【公演終了】ステロタイプテスト/パス 公演情報 The end of company ジエン社「【公演終了】ステロタイプテスト/パス」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    書道ってわからないよなー
    っていうことで、言葉を信じていない劇作家が、書道の見方に「空気」を発見して、作り上げたのがこの舞台。

    ディスコミニケーションをディスコミニケーションで伝えたら、ディスコミニケーションでした、と。

    でも「空気」だから、そこは察してね、と言っている。

    察したので、面白がって★を多めに付けてみた。
    書道を見る「先生」みたいにね。

    「空気」を見せているはずなのに、観客は窒息する。
    役者も、そして、作者本人も窒息する。

    普通に考えると、演劇作品としては酷いもんだけどね。

    (感想、またダラダラと書いてしまった)

    ネタバレBOX

    上演する脚本を書くときに、作者本介さんには、もやっとしたものがあったに違いない。
    それを上演するための脚本にすることで、彼の中で何らかの「カタチ」になっていき、言語によって表現し、上演できる作品になっていくのではないか、という期待があっただろう。
    (私の感想も、ほとんどの場合、書きながら考えていくので、最後はどうなるのか自分でもわからないのだけど……)

    この脚本は、脚本を書いた作者本介さんの中で(だけ)、書いていくことで、純化されていったに違いない。
    それが、演出との融合で、役者の身体になり台詞(言葉)になり、それぞれの役者たちの中(だけ)でも純化された。

    作・演出家のそれと、役者たちのそれとは完全に一致していないと思うが、ある一点においてバランスがとれた、幸福の瞬間にこの作品は誕生したと言っていいだろう。

    で、作品と観客との関係で言えば、作・演と役者の関係のように、長い時間を共有しながら、さらにコミュケーションを重ねながら作り上げていったものとはほど遠く、わずか80分の共有時間の中でしか、触れることができない。

    なので、同じ方向での意思がある人にとっては、彼らの「純化」に触れ、感じるものがあったかもしれない。
    また、自己の中においての、何らしかの気持ちの端緒に触れて、「ああ」と感じた人もいるかもしれない。
    そのような彼らは幸福だったと思う。
    彼らは「素晴らしい作品だ」と言うに違いない。
    かなりの少数派だとは思うが。

    当パンを開演前にパラパラと見た。
    「書道がわかんないんだよねー」みたいなことが書いてあった。
    「ああ、なるほど、これから始まる演劇はそういうセンで来るわけか」
    と身構えていたら、まさにそのとおりだった。

    どう見ていいのか、という視点が定まってこない。
    どこかに定まる瞬間が、普通の演劇だとあるはずなのだ。
    が、それはない。それが出てこないのだ。

    つまり、当パンに書いてあるような「書道のどこが面白いのか」を言ってくれる「先生」は出てこない、と思えばいい(書道の場合のように、「どこが面白いのか」を言ってくれたとしても、それがわからないのだけどね)。

    ジエン社の演劇で、今まで、「実は、こうでした」とか「オチ」を見せたことは一度もないので、このままそれはずっとないものと思えば気が楽である。
    だから、書道や抽象画のように、勝手に楽しめばいいのだ。
    だから、「どう楽しい」のか「どう美しい」のかを自分なりの尺度で見なければならない。

    舞台芸術で言えば、モダンダンスや舞踏を見るつもりで楽しむことができれば、いいのかもしれない。
    しかし、今までは、ジエン社の演劇には「ストーリー」的なものは確かにあったし、「普通の演劇」的な見方でも十分対応できた。
    わかりにくさは、「あえて」演出してあったが、それでも「話の筋」を「追う」ことはできた。

    なので、やはり台詞が気になるし、人間関係も気になってくる。
    それらを無視して、ダンスとして楽しめ、とは言わない。

    つまり、「アルコールが混じった汚染水」とか「避難する」とかと言った、イマっぽいというか、それっぽい台詞を頼りにする方法もあるし、「アルコールを断つ」とか「断食」とか、あるいは「文字を書けない」に代表される「精神的にアレ」な人々という視点からの尺度もあろう。

    それを踏まえて、こう見た。

    まず、主人公は誰なのか、という視点から見てみると、やはり深積イリヤだろう。
    キーワードは「文字(言葉)」。

    明らかにいくつかの空間と時間のレイヤーが重なっている。

    深積イリヤの時間経過と劇中での時間経過にはブレがある。
    また、「絶食セミナー」や「断酒会(アルコールを断つ)」の要素も重なっている。
    さらにそこに「断食による超能力開発」のような要素も絡む。
    「アルコールを含んだ汚染水」を食い止めるための「コンクリートで何かを作る」という現場の休憩所でもあるし、汚染水の危険が及ぶ可能性がある場所でもある。

