★★★★
お父さんのほっぺたは冷たいけど温かい
笑いもありつつ、涙もある。
見終わった後の爽やかさ。
とても心に染みて、家族のことを想ったりする舞台
ネタバレBOX
想出島にこの島出身のりつとその婚約者・堀田が、りつの父親に結婚の許しを得るために訪れる。
しかし、りつの父親は、婚約者の堀田をいきなり殴りつける。
実は、りつの父親は、背中に電池を背負ったロボットだったのだ。
堀田はその事実に驚く。実は、ヒューマノイド型ロボットの製作や使用が禁じられている法律があり、罪に問われるからだ。
しかし、島民は、ロボットであるりつの父親もりつも家族同然と思っており、そのことは気にしていない。
彼らは、堀田にりつとロボットの父親の20年の歴史を語り始める。りつがロボットの父親と三ッ屋が初めて島に訪れたときから、大人になって、島を旅立つまでを。
そして、ロボットがなぜ作られたのかも明らかになっていく。
タイトルどおりに、りつという女性と父親であるロボットのストーリー。
設定から、展開などはある程度読めてくるし、それが切ないものであろうことも想像の範囲内である。
しかし、とてもいいのだ。
笑いも随所にあるし、涙を誘うシーンも用意してある。
なにより、登場人物がすべていい。彼らが徐々に魅力的に見えてくる。
それは「この役は、やはりこの人でなければ」という感覚になってくる。そういう演出と役者がうまいということがあるからだろう。
細かい台詞や設定もなかなか気が利いていると思った。例えば、りつの婚約者の口癖「大丈夫」が、りつの父親とダブるあたりなどだ。
子を想う親という、普遍のストーリーが、ロボットの父親というあり得ない設定の中で、きらりと光る。
むしろ、子どものときのりつしか育てる機能がなく、融通も利かないロボットだからこそ、子どもが親に感じる「いつも同じことを言う」「何を言ってもわかってくれない」というような感覚を見事に表したといってもいいかもしれない。
触ると冷たいロボットに、親の温もりを感じるりつに、自分の親との関係を重ね合わせて見てしまうことは当然だろう。
だから、エンディングはやや長いと思っていたが、そういう気持ちを素直に代弁してくれるようなラストが待っているのだ。
りつの素直な感じをストレートに感じさせてくれた藤吉みわさんや、ロボットの父親を演じていた大野ユウジさんの哀愁感、さらに、年上っぽく、すべてわかっているよ的な貫井りらんさんが印象に残った。そして、寡黙で友情の男、本折智史さんがラストに親友とその娘のビデオを見ている表情がとてもよかった。それは彼にはそのような幸せがなかったということが、観客にはわかっているということもある。
あ、そうそうチケットもなかなか凝っていた。
観客も想出島に行けるように。
満足度★★★★★
脚本と演出のシナジー効果抜群!
うまい構成の物語を、独特のリズム感ある演出で見せる。
その2つのシナジー効果の中で、役者も活き活きしていた。
ネタバレBOX
リライトというタイトルは、単に前の脚本を書き換えたというだけでなく、リライトしたい、人の気持ちをも表していた。
自分の身体に対する違和感や、障害、そして障害者を取り巻く人々の想い、さらにイデオロギーまでちょっと浸食しつつ、実は、やはり自分自身のことが中心にあるという感覚。
自分=身体=心というバランスが、どこかが歪になっていることへの不安。
その不安を技術で解決しようとするということも、また歪であったというようなスーリー展開。その中に美しい夫婦のエピソードを交えるあたりが憎いのだ。
実に見事としか言いようがない。
物語の構成が見事というのもあるが、演出の秀逸さもそこにはある。
登場人物たちを、舞台の後ろに常に配し、まるで見本品のような佇まいだったり、融合したりというように、ストーリーに、より意味と幅を持たせる、まるで動く装置のように使う。
さらに、独特のリズム感と、観客のはやる心をクールダウンさせ、さらに次への期待を持たせるような手拍子などや歌。
ラスト前の畳み掛けのうまさは、とくに凄い。
ル・デコという場所であり、登場人物たちが、常に舞台の後ろにいるという設定もうまく効いて、ぐいぐい来る。
その走り出し方が見事。
そして、ラストは歪みが大きくなり出して終わりではないところ、すべてを破壊し、混沌に落とし込むことも可能であったのにそうしなかったというところが、実にスマートで、物語の厚みを増していた。
そして、役者がとても活き活きしていたのが印象的である。
特に、ちょっと歪んできてからの、酒巻誉洋さん、金子久美さん、森田祐吏さん、木村キリコさんが印象に残った。
満足度★★★★★
凄いヨォ、なんだか凄いヨォ
オフビートなのに過剰。
チープで雑なのに、緻密。
すべてを「わかっている」役者がいいのだ!
