アキラの観てきた!クチコミ一覧

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まあまあだったね。

まあまあだったね。

あひるなんちゃら

OFF OFFシアター(東京都)

2012/03/02 (金) ~ 2012/03/06 (火)公演終了

満足度★★★★★

もう侘び茶の世界だよ
OFF OFFシアターのサイズ、シンプルなセット、シンプルな台詞、だけど深みがあったりなかったり。

ネタバレBOX

あつたり、なかったりのところは、観客の想像と思い入れの部分だから、なんちゃらーの私にとってはあったりする。

毎回いい感じにツボを刺激されてしまう。

あひるなんちゃららしい、常に何も起きない会話劇。
もう侘び茶の世界だよこれは。
コメディの侘び茶。

にじり口からOFF OFFシアターの客席に入りたいほど。

「まあまあだったね」の台詞のネタばれは、ここの説明文にもすでにあるというのに、笑ってしまう。

台詞のタイミング、というか呼吸のうまさなんだろうなあ。
全登場人物それぞれの持つリズムが良く、見事に1つの楽曲に仕上がっていようだ。

DM封筒持って行ったので、特製ライターをゲット。
したけど、タバコは吸わないし、BBQも花火もやる予定ないので、机の上にちょこんと置いてある。黄色いライター。

アンケートの感想として一番多かったのは「まあまあだったね」と予想。
日本の問題 Ver.311<公演終了しました。ありがとうございました!>

日本の問題 Ver.311<公演終了しました。ありがとうございました!>

日本の問題

ギャラリーLE DECO(東京都)

2012/03/06 (火) ~ 2012/03/11 (日)公演終了

満足度★★

じゃぁやるなよ
開幕冒頭で、荒川チョモランマ(たぶん)の役者さんが、被災地に行って感じたこととして、「演劇は意味がない」「(被災地の支援のためという)演劇は、被災地から見るとギャグでしかない」ということを語っていた。

なるほど、そういうモノを被災地で感じとってしまったのか、と思った。

ネタバレBOX

思ったのだが、じゃぁ、これから120分間見せられるのは「意味がなく」「ギャグでしかないようなものなのか」ということ。

彼の気持ちはなんとなくわかるが、公演を行う上で、そういう発言の影響力を考えたのだろうか。「演劇は意味がない」と彼個人の意見として繰り返し述べていたが、本気でそう感じたのだろう。
だったら、この公演は止めるへきだったのだはないだろうか。冒頭こういう形で観客に対して述べているということは、彼個人の発言としているが、公演全体の総意ではないだろうか。そうでないとすれば、誰かがこの発言を止めるか、「いや自分はこう思う」と述べるべきだろう。

この公演を行っている皆がそう思っている「意味のない」ことを金を払って見せられるほうはたまらないじゃないか。全額寄付だっていうエクスキューズは通用しない。
そう思ったのならば、「ごめなさい、できません」と謝るべきだし、個人的にそう思っているのならば、個人的にでも辞退することはできたのではないだろうか。

「意味のない」は「無力である」ということなのだろう。「ギャグでしかない」も同様だ。

あまりにも無責任な公演であると言わざるを得ない。
「意味がなく」(無力であり)「ギャグでしかない」と感じてしまったところをスタートとして、作品を作り上げ、せめて「そう感じたのですが、自分なりに考え、意味を見つけようとしました」、あるいは「ギャグにしか見えないのではと感じましたが、そう見えないモノを見せたいと思います」という意気込みにまで仕上げて観客の前に出すべきではなかったのか。

それを早々に白旗を上げて「意味がないと思います」といい、「どう感じたのか教えてくだい」とまで言った。自らが「意味がない」と言っているモノにそれ以上の感想などあるわけもなく、ただちょっとムカついただけだった。

観客への問い掛けにしては、自らの意気込みが感じられず、挑発にしては、内容が伴わないだけに寒々しい。

現実を前に「壁にぶち当たった」のかもしれないのだが、世界では紛争だの飢餓だのと、今もいろいろなことが起こっているし、個人だって、病気だったり災難だったりといろんなことは起きている。

今までそういう「世界」や「社会」と無関係にやってきて、初めてそれを意識したら身動きできなくなってしまったのかもしれない。
だったら、それを演劇で見せるのが、本当ではないのだろうか。
それができないのならば、少なくとも今回の公演は辞めるべきだった。

つまり、一番哀しいのは、演劇をやっているのに、それを信じていないことだ。

「意味がない」「ギャグでしかない」と感じたことを、演劇で見せたり、挑発するのではなく、薄っぺらい言葉で、しゃべっただけ。

この言葉の後の120分もの時間は、一体何のためにあったのか、演劇って何のためにあるのか、ということを、自ら放棄してしまったことだ。
その手段も場も用意してあるというのに。

そして、その言葉のとおり各内容は、そういうものだった。

1.まだわかんないの。
長台詞が入ってこない。気持ちが余所に行ってしまう。だから最後のふっ、と浮かび上がるような台詞が決まらない。

2.指
先にオリジナルを観ているので、それと比べると生活感、2人の密度が薄く感じられてしまう。女を演じた小澤さんはいいところもあった。

3.3.111446・・・
散々新聞やテレビや週刊誌で見聞きしたことに、メロスを入れてみてもそれ以上のものは感じない。観客も当然そういう情報は大量に見聞きしているのだから、それに「何か」がないとそれこそ「意味がない」。

4.アカシック・レコード
考え抜いた上での、この内容だと思うのだが、正直なぜこれだったのかわからなかった。内容的にも特に面白いとは思わなかった。

5.止まり木の城
過去から現在、未来に続く宿題。だけど、宿題は「大人」に答えてもらうのではなく、自分で解くのだろうと思う。そこが他人事のように感じられてしまった、のは私の意地が悪いからかもしれないのだが。


今回思ったのは、冒頭の言葉を脇に置いたとしても、彼らは、なぜ、自分の立ち位置から、生きている場所、生活している場所から311をとらえられなかったのか、ということだ。それがないから言葉だけが上滑りしている。
被災地に行ったという人たちがいたが、そこで「自分が感じたこと」を「自分のところから」見せてほしかったと思う。
「311を思い出してほしい」ということのようだが、誰も忘れてはいない。忘れているわけないだろう、と思う。この公演では、思い出し方のひとつとしての、「自分」を見せてほしいのだ。

期待感が大きかっただけに、その落胆はさらに大きい。

本当になんで演劇やってるの? と思う。
学生だからという言い訳は許さない。意味ないと思うのならば、辞めなよ。ホントに。


PPTで、どこかの団体の偉いさんらしき人が出てきて、今回の企画に賛同したので寄付を、と言い白封筒を代表者に渡してパチパチバチだって。なんだこれ? そんなこと観客の前でやる必要あるのかな。関係者だけで「ありがとうございます」でいいんじゃないの。
少しはみ出て殴られた

少しはみ出て殴られた

MONO

吉祥寺シアター(東京都)

2012/02/17 (金) ~ 2012/02/26 (日)公演終了

満足度★★★★★

人の心にある微妙な心理/心のヒビにいったん気づいてしまったら…
少しずつズレていく男たちの姿を、ユーモアを交えながら、寓話風に丁寧に描いていた。

ネタバレBOX

マナヒラという国にある、軽犯罪だけど(重犯等の理由で)更生不可能な人たちが収監されている刑務所での物語。
刑務官は居眠りしていたり、犯罪者たちも特に緊張感はない。だらだらとした和気藹々さの日々。

ある日マナヒラからヒガシマナヒラという国が独立をした。
さらにマナヒラではコチという地方も独立しようとしていて、不穏な状況にある。
刑務所は、マナヒラとヒガシマナヒラとの国境の上に建っていた。

ヒガシマナヒラの独立により、行政機関が麻痺し、あまり重要ではない刑務所は取り残されてしまった。
普段は作業をしている囚人たちは暇になり、最初は、刑務所のどこに国境があるのかを机で示し、出身で2つの国に分けて立ち、相手を「外国人」と言ったり、国境の机を越えることで「海外旅行」などと言い合い楽しんでいた。

そんな中、新しい囚人が入って来る。
最初は何も起こらなかったのだが、「国」を意識することから、徐々に彼らの行動がズレ初めてくる。

そんなストーリー。

「国」の「プライド(誇り)」と言う口当たりのいい言葉と、なんとなく気持ちのどこかにあった卑屈な心や優越感など微妙な心理が、意識しないところで滲み出し、吐いた言葉が自分たちを縛り、「国」の溝が深まっていく。

刑務所の中だし、もともと仲の良かった彼らだったので、「国境」も最初は遊びの延長だったのだが、なんとなく「怖い」雰囲気のある刑務官の存在(リーダー的な)により、遊びが悪いほうへ、エスカレートしていく、つまり遊びではなくなっていくのだ。

