満足度★★★★★
男と女の地獄(日本国)巡り
「日本」という国は、こういう「国」なのだ。
私たちが、今、「日本」と「心中」しないためには……。
ネタバレBOX
40年ぐらい前に書かれた戯曲だと言う。
しかし、そういう古さは感じない。
かと言って、「古典」的なかび臭さもない。
今の世、特にネットでもてはやされるような、「日本的」な「強さ」の根底にあるものを感じる。
すなわち、「男は死ぬことを目指してしまう」ということ。
男は、「死んでしまえば」「すべてが終わる」と思っている。
さらに言えば、「死んでしまって」「神になった」ほうがいいと思っていたりする。
それが潔く、「男らしい」ともてはやされる。
「強い」と褒められ、いい気になったりもする。
その死に様は、「桜」の花にたとえられたりもする。
この作品では、3人の座頭が、江戸から東海道を下り、さらに江戸に戻って、東北を旅するのだが、時間軸としては、江戸時代から現代までを貫いて行く。
貫いていきながら、立ち止まって「見る」のは、男女の心中。
時代の波に翻弄され、「死」を選ぶ男たち。
それに従わされる女たち。
「死」を選ぶ理由はそれぞれ。
しかし、自分が納得すれば、理由なんて何でもいいのではないだろうか。
なにしろ「死にたがって」いるのだから。
「死にたがる男」たちは、心中をしたいと思っているのだが、それは個人的なエピソードではない。
つまり、「死にたがる男」たちというのは、「日本」という「国」(カタチ)をよく表しているのではないだろうか。
いつの世でも、それは日本的。
女たちにはそういう感覚はない。
女がいたから、今まで日本は滅びなかったと言っていい。
日本人が全員男だったら(生物的な意味ではなく)、少なくとも先の大戦では、日本は完全に滅んでしまったと思うのだ。
「死にたい男」たちとともに、まさに「心中」してしまっただろう。
「滅び」に「美学」を感じるのは、「日本的」だと思う。
「桜」にたとえられ、「美しい」と感じる。
しかし、それはそこまでのことであり、それを「押し付けられる」ことは絶対にイヤだ。
心中エピソードの中には、「戦争」の時代が入っていなかった。
これは「あえて」入れなかったのだろう。
あまりにも当たり前に「死にたい男」ばかりになるからだ。
男と心中してしまう女も出てくるが、その女は決して死んではいない。
劇中の台詞にもあったが「男は女を殺すことはできない」。
それは絶対にできないのだ。
ラストに座頭たちは、「実は目が見えていた」ということが明かされる。
「見えて」いた。彼らは心中の「傍観者」だった。
「めくら」のふりをしていた彼らもまた、「日本人」なのだ。
「見えないこと」にしてしまう、「聞こえないこと」にしてしまう、その姿は、私たちに、そのまま重なっていくのではないだろうか。
多くの人々が、座頭になって、「見えない(見ない)」「聞こえない(聞かない)」と言っているうちに、日本中が「死にたい男たち」になってしまうのだ。
座頭たちは、互いに殺し合い、死んでしまう。
それが、社会の座頭になった人々の末路ではないだろうか。
「死にたい男」たちと「心中」しないためには、「目を見開け」ということだ。
……って、そこまで書いてしまうと少々野暮ったいが。
この作品ではさらに、こうも言っていた「桜は女」だと。
つまり、見事に散っていく「男」たちが「桜」なのではなく、また「咲く」ことができる「女」が「桜」なのだ。
「桜」を「男」のモノにしない、この作品の凄さはここにある、と言っていいだろう。
外波山文明さんが珍しく、作品の中心にいた。座頭の1人として物語を回していく。
ときにユーモアな姿も見せながら、最後の立ち回りはカッコ良すぎ。
心中者の片割れを演じた「ゆう」役の女優さんは、それぞれがすべて良かった。
くの市を演じた井上カオリさんの、地に足がついている感と粋な感じが良かったし、戦後間もないころのエピソードに登場する遊(今井夢子さん)の、しっとりとした哀しさも良かった。お茶を淹れるという仕草だけでも素晴らしいと思った。田舎で村人たちの共有物となっている、ゆう(浜野まどかさん)は、こういう演技は、紙一重なのだが、泣かせてくれた。血のつながりがあるとは知らずに関係を持ってしまう、夕(長嶺安奈さん)は、弱そうに見えて強さがある、という雰囲気が良かった。
この作品自体も、女(女優)のものだったのかもしれない。
舞台の下手で、演奏する寺田英一さんのギターは、音楽であり、効果音でもあり、リアルな音を感じられ、とてもよかった。
次回の椿組は、桟敷童子の東さんの作品を、花園神社でテント芝居だという。
これはベストマッチではないだろうか。
桟敷童子がセットも組んだらいいのな、と思う。
今から楽しみだ。
満足度★★★★
面白いなあ! 角替和枝さんの演出
登場人物たちの造形は、どれも腑に落ちる。
それによって、それぞれの人間関係がはっきりしてきて、実感できる『かもめ』になっていた。
役者への愛情が感じられる。
それに役者がうまく応えているのだ。
角替和枝さんに、また演出してほしいと願う。
ネタバレBOX
東京乾電池って、不条理劇の印象が強い。別役実さんの戯曲をよく上演したりしているし、劇団付き作家の加藤一浩さんの作品も不条理劇だし。
シェイクスピアのハムレットや真夏の夜の夢さえも、その不条理性にフォーカスされていたように感じていた。
今回はまったく違う。
角替和枝さんの演出がいいのだ。
正直言って、東京乾電池の若手役者さんの多くは、とにかく早口で台詞を言わされたり、感情を押し殺されたりということもあって、あまり上手く感じられない。なんか可哀想。
古株の役者さんたちは、雰囲気でとにかく押す。何が何でも観客を楽しませようと押してくる。
そういうイメージがある。
今回も役者のレベルには差が歴然としている。
歴然としているのだけど、それがチャームポイントに見えてくるのだ。
たぶん、不条理劇的な演出だった過去の作品の多くは、それを「笑い」に変換しようとしていたような感じがある。
そして、不発だったことが多い。
その手法は、相当上手くないと、つまり東京乾電池の古株の役者さんたちのレベルに達しないと発揮できないのだ。
それをやらせていた。
そして、演出が1人だけで大笑いしていた、という若手公演も見たことがある。
今回は、役者への愛情が感じられる。
それに役者がうまく応えている、と思った。
丁寧に登場人物を深掘りして、くきっきりと「どういう人なのか」が見えるようにしてある。
登場人物の1人ひとりが、どんな人で、自分の周囲にもいそうな人として存在しているのだ。
これは演出の力にほかならない。
トレープレフは、川崎勇人さんが演じていた。
不器用そうな人で、演技もそんなにうまくないので、最初は笑いさえ起こっていた。
しかし、懸命に演じるその姿が、ニーナへの気持ちの伝え方がぎこちなさに見えてきて、大女優アルカージナを母に持つことでの屈折さえも感じてくるようになる。
よくありがちな、青白い文学青年のトレープレフよりは、もう少ししっかりと彼の像を結ぶことができるのだ。
ニーナを演じるのは、松元夢子さん。彼女のニーナは、田舎娘、だけとキラキラしている。
そこに「なるほど」と感じたのだ。
田舎にいて美人で役者に憧れる少女ではなく、田舎にして輝いて見える娘、だからトリゴーリンはつい、ふらふらしてしまい、しかし都市に行ったらその輝きが失せてしまったので、捨ててしまった、ということなのだ、とまで思ってしまった。
松元夢子さんの演じるニーナは、そういう魅力に溢れているのだ。
そういう解釈のほうがすっきりする。今までそういうニーナは見たことがなかった。
(少し横に逸れるが、東京乾電池の若手の中で唯一、気になっていたのが松元夢子さんだ。彼女の持っている雰囲気は、東京乾電池の型にはまった感じとは少し違っていた。今回のニーナの役はまさに彼女にぴったりだったと思う。キラキラした希望みたいなものが滲み出てきていて、さらに疲れ切った後半の姿もいいのだ)
アルカージナ(宮田早苗さん)も、いかにも大女優然としていた。
プライドの高さを見せていた。
『かもめ』なんていう作品を上演すると、全員が大げさな雰囲気になっていたりするので、アルカージナの大女優さがイマイチ伝わってこないのだ。
しかし、東京乾電池の『かもめ』では、特殊な大作家さんのトリゴーリンと、このアルカージナ以外は、普通のどこかにいそうな人たちとして描かれているので、アルカージナの大女優感が強調されてくる。
その結果、息子であるトレープレフとの関係もくっきりしてくるし、他の登場人物との力関係もはっきりしてくる。
こうした登場人物たちの造形は、どれも腑に落ちるものだった。