劇団名も凄いけどね(改名してこうなったらしい)。
ネタバレBOX
なんか凄いと思った。
なんて言うか、フリーハンドの凄さというか、それを取り込んでいるらしき演出の緩さというか。
もちろん、役者のフリーハンドの部分は、きちんと演出されていて、それを「演じて」いるのだと思うのだが(と言うか、そう思いたいじゃないか)。
凄いチープで、雑な感じ。
「いい意味」で「雑」だ、と言ってもいいかもしれない。
ボー立ちの役者がずらりと並んだり、なんだか衣装も微妙で、さらに今どき喪黒福造のパロディってアリ? な感じとか、Q10(キュート)のパロディまでもタイミング的に微妙感が漂う。
とにかく、「説明」はまったくない、と言っていい。
なぜクチバシがある人間がいるのか、なぜあの女性は人から見えないのか、なぜそんなに水にこだわるのか、なぜあんな衣装なのか、とにかく説明はない。だけどストーリーはどんどん進む。進んでも何も明らかになんかしていかない。
デタラメと言っていい。というか、そう言うしかない。
ここにあるのは、すべて「わかった」上で演出されている世界なのだ(たぶん)。
だから面白い。
小劇場にありがちなダンスシーンも入れてみました的な微妙さもたまらない。
なんとも言えぬこだわりと、言葉遊びにはあんまりなっていないような、言葉のズレ。ズレと言うか、しゃべっていたら、オーバーランしましたというような過剰さで、誰も拾いに行かずに投げっぱなしの台詞。さらに、ぼそっとしたツッコミ。もう、そのタイミングは「うまい!」としか言いようがない。
とにかく、役者がみんなわかっているから、そのラインの上にあって「うまい」のだ。
雑っぽくしているけど、相当考えられているのではないだろうか。
もしくは、役者の動物的カンのなせる技なのか。
そのあたり演出&役者の演技等々を見極められるか、あるいは面白いと思うかで、評価が大きく2分されるのではないだろうか。もっともこれらは、当方の深読みとか読み違いとかの可能性もあるのだか。
とは言え、私は、笑った。しかも久々の大爆笑もしてしまった。
アドリブ、と言い切ることはできない不思議な世界の連続を観ていて、1日3回だけの公演は、全公演観ても、絶対に面白かったと言えるだろう。
そして、たった1日の公演だからこそ、役者も新鮮さを維持できたのではないか、とも思ったのだ。
星は5つにしてみた。
満足度★★★
面白くもあったし、笑いもした
ほどほどに、だけど。
そして、構成には「?」が付いてしまう。
で、「コチャラカ」ってこういうことのわけ?
ネタバレBOX
コントから始まり落語が続いた。
「これって、若手のお笑いライブなの?」と思っていたら、後はコントが続く。やや演劇テイストのあるコントで、ラストはすべての登場人物が揃うという趣向だ。
1.野球1
監督のもとに、野球初心者の選手希望者が訪れる。彼は、ピッチャーのどころか、ピッチャーが投げるもの(つまりボール)という名称さえも知らない初心者で、監督とのやり取りで笑わせる。
これを演じた勝又兄、勝又弟という2人は、双子なのだろうか。よく似ている。しかし、その「似ている」を笑いにしない不思議さ。監督を「帽子&サングラス」というだけで認識しているのだから、それを選手側が行って、笑いにすることも可能だったのではないだろうか。
2.転失気
普通に古典落語。
3.嫁入り
嫁入り前の挨拶をする娘が、両親にまったく似ていない外人顔。両親に自分は本当の子どもではないのでは、と疑問をぶつける。なんともいえないオチで笑う。
4.不幸な女
初デートの、喫茶店のテーブルクロスの柄とかぶってしまった洋服を着ている女は、自分がいかに不幸かを嘆く。相手の男はそれに困り、自分も不幸だと告白する。
5.野球2
監督の1人芝居。わけのわからない野球部員たちとのやり取り。バカバカしさ溢れる。
6.賢人
「賢人」という名前に名前負けしているので、改名したいと両親に訴える男の話。
7.喫茶店にみんなが集まる話
上記の2を除いた登場人物が、喫茶店に一堂に会して、不幸を嘆き合う。ラストのちょっとした感じがいい。
全般的には、爆笑という感じではなく、オフビートな笑いが中心な印象。なかなか面白いと思った。
キャラクターの肩に力の入らない感じもいい。
しかし、問題は2番目の落語である。普通に落語家さんが普通に落語を演じただけなのだ。
この構成が微妙。
つまり、ラストでは各コントの登場人物が全員揃うのだが、落語のパートだけは、単に落語であって、まったく関係ないのだ。
せめて、「転失気」に関係する台詞か、落語家が落語家として登場するとか、それぐらいのセンスは欲しかったと思うのだ。
この落語のせいで、コント間の結びつきまで弱くなってしまったような気さえする。
この団体が提唱する「コチャラカ」は、単なるミニ・コントなのだろうか。
つまり、今後もこのスタイルでいくのか、それとも演劇っぽくしていくのか、そのあたりが気になるところである。
ちなみにキンケロシアターは、受付も広いし椅子も座りやすい(幅や段差がきちんとある)、トイレもきれいで言うことなしだった。
満足度★★★★
平成に福音は響いていたか?
