闇に咲く花 公演情報 こまつ座「闇に咲く花」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    近いところを思い出す、ということを続けるつらさを引き受ける
    僕たち日本人は、どういうわけか、「世界」に「進出」することを、脅迫的に追い求めながら、日本人であることを日々、忘れようとしている、世界的にも希有な人々だ。

    井上ひさしさんの仕事は、ほとんど全てが、僕らに、日本人であることを思い出させようとする試みであるような気がする。

    普通、こう書くと、歌舞伎とか落語とかの伝統芸能が出てきたり、日本語の美しさが出てきたりしそうだけれど、井上さんの場合、そういう、遠いところにはいかない。もっと、最近の話だとか、身近な話だとか、近いところの話をする。でも、僕らは、どういうわけか、井上さんの取り上げる、この「近いところ」だけを、意識的に、忘れようとしているようなふしがあって、その辺りだけが、空白のポケットのようになっているのに、そのことに、「意識的に」気づかないようにしているようなのである。

    ネタバレBOX

    僕たちは、物忘れの激しい時代を生きている。近いところの出来事を、すぐに忘れる。出来事がたくさんありすぎて、そうでないと、生きていけない。

    でも、井上さんの書く、牛木健太郎は言う。「父さん、ついこのあいだおこったことを忘れちゃだめだ、忘れたふりはなおいけない。過去の失敗を記憶していない人間の未来は暗い。なぜって同じ失敗をまた繰り返すにきまっているからね」

    健太郎は、C級戦犯としてグアムに連れて行かれた後は、処刑されることが分かっている。記憶喪失だった彼は、そのままなら、心神喪失状態ということで、軍事裁判を免れるはず。でも、彼は、あえて、思い出してしまう。無実の罪を、自身の記憶とともに、引き受ける。

    思い出すのは、ドストエフスキーの言葉だ。『作家の日記』のなかで、彼は、たとえば、精神の病を理由に罪を問わない、ということは、人間の蔑視である、という。倫理的存在としての自分を引き受けてこそ、はじめて、人間は、人間たりうるのである、というのだ。「罪に問わない」ということは、相手を、人間として扱っていないから、人権を無視している、ということだろう。

    同様に、ワインシュトックという西洋の学者の『ヒューマニズムの悲劇』という本には、「人間は、常に相続人である」というギリシャ時代の言葉が引かれている。人間は、過去を引き受けて初めて人間なのだという考えが、西洋では伝統的で、そこから、「人権」という思想が生まれているのだ。

    だが、僕たちは、あらゆることを、引き受けることを、嫌がる。自分がやったことではないことを、なぜ自分が引き継がなければならないのか、というのが、僕らの基本的なスタンスだ。ついには、日本人であることそのものを、都合よく、捨て去ろうとする。

    『闇の中の花』は、そういう僕らに、厳しく、でも優しく、僕らが自動的に引き受けているはずの、それでいながら僕らの知らない、「ついこのあいだ」の日本を、思い出させてくれる。きっと、僕は、また、そうしないように思っていても、忘れそうになってしまうことだろう。でも、そのときには、またこまつ座が、思い出させてくれると思う。

    僕は、井上さんとこまつ座と一緒に、近いところを思い出す、ということを、思い出す。それは、情報の世界で、「世界」に進出しようとすると、忘れたくなるものかもしれない。つらいことだ。でも、そのことを引き受けて、初めて、きっと、僕らは、日本人以前に、「人間」という概念について、あらためて考えることができるように、なるのだと思う。

    0

    2008/08/18 18:38

    0

    0

このページのQRコードです。

拡大