トレープレフの劇中劇の演出もなかなかいい感じだった。
……トレープレフのふんどし姿に、ニーナの感情のない台詞……まさにこの劇中劇こそが東京乾電池の不条理劇だ、とまでは言わないが、1人、密かに笑ってしまった。
また、演出的には、ストーリーが停滞するときには、ヤーコフや小間使い、料理人などが通り過ぎていくというのがうまい。
しかも、それは舞台の中をまったく邪魔しないのだ。
ただ、トレープレフがニーナとのことで絶望するシーンで流れる、タイガースの曲「色つきの女でいてくれよ」は、あまりと言えばあまりだ。直接的すぎて、やり過ぎだ。
せっかくいい感じで進めてきた雰囲気を台無しにしてしまった、と感じた。
あえて古い翻訳の『かもめ』を選択して上演していて、そこで狙ったのだろうけど、狙いすぎて、狙いがあからさまで、ここまでくるとカッコ悪く見えてしまう。
まったく違う曲で突き抜けてしまったとしたら(例えば、蜷川さんが『ハムレット』で見せたこまどり姉妹ぐらい外連味で見せてくれたら)、「お!」と思ったかもしれないが、これは野暮すぎた。
これがなかったら、★はもう1つ増えた。
緞帳のように見える、段ボールで作ったセットがとてもいい。
重さと軽さがある。
トレープレフの舞台に使われた赤い幕も効果的。
また角替和枝さんに演出してほしいと願う。
満足度★★★★★
書道ってわからないよなー
っていうことで、言葉を信じていない劇作家が、書道の見方に「空気」を発見して、作り上げたのがこの舞台。
ディスコミニケーションをディスコミニケーションで伝えたら、ディスコミニケーションでした、と。
でも「空気」だから、そこは察してね、と言っている。
察したので、面白がって★を多めに付けてみた。
書道を見る「先生」みたいにね。
「空気」を見せているはずなのに、観客は窒息する。
役者も、そして、作者本人も窒息する。
普通に考えると、演劇作品としては酷いもんだけどね。
(感想、またダラダラと書いてしまった)
ネタバレBOX
上演する脚本を書くときに、作者本介さんには、もやっとしたものがあったに違いない。
それを上演するための脚本にすることで、彼の中で何らかの「カタチ」になっていき、言語によって表現し、上演できる作品になっていくのではないか、という期待があっただろう。
(私の感想も、ほとんどの場合、書きながら考えていくので、最後はどうなるのか自分でもわからないのだけど……)
この脚本は、脚本を書いた作者本介さんの中で(だけ)、書いていくことで、純化されていったに違いない。
それが、演出との融合で、役者の身体になり台詞(言葉)になり、それぞれの役者たちの中(だけ)でも純化された。
作・演出家のそれと、役者たちのそれとは完全に一致していないと思うが、ある一点においてバランスがとれた、幸福の瞬間にこの作品は誕生したと言っていいだろう。
で、作品と観客との関係で言えば、作・演と役者の関係のように、長い時間を共有しながら、さらにコミュケーションを重ねながら作り上げていったものとはほど遠く、わずか80分の共有時間の中でしか、触れることができない。
なので、同じ方向での意思がある人にとっては、彼らの「純化」に触れ、感じるものがあったかもしれない。
また、自己の中においての、何らしかの気持ちの端緒に触れて、「ああ」と感じた人もいるかもしれない。
そのような彼らは幸福だったと思う。
彼らは「素晴らしい作品だ」と言うに違いない。
かなりの少数派だとは思うが。
当パンを開演前にパラパラと見た。
「書道がわかんないんだよねー」みたいなことが書いてあった。
「ああ、なるほど、これから始まる演劇はそういうセンで来るわけか」
と身構えていたら、まさにそのとおりだった。
どう見ていいのか、という視点が定まってこない。
どこかに定まる瞬間が、普通の演劇だとあるはずなのだ。
が、それはない。それが出てこないのだ。
つまり、当パンに書いてあるような「書道のどこが面白いのか」を言ってくれる「先生」は出てこない、と思えばいい(書道の場合のように、「どこが面白いのか」を言ってくれたとしても、それがわからないのだけどね)。
ジエン社の演劇で、今まで、「実は、こうでした」とか「オチ」を見せたことは一度もないので、このままそれはずっとないものと思えば気が楽である。
だから、書道や抽象画のように、勝手に楽しめばいいのだ。
だから、「どう楽しい」のか「どう美しい」のかを自分なりの尺度で見なければならない。
舞台芸術で言えば、モダンダンスや舞踏を見るつもりで楽しむことができれば、いいのかもしれない。
しかし、今までは、ジエン社の演劇には「ストーリー」的なものは確かにあったし、「普通の演劇」的な見方でも十分対応できた。
わかりにくさは、「あえて」演出してあったが、それでも「話の筋」を「追う」ことはできた。
なので、やはり台詞が気になるし、人間関係も気になってくる。
それらを無視して、ダンスとして楽しめ、とは言わない。
つまり、「アルコールが混じった汚染水」とか「避難する」とかと言った、イマっぽいというか、それっぽい台詞を頼りにする方法もあるし、「アルコールを断つ」とか「断食」とか、あるいは「文字を書けない」に代表される「精神的にアレ」な人々という視点からの尺度もあろう。
それを踏まえて、こう見た。
まず、主人公は誰なのか、という視点から見てみると、やはり深積イリヤだろう。
キーワードは「文字(言葉)」。
明らかにいくつかの空間と時間のレイヤーが重なっている。
深積イリヤの時間経過と劇中での時間経過にはブレがある。
また、「絶食セミナー」や「断酒会(アルコールを断つ)」の要素も重なっている。
さらにそこに「断食による超能力開発」のような要素も絡む。
「アルコールを含んだ汚染水」を食い止めるための「コンクリートで何かを作る」という現場の休憩所でもあるし、汚染水の危険が及ぶ可能性がある場所でもある。
文字が書けない深積イリヤの登場で、さらに「精神的な医療施設」でもあるようだ。
「精神疾患のための医療施設」というセンで見ていくとしたら、すべてはきちんと収まってくるように思えてくる。
彼らの「断食」「断酒」は、治療の一環であり、超能力やコンクリート作業は妄想で(後半超能力は否定されるし)、深積イリヤに自分が見えてきたり、「先生」と呼ばれる榛名田うみももう1人現れる。彼ら2人は、さらにもひとりの女性としても現れてきるのだが、これを「幻覚」と見てしまえば、簡単になってくる。
そういう見方もアリだろう。
見方のポイントは足元。
「靴」「スリッパ」「裸足」の3種類の足元がある。
「靴」は「外部との関係」。つまり、この場所の外につながる人々。
「スリッパ」は「内部との関係」。つまり、この場所から出られない人々。
「裸足」は「人の内部との関係」。つまり、登場人物の中にいるので、足元には何もない。
そういう見方もあろう。
ジエン社って、いつもディスコミニケーションに怯えているように思える。
それは、作・演の作者本介さん、1人だけの劇団みたいなので、彼の感覚だろう。
それは「外」との関係をいつも強く意識しているように思える。
そして、役者たちもそこは共感できるのであろう。
ジエン社(作者本介さん)は「台詞(言葉)」自体を信じていないようだ。
というか信じられないようだ。
「言葉は相手に届いていない」ということを強く感じているのではないだろうか。
だから、劇中でも台詞のやり取りが会話として成立してない場面が出てくる。
いや、会話のように、ある人が別の人に何か言ったら、言われた人はそれに対して応答しているのだが、本気で会話しているとは思えてこないのだ。
笑いこそすべてだ、的な登場人物が出てくるが、それが伝わらないというのが、それだろう。
まさに「凄い書道」の作品は、「書いてあること」自体が伝わるのではなく(何しろ何て書いてあるか読めないのだから)、その有り様が評価されるということにつながってくることと同じなのだ。
この作品では、それを「空気」と読んでいる。
つまり、言葉を信じていない劇作家が、書道の作品に「これだ」というものを発見して、作り上げた作品だ、というのは言い過ぎだろうか。
台詞や役者の肉体が、半紙の上の墨の文字のように、舞台の上に配置され、時折観客の耳に入る「言葉」や目に入る役者の動きの「配置」あるいは「空気」を楽しむというものではないか。
フライヤーにあった「手書きで文字を書いて」「どこかに貼ってみよう」というのは、「文字」を「意味から切り離す」という行為であり、観客もそれをやってみたらいい、ということであろう。
自分は(作・演の作者本介さんは)、「そういう世界にいるんだ」ということなのだ。