マタイ伝の中のエピソードを、ロックテイストの音楽に乗せて伝えるミュージカル。
その昔、映画で観たという記憶がある(もとは、オフ・ブロードウェイの作品らしいが)。
ネタバレBOX
タイトルどおりの「ゴッドスペル(ゴスペル)」が、ミュージカルで繰り広げられる。内容は、マタイ伝の中から抜粋した、例え話が中心である。
そのため、どうしても説教臭くなりがちなのだが、音楽に乗せることで、情熱的に伝えようとしていた。
ただし、各パートのつながりは(もともとそうなのだが)あまりなく、エピソードの細切れになっている印象だ。
ン十年前に観た映画しか知らないのだが、映画版では、フラワーチルドレンやヒッピームーブメントのような衣装と雰囲気があり、非常にPOPで明るいものだった。
対して、今回の舞台は、まるで教会の廃墟のようなセットに、地味とも言えるようなナチュラルな色合いが多い衣装(ジーザスは、お約束のスーパーマンTシャツだけど)であり、そこにまず時代の違いを見せていた。
アメリカでは、ゴスペルやクリスチャン・ミュージックのように音楽に乗せて伝道することはよくあるようで、現在ではクリスチャン・メタルと呼ばれるヘビメタもある。
仏教で言えば、声明というところか、違うか(笑)。
つまり、楽しみながら、福音を学ぶ(知る)という点が、この舞台のそもそもの目的のひとつではないかと思う。
で、今回、平成の世にあって、今なぜ「ゴッドスペル」なのかということだ。
魅力的な楽曲、若者のパッション、そして物語といったところがその主な理由であろう。
しかし、歌詞や各エピソードに、耳を傾けるというのもいいかもしれないと思ったのだ。
それは、宗教の持つ本来の意味と位置づけというものを、考え直してみようというもの。
伝えようとしていることは、実にシンプル。
やや窮屈だったり教義的すぎる感じもするのだが、批判の色を薄めて、その声に耳を傾けると、本来、人間のあるべき姿が語られていることを感じざるを得ない。
ただし、今観ると、ジーザス(山本耕史さん)が、あまりにも一方的にすべてを語り、かつ啓蒙していこうという姿には、少々違和感を感じてしまうのも事実。ラスト近くでの「みんな寝てしまう」という、いらだちの台詞の部分だけが、人間的であり、際立っていた。
そういう「人間的」な感覚を舞台に持ち込めていたならば、共感も大きかったのではないかと思う。
歌がそれほどでもないキャストもいるにはいたが、全体的には、若さがあり、まとまりを感じた。
それは、シアタートラムという小さなサイズの劇場だったということもあり、舞台との一体感があったことも大きいと思う。
そういう意味で、このサイズの劇場を選択した英断には拍手を送りたいと思う。
そして、今回は、山本耕史さん初の演出する舞台でもあった。
その色合いが出ていたと思うのは、なんと言ってもラストだろう。
映画版では、磔になった後のジーザスの亡骸を、全員で運び、ニューヨークの雑踏の中に消えていくというものだったと思うのだが、舞台では、そのシーン(亡骸を運ぶシーン)はなかった。
代わりに、冒頭のシーンに戻り、その歌が爆音(飛行機のような)にかき消されるという意思のあるものが用意されていた。
かき消されてしまう福音。
それが現代の福音の姿だ、といったところであろうか。
Day by dayが、やはり一番印象的な曲だった。
ただし、生演奏の音が悪く、こもっていたし、楽器ごとの音色が響いてこなかった。ミュージカルなのだから、もっと音は大事にしてほしいと思った。
満足度★★★★★
身体というのは、ここまで自由を手にすることができるものなのか
計算され尽くされた音響、舞台装置、照明、そして肉体。
ネタバレBOX
鮮烈で強烈なパフォーマンスを観客へ投げかける。
息を飲む。
目は見開かれ、舞台を凝視する。
そこにあるのは、まぎれもない肉体なのだが、それは1個の芸術作品であった。
指先まで研ぎ澄まされ、神経が行き渡っている。
舞台の上のダンサーたちが大きく見えたり、小さく見えたりする。
汗と無音のときにときどき聞こえ息づかいで、「ああ、この人たちは、本当に肉体を、今使っているのだな」と確認できる。
勅使川原三郎さんの凄さは当然なのだが、佐東利穂子さんが、とてつもなく素晴らしい! 本当に凄い!
舞台の上の空気をつかみ、離すというのか、自在なのだ。
そして、他のダンサーたちも十代であるというのには驚くしかない。
リゲティの曲がまたいいのだ!
