すてるたび(公演終了)
五反田団
アトリエヘリコプター(東京都)
2008/11/15 (土) ~ 2008/11/25 (火)公演終了
満足度★★★
すてきれなかった名前
すてるたびを観ていると、なんだか、世界が、白紙に戻って行くような感じがする。
なぞなぞに、「じぶんのものなのに、たにんのほうがよくつかうもの、なーんだ」というのがあって、答えは、「なまえ」なんだけど、これが、幼稚園のころ、すごく不思議で、怖かった。すてるたびの向かう世界は、「なまえ」が不思議で怖いものだった、ちいさなころの自分がみていた世界に、どんどん帰っていくみたい。
ネタバレBOX
なんにもない空間に、パイプイスが四脚あるだけ。これを、どんどん動かして、空間が、いろいろな場面に、次々に変わっていく。それは、パッとかわるのではなくて、だまし船でだまされたみたいに、いつのまにか、ずれている、という感じに、変容していく。
男の部屋が、葬儀場になって、電車の車内になって、神社になって、穴の通路になって、洞窟になって。イスの動きだけで、場面が、これだけかわる。ナマで観ると、ほんとうにすごい。
また、それら、変化する場面で、四人の人物たちが、「タロ」という生きものらしいものを、扱う。これも、なにもないのに、四人の動きだけで、そこにいるように見える、不思議な生きものだ。犬だったり、死んだお父さんだったり、タロの実体は、よくわからない。定まらない。でも、それが、そこにあるようにみえる。
この、定まらない世界を観るのは、なぜか、ものすごく気持ちがいい。自分が、ほぐれていく気がする。いつも、イスをイスとしてみようとしたり、犬を犬としてみようとしたり、そういう仕方で世界を見ている僕らにとって、この、名前をつけようとすると、すり抜けていくような、ゆるやかな世界は、とても自由なものに思えるのかもしれない。
小さい頃の自分は、名前を、あんまり持っていない。とっても自由な世界だ。ものごとの境界線はとってもあいまいで、全部がつながっている。名前は、力で、名前が与えられると、そのものは、そのものでしかなくなり、安定するが、他のものである可能性は、うばわれる。
すてるたびの世界だけではない、前田司郎が描く世界は、一様に、こういう、ものごとの境界線を、すこしずつほどいて、世界を、名付けられる前の状態に近づけてていこうとする、たびみたいだ。名前をつけることで、あたらしいものやことが生まれるとしたら、この舞台は、すべてが、生まれる前の世界を目指している。どんどん、はじまりに還っていく。
還りついた先には、なにがあるのか。残念ながら、今回、すてるたびでは、わからなかった。というのも、この、白紙に還る、名前の呪縛から逃れていくような流れは、途中で、断ち切られてしまったからだ。
それは、温泉の場面。洞窟の中にいたはずの主人公は、いつの間にか温泉宿の露天風呂に、兄と一緒に浸かっている。そこへ、女性たちの声が聞こえてくる。まずい、隠れよう。二人は、ぴたっと、動きを止める。入ってきた女性たちは、彼らに気づかない。そして、ひとりが、しゃがんだ兄を指差して、「カエル」と言う。この瞬間。
僕には、しゃがんだ兄が、前田司郎にしか見えなかった。ここには、他の場面では、非常に注意深く用意されている、イメージの下準備がなされておらず、身体的な動きも、なかった。だから、僕は、「これはカエルですよ」という、女性の、言葉による説明を聞いて、しかたなく、前田司郎を、「カエル」としてみることを、承諾した。
「前田司郎だったものが、そうでなくなる」のではなくて、ここでは、前田司郎が、「カエル」と名付けられる。そして、その瞬間、僕は、名前によって、びっしりと支配された、現実の世界に、戻ってきてしまった。夢から、醒めてしまった。それ以降、かなりの間、夢がもどってくることは、なかった。
最後、四人は、「お父さん」の棺を、海に流す。でも、流れていかない。捨てきれない。すてるたびが、名付けをほどく、「名前」を捨てるたびだとしたら、それは、捨てきれなかった。それだけ、名前の、言葉の、支配は、強かったということかもしれない。前田司郎は、一瞬、気がゆるんだのか、名付けの権力を、ふるってしまった。
もし、流れが断ち切られずに、ほどけつづけて、なにもかもがほどけてしまったら、舞台は、どこへ向かったろうか。観てみたかった。少し、怖いのだけれど。
友達
世田谷パブリックシアター
シアタートラム(東京都)
2008/11/11 (火) ~ 2008/11/24 (月)公演終了
満足度★★★★★
権力でも、解釈でもない演出
「他人の作品を、作者以外の人間が演出するという制度がある理由がわからない」とかつて語っていた岡田利規が、他人の作品を演出する日がやってきた。
もう、どきどきわくわく。
蓋を開けてみれば、彼は、今回、演出家というより、振付け師のような立場で作ったみたいにみえる。そして、そこには、ものすごく知的な戦略があるみたいにみえる。ああ、すごいなぁ。演劇とはなんだろう、文学とはなんだろうと、考えずにはいられない。頭と身体がうずいてたまらない作品だった。2回観たけど、もう一回くらい観たい。
ネタバレBOX
別役実は「演劇における言語機能について 安部公房<友達>より」という評論(1970)で、「友達」について、ものすごく細かく分析していて、岡田利規の今回の演出は、この文章を出発点にしているという。
この約100ページの文章から、誤解を怖れずに無理矢理必要な部分を取り出すと、次のようになる。
・不条理演劇とは、日常的状況と極限的状況が併存するなかに、役者の実存をかいま見るという手法である。<友達>は、不条理演劇といえる
・ <友達>は、この「極限的状況」の作りが、不徹底である。つまり、男の家に侵入し、暴力を加える家族が、それを「善意」で行うところに極限的状況があるのに、家族のせりふには、それが「善意」であるとは思われないようなものが混じっている。
つまり、「友達」には、特に、登場する「家族」のキャラクターにおいて、ブレがある、というのだ。彼らの暴力は、徹底的に善意であったほうが、より効果的だ、そのほうが、不条理演劇として、わかりやすいというのである。
さて、岡田利規は、この批判にたいして、<友達>のブレを極限まで大きくすることによって、演劇そのものを極限的状況にしてしまったのではないか、と思う。つまり、別役実のいう「わかりやすい」ものではなく、逆に、徹底的に「わからない」ものを目指すことによって、演劇を観るという体験そのものを、極限的状況にしてしまったのではないか、と思う。
岡田は、プログラムで、「これは、暴力についての作品です」と、テーマをバラしたうえで、「できれば、テーマ以外のところをみてください」と断りをいれている。つまり、あらかじめ、舞台が、意味として論理的に捉えられることを、避けている。
さらに、岡田演出は、観客の目を、作者安部公房の意図とは違うところに持って行く。これが、とっても面白い。たとえば、謎の家族に突然自分の家を占拠された男が、警察を呼ぶシーン。舞台上では、警官と男と家族のやりとりがつづくのに、なぜかスポットライトは、全然せりふのない、中年のさえないおばさんである、この家の管理人に当たり続ける(客席からは、笑いが起こる)。たとえば、なぜかカラダをグニャグニャさせながら、ものすごい体勢でせりふをしゃべる「家族」の父親。なぜこのせりふを、逆立ちしながらいうの? 父親の身体のすごさに目がいってしまう。