もちろん、演出しているから「言葉は通じている」し、「伝わっている」。しかし、本質的には「それを」「信じていない」ということなのだ。
観客とは「ディスコミニケーション」にならないように、「書道なんだよ」と言い続けているのだが、実態としては、それは伝わりづらいというのが、また、この作品の本質とかかわってきて、観客と作品とが、複雑なレイヤー構造になっていく。
ディスコミニケーションをディスコミニケーションで伝えたら、ディスコミニケーションでしたというわけ。
でも「空気」だから、そこは察してね、と言っている。
「演劇」で、舞台に上げているからね。
言葉を信じていない人の言葉は伝わらないのが当然だ。
作・演の作者本介さんは、その様子を見て「やっぱり言葉は信じられない」と思い詰めるのかもしれない。
当パンには「……何を僕は見ているのか、広い会場で、私はまるで重い水に飲み込まれたように、窒息していた」と、最後のほうに書いてあった。
深積イリヤのとまどいも、それ、だ。
文字を書けないことだけではなく、自分がどう人とかかわっているのかがわからない。
ラストに視点を変えて、榛名田うみが、この場所に深積イリヤの登場と同じにやって来る。
まったく同じ。
登場人物はすべて入れ替わる。
深積イリヤであるはずの深積イリヤは、そこで立ち尽くし、それを見ている。
自分の存在がグラグラしだす。
どこにも自分はいない。
「深積イリヤ」という言葉でしか存在しない自己は、文字が書けない深積イリヤには存在させることができないということ。
文字は意味から離れていく。
「……何を僕は見ているのか、広い会場で、私はまるで重い水に飲み込まれたように、窒息していた」。
「空気」なのにね、「窒息」している。
まさに、同じ体験を観客も、役者も、そして作・演の本人も感じていた(窒息していた)と思う。
それが、この作品の結論だ。
「ストーリー」は、それぞれの中で楽しめばいい。
ジエン社、面白いぞ。
次どうするのか?
満足度★★★★★
現実の世界では「柱」は見えない −− 現代社会の危うさ
スケール感のあるSFタッチな作品。
ストーリーが面白い。
ぐいぐい引き込まれた。
(また長々と書いてしまった……)
ネタバレBOX
SFっぽいのはイキウメらしいが、非常に身近な世界に生きる人々と描いてきたのとは少し異なり、非常にスケールが大きくなっていた。
もちろん、世界規模の話ではあっても、そこに生きる人々の姿はしっかりとある。
大きく時空を超え、とにかくその意味でもスケールが大きく。
シーンの切り替えが鮮やかだ。
この作品は、3.11がなかった世界の出来事として描かれる。
2008年から始まり、何十年後か先まで続く。
「ラッパ吹き」というキーワードが黙示録的で、スケールだけでなく、深みを増していく。
どこか「宗教」の匂いをさせながらも、この作品は、現代社会の危ういところをえぐっているように感じるのだ。
世界に突如として空から柱が降ってくるという、予測不能の災害が起こる。
宇宙から落ちてくるのではなく、高々度の大気圏内に突如として現れた巨大な柱が降ってくるのだ。
その出来事の本当の恐ろしさは、柱が降ってくることだけではなく、柱を見ると幸福感にとらわれて、何もできなくなることだ。
つまり、目をそらすことさえできなくなり、食事も睡眠もできなくなり、そして衰弱し死に至る。
柱は、災害の源なのだが、その我を忘れるほどの幸福感が得られるためか、「御柱様」と呼ばれるようにさえなる。
「御柱様」は台風や地震などの天災のようではあるが、「柱」という建造物であるので、人為性が感じられる。2013年の、今となっては、原発事故を想起してしまう。
つまり、原発は電気を通じて社会に幸福をもたらせていたのではないだろうか。原発自体にはいろいろ問題があることは薄々感じていたのにもかかわらず、その「幸福感(利益)」のみに目を奪われ。問題点から目をそらし、先送りしていた。それは劇中で「御柱様」から目をそらすことができなかったのと同じだ。
「原発」と書いたが、単にそれだけではなく、経済や利益優先で進んできた世界と、言ったほうがいいだろう。
人口がある一定の量を超えた場所に柱は落ちて来る。
なので、「人類は増えすぎてしまった」「災害は天の意思である」というとらえ方もあろうが、それよりもニュータイプのような人たちの出現(柱を見ても目をそらすことができる人たち)が、一番のキーだろう。
先の「原発」を例とすれば、「(福島の事故を)知ってしまった」人たちは、利益のみに目を向けるのではなく、それから離れて、考えることができるようになっていると思う。
なので、ニュータイプのような人類の出現は、新人類の誕生というよりは、「現実を見つめることができる」人たちの誕生と言っていいのではないだろうか。
「御柱様」以降の世界では、「御柱様」を崇め、宗教のように共同体の一部に取り込んでいる。
(……このシークエンスは核戦争後の世界で、ミュータントたちがコバルト爆弾の弾頭を崇めていた『続・猿の惑星』を思い出してしまった……)
その中にあって、言わば「王様は裸だ」と言い出てしまうニュータイプたちは、異端であり、その地を離れなくてはならない。
何も知らずに崇めている人たちにとっては、排除すべき人たちだ。
原発事業から大きな利益を得ている場所で「原発廃止」を言い出す人が、ニュータイプたちな重なる、と言っては深読みしすぎだろうか。
原発に限らず、経済、利益優先で進んできた、この世界は、いつも何かの歪みも生んできた。
切り捨てられてしまった人々、世界中に撒き散らされる害毒(物理的なものもあれば情報のようなものもある)、争い。そうしたものに目を向けて考えることが必要になりつつあるのだ、ということが示されているように思う。
この作品の「御柱様」は見えるけれど、現実の世界の「御柱様」は見えない。
それを見えるようにすることが大切なのかもしれない。
劇中ではニュータイプたちは次々と現れていく。
これは世界の再生の光なのだろうか。
そうに違いないと、思った。
役者さんたちは、みんなうまい。市井の人の、哀しみなども少ない台詞で見事に表していた。
「御柱様の使い(大使?)」として、失踪した望(浜田信也さん)が現れるシーンにはゾクゾクしてしまった。
満足度★★★★★
『駈込ミ訴ヘ』
「普通な演劇」とは大きく異なる演出手法で、これだけ惹き付けるのは凄すぎ。
震えるほど凄い。
面白い。
ネタバレBOX
太宰原作の『駈込ミ訴ヘ』と『トカトントンと』(再演)の2本立て。
両方とも一人称の小説。
逆八百屋(手前が高くなっていて、奥のほうが低くなっている)舞台。
『トカトントンと』は天皇(制)、『駈込ミ訴ヘ』はキリスト教。
2つの小説が描く内容を、こうして並べて、解体して再構築すると、別の作品であるという感じがしない。
日本の近代化、近代の日本という視点から考えると避けては通れない、2つが象徴するモノをテーマとしているからだ。
西洋文明(文化)の象徴たるキリスト教と、戦後日本の象徴となった天皇(と天皇制)。
結局、どちらもうまく取り込んだようでいて、歪みがある。
『駈込ミ訴ヘ』ではユダは悩み、『トカトントンと』では私が悩む。
ユダは訴え、私はトカトントンが脳ミソに響く。
この2本の作品を2本立てにして、さらに意味を持たせた、あるいは気がつかせてくれた地点(演出:三浦基さん)には、観客としては唸るしかない。
あえて音楽的に表現するならば、『トカトントンと』はインダストリアル・ノイズ・ミュージックならば、『駈込ミ訴ヘ』はケチャ。
と、書いて、音楽にたとえるのは違うと思い始めている。
「音」としての面白さはあるのだが(バリトン歌手を使ったり、ボイスエフェクトを使ったり、舞台を叩いたり、歌ったりしているので)、「意味」が見えて来るとなお面白いのだ。
とにかく役者の力を見せつけられた。
舞台に立つ役者が、すべてこのレベルな人たちであれば、演劇はもっと面白くなるのではないか、ぐらいのことまで思ってしまった。
役者による独特な発音の仕方と台詞との距離感。
異化(効果)という言葉がふとよぎった。
リズミカル。どこまでもリズミカル。ボイスエフェクト使った台詞。
バリトン歌手の登場。
台詞によるリズムの昂揚と台詞自体の昂揚が一体となっていく。
台詞の感情とは異なる表現で、笑い、怒る。
台詞を解体し、数人で分け合ったり、繰り返したり。
逆八百屋舞台なので、役者がこちらにやって来るときは、頭から見えてくる。
声の響きももちろん奥と手前ではかなり違う。
「あの人を、一番愛しているのは私だ」
「あの人を殺して私も死ぬ」
『駈込ミ訴ヘ』のラストの「ゆーだー」に震え、賛美歌には心から痺れた。