これから目が離せなくなりそうだ。
ポストパフォーマンス・トークでの勅使川原さんのしゃべりは、言葉で表現しきれないもどかしさを感じ、改めて、その身体的表現力の凄さを思い知るのだった。
満足度★★★★
演劇入門または私は如何にして口語演劇を愛するようになったか
と、いう感じの個人的演劇史であった。
それは、口語演劇♡ラブ、平田オリザさん大好き!という感じでもある。
平田オリザ氏のアノ『演劇入門』がどのような舞台になるのかと観に行ったら、そんな感じの舞台だった。
ネタバレBOX
演劇が、どのようにして、あるいは、なぜ「口語演劇」になっていったのか、について、個人的な視点からの解説であった。
というより、個人演劇史であったと言っていいだろう。
そのストリームを、事例を見せながら解説を加えていくものであり、一種の講義でもあったと思う。
作者の岩井さんが、ツボと思った個所を、実に丁寧に見せていくのだが、そこの部分への、演出家としての共感度はどの程度だったのだろうかと思った。
作者本人が演出することに対しての、演出が別だということは、超個人的な経験と意見を解釈して、よりわかりやすく提供するということであろう。
したがって、他人の感覚を自分のものとして理解するということであり、すなわち劇中で言われていた、「自然な会話のような口語演劇」という点についての、違和感をクローズアップさせていたとも言える。
つまり、劇中で違和感として述べられていた七五調の赤毛モノの芝居や絶叫調の芝居の、台詞の不自然さは、実は、口語であっても完全にはぬぐい去れていなかったのではないかということだ。
「自然な会話」というのは、あくまでも作者とっての「自然」であり、演出家にとってはどうなのかということで、さらにそれを演じる役者にとってどうなのか、ということなのだ。
もっと言えば、観客にとってもどうなのか、つまり「自然なのか」ということもある。
もちろん、七五調の赤毛モノの芝居や絶叫調の芝居よりも「より」自然な会話であるというのは確かなのではあるが。
この舞台では、『落語 男の旅 大阪編』(青年団リンク口語で古典)でもおなじみの、「私が作者の岩井です」という台詞が随所にあり、いろいろな役者がそれを口にしていた。
それを口にすればするほど、「この台詞は自然なのか?」ということが脳裏を横切るというのは、意図しているのかどうかは不明だが、なかなかアイロニーに満ちていたと思うのだ。
さらに、「自然な会話」には、「言葉」や「口調」だけでなく、例えば、「座り直す」のような、動きも含まれていることは、きちんと説明されていたので、そういった個人的な感覚を含めての、「自然さ」にも目がいってしまう。
極端な七五調や絶叫調から順を追って解説されてきたので、その微妙な部分には気づかないようにしているのかもしれないが、ここの点は、「演劇」という形態である以上、結局は避けることができないものなのだ、ということをまさに露呈していたようにも思えるのだ。
つまり、他人の口語を話す違和感というか、その気持ち悪さのようなものまでも提示して、「演劇入門」になったのではないか、という思いもある。
また、口語演劇が到達点のように描かれていたが、もちろんそれは、岩井さんが今到達してるであろう地点なのだから、わかるのだが、できればその先に間違いなくあるであろうところまでへの「予感」までも見せてもらえたら、さらに「演劇入門」となっていったのではなかった。
ついでに言ってしまうと、個人的な演劇史(入門)なのだから、しょうがないと言えばしょうがないのだが、口語演劇に対するものとしての、七五調の赤毛モノや絶叫芝居に関しても、「違和感」として切って捨てるのではなく、もっと愛があってもよかったのではないかと思う。
それはそれで意味があったと思うし、「過去」でも「終わってしまった」ものでもないと思うからだ。
私の観た回では、ポストパフォーマンスとして、カットされたシーンが上演されたが、上記の意味においても、カットしてよかったと思った。
にしても、オリザ人形は、そっくりすぎて笑った。
満足度★★★★
人情溢れる物語
そして、舞台には人が溢れていた。
ネタバレBOX
昔のいい脚本(テアトル・エコー?)を使って、昭和の物語を丁寧に描いていた。
狭い舞台にしつらえたタバコ屋の店先と事務所の一部屋がうまく使われていて、人と人が近かった昭和の街角が舞台の上にあったのだ。
少々ドタバタしていたが、その雰囲気は良い。
劇団員を最大限に登場させるためか、登場人物がやけに多いのだが(もとの脚本に手を入れたのではないかと思うのだが?)、要所要所に配していたので、舞台の空気をうまく作り上げていたと思う。
一種の力業だが、2時間近い上映時間ながら引き込まれた。