つまり、戯曲の持つ「物語/言語」という、論理的なテーマに、岡田は、そうではない、たとえば身体のような、非論理的なものを、相反するものとして、併存させる。そして、そのとき、その向こうに、何かが浮かび上がる。この「何か」とはなんだろう。言葉にしてしまったら、演劇は終わってしまうのだろうけど、考えさせられる。
演劇は、言葉(戯曲)と、身体(役者)が、同時に併存して、初めて完成する。通常、演出家は、戯曲の言葉を優先させる。つまり、演出は、戯曲の言葉を補強するために、つけられる。言葉という論理が上位という関係が、暗黙のうちに前提となる。
ところが、今回の岡田演出は、言葉と身体に、優劣がないし、ふたつがぶつかりあうこともない。演出が、常に、戯曲の意味に、ゆるやかに疑問を投げかけ続ける。なぜここで、その演出なの? と。演出は、むしろ身体という、非論理の部分に、スポットを当てつづけるが、それは、言語を意識しつつ、変幻自在に行われる。だから、戯曲の側からも、演出に対して、常に、疑問が投げかけられるという、不思議な関係が生じている。
ここがすごい。最近の演出家には、言葉か身体、どちらかを、一方的に優先させる人はたくさんいるけど、なかなか、同時に、可変的に扱うことは、できていないと思う。岡田は、どちらかに権力が偏ることを、徹底的に避けている。言葉と身体は、一瞬ごとに、ぐにゃぐにゃと関係を変化させる。これは、普段の演劇の観方をしている僕ら観客を、相当に戸惑わせる。普段の演劇は、演出か、戯曲、どちらかの側に、権力があって、観客は、権力の側に寄り添いながら観れば、それでことたりるのだ。僕らは、演出と戯曲が併存する舞台をみて、どこを観たらいいのか、どういうふうに「把握」したらいいのか、わからなくさせられる。そして、たぶん、そこに、この演劇の目的がある。
「関係性」を把握させないようにという岡田の意志は徹底していて、たとえば、役者が、つねに観客をみて、観客を十分に意識していることをアピールしつつ、演じるという、独特のあり方も、観客と役者という関係を、ゆさぶっていたりすると思う。
だけど、なんとなく、こういう、極限的状況のもとで、論理という権力から逃れるという構図は、安部公房の基本的なテーマでもある、という気がする。「友達」でも、男が、犬になるシーンがあって、ここは、論理を越える、すごく面白い場面だと思う。そして、岡田は、そういう、安部公房が、はじめから持っていた、論理にたいする、ゆさぶりかけるような力を、増幅して、大きくしたのだという見方もできるかもしれない。
こんなふうにたくさん言葉を費やして語ってみても、極限的状況である、この舞台の、体験としての魅力は全然伝えきれていない。レビューは、言葉しか使えないので、もどかしい。カラダが、うずうずする。頭が、燃える。それは、演劇というより、なにか別の、新しいものを見せられたことによって、僕のカラダが、普段の理性を越えたなにかを芽生えさせているということだったら、面白いのに。
人間の、理性の檻から、逃れたい、と思った。
ワオーーーーーーーーーーーーーーーーーン。
いつか見る青い空
弘前劇場
シアターグリーン BIG TREE THEATER(東京都)
2008/11/07 (金) ~ 2008/11/09 (日)公演終了
満足度★★★★
青い空はいつか
深くて、怖い、作品だった。
東京って、なんだろう。そんなことは、普段、あまり考えない。僕には、当たり前に、東京は東京で、それを、単純に、「現代」だと思っていたふしがある。それが、弘前劇場の新作を観て、ぼろぼろに崩れてしまった。東京=現代では、決してない。そう知ることが、怖いことだということさえも、僕は、これまで、知らなかったのだった。
ネタバレBOX
禅寺で、座禅を組む人の後ろ姿が見える。ぴくりとも動かない。線香の煙だけが動く、静かな空間。なんだか、静粛な面持ちで、みんな、開演を待つ。
開演。いったん暗転して、パッと明かりがつくと、一人の男が、もう一人を、長ドスで刺している。血がたれている。本物の液体がしたたる音が、ぽたりぽたりと、聞こえる、静寂の中の暴力に、圧倒される。よく見ると、ドスは、すんでのところで、受け止められている。刺さってはいない。
「左手は、もう使い物にならないだろうね」
「すいません」
その後のやりとりで、これは、殺された親の仇うちだ、とわかる。静かに、このシーンは終わって、また、もとの禅寺に戻る。そして、その後につづく物語は、実に平和な、禅寺に集まるひとびとの、日常生活の様子なのだ。
観客として僕は、このギャップに、くらくらする。あまりにも強烈に焼き付いた冒頭の暴力がこびりついているもんだから、日常生活のシーンを観ていても、その底に、死の匂いを捜してしまう。そして、それは、せりふの端々に、小道具の中に、役者の表情の影に、周到に、配置されている。折しも仇うちに失敗して逃げていた若者が東京から帰ってくる。
若者は、ごくごく普通に、みんなと接する。殺し損ねた仇とも、普通に接する。暴力の影は、表面上は、みじんも見せない。当然、周囲の人々も、生活している以上、みな、悩みを持っている。実はガンだったり、実は妊娠していたり、それでも、それらの、どうしたって避けることはできないものと、みんな、しっかり向き合っている。だから禅寺に座禅を組みにくる。そして、悩みは当たり前のものなので、特に表に出したりしないのだ。
舞台は、その後、日常生活のさなか、青年の仇うちが再び実行され、ドスが突き刺さる一瞬、研ぎすまされた暴力を、両手を広げて受け入れる、仇の男のシーンで、瞬間的に終わる。
つまり、この作品は、とてつもなく強烈な暴力を、冒頭と末尾に配置して、強固な枠組みを、作っている。平穏にみえる日常は、この暴力の枠内で行われるにすぎないのだ。
枠として、悩みの究極、不条理そのものとしての生死の問題が暗示されているので、その中で行われる日常が、普通のものであればあるほど、人間を捉えてはなさない不条理な部分が浮かび上がってくる。逆にまた、生死を意識しつつ見る日常は、特別にはっきりと映る。さらに、はっきりとしたスジがないだけに、登場人物としての役を越えて、演じている役者そのものが、人間として、浮かび上がる。そうなるように、作られている。
さて、ここで、「東京」が浮かび上がる。僕は、長谷川孝治関連の舞台は、これでたったの三回目。なのに、弘前劇場の役者たちが、名前からなにまで、しっかりと頭に残っている。僕が東京で舞台を観始めたのは最近だけど、観始めのころ、役者を覚えることの難しさにびっくりした(今もあんまりかわってないけど)。同じ劇団でも、公演ごとに役者は全然違うし、見るたびに印象がすごく違ったりして、捉えるには、努力がいるのだった。東京の舞台は、誰がやっても大丈夫なようにできていて、つまり交換可能で、役者たちも、演じるものとして、できるだけニュートラルになろうとしているのかもしれない。役をプログラムとして、その都度インストールするように。
あまりにも流れの速い世界に、即時対応するべく、なるべく、ノイズのもとになる「自分」が固定化しないように、ニュートラルを保つ。それは、東京で生きる、僕の生活そのものなのだった。そして、弘前劇場の、青森という土地の、「自分」を受け入れて生きる世界が、空よりも、地面を見ることを受け入れる姿が、うらやましく感じた。
だが、同時に、この作品は、その、人間としての「自分」みたいなものを、どこか、「逃れられないもの」として捉えており、そのうえで、その「自分」からの「逃れられなさ」に対する、無抵抗のもがきのように描いているような気がする。タイトルには、そんな思いが込められているんじゃないかな、と思う。