地点は、京都に固定的な拠点ができた。
京都に見に行くしかないか、と少し思っている。
満足度★★★★★
ほとばしり/脳髄叩く/十七音
1年間の休息期間を終え、お待ちかねのパラドックス定数。
男祭りなところも変わらないし、台詞を大切にしているところも変わらない。
濃密で、刺激的。
青臭くもある俳句演劇。
十七音(言葉)で舞台がうねり、十七音に脳髄を叩かれる。
……下手な十七音を自作して感想を書いてみた。
ネタバレBOX
<停止して/生みの苦しみ/十七音>
1年間の休息期間を終えて、パラドックス定数が帰ってきた。
休息期間を告げるプログ(先に一部を引用した)を読み、創作を続けることの厳しさをヒシヒシと感じていたので、戻って来ることがとてもうれしい。
会場に入ると客席に対峙する4名の役者。
観客との距離3、4メートル。
互いに緊張感が走る。
<アングラの/青臭くもあり/熱芝居>
言葉を嘔吐するというシーンから大きなうねりが起こり、ヒートアップしていく。
うまい役者が吐く台詞のツバ競り合いが繰り広げられる。
そこで語られるのは、十七音を絞り出すように、苦悩する人々。
1年間の休息期間前の衝撃的なブログの内容と重なってくる。
勝手に、以下にそのブログの一部を引用する。特に読んでいて辛かった部分のみを。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(略)
「野木萌葱はパラドックス定数を一年間、拒絶します」
(略)
もう、限界です。
もう、書けません。
疲れました。
何も感じない。
心が動かない。
必死に笑う。
吐くために食べる。
(略)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
どれほど、身と心を削って創作してきたのかが、うかがえる。
あの素晴らしい数々の作品には、こんなにまで追い詰められてしまうものがあったのか、と愕然とした。
だから、心から復活を待っていた。
この上演は日程的には決まっていたのだが、それでも心から「復活」を願っていたのだ。
そして、この舞台だ。
創作との隣り合わせにある苦悩は、野木さんとしては避けては通れないものだろう。
ここで、それを清算しなくてはならなかったのではないだろうか。
役者が吐く(文字どおり「吐く」という行為もある)、台詞の中の1語1語に込められた想いは、とても熱く。そしてどこか青臭い。
アングラのようだ。
寺山のようだ。
寺山修司は俳句もやっていた。演劇もやっていた。
なんかそんな連想をしてしまう。
<時空の/レイヤー重ね/飛び続く>
時空のレイヤーが重なり合い、虚実のレイヤーもそこに重なる。
創作という、一本の細くて頼りない線が、それらを貫く。
細くて頼りない線なのだが、強靱さがある。
それを信じなくては創作はできない。
登場人物たちは、薬に頼ったりしながらも、とにかく言葉を吐いて、吐いてつないでいく。
言葉で舞台がうねり、言葉に脳髄が叩かれる。
<吐く言葉/熱さがゆえの/自家中毒>
自分たちの言葉に酔いしれる。
4人の男たちが、熱く言葉をぶつけ合う。
彼らが交わす言葉の刃は、互いに互いを、そして自分を切り刻み、恍惚へと導く。
その様は、優雅でもあり、さながら十七文字のダンスだ。
すでに「十七音」という文字数以外の要素は「俳句」からはみ出ている。
<他者あり/故に我あり/十七音>
生み出す苦しみは自分の中だけにあり、それを解放できるのは自分だけなのではなく、「他者との関係」が大切である。
舞台の上では苦しみもがきながらも、他者とは積極的にかかわっていこうとする姿がある。
「他者」、いや「仲間」と言ってしまってもいいのだろうか。
「創作」は、他者との関係があって実現するのものではないか。
「見る相手」が存在しなければ、何も生まれていないのと同じではないのか。
この舞台では、作品を持ち寄る俳句会のような会合があった。それに向けて創作していた。
もちろん、それが目的ではないし、創作という行為自体は、誰かとの関係ではなく、自らの意欲と意思によってわき上がるものである。
しかし、それを「見てくれる相手」がいなければ、ということではないだろうか。
劇中でも互いの様子が気になるし、相手にぶつけたいと思っている。
見ていると、野木さんの気持ちが、作品の中にトレースされているように思えてならない。
「他者」がいることでの創作、「仲間」がいることでの創作。
そして、苦しさの先に何があるのか。
上演前の前説は、野木さん自身がいつも行っている。
私は、この前説が好きだ。
とても観客のことを考えてくれているのだな、と感じるからだ。
例えば「上演中に気分が悪くなったり、お手洗いに行きたくなった方は、こちらからお出になってください」「私は、ここにいます」。
こんな風に観客のことを気遣ってくれる方はいるだろうか。
たいていは、携帯切れだの、飲食するなだの、そういう注意事項だけで、いざというときのことを何も言ってはくれない。
そもそも、通路を全部潰してしまい、不測の事態が起きたときに、外に出ることすらできない劇団が多いのだ。
野木さんは、外への出方だけでなく、「私はここにいます」と自分の居場所を示し、観客を安心させてくれるのだ。
男前(笑)だと思う。
そして、今回は前説では、いつもの地震の際の対応方法(地震の際の注意事項は、2011年頃はどこの劇団もやっていたが、最近は忘れてしまったようで触れない公演も多いが)を、
「……の場合にはいったん芝居を中断します……外の様子と劇場内の状況を判断して、外のほうが安全だと判断できる場合には、係りの者がお客さまを誘導いたします」
と、丁寧に説明したあとに、さらにこう付け加えた。
「お客さまを誘導したあとで、たぶん我々は上演を続行します」
と。
これには笑いながら泣きそうになった。
帰って来たパラドックス定数からの宣言であるからだ。
そして、この作品の行き着く先は、この前説につながっていたのだと感じたのだ。
パラドックス定数は、また絶対に観たい。
満足度★★★
設定は興味深い
が、全体の構成と演出意図がびみょー。
新規さにとらわれすぎて、一番大切なものを見失ってはしまいか。
(長文失礼)
ネタバレBOX
ざわざわ感の残る舞台に立つ女子大生が「なぜドン・ホセがカルメンを殺したのか」の研究発表を始める。この導入部分はいい。
彼女の仲間が『カルメン』を演じながら、「なぜ」を探っていく、という展開になるはず。
しかし、劇中劇が始まるやいなや、その「劇中劇」に発表者である女子大生が取り込まれていく。
そこで、劇中劇への視点が変わる。
劇中劇は、発表者の視点なのか、発表者を取り込んだ劇中劇からの視点なのか。
さらに、そもそもの、「研究発表」自体が、「劇」であって、そのことはラストに近づいて行く中で強調される。
そういう「視点」のブレていき方は面白いと思うが、本来の「視点」、「何を見せたいのか」をポイントとしてきちんと整理すべきではないだろうか。
発表者である女子大生の立ち位置がわかりにくい。
劇中劇に取り込まれたときには、死刑になるところを逃げてきたドン・ホセの人質のような立場。つまり、「ドン・ホセが自分の話を聞いてほしい」と女子大生に言ってくるという「聞き手」の位置。
そして、女子大生はその話を聞く、という体(てい)でストーリーが動き出すのだが、ストーリーへの関わり方は、もとの「発表者」としての女子大生というよりは、「今、演劇に出ている、女子大生の役を演じている人」の視点なのだ。特にラストにかけては。
つまり、「発表」といいながら、何かがわかって発表しているというのではなく、「観客と一緒にそれを探っていこう」というものだとも言える。
であれば、それを観客に知らせないとわかりにくい。
そして、彼女がなぜ「なぜドン・ホセがカルメンを殺したのか」をテーマに選んだのか、が見えてこないので、ラストが唐突なのだ。
「シアターカンパニー象の城として、この公演に参加している人たち」という立ち位置が常に意識される。
ラストの女子大生役の感想もそうだが、「では、この公演はあなたたちにとって何だったのか?」が問われているはずなのに、役から役者に戻るシーンでは、各々感想がとても薄い。「え?」って思うほど。
最初の役者紹介にしても、「自分の言葉がない」。
ここは本来の台詞がない部分なのだろう。
にしても、あまりにも貧弱だ。
そして、最も大切な女子大生の、最後の感想はあまりにも浅くて薄すぎる。
ドキュメント的な要素を入れ、「劇」「劇中劇」を上演してまで、つまり『カルメン』を上演することで「何か」を「知りたい」「得たい」という欲求があったはずだ。