役者さんたちは、いろんなキャラクターがいて、いい感じに昭和の空気が醸し出されていた。
客入れのときの、ホスピタリティのある様子は、好感が持てる。
この優しく温かい感じが、舞台にもあり、劇団のカラーを感じさせた。
また、観たいと思わせる劇団だ。
満足度★★★★
原作をうまく生かして、その世界を伝えてくれた
市井に生きる(生きた)人々の悲しみ、怒り、楽しみ、そして、それらをすべて包み込む「生活」がそこにあった。
ネタバレBOX
原作『一銭五厘たちの横丁』は、昭和18年に撮影された、出征兵士の留守家族たちの写真をもとに、30年後の昭和48年に、そこに写っている人々はどうしているのかを、探していくドキュメンタリーである。
原作は、かなり昔に読んだのだが、とてもいい作品だったという記憶がある。ただし、そこには1つの物語があるわけではないので、それをどう舞台にするのかが気になっていた。
とは言え、作・演のふたくちつよしさんは、原作モノを雰囲気を壊さずに手際よくまとめる方なので、期待はしていた。同じトム・プロジェクトでは『ダモイ~収容所(ラーゲリ)から来た遺書~』でも、登場人物が多い原作の雰囲気を壊さず、見事に3人芝居に仕上げていたからだ。
今回は、ドキュメンタリーのルポである原作を、ある1つの(架空の)家族に焦点を当て、多くの氏名不詳の人々の、声なき声を聞かせるように、丁寧に一般の人々にとっての戦争を語っていた。
それは、決して、派手さや声高になることはなく、市井に暮らし、戦争によってその暮らしを破壊されてしまった人々の姿だった。
実際の写真は、実に饒舌であり、そこにある物語は、舞台にあるそれよりも大きく感じてしまうこともあるのだが、台詞のやり取りが見事で、ある家庭の物語が静かに語られていた。
冒頭に映し出される、雰囲気を残しつつ、変わっていく街並みの写真がこの物語を見事に語っていた。今回の舞台のために探し出してきたのだろうか。
実際に原作に登場する写真が大きく映し出され、そのコメントが読み上げられただけで、本の内容を思い出し、また、そこに写る家族の姿に、家族の歴史を垣間見るようで、すでに目頭は熱くなった。
原作にある写真をできるだけ使いたいということと(たぶん)、場面転換ということもあり、やや、写真+コメント、暗転が多いという気がしたが、それは、演じられる家族の動く物語の対比として、気持ちを穏やかにさせ、集中させる効果はあったと思う。
実際、1時間50分の上演時間は、まったく長く感じなかった。
初日ということもあり、やや固さもあったが、6人だけで、演じきった役者さんたちには大きな拍手を送りたい。
ただ、冒頭で平成の現在から始めるのは、少々無理があるのではないかと思った。実際舞台の上は昭和48年と戦中・戦後の物語であり、語る主人公の年齢や、時代設定がわかりにくくなってしまうということがあるからだ。
満足度★★★★
みんなゾンビになりたがる
観客を楽しませようという意気込みや勢いを感じた。
笑いも弾けていたし。
ネタバレBOX
4面客席という配置なのだが、とてもうまい使い方で、死角ゼロだったと言っていいだろう。
テンポが良く、スポーツを観戦しているような感覚で気持ちいい。
みんなうまいなあ。
キャラを設定しないと、人とのコミュニケーションがとれない若者(人々)が、そのキャラを取り払われてしまうと、ゾンビになってしまう。
被っている仮面を脱ぐことでゾンビになるのだが、劇中では、ゾンビは仮面を被って演技しているという、皮肉な設定が面白い。
そう、つまり、「キャラの仮面を脱ぐ」ことで、自由にしゃべれるようになるのだが、それは、実は「ゾンビ」という「新たな仮面を被る」こにほかならず、結局、新しいキャラ、すなわちゾンビ・キャラを手に入れたことで、「何でも好きなだけ話していい」というルールに則り、堂々と自分を語り出すということなのだ。
だから、他人がゾンビになって、勝手に、かつ自由に自分を語り出すという姿を見て、誰もが、本当はゾンビになりたがっていたのではないのだろうか、ということだ。
それを本当は誰しもが望んでいることだからだ。
ゾンビから逃げるという「フリ」をして、噛まれちゃったから、「しかたなく」ゾンビになった、とい体(てい)で、「だってゾンビになっちゃったんだもの」と喜々として自分を語り出す。
ゾンビになって自由を手にしたのかもしれない。
しかし、それもキャラなので、いつかは破綻がくるのかもしれない。
で、話は少々ずれるが、観ながら思い浮かべていたのは、『ひかりごけ』(武田泰淳)だった。
『ひかりごけ』は戦中・戦後を舞台とした物語であり、人が生きて行くには誰もが無垢ではいられないというストーリーであった。それと同様に、『ZOMBIE』では、現代では、誰もが本心・本音に蓋をしないと生きていけない。つまり、両者に人が生きていくための性(さが)のようなものの共通点を感じたのだ。前者では、その証の光りの輪がすべての人の頭に輝き、後者では、すべての人がゾンビになってしまう。
