トカトントンと 公演情報 地点「トカトントンと」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    そうしてそれからDie Kruppsの「Stahlwerksymphonie」
    が舞台の上からハッキリと聞こえた。

    『トカトントン』「と」の物語。
    そうしてそれから、「文学」よりも、「音楽」を感じてしまった。

    ネタバレBOX

    前にも書いたと思うが、「地点」の作品には「音楽」を感じる。
    コトバのリズム感、抑揚という「音」に関することもあるのだが、編み上がっていく物語自体が音楽に「見えて」しまう。
    そうしてそれから、役者たちのアンサンブルは、台詞だけでなく、動きも含めて音楽なのだ。

    そうしてそれから、今回はさらに「音」としても「音楽」であった。
    それは(原作の)タイトルでもある「トカトントン」の「音」がそうさせるだけでなく、独唱や合唱のような台詞、実際に「唄」もあり、さらにその思いは高まる。

    そうしてそれから、開幕に流れるSEは、工事現場の「音」であり、それが劇中の「トカトントン」に結びついてくる。

    「トカトントン」は、敗戦直後から主人公を襲う音であり、彼の無気力や無関心のトリガーでもある。
    本当のトリガーは、「敗戦=玉音放送」であり、彼(ら)の世界は「玉音放送」により8月15日の正午までの世界と一変してしまった。
    だから、「私ひとりの問題ではない」のだ。

    そうしてそれから、「トカトントン」は、一方で「復興の金槌の音」であるとも言える。
    それが冒頭の「工事現場SE」につながるわけだ。

    しかし、主人公は、180°回転で転身なんかそう簡単にできるわけではなく、気持ちが盛り上がると「トカトントン」で、ダウナーな気分に陥ってしまう。

    前半はそうした状況を、本来の原因である「玉音放送」の文章を交えながら、丁寧に再現していく。「玉音放送」が「トカトントン」だ。
    さらに「ウソでした」という、原作ではラストに語られる主人公の、さらにダウナーな気分を、彼の手紙の記述に重ねていく。
    この構成はとてもわかりやすく、「笑い声」や奇声とともに、彼の状態を語っていく。

    そして、「唄」。
    唱われるのは、賛美歌と「椰子の実」。コーラスで。

    そうしてそれから、金槌を手に舞台の上で、「トカトントン」。

    この、人力リズム丸出しの「音」と、耳に残る冒頭のSEの「音」で、先に書いたインダストリアルな「Stahlwerksymphonie」が聞こえてくる。

    初期の「インダストリアル・ミュージック(またはロック)」は、工業生産される音楽へのアンチテーゼとしての成り立ちであった。その音楽の姿と、敗戦 → 復興(の音)という道筋をうまく受け入れることのできない主人公の姿はダブってしまうのだ。

    この感覚は極極個人的なものであることは確かなのだが、そう感じたのでそう書いた。

    そうしてそれから、主人公のコイバナあたりから、『斜陽』の「恋と革命」の一連の文章が覆い被さっていく。それは『トカトントン』の「デモ」のエピソードにも共鳴していく。

    この感覚、『トカトントン』の主人公の「虚無」さと『斜陽』の「恋と革命」の「熱さ」の感覚は、実は近しいことがわかってくる。
    つまり、「どうしようもなく、虚無さが沸いてきてしまう」ということを語っているのに、妙に「熱い」のだ。

    その「感覚」をうまくすくい上げていた舞台であったように思えてくる。
    全体が、やけに「熱」を帯びている舞台であったと思う。今までの地点の作品の中で(そんなに観ているわけではないが)、一番熱っぽいかもしれない。

    そうしてそれから、「子ども」の登場だ。
    子どもは「トカトントン」「トカトントン」「トカトントン」「トカトントン」と言う。
    子どもは「未来」であり、「芽」である。まさに戦後の復興の「兆し」だ。

    そうしてそれから、子どもは彼を「観察」する。彼の「外」にある視線だ。

    子どもの登場によって、この舞台中の、『トカトントン』の主人公が持つ「虚無」は諦めではなく、(手紙によって他人に働きかけている姿からも)通過点の苦しみではないのか、とも思えてくる。何か彼の中に「萌芽」があるのではないかという感触だ。

    だから、ラストでは、原作にある手紙を受け取った作家の返信は、バッサリとカットされ(もとも短いけれど)、「気取った苦悩ですね」だけとなるのだろう。
    第三者からは理解されない苦悩であるのだが、概ね苦悩とはそういうものである、と言い切ってしまって、第三者の姿で、彼の「復興」を待とうではないか、ということでもあろう。

    そうしてそれから、今回の舞台の形は、「逆八百屋」とも言えるものであり、舞台奥から手前に行くに従って徐々に高くなっている。観客はそれを見上げるので、KAATの大スタジオはいつものような段差がない。これは面白い。

    そうしてそれから、舞台美術は、今回も見事で美しい。
    そうしてそれから、後ろのキラキラを揺らすための、扇風機の音さえ「音楽」だった。

    そうしてそれから、今回の舞台のためのフライヤーは一体何種類あったのだろうか。やけにでかいサイズのものまであったし。とても贅沢(笑)。

    追伸 『トカトントン』に敬意を払い「そうしてそれから」率が高い文章にしてみた。

    参考:Die Krupps "Stahlwerksymphonie" http://youtu.be/9qiSNMKfBzI

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    2012/02/10 05:40

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