仮想したい顔
村田堂本舗
シアターグリーン BASE THEATER(東京都)
2008/08/21 (木) ~ 2008/08/24 (日)公演終了
満足度★
凍りついた世界
こういう舞台を前にして、僕は、何を思えばいいのだろう。こんな風に完結した世界にあって、僕ら観客は、必要だったのか。なんとなく、無力感にとらわれて、途中から、逃げ出したくなった。
ネタバレBOX
大阪芸大出身の劇団「村田堂本舗」。4年間で公演8回。今回が9回目、初の東京公演。随分、長くやっているし、場数も踏んでいる劇団なのである。してみれば、「長くやる」ということは、前進するということと、必ずしも結びつかないどころか、歩みを止めるということにもつながるのかもしれない。
とにかく、不思議な舞台である。本人たちは大真面目にいい話のつもりでやっているのじゃないかと思うけど、どことなくヘンな日本語や演出効果のおかげで、結果、無駄にシュールな仕上がりになっているのだ。狙いなのか?
例えば、小道具の時計が進むとき、普通は暗転の間にこっそり進めたりするのだろうけど、この劇団の場合、暗転するけど、なぜか時計にスポットが当たる。そして、手動とおぼしきぎこちなさで、針が、するすると進んだりする。なぜ、それを観せるのだろう。謎は多い。他にも、登場人物にスポットが当たって、観客に向かって、その場面における自分の心理を説明したり、舞台の進行状況を、小道具の移動ひとつに至るまで、逐一教えてくれる親切さが、非常にシュール。
こういう感覚、どこかで覚えたな、と思ったら、夏の夜の夢の、ボトムたちの芝居だった。ライオンが人だと分かるように、壁が壁だとわかるように、ボトムたちは、ライオンには「私は本当は人です」と、壁には「私は壁です」と語らせる。村田堂本舗の舞台は、あの喜劇的なシュールさに満ちているのだ。ひとりがテンパっていることを示すために、突然全員が舞台に出てきてよくわからないダンスを踊りながら、なぜか折り鶴をばらまくシーンに至っては、ボトムたちを超えた、とさえ言える。
でも、そんな彼らは、舞台に対して、非常に真摯にとりくんでいるのである。だからこその、あの演出なのだ、きっと。舞台の後で、出口に並んで見送りまでしてくれたし、プログラムがカラーの力作だったり、公演を楽しんでいるのは、痛いほど伝わってくる。
だが、どうやら、公演を行うことが楽しくて、自分たちの舞台を客観的に観ることは避けられてきたようだ。演技、演出、作劇、あらゆる面にわたって、ヘンなクセが、そのまま、場数を踏むごとに、強化されていったのだろうと思う。そして、この独特の世界は、そのまま時間を止めていて、彼らが大学を卒業した今も、劇団ごと、自己完結している。観客が必要ないほどに。
今回の物語は、支離滅裂なところがあって、よくわからないけど、たぶん、ニートの青年が、出会いを通じて、実家の外へ出るはなしだった。作者にも、どこか、自覚があるのかもしれない。学生のまま完結し、凍り付いた、彼らの舞台の世界は、東京へ出て新たな出会いを経験することで、溶けることがあるのだろうか。希望は、ただひとり、エネルギーに満ちた柔軟性を感じさせてくれた、今井志織さんに、あるかもしれない。おおきなお世話だろうけど。
純真無垢のメカニズム
たすいち
早稲田大学学生会館(東京都)
2008/08/20 (水) ~ 2008/08/24 (日)公演終了
満足度★★
ハッタリと、笑いの技術
今は消えてしまったけど、昔、早稲田の文学部の受験科目には、小論文があった。慶応の小論文が、「要約」という、「精緻な読み」を機械的に求めるのに対して、早稲田の小論文は、問題文が一行くらい。「この文章をもとに、考えたことを書きなさい」とかいう、すごくアバウトな、人間味あふれる、いいかげんなもの。歴史ある形式だったが、採点が不可能な感じで、数字が求められる時代の中に、あだ花と消えた。
当時、予備校は、「早稲田の小論文は、バカにならないと書けない。ハッタリをどれだけかませらるかが勝負」と教えていた。
たすいちのチラシには、「舞台という虚構の中で、屁理屈で理屈を通す、大人も子供も楽しめるファンタジー」とあるけど、感想としては、理屈はどこにもなかった。屁理屈が、屁理屈のまま、説得力なく、しぼんでいった。
それは、でも、とてもすがすがしくて、僕は、楽しんだ。ハッタリが効いていて、しぼむとこまで含めて、ああ、早稲田だなぁ、と思った。
ネタバレBOX
本当にテンポよく、ぽんぽんと弾む会話で物語が進む。そのスピードたるや、本当に速い。速すぎて、笑うタイミングがつかめないほどだ。ためが欲しい、と思った。
たとえば、何度かくり返される、高校生の告白シーン。「スキです」「ごめんなさい」「一瞬の迷いもないね」「迷った方がよかった?」と続く。どうやら、「一瞬の迷いもないね」が、たぶん「ここで笑うとこですよ」という、ひかえめな合図。自然にパッと笑うような、瞬発力あるものではない。でも、そうか、笑うとこか、なるほど、笑うか、と思い終わる間もなく、「迷った方がよかった?」とくる。その先は忘れたが、こういう、笑うスキのないテンポが続く。次第にこちらは、「じゃあ、笑わなくていいや」となった。
一人だけ、一生懸命に笑う女の子(僕のとなりのとなりに座っていた)がいて、「ふふふふ」(ぴた)「ふふふふ」(ぴた)と、小刻みに笑い分ける。すごいな、と、感心した。ピンポイントで笑う技術が、求められる世界だった。
MOTION&CONTROL
サスペンデッズ
OFF OFFシアター(東京都)
2008/08/19 (火) ~ 2008/08/24 (日)公演終了
満足度★★★
使い捨てられない
新国立劇場の企画「シリーズ・同時代」の一本として、『鳥瞰図』を観たのがついこの間。あの、笑顔が印象的な舞台が忘れられなくて、この公演を楽しみにしていたのだけれど、結果、やっぱり、良かった。
80分という上演時間や、劇場のサイズ、話の規模の小ささも含めて、全体的にこじんまりしている印象だけれど、それが物足りないと決めつけるわけにはいかない。というか、サスペンデッズという劇団は、「こじんまり」を受け入れることから始まるのかな、と思った。
ネタバレBOX
「こじんまり」ということは、多くを求めないことかもしれない。「老成」と評される早船聡さんだけれど、でもそれは、あきらめや、開き直りともちがう気がする。信頼、かな、と思った。観るものに負担をかけない、優しさかな、とも思った。
亡くなった先輩の葬儀に、地方へ向かう列車の中の二人が、大学の映画サークル時代を振り返る。別に、語り合ったりはしていない様子。ただ、ぼんやりと、個別に思い出す。狭い舞台が、現在の列車の中と、過去の部室を行ったり来たりする。
基本的なストーリーは、二人の、夢と、ひとりの女性をめぐる三角関係の、苦い挫折という、めずらしくないもの。それでも、不思議な、独自の味わいがある。なんだか、観終わったあとで、じわじわと感じる、なにかがあるのだけれど、それは、主役や脇役といった区別のない感じとともに、出てくるひとが、全員、しっかりとした背景を背負って、自分の人生を生きていることからくるという気がする。なんというか、使い捨てられる人物が、いない。
人だけでなくて、せりふにも、無駄なものがないかもしれない。ひとつの言葉は、次の場面に、じっくりと、厚みを加える。だから、僕らのほうも、自然と、しっかりと観ようとする、ということが、あるかもしれない。なんだか、信頼されているような、嬉しい気持ちになって、身を乗り出して、集中してしまう。
信頼は、世界にも及ぶ、という気がする。亡くなった先輩は、ただの卒業の遅れた大学生かと思ったら、実は、なんと、元戦場カメラマンで、愛する人を死なせたという壮絶な過去を持っている人だということが分かって、平凡な世界が突然、一瞬、裏返る。彼は、映画や大学といった「虚構」のなかに逃避したいと言い切りながらも、最後は、実家のりんご園を継いで(次男坊といっていたから、継いではいないのかな?)、日常の生活の中で死んで行く。「戦場で死ななくて、よかったよな」という言葉が、後から、ひびく。