架空の国の設定ということもあり、「国」に関する寓話になっている。

「国」なんていう「見えない壁」が、心の中に一度築かれてしまったときに、人はそれを簡単にぬぐい去ることができない、そんな寓話だ。

国を巡る、ギスギスした感情が、後戻りできなくなり、最後には爆発してしまう。
言わば、国境を巡る戦争が勃発する。

その後、刑務所は平穏を取り戻すのだが、ナカゲガミの不在や、一度深まった溝のシコリが彼らの心の中に残っている。

その「シコリ」こそが、とても重要なメッセージではないだろうか。
人の感情は、数学のように割り切れるものではなく、絶対にその底流にいつまでもシコリは流れていく。この舞台では「国」というテーマであったのだが、それが何であれ、一度入ったヒビは塞がったようでもヒビのままであるようにだ。
つまり、今まで気がつかなかった「心のヒビ」に気づいてしまったら、もうそのヒビからは目を離すことができなくなってしまう。そうした心理がラストに描かれていたのだろう。

タヌキとミタムラのように、仲が良かった2人にも、ミタムラが足が悪いということからの負い目があり、国という意識の登場により、ミタムラの中でそれが噴出してしまうことでできてしまった溝がある。
彼らのヒビはそうしたものだったのだが、やはりいったん気づいてしまい、白日の下に晒されてしまったら、後戻りできなくなってしまうのだ。戻ったようでもヒビは消えることがなく、彼らの心の中にも意識されていく。

タヌキが考案したイメージの遊びは、実はミタムラのことを思ってのものだった、ということをミタムラは初めて知ったのだが、それでも溝はすぐに埋まらない。
ただ、なんとなくもとに戻る、と言うよりは、ヒビがあったことを理解し、認め合った上で、新たないい関係が築けていくのではないだろうか、と思わせるラストは救いだ。

さらに、シコリを残した「国」という概念だけでなく、人が集まると組織になり、組織があると、リーダーが出来ていくという過程が面白い。
「声の大きな者」がリーダーのようになっていくし、それに付き従うことで、「マカロニスパゲッティ」を作ってしまうというところも示唆に富んでいる。

あえて、そういう人を「マカロニスパゲッティ」というコチ地方の方言(ことわざ)にしたところが、うまいと思う。しかもそれを、例えば「独裁者」のように言い換えたりしないところも巧みだ。
この塩梅が全編に貫かれており、誰にでもありそうな、人の弱さとおかしさと哀しさを描けているのだと思う。

タヌキとミタムラを演じた、ヨーロッパ企画の面々(諏訪さん、中川さん)は、ヨーロッパ企画にもあるようなテイストと、普通の会話のうまさで、この舞台の中で、とてもいいドラマを育んでいたと思う。素晴らしいキャスティングだったと思う。
ケンザブローを演じた岡嶋さんも、徐々にイヤな感じが滲み出てくるあたりがうまいと思った。
作品ごとに別人のように見える水沼さんを含む、MONOのメンバーもあいかわらずいい味。土田英生さんも登場してたし。

スコットランドの民族衣装のような、珍妙な看守の制服は変な感じだったけど。
熱の華

熱の華

セカイアジ

OFF OFFシアター(東京都)

2012/02/18 (土) ~ 2012/02/22 (水)公演終了

満足度★★★

とてもセンスの良い2軸の設定
役者はがんばっていたと思うのだが、人物の描写と関係にあとひと味あれば…。

ネタバレBOX

インドから持ってきて育てた「植物」、組織のリーダーと刑事を巡る「女」、その植物と女2つが、かかわる者を虜にし、正気を失わせていく、という2軸の対比と重なり合いはとてもうまいと思うし、面白い。

しかし、植物のほうは、幻覚を見せるという具体的な誘因があるものの、生きていとたきも、死んだ後も2人の男を幻惑させる、なんていうとても素晴らしい設定の女性のほうには、そういう誘因のようなものが見えてこない。

なぜならば、女性を巡る2人の男、堀川と安倍刑事それぞれと女性・葛葉の関係があまり見えてこないからだ。

堀川と葛葉は同窓ということぐらいだし、安倍はたぶん葛葉の監視を続けていく中で、「虜」になったのだろう。
そうは思えるのだが、「どう虜になっていったのか」がイマイチ見えてこないのだ。

堀川はすでにそういう関係だが、そこまでの経緯のようなものが欲しかったし、安倍に至っては、いきなりそんな雰囲気になっていたように見えてしまった。
安倍が葛葉と会うたびに、あるいは合わない時間も思いを馳せている、ということを匂わせるエピソードや台詞、あるいは雰囲気が是非欲しいところだ。

特に安倍に関して言えば、安易な笑いのためかどうかはわからないが、若い刑事を諫めるときに、まるで漫才のツッコミのように頭を叩いくというシーンがあったのだが、これはどうだろう。
安倍のキャラクター、つまり葛葉との関係を中心に据えるのならば、あのリアクションはなかったように思えるのだ。
安倍と若い刑事との関係を見せるのならば、もっと別の諫め方もあっただろうし、別の方法で彼らの関係を見せる方法もあったはずだ。
もっと言えば、安倍と若い刑事の関係で、安倍と葛葉の関係が深まっていっていることを、もう少しきちんと見せることだってできたはずだと思うのだ。

せっかくの「植物」と「女」の2軸が気が利いているのだが、そのあたりが残念である。

また、一番気になったのは、組織のリーダーである、堀川の存在だ。
組織のリーダーとして、メンバーが付き従っているという「カリスマ性」が見えないのだ。
風貌や台詞回しが芝居がかっていたりして、確かにそうしようとしているのだが、芝居がかった台詞回しの芝居をしているにしか見えないのだ。
つまり、台詞も動きもぎこちなく、探り探りやっているようで、大切な「目」も普通すぎるからだ。

彼が舞台に登場するまで、他の登場人物が延々彼のハードルを上げていただけに、この肩すかし感は否めない。

逆にこんな、わざとらしいエキセントリックな男の設定にしていないほうが、無理なく人物を描けたのではないだろうか。
つまり、「普通に見えていて、どこか変」というほうが、「植物」と「女」に侵食されていく男を描けたのではないかと思うのだ。

植物に侵食されていく建物というイメージと、虜になっていく研究者や男たち、というイメージの重ね方はうまいのだから、もう少し人の造形をなんとかできたのならば、かなり面白い作品になったのではないだろうか。

ラスト、あの植物の花を咲かしてもよかったのではないか。「植物」と「女」のイメージを合体させるような。
例えば、葛葉の死体の上に咲いていた、というような設定で、舞台の上にもイメージとしての花を咲かせるとか、そんな感じに。
君を好きにできない

君を好きにできない

コーヒーカップオーケストラ

遊空間がざびぃ(東京都)

2012/02/16 (木) ~ 2012/02/19 (日)公演終了

満足度★★★★

役者、というか役者魂、のようなものを観た
ストーリーとか演出とか、もうどうでもよく(暴言・笑)、なんか恋愛に関するメッセージっぽくまとめました的な、それらしい台詞もあったけれど、もちろんそれなんかも、どーでもよくって、とにかく火花散らし、輝く役者たちを観たという印象が強い。

ネタバレBOX

ビルゲイツ高校という、偏差値の高い高校に通う高校生たちが下宿する下宿屋での話。
話の中心は、いるか、くじら、凜子の女子高生3人。
いるかは真面目な学生、くじらはお笑い志望で、いるかを相方に誘っているがいつも断られている。凜子はダブりで合コンに出かけては、男にもてたいと願っている。
そんな、もてたい願望の凜子の思いが神様に届いた?
そんな感じのストーリーに、下宿に住む男子高校生や大学生、変な入居者、大家さんの母娘が絡んでくる。

高校生とか頭のいい学校とかの設定はほとんど活かされることがない。とてもその設定に見えず、ほぼ自称状態。まあ、それはどーでもいいのだ。

とにかく全体のテンションが高い。と言うか高すぎる。
が、イヤな感じはしなかった。
むしろ、互いにぶつかり合い、火花を散らしているように見えた。

どのキャラクターも無闇に濃いのだが、それを全身で誰もが演じ切っていた。
全員が強烈すぎ。それを、まったくためらうことなく、アクセルを踏みっぱなし状態にして演じているのだ。

その状態の役者たちのぶつかり合いが、とてつもなくいい相乗効果を生んでいたと思う。
つまり、「あっちがこのレベルで来るのならば、こっちはこれでどうだ!」というような、役者魂に火を点けました状態のせめぎ合いが続く。

もちろん、全編その状態というのは、無意味だったり、無理があるところもあるし、それが常にいい状態であるとは言えないのだが、それでも役者たちの猪突猛進ぶりは爽快ですらある。
ガンガンぶつかって火花が散って、役者が輝いて見えるのだ。
だから、もうどんどん行ってくれ! という気持ちになってくる。

役者たちはランナーズハイ状態なのではないだろうか。観客は、ランナーズハイ状態の役者を、沿道で小旗を振りつつ見守るしかないというか、そんな感じ。…違うか。

特に女子高生3人のぐいぐい感はたまらない。
ダブリの女子高生・凜子を演じた小岩崎小恵さんは、いいテンションで押しまくるし。
いるかを演じたモリサキミキさんは、真面目キャラを貫き通しながら面白いところは確実に取っていく。
そして、お笑い志望のくじらを演じた小野寺ずるさんは、押すところと引くところがいい塩梅で、中盤以降は彼女が主役となっていくようだ。感情の上げ下げでは目が本気で、これは相当役に入り込んでいて凄いと思った。

男子高校生では、チャラくてバカな蛾野を演じた萩野肇さんの、あまりにも凄まじいバカっぷりに大笑いした。とにかく台詞回しとその表情が秀逸すぎ。
またアニメオタクのダイスケを演じた水本貴大さんの、思い詰めてしゃべる様子のキモさは絶品だった。いかにもツバキが飛び散る感じで。ただ、結末はヒドすぎる展開だけど…。

それ以外の登場人物を演じたどの役者さんたちも、とにかく濃い役を軸をまったくブラさず最後まで突っ走っていて、本当に面白かった。

濃くてキモくて、ちょっと下品で、神様出てきちゃったりして、愛のキューピット的な吹き矢で気持ちをどうにかするなんていう、どーでもいいストーリーだけど、役者を見るには最高だった。
演出がいいのか、それとも役者の相性がいいのか、あるいは両方なのかはわからないのだが、とにかく役者が大きく印象に残る舞台だった。
今思い出しても笑ってしまうシーン山盛り。大笑いじゃないけど。

プロデュース公演なので、演出としては相当思い切ったことができたのではないかな、とも思った。
こうもり

こうもり

新国立劇場

新国立劇場 オペラ劇場(東京都)

2012/02/04 (土) ~ 2012/02/12 (日)公演終了

満足度★★★★

愉快、呑気で楽しいバレエ『こうもり』
夜な夜なコウモリになって妻の元から飛び立つ夫が……。
と言ってホラーではない。

ネタバレBOX

夜な夜なコウモリになって妻の元から飛び立つのは、浮気性の夫のことであった、ということ。
その夫をなんとか自分のところにつなぎ留めようとして、あれこれ策を弄する妻、という、呑気で楽しい、ヨハン・シュトラウスⅡ世作のバレエ『こうもり』。

夫は、実際にコウモリの羽を付け、舞台の上から飛び去るというシーンもある。

ローラン・プティの振り付けは、ユーモアたっぷり。
特に食事のシーンの、もりもり食べる様には大笑いしてしまう。

妻・ベラ役のベゴーニャ・カオさんは、優雅な身のこなしで美しい。
夫・ヨハン役のロバート・テューズリーさんは、もてっぷりが様になる、口ひげダンディ。左足を痛めていたのか、少々上がりづらかったようだが。
妻の相談に乗るウルリック役の八幡顕光さんは、ユーモアたっぷりで身体全体の表情も豊かで、とても印象に残った。

バレエの人たちの、洗練されて研ぎ澄まされた身体は、とても美しい。
隅々まで神経が行きわたり、見事なハーモニーを舞台の上で奏でている。

妻の友人ウルリックっていう人は、彼女たちの友人でもあるのだが、他人の妻・ベラに気持ちがあるのではないかと思わせる。だけどベラはまったくその気はない。ウルリックは道化的なポジション。

ストーリーとしては、妻は別人になりすまし、夫の気を引く、夫は妻であることを知らないままその女に惹かれていく。で、いろいろあって(笑)、夫は懲りてしまう。
妻は帰宅した夫の、コウモリの羽をハサミで切り落とす。
そして、夫は家庭の象徴であるスリッパ(第1幕では受け取らなかった)を妻から受け取り大団円。
ラストは、みんなでワルツを踊るという愉快だけど呑気な感じ。

こういう華やかで楽しい舞台もいいなぁ。
ダンス・インパクト吉祥寺vol.3

ダンス・インパクト吉祥寺vol.3

公益財団法人 武蔵野文化事業団

吉祥寺シアター(東京都)

2012/02/25 (土) ~ 2012/02/25 (土)公演終了

満足度★★★

今後が期待の企画
ワンコインで新しいダンサー&チームに出会えるなんて!

だけどこの情報の、日程が間違ってます。
2月5日で、すでに終了してます。

ネタバレBOX

<入手杏奈>
とても優雅で美しい動き。
緊張感の感じがいい。


<かえるP>
執拗な繰り返し。
その先に何か見えるのかと思ったら、特になかった。
自分たちが動きたい動きを楽しんでいる印象。
後半のちよっとしたユーモア。


<サラダラ>
冒頭から面白い。
2人コンビネーション抜群。
生演奏がとてもいい。
演奏+ダンスの一体感あり。


1公演、たったの500円で、3つのダンサーあるいはチームが観られる。
1チーム30分というのも丁度いい。
これで観たことのなかったダンサーたちと出会えるのだから。
3公演あったが1公演しか行けなかったのは残念。
次も同じ企画を期待したい。
金閣寺 The Temple of the Golden Pavilion

金閣寺 The Temple of the Golden Pavilion

パルコ・プロデュース

赤坂ACTシアター(東京都)

2012/01/27 (金) ~ 2012/02/12 (日)公演終了

満足度★★★★

若者ありがちな屈折感をうまくすくい上げ、「今」にマッチさせていた
誰が中心に来ても安心な、まるで1つのパッケージのような印象の演出。

ネタバレBOX

主人公、というよりは主演を盛り立てようと、共演の役者や演出(台詞の割り方とかセットとか照明とか)がフル活動していたようで、とてもわかりやすく、丁寧な仕上がりになっいた。
つまり、「1つのパッケージ」となっていて、失礼な言い方をすれば、誰が主人公に収まったとしても、「カタチ」になるようにしてあったとみ言える。
うがった見方をすれば、主人公がアイドルということで、どれぐらい演出の期待に応えてくれるのかがわからなかったのかもしれないからだろうか。
単に、演出していてどんどんアイデアがわき、どんどんフル装備のようになっていった結果、なのかもしれないのだが。

とは言え、主人公を演じた森田剛さんは、繊細な若者を好演していたと思う(少々ワンパターンなところもあるのだが・演出によるものかもしれないが)。
それは、すべてを切り替え、役になりきり演じていて、見ていて気持ちがいいほどであった。
そういう役への没頭ができるということは、役者としては当然だと思うのだが、できない役者も多いだけに、他の役も見てみたいと思わせてくれた。

主人公溝口の痛みは、古今東西の若者に通じ、共感を得るものではなかっただろうか。
彼には具体的に「吃音」というハンディがあるものの、誰しもそういう何らかのハンディ(劣等感)を背負っていると感じているものであり、「なぜ自分だけがこんな目に」と思っているだろう。

この舞台ではそれをきちんと見せ、彼がどうあがいて、何にどう苦悩していったのかを、丁寧に見せていく。
音楽、セット、照明の使い方のうまさがある。

演出が過剰すぎて、ひょっとしたら役者の力をそれほど信じていないのではないか、と思うほどであった(主人公のモノローグのほとんどは別の役者が行う)。
が、とにかくわかりやすいのは確か。
主人公への共感度も高まるだろう。

ただ、「金閣寺」への高まりはそれほど感じられなかった。
本当ならば、父親が愛した金閣寺に対する、いろいろな想いが渦巻くことと、「美」への想いが彼を凶行に駆り立てていくわけなのだが。

ただし、「金閣寺」とそれが持つ存在を「音」を主にして表したのはとてもよかった。
山川冬樹さんが持つ独特の不気味さと、大駱駝艦のメンバー(田村一行さん、湯山大一郎さん、若羽幸平さん、橋本まつりさん、小田直哉さん、加藤貴宏さん)の存在が光る。
大駱駝艦にとっては、舞踏ではない動きも要求されていたように見えたが、それも見事にこなしていた。山川冬樹さんと大駱駝艦の登場するシーンは、この舞台に強い楔を打ち込んでいた。
これにプラス主人公の心情がもっと重なっていけば、さらにインパクトがあったと思う。

鶴川と柏木を演じた高岡蒼甫さんと大東俊介さんは熱演。とてもよかった。

ラストの台詞もの凄く意味を持たせてあったと思う。
それはちょっとあざといほどに。
奴婢訓

奴婢訓

演劇実験室◎万有引力

シアタートラム(東京都)

2012/02/12 (日) ~ 2012/02/19 (日)公演終了

満足度★★★★★

溢れるダークなイメージたち
「舞踏」な感じの登場人物と演出。
舞台の上には一定の緊張があり、どこを切り取っても暗黒で美しい「画」となる。
それは無間地獄のような。

ネタバレBOX

スウィフトの『奴婢訓』に宮沢賢治のあれこれをぐいぐい押し付けてなすりつけたような作品。

つまり、主人がいない屋敷で、召使いたちが、それぞれ主人になりすまし、召使いがやってはいけないことを実践し、させるという「不道徳」なところに、「雨ニモマケズ」の賢治がやってくるという、皮肉の上に皮肉を被せてあったと言っていいだろう。

全体は18パートから成り、各パートごとに「やってはいけないこと」を披瀝する。
その様は、グロテスクでダーク。
とは言え、ちょっとしたユーモアもそこにはある。
ま、ユーモアもグロテスクとダークの裏打ちがされているのだが。

テーマになっているであろう「リーダー不在」や台詞にもあった「リーダーがいないことの不幸よりも、リーダーを必要としている不幸」に関して言えば、「本当のリーダー(主人)」ではない者たちが何人入れ替わっても、堂々巡りで悪ふざけにしかならず、無間地獄の様相を呈することになるということ。
それは、(ちょっと直截すぎるのだが)コロコロと短期間に首相が替わるどこかの国を見ているようであり、本当のリーダーがいないところは、よそから見るとこんなに酷いということだ。
つまり、その国では、リーダーは本物ではなく、その資格を持たないものが「なりすましている」ということになろう。

舞台は、高さのあるゴツゴツしたセットで、何だかわからない機械が点在する。
その高さと、客席にまではみ出してくる登場人物たちにより、会場全体が舞台世界に取り込まれていく。
存在感のあるセットをうまく活用し、自分でお尻を叩いたり、座席が上下にくるくると回ったりと、機能としては意味のない不気味な機械たちを駆使する。

そこに白塗り半裸だったり、頭をそり上げていたりという状態で、凝った衣装を纏った登場人物たちが「画」になるような形で揃う。
ちよっとしたシーンであっても、後方ではきちんと別の演技を続けていたりすることで、舞台の上には一定の緊張があり、とても美しいのだ。

頭をそり上げ半裸に白塗りという姿は、舞踏を彷彿とさせ、確かに動きも、舞踏それに似る。
こういう言い方は失礼かもしれないが、舞踏の身体を持つ人たち(つまり舞踏の世界の人たち)が、同じ演技をしたとすれば、さらに強いイメージがそこにあったのではないか、と思ってしまった。

しかし、演劇の身体であることで、できることがあるのも確かだ。

台詞は一部聞き取りにくかったのだが、それよりも、舞台から届く強いイメージを楽しんだというところだ。

音楽は、基本、生演奏で、客入れから鳴っており、舞台の上にも徐々に人々が現れていく。

生演奏というライブ感が素晴らしく、舞台のイメージと相まって、18楽章からなる音楽の、まるでイメージPVを観ているような感覚すらあった。
イメージPVというたとえは的を射ていないとは自分でも思うのだが、そだけ音楽に強さと主張、そして存在感を感じたということでもある。

めくるめく悪夢な感じと、会場を見事に使い切った舞台はとても素晴らしいものであった。

ダリア役の旺なつきさんの発声と歌はさすが!
存在感たっぷり。
Tripod

Tripod

靖二(せいじ)

明石スタジオ(東京都)

2012/02/10 (金) ~ 2012/02/13 (月)公演終了

満足度★★★★

丁寧に作られた会話劇
とにかく丁寧に会話を中心に織り上げていく。
会話劇を成立させるために、セットや衣装には細かく気を遣っていた。

ネタバレBOX

とにかく、驚くのは、衣装の早替え。
かなりのテンポで時間やシーンが変わっていくにかかわらず、実に丁寧に衣装を替えて出てくるのだ。
全部で何回着替えたの? と言うほど。

それによって、観客は時間・シーンの違いを瞬時に理解し、物語に入り込みやすくなる。
セットがマンションのDK部分の一室を、これまた丁寧に作り上げているのだから、衣装も同じように替えたということなのだろう。

セットは簡素に衣装は同じまま、という舞台が多い中で(もちろん「意図」としてそうしているのは別だが)、これだけ細かいところにこだわったのは見事だ。

1時間20分程度の作品なのだが、そういうきめ細やかさよって、全体がとてもいい時間に見えてくる。

同棲・入籍した1組のカップルを中心とした、学生時代のサークル仲間との数年間の出来事を、時間列ではなく、意味列に並べ、ストーリーをわかりやすくし、観客の興味を先に持っていこうとした。

そこでは会話が大切で、とてもいいグルーヴになりそうだった。
「なりそうだった」というのは、全体のトーンの在り方、例えば台詞のトーンや人の存在のトーンがもうひとつ同じでなかったところがあったことによる。
違和感、というほどではないのだが、喉に刺さった小骨のような、別トーンが見えてしまうのだ。

例えば、「空気の読めない男」という存在は、確かに会話中の「違和感」として存在するのは正しいのだが、「同じトーン」の中にある「違和感」としてほしかったと思う。
そんなに気にすることではないのかもしれないのだが、これだけ会話に集中できる要素が揃っていると、どうしても細かいところに目がいってしまうのだ。

しかし、全般的には、会話の重ね方など、実にうまいと思った。
自然風に見えてくる。特に前半、引き込まれていったのは、そうした会話の巧みさによるものだった。
特に、「いいことを言ってまとめよう」とするときには、意外と当たり前の言葉しか出てこない、なんていう感じはいいなと思った。

役者では、妻の夏帆役の柴田さやかさんが、前に出るというわけではないのに、全体を包み込み、物語を牽引しているようで、特に印象に残った。

ストーリー自体は、挫折・きっかけ・再チャレンジ、というような若者の成長を描いた王道路線ではあるが、いろんな台詞とか想いとか、散りばめたものがきれいにはまっていく様は、嫌みなく、見事だった。

ただ、「本当にやりたいことをやっていく」ということへの「辛さ」とか、「それでも自分の道を進んでいく」ことに対する「原動力」とか、そんな「何か」が必要だったのではないだろうか。
戦場カメラマンという特殊な設定であるだけに、そこはどうしてもほしかったと思う。
つまり、そういうことが、きれいごとだけでは済まないことはわかっているはずだからだ。
例えば、この舞台を上演している役者やスタッフたちにとっての「演劇」が、主人公の「戦場カメラマン」ではあったと思う。

ならば、自分たちが「演劇」を続けていくこととダブらせて考えてみた上で、主人公の行動を考えてみてもよかったのではないかと思うのだ(余計な意見かもしれないが)。
つまり、「自分たちの視点」も必要ではないか、ということだ。
それはもちろん簡単ではない。「希望」とか「願望」とかを盛り込んだ「ファンタジー」であるのならば、そうした方向でもよかったと思う。

それと、ユーモアがもう少しほしかった。笑いがちょっと起こるような作品であったのならば、もっと身近に感じたのではないだろうか。

…この家では、MXテレビを見ているのかと思った。マツコデラックスの声が客入れから響いていて。
田園に死す

田園に死す

流山児★事務所

ザ・スズナリ(東京都)

2012/02/09 (木) ~ 2012/02/19 (日)公演終了

満足度★★★★★

「恐山」発「下北(沢)」行きの、寺山修司を巡る旅
同名の映画が含む要素、つまり、寺山氏の自伝的な内容、母、恐山、映画、時間というキーワードを見事に散りばめ、ギラギラとしながら泥臭く組み上げられた作品。

大勢の役者、映像、音楽が織り成す全体の熱量は凄まじく、とても濃厚。

ネタバレBOX

『田園に死す』は、もともと寺山修司氏の歌集のタイトルということもあろう、オープニングで、出演者が舞台に登場しマッチを擦りながら登場し、有名な短歌「マッチ擦るつかのま……」(歌集『田園に死す』からではなかったと思うが)などを叫ぶ。
短歌は、単語やセンテンスに分けられ、執拗に繰り返されていく。それによってコトバが言葉とことばに重なっていく。寺山が始まった、天野が始まったという合図だ。
マッチを擦り、叫びながら現れる出演者で舞台は埋まり、タイトルと唄。
ここまでで、すでにジビれてしまっていた。
あまりにもカッコいい。

確かにマッチ擦りながらのシーンは、本家(?)万有引力では必ず(と言っても何本も観ているわけではないが)どこかで行われるシーンではあるのだが、それは横に置いたとしてもカッコいいのだ。

少年王者舘の天野天街氏が演出とあって、確かに少年王者舘の匂いはプンプンしていた。
映像の使い方・見せ方、セットの使い方・見せ方・手品のようなシカケ、コトバの遊び・つなぎ方、ダンス等々で。
しかし、少年王者舘は、とにかくそれをストイックに突き詰めていき、がっちりした形状であるとすれば、こちらは少し違う。
明らかに、流山児★事務所の作品に仕上がっているのだ。
それは、「人」の「在り方」だ。

人の持つ、能力と曖昧さと、その場(あるいはその時間)との関係性を強く感じる。
つまり、ライブ感とでも言うか、人が動いている感とでもいうか、そんな感じだ。
もちろん、少年王者舘にもライブ感や人がいることの、強い刺激はあるのだが、少年王者舘には、髪の毛1本も入らないような緻密さがある。一方、流山児★事務所にはもう少し「余白」があるような印象なのだ。
特に観客の空気を読んで動いているように見える、流山児氏本人の存在にそれを強く感じた。
観客席側から登場し、「一体誰なんだ?」と観客が思っている間に、キャラメルを食べ、気持ち良く唄ってはけるのだ(後で当パンを見たら役名は「寺山司修」だった!)。

結果、天野天街(少年王者舘)と流山児★事務所の関係はとても美しく引き合い、押し合いながら相乗効果を生んでいるという、コラボの一番いい形になっているのではないだろうか。

流山児★事務所を思い描き、脚色・構成した天野天街氏の腕は確かだということでもある。
そこに天野天街氏自身の、少年王者舘で培ったテクニックがすべて投入される。

オープニングあたりでは、映画のほうの映像を映していたのだが、それは、「これとは違う」「これとは同じ」という意気込みと原作への敬意の現れではなかっただろうか。

「覗いている」「シンジ」の登場という、かなりアイロニーの効いた主人公の登場から、新司、しんじ、新次が現れ、ウソかマコトかわからない修司の自伝的なストーリーを軸に、映画の軸を絡み合わせて、母や自己の位置を探るという、寺山修司を巡る旅に観客をいざなっていく。

繰り返し繰り返しのくどさ、その微妙なズレ、そういう演出のシカケも楽しい。
映像のインパクト、シーンのつなぎは、映像の編集のようでもあるのだが、確かに演劇(舞台)でしか味わえないダイナミックさとインパクトを感じる。
柱時計のシーンの凄まじさ!

幾重にも重なっているエピソードとシーンの関係、そして、一瞬の暗転と音楽(唄)がいい。
J・A・シーザー氏の音楽(歌曲)は、合唱が、その真価を発揮する。

さらに、花輪和一氏による、アナクロなフライヤーも素敵すぎる。

ダンスシーン、特にラストに延々続くダンスは、モロに夕沈さんの振り付けだとわかるものだ。大人数で、見せ、かつ音楽との親和性も良いもので、トランス状態に陥りそうなほど、しつこく繰り返され、ラストを飾る。

ラスト、映画では「新宿字恐山」となり、一挙に新宿の雑踏となるシーンは衝撃的だったが、舞台では、「下北」である。青森の下北ではなく、演劇の街「下北沢」なのだ。

舞台奥に、今観客がいる(はずの)スズナリの入口が再現されている。
39歳の新次(シンジ、しんじ、新司)がそれを見上げるというのは、「演劇」に戻っていく姿であり、流山児氏と天野氏の強いメッセージだろう。
印象に残る素晴らしいシーンだと思う。
トカトントンと

トカトントンと

地点

KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)

2012/02/09 (木) ~ 2012/02/14 (火)公演終了

満足度★★★★★

そうしてそれからDie Kruppsの「Stahlwerksymphonie」
が舞台の上からハッキリと聞こえた。

『トカトントン』「と」の物語。
そうしてそれから、「文学」よりも、「音楽」を感じてしまった。

ネタバレBOX

前にも書いたと思うが、「地点」の作品には「音楽」を感じる。
コトバのリズム感、抑揚という「音」に関することもあるのだが、編み上がっていく物語自体が音楽に「見えて」しまう。
そうしてそれから、役者たちのアンサンブルは、台詞だけでなく、動きも含めて音楽なのだ。

そうしてそれから、今回はさらに「音」としても「音楽」であった。
それは(原作の)タイトルでもある「トカトントン」の「音」がそうさせるだけでなく、独唱や合唱のような台詞、実際に「唄」もあり、さらにその思いは高まる。

そうしてそれから、開幕に流れるSEは、工事現場の「音」であり、それが劇中の「トカトントン」に結びついてくる。

「トカトントン」は、敗戦直後から主人公を襲う音であり、彼の無気力や無関心のトリガーでもある。
本当のトリガーは、「敗戦=玉音放送」であり、彼(ら)の世界は「玉音放送」により8月15日の正午までの世界と一変してしまった。
だから、「私ひとりの問題ではない」のだ。

そうしてそれから、「トカトントン」は、一方で「復興の金槌の音」であるとも言える。
それが冒頭の「工事現場SE」につながるわけだ。

しかし、主人公は、180°回転で転身なんかそう簡単にできるわけではなく、気持ちが盛り上がると「トカトントン」で、ダウナーな気分に陥ってしまう。

前半はそうした状況を、本来の原因である「玉音放送」の文章を交えながら、丁寧に再現していく。「玉音放送」が「トカトントン」だ。
さらに「ウソでした」という、原作ではラストに語られる主人公の、さらにダウナーな気分を、彼の手紙の記述に重ねていく。
この構成はとてもわかりやすく、「笑い声」や奇声とともに、彼の状態を語っていく。

そして、「唄」。
唱われるのは、賛美歌と「椰子の実」。コーラスで。

そうしてそれから、金槌を手に舞台の上で、「トカトントン」。

この、人力リズム丸出しの「音」と、耳に残る冒頭のSEの「音」で、先に書いたインダストリアルな「Stahlwerksymphonie」が聞こえてくる。

初期の「インダストリアル・ミュージック(またはロック)」は、工業生産される音楽へのアンチテーゼとしての成り立ちであった。その音楽の姿と、敗戦 → 復興(の音)という道筋をうまく受け入れることのできない主人公の姿はダブってしまうのだ。

この感覚は極極個人的なものであることは確かなのだが、そう感じたのでそう書いた。

そうしてそれから、主人公のコイバナあたりから、『斜陽』の「恋と革命」の一連の文章が覆い被さっていく。それは『トカトントン』の「デモ」のエピソードにも共鳴していく。

この感覚、『トカトントン』の主人公の「虚無」さと『斜陽』の「恋と革命」の「熱さ」の感覚は、実は近しいことがわかってくる。
つまり、「どうしようもなく、虚無さが沸いてきてしまう」ということを語っているのに、妙に「熱い」のだ。

その「感覚」をうまくすくい上げていた舞台であったように思えてくる。
全体が、やけに「熱」を帯びている舞台であったと思う。今までの地点の作品の中で(そんなに観ているわけではないが)、一番熱っぽいかもしれない。

そうしてそれから、「子ども」の登場だ。
子どもは「トカトントン」「トカトントン」「トカトントン」「トカトントン」と言う。
子どもは「未来」であり、「芽」である。まさに戦後の復興の「兆し」だ。

そうしてそれから、子どもは彼を「観察」する。彼の「外」にある視線だ。

子どもの登場によって、この舞台中の、『トカトントン』の主人公が持つ「虚無」は諦めではなく、(手紙によって他人に働きかけている姿からも)通過点の苦しみではないのか、とも思えてくる。何か彼の中に「萌芽」があるのではないかという感触だ。

だから、ラストでは、原作にある手紙を受け取った作家の返信は、バッサリとカットされ(もとも短いけれど)、「気取った苦悩ですね」だけとなるのだろう。
第三者からは理解されない苦悩であるのだが、概ね苦悩とはそういうものである、と言い切ってしまって、第三者の姿で、彼の「復興」を待とうではないか、ということでもあろう。

そうしてそれから、今回の舞台の形は、「逆八百屋」とも言えるものであり、舞台奥から手前に行くに従って徐々に高くなっている。観客はそれを見上げるので、KAATの大スタジオはいつものような段差がない。これは面白い。

そうしてそれから、舞台美術は、今回も見事で美しい。
そうしてそれから、後ろのキラキラを揺らすための、扇風機の音さえ「音楽」だった。

そうしてそれから、今回の舞台のためのフライヤーは一体何種類あったのだろうか。やけにでかいサイズのものまであったし。とても贅沢(笑)。

追伸 『トカトントン』に敬意を払い「そうしてそれから」率が高い文章にしてみた。

参考:Die Krupps "Stahlwerksymphonie" http://youtu.be/9qiSNMKfBzI
今夜だけ / × / ママさんボーリング(公演終了!感謝!御感想お待ちしています!))

今夜だけ / × / ママさんボーリング(公演終了!感謝!御感想お待ちしています!))

MU

駅前劇場(東京都)

2012/02/02 (木) ~ 2012/02/05 (日)公演終了

満足度★★★★★

「ハセガワアユムは器用貧乏かもしれない」
と思っていたが、本当は「不器用」で、そこに知らず知らずのうちに「共鳴」してしまうので、MUは面白い、のかもしれない、という個人的で、あるいは的外れかもしれない考察あれこれ(ここまでがこの感想のタイトル)。

「笑い」と「日常」を、いつものアレとかに、うまく被せてきた。
ハセガワアユムの器用さと不器用さが混在する作品。

「笑い」はオフビートなユーモアで、前から作品中にあったのだが、こう正面切って堂々と見せてくることには正直驚いた、というより大歓迎した。
また、「日常」も常に作品にあったのだが、今回の「日常」はまたニュアンスが違うように感じた。

ネタバレBOX

こういう言い方はアレかもしれないのだが、「ハセガワアユムは器用貧乏かもしれない」と密かに思っていた。
今もそう思っている観客は多いかもしれない。
短編から中編あたりの、脚本や演出のうまいまとめ上げ方は、言うまでもなく、観客のほとんどは感じているだろう。それが「器用さ」なのだが、「器用すぎて」作品の「ホンネ」のような毒々しさを、直接には感じないのではないかということだ。
ファンの一人としては、「それが観客伝わっているのか?」という忸怩たる想いでいつも観ていた。「もっと不器用でいいじゃないか」と。「上手すぎるからなのか?」とも。
そして、今回は、さらに「笑い」にまぶしてしまった。

しかし、常に、根底に流れているのは、「自分の中にポッカリと空いているどうしようもない空白」とのせめぎ合いであり、それは「笑い」と「日常」にまぶしていても、隠れようもない事実なのだ。

ハセガワアユムさんご本人はどういう方なのかは知らないが、舞台の上の創作物を見るにつけ、それを感じずにはいられない。

確かに一見創作は「器用」に見えるかもしれないのだが、根底にあるのは「器用」とか「スマート」とかとは異なる「不器用さ」ではないだろうか。
捻くれた見方だと承知で書くとすれば、「器用に」あるいは「スマートに」しか見せることのできない「不器用さ」が、実はあるのではないか。

そしてさらに言えば、作品の根底に流れている「自分の胸に空いてしまった穴」を、どうしても覆い隠すことができない「不器用さ」もある。

内にもやもやしている「毒」のようなものの対処の仕方で、「演劇」という手段でそれを吐き出すというテクニックをうまく活用しているのだが、自分の中でのその「もやもや」のようなものは日々肥大し続けているのではないかと(勝手に)思うのだ。

ヘタに「コトバ」にして、さらに「誰かに演じさせる」ことで、自分の中のそうしたもやもやに、逆にスポットを当ててしまい、一瞬の快楽とともに昇華されたようで、実は次の「もやもやのタネ」を確実に蒔いている、という自家栽培的な中毒症状に陥っているのではないだろうか、「不器用」に(それが「次の創作」に向かうから、私たちは「次のMU」にまた会えるということでもあるのだが)。
ハセガワアユムさんにとっての、ラジオ番組『今夜だけ』は、演劇だったりして…。

そうした「不器用さ」は、誰も持っているもので、「スマート」で「器用」そうに見えるハセガワアユムさんの作風にも、そういう「不器用さ」があって、それをさらけ出している、ということに(無意識であっても)観客は共鳴しているのかもしれないと思ったりしている。

つまり、今回で言えば、表面上に見えている人妻を巡るアレコレの面白さという具体的ことではなく、その根底に流れているモノに共鳴した者には、ちょっと痛みを感じる作品なのかもしれない。

そう考えるとクリエイターという人たちは、意識、無意識にかかわらず、結局、観客へ向けて何もかもさらけ出してしまっているのだと思う。
ハセガワアユムさんについて言えば、(たぶんだけど)好みのタイプの女性とか(これは確実だけど)団体の気持ち悪さとか、そんなことを露呈させてしまっているように思える。
それを恐れることなく立ち向かった作品は、MUに限らず、確実に面白いものになっていると思う。

だから、後に書くが、本来1本で上演するはずだった作品を、連作にせず、別の作品2本を足したのは、そういうことへの、無意識な危険回避だったのではないかと思う。
「今」はまだ上演できない、ということ、だ。


『×』
=「罰」というのはわかりやすく、しかもストーリーは、「全部つながっている」という、気持ちの悪い(あるいは良い)展開のバカバカしさに、大笑いしてしまう。
「中二」なんていうわかりやすいアイコンを入れ込んだあたりの、作者の意地の悪さ(笑)は素敵すぎる。
そういう意味での「人妻」アイコン、「ホームレス」アイコン、「バカっぷる」アイコンもとてもいい要素だと思う。
ただ、MUらしくないガチャガチャ感に溢れすぎていて、ハセガワさんならば、もっと統制のとれたガチャガチャ感が演出できたのではないかと思うので、そこが少々残念ではある。
また、これは素人の考えなのだが、ラストのキメの台詞は、「一体にその台詞は、誰に向かって言っているのか」という演出はさすがだと思ったのだが、一言、あるいは二言ぐらいの短い台詞で十分だったと思う。確かにそういう幕切れは、ありそうな形にはなるけれど、丁寧になぞって説明しなくてもよかったように思うのだ。あるいは延々台詞を言わせて、フェードアウト的な観ているほうが苛つくようなラストでもよかったのではないだろうか。
全体のガチャガチャしたところからの、ラストの展開と台詞にはシビれたので、そこをもっと印象付けてほしかったということなのだ。


『ママさんボーリング』
素敵すぎる短編。もうなにしろタイトルが良すぎる。観る前から面白いことはわかっていた。
そして、実際に面白かった。
キメキメの「演技」というような演技がとても功を奏しており、シモだけど、まさにスマートなMU作品にまとまっていて、気持ちいい。
さらに言えば、ハセガワアユムさんは、実は(笑)変態ではない、ということを露呈してしまった(笑)作品でもある。
アイコンとしての「スカトロ」というか(笑)。本気でやられたらシャレになんないけどね(笑)。
バツイチ島崎役の橘麦さんの好演が光る。
店長役の太田守信さんの、前の『×』からの印象の引っ張り方もうまい。こういう「演出」に「器用」さを感じてしまう。


『今夜だけ』
これは一番MU度が高い。
なるほど、本来はこの1本だけだったのがよくわかる。
しかし、なぜ連作3本にせずに、この長さにまとめたのかもわかるような気がする。
つまり、夫婦間の話が、ハセガワさんにとってキツくなり出したのではないか、ということだ。
戯曲を書き、演出をしていくと、キツさの先に見えそうなものが、リアルだったり、抜き差しならないものだったりする可能性を、直感したのではないだろうか。
だから、「今」ではなく、少し寝かせた上で、新たに連作として上演できるとき(タイミング)が来たら、見せてもらえるのではないだろうか。
そのときまでの楽しみとしてとっておこう。
失っている者同士の夫婦の設定の面白さ、ラジオ番組『今夜だけ』をみんなで聴いたときの違和感など、面白要素はたくさんあるので。
どうでもいいことだが、夫の弟のぬいぐるみとのベッドシーンはチャック開けるぐらいの気味悪さは欲しかったかも。あとガンジャ吸いは、息を止めたほうがそれっぽいかも。あの葉っぱのTシャツ着てたりするとバカすぎて楽しかったかも、なんてことを思ったり。
あと、前の『ママさんボーリング』から「臭い」を引っ張ったのは偶然なのかな? にしても3本のゆるいつながりが、やっぱ「器用」(笑)。


「団体や徒党を組む」ことに対しての嫌悪感を正面に掲げているように思えるMUというか、ハセガワアユムさんだが、今回は、劇団化した第1作。
まだそれの影響や結果は見えてこないが、今後それ(劇団という団体)とどう付き合っていき、どう作品を見せてくれるのか、非常に楽しみである。
ある女

ある女

ハイバイ

こまばアゴラ劇場(東京都)

2012/01/18 (水) ~ 2012/02/01 (水)公演終了

満足度★★★★

他人事として見れば「なにやってるんだ」ってな話だけれども
ずるずるな状況は、心地良いからずるずる続く。
「これないわー」って自分で思っていても。

そんな哀しい物語、の岩井秀人バージョン。

ネタバレBOX

誰にでもあると言っても、不倫とかではなく、その「状況」ついてである。
結局不倫だった、という男の身勝手さに、なぜかずるずると引きずられていく、というのは、気をつけないとあり得ることかもしれない。

つまり、「これはないよなー」というような「倫理的に反している」ことや、「(倫理的に反していないけれど)何のメリットもなさそうな」ことであっても、ついずるずると続けてしまうことはあり得るということ。
それが「生活」に溶け込んでしまえば、特にそうなる。

主人公・タカコの場合は、相手のアパートに行くということが、すでに生活の一部に組み込まれてしまっていて、さらに人恋しいというような、哀しい理由も(たぶん)あって、関係を続けてしまう。

それは赤の他人から見れば「なんてバカなことを」と言われてしまうことであり、実は自分自身も「いやー、これはダメだよなー」と薄々気がついていることでもあろう。
「人間は弱いんだよー」と、訳知り顔で言うのは簡単だけど、それは他人からの「感想」であって、当の本人には関係のないことだ。

タカコは、相手に喜んでもらいたいために、セミナーを受けに行く。
それも「ないよね」という感想だろうが、当の本人にとっては、とても大事なこと。本来、なぜ男性を付き合っているのか、ということをどこか脇に置いてしまい、変なねじれ方で本末転倒してくる。
「ああ、これもよくあるなー」と思ってしまう。
後から「なんであんなことしてたんだろう」と思うようなこと。
その渦中にいると、他人の忠告は何を言っているのか、まったく理解できない。

観客は、腕を組み、あるいは足まで組んで、「ほほー」とか思いながらタカコを見ているのだけど、それは「他人の目」からの姿であって、タカコの視線には絶対になれない。
つまり、「実生活」においても、「他人への感想」や「忠告」をすることは可能なのだが、「他人の忠告」を聞き入れることはできないから。

舞台の上タカコは、「他人の忠告(感想)」を受け入れることができない「私たち」ということにほかならない。

「ずるずると何かを、やってしまった」ことのない人も中にはいると思うのだが、そういう、ずるずる経験をして、後で止めたのちに、胸からわき上がる苦い味を、布団の中で味わったことのある人ならば、「ああ、あれは私だ」と思えるのではないだろうか。

そして、ラストの、あの暗さ、そして定食屋のオヤジの台詞が、ひよっとしたらタカコの道しるべになるかもしれないし、暗く続く闇は、タカコが我に返ったときに、味わう布団の中の苦みなのかもしれない。

隣の部屋にある「定食屋」ってのはタカコの脳内の心の拠り所だったりして。

岩井秀人さんは、男であるが、女を演じたということは(しかも台詞の感じは岩井秀人さんがしゃべっているようで、女という演技をしていない)、女とか男とか、そんなこと関係なしに、そういうことって起こっているっていうことを示している、というのは深読みすぎか。

そして、女であるという演技をしていない(しているようには見えない、台詞とか)のに、なぜか女に見えてしまう。
ただし、29というよりはもっと上の、おばさんに。

それにしても、タカコは献身的ということはわかるし、どこか男に都合のいい女なのだが、どうしても、つまり金を出してもつなぎ留めておきたいほどの女に見えないのが辛い。
そこも、男からの「ずるずるした関係」で、「この女ないわー」と思いつつも、ずるずるということなのかも。

こういう言い方は、かなり酷いかもしれないが、この、先の見えない不思議なストーリー展開とラストの、あの静寂は、五反田団を思い浮かべてしまった。
しかも、五反田団にはあるペーソスが、ないような少し背筋が寒くなるラスト。
「通し狂言 三人吉三巴白浪(さんにんきちさともえのしらなみ)」「奴凧廓春風(やっこだこさとのはるかぜ)」

「通し狂言 三人吉三巴白浪(さんにんきちさともえのしらなみ)」「奴凧廓春風(やっこだこさとのはるかぜ)」

国立劇場

国立劇場 大劇場(東京都)

2012/01/03 (火) ~ 2012/01/27 (金)公演終了

満足度★★★★

ピカレスクとシュールの2本立てで、新春だなー
『三人吉三巴白浪』は、いわゆる「白波モノ」であり、とんでもないピカレスク。
そして、105年ぶりに上演される『奴凧廓春風』は、親子孫三代の競演がウリの、これまたとんでもなく、シュール(?笑)な物語。

ネタバレBOX

『三人吉三巴白浪』

新春からこう責めてくるというのは、さすが歌舞伎。
本人たちの責ではない、畜生道に落ちてしまった男女(息子と娘)を、その理由を告げずに、包丁で滅多切りにして殺してしまう、凄絶なシーンや、ラストの、これから三人の吉三たちは、どう自分たちに落とし前をつけていくのか、ということを匂わせるようで華麗なシーンなど、本当にピカレスク。

しかも、ストーリーが、「ええ?」という展開で、「そういう関係なの?」という人間関係が露わになってきて、登場人物たちが、皆なんらかの関係があるというストーリー、因縁話は、とにかく面白くて引き込まれる。

そして、ラストの雪景色での立ち回りは歌舞伎らしくて美しい。

時間を掛けて洗練されてきて、気持ち良く流れる台詞(特に七五調の長台詞)は、音楽を聴いているようで楽しい。
どこかで聞いたことのある、お馴染みの台詞が満載だ。
松本幸四郎の兄貴分的な貫禄のある悪役がよかった。



『奴凧廓春風』
市川染五郎が奴凧で現れ、本当の子の金太郎がその糸を引く。そして祖父役の幸四郎が、その子(本当の孫)に凧揚げの手ほどきをする。
それが新春ぽいし、華やかと言えばそうなのが。

奴凧は舞台の上で宙乗りとなり、空中で踊ったりする。かなりの熱演。
その物語の展開は、奴凧が中心となり、イノシシが出てきたりと。

『曽我物語』のパロディも取り入れられているらしいのだが、それはよくわからなかった。


お芝居の中で、手ぬぐい撒きがあるのも、新春公演らしい楽しさだ。
ザ・カブキ

ザ・カブキ

東京バレエ団

Bunkamuraオーチャードホール(東京都)

2010/04/24 (土) ~ 2010/04/25 (日)公演終了

満足度★★★★

華麗な復讐劇の忠臣蔵
『仮名手本忠臣蔵』に沿っての物語。
山崎街道の場まであり、イノシシも登場する(バレエなのに!)。

ネタバレBOX

舞台の全体は、まるで日本家屋風の囲みになっていて、日本風。

意表を突くオープニング。
浄瑠璃で始まり、和楽器を交えた音楽がドラマチック。
黒子が出てくるところが歌舞伎風。

塩冶判官高貞(浅野内匠頭)が切腹後、腹を真っ赤に染めながら、恨みを込めて延々踊るというのは、なんとも言えない。

つまり、東京バレエ団『ザ・カブキ』。バレエは無言劇ということだけでなく、浅野内匠頭の「無念」が色濃く描かれていた。

そして、赤ふん姿のバレエなんて、なかなか見られるものではない(笑)。


バレエの『ザ・カブキ』も先日国立劇場で観た歌舞伎の『元禄忠臣蔵』も、ある程度、忠臣蔵のストーリーを知っていないと、少々辛いのではないかな。

とは言え、バレエの『ザ・カブキ』のほうは、ストーリーを知っていると、逆に高齢のはずの高師直(吉良)が軽やかに踊っているのを見るのは、違和感があるかも(笑)。

『ザ・カブキ』の音楽は、黛敏郎。悪く言えば外連味な印象も少しは受けるが、盛り上がり方はさすが。電気楽器、和楽器、コーラス、そしてオーケストラのアンサンブルが見事。
トンマッコルへようこそ

トンマッコルへようこそ

劇団桟敷童子

あうるすぽっと(東京都)

2012/01/27 (金) ~ 2012/01/30 (月)公演終了

満足度★★★★★

いつもの劇団桟敷童子とは少々趣は異なるが、人の「陰」に、何かを見せてきた桟敷童子ならではの、「善なる物語」
太陽の下の「善なる命」に笑い、泣けた。
韓国の戯曲(映画にもなった)『トンマッコルへようこそ』を上演。
演出を、 劇団桟敷童子の東憲司さんがやることは、チラシ等で知っていたので、一応マークしておいたのだが、後々、劇団桟敷童子の面々が大挙出演するだけでなく、「劇団桟敷童子」という劇団名まで出てきたので、慌ててチケットを入手しした。

ネタバレBOX

物語は、ある男のモノローグから始まる。
それは自分の父が持っていた不可解な写真の謎を解き明かそうというものだ。
その写真には、当時朝鮮戦争(台詞では「韓国戦争」と言っていたと思う。韓国のシナリオだから)の真っ最中なはずなのに、子どもの頃の父親と村人たちに、戦っているはずの、北の兵士、南の兵士、そしてアメリカ人までが楽しげに写っていたのだ。

男の父の話をもとに物語が進んでいく。

劇団桟敷童子の舞台なのだが、いつものアングラ度は低い。
いつもは、濃すぎるキャラクターで満載なのだが、それもない。

いつもの劇団桟敷童子に比べれば、淡々とした台詞劇。
ーもちろん、それでも盛り上がるところは、過剰なほどの情緒を携えて、観客をグッとつかんでくる。

そこが劇団桟敷童子なのだ。

いつもならば、「陰」が舞台の上を支配しているのだが、ここにば「太陽」のイメージしかない。貧しいながらも食は満ち足りているし、人情だってある。人に施すことは当然であり、見返りを求めない。
「善」の塊があり、それが燦然と輝き、そうでない者たちの心は洗われ、帰依していく、という感じ。

無垢な村人に心を通わせていく兵士たち、という構造は、確かに甘々かもしれないのだが、「生身の人間たち」が、「顔を見合って話をする」ことの大切さを、改めて見せるということなのだ。
人の持つ背中が、垣間見えるような、役者たちが演じることで、あり得ないファンタジーの世界が立ち上がってくる。
人の「陰」に、何かを見せてきた桟敷童子ならではの、「善なる物語」であった。
だからこそ、太陽の下の「善なる命」に笑い、泣けたのだ。

途中で、劇中の登場人物が、物語を語る男に話し掛けてくるというような、メタで不思議なシーンもあったりする。

また、セットも劇団桟敷童子風のスペクタクルはないものの、手際といい、よくできてるなぁ、と思う。
できれば、桟敷童子なのだから、(シナリオになくても)ラストにひと花、何か欲しかったというのは、本音である。例えば、写真の背景とか。爆撃のシーンとか。

ラストはオープニングの写真に集約されていき、涙、涙となった。
正直、オープニングの写真のシーンから、すでに泣きそうになっていたのだが。
どうもほかの観客は、一部の方を除きそうでもなかったようだ。

「独立軍」や「徴用」という、第2次世界大戦での日本との関係をちらりと顔を出す。「徴用」で初めて船に乗ったので、この村ではないよその国に行ってみたかった、という台詞は、明るいだけに、とても重い。

役者はさすがにみんなうまい。桟敷童子的な「画」になる舞台がいつもそこにある。

「村人」という設定なのだから、村人は、桟敷童子お得意の九州の方言でもよかったのかな、とも思ったり。

そういえば、受付で外山博美さんがやけに大きなマスクをしていたので、やっぱり乾燥は喉の大敵だな、と思っていたら、舞台の上に現れた姿を見て納得。あのままじゃ受付無理だなと(笑)。
帰ってきた ザ・バックストリート・シャイニングス

帰ってきた ザ・バックストリート・シャイニングス

スクエア

シアターグリーン BOX in BOX THEATER(東京都)

2011/11/10 (木) ~ 2011/11/13 (日)公演終了

満足度★★★★

今回は歌モノで、全編歌に溢れていた
楽しい!
大爆笑するわけではないけれど、いい感じ。
こういうのはとても好きだ。

ネタバレBOX

ムード歌謡風からブルース、ロック調まで。振り付けあり、で笑わせてくれる。
ロードムービー的で、どうでもいいストーリーに、着地点の選択が、主人公のサラリーマンたちのコンセプトとマッチしている。

つまり、どうにでもできたであろうストーリー、例えば、ハッピーエンドの可能性もあったのだ。
(たぶん)観客の多くは、あり得ないけど、ハッピーエンドも、望んでいたような気がする。
しかし、それは選択せず、もともとのザ・バックストリート・シャイニングスというサラリーマンバンドの持っている方向性にぴたっとマッチさせたということだ。

いかにもおっさんたちの、それも関西弁の柔らかい会話が好きだ。
ニコニコしてしまう。風采といい、佇まいといい、表現するおじさんたちには、独特のオーラがある。
大爆笑するわけではないけれど、いい感じ。
こういうのはとても好きだ。

この日のゲストは、「阿佐ヶ谷姉妹」という妙齢の(?笑)お笑い姉妹だった。瞬間の面白さはあるのだが…。微妙なネタを延々やられても……、という感じはある。
カフェ・ビアンカ

カフェ・ビアンカ

兎団

学習院女子大学 やわらぎホール(東京都)

2011/11/26 (土) ~ 2011/11/27 (日)公演終了

満足度★★

「80年代の小劇場の薫り」がウリの劇団らしいのだけれど…
2時間超は正直キツかった。

ネタバレBOX

こういう言い方は失礼だとは思うのだが、感じたのは「古くさいな」ということ。
それはつまり、80年代が古くさいのではなく、なんだろ、発する「薫り」が古くさいのだ。
アングラな熱とスピードと深さが足りないのではないか。

古くさいと思ったのは、いかにもの「感動してくださいシーン」になると、バックに必ず同じ曲が流れてくるというあたり。
また、大勢の幽霊が出たりするんだけど、そのキャラに、つい「昭和か!」っていいたくなるセンスなんだよなあ。

それと、「舞台のサイズ」も関係しているのではないかと思う。
つまり、ここの劇団は、もっと狭いところにギュッと押し込められていたほうが、役者との距離がグッと近づき、もっと楽しめたのではないかということ。
以前ここのホールで青年団の『ヤルタ会談』を観たのだが、そのときは客席は使わず、舞台の上に客席と舞台を設え、サイズをコントロールしていたのだ。さすが青年団だ、と思った。

でも、学習院女子大学のこんな大きなホールで上演できたのは、よほどうれしかったんだろう。ダブルコールなんてし てないのに、主宰がまた舞台の上に飛び出してきて、楽ということもあり、観客と一本締めをしたのだった。そういう姿は、爽やか。「よかったね」と思った。

登場人物や設定などの、ヘンテコな和洋折衷&時代前後はわざとだと思うが(80年代っていう感じの)、それがどうもしっくり来ない。消化しきれないというか。
つまり、単に和洋折衷なだけで、それに「意味」が見出せないからだ。ホントは意味なくったって、意味あるように見せてほしいのだ。無理矢理でもいい。ダジャレでもいい。

あと、80年代の芝居って、言葉遊びが豊富な印象が強い。それが「自由さや熱さや深さ」を出していたと思う。
そうした「言葉」が豊かでないところが問題ではないのか。
妙に説明台詞が多い。
特に泥棒2人の掛け合いで、画家の話をするのは、変なポーズしていたけど、面白くはなかった。

こういう言い方は大変失礼だということは承知の上で言うと、「まるで昔にタイムスリップして文化祭を見ているようだった」のだ。
会場の雰囲気もあって、体育館で見ているような。2時間超。
長い。
わさわさと登場人物たちが総出のシーンが多いし、物語の膨らませ方があまりよくないというか。まどろっこしい。

しかし、主人公たちは「トイレに行きたい」というところから、あちこちに連れ回されるのだけど、行かなくて大丈夫だったのか?(笑) とずっと思ってしまった。
コーカサスの白墨の輪

コーカサスの白墨の輪

糸あやつり人形「一糸座」

渋谷区文化総合センター大和田・伝承ホール(東京都)

2012/01/22 (日) ~ 2012/01/25 (水)公演終了

満足度★★★★

舞台の上の活気がとてもいい
ブレヒトの音楽劇。
ラストはお馴染みのストーリー。
舞台の上の活気がとてもいい。
音楽劇であり、生演奏もあるし、歌もいい。

ネタバレBOX

産みの母と育ての母が、子どもを両側から引っ張る、というあの物語。
いろんなところで使われることの多いエピソードだ。

舞台の上の活気がとてもいい。
音楽劇であり、生演奏もあるし、歌もいい
そして、小さな人形と人間のコラボ舞台なのだが、不思議なことに最初からあまり違和感を感じない。
女性が男性を、あるいは逆を演じているのにも違和感を感じないのと同じだ。

物語は、産みの母と育ての母の対決が最後の山場になるのだが、軸は育ての母の、苦難の逃避行であり、その女性と誓いを交わした兵士との恋愛の物語でもある。

育ての母・女中グルシャを演じた高畑こと美さんの強い存在感が、大勢の出演者の中でひときわ光っていた。特に領主の息子である赤ん坊を、結局自分の子として育てようとしてからの強い意思のようなものがみなぎるところが素晴らしい。
そして、彼女の恋人・シモンの斉藤悠さんとの様子が爽やかなので、後味もいい。

ただ、途中から終わりにかけて、裁判官に祭り上げられた男がクローズアップされてくることで、なんとなく焦点がぼやけてきたのは少々残念。
せっかくグルシャのキャラクターに観客が惹かれてきて、とてもいい感じに盛り上がってきているのだから、もう少しグルシャの視点からの強調がほしかったと思う。

結局育ての母のもとに子どもは戻ってくるのだが、どうしてそうなったのか、がきちんと台詞で示されていなかったようなのだが…。

舞台の構造上の問題なのか、台詞が聞き取れない個所が多すぎた。反響のせいなのか、何なのか。台詞が聞こえなくてもストーリーはわかるとしても、やはり台詞はきちんと聞き取りたい。


舞台の内容は大満足だったのだが、受付があまりにもお粗末だった。
大勢の観客に慣れてなかったのか、軽いパニックだったのかもしれないけど…。

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