まあ、そんなことどうでもいいですね。
にしても、ゾンビとOBのダジャレは少々きつい(笑)。
なんだかよくわからないけど、ゾンビな気持ちを短冊に書くと入り口に掲示してくれるらしい。七夕とゾンビは関係ないし、そもそも12月だし。とりあえず、何か書いて渡しておいたけど。
ちなみに、私の観た回のアフタートークは、ひょっとこ乱舞の広田さんだったが、面白い。話し好きなんだろうな。ひょっとこのあの精緻さとはまた違った饒舌さとサービス精神に溢れている。
劇中では、ひょっとこを乱舞させるという大サービスまであったのだ。
満足度★★★★
量子力学祭りは、不条理祭り(わかんないことだらけで笑っちゃう)
不思議な感じ。
「光子とはなんぞや」ということを、光子を擬人化して裁判スタイルで説こうとした舞台。
で、観劇後「光子とはなんぞや」と問われれば「よくわからん」と答えるのが、どうやら正しいようだ。
にしても、「量子力学演劇」というタイトルは、面白すぎる。
ネタバレBOX
本編の『光子の裁判』は、約40分程度。
その後、役者の善積元さんによる、平田オリザ氏作の落語『素粒子の世界』の一席があり、さらにMITからいらした物理学者の方(お名前失念)を交えたPPTがあった。
ここまでで、1つのパフォーマンスであったとみた。
『光子の裁判』は、光子(こうし)を波乃光子(なみのみつこ)と擬人化して、彼女が同時に2つの窓を通り抜けたことを、弁護人が証明していくというもの。
原作のノーベル物理学賞の朝永振一郎さんは、この『光子の裁判』を、ジョージ・ガモフの一連の作品のようにしたかったのかなぁ、と思ったり。
まず、舞台にあるのが、光子を観測するための実験装置であるのだが、特に詳しい説明はない。というか、詳しく説明されてもわからないというのが本当だろう。
そして、彼女が同時に2つの窓を通り抜けたことを、順を追って説明していくのだ。これはわかりやすい。と、思ったら、実はわからないものだったのだ。
それは当然かもしれない。
量子力学では、数式や理論では説明できるものが、矛盾していたりするそうだ。だから、舞台の上は、不条理臭(笑)が漂ってくる。理路整然として解説していくのだが、わからないことだらけである。「同時に存在」するというのは、「確率的に存在」することだ、と言われて「なるほど」と思ったところで、「ん? 確率的に存在?」となるし、「観測されているときと、観測されていないときでは行動が違う」というのも「観測???」となってくるのだ。難解というのともやや違う。それは不条理的である。
理路整然としているのに、不条理とは!
これが(たぶん)量子力学というものだろう。違うかもしれないけど、そんなイメージがしたのだ。
わからないことを、わからないままに演出し、演じて、それをわからない観客がわからないまま観る。そして、その内容は、専門家から見てもわからないことであるという、もう、なんかそんなことなんですよ、量子力学。
素粒子の世界は、数式などでは解説できるらしいのだが、それならば演劇で、ということがこの企みの根本であろう。
確かに、解説されてはいたのだが、観客側からの葛藤がないのだ。それはわからないから、というだけではなく、「なんで、2つの窓を同時に通り抜けたぐらいで、裁判で裁かれなくてはならないの?」という根本的な疑問が結局回収されないからということもある。
そういうドラマ抜きでは、観客は納得しづらいのではないだろうか。別に起承転結をよこせ、と言っているわけではない。
とは言うものの、刺激は受ける。重なり合う台詞と、強弱の感じは好きだ。役者の雰囲気もいい。
「確率の波は、実在の波ではないのです」と、きっぱりと言い切る台詞には、なぜだか笑ってしまったし(光子の波は確率の波というのには、実際驚いたのだ)。
で、PPTである。
観客からの質問が、まさに知りたいことであったりして、「PPTを見て良かった」と思ったのだった。
そして、最後の最後にされた研究者さんへの質問「同時というのは定義されているのですか?」の答えは「実は定義されていない」というものだった。これには、演出家、役者、そして観客からも「えー!」っと思わず声が出た。つまり、劇中であれだけ「同時」「同時」と言われていたことが、根本から覆ってしまうのだ。
まさに、どんでん返し。
これだけで、「ああ、来てよかった」と思ったほど。
なるほど、これが量子力学(量子物理学)なのかと納得…いやいや納得してないけど、面白かったなあとなったわけだ。
(ナイスな質問をしてくれた方に感謝!)