僕は、この先輩が、よくわからない。無茶な設定に、そりゃないだろうという気持ちもある。でも、白州本樹さんという役者の力もあるかもしれないけれど、舞台を観終わって、広げられた物語が、きちんと折り畳まれて、スッと静かに消えていった感じがしたのに、この先輩の不思議な佇まいが、しこりのように残っていて、それがなんだか、嬉しいのだ。
この作品には、大きな感動だとか、深いテーマだとか、そういうものは、ないかもしれない。別に、涙も出ない。そのうち、話のほとんどを忘れると思うけれど、それでも、この、なんともいえないしこりを通じて、心の中に、生き生きとうごめく部分を、残していってくれたと感じる。「観た」という情報に終わる作品が多い中で、この作品は、確かに、笑いとともに、身体に残った。
闇に咲く花
こまつ座
紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)
2008/08/15 (金) ~ 2008/08/31 (日)公演終了
満足度★★★★
近いところを思い出す、ということを続けるつらさを引き受ける
僕たち日本人は、どういうわけか、「世界」に「進出」することを、脅迫的に追い求めながら、日本人であることを日々、忘れようとしている、世界的にも希有な人々だ。
井上ひさしさんの仕事は、ほとんど全てが、僕らに、日本人であることを思い出させようとする試みであるような気がする。
普通、こう書くと、歌舞伎とか落語とかの伝統芸能が出てきたり、日本語の美しさが出てきたりしそうだけれど、井上さんの場合、そういう、遠いところにはいかない。もっと、最近の話だとか、身近な話だとか、近いところの話をする。でも、僕らは、どういうわけか、井上さんの取り上げる、この「近いところ」だけを、意識的に、忘れようとしているようなふしがあって、その辺りだけが、空白のポケットのようになっているのに、そのことに、「意識的に」気づかないようにしているようなのである。
ネタバレBOX
僕たちは、物忘れの激しい時代を生きている。近いところの出来事を、すぐに忘れる。出来事がたくさんありすぎて、そうでないと、生きていけない。
でも、井上さんの書く、牛木健太郎は言う。「父さん、ついこのあいだおこったことを忘れちゃだめだ、忘れたふりはなおいけない。過去の失敗を記憶していない人間の未来は暗い。なぜって同じ失敗をまた繰り返すにきまっているからね」
健太郎は、C級戦犯としてグアムに連れて行かれた後は、処刑されることが分かっている。記憶喪失だった彼は、そのままなら、心神喪失状態ということで、軍事裁判を免れるはず。でも、彼は、あえて、思い出してしまう。無実の罪を、自身の記憶とともに、引き受ける。
思い出すのは、ドストエフスキーの言葉だ。『作家の日記』のなかで、彼は、たとえば、精神の病を理由に罪を問わない、ということは、人間の蔑視である、という。倫理的存在としての自分を引き受けてこそ、はじめて、人間は、人間たりうるのである、というのだ。「罪に問わない」ということは、相手を、人間として扱っていないから、人権を無視している、ということだろう。
同様に、ワインシュトックという西洋の学者の『ヒューマニズムの悲劇』という本には、「人間は、常に相続人である」というギリシャ時代の言葉が引かれている。人間は、過去を引き受けて初めて人間なのだという考えが、西洋では伝統的で、そこから、「人権」という思想が生まれているのだ。
だが、僕たちは、あらゆることを、引き受けることを、嫌がる。自分がやったことではないことを、なぜ自分が引き継がなければならないのか、というのが、僕らの基本的なスタンスだ。ついには、日本人であることそのものを、都合よく、捨て去ろうとする。
『闇の中の花』は、そういう僕らに、厳しく、でも優しく、僕らが自動的に引き受けているはずの、それでいながら僕らの知らない、「ついこのあいだ」の日本を、思い出させてくれる。きっと、僕は、また、そうしないように思っていても、忘れそうになってしまうことだろう。でも、そのときには、またこまつ座が、思い出させてくれると思う。
僕は、井上さんとこまつ座と一緒に、近いところを思い出す、ということを、思い出す。それは、情報の世界で、「世界」に進出しようとすると、忘れたくなるものかもしれない。つらいことだ。でも、そのことを引き受けて、初めて、きっと、僕らは、日本人以前に、「人間」という概念について、あらためて考えることができるように、なるのだと思う。
八月納涼大歌舞伎
松竹
歌舞伎座(東京都)
2008/08/09 (土) ~ 2008/08/27 (水)公演終了
満足度★★★★
遊び心たち、戦い合って、光る(第二部)
歌舞伎を観るのは、たくさんの部屋を巡り歩くよう。それぞれの部屋は、繋がっているけど、全然違う部屋(もちろん、平屋だ)。役者や物語、踊りや音楽といったたくさんの要素が、調和というより、同時に並ぶ。
めくるめく、無限に広がるバリエーションの部屋部屋を自由気ままに巡るのは楽しいけれど、迷ってしまうこともあるかもしれない。
第二部の演目は、新派舞台の歌舞伎化、二幕の人情もの『つばくろは帰る』と、先代勘三郎のための書き下ろしだった舞踊劇、『大江山酒呑童子』。
ネタバレBOX
例えば、2DKの家で、フローリングと和室の6畳間が並んでいる、よくある間取り。畳の部屋と、板張りとでは、身体のモードがかわる。ワンルームに慣れた目には、それぞれ、独立した部屋に見えるかもしれない。でも、襖を隔てて並んでいる部屋同士は、一つの家の中に、並んでいるのだ。
歌舞伎という家は、400年の歴史を持っていて、今も拡張を続ける、とんでもなく広いものだ。たくさんの部屋があって、その部屋の中に、さらに細かい部屋が並んでいる。いくつもの要素が、ブロック分けされていて、人々は、その中から、自分の好きなブロックを、楽しむ。これは、案外、今に合ったスタイルかもしれないとも思う。
僕は、特に、舞踊劇の部屋が好きだ。お能の影が見え隠れするそこでは、並んでいる、形式だとか、物語だとか、音楽だとか、もちろん役者だとかの諸要素たちが、舞踊が高まる一瞬に向けて、戦い合いながら、みなぎる空気を、通い合わせる瞬間をみることができる。
舞踊劇『大江山酒呑童子』の物語は単純明快。ご存知モンスターハンター源頼光さんが、仲間たちと一緒に、大江山に住む酒呑童子という鬼を退治に向かって、酒に酔わせてやっつけるという、それだけの話の中に、踊りの見せ場がたっぷりある。主役は、もちろん、中村勘三郎の酒呑童子だ。今回は、それに、串田和美の舞台美術が、戦う。
日本人の伝統的な視線は、「横」に広がる、平面世界。神様の視点である縦の視点だとか、遠近法の奥行きだとかは、ない。歌舞伎の舞台は、だから、横に長い特殊なもので、背景は、ぺったんこな書き割りが基本。
串田和美は、いきなりそこにチャレンジ。舞台の上に、もうひとつ、ちょっとした舞台のような台を用意。さらに、書き割りの代わりに、縦に長い、水墨画風の絵を三幅、並べる。これで、能舞台のようなちょっとした奥行きと、突き刺さるような、縦の視点(批評の目でもある)が導入される。
酒呑童子の衣装も、奇抜で、おしゃれ。オレンジに、若草色の重ねを合わせて、チェックの袴で登場。神通力を自慢して舞台上を飛び回ると、最後は人形が、背景の水墨画の中を飛び回る。遊び心がたっぷりの美術と、演出。
勘三郎の酒呑童子は、愛嬌たっぷり。遊び心溢れる舞を、時に激しく、時にゆったり、ユーモラスに踊る。酔っぱらって、「ふらふらと」してしまって、挙げ句やられてしまうのがかわいそうになる。