当然、その段取りはある程度予定されていたのだから、各役者は自分の設定された役、つまり、「カルメン」を演じる発表者の仲間の設定の役になり切って、どうこれから取り組んでいくのかを見せ、さらにそれがどう自分(たち)に作用したのかがないと、まったく意味がない。
ラストで発表者の女子大生が「演じた彼らも……」という台詞を言うのだが、演じた彼らの立ち位置も意味合いもまったく表面に出てきていないので、見ている側としては「知らねーよ、そんなこと」になってしまう。
女子大生本人は、「愛」とか「情熱」とかそんなものを信じていないまま公演をしていたが……と、ラストでようやく語り、自らの公演に感動して話しているのだが、それが伝わってこないのだ。「何」に「どうして」感動しているのかが。
そこから丁寧に伝えようとしなければ、女子大生役が涙ぐんだりしていても、しらけてしまう。
自分たちだけでわかったつもりになっていてもしょうがない。
「それ」を「見せる」こと、「感じさせる」ことがこの作品の目的なのではないだろうか。
つまり、自分たちが感じたことを、「感じました」とだけ言うだけでは作品としての成り立たない。
自分たちが作品を作り上げる上で「感じた」ことを、いかに観客に伝えるかが、大切なのではないだろうか。それがこの作品のキモではないか。
演出は、それをもっと掘り下げなくてはダメだ。
自分たちが感動しただけ、のレベルでは伝わらない。
伝えるためには、手順を追って、説明する責任がある。
「言いたいこと」が本当に、ドキュメント的にラストの女子大生の台詞に集約されているのならば、もっとシンプルな構造でも十分ではなかっただろうか。
叫ぶ台詞が(特に前半)多いのだが、叫んで効果を出すのならば、叫ばない台詞も大切だ。ムダ叫びは聞いていて楽しくない。
カルメンのキャラ設定が、彼女の激しい口調で見事に現れていたのだが、すべて同じ一本調子なのが辛い。演出が気を回さないと、役者の苦労が台無しになってしまう。
もっと、シーンによって演技(演出)を変えたほうがいい。
今のままだと、カルメンという人が、自由奔放なでけの、深みのない女性にしか見えてこない。
主人公である女子大生が、自分が信じられないことを、「カルメン」という演劇を通じて、その中に入り込み、ストーリーに思考を預けながら、辿っていくというというのがこの作品ではなかったのだろうか。
であれば、先にも書いたように、「カルメン」という演劇を選んだ理由が、テーマにかかわってくるし、そうした一番大きな全体像が、小手先のメタな設定に気を取られて、しっかりと提示されていないことが残念でたまらない。
また、主役であるドン・ホセは、人となりや、内面がなかなか見えてこない。葛藤が見えてこないのだ。ラストのほうでなんとなくぼんやりと見えてくるのだが、それでは「なぜドン・ホセがカルメンを殺したのか」という命題がクリアになっていかない。
女子大生が辿る意識の中(劇中劇)の主人公であるドン・ホセは大切なキーマンだからだ。
つまり、女子大生の意識=ドン・ホセであったのではないか。
面白い要素はいろいろあったし、意欲的な作品だと思ったが、この作品のレベルを上演するのであれば、課題は多いと思う。
しかし、ちょっと気になる劇団ではある。
満足度★★★★★
もの凄く面白い
初日を観たと思う。
主人公がこんなに噛む芝居は初めて観たかもしれない。
そして、主人公がこんな噛んでいるにもかかわらず、「もの凄く面白い」と思った芝居も初めてだ。
「劇」小劇場という小さな劇場で、3時間10分という上演時間にたじろいだが、そんなの関係ないほど面白い。
こんなに狭い劇場なのに、よくぞうまく使い切った。
小川絵梨子さんの演出はいいし、役者もいい。
満足度★★★★★
家族は「て」の指のよう
バラパラだったりしても、下ではつながっているから。
……そういう意味合いのタイトルなんだろうね。
ハイバイの『て』は、家族の話。
とても深く考えさせられ、笑ったり、あるいは泣いたり、痛くなったりする。
ネタバレBOX
家族の話。
こういう設定は、「家族」を意識するようになった、ある程度以上の年齢にとって、「自分のこことして」見て、考えられるというメリットがある。
どんな家族構成や環境であったとしても「家族」の話は強いということだ。
しかし、逆に誰でもが想像できる「家族」の話なだけに、多くの観客を納得させるのは難しいともいえる。観客の数だけ家族のカタチがあり、尺度があるからだ。
ハイバイの作品は、岩井秀人さんの個人的な体験が源である。
この作品も自身の体験がもとになったらしい。
岩井さんの体験は、観客の最大公約数であるわけもないのに、観客は納得し、かつ共感が生まれたりする。
それは語り口の面白さもあるが、作品がとらえているおおもとの部分が、1人ひとり別の人格をもった観客たちの、それぞれの琴線に触れることができているからであろう。
「家」を象徴するような4本の柱が天井から吊されている。
ところどころに焦げがあったりする。
ただ、それだけのセットなのに、そこに物語を見出すことだって可能だ。
そこで人が演じることで、観客の脳裏にはさまざまな体験や経験が蘇ったりするのだ。
一口に「家族」といってもさまざまなカタチかあるだろうが、その「おおもと」「根っこ」の部分においては、共通するポイントがきちんとあるだろう。
「これ」と言葉にうまくできない、それが舞台の上にある。
「言葉」ではないので観客は自分の家族のカタチを投影できる。
そうしたものをきちんと見せるうまさがこの作品にはある。
それを意識して戯曲を書いているのかどうかはわからないが、確実にその部分はとらえていて、それをあからさまではない方法、演劇として、「面白く」見せていくことができているのだ。
「面白く見せている」というところは非常に大きなポイントだ。
戯曲も演出も、もちろん役者さんたちもうまいのだ。
男性の岩井さんが母親を演じているということで、観客の心の敷居が下がってくるということもあろう。
また、「笑い」があり、それで気持ちがほぐれたり、救われたりするという面もあると思う。
それらを絶妙なバランスで見せてくれる。
ただし、すんなりと飲み込みやすい作品ではなく、飲み込みにくさが、笑えたり、泣かせたり、痛かったりするのだ。
この作品では、父顔のDVが中心にあり、それを取り巻く家族の関係が描かれる。
視点を変え、同じシーンを再度見せるという手法がうまく使われている。
答え合わせであったり、別の「視点」であったり。
この「別の視点」というのは、ひょっとしたら人間関係をうまく築くための、良いツールなのかもしれない。
「人の身になって考えよう」なんて言うけれど、なかなかできない。
だから「別の(他人の)視点」というのは大切だ。
もちろんそれを啓蒙するための舞台ではないのだが、長い間「引きこもっていた体験」のある岩井さんが、外に出て、演劇に出会って気がついたことなのかもしれない。
演劇は、「他人の気持ち」を想像できなければ、成り立たないので。
岩井さんは、そうして引きこもりから脱出したのではないだろうか。
「家族間のディスコミュニケーション」は、その度合いもさまざまだけど、多く存在しているのかもしれない。観客の多くは、胸に思いあたるところがあるから共感できるのかも。そのような状態は、「外にいる限定的な引きこもり状態」と言えるのではないだろうか(ちょっと強引か)。だから、そこから抜け出すには「別の(他人の)視点」が必要なのだろう。
痛かったりして、泣けたりして、自分の家族のことを思う観客も多かったのではないだろうか。
感じることがいろいろあって、考えることもいろいろあったりして。
「視点」を変えることで、とてもイヤな感じの長男への見方が変わった(長男を演じた平原テツさんは、イヤな役を演じたら天下一品・笑)。
つまり、シンプルなことだけど「話さなければわからない」ということが深く突き刺さった観客もいたのではないだろうか。
「もっともっと話をしておけばよかったなぁ」と、あとから思うのが家族なのかもしれないのだが。
劇中では「家族ではない人」が出てくる。
とても親しいけれど、家族ではない。
血がつながっていれば「家族」になるわけでもないし、血がつながっていなくても「家族」はあり得る。そんなことまでも感じさせてくれた。
おばあちゃん(永井若葉さん)の優しい佇まいは染みた。
満足度★★★★★
苛立ちと自己嫌悪
中高生だった、あの頃に感じていた、言葉にできない、そういう「何か」をうまくトレースして見せていた。
自分自身の「何かわからないモノ」に対して苛立ってしまっている。
視野の狭い世界にいるからだ。
今だから、それがよくわかる。
小松台東、凄くいい!