ということは、別の回にも物理学の専門家を交えたトークがあったはずで、全部を見たら、さぞ面白かったのではないだろうかと思ったのだった。
星は、本編、落語(地口落ちなのだが、一瞬間を置いて笑った。サゲは急ぎすぎたかも)、 PPTまで含めたところであり、「面白かったなあ」という後味が大層を占めているかもしれない。本編のみだったら数は減る。
そして、また、こんな感じのものは観てみたいと思ったのだった。
記憶・体験、体験・記憶
2つの都市をめぐるドキュメント。
役者が生身で見せる。
リアルタイムの「展示」なのに、すでに「体験」が凄い速度で「記憶」になっていく。
観客は、それを追体験するのではなく、固定化された「記憶」ではない、流動的なものとして鑑賞するのだ。
ネタバレBOX
2つの都市とは「何」であったのか、を役者たちがどう知り、どう感じたのかというドキュメントでもあった。
観客はさらにその外側にいて、役者というフィルターを通して感じていく。その前提として知識が、必要とされるのではないだろうか。
もちろん、ここから誘発されて、後付けの知識ということもアリではないかと思う。
HIROSHIMAに対する演出家のこだわりは、十分に感じることができる。HAPCHEONもHIROSHIMAへのこだわりである。この展示は、その「こだわり」を、もっと言えば「こだわりの源泉」を誰かに感じとってほしいということではないか。
「HIROSHIMA」という体験はすでに記憶の中にある。記憶を辿ることで体験を知ることができる、はずである。そこへの疑問が原爆資料館における展示でふつふつと沸いたのではないだろうか。そこで、「体験」「記憶」ということにも「こだわり」が出てきたのであろう。
つまり、「体験・記憶」への演出家の問い掛けは、「HIROSHIMA」への問い掛けでもあるはずだ。
それへの答えを演出家自身が持ち合わせているのかどうかはわからないが、「体験・記憶」というアプローチによって、まずは「役者」たちに感じてほしかったのではないだろうか。
「都市」という総体でとらえている演出家独自の視点からの考察は、役者たちにそれぞれの思考を与え、かつ縛る。その中で彼らは「感じる」ことを「強いられ」る。観客は、そのあがきを感じることもできる。演出家も同様にそれを見ているのだろう。
彼らの感じたことを「発表する」ということにより(それを行う上での動機付け的意味合い)、彼ら役者自身にとっての「体験・記憶」への問い掛けになるのであろう。それが演出家の意図ではないだろうか。
つまり、役者たちの「体験・記憶」の観客への提示とその反応が、役者自身の意識を揺らすことになるのではないのか。
では、観客はそれらの一連の出来事、つまり役者や演出家たちの「体験・記憶」への問い掛けについて、どうとらえるのだろうか。
観客は、演出家や役者たちとは、動機付けの部分で異なっている。
それは観客は常に「受け身」であることだ。
演出家や役者たちは、「自ら求める」ことにより、アプローチをしている。
と、いうことは、展示が意図している、問い掛けが届きにくいのではないかということだ。
また、観劇時間はおおよそ60分程度をと言われて、実際には90分会場にいた。
しかし、その場で行われていた「展示」のすべてを鑑賞することはできなかった。半分もできなかったような気がする。なんと言うか、「遅れて公演中の劇場に入った」感じなのだ。
そんな不満足感が残る中では、展示の持つ意味を辿ることさえもできないのではないだろうか。
それはまた、「体験・記憶」の継承の困難さを表しているのだが、観客としては、そういう考え方よりも、満足感が足りないことのほうが勝ってしまっている。
それは「展示」の意味(意義)としては成功なのかもしれないのだが。
他人の体験(記憶)に対するもどかしさ、つまり、演劇というものは、実はそういうことを内在しているのだと気づかされた思いもある。だからと言って納得したわけではない。
満足度★★★
舞台に挑発され続けたようだが
そうとは感じなかった。
生理的にキツい舞台ではないかと思っていのだが、そうでもなかった。
それは、こちらが、今の暴力的な状況に慣れて、感覚が麻痺していたのか、あるいは、演出がそこまで達していなかったのか、またはそもそも暴力を演出しているように見せかけて、それを感じさせないような演出だったのかはわからない。
しかし、どのシークエンス、エピソードも一皮剥くと、ざらざらしたような手触りや牙があったような印象がある。
そして、それらはきちんと計算され、エンターテイメント的に仕上がっていたと言ってもいいだろう。
まあ、誰のためのエンターテイメントなのかはわからないが(笑)。
ネタバレBOX
とにかく全般にわたって印象的なのは、繰り返し本への冒涜が行われ続けていたこと(正直これが一番イヤだった)。
つまり、言葉の否定かと思ったのだが、そうではなく言葉ありき、言葉が舞台自体を牽引していたと言っていいだろう。
本は、過去の知識(あるいは意識)の否定だったのかもしれない。
全般的に台詞が面白いと思った。
一見無秩序のように見えるが、「観客」を意識した構成と作り込みがなされていて、まったく飽きさせることはなかった。