美術と、演者と、それぞれは、別々の部屋だ。それぞれが、それだけで、楽しい。でも、それが、舞踊の場面になると、丁々発止のやりとりを始めて、戦い合う。戸が開いて、風が通る。歌舞伎の伝統への戦いでもあるのだけれど、400年の積み重ねは、それを飲み込んでしまうだけのふところの深さを持っている。いつの間にか、きらきらした、明るさが滲んで、楽しんでいるのが、伝わる。
ばっさり斬られた酒呑童子は、舞台真ん中、小舞台の中央に、ばったりと倒れる。すると、ずずずっと小舞台が起き上がる。ざざざっと黒い砂が滝のように流れ落ちる中で、ハリツケのような格好の酒呑童子がにらみを効かせて、幕。客席が、どよめいた。最後の最後まで楽しい舞台。第三部ばかりが話題だけれど、こちらも、渋く、楽しめます(チケットが取れなかった負け惜しみではないですよ)。
三月の5日間
岡崎藝術座
お江戸上野広小路亭(東京都)
2008/08/03 (日) ~ 2008/08/05 (火)公演終了
満足度★★★
削ぎ落とされていかないものが
僕らは、なんだか、「海外」に弱い。「海外公演」とか言われると、なんだか、すみませんという気になる。そして、下手に出たり、逆に上から見下ろしたり、なかなか、正常な高さから見ることが、出来なくなる。
『三月の5日間』は、日本だけでなく「海外でも評価されている」作品だ。やっぱり、僕は、正常な高さをとりづらかったのかも、と、この、岡崎藝術座の上野・寄席公演を観て、思った。
ネタバレBOX
チェルフィッチュ版の『三月の5日間』は、なにもかもを、最終的には「舞台」や「役」といった根本部分にあるものまで、非常にシンプルに、舞台上から削ぎ落としていく。
そこに、僕らは、今を見る。なんだか、強迫観念的に、「海外」を意識する日常を生きる僕らは、「日本」の部分を意識しながらも、無意識的に捨て去ろうとしながら生きているといえる。いつもどこか、「海外」に寄り添うときのよりどころとして、余計なものを持たないニュートラルさを求めている。『三月の5日間』には、そういう僕らを描いている側面が確かにあると思う。そしてそれは、舞台上から色々なものを削ぎ落として、非常にニュートラルなものを表現しようとする岡田利規さんの演出と、重なりあう。
神里雄大さんの、上野版の舞台である「寄席」は、それこそ100パーセントの日本だ。どう頑張っても、そこからなにかを削ぎ落とすことなどできない、どこまでも「豊かな」空間で、「ニュートラルを目指す戯曲」に対して、正反対のベクトルを、戦わせる。
上演されるのは、上下関係や人情といった、豊富な人間関係に溢れた、下町の演芸の世界。つまり、下町の芸人たちによって演じられ、通の寄席通いたちとの掛け合いによって作られる『三月の5日間』なのだ。
それは当然、世界には通用しないだろう。しかしそこでは、オリジナル版では失われていたものが、取り戻されていく。もともと、この戯曲の持つ視点は、どこまでもニュートラルなもので、だからこそ、冷たい。コミュニケーションをかりそめにも行えない弱者は、次々と退場していって、顧みられることはない。
上野版で、神里さんは、特に、ミッフィーちゃんに、手を差し伸べる(代わりに、ユッキーさんの「渋谷の非日常」のくだりは、かなりばっさり省略される)。彼女を救うのは、上野の、濃密な人間関係だ。それは、ヒエラルキーが目に見える形で存在する、自由のない世界かもしれないが、代わりにそこには、暖かさがある。ミッフィーちゃんは、寄席の客たちと、演芸界の大御所らしきパンダ男に救われる。ここで、僕は、じーんと来てしまった。
オリジナル版で、ミッフィーちゃんを放置したものには、僕らの行う、なんというか、密度を薄くした、内容よりも、行為自体に重きのあるコミュニケーションがある。チェルフィッチュ版で、二人以上で舞台にあがった語り手たちは、「うん」「そうなんだ」と相づちを打ちあうが、そこには、実体的なやりとりは存在していない。上野で公演を行う芸人たちは、基本、コンビだ。かれらのやりとりは、常に相方と行われて、さらに、客席からのかけ声で補強される。密度がある。
そこには、ニュートラルでないが故の、内輪な排他性も感じられる。演出自体、一度意図がわかってしまえばそれで十分なものが、繰り返し使われるなど、荒削りで雑な部分が多々ある。それでも僕は、この、夏の日にきな臭さを運ぶゲリラ雷雨のように、あっという間に駆け抜けたこの岡崎藝術座の公演を、なんだかんだいってとても楽しんだ。それは「海外」を意識しない、貴重な時間でもあったのだった。
音楽劇 夜と星と風の物語
THEATRE1010
THEATRE1010(東京都)
2008/07/26 (土) ~ 2008/08/03 (日)公演終了
満足度★★★★
たくさんの自分、ひとつの自分
『夜と星と風の物語』は、じわりとしみ込む物語だ。きっと、観た人全部の中に、地下水脈としてたたえられていることだろう。
それは静かに、いつかきっと、何かの機会にしみ出して、乾いた心を潤してくれることもあるだろう。そんなことを思う。なんだか、今すぐではなくて、何年か先だとか、何十年か先の僕らに向けて演じられているような、とても不思議な舞台だった。
ネタバレBOX
当たり前のことだけれど、舞台には、役者という人がいて、そのことに、とても安心する。役者は、誰かを演じているのだけれど、大体において、舞台の上に居る間は、特定の誰かとして、そのまま、居続ける。
最近の前衛演劇の世界では、そういう、役者が特定の誰かになることに異を唱える流れがある。現代を生きる僕らは、いくつもの自分たちのなかを生きていて、「自分」として、一人の人物を特定する必要はないと、そういう流れにある人々は考える。そして、一人の人物を、例えば、複数の役者たちが同時に演じたりする。
自分は、何人いるものなのか。それは、時代によってかわるものである。近代と呼ばれる時代以降、長い間、自分は一人である世界が続いた。でも、それは、終わろうとしているのかもしれない。
自分の数はかわっても、からだの数は、ひとつ。そこに、演劇の、根本的な、救いは、ある。そういう気がする。
舞台上には、飛行士、飛行士の恋人、飛行士の両親が、登場する。けれど、今、記した、「飛行士」は、それぞれ、別人でありながら、同じ人物のようでもある。自分の数が、無数でありながら、ひとつなのだ。たとえば、飛行士は孤児で、彼の両親は、砂漠で、行方不明になった。つまり、「飛行士の両親」の息子と、ここにいる「飛行士」は、別人だ、ということになる。でも、今、この両親は砂漠をさまよっていて、そのまま、帰らなかったとしたら、「砂漠で行方不明になった」ことにはならないか。また、彼らは、昔、飛行士と、飛行士の恋人として、墜落した砂漠でさまよったという、今現在の記憶を共有しており、飛行士と恋人は、彼ら自身であるようでもある。こういう具合に、彼らは、ほとんど共通の記憶を共有しながら、すんでのところで、重なることができない、いくつもの自分たちなのである。
星の王子さまは、こんなことになってしまったのは、自分がやってきて、時間が混乱してしまっているからだ、という。そして物語は、この混乱を収束するために、後半、猛スピードで疾走し、からまりあっていた時間は、鮮やかにほどけていき、そして、ほどけたその先には、誰も残らない。
なんと静かで、不思議な物語だろう、と思う。このような、目に見えないものを描こうとする、抽象的な物語が、目に見える舞台という形をとろうとする。それを可能にするのは、舞台上に、役者という身体がいる、ということだ。彼らが動き、話し、歌うことで、僕らは、そこに描かれている抽象の向こうに、人の営みが捉えられていることに、そうとは知らずに気づくのである。
舞台の袖で、音楽も、生身の身体によって、奏でられる。抽象を表現する全てが、あえて、全ての要素をそぎ落とされたとしても残らざるを得ないだろう、ひとつの身体たちによって、具体的なものとして現前される。
