マレビトの会『HIROSHIMAーHAPCHEON:二つの都市をめぐる展覧会』 公演情報 フェスティバル/トーキョー実行委員会「マレビトの会『HIROSHIMAーHAPCHEON:二つの都市をめぐる展覧会』」の観てきた!クチコミとコメント

  • 記憶・体験、体験・記憶
    2つの都市をめぐるドキュメント。
    役者が生身で見せる。
    リアルタイムの「展示」なのに、すでに「体験」が凄い速度で「記憶」になっていく。
    観客は、それを追体験するのではなく、固定化された「記憶」ではない、流動的なものとして鑑賞するのだ。

    ネタバレBOX

    2つの都市とは「何」であったのか、を役者たちがどう知り、どう感じたのかというドキュメントでもあった。
    観客はさらにその外側にいて、役者というフィルターを通して感じていく。その前提として知識が、必要とされるのではないだろうか。
    もちろん、ここから誘発されて、後付けの知識ということもアリではないかと思う。

    HIROSHIMAに対する演出家のこだわりは、十分に感じることができる。HAPCHEONもHIROSHIMAへのこだわりである。この展示は、その「こだわり」を、もっと言えば「こだわりの源泉」を誰かに感じとってほしいということではないか。
    「HIROSHIMA」という体験はすでに記憶の中にある。記憶を辿ることで体験を知ることができる、はずである。そこへの疑問が原爆資料館における展示でふつふつと沸いたのではないだろうか。そこで、「体験」「記憶」ということにも「こだわり」が出てきたのであろう。

    つまり、「体験・記憶」への演出家の問い掛けは、「HIROSHIMA」への問い掛けでもあるはずだ。
    それへの答えを演出家自身が持ち合わせているのかどうかはわからないが、「体験・記憶」というアプローチによって、まずは「役者」たちに感じてほしかったのではないだろうか。
    「都市」という総体でとらえている演出家独自の視点からの考察は、役者たちにそれぞれの思考を与え、かつ縛る。その中で彼らは「感じる」ことを「強いられ」る。観客は、そのあがきを感じることもできる。演出家も同様にそれを見ているのだろう。

    彼らの感じたことを「発表する」ということにより(それを行う上での動機付け的意味合い)、彼ら役者自身にとっての「体験・記憶」への問い掛けになるのであろう。それが演出家の意図ではないだろうか。
    つまり、役者たちの「体験・記憶」の観客への提示とその反応が、役者自身の意識を揺らすことになるのではないのか。

    では、観客はそれらの一連の出来事、つまり役者や演出家たちの「体験・記憶」への問い掛けについて、どうとらえるのだろうか。

    観客は、演出家や役者たちとは、動機付けの部分で異なっている。
    それは観客は常に「受け身」であることだ。
    演出家や役者たちは、「自ら求める」ことにより、アプローチをしている。
    と、いうことは、展示が意図している、問い掛けが届きにくいのではないかということだ。

    また、観劇時間はおおよそ60分程度をと言われて、実際には90分会場にいた。
    しかし、その場で行われていた「展示」のすべてを鑑賞することはできなかった。半分もできなかったような気がする。なんと言うか、「遅れて公演中の劇場に入った」感じなのだ。
    そんな不満足感が残る中では、展示の持つ意味を辿ることさえもできないのではないだろうか。
    それはまた、「体験・記憶」の継承の困難さを表しているのだが、観客としては、そういう考え方よりも、満足感が足りないことのほうが勝ってしまっている。
    それは「展示」の意味(意義)としては成功なのかもしれないのだが。

    他人の体験(記憶)に対するもどかしさ、つまり、演劇というものは、実はそういうことを内在しているのだと気づかされた思いもある。だからと言って納得したわけではない。

    0

    2010/11/28 01:32

    0

    0

このページのQRコードです。

拡大