ネタバレBOX
「宮崎の不良でも優等生でも孤独でもない高校生のぼく」が主人公の物語。
つまり、大多数の「普通」の高校生の話。
まさにそれに尽きる。
煙草は「今まで吸ってなかったのだから、今吸うともったいない」という主人公の誠人の感覚が好ましい。別に優等生だから吸っていないわけではないのだ。
中高生の頃は、うまく言葉にできない、変なモヤモヤを抱えていた。
多くの人が、たぶんそうだったのではないかと思う。
就職・進学という進路も決めなくてはならない。
漠然とした「夢」はある。
主人公の誠人にも、叶うはずのないレスラーへの夢がある。「身長が足りない」など理由をつけて自分で諦めている。
しかし、諦めているのに、「進学か? 就職か?」と聞かれれば、夢のほうも顔を出してしまう。
「どするのか」とせかされ、母親からは「大学に行け」と言われる。
そんな不安定な時期、「言葉にできない」そういう空気を舞台の上に表現していたと思う。
誠人の一番仲の良い友人の正憲は、どうやらイジメを受けているようだ。
身体のアザや汚れたシャツがそれを示している。
彼は、誠人とは話はできるのだが、ほかの人とはうまく話すことができない。
学校から近いということで、たまり場にしようとしていたクラスメイトの剛士も、嫌なヤツかと思っていたら、実は誕生日に家族もいない自分の家には帰れず、誠人の部屋に転がり込み、泊めてほしいと言う。煙草は自分を隠すためのものだったのではないだろうか。
家が近いから、というよりは、「普通」の誠人にシンパシーのようなものを感じていたのかもしれない。
そして、誠人と母のやり取りに、自分が手に出来ていない家庭を見てしまったのだろう。
その剛士を好きな浩子は、友だちがいないことを認めたくない。
浩子が友だちだと言う1コ下の早苗は、実はみんなと同じ年齢で、訳あり。
それぞれにそれぞれが不安定になる、微妙な背景がある。
しかし、それをクローズアップして見せるわけでもないし、自ら言い出すわけでもない。
誠人を含め、だれもが自分の頭の上のハエを追うのが精一杯なのだ。
その、一杯一杯の感じがよくわかる。
今思い出せばなんのことはない出来事や状況であったとしても、その時には、本当に大変なことだったからだ。
そのもどかしい感じが舞台の上に溢れていた。
誠人の苛立ちは、ホントによくわかる。
自分の部屋をたまり場にしてしまった同級生たちに対して苛立っているのではなく、本当は自分自身の「何かわからないモノ」に対して苛立ってしまっているのだ。
視野の狭い世界にいるからだ。
だから、後で落ち込んでしまう。
自己嫌悪というやつだ。
たぶん彼ら全員がそれを纏っていたのではないだろうか。
そのモヤモヤに風を送り込むのは、誠人の母の存在。
誠人の母の台詞や動きは、いちいち染みて泣けてくる。
「あんな感じのこと、中高生の頃に言われた」と。
前回に引き続き、異儀田夏葉さんが演じる母親がいい。
台詞も演技も「母」であり、息子(たち)への愛情を感じる。
子ども役の役者さんたちと年齢的には同じぐらいなのにね。
そして、正憲役の佐藤達さんの高校生もいい。
背中を汚されて誠人の部屋にやって来る表情や誠人とふざけ合っているときの表情はたまらない。前に小学生を演じていて、そのときも泣かされた。ホントにうまい人だ。
浩子役の墨井鯨子さんの、不器用な女子高生もいいし、誠人役の松本哲也さんの普通の高校生もなかなか。
就職とか進学にはまったく関係ない、息子・誠人のやりたいこと、を認めた母の愛情をラストに感じ、さらに母のそういう性格を受け継いだような誠人のところには、以前のように、また人が集まってくるのだ。
彼らは今抱えている問題は何ひとつ解決していないのだが、「居場所」と「友だち」を得たことが、先につながるようで、とても後味は良かった。
剛士もきっと誠人の部屋にやって来るのではないかな。マルボロ持って。
満足度★★★★
面白至上主義!
もうこれは、笑うだけでいいやつだ。
クスクスもワハハも、苦笑いも含めて、とにかく笑う。
どの役者さんも、熱くキャラを演じていた。
ホチキス役者さん、特に男優さんたちは、よその公演で見るときは、かなりハードボイルドな感じが多い。あるいしシリアスな。
しかし、そういう役者さんたちが、笑いのために作り上げたキャラクターを全身全霊で演じる。
それが気持ちいい。
もちろん女優さんたちも同じ。
設定も衣装もジングルも、きちんと整理され、コントロールされているからこそ、の面白みがある。
アフターイベントもgood!