そして、僕らは、確かに、そこに、居たのである。きっと、その場にいた他の誰かと、この舞台の話をしても、通じあうことはないかもしれない。みんな、違うことを感じたかもしれないのだ。それほど、今は、立場が、たくさんある。それでも、確かにそこに、一つの身体として居たというそのことだけは、きっと、共有できるのである。それは、たとえば未来の僕が、今の僕と、記憶を共有できなくなっているとしても、そしてそこでは、自分の数が、今と違っているとしても、やっぱり、通じ合える、ただひとつの確かなことなのだろうと、思う。
やねまでとんだ
海辺のマンション三階建て
早稲田大学学生会館(東京都)
2008/08/01 (金) ~ 2008/08/03 (日)公演終了
満足度★
寄せ集まる自分たち
一歩外へ出れば、星の数ほどある劇団たちがバトルロイヤルを繰り広げる、弱肉強食の世界。でも、同時にそれは、繭の中から出る必要もない、ぬるさの漂うもの。学生演劇は、この両方のせめぎあう所だ。
さて、この「やねまでとんだ」はといえば、こわれて消えそうなタイトルからも分かる通り、自分の繭の中から出ない作品。この劇団としては最初の公演のようなので、まだそれでもいいだろう。次の公演予定は来年の夏とある。ゆっくりとしたペース。きっと、それが、最後のチャンスだろう。世の中は、それほど、ゆっくりとは進んでくれない。
ネタバレBOX
プログラムにある主催の挨拶。「劇場の扉をおしあけて、客席につく、芝居がはじまるのを今かと待つ。/何がはじまるかは分からない。しかし何かがはじまることは知っている。/扉がひらくたび新しい物語がはじまる。」
「はじまる」の繰り返しのような、かわりばえのしない文章がつづく。自分の言葉に沈み込んでいるようで、読み手が、あまり、見えていない。
「はじめに何をやろうかなと考えました。はじめに何をすべきなのか。」
まるで同じものを並べてしまう、この文章に見られるような、仲間うち以外の評を受けたことのない世界は、でも、他人の目を気にしていない分、面白いところへたどり着くことがある。
今回の作品は、ひとつの物語として出発するのに、だんだんそれがいくつもの要素に分岐して、最後には、短編集を観ているような、バラバラで繋がっていない印象で終わった。つまり、技術が足りていないのだが、そこが、面白かった。
プロの劇団は、あえて、物語を、断片的に語ろうとすることがあっても、つい、全体を視野に入れてしまい、大きな枠組みを与えてしまったりする。断片たちは、散らばらずに、ひとつの物語に回収されてしまう。物語をまとめることができる技術が、断片化という、現代を表現するのに適していると思われる手法を、とりづらくしてしまう。
「やねまでとんだ」は、あらゆる要素が断片化している。役者たちの方向性、物語の抱える要素、音楽、映像、チラシやプログラムのイラスト。全ての要素が、自分だけをみている。いわば、「自分」たちの寄せ集めだ。ひとつの目的を持って出発した物語が、どんどん、不思議に、分裂して、伏線もなにも、「回収されない」物語になる。これは、意図したものとは思えないけれど、自然に、現代社会の構図を、思わせる。バラバラに分解されたままに取り残される、この感覚だけは、面白かった。
五反田怪団
五反田団
アトリエヘリコプター(東京都)
2008/08/01 (金) ~ 2008/08/03 (日)公演終了
満足度★★★
なんでもない世界
昼と夜の間、黄昏時の五反田は、とても不思議なところ。超近代的なソニーの工場の真向かいに、うらぶれた工場跡、アトリエヘリコプターが、ぽっかりとした佇まいを見せる。
こういう、境目、「間」にある空白では、何かが起こるかも……。
ネタバレBOX
みんな靴を脱いで、畳の上で、ぐるりと囲んで怪談話。「怪談を収集することを生業にしている」「吉田くん」と、なぜか「怪談話を恒例行事にしなければならない使命感」にかられる「前田さん」。
「霊的に強いと言われる劇団」青年団のメンバー二人(吉田くん曰く「僕らの業界でも、青年団と言えば、霊的に知られる劇団」)が、話の幅に厚みをきかせる。
京都からは、「霊的な仕事をしながら俳優をやっている」三人に、助っ人として「バイトを休んで」来てもらって、除霊関係もばっちり。
……この設定の紹介だけで、なんとも言えない空気が、伝わればいいのだけれど。僕らは、受付はじめ、スタッフ合わせて、五反田団のメンバー総出で作り出される、この、怖がっていいのか、笑っていいのか、ギリギリのボーダーの上を綱渡りする空気の中を、最後まで宙吊りのまま、体験させられる。
よくよく考えられているのか、たまたまなのか。怪談話は、こちらの世界と、あちらの世界の「間」の世界、空白の世界、という話を中心に、進められる。それは、例えば、頭の中で想像したイメージの世界だったり、夢の世界だったりする。そしてもちろん、生きてるものはいないのかもしれない、現前する死の世界だったりもする。間、空白。
そう、五反田怪団の空気は、全く、怪談なのか、ギャグなのか、真面目なのか、ふざけてるのか、それらの中心に、ぽっかり空いた空白地帯だ。つまりは、前田司郎さんの、いつもの感じなのだけれど、ファンのつどいのような、内輪の空気の側にぶれながらも、そちらに傾ききることはない。
最後、かなり長めの、しかも結構凄惨な怪談話が、笑うところなしに続いた後、とんでもないやり方で、「オワリ」の文字が、唐突に出てくる。そのまま、無言で、出演者全員、引き上げて終了。観客全員、唖然。声も出ないし、拍手もない。本当に、この瞬間、無駄に、観客の心は、ひとつになった。「どうしたらいいの?」
なんでもない世界が、一瞬、開ける。いや、開かなくてもいい世界かもしれないけど、この感覚は、他では味わえない、独特のものだ。
演劇ではなく、「語る」という体なので、みんな、意味のないジェスチャーをしながら語る。ダンスまがいの過剰なジェスチャーと、伝わらない日本語で語られる、「斉藤くん」の「怖くない話」が挿入されることで強調される、こういう、普通の仕草が、なんだか、チェルフィッチュのパロディーのようにも見えた。どこまでも、意味のない、本当になにもない空間。
五反田怪団で本当に怖いのは、この、空白なのだ。僕は、圧倒的な、この無意味な空白を前に、ただ、笑うしかないのだった。
ピース-短編集のような・・・・・
グリング
ザ・スズナリ(東京都)
2008/07/30 (水) ~ 2008/08/11 (月)公演終了
満足度★★★
透徹する、負に負ける
連作短編は、多様な立場にある人の、様々な面を浮かび上がらせる。人々をつなぎ止めているのは、連作を貫く、強烈な、現代社会への問題意識だ。旧作2本、新作4本からなる6本の短編は、それぞれが、問題提起と、その回答を、提示する。
扱われている問題の設定が、とても鋭い、と思った。非常に強い、危機意識を、感じさせる。とはいえ、舞台は、バランスが考えられていて、非常に重いものを含みながらも、なんとか、明るく、軽やかな方へと、向かおうとする。
これを、どう見るか。僕には、問題意識が強すぎて、鋭すぎて、もう、オムニバスという形式では、背負いきれていないように、思えた。全体的に、意識的に作り出された、明るさ、軽さが、かえって浮いてしまい、全体を貫くテーマの抱える重さを、より、浮き彫りにしてしまっている、と、感じた。
ネタバレBOX
「世界は、確実に、悪くなって行っている」という独白が、出てくる。この作品で、短編たちをつなぐのは、このような「負」の意識だ。連鎖、というほど緊密なものではないけれど、玉突き事故のように、なんとなく、ネガティブなつながりで、それぞれの短編が、繋がっている。
「負」の問題意識の中で、最も先鋭的に扱われているのは、様々な形の、暴力の問題だ。冒頭、喫煙所に排除された人々の会話。タスポがなくて、タバコを買いにいっても、買えない。禁煙の流れが持つ、喫煙者への暴力の被害者たちが、今度は、原子力潜水艦の入港に反対する運動を行う側になる。