    文字が書けない深積イリヤの登場で、さらに「精神的な医療施設」でもあるようだ。

    「精神疾患のための医療施設」というセンで見ていくとしたら、すべてはきちんと収まってくるように思えてくる。

    彼らの「断食」「断酒」は、治療の一環であり、超能力やコンクリート作業は妄想で(後半超能力は否定されるし)、深積イリヤに自分が見えてきたり、「先生」と呼ばれる榛名田うみももう1人現れる。彼ら2人は、さらにもひとりの女性としても現れてきるのだが、これを「幻覚」と見てしまえば、簡単になってくる。

    そういう見方もアリだろう。

    見方のポイントは足元。
    「靴」「スリッパ」「裸足」の3種類の足元がある。

    「靴」は「外部との関係」。つまり、この場所の外につながる人々。
    「スリッパ」は「内部との関係」。つまり、この場所から出られない人々。
    「裸足」は「人の内部との関係」。つまり、登場人物の中にいるので、足元には何もない。

    そういう見方もあろう。

    ジエン社って、いつもディスコミニケーションに怯えているように思える。
    それは、作・演の作者本介さん、1人だけの劇団みたいなので、彼の感覚だろう。
    それは「外」との関係をいつも強く意識しているように思える。
    そして、役者たちもそこは共感できるのであろう。

    ジエン社(作者本介さん)は「台詞(言葉)」自体を信じていないようだ。
    というか信じられないようだ。
    「言葉は相手に届いていない」ということを強く感じているのではないだろうか。

    だから、劇中でも台詞のやり取りが会話として成立してない場面が出てくる。
    いや、会話のように、ある人が別の人に何か言ったら、言われた人はそれに対して応答しているのだが、本気で会話しているとは思えてこないのだ。

    笑いこそすべてだ、的な登場人物が出てくるが、それが伝わらないというのが、それだろう。

    まさに「凄い書道」の作品は、「書いてあること」自体が伝わるのではなく(何しろ何て書いてあるか読めないのだから)、その有り様が評価されるということにつながってくることと同じなのだ。

    この作品では、それを「空気」と読んでいる。

    つまり、言葉を信じていない劇作家が、書道の作品に「これだ」というものを発見して、作り上げた作品だ、というのは言い過ぎだろうか。

    台詞や役者の肉体が、半紙の上の墨の文字のように、舞台の上に配置され、時折観客の耳に入る「言葉」や目に入る役者の動きの「配置」あるいは「空気」を楽しむというものではないか。

    フライヤーにあった「手書きで文字を書いて」「どこかに貼ってみよう」というのは、「文字」を「意味から切り離す」という行為であり、観客もそれをやってみたらいい、ということであろう。
    自分は(作・演の作者本介さんは)、「そういう世界にいるんだ」ということなのだ。
    もちろん、演出しているから「言葉は通じている」し、「伝わっている」。しかし、本質的には「それを」「信じていない」ということなのだ。

    観客とは「ディスコミニケーション」にならないように、「書道なんだよ」と言い続けているのだが、実態としては、それは伝わりづらいというのが、また、この作品の本質とかかわってきて、観客と作品とが、複雑なレイヤー構造になっていく。

    ディスコミニケーションをディスコミニケーションで伝えたら、ディスコミニケーションでしたというわけ。
    でも「空気」だから、そこは察してね、と言っている。
    「演劇」で、舞台に上げているからね。

    言葉を信じていない人の言葉は伝わらないのが当然だ。

    作・演の作者本介さんは、その様子を見て「やっぱり言葉は信じられない」と思い詰めるのかもしれない。

    当パンには「……何を僕は見ているのか、広い会場で、私はまるで重い水に飲み込まれたように、窒息していた」と、最後のほうに書いてあった。

    深積イリヤのとまどいも、それ、だ。
    文字を書けないことだけではなく、自分がどう人とかかわっているのかがわからない。
    ラストに視点を変えて、榛名田うみが、この場所に深積イリヤの登場と同じにやって来る。
    まったく同じ。
    登場人物はすべて入れ替わる。

    深積イリヤであるはずの深積イリヤは、そこで立ち尽くし、それを見ている。
    自分の存在がグラグラしだす。
    どこにも自分はいない。
    「深積イリヤ」という言葉でしか存在しない自己は、文字が書けない深積イリヤには存在させることができないということ。

    文字は意味から離れていく。

    「……何を僕は見ているのか、広い会場で、私はまるで重い水に飲み込まれたように、窒息していた」。

    「空気」なのにね、「窒息」している。

    まさに、同じ体験を観客も、役者も、そして作・演の本人も感じていた(窒息していた)と思う。
    それが、この作品の結論だ。

    「ストーリー」は、それぞれの中で楽しめばいい。


    ジエン社、面白いぞ。
    次どうするのか? 

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    2014/01/12 06:34

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