満足度★★★
意味のなさが不気味
ハーマン・メルヴィル短編小説をもとにしたひとり芝居。
カトリ企画の作品はいつもこちらが試されているような感覚に陥る。
ネタバレBOX
今回強く感じたの「空回り」。
あるいは、こちらから言えば「置いてけぼり」。
それは登場人物の1人とも重なるのだが、演出や役者の意識が先へ先へと行きすぎたのではないだろうか。
どういう意識で演じていたのかが気になった。
小菅鉱史さんは、「身体」を強烈に観客へ押し付けてくる。
裸になって、ぐいぐい来る。
張りのある肉体が舞台の上でそそり立つ。
時折、ちょっとニヤついたような表情を見せたりするので、恐いし気持ち悪い。
そもそもこのストーリーが意味不明で不気味さがあり、気持ち悪いので、小菅鉱史さんがそれを助長するというシカケになっている。
すべての行為に意味があるのかないのかわからない。
カツラを被ったり脱いだりと、まったく意味不明で、めまいがする。
ぐいぐい引き込まれているのは確かだ。
完全に役者と演出の手中に落ちたと言っていい。
冒頭に、誰かわからないが、人が袋に押し込められて、舞台に運ばれてくる。
まさに、観客がその袋の中にいたのだ。
終演後のイベントは、黒岩三佳さんによる『お岩』。
尻上がりに引き込まれて行ったのだが、エンディング間際に、一言、痛恨のミスが。
満足度★★★★★
一見、脱力のコメディ
なのだが、狂気のコメディでもある。
名古屋の劇団、オイスターズ。
とても好きだ。肌に合う。
東京に来るときは絶対に見逃したくない劇団のひとつ。
ネタバレBOX
映画『幸福の黄色いハンカチ』をそのまま持ってきた作品。
つまり、ファミリアに乗る男女2人の若者(映画だと武田鉄矢と桃井かおり)が、途中で出会った仮出所したばかりの男(映画だと高倉健)と、彼の妻の家に行くというストーリー。
妻が男を待っているのならば、黄色いハンカチを外に出しているというところも、もちろん同じ。
なのだが、ロードムービー的な演劇などではない。
男は、家に黄色いハンカチが出ているかどうかを見に行くことをしない。
シュレーディンガーの猫のごとくに、見に行かなければ黄色いハンカチは出ている、と主張する。
途中、ハンカチが出ていないことを指摘されるが、男は自分が見ていないからわからないと無視する。
フライヤーの写真は、オセロなのだが、主人公の男は白黒つけないままにしておく。
彼らを取り巻く、ほとんど関係ない人たちが、男の訳のわからない理由により、無闇に巻き込まれていく。
とてもシンプルな舞台装置で、時間の展開、省略など、メタ的な構造も特別なことではなく取り入れる。
殺人を犯した男は、いとも簡単に人を殺めていく。
そんなストーリーが淡々と進む。
男は、ときおり、(映画では高倉健が演じた役だったので)高倉健のマネで台詞を言ったりするが、それについても誰も何も触れずに、知らない観客は気がつかないままにしてある。
オイスターズらしい、きれいに力の抜けた台詞のやり取りがいい。
これは、この世界観の中での会話は、どの役者もうまいと思う。
男の妻が現れてからは、さらにかなり不気味な展開になっていくのだが、舞台の上は、あくまでも淡々としている。
ゆるやかな狂気が、最初から最後まで舞台の上を支配する。
しかも、笑える。
狂気なのに笑える。
かなり笑える。
シュールなコメディ、とか簡単に言えないほど演劇的であるとも言える。
他に類を見ない世界観。
オイスターズっていつもこんな感じで、面白いから好きなのだ。
満員御礼な客席でないことが、非常に残念無念。
面白いのになぁ。
満足度★★★
面白い設定と材料を用意しているのだが
その料理方法がもうひとつだった。
「面白い」と思うモノ全部並べても面白くはならない。
「演出」という「整理整頓」が必要。
さらに言えば、そのためには「コレ」という伝えたいこと、背骨になることを明確にしていないとダメだ。
……と偉そうなことをいろいろ言ってみた。
ネタバレBOX
全員が舞台の上に立ち、がなるように歌うオープニングは良かった。
なので、期待した。
地獄巡り的なストーリーで、悪い奴しか出てこない。
キャラクターが面白くなりそう。
衣装のテイスト。
悪いハッピーエンドと生演奏の音楽劇!
すべての材料がいい。
いいのだが、それが未整理のままの印象。
入れたいものを全部並べてみました、というような。
なので、面白いはずなのだが、途中でダレた。
舞台の上から、ふと我に返ってしまった時間が長い。
ラストまでそれを取り戻せず、残念であった。
こういう音楽を主体とする劇団はいくつかあるのだが、それらの劇団は、ダレるところなども一瞬もなく一気に見せてくれる。
それは「勢い」だけではなく、きちんと「整理」して見せてくれている。
それを「雑然」として「若さと勢い」「だけ」で見せている様に見せるテクニックが、それらの劇団には備わっていると言っていいだろう。
子供鉅人には残念ながらそこまでには達していない。
たぶん、同じものをもっと小さな劇場で観たのならば、直接的な「熱」を感じて、もう少しは面白く感じたと思う。
今回は、劇場サイズとのミスマッチかもしれない。
しかし、根本的には、サイズという外的な問題ではなく、「演出」という内的な問題があることを理解してほしいと思う。
自分たちで「面白いな」と感じたことを並べただけだと面白くならない。
「演出」という「整理整頓」が必要になってくる。
「観客にどう見せるか」には「観客に何を見せるのか」が大切だ。
したがって、この作品では「コレを伝えたい」という「背骨」を明確にしないとダメなのだろう。
「そんなことわかっている」と言うかもしれないが、伝わってこなければ、わかっていないと同じなのだ。
すべての観客に伝えてくれ、とは言わないが、すべての観客に「何かグッとくるモノ」を突き刺してほしいのだ。
ほんの1シーンでも、1つの台詞でもいいので。
それを感じたくて劇場まで足を運んでいるのだから。
と、偉そうな物言いだけど、書いておく。
ラストの歌は、オープニングと同じでいい。
そして、生演奏も曲もとても好みだ。
今後が楽しみだ。
満足度★★★★
前代未聞の●●コメディ!
笑った!
笑った!
●●の演技にたじろぎもした。
ネタバレBOX
前代未聞の、嘔吐コメディ!
吐いて吐いて吐き散らして、笑って笑った。
ブラジリィー・アン・山田さんは、うまい。
職人的なうまさがある。
さまざまな劇場のサイズ、また、劇団員がいる劇団ではなく、1人の演劇ユニットであったとしても、いつもの役者さんたちだけを使うのではなく、テーマなどによって、それらを使い分けていくうまさがあるのだ。
今回は、王子小劇場。
密室劇なコメディ。
オーバーアクトではなく、じっくりと進めながらパニックをコメディに変えていく。
タイトルにもあるように「性病」がキーワードとなり、救命ボートで遭難しているという状況にさらにこじれた人間関係がプラスされていく。
なかなかのブラック感と毒が散りばめられており、笑いに厚みが増していくのだ。
観客は遭難している人たちでギュウギュウな救命ボートを囲むようにして観劇する。
この座席設定が愉快だ。
ポツンと太平洋に浮かぶ救命ボートを見ているようだ。
そして、盛大なる嘔吐。
口に含んだ水がきれいな弧を描き飛び散る。
役者が叫ぶときの唾だって飛んでいる。
正直、たじろいだ。
タイトルにもたじろいだのだが(笑)。
小さいサイズの劇場だから味わえる楽しさがある。
大劇場の舞台の上で同じ作品をやったとしても、伝わるものは半減するように思う。
だから、うまい、と思うのだ。
ただ、救命ボートなので、立ち上がったときにはボートが揺れるとか、ふらつく、というような見せ方がほしかった。
さらに、ラストの大事な表情(ウインク)が、全方位に向けて行うのは難しいのだが、なんとかそれを伝えることをしたほうがいいのではないかと思った。
役者さんは、全部好きだった。
どの役者さんもキャラクターがくっきりしていたし、救命ボートの中でギュウギュウなので、押す部分と引く部分の差がきちんとして好ましいと思った。
小さなサイズにマッチした作品、ということを書いてきたが、ブラジルの作品は映像作品としてのイメージがすぐ浮かぶ。
先の記述とは矛盾するかもしれないが、この作品も映像化しても面白いと思うし、前作の『行方不明』にしても、前の『さよなら また逢う日まで』にしても、映像にしても面白いのではないかと思う。
……途中までいろいろと引っ張ってきた主任さんが突然いなくなるので、てっきり何かも伏線かと思っていたのだが、そうではなかった。
ちょっともったいないな、と思った。
満足度★★★
気持ち良く劇場を後にできる、ハッピーなコメディ
やっぱり、加藤健一(事務所)の翻訳モノはいいな。
手堅く、肩が凝らない面白さ。
ネタバレBOX
スコットランドに住むクリスティ(加藤義宗さん)とグロリア(高畑こと美さん)の若い2人が結婚する。グロリアの叔母のモードはロンドンからスコットランドにやって来る。
その2人の、それぞれの後見人ジョン(加藤健一さん)とモード(阿知波悟美さん)は気が合わない。
若い2人は、アメリカから養子をもらうことにした。
2人の後見人のジョンとモードがアメリカまで養子の赤ん坊を引き取りにでかけるのだが。
というストーリー。
当然、ハッピーエンドで、気の合わないジョンとモードが最後どうなっていくのかは検討がつくのだが、そこは、ストーリーの展開よりも、役者のうまさで見せていく。
気の合わない2人の気持ちが少しずつ溶けていく様は、やはりお見事。
加藤健一さんの、鼻につくぐらいの感じが、翻訳モノっぽくて、なんかいい(笑)。
スコットランド訛りということで、日本語の台詞も少し訛りを入れている。
また、アメリカ人がかなりオーバーにアメリカ人になっていたり(笑)する。
高畑こと美さんの、後先考えずに、若く結婚してしまって、自分が縛られていることに気がついた、ような雰囲気もうまい。ワガママでイヤな感じに思えるほどうまいのだ。
(でも、許せないほど酷い若夫婦・笑)
また、特筆すべきは、何役もこなした脇の2人(加藤忍さん、粟野史浩さん)が、とてもベタなんだけど、各シーンでとてもいいスパイスになっていた。
この2人が果たした役割は大きいと思う。
彼らがいるので、主役の2人が安心して芝居できるのだ
ハッピーエンドで観客はにこやかに劇場をあとにできる。
ただし、思ったよりも笑いの量は少ない。
笑うはずのシーンでいくつか不発だった。
そこはとても残念。
ほかの公演ならば、満足しただろうが、加藤健一事務所のコメディなので、もっともっとを期待してしまうので、星の数は厳しいものになってしまった。
満足度★★★★★
感情を揺さぶる熱さがある
桟敷童子は好きな劇団。いつも間違いなく面白い。
泥臭くって情念溢れる舞台は、古いタイプの演劇かもしれない。
しかし、彼らには感情を揺さぶる熱さがある。
今回も面白い。
この日の朝にも朝ドラで見た、近藤正臣さんをスズナリで観られるとは思ってもみなかった。しかも、桟敷童子の舞台で。
ネタバレBOX
今まで何度も書いているが、客入れ、座席の案内まで劇団員が総出で行う。
劇団内でトップの位置づけにいる役者さんたちも同じように行う。
しかも、彼らの接客態度も熱くて、丁寧で気持ちがいい。
そして、すぐ本番というのが凄いな、といつも思う。
近藤正臣さんが客演。
スズナリのサイズで近藤さんが観られるのは驚きだ。
近藤さんは、神に捧げる木偶マラ、つまり木彫りの男性シンボルを作る男の役(!)。
スマートな印象の近藤さんとは、桟敷童子の舞台は一見不釣り合いのようだが、物語の大事な役柄にぴたりとはまっていた。
土から出てきたような、桟敷童子の役者さんたちとはやはり少し違うのだが、まったく違和感は感じず、うまいな、と思わざるを得ない。
もちろん、彼をうまく中心に据えて、ある意味脇に徹した演技の、劇団の役者さんたちもうまいということだ。
いつもは倉庫を改造したすみだパークスタジオ倉という会場で上演していて、彼らは自分たちでセットも組んでいる。そのセットがいつも凄いのだ。スペクタクルが必ずある。
そして今回、スズナリという、さほど大きくない劇場を見事に使っていた。この感じは初めて出はないか。場面展開の切り替えも見事。もちろんすべて役者さんたちが、裏に回ってやっている。渾身の演技をしたあと、すぐに裏に回って、装置を動かすということをしているのだ。
シベリア出兵が終わって、また戦争の風が吹こうとしている時代。
山の神は女で、色事が好き。
村人は、山の神に連れて行かれないため、つまり神隠しに遭わないために、夜這いの儀式でまぐ会い、それを山の神に捧げる。
山の神(異界)との境界には、木偶マラ、つまり木彫りのアレが置かれ、山の神を鎮める。
戻ることは「不吉」である。
戻らないことが当たり前。
九州のどこかの村、方言の響きが心地良い。
紅(くれない)の言葉遊びなどがアングラ感を増す。
最初の台詞からラストの紅葉は読めていたが、それでも紅葉の山に沈んでいく、紅小僧の姿は美しい。
豆蜻蛉役の大手忍さんが美しくも哀しい。近藤さんとのラストには泣かされた。
また、食事のシーンと押しくらまんじゅうのシーンにはグッときた。
今回も、もりちえさん作の劇中歌が良かった。
満足度★★★★
向き合わなくてはならないこと
坂手洋二さんは饒舌だ。
そこが「説明的」だと思うので、好き嫌いはあるかもしれない。
語るべきことが多すぎるのかもしれない。
ネタバレBOX
ダムの話だけでなく、基地問題にまで触れることで、忘れやすい日本人の心情に気づかせ、さらに日本共産党の武装闘争に触れ、「反対運動」自体の在り方も示唆する。
前半の説明的な部分が効いて、後半の演劇的な展開が活きてくる。
特にこの後半のシーンが印象的で好きだ。
満足度★★★★★
テント芝居の醍醐味を堪能
新宿・花園神社境内に妖しく光るテント芝居の提灯。
灯に惹かれる蛾のごとくテントに吸い込まれた。
ネタバレBOX
「土」の舞台。
まさに、土の上に立つ。
土着性と泥臭さ、プリミティブな力に溢れる舞台だった。
中上健次さんの原作が、リアルに土の匂いと、人間臭さをプンプンさせ、新宿の喧噪の中に現れた。
観劇の日は雨が降っていたこともプラスされた。
雨はテント芝居では、観客にも役者にも厳しいもののはずなのだが、さらに面白さが増したように感じた。
雨音で少々台詞が聞こえにくいところもあったが、それがテント芝居の良さでもある。
舞台の半分は露天なので、役者に直接雨が当たっていたと思うのだが、そんなことは一切感じさせない役者たちがいい。
また、新宿なのでパトカーや救急車のサイレンが響くのだが、それも気にならない。
花園神社は、南北朝時代の山の中にあった。
石田えりさんの、肝が据わった女性が見事。
「血」「生」「死」「血縁」「家族」そんなキーワードが泥臭く演じられる。
真っ白い獅子のような獣が幻想的に現れるシーンは、新宿の喧噪も一瞬で消えたようになった。
美しい一瞬だ。
満足度★★★★
知られざる忠臣蔵
「知られざる忠臣蔵」と題して、観たことのない忠臣蔵を3本。
歌舞伎座では、2カ月連続で仮名手本忠臣蔵を上演しているので、こちらではこうしてみました、という趣向が楽しい。
ネタバレBOX
1つめは「主税と右衛門七―討入前夜―」。
ともに10代の赤穂浪士が主人公。
討ち入り前日の13日、右衛門七は、商家の一人娘に見そめられ、自分も憎からず思っていたので、初めて知った恋に気持ちが揺れる。主税は、死ぬことが恐いと打ち明ける。
二人は酒を飲んで気持ちを切り替えようとするのだが、内蔵助がやってきて、武士の本道を解き、そんな二人をたしなめる。
しかし、たしなめる内蔵助も、若い彼らを想い、「武士とは、悲しいものだ」の内蔵助の台詞。
グッとくる。
若い二人の演技はまだまだなのだが、それが逆にこれから死地に赴く若侍のそれと重なってきて、若さが最後の輝きに見えてくる。
中村歌六の内蔵助の重さが効き、物語を締める。
そして、乳母のお粂を演じた中村京蔵さんが素晴らしい。
2つめは「秀山十種の内 弥作の鎌腹(やさくのかまばら)」
真面目が取り柄の百姓・弥作の弟は、侍になって、赤穂浪士の一人。
弥作は、恩義ある代官と弟の板挟みになり、弟の秘密を守るために代官を撃ち殺し、その責めを負って、侍のように自ら腹を切るという物語。
鎌で腹を切るとからこのタイトルが付いた。
中村吉右衛門の弥作は、その姿が立派すぎるので、ただの百姓には見えないのだが、実直な感じがよく出ている。したがって、弥作の苦悩がよく伝わってくる。そして、鎌で腹を切るところなどは、悲痛なのに、滑稽味もあるのだが、泣けてくる。
3つめは「忠臣蔵形容画合―忠臣蔵七段返し―」
仮名手本忠臣蔵の大序から七段目までを、趣向を変え、パロディにしたような作品。
オリジナルの仮名手本忠臣蔵をある程度知らないと、何がなんだかわからず、あまり楽しめないだろう。
早変わりや、驚きの展開、仮名手本忠臣蔵の一幕のその後、人形遣いに踊りなど、次々に繰り出され、とにかく面白い。
満足度の高い3本であった。
今年は平均月1で歌舞伎を観た。
来年もこのペースになりそう。