劇場は、下北沢再開発反対運動の中心地、ザ・スズナリ。舞台上で行われている、運動の、排除する側とされる側が、常に一人の人の中に同時に存在する構図が、運動のビラを見ながら劇場の入り口をくぐった僕ら、舞台の外まで、取り込む。
この問題意識は、作品の中で、蝶と蛾を区別し、無根拠に、一方を排除するという暴力として、繰り返し提示され続けることになる。
僕は、この冒頭に、やられた。鮮やかだ、と思った。そして、はっきりと提示された問題設定に、どのように取り組む作品なのか、息をのんだ。
作品中の人々は、みな、自分の立場が危うくなって、排除される側に回ろうとしている人たち。そして、彼らの出す回答のうちのいくつかは、自分が、排除される前に、排除する側に回るという、救いのないものだ。だが、このような回答に対する、さらなる反論として、エピローグが提示するビジョンは、あまりにも、無力だと、思う。
物語は、自分の世界を捨てて逃げ出そうとした男たちの断念と、夫の自殺を乗り越えた女性の、生まれてくる新しい命を、決して人を、殺さない、殺されない命に育てよう、という、決意、のようなもので、幕を閉じる。彼女の、のめりこんでいた「反対運動」に対する、「どうでもよくなっちゃいました」という言葉は、印象に残る。
でも、この彼女の決意は、積み重ねられた負の連作に対する反論としては、あまりにも弱い。結局、自身を支えるのは、自身の「決断」「意志」であり、「確実に悪くなっていく世の中」を、自身の意志で乗り切ろう、という、なんだか、精神論的な回答に、僕は、がっかりした。そして、せめてそれなら、彼女の心の変遷を、もっとじっくり、長編として描いてくれたら、と、思った。
男たちの、逃避への断念も、彼らではなくて、状況が引き起こした断念であって、結局かれらは、日々の生活へ、嫌々ながらに、引き返すだけだ。そこには、「回答」と呼べるようなものは、ない。
重い作品を、必死で軽めようと、笑いが挿入される。不自然ではないけれど、笑いを取るのは、いつも、物語の本質とは関係のない、いわば、笑い専門に用意されたような人物たち。作品が、自分の用意した自身の「負」の重さに負けている。自分で用意した問題に、答えることができずに、自身の重さで、つぶれてしまっている。そして、せっかくの短編集が、透徹したテーマによって、一つに回収されてしまっている、と、思った。
三条会の「真夏の夜の夢」
三条会
千葉公園内 特設野外劇場(千葉県)
2008/07/25 (金) ~ 2008/07/29 (火)公演終了
満足度★★★★
地に足が着いている
小田島版の『夏の夜の夢』を、かなり忠実に使っていて、嬉しかった。物語だけを持ってくるのではなくて、ちゃんと、原作の言葉を、大事にしている。
もともと面白い本だけど、それが、奇想天外な、でも地に足の着いた演出で、もっともっと面白くなっていた。なんというか、役者さんたちの動きが、訓練された身体を観るようで、新しい、伝統芸能を観ているような気がした。
ネタバレBOX
薄暗い森の、でっかい鳥居の脇を行った先にあるのは、小さな、仮設の円形劇場。円い舞台を取り囲むように、客席があって、そのこっち側半分に、僕らが座る。で、残りの半分、向こう側の半円に、妖精たちが居て、基本、舞台を観ている、という、『夏の夜の夢』の、同心円の構造通りの、オーソドクスなセッティング。
舞台上の人々の風体が、みな、異様。これは、最初、びっくりしたし、怖かった。修行僧みたいに、坊主頭にメガネのライサンダーとディミートリアス。色気なく、髪をまとめて、これまたメガネの、ハーミアとヘレナ。ねじり鉢巻で、八百屋の主人みたいなオーベロン。キャップにフード、タバコをふかす、チンピラパック。彼らは、開演まで、じっとしていて、怖い。
舞台が始まると、さっきまで固まっていた彼らが、急に、ものすごく生き生きと動き回る。あの異様な風体が、ダンスみたいに、狭い舞台を、軽やかに跳ね回る。結構にぎやかに演じられるのに、時々、はっとするほどの静けさに包まれる。彼らの動きは、本当に、訓練されていて、なんだか、能とか、狂言だとか、全然違うけど、どこか、そういう、めりはりのある、地に足の着いた動き。
そこに、ちゃんと、原作に忠実な、綺麗な言葉が乗る。
一つ一つの言葉、動きが、なんらかのコンセプトを持った、マイムのように演じられる。彼らの着ている衣装は、基本的に一人一色。それが、真っ暗な森の中で、スポットに照らされて、映える。
なんというか、やわらかさの中に、とても硬質な、独自の理念みたいなものが見えるような、そんな感じ。それは、本を尊重しながら、物語の世界と、また、野外の森の、仮設の舞台と、調和していて、ものすごくふざけているのに、上品で、綺麗だった。圧倒された。
いつの間にか、舞台上の、全員の、ファンになってしまった。いつまでも終わってほしくない、楽しい舞台。来年もあるのなら、是非、行かせていただきます。
三月の5日間
岡崎藝術座
川崎市アートセンター アルテリオ小劇場(神奈川県)
2008/07/25 (金) ~ 2008/07/27 (日)公演終了
満足度★★
内輪で、ローカルな。小田急の3日間。
演劇というより、パフォーマンスだと思った。それはいい。
「演劇」という枠組みの中で、その枠組み自体を解体/批評したチェルフィッチュの作品を、演劇の枠組み自体を取っ払って、独自の強力な誤読を押し通してしまった力技の公演。
「観た」というより、「体験」した、という感じで、それは、確かに楽しいのだけれど、納得できない(ごめんなさい)。というのは、『三月の5日間』は、きっかけでしかなくて、途中から、俳優が何をしゃべっているのかという、戯曲の内容の部分がないがしろにされて、演出家が何をしているのかという、仕掛けの部分だけをみせられているような気分になったから。
これなら、『三月の5日間』をネタにしたパロディの作品を、新作でやるべきだ、と、思った。
ネタバレBOX
チェルフィッチュ版の振り付けが、段々誇張されて劇的になるにつれて、自転車、バイク、車、と、舞台上に登場する乗り物もランクアップ。本物の車の登場にびっくりしていると、休憩のところで、観客が、劇場の外へ追い出されて、劇場前の路上の、人が行き来し、車がびゅんびゅん通る前での上演に切り替わる。
演出の神里雄大さんの、「新百合の町を観て欲しかった」という言葉どおり、もう、この時点で、演劇どころではなくなった。僕らの前では、もとの姿の欠片もない、限りなく劇的に演じられる、なんだかわけのわからない、『三月の5日間』らしきものが進行するのだけれど、目に入るのは、演劇が路上で上演されていても、意外に無関心に人が通り過ぎて行く、小田急の、開発途上の、人工的な新興住宅地の方だ。
ここには、神里さんの、岡田利規さんへの挑戦がある。神里さんは、『三月の5日間』を、「オシャレな場所」の作品として、読んだ。六本木や、代官山や、渋谷が、体感レベルで登場する作品として、だ。そして、そんなイケてる世界へのルサンチマンを爆発させて、オシャレな作品を、「新百合ケ丘」という、行き着く先がよみうりランドや小田原という、アクセスが悪いわけではないのに、どこかローカルな、無理してる、小田急沿線の新興住宅地(そして、神里さんの地元)に持って行くことで、解体して、破壊してしまう。オシャレなはずの作品が、ローカルな町に、負ける。
なんというか、すごい、私怨のエネルギー。神里さんは、あえて、玉砕するのだ。
面白いとは思うけれど、やっぱり、納得できない部分がある。それは、神里さんが、『三月の5日間』を、その書かれている内容の部分を、観客が、知っていることを前提として、雑に扱っているからだ。自分があえて誤読した、作品中のごく一部以外の文脈を、存在しないもののように、ほとんど無視。これでは、チェルフィッチュ版や、演劇業界の流れを知らないと、まるでついていけないと思う。ローカルな土地が、ローカルな業界と、重なってしまっているのだ。なんというか、業界の有名なおもちゃで、自分勝手に遊ぶ、演劇ファンの、内輪受けのように感じてしまった。
オリジナルの『三月の5日間』という作品は、まったく演劇を知らない人を、取り込むだけの、射程の広さがあった。けれども、今回の演出は、観客を、舞台の外へ追い出しておきながら、実は、演劇業界の内側だけしか、みていないように、思った。道行く人の、冷ややかな視線が、全てを物語っていたのかも。渋谷は、東京を、日本を、象徴することができたけれど、残念ながら、新百合ケ丘は、こういうやり方では、演劇業界の狭さを象徴することしかできなかった。
『三月の5日間』は、ネタでしかない。権威ある作品を、ネタにすることで、批評となっている、というわけでもない。ただ、自分のやりたいことを、ネタを使って、やっているのだ。それなら、オリジナル作品で、勝負して欲しかった。『三月の5日間』を、きっかけとして、その中でネタにしたりして。今回は、メジャーな、他人の作品を選ぶことで、逆に、内輪感が出てしまって、輪郭が、ぼやけてしまっていると、そう、思った。
休憩室
弘前劇場
シアターグリーン BIG TREE THEATER(東京都)
2008/07/25 (金) ~ 2008/07/27 (日)公演終了
満足度★★★
90年代を振り返る、「静か」な目
97年初演。おそらく、大きな改変は行われていないと思う。
90年代日本演劇の、大きな流れのひとつとして、平田オリザさんや長谷川孝治さんが代表とされる、いわゆる「静かな演劇」が、ある。僕は、リアルタイムでそれらを観ていないけれど、今回、「静かな演劇」というのは、90年代という時代と、非常に密接にシンクロしていたのだな、と実感した。
11月に新作を発表するらしい弘前劇場が、この作品を今、再演したのも、一度、90年代を振り返って、乗り越えるためなのではないかな、と思う。
それにしても、空いていた……。カメラが入って、長谷川さんのインタビューなんかも撮ってたので、NHKかなんかでやるのかな。
ネタバレBOX
97年、僕はまだ10代で、引きこもりの気配を引きずりながら、定時制の高校に通い始めていた。ここにあるのは、あの頃の空気そのままだ。
舞台は、高校の職員室の、ある日の定点観測。どうということのない一日。ただ、2年生が修学旅行に行っていて、どこか、のんびりしている。交わされるのは、奥さんや旦那さんの話とか、健康診断の結果がどうとか、そんな普通の会話。大きな出来事は、起こりそうで、何も起こらない。
それなのに、普通の会話の向こうに、次第に、なにか、積み重なったものが見えてくる。具体的な話は出て来ないのだけれど、先生たちの、生徒たちの、見ている世界だとか、悩んでいることがらだとかが、見えてくるのだ。そして、彼らが、お互い、観客と同じく、相手のことを感じていながら、それを表に出さないようにしていることも、見えてくるのである。舞台上からは見えない「休憩室」がタイトルである意味も、ここにあるのだ。
これが、まさに、90年代だ、と思った。そして、当時の、一番ソリッドな形の「静かな演劇」というのは、そのような、90年代的な態度で世界を切り取るという、演劇的な手法なのだな、と思った。
つまり、90年代は、「静かな時代」(というか、「静かさ」を選びとる時代?)だったのかな、と、思った。「休憩室」を観て、僕は、なんだか、受け身な感じを覚えた。積極的なアクションは、何かを傷つける、だから、避ける。アクションを、「避ける」という行為を、選択する時代だと、思った。引きこもりに象徴されるような、僕の実感した90年代が、そのままあった。それは、10年以上たった今とは、明らかに違う空気感。きっと、その、今との差を、提示しているのだ、と思った。
今作は、「今」そのものを表現していない。でも、先へ先へと進む時代を見つめるために、10年前の空気を見ておくことは、「今」を見る、角度を変えてくれると、思った。この作品を観て、今の先端を走る劇作家たちの作品たちが、また、別の角度から見えてきたように、僕は、感じた。
シンベリン
子供のためのシェイクスピアカンパニー
あうるすぽっと(東京都)
2008/07/12 (土) ~ 2008/07/24 (木)公演終了
満足度★★★★★
「つながり」と、「赦す」ということ
世の中の人、全員がこれを観たら、世界は、もうちょっと、平和になるのだろうな、と、映画『リチャードを探して』の中の言葉を思い出しながら、そんなことを、思った。
年に一度のドリームチーム。本当に楽しませてもらいました。最高でした。来年も、必ず、観ます。
ネタバレBOX
社会から、つながりが失われてしまっている。あらゆるものが、つながりを失って、ばらばらになってしまっている。今では、つながっているのは、憎しみだけにみえてしまう。
シェイクスピアの時代(16〜17世紀)は、丁度、世界の転換期。中世と、近代の、過渡期のど真ん中だ。だから、シェイクスピアの作品は、中世の、人々が、世界が、神々が、ありとあらゆるものが繋がっている世界観と、近代の、今に通じる、人間中心的な、つながりを断ってゆこうとする世界観が、せめぎあう。
でも、基本、「世界は舞台」という考え方のシェイクスピアは、どちらかというと、やっぱり中世的な、神様も、世界も人も、繋がっている世界の方にシンパシーがある。「舞台」というキーワードで、世界が繋がっている。
山崎清介さんの演出は、その、「つながり」の部分を、非常にスタイリッシュに、分かり易く、取り出してくれる。研究してるなぁ、と、感動する。
ほとんどの俳優が、一人で、何役もこなす。メインのキャストを二役くらいと、端役と、黒子とを、同時にこなす。とっても、忙しい舞台なのだけれど、息がぴったりで、まったく忙しさを感じさせずに、洗練された美しさとともに、行われる。登場人物たちは、山崎さんの演出の上では、絶対に、ばらばらにならない。役者の身体を通して、手拍子のリズムを通して、舞台と、繋がっている。
それによって、とっても孤独なキャラクターも、一人の役者を通して、別のキャラクターになることで、不思議な、つながりが生まれるのだ。
例えば、今回。孤独な皇子、クロートン。原作では、憎しみを抱いたまま、何の救いもなく死んで行くだけの彼が、この演出によって、救われた、と思った。
クロートンの首なし死体を、ヒロインのイモージェンは、自分の恋人の死体だと勘違いして、嘆く。山崎さんは、ひとこと、死体に、「彼はまだ生きているよ」と、原作にはないセリフを語らせる。まず、つながりが、ひとつ。このセリフで、憎しみで凝り固まっていたクロートンの中に、赦しのかけらが、生じている。
直後、クロートン役の戸谷昌弘さんは、クロートンを殺した男の兄、行方不明の皇子として、登場する。殺す側と、殺される側が、戸谷さん(素晴らしい演技!)の軽快な入れ替わりで、鮮やかにつながるのである。
復讐が復讐を呼んで、複雑に絡まった物語は、最後、鮮やかに解きほぐされて、「赦し」の結末を迎える。クロートンを殺した真の皇子を、王は赦す。同時に、真の皇子は、自分を捨てた(ホントは違うけど、複雑なので、とりあえずこういうことにしときます)王を、赦す。このとき、殺された皇子と、殺した(側の)皇子を、同じ役者が演じていることで、あの、憎しみにこりかたまったまま殺されたクロートンも、赦し、赦されているように、僕には、見えた。
よどみのない、職人たちのパフォーマンスは、大人も子供も、観客全員を、繋げてしまう。近くの席で、小さな子達が、複雑な人間関係を、兄弟で、パンフを確認しながら、身を乗り出して、追っていた。女子中学生のグループが、帰りがけに、みんなで、手拍子を真似して、盛り上がっていた。
僕は、はじっこで、涙と鼻水で、ぐちょぐちょになっていた。
そうそう、来年は、『マクベス』みたいです。
Dial A Ghost
劇団うりんこ
四谷区民ホール(東京都)
2008/07/23 (水) ~ 2008/07/24 (木)公演終了
満足度★★
大人のほうを、向いている?
子どもの頃に観た演劇は、大人になった今でも覚えているもの。こういう、子どもを対象にした公演は、文化を支えるうえでも大事にしたい、と思う。
とかいって、僕は、全然、そんなことは考えずに、山崎清介さんの脚本/演出、ということで観に行った。
子どものための演劇には定評のある山崎さん。演出は、相変わらずスタイリッシュで、いいなぁ、と思う。物語も、案外深刻なものを含んでいて、単純ながら、おとなでも普通に観られる。
でも、まあ、大人の目線は、関係ないとこ、みちゃうもので……(いや、子どもはきっと、もっと良く見てるんだろうな)。
ネタバレBOX
劇団うりんこ、というのは、学校での公演をメインに活動している劇団だそうだ。歴史は長いらしい。すいません、知らなかった。見てみると、結構有名な作家を呼んで、公演を行ったりしている。
劇は、ふつうに、面白かった。山崎さんの演出で、みんな、メインの役のほかに、黒子と端役を行ったり来たり。移動する舞台装置をめいいっぱい使って、ダイナミックに、シンプルな構成。
ただ、ちょっと、役者さんたちは、かみ合ってなかったかも。みんな、自分のことに精一杯。山崎さんの演出は、全員のアンサンブルが大切なのに、自分、自分な熱さ。全体が見えていない。最後、主人公が、復讐に燃えて、敵と刺し違えようとする、という、子どもには、少し強烈な場面が。そこで、主人公、まさかの熱演。鬼気迫る殺意を発散させる。最後はハッピーエンドながら、あの、凄惨な殺意だけが、「殺してやる!」の熱演で突出してしまったのは、山崎さんの意図ではないと思う。
熱い。とにかく、熱いのである。冷静さが、失われている。それには、こんな理由があったのかもしれない。
チラシに、なんだか、「演劇教育を考える」系のセミナーみたいなのが多数。うむうむ、考えたほうがいい。そんな中に、「うりんこ」の、寄付金を懇願するパンフレットがあった。近年の、少子化や、行政の予算削減で、学校での公演の機会が減って、資金難だそうだ。芸術、文化のために、必死にがんばっているようだ。僕も、助けたい、と思った。のだけれど。
子どもたちのための、演劇を行うには、大人たちの協力がいる。それは、わかる。でも、そのために、必死に、大人に向かってアピールをしている様子が、少し、ひっかかった。
舞台が終了すると、役者さんたちが、ダッシュでホールの出口で迎えてくれる。子どもたちに、手を振ったりする。そこに、なにやら、偉げな大人たちが登場。「やあやあ、観たよ」「ああ、先生、ありがとうございます」と、全員、恐縮モード。出口が、ふさがる。みんな、周りが、見えていない。
子どもたちが、そのわきを、塞いでいる大人たちをくぐるようにして、けげんそうに通り過ぎて行く。手を振ってあげるものはいない。
子どもたちの方を向くという方法は、意識されていないように思えた。これまでは、それでも良かったかもしれない。しかし、これからの厳しい時代。無理矢理大人に連れて来られた子どもたちが、むしろ、もう一度観たいと思わなかったら、先行きは、暗いと思うのだけれど。
みんな、必死に、熱く、世の中のためにと思って、やっているのだろう。すごく、よくわかる。でも、そこには、「正しいこと」や「必死さ」への甘えがある。計算ずくの時代を相手にするには、それだと、少し、厳しい。もう少し、冷静さも、必要だ。演技にも、運営にも。
19時に開演して、終わるのは21時。子どもは、寝る時間なんじゃないかな、と思った(今は、そんなこと、ないのかな?)。
まほろば
新国立劇場
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2008/07/14 (月) ~ 2008/07/21 (月)公演終了
満足度★★★★★
まほろばという場と、やりとりへの切実さ
『鳥瞰図』『混じりあうこと、消えること』ときたシリーズ同時代も、とうとうこれで終わり。とっても寂しい。ものすごく充実したプログラムだった。
『まほろば』は、切実で、それでも、その切実さがどうしようもない笑いを誘う、女性たちの物語。僕ら男性が、なんだか、絶対に、立ち入ることができないような、そういう場が、世代を越えた女性たちの会話劇の中に、作られる。
観て、良かった。僕は、この劇の話を、誰かにしたくてしょうがないのです。
ネタバレBOX
たとえば、なにかを「コレクション」するのは、圧倒的に男性だそうである。山田五郎氏は、「男は子ども産めないからじゃないですかね」と言っていた。どこかで、僕ら男は、子どもを産むということに、何かで補完しようとするほどに、憧れを抱いているのかも。というわけで、男性が書いた、女性の妊娠/出産についての会話劇である。
全く無駄のない会話の応酬に、2時間弱があっという間。緻密な人間観察が生み出す、それぞれが人生に必死だからこそ生じる笑いに、とてもたくさん笑った。すごく、よくできた台本だと思った。また、会話の場で、しゃべっていない人物の表情やしぐさがとても細かくて、おかしくて、何重もの無言の言葉がしこまれているようだったけれど、これらは台本にないので、演出と、役者さんたちの力だろう。
世代や立場を越えて、女性達が、妊娠や出産に対する思いをぶつけ合う。人生がかかっていて、みな必死。やがて浮かび上がるのは、お互い、やりとりを欲しながら、どうしたらいいのかわからないもどかしさだ。どうやって相談したらいいのか、どういうアドバイスをしたらいいのか、わからない。立場の違いを意識してしまう。
これらを、端から見ているおばあちゃんと、11歳の女の子が、とりもつのである。彼女たちは、立場に頓着しない。それでいて、空気を読んでいないわけではなくて、実は、自分の立場しかわかっていない大人たちよりも、よほど冷静に、場をみつめているのである。
人同士のやりとりが希薄になっている世の中。それぞれの立場が多様化して、複雑になって、話しても、通じない、とあきらめてしまう。バラバラになってしまうようだけれど、「祭り」という「場」が、おばあちゃん(後期高齢者だ)や子どもという、立場を越えた人が、つなぎ止める、そんな可能性が、ここには示されていると思う。
可能性、というより、願望、かもしれない。まほろば、という理想郷の物語であってみれば。でも、人同士のやりとりに対する、切実な思いは、絶対にあって、そのために絶対に必要である言葉を、最大限に使って、表現する作家が、演出家が、役者さんたちが、ここにはいて、そこに、ほんの少しでも、希望を、見ようと思うのである。
妊娠/出産に、どこかで憧れる、男性が書いた劇なので、もっと色々、どろどろした部分なんかも、本当はあるのだろうと思う。でも、そういう部分を含めて、この劇は、やりとりを生み出す場をつくろうとしていると、思った。この劇を通じて、なにかを、やりとりしたくなるのである。
だから、僕は、この劇の話を、お母さんや恋人と、したいと、思った。
羊と兵隊
松竹
本多劇場(東京都)
2008/07/05 (土) ~ 2008/07/27 (日)公演終了
満足度★★
どこをみたらいいのかわからない
なんだろう、この、未消化感は。狙いかもしれなくて、僕の観方が悪かったのかもしれないけど、多分、この劇、失敗していると思う。役者さんたちはみんな良かったのだけれど、どこか、なにか、しっくりこない、と思った。
ネタバレBOX
失敗点はどこだったのか、考えてみる。
観客を呼ぶスターとして、作品の中心として、物語を救心していくのは、中村獅童、そして彼演じるところの「ルイ」だ。作品中の人間関係は、この「ルイ」という人物を中心に構築されている。みんな、この「ルイ」という人物に対して、なんらかの思いを抱いている。
さらに、仕掛けは凝っていて、この「ルイ」が、二人いるということになっている。表にいるのは、徴兵逃れのために用意された替え玉で、どうやら本物は、納屋の中に隠れているということが示唆される。
ここで、人間関係は、二重化する。各々が「ルイ」に対して抱いている感情が、表のルイに対してなのか、裏のルイに対してなのか。そこが、物語の進行の核として機能する。
ところが、ここで、問題が生じる。つまり、こういう構造が完成してしまうと、肝心の「ルイ」は、不在でも舞台が成り立ってしまうのである。つまり、「ルイの物語」ではなくて、「ルイを巡る物語」にあっては、「ルイ」は、物語の「機能」であって、そうなると、主役である必要はなくなってしまうのだ。
なんだか、デュマの『ダルタニャン物語』のラストの方に出てくる、鉄仮面を思い出した(あれも「ルイ」だし)。あれは、双子の片割れが鉄仮面をつけて幽閉されているという核を中心に展開する物語だったけれど、主役は、中心の周りを回る、四銃士たちだった。
物語は、獅童を無視するようにして展開してしまう。獅童は、舞台上にいても、ほとんど存在感がなくなってしまう。たとえ獅童が個人的な存在感を醸し出そうとも、物語上の存在感は希薄なのだから仕方がない。そして、実際、後半、替え玉のルイが出征してしまってからは、本物のルイの「不在」を巡る物語にシフトしていく。
こうなると、逆に、獅童の存在が邪魔にさえなってしまう。後半の、本物のルイは、なんのために舞台上に姿を表すのか、全く必然性がないと感じた。むしろ、彼が舞台に出てきてしまうために、彼の不在を巡る物語は破綻してしまう。だから、ラスト、強引にオチをつけて、無理矢理終わらせたような、そんな印象。
どうも、獅童の多面性を見せるために用意されたとおぼしき、この「二人のルイ」というアイデアに引っ張られてしまった感がある。このアイデアだけが一人歩きしてしまって、役者さんたちが一生懸命であればあるほど、どこかちぐはぐで、空回りして見える。結果的に、僕は、物語も、登場人物も、どこを、誰を、みたらいいのか、最後までわからなかった。
個人的に、田畑智子のファンなので、彼女のメイド姿を堪能した。特に、休憩後の彼女のコミカルなダンスは楽しかった。でも、僕は、それを観に来たわけじゃないのになぁ、とも思ってしまったのだった。
SISTERS
パルコ・プロデュース
PARCO劇場(東京都)
2008/07/05 (土) ~ 2008/08/03 (日)公演終了
満足度★★★★
じわじわと、潜っていく。
どうしてだろう。長塚圭史という人の、覚悟みたいなものを観た、という気がしている。責任を、引き受ける、そんな感じ。すごく面白かった。
ネタバレBOX
独特の、劇的なせりふまわしに、驚いた。「町に行け!」「町なんて退屈だわ」など、どこか、英米の翻訳劇チックないいまわし。今時のはやりを指向していないということを、はじめから表明しているのかな、と思う。
セットも、リアルなホテルの一室……にしては、随分しらじらしい、昔のホラー映画に出てきそうな感じ。壁から床にかけて、グワっとわざとらしく開いている大きな亀裂(こんなに目立つのに、作中、誰も、ひとことも、言及しない)も、はじめから、観念の世界を、現実に重ね合わせるという意図を表明しているかのようで。
そしてとどめの、松たか子の演技(凛とした佇まいに惚れ惚れします)。彼女の演じる馨は、非常にそらぞらしく、劇的な言葉を、淡々と、かくかくと、だからこそヘンに芝居がかってみえる、そんな演出。
こんな、どこか……いや、はっきりと、そらぞらしい状態が、結構つづく。ちょっと、つらい。観客が入り込むことをこばむ感じ。意図的に。それでいて、ことばの端々に、なんだか色々なことをほのめかすような部分があって、聞き逃せない。目より、耳を使って、聴く芝居。
これが、全部、じわじわと、土に水がしみこんでいくみたいに、少しずつ効いてくる。物語が、潜っていく。過去に、空間に。そして、観客にも。
前作『失われた時間を求めて』を観て、失敗だと思った。それは、日本という演劇の確固とした歴史のない国で、歴史が必要な、海外の不条理劇をふまえてしまったから。欧米の演劇には、しっかりとした伝統があって、いくつもの型がある。不条理劇は特に、ある種の型を前提にして、それをひっくり返す。型のない日本では、ひっくり返したいものが何なのか、全くわからなくなってしまう。でも、観ながら、長塚圭史さんは、欧米的な、伝統に基づいた型みたいなものを、歴史みたいなものを、求めているのか、と思った。
今作の、あの前半は、僕らに、歴史を植え付けようとしていたのか、と思った。歴史がないなら、作ってしまえと言わんばかりに。物語が潜っていくとき、まっすぐには潜らない。核心を、微妙に避けて、螺旋を描くみたいに、沈降していく。僕らは、前半、頭に焼き付けた、この物語の歴史を総動員して、自分たちで、核に迫らざるを得ない。絶対的な言葉はでてこない。でも、「一度言ったことをなかったことにするのは難しい」のだ。そこに、僕らの、劇作家への信頼は生まれる。なかったことにはしない、ということ。作家は、観客を信じている、と思った。応えよう、と思った。
歴史をふまえる、ということは、責任を引き受ける、ということだ。引き受けない人々と、必死に、逃げようとする自分を抑制しながら、正面切って対決しようとする馨の姿が、とても痛々しくて、でも、驚くほど、目をそらせなくて。僕は、この物語を、引き受けようと思った。そして、どうやら、自分の歴史を自分で作ることを覚悟したような作者の思いも、引き受けようと思った。
全部、気のせいかもしれないけど。
ローゼ・ベルント
燐光群
調布市せんがわ劇場(東京都)
2008/06/30 (月) ~ 2008/07/13 (日)公演終了
満足度★★★★
目を、見開かせる。
一年を象徴する漢字として、「偽」が選ばれたのは去年の暮れ。相変わらず、世界は「偽」に満ちている。
とはいえ、僕らはすぐに、慣れて、そして、忘れる。「偽」も、忘れる。でも、この演劇は、そうさせてくれない。無理矢理、僕らの目をこじ開ける。
世界を、見せる。僕らの目を、見開かせる。涙を流すひまもない緊張感で迫る。そんな舞台だった。
ネタバレBOX
ハウプトマンという人(ノーベル賞文学者)の、100年以上も前の作品を、坂手洋二さんは現代とつなげてしまった。舞台は精肉工場。日常的に偽装が行われていて、それが当たり前になっている世界。
工場で働く美しい娘ローゼは、工場を経営する社長と不倫している。彼女は聖職者との結婚が決まっているが、不倫関係を知った工場の技師にゆすられ、身体を要求される。嘘を嘘で塗り固める暮らしの果てに追いつめられたローゼの取った行動が、裁判沙汰に発展し、偽装に満ちた、食肉工場という世界そのものの破滅につながってしまう。
社長、その妻、技師、ローゼの父親。大人達の世界は、「偽」に覆われている。そして、それが当たり前すぎて、そのことに気づくことさえできない。
終わりの見えない泥沼の裁判の中、狂ったようになってしまったローゼをみながら、社長はいう。「ローゼは、私たちをみて、私たち(のような、嘘にまみれた大人たち)が当たり前の人間だと思い込んでしまったんだ。これは私たちの責任だ」と。これは、響いた。「偽」の世界を当たり前だと思って育つ子ども達の国は、どこへ向かうのか。
もとは、地主と小作人たちの物語だったという。設定を理解していない最初のうちは、いつの物語なのかわからなくてとまどってしまったけれど、いつの間にかどうしようもなく現代的な、そしてとても普遍的な物語が見えてくる。
簡素で抽象的な舞台装置が、僕ら観客に、比喩を読み解くことを暴力的に要求してくる。なにもない舞台を工場として見ようと、僕らの無意識がアナロジーを読み取ろうとがんばるうちに、それぞれの人物が、何を見ようとして、なにを見まいとしていたかが、見えてきてしまう。世界の裏の、見たくないものに、気づかされてしまう。それは、汚い世界を見まいとして、目を閉じようとするうちに、どんどん嘘に追いつめられていく、そんなローゼの苦しみと重なっていく。
ローゼ役の占部房子さんの、ラストの狂気は、共感すら受け付けないほど。美しくて、恐ろしくて、文字通り圧倒的。僕は、涙を流すことも許されない。演劇の持っている、暴力的な力に、ただ圧倒された2時間。
新設のせんがわ劇場は、狭い。椅子が、小さくて、固い。お尻が、痛い。長くて、休まるゆとりのない劇なので、ちょっとつらかった。