ガンにおかされた魚屋さんと、禅寺の次女との禅問答のシーンがある。次女の答えが観念的になると、魚屋さんは、「それは形而上」とたしなめる。魚屋さんは、自己の肉体に、つまり形而下にとどまるように説いているのだけど、そのように、形而下が志向されればされるほど、逆に、形而上への、あこがれのようなものを感じてしまう。そしてそれは、肉体を、形而下を、「牢獄」と表現したプラトンみたい。肉体を、自分自身を、必死で受け入れようとする姿は、逆に、肉体(自分の根付いた、土地の比喩でもあるだろう)への嫌悪、受け入れようと努力しなければ受け入れられないという思いを感じさせるのだった。
だが、東京で、僕が行う、自分を、ノイズと捉え、ニュートラルにしようとする、その作業も、果たして、自ら進んで、望んで、そうしているのだろうか。当たり前に行っていることが、あまりにもゆるぎない「自分」を見せる舞台の前で、今、揺らぎ始めてしまっている。
トランス
中野成樹+フランケンズ
【閉館】江古田ストアハウス(東京都)
2008/11/05 (水) ~ 2008/11/06 (木)公演終了
希望ではない演劇
5年くらい、となり町に住んでいたことがあるのに、江古田の町は初めて。なんだか、下北沢みたいな、雑多な感じの駅前。劇場はどこ? とさがすと、なんと、八百屋さんの上に。わりと見つけにくいところに案内が。でも、ちょっと、楽しくなる。
なんだか、演劇が、ひっそりと、生活にまぎれこんでいる感じがした。
多田淳之介さんは、有名人。ファンも多いみたい。僕の後ろの席に陣取った、演劇人らしき人々も、「多田さん、カッコいい」という話をしていた。パフォーマンストークのゲストとして、何度も見かけたけど、演出をみるのは初めて。ここでのレビューなんかをみると、かなりアグレッシブなことをする人みたい。
舞台は、真っ暗。雑居ビルの一室にしては結構広くて、がらーんとしているのは、セットもなにもない空間だから。
席について、開演を待つ間、みんな、熱心に、字がびっしりの冊子を読んでいる。なんだ? と思っていると、それは、多田さん主催の東京デスロックの、次回公演のチラシ。思うところがあって、東京デスロックは、次回公演で、東京での公演を休止するとある。そして、次回公演の予備知識として、ひとつ、評論が、全文掲載されているのだ。小さい字で、びっしり。みんな、これを読んでいたのだ。
東京公演を休止とは、残念。デスロック、観たことなかったから。そして、多田さんという人は、なんだかストイックだな、と思った。周囲を振り切って、走る、そういう才能を持った人なのだろう、とも。
それは、今回の「トランス」を観終わった今、とても感じることだ。なんだか、ストイックで、観客を振り切って、独走。もがいて、苦しんでいるような舞台だったのだ。
ネタバレBOX
開演前に、多田さんが出てきて、「トランス」の物語を説明する。
これが、身もふたもない説明。「……というシュールな設定の作品で」というところで、笑いが起こる。「……というどんでん返しがあって」「……という、さらなるどんでん返しがあって」と、どんどんネタバレして、「……となって、みんな、なんとなく、いい話をして終わる、そういう話を、いまからやりまーす(チェルフィッチュみたい)」と終わる。
つまり、「トランス」を知らない僕のようなものへの配慮なのだろう。そして、この舞台は、物語の面白さを追求しない、ということの表明でもある。これは、形式をみせる、演出をみせる舞台。僕らは、そういう条件付けをされて、舞台の世界に向き合わされる。
作品そのものも、誰かの、語り、という構造。「93年の作品なので、それを考慮して下さい」という、多田さんの解説があったけど、それにしては、今風だ。
役者は、パジャマに、目隠し。手探りで、よろよろと、歩く。台詞は、抑揚のない、機械的なもの。客席と、舞台との温度差が、じっくりと準備されて、観客は、最後まで、観察者として、舞台の、作品の、批評をさせられる感じ。重苦しい雰囲気に、客席はよどむ。
中盤あたりから、4人の役者たちは、3人の登場人物を、入れ替わり始める。この入れ替わりは、結構唐突で、しかも、二人の会話を一人で、棒読みでやったりするので、区別がつきにくい。あえて、そうしているような感じ。とことん、わかりにくい。僕は、あらかじめ教えられたあらすじをたよりに、力なく、見つめるのみだ。
多重人格者の治療のはずが、実は、医者が患者で、患者が医者だった、というのが、説明されたどんでん返し。そして、さらに、もう一人が、実は医者だった、と告白する、さらなるどんでん返しも。
これが、不気味に、演じられる。誰かが、「実は私が医者です」というようなことをいうと、もう一人が、「でも、それは妄想です。実は私が医者です」。するとさらにもう一人が、「でも、それは妄想です。実は……」。終わることのない、妄想のスパイラル。みんな、必死に、でも抑揚なく、目隠しで、声をからして、叫ぶ。異様。
そして、「いい話」。「でも、あなたが私を必要としていることは、真実です」とか、そういうもの。とても空っぽなものとして、見せられる。役者の声をかき消すような、大音量の音楽(空虚なJポップの不気味な寄せ集め)が止まって、暗転の後、明るくなって、目隠しをとって、幕。
なんだったのか。やっと終わった、という安堵の思いがあった。解放されたような感覚。脱力感。無力感。
最新の流行の形式が、93年に流行した演劇の形を借りて、痛烈に批判されている、そんなふうに感じた。そして、それだけではなくて、なんだか、演劇そのものに対する、無力感みたいなものを、感じた。目隠しされて、真実がなにかわからないまま、必要としてくれるものだけを信じてすすむ、役者たちが、演劇そのものみたいに(今、後付けだけど)、映る。
僕は、もともと、小説とか、詩とかが好きだった。でも、なんだか、あちらの世界は、今、どうしようもない閉塞感に苦しんでいる。そして、演劇の世界から来た人たち(前田司郎とか本谷有希子とか岡田利規とか)が、そんな世界の希望として映った。演劇の世界には、まだまだ可能性があると、盲目的に、信じていた。
でも、ずっと演劇の世界にいる人たちから見れば、そんな演劇の世界にも、ある種の絶望を感じることもあるかもしれない。
今、演劇界は、なんだか、お祭りのような感じ。演劇そのものの可能性を疑う人は、少数派だろう(自分の可能性を疑う人は多いけど)。そんな中、多田さんのストイックな、演劇そのものに対する無力感は、熱にうかされた演劇への、鋭い批評として、重要かも。周囲の狂騒を振り切って、ずっと先のほうをみているみたいだ。
その分、多田さんによって、観客としての僕らには、結構多くのものが求められている、あるいは、(あきらめて)求められないでいるのかもしれない。
今回は、かなり、きびしく、苦しく、つらい、観劇だった。気休めの希望は、与えられない。うすっぺらなJポップにも負けてしまうような、演劇というものは、そもそも何なのか。そんなことを、知らないうちに、考えさせられる、舞台だった。
<追記>
他の方々のレビューを読ませていただき、血の気が引いた。なるほど、最後に役者たちが目隠しを取って、目をしばたたいているところに、希望のかけらをみることもできたのか、と。
僕は、舞台よりも、自分ばかりをみてしまっていて、舞台にこめられているものよりも、自分が先に(目の前の舞台を観る苦しさから)解放されてしまい、それで、安心してしまっていたのかも。
まだまだ、正面から、舞台と向き合うことが、できていない証拠。目が覚める思いがした。それだけ、この舞台が、真摯な姿勢で作られているということだと、思った。
(満足度の評価は、留保させていただきました。)
幸せ最高ありがとうマジで!
パルコ・プロデュース
PARCO劇場(東京都)
2008/10/21 (火) ~ 2008/11/09 (日)公演終了
満足度★★★
パワーなき不条理
本谷有希子は、時代の声を代弁する巫女みたいな気がする。
で、僕は、今回の公演は、物足りなかった。パワーが無かった。ということは、それは、時代のパワーが、不足しているのかも。そんなことを思った。
ネタバレBOX
自分を、独自の論理で縛ることで根拠づけている人々が、お互いの存在理由をかけて、相手の論理と命がけで戦う世界。本谷の本は、いつも、同じような構造の、閉じた世界を描く。
今回も、永作演じる女は、世界に理由なんてないことを証明しようと、「無差別テロ」と称して、全く無関係の家庭を崩壊させようと、戦いを挑む。
精神科医から逃れた脱獄囚が、世界の無意味を証明するために無差別殺人をくり返す、1950年代アメリカの女流作家、フラナリー・オコナーの短篇小説を思い出す。こういう不条理を訴える話は、聖書にも出てくるし、普遍的な力を持つのだろう。
本谷は、一貫して、不条理を体現する女を描き続けているといえるけど、最近の本谷の描く、この手の女たちは、みな、どこか、パワーが弱い。
今回の永作も、最後は、「理由」がすべてという論理のウソを暴くはずだった自分が、実は、論理的に、不条理を証明するという論理の中にとらわれていることに気づいてしまって、バカの下流家族に敗北してしまう。
作品は、どこか、意味の迷宮を突き抜けることができず、論理にとらわれたまま、終わってしまう。すると、本谷の世界は、閉じたまま、現実の世界に触れることなく、お話として、消化されてしまう。心に、ひっかからない。
僕には、それが、物足りなく思えてしまったのだけど、どうだろう。本谷の作品がパワーを持つときは、不条理を体現する者が、独自の、破綻した論理を貫き通すことで、まっとうな論理を無化してしまう。そのエネルギーに、僕らは、論理を越えた、人の、得体の知れなさをみて、おののく。
一応今回は、バカの家族が、インテリ永作の理論を「バカの論理」で無化してしまうが、この「バカの論理」も、どこか、独自のものではない、規格の匂いを感じさせてしまう、弱いもの。「大きい声をあげた方が真実になる」というこの論理。なんだか、必要以上に、時代の声を取り入れてしまっているようなかんじがするのだ。
時代の申し子のような本谷が、パワーある不条理を描けない。ということは、時代が、不条理を生み出す力を失うほどに、弱っているのかもしれない。
舞台では、結構笑ったけど、そう思うと、僕は、しんみりしてしまった。理由のある、哀しい、弱い、笑いだった。
ハイバイ オムニ出す(チケット売り切れましたが特別追加公演やります。)
ハイバイ
リトルモア地下(東京都)
2008/10/19 (日) ~ 2008/11/05 (水)公演終了
満足度★★★★
お腹で観るフランス
ハイバイのオムニバス公演、二日目は、「常/いつもの」と「仏/フランス」の二本立て。
これがまた、とんでもなく強烈だった。
ネタバレBOX
強烈。いまだに、お腹(腸の辺)で、凝縮された、無駄に高い栄養価が、消化されずに暴れ回っているみたい。うう……苦しい。ああ、でもまた食べたい。
「フランス」は、タイトル変わって「コンビニュ—あるいは謝罪について」。もともと岩井秀人が他劇団に書いた本らしいけど、これ、物語、ほとんどなし。自分のミスを謝らないコンビニ店員に対して、「あやまってよ」「あやまりませんよ」と、ひたすらやりあう。それだけ。どこまでもミクロな物語……というか、話。
基本、ふたりしかいないのに、俳優は四人。これを、フランス人、ヤン・アレグレ氏の演出法をまねて、使っていい表現手段の縛りを与えたら、あとはアウトラインだけ決めて、ほぼ俳優まかせに作ってもらったのだそうな。
すると、俳優たちは、あまっている人は、感情を表現したり、雨を表現したり、コンビニのカウンターになったり、タバコになったり、入れ替わり立ち替わり、なにかを必死に表現する。これが、必死なのだけれど、伝わると伝わらないとの間のラインを、スレスレ、行ったり来たりする。
これが、奇跡的に面白いのは、「あやまってよ」と「あやまりませんよ」という、コミュニケーションのずれをあつかう物語が、表現手段を限定された俳優たちと、分かろうとする観客たちとのずれと相まって、どんどん、勝手にぶれ幅が大きくなっていくところ。
最後、俳優たちは、白いボードに筆で、地球みたいなテキトーな絵を描いて、ふわふわピョンピョン。この辺りで、舞台と客席との間をつなぐ、コミュニケーションの糸は、極限までのびきっていて、伝えようとするベクトルと、分かろうとするベクトルが、ものすごい勢いですれちがう。
実は、これは、アフタートークによると、「観察」と「宇宙」という条件で縛られていたらしい。そんなのわかるかい。わからなくていい。すれ違う、その瞬間、それこそが、この舞台なんだと、感じる。
それは、物語のうえで、「寿司ネタ」として表現される「あやまってよ」と、「シャリ」として表現される「あやまりませんよ」の、宇宙規模のすれちがいそのもの、という気がする。すれちがうやりとりが、手を替え品を替え、まさに体感させられる。
きっと、観た人全員、ひとつひとつ、違うものを観たような気がしているのではなかろうか。つまり、舞台上で行われているのは、種とか、卵とか、そういうもので、何か方向性だけがしっかりあって、目的地の輪郭だけがぼんやり見えているから、観ているこちらも、もやもやうずうずするのだろう。なにが出てくるか、もしくは出てこないかは、ひとりひとりにゆだねられているのだ。
これは、頭や目を使って観るものというより、お腹を使って観るものという気がする。それは、ひきこもっている間の、自分のポテンシャルの影がお腹で暴れる感覚と似ていて、ハイバイの、根幹を、成している気がする。
ハイバイ オムニ出す(チケット売り切れましたが特別追加公演やります。)
ハイバイ
リトルモア地下(東京都)
2008/10/19 (日) ~ 2008/11/05 (水)公演終了
満足度★★★★
ねじれ、よじれる、可能性。
ハイバイの新作は、4つのジャンルのオムニバス。初日は、4つの中から、「SF」と「落語」。これが、とっても面白かった。
ネタバレBOX
オムニバス上演、最近、やたらと目にする形。それらの多くは、「手軽さ」をウリ、目的としているみたい。今回のハイバイの『オム二出す』も、お手軽で、とても初心者に優しいものになっている。でも、もちろん、それだけじゃない。僕は、オムニバス形式って、ハイバイのエッセンスそのものという気がする。
オムニバスという上演形式が、これほどしっくりくる劇団もないのじゃないか。ハイバイの作品は、いつも、一つの作品でも、なんだか、いくつもの作品を同時に観たような気になるのだ。
さて、初日に観た2作品だけれど、やっぱり、ハイバイらしいのは、「落語/男の旅—なつこ編」だと思う。
物語そのものは、とっても単純。三人の若者が、フーゾクへ。三者三様のフーゾク模様。役者さんは、一人で、その場の何人かを、落語よろしく、同時に演じる。時には、二人で四人を演じたり、三人で四人を演じたり、変則的なことも。
ホンモノの落語と違って、演じるので、一人をちょっと演じて、無言で場所を移って、もう一人を演じる。これで、例えば、ひとりでセックスしてる二人を、やったりする。爆笑をさそいながら、同時に、物語に、微妙なズレが生じる。つまり、役者さんが、役を入れかわるタイムラグが、物語そのもののズレと、まったりと重なっていて、最後は、一瞬、物語が、完全に二つに分岐してしまう。
これは、ちょっと、わかりにくい。観ていて、爆笑しながらも、気を抜くと、すぐに置いていかれそうになってしまう。そしてそれこそが、ハイバイの魅力のひとつだと、僕は思う。
ハイバイの作品は、けっこう、構造が複雑で入り組んでいる。それは、表面上の物語が単純にみえるだけに、いっそう不気味に、ぼんやりと、浮かび上がる。まっすぐには進まない。たとえば、小刻みな反復をくり返す。それは、同じことをくり返しているはずなのに、微妙なズレを生み出したりする。
そうするうちに、ひとつの物語……というより、「話」が、観ている僕の頭のなかで、どんどん勝手に分岐して、なんだか、無数の可能性そのものみたいにみえてくる。道は、ねじれよじれて、迷路みたい。ひとつの入り口が、たくさんの出口につながっている。
それは、なにやら、人、そのものに、触れている気がする。僕のカラダの底にある、敏感な所に、ぴとっとふれる。
僕にとって、それは、あまり気持ちのいいものではない。やめてよ、というほうが、どちらかというと強い。でも、それなのに、ハイバイの舞台を、とても楽しみに観てしまう。ハイバイは、観客をも、ねじれ、よじれ、させるのかもしれなくて、それは、気持ち悪くて、気持ちよいのかも、そんなふうにしか、いえない気がした。
どんとゆけ
渡辺源四郎商店
こまばアゴラ劇場(東京都)
2008/10/16 (木) ~ 2008/10/19 (日)公演終了
満足度★★★★
娯楽の責任?
非常によく考えられて、効果が緻密に計算された脚本、美術。
しっかりと、安定した演技。
笑いながら、じっくり、重いテーマに向き合うことができる、希有なお芝居に、嬉しくなる。こんな芝居を観たかった!
ネタバレBOX
裁判員制度が、もうすぐ、はじまる。人を裁くことの責任が、ますますみえにくくなる。でも、それは、国だけの責任ではないと思う。僕ら、国民も、常に、あらゆる責任から無関係でいようとしていて、それが、まわりまわって、国の責任放棄を招いているのだろう。
「死刑」は、一応、国民国家の、一番大切な主権のひとつである。人を、合法的に殺す権利は、近代法のうえでは、国家にしかないのだ。でも、その権利にともなう責任を、国民が引き受けなければならないとしたら。
さて、『どんとゆけ』(Don't you kill は、津軽弁でこう聞こえるとのこと)の日本では、これがさらにエスカレートして、犯罪被害者や遺族が、犯罪者の絞首刑を、実際に行うことができるという、「死刑執行員制度」というものが存在する。
「ロープはどうなさいますか」
「持ってきました」
「おそれいります」
淡々と、被害者の妻と、義父は、作業を進める。ロープは、亡くなった義母が、一針一針縫ったもの。だが、この被害者の若い妻と、彼女の将来を案じる義父との間には、犯人を殺すことに対して温度差があって、それが、物語を牽引していく。
死刑とは、なにか。前法務大臣の、死刑執行のサインに対する批判をめぐる問題は記憶に新しい。ひとを殺すことの責任について、ゆっくり、じっくり、僕ら観客に考えさせる。笑いも織り交ぜられて、負担に、ならない。観るものの視点を中心に作られた、非常にすぐれた舞台だった。
けれども、非常にレベルの高いものだっただけに、残念に思った点がある。この舞台は、問題提起と、娯楽とを、高いレベルで両立させて、その緊張感で、物語を進めていたが、最後に、大きく、娯楽の側に傾く様相を見せるのだ。いってみれば、娯楽としての責任を果たそうとしているかにみえる。
物語には、最後に二つ、オチのような結末が用意されている。
まず、獄中の死刑囚と結婚して、死刑執行の場所となる民家を提供した、死刑囚の妻。彼女は、最後に、死刑囚との結婚を繰り返し、死刑執行を行うことを楽しみとしていることを告白する。
もうひとつは、被害者の妻の、現在の恋人が、「こんなことしちゃいけない」と、乗り込んでくるというもの。
それまで、舞台は、特に被害者の妻と、義父の、気持ちのぶれを中心に描いていた。二人は、この葛藤に、どう決着をつけるのか、観客の関心は、まっすぐに、そこに向けられていた。
それが、最後、突然、角度をカクッと曲げられてしまった。エンターテインメントとしては、これで良かったのかもしれない。しかし、それまで、問題を、舞台を通してじっくりと考察していた思考の緊張感は、オチがついた瞬間に、急速にゆるんでしまった。
舞台は、結局、死刑の執行で終わる。被害者の妻は、乱入してきた恋人を拒絶して、なし崩し的に(ここは、詳しく描かれない)、死刑を行うという責任を引き受ける。彼女の、決意の瞬間は、はぐらかされて、描かれない。これは、脚本が、問題を、娯楽にすりかえる、ある種の責任逃れとして、僕には、映ってしまった。
それでも、ここまで、「責任」という問題と正面から取り組む舞台は、日本では稀だと思う。最後、妙にすっきりと終わってしまったのは残念だったが、それは、葛藤を続けるという文化のない、日本の演劇の限界でもあるのかもしれない。
シャープさんフラットさん
ナイロン100℃
本多劇場(東京都)
2008/09/15 (月) ~ 2008/10/19 (日)公演終了
満足度★★★★
シャープなギザギザ・ブラックチーム
こまごめとなりさんのレビューに「最近、作り手の苦悩を見せる作品に触れる機会が多い気がする」とある。僕も同感だ。「作り手」の苦悩の多くは、「作り手」に向けて、苦悩を訴えるもの。「作り手」という人たちが、それだけたくさんいるということだろう。「作り手」たちの内で閉じた、不健全な市場だと思う。
だから、満員の本多劇場で、ナイロンの芝居を観ていると、観客の多さに、安心する。この作品も、「作り手の苦悩」を描きながら、きちんと、僕ら、観るものに向けて、作られている。2バージョン同時公演なんていう、観客に負担を強いる公演も、喜んで受け止める、作り手ではない、観客という人たちも、たくさんいるのだ。
ネタバレBOX
自伝が、2バージョンあるという時点で、まず、ギャグだと思う。僕らは、このことを通じて、この作品が虚構であるということを教えられ、好きなように観る自由を、与えられる。
主人公は、逃げた座付き作家の辻煙だけれど、物語は、彼が逃げ込んだ先のサナトリウムに暮らす人々、それぞれの抱える物語を、同時に、描く。要約不可能なほどに、拡散していく物語が、2バージョン、用意されることになる。
ブラックチームからは、波のある舞台、という印象を受けた。安定しない。時に、ついていけないほどに拡散したり、ある場面が観客を置いて、どんどん深く潜っていったりする。でも、反面、時に、異様な盛り上がりも見せる。
それは、チーム編成によるものだと感じられる。つまり、バランスの悪さは、あらかじめ、意図されているのだろう。主要なキャストがナイロンメンバーで占められたホワイトチームに比べ、ギザギザの度合いが違う。物語においても、劇中の悲劇が、各人に分散されていたホワイトチームとは違い、ブラックでは、より、辻煙を演じる、大倉孝二に向かって、一方的に、突き刺さって行くように出来ている。
ただでさえ、身長が異様に高い大倉は、その存在感から、どこか、孤高の人であり、バランスとは無縁の雰囲気を持っている。でも彼はまた、迷子の子犬みたいなオーラを出していて、だから、彼の演じる辻煙は、非常に尖っていて、感情移入を拒むけれど、放っておけない。
ブラックチームを観る僕は、この大倉との、距離の取り方が、うまくいかない。こちらの意図を無視して、大倉は、どんどん入り込んできたかと思うと、また、ずっと遠くにいってしまう。自身を襲う、色々な悲劇との距離の取り方に苦悩する大倉の姿が、だから、より、切なくて、気がつくと、泣きながら、笑わずにはいられないのだった。
してみれば、「クリエーターの苦悩」という言葉は、入り口であって、出口は、そこにはない気がする。そのような、射程の広さを、この作品は持っていて、だから、観終わったあと、ずっと、もやもやと、舞台の隅で、人々の暮らしを傍観する、大倉の佇まいが、胸に住み着いて、離れずにいるのだろうと、思う。
ちょっとした夢のはなし〈演劇と映画〉
中野成樹+フランケンズ
STスポット(神奈川県)
2008/09/18 (木) ~ 2008/09/21 (日)公演終了
満足度★★★★
ちょっとした、理想の、舞台
今は、自由な時代。演劇のスタイルも、多種多様。それは、定まったスタイルが存在しない、無法地帯ともいうべき状況。
そんな時代に観ると、ワイルダーの演劇は、とても地味にみえるかもしれない。でも、1920年代当時のアメリカでは、この、「セットなし」とか、「イスを並べて、自動車にみたてる」というような、今では当たり前のセッティングが衝撃的で、劇場付きの大道具の組合と、裁判ざたになったほど。
当時の観客たちも、きっと、相当びっくりしたのだろうと思うけど、今回の、中野成樹演出は、そういうびっくりを、別の仕方で、再現しようとしていた。僕は、気持ちよく、驚いた。
ネタバレBOX
劇場に入ると、とっても素朴な、木箱みたいな小さな舞台。切り紙のちっちゃな家並みや、草が、ちょこんと貼付けてある。舞台の後ろは、黒い仕切りになっていて、見えない。照明は、勉強机にありそうな、ちっちゃなスタンドひとつ。
隣に、ちっちゃなDJブース。「今日のテーマ/旅」と書いてあって、「ハイウェイ/くるり」とか、今、流れている音楽が書かれたボードが出ている。舞台の真上に、 "NOW PLAYING"の文字。この文字が、後からじわじわ効いてくる。
音楽がやんで、暗くなると、父、母、娘、息子の4人が、私服みたいな普通の格好で出てくる。曲名だったボードは、演じられている場面のタイトルにかわる。
物語は、一家4人で、嫁いだ長女の家に、車で小旅行に出かける、それだけの話。お葬式の行列をみてしんみりしたり、看板のキャッチコピーで遊んだり、ちょっとしたいさかいがあったり。とっても暖かい、一家の旅路。
4人を演じているのは、平均年齢21歳くらいの大学生たち。「欲のない芝居になってると思う」とあるけど、非常に素直に、清々しく、淡々と、結婚25年の夫婦と、高校生姉弟を演じる雰囲気が、あっさりとしたテイストの作品にぴったり。観客席は、ほほえましく、舞台を、見守る。
第一次大戦後の話なので、作品には、ほんのり、死の影が。これから訪ねる長女も、実は、死産で、母体も危なかった。でも、その話はほんの少し。ご飯の話をしている内に、ずっとブースにいたDJが立ち上がって、仕事から帰ってきた長女の旦那さんとなる。そのまま、みんな下がって、終了。
すると、舞台の後ろの、黒い仕切りが取り払われて、壁をべりべりっとはがすと、その裏に、 "PLAY LIST"とあって、「看板で遊んだ」とか、「ホットドックを食べた」とか「こっそりお化粧をしてみた」とか、舞台上で演じられた、一家の旅行で起きた、些細な出来事が、全部びっしり書いてある。
びっくりした。そうか、DJは、虚構の舞台と客席とを結ぶ、ステージマネージャーだったのか、とわかる。そして、ああ、この演出は、舞台は虚構で、日常の些細な出来事にこそ、真実があると言い続けた、ワイルダーを読み込んだ成果なのだろう、と思った。
「誤意訳」とあるが、戯曲との違いはわずか。原作には、この、理想的な家族のいる、理想的な社会が、既に終わりに近づいていることを暗示させるせりふがいくつかあるけど、主に、そういうものが、カットされている。このちょっとした剪定も、「トレントン・カムデンへの、幸せな旅行」という題を、「ちょっとした夢のはなし」と変えたのも、理想の終わってしまった現在が、それでもかわらないものと一緒に、浮かび上がることを意図してのものだろう。だから、観劇後、どこか切ない。
続けて上映された映画は、同じ原作で、同じキャスト。舞台では許される「虚構」が、まっとうな演出になると、とたんに許されなくなる。面白かったけれど、ワイルダーとは関係ない作品になってしまっていて、物足りなかった。
中野成樹は、本当にワイルダーが好きな様子。「いつか、ワイルダー祭『わいわいワイルダー』をやりたい」と、冗談半分に言っていたが、本当にやってほしい。次も観たいと思わせる、地味だけど、確かな作品だった。
4x1h Play #0
4x1h project
ギャラリーLE DECO(東京都)
2008/09/20 (土) ~ 2008/09/28 (日)公演終了
満足度★★★
短篇の「テーマ」
リーディングによるコンペで、観客によって選ばれた2本の短篇を、ひとりの演出家がつくるという企画モノ。
ちかごろ、こういった短篇企画を目にする機会が増えた。演劇のスタイルが、追いかけきれないほどに多種多様になっている、今の状況にあっては、色々な形のものに、一度に触れることができるのは、嬉しい。
ただ、演劇の短篇は、長篇とは全く違うもので、作る側も、観る側も、その差を、十分に意識する必要があるのではないかと、思う。この公演を観て、僕は、特に、それを感じたのだった。
ネタバレBOX
二作品とも、不満が残った。
『ひとさまにみせるもんじゃない』(中屋敷法仁・作)では、衣装をかなぐり捨てた俳優たちが、舞台中央の台に殺到。テンションにまかせて、せりふを、叫ぶ。滑舌の悪い俳優が混じっているうえに、コンクリ打ちっぱなしの壁に反響して、聞き取れない。また、みな、台の上では、ポーズを取って、動きを止める。俳優たちは、よく動いていて、迫力満点なだけに、もったいない。
『いそうろう』(篠田千明・作)は、二人芝居。二人のケンカの顛末を描く。脚本の眼目は、「冷蔵庫は、シャープの白。三段の真ん中が冷凍庫、下が野菜室」というような、異様とも思えるほどの、せりふにおける、細部の描写だと思ったのだけど、今回は、バックの紙に、せりふと同時に絵を描くという演出。せりふのスピード感は捨て去られ、ひとつひとつ、丁寧に演じて行く、ビジュアル重視の、まったりとした雰囲気。ビジュアルが勝ちすぎて、せりふが、耳に入らない。
アフタートークで、演出の黒澤世莉は、自分の演出について、「脚本からテーマを取り出す」と発言。そして、中屋敷脚本について、「テーマが、『意味なんてないよーん』というものなので、僕にはつらかった」とも。
僕は、中屋敷脚本に触れるのは、今回が初めて。痴漢に恋をして、変態たちと鉄道警察の、血みどろの抗争に巻き込まれる女子校生の物語には、内容はないかもしれないけど、意味はあると思った。というか、脚本のキモは、「文体」だと思った。
たとえば、女子校生が恋する痴漢は、生き別れの母を捜して、女性の胸を触るのだけど、彼の登場には、常に、「オーッパイをタッチング・オーッパイをタッチング」というくだらないことこの上ないせりふが、お能における地謡よろしく、通奏低音のようにつきまとう。こういう、中身は無いけど、耳ざわりのいい言葉の積み重ねで、この本はできていると、僕は思った(町田康の文章みたい……というか)。
同じく、『いそうろう』も、頭の中に、状況よりも先に、異常に精緻な情景を創りだしてしまうという、パラノイアチックな描写がつらつらと連なる、せりふの持つ文体にこそ、刺激があった(先の、篠田演出バージョンは、ビジュアルを極力排して、せりふを際立たせる演出だった)。
両作品とも、リーディングを勝ち残った、聴かせる文体を持つ作品。「文体」は、脚本の「細部」と言えるだろう。それは、「テーマ」という、大きなものを前にしてしまうと、見えなくなってしまうものだ。でも、短篇の「テーマ」は、「細部」に宿ることもあるのではないか。黒澤さんのやり方は、「短篇」というものを、大きなテーマを欲しがる自分に、あわせようとしていると、感じた。短篇には、短篇の形があると思う僕には、違和感だけが、残ったのだった。
LOST GARDEN
FABRICA(企画・製作ROBOT)
赤坂RED/THEATER(東京都)
2008/09/13 (土) ~ 2008/09/23 (火)公演終了
満足度★★
「私事」の世界(ごめんなさい、書き直しです)
本広監督のアフタートークを聞かなければよかったと、後悔した。監督は、高井浩子さんとのトークで、「今日は、東京タンバリンの方がたくさん観に来てくれている回。ありがとうございます」とか、「昨日は、鴻上さんがみえて、緊張した。あこがれていた人だったので。昨日は他にもたくさん演出家の方々がいらっしゃった」とか、そういう、「私」を全開にしたトークを展開。僕は、これが、苦手だからだ。
ネタバレBOX
「私」を全開にされると、作品も、「私」なものに思えてくる。もちろん、人間、なにかをする動機というのは、多かれ少なかれ、「私事」に左右されるものだと思うが、それでも、一応、こちらは3500円という大金を払って観にきているのだ。建前だけでも、「公」のものを出して欲しい。少なくとも、「私」の部分は、恥ずかしげに出してほしい、と思ってしまう。
作品は、舞台の裏側を描く、バックステージもの。それこそ、「私事」の世界の極みともいえるジャンルだ。本来なら、観客には見せない、見せてはいけない部分を全面展開するのだから。よって、バックステージものには、他のジャンル以上に、私事を越える普遍性みたいなものが最初から要求される。
ところが、これが、どこまでも「私事」の域を出ない。さらに群像劇というスタイルによって、各人同士、つながらない、とってもミクロな私事が、それぞれかかわり合うこともなく、標本のように、並べられるだけ、ということになる。劇中劇と、舞台裏という二つの物語の同時進行という形式によって、ただでさえ、それぞれの物語の牽引力が弱っているのに、それを支える人間関係が、ミクロな私事の標本では、舞台に魅力は生まれない。
僕らは、舞台に没頭することを、許されない。交わらない群像劇は、全てを、フラット化する。人の死を悲しむのも、自分を売り込むのも、同列だ。それはリアルな世界かもしれない。でも、舞台に引きつけられるときの求心力は、失われる。この舞台を楽しむには、僕らは、能動的に、自分の観方を捜さなければならない。言い方を換えれば、自由度が高いということになるだろうけど、でも、ここで、監督の「私事」が顔をだす。この作品は、「監督」の作品だ、という、強烈な意識に貫かれているのである。だから僕らが見つけ出す、「自分の観方」なるものは、監督が用意したものの範囲を出ることを許されない。
「モノローグはいらない」とか、「舞台の外で事件が起こっているのが面白い」とか、監督は、舞台を外から観る観客の目線を、仕込むことで、観客まで、自分の私に取り込もうとするかまえをみせる(演出家が劇中劇を観るのは、無駄に客席だ)。これでは、監督の私事として作られた作品に付き合うつもりの、内輪の人にしか、この作品は楽しめないことになる、と思う。
俳優さんたちは魅力があるし、頑張っていたと思うけれど、それも多分、監督の想定内。全てを取り込む本広世界は、僕の「私事」を許してくれなくて、それでいて、身を委ねる流れを提示してくれるわけでもなくて。フラットな、現代的な、枠におさまったこじんまりした、個人的な世界を、僕は楽しめなかった。
人形の家
シス・カンパニー
Bunkamuraシアターコクーン(東京都)
2008/09/05 (金) ~ 2008/09/30 (火)公演終了
満足度★★★★
いきのいい、古典
面白かった! バルコニー席だったので、劇場中央の囲み舞台を見下ろす形。キャストも、しっかりと自分の味を活かして、新しいキャラクターを創りだしていた。
それよりなにより、驚いたのが、百年以上前の戯曲の、面白さ。あらすじと、社会的な意義を知っているだけで、どこかおそれて、手を出さなかったことが悔やまれる。デヴィッド・ルヴォーさんの演出は、古典の面白さを知り尽くしている人のそれ。手を入れるのは、最小限。戯曲そのものの面白さを、存分に味合わせてくれた。こんな面白い作品に、素晴らしい舞台で出会えてよかった。
帰りにブックファーストで戯曲を買った(新潮文庫)。
ネタバレBOX
物語自体の面白さが、舞台の良さを引き出しているのはもちろんだけれど、新潮文庫と比べてみて感心するのは、言葉の選択だ。それが、全く意味を変えずに、現代を映す。
「床についたきりの母親の世話」は、「母の介護」。「昔のことを思い出して怖がっている」は、「昔のトラウマ」。「介護」や「トラウマ」という言葉を選ぶセンス。セットなしの囲み舞台も相まって、こういうささいな気配りだけで、19世紀は、ぐっと身近な世界になる。会話劇、しかも翻訳ものだということを、時宜にかなったな言葉たちは、一時、忘れさせてくれる。会話劇の面白さを知っているからこその、心配りだろう。
役者たちの、自分のキャラクターを活かした、のびのびした演技もいい。スターの風格十分な宮沢りえや堤真一は言うに及ばず。脇役たちも、それぞれ、自分のキャラクターを加味して、より現代的な、生き生きとした人物たちを作った。
特に、今の時代に、スポットを当てられるべきだと思ったのは、ノラを強請る、クログスタ。あらすじ化されてしまうと、影も形も出て来ない彼だけど、彼こそは、この物語のもう一人の主役なんじゃないかと思った。世間に不当に蔑まれていると信じる彼の、ノラへの強請りには、世の中に対する復讐心がこめられているよう。人同士のやりとりを失った現代、ことに目にするようになった心象がここにある。
三幕で、彼は、人とのつながりを取り戻し、救われる。そして、ノラへの仕打ちを悔いて、全てを取り消す。現代を生きる僕は、ノラの自立以上に、彼が救われることに、心を打たれた。彼を演じる、山崎一の、思い詰めた無表情の向こう、おびえた目を持つ佇まいが、さらに響いた。
「斬新なアプローチ」といううたい文句から受ける印象とは、随分違った舞台。デヴィットさんの意図は、くり返すが、戯曲そのものの持つ、普遍性を、そのまま現代に示すという、明確なもの。普遍性は、常に新しさを持つという意味では、斬新といえるかもしれないが、それよりも、近代演劇の祖といわれる作品の面白さを見ることで、近代演劇そのものが持っている、基本的な面白さを教えてもらったような気分。本当に、清々しい気持ちで、劇場を出た。カーテンコールでの、みなの、生き生きした表情も、印象的だった。
まほろば物語
劇団SAKURA前戦
シアターグリーン BIG TREE THEATER(東京都)
2008/09/12 (金) ~ 2008/09/16 (火)公演終了
満足度★★★
演劇と、「労働」
客席から、すすり泣く声が続々聞こえてきて、ちょっとびっくりした。ベタな上にもベタな、チャンバラあり、人情あり、フラメンコあり(なぜ?)の、ハートフルなファンタジー。
泣いていた、今日の客席を埋めていた人たちは、普段、あまり舞台を観慣れていない人たちだろう、と思う。自転車で、近所の人に宣伝活動をしたというから、池袋の劇場周辺に住む、普通の人々かもしれない。
なんというか、キャラメルボックスを、大衆演劇と韓流ドラマで割ったようなテイスト。なんだか、ある種、伝統芸能みたいな感じがした。海外で受けていると、チラシにあるのは、こういう、「日本」っぽさが受けているのだろうか。
とにかく、僕ら東京の、いわゆる演劇ファンが、普段「演劇」だと思っているものとは違うものだ。普段の観方と、全然違うものが要求された気がした。
ネタバレBOX
出てくる人が、みな、優しい、いい人。悪人は全然出て来ない。それぞれの悩みを抱えて出てくるけれど、ファンタジーの世界を通じて、最後は、全て解消。でも、大団円に至る手段は、荒唐無稽なファンタジーだけれど、不思議と、彼らの選ぶ、その後の生活は、泥臭い、生活感溢れるものだ。
離婚後、一流広告会社・企画部をやめて自殺を考える男と、なにをやってもうまくいかず、強盗を考えていた男が、物語の最後に、定職につく。それはどうやら、作業着にヘルメットの、肉体労働なのだ。彼らが楽しげに仕事をする、ラストシーンの一場面は、なかなかじーんとくるのだけれど、つまり、どうやら、この劇団は、こういう、地に足の着いた、広告業界とかではない、「労働」こそが、まっとうな生き方なのだと考えているようなのだ。
この感覚は、東京で、演劇をやっている人や、演劇を観ている人には、ないものだと思う。僕らは、「労働」ということを、あまり考えない。考えようとしないのかも。よしんば考えたとしても、思いつくのは頭脳労働。作業着姿で、楽しく仕事をするシーンを、ラストに持ってはこないと思うのだ。
思えば、もともと演劇は、大衆の娯楽だった。普段、しっかりと手に職を持った人々が、たまの息抜きに楽しむ、生活に密着したものだった。今の僕などは、「労働」よりも、演劇を中心に生きている。それは、東京では珍しくないので、当たり前だと思っていたけれど、実は、かなり不自然な生き方かもしれないのだ。
社会の情報化した現実を考えれば、「労働」することでまっとうな暮らしができるというモデルは、当然、かなりのアナクロニスム。でも、なんだか、この舞台を観ていると、そして周りで泣いている人を見ていると、間違っているのは、社会の方なのじゃないか、という感じがしてくる。
考えてみれば、「労働」が描かれた演劇って、あまり観たことがない。演劇は、「労働」から遠い世界なのかもしれない。そして、「労働」を描かなくなったことで、「大衆」からも遠ざかっていたのかもしれない。大衆演劇の匂いを持った、この舞台は、だから、とても貴重なものだと、思った。
作者は、「労働」なんてこと、全然意識していないかも。でも、しつこいけど、「労働」を力強く描くということは、制作者の意図に関係なく、それだけで、こんなに強い印象を残してしまうものなのだ。そして、その上で紡がれる物語を、労働を忘れた僕らは、「ベタ」と呼んでしまうけれど、そこにこそ、しっかりと働いている人の心に届くものがあるのかもしれない。
泣けなかった僕は、やっぱり、いつもの演劇の世界の方が、好きなのだけれど。
顔を見ないと忘れる
演劇ユニット昼ノ月
調布市せんがわ劇場(東京都)
2008/09/10 (水) ~ 2008/09/15 (月)公演終了
満足度★★★
こまかいところが、作られていく感じ
刑務所の面会室。テレビなんかでよくみる光景。でも、それが舞台に乗ると、こんなに広い世界につながるのかと、不思議な気持ちになる。
サイトなんかに写真が載っているけど、まず、舞台美術が不思議。実際に行ってみると、木の匂いと手作り感に溢れる、なんだか暖かいセット。そして、俳優と客席が、ほとんどふれあうくらいの、狭い、緊張感漂う、熱いセット。僕らも演劇の監獄に入れられたみたいな気になる。
獄中の夫と、面会にやってくる妻の、ふたりのやりとりだけなのに、そこに見たのは、夫役の二口大学さんと、脚本・演出の鈴江俊郎さんの、火花を散らすやりとりだった。濃密な関係を、こっそり、堪能した気分。
ネタバレBOX
冒頭、ぎしぎしとやってきた二人は、おもむろにリコーダーを吹き始める。なんだなんだ? と焦っていると、吹き終わって、あたふたと定位置に移動する。この「あたふた」な瞬間から、二口さんに釘付けになった。なんというか、なめらかな佇まいに。
面会は、緊迫した雰囲気に、なりそうで、ならない。終始、ぬるい、夫と妻のなれあいの空気。でも、その底に、冷たいものがある。次第に、妻に、男の影が。夫は、焦り始めるけれど、それを、気にしないそぶり。
妻は、夫の窃盗癖を、なじる。こちらは、なんだ、窃盗だったのか、と、安心するけど、妻は、職場で、いじめられるし、息子に、説明できないしで、つらいと訴える。これで、窃盗でつかまるのは四回目。二人とも、どこかで、慣れている。「もうしない」という約束に、安心して、またやってしまうのだろうと、夫を責める。それも、そこまで緊迫はしない。というか、緊迫できないところに、悩みがあるようだ。
なれ合いの空気というのは、舞台で、よく見かける。でも、そのほとんどは、役者の甘えから生じる、自然と生まれてしまうものだ。ここでは、「抜け出せない、なれ合い」を、「あえて」作ることが要求されている。難しいことだ。しかも、妻の役の押谷裕子さんの方は、結構必死になってしまっている。それを、二口さんは、膨大なぬるさで、包み込む。と、同時に、自分の空気を、容赦ない作家の要求を越えて、するどく、作っていく。こまかいところが、目の前で、今、作られていくかんじがする。
テアトロに、戯曲が載っていて、読んでみると、この戯曲は、かなりナイーブに、象徴的なモチーフをちりばめて、詩的な伏線を、文字の上で張っている。気づかなかった。気づく必要がなかったのだろう。あらかじめ作られた細部は、その場で俳優が生み出す細部に、瞬時に上書きされる。舞台って、面白い。
役者と作家の信頼が、濃密な関係を作る。昼ノ月は、京都のユニット。長く続けるつもりだという。今作も、去年初演の再演。じっくり、残して、育てる。地に足のついた、職人のような作家と役者が、高め合うような関係を作っていくのだろう。日々、消費されて、関係が生まれるほどに作品が残らない、東京には、足をつける地がない気がして、少し、うらやましくなった。
舞台は、最後、それまでのぬるま湯を吹き飛ばす、二口さんの、哀切極まる長台詞(方言がきつくて、ほとんど分からないのに、涙が出る)のあと、それでも夫を捨てられない妻の、「顔を見ないと忘れるぞ」で終わる。昼ノ月は、京都へ帰る。東京へは、しばらく来ないみたいだ。さびしい。また来てほしい。東京の僕は、顔を見ないと、京都の人が驚くくらい、あっという間に、忘れるだろうから。
サザン・アイランズ
燐光群
イワト劇場(東京都)
2008/08/30 (土) ~ 2008/09/09 (火)公演終了
満足度★★
大音量の「国際交流」
「フィリピン国際交流プログラム」とある。燐光群の役者と、長い付き合いのあるフィリピンの役者とが、共同で、演劇を、3本、やる。
さすがに、長い実績のある燐光群。演劇としては、3本でたっぷり3時間の大ボリュームも、ベテランたちの手堅い演技で、緊張感を持って観ることができる。
ただし、僕は、この「国際交流」作品に、疑問がある。この、僕らの知らない情報を、ただ上から提出する、ジャーナリズムのような作品を、芸術作品と呼べるのだろうか。
ネタバレBOX
どの作品も、テーマが非常にはっきりしている。
「虎の杖」は、フィリピンの、米軍基地問題を、沖縄のそれと並べて、比較検討。「雪を知らない」は、沖縄の米軍基地周辺で、多数はたらくフィリピーナたちの現状を報告。最後の大作「コレヒドール」は、日本と米国の戦闘の舞台となったフィリピンの、板挟みの感情と、現在の彼らが戦争をどのように捉えているのかを報告するもの。
全ての作品は、共通して、「なにも知らない無知な日本人」が登場して、フィリピン人の現状を、情報としてやりとりする、という構造を持っている。一応すべてに、ちょっとした感情のやりとりがあるけれど、それは、「国際交流」のために伝えたい「情報」に、おまけとして添えられているような印象。確かに、これらの僕らの知らない情報は、おおいにためになるかもしれない。
当然、劇中に登場する「無知な日本人」たちは、情報を持っている「国際人」であろう作者たちからみた、僕ら市井の一般市民だ。これらの作品の目的は、僕ら無知な人々に「情報」を与え、啓蒙することにあるようだ。
ここには、情報を持つことが、力を持つという、権威主義がみえる。そして、非常に高いところから、上からの目線で、ものをみている、政治家のような目線を感じる。
作品中には、ものを良く知る日本人も登場。彼らも、フィリピン人のことをつい失念して、やりこめられる。例えば、「日本では○○なのに、ここではなんでこうなんだ」と日本人が言い、「フィリピン人は○○だったということを日本人はすぐに忘れる!」と怒られる。すると、日本人は、即座に「それはそのとおりだ、すまなかった」とあやまって、「でも……」と、自分の持つ新しい情報を披露するのである。
これは、情報を持つ作者たちの姿かもしれない。僕には、この反応のすばやさが、信用できない。この舞台は、時間が長いせいかもしれないが、やりとりの反応が、とてもすばやい。みんな、即座に、あやまる。そんなにすばやい謝罪を、人は、信用できるだろうか、と思