先行していたイメージでは「暴力」とか「カオス」がふんだんにあるのではないかと思っていたのだが、そうでもなかったということだ。
もちろん、計算されていたのだと思うが、「面白いと思うモノ」を次々と繰り出してきた感はある。
だから、ポンポンと進むそのリズムに乗ってしまうと、興味の階段を舞台の中の出来事と一緒に登っていく感じがする。
これは心地よい。
ドラム+ベースのバンド演奏やどこかエキゾチックなアカペラ独唱、伝統的な弦楽器などの音楽がそれをうまく盛り上げていた。暴力のときだけに鳴る弦楽器など、とても慎重で効果的な使われ方をしていた。
これだけで、この舞台がいかに作り込まれているか、ということがうかがえるのだ。
映像も面白く、特に、2棟の高層ビルに近づく飛行機がその間をすり抜けたり、戦車の前に立ちはだかる男と一緒に戦車の乗員が踊り出すなどといった一連のアニメのアイロニーやシニカルさには、どきどきしながら思わず笑ってしまった。本来は笑えないものなのだが。
また、女性に対して息をふさいだり、水を無理矢理飲ませたり、テニスラケットで身体を捻ったりなどの直接的な暴力行為は、多少の不快感はあるものの、どこか予定調和的な、というか「お楽しみ」的な雰囲気が漂っていたように感じた。
ただし、男性の顔を本で覆い、テープでグルグル巻きにするシークエンスだけは、恐怖した。なぜならば、長髪のその男性の髪の毛も大量にテープが貼られていたからだ。すぐにまた登場すことを考えると、テープを外すときに…、おお怖っ。それは演出上の意図ではないだろうけど(笑)。
何度か裸になるシーンがあった。それはどこか滑稽であったりするのだが、それほどインパクトもなく、これは1回で十分ではないかと思った。
生理的に受け付けないところやイヤになってしまうところはほとんどなく、それはつまり、暴力的な今にいることで、麻痺していることなのかもしれない。
あるいは、単にその印象が広い空間に薄められたのかもしれない。
さらに考えると、暴力的な皮を被ってみせているだけで、それへの恐怖はあまり感じないようにしていたのかもしれない。
ただし、もっと狭い閉ざされた空間で行われたらずいぶん印象も変わったかもしれないと思う。
もっとも、暴力だって何だって、続くと麻痺するものなのだ。
VS(ヴァーサス)は、文字どおり「対」(対抗・敵対)。
観客VS舞台で対峙し、物語では科学VS精神、新VS旧など「VS」な関係が提示されていた。それには答えはなく、文字どおり提示されていただけで、ジャッジは観客にゆだねられていたのだろう。というか、ジャッジする必要はまったくないのだが。
観客はいろいろな手法で試され、挑発されていたのだろう。しかし、その挑発は、正直ピンとこなかった。意識の違い(あるいは当方の意識の低さ)に起因しているのかもしれないし、考え方が根本的に違っているのかもしれない。
劇中で打ち上げたテニスボールが、すぽっと手元に入ってきた。とっさに投げ返そうと思い、そのタイミングをうかがい、右手にテニスボールを握りしめていた。しかし、なんだか構築された世界を破壊してしまいそうなので、投げ入れることができず、そっとカバンにしまった(上映中に落としたりしたら迷惑がかかるので)。そして、そのまま持って帰ってしまった。帰りながらやっぱり投げ入れるべきだったなあと反省しきり。
HAEDのテニスボールだった。
満足度★★★
そりゃ確かに笑ったが
それなりに笑ったけど、なんだろ、この感じ。
大変失礼な言い方をすれば、「普通に面白かった」というところかもしれない。
つまり、ヨーロッパ企画的な面白さを感じなかったというか。
プロデュース公演だから、本公演と違っていて当然だけれども。
ネタバレBOX
ヨーロッパ企画は面白いし、ヨーロッパ企画が観たいから観に行ったのだが、ヨーロッパ企画ではなかったみたいな。
もちろん、プロデュース公演ということはわかっているので、ヨーロッパ企画(的)じゃなかったとしても、抜群に面白ければそれはそれでOKな感じだったのだが、まあ普通というか。
笑いはあるんだけど。
ストーリーは、ダメ男が、すでに成功した人の自伝をなぞれば、その成功者と同じになれると考えて、ロックフェラーとか、孫正義とか、唐沢寿明(笑)の自伝を読み、それに近づこうとするというもの。
ここにすでに、なんかどこかにありそう感が漂う。
こういう話ならば、予想外がどんどん起き、転がっていってほしいし、スピード感(疾走感)がほしいところ。
そして、問題は、その主人公。
どうもダメなだけで、なぜ彼を好きになる女性がいるのかということがわからない。つまり、チャーミングさに欠けるのだ。ただ単にダメなだけ。ただ単にダメな人であるのならば、ハチャメチャすぎるほど、破壊的にダメであれば、勢いも出ようものだが、そうでもない。
ほどほどにダメダメ。
ストーリー展開も同じパターン(自伝をなぞることで起きる笑い)で、話のオチ(いろんなモノがごっちゃになっていく)もなんとなく見えていた。
ただし、ラストは、あまりにも、で大笑いしたのだが。
不必要な下っぽいネタやホームレスを扱ったネタも、なんだかイマイチだった(面白いところもあるのだが、それが大きくなっていかない)。
ヨーロッパ企画からの役者さんたちは、さすがに面白いと思ったので、やっぱり本体を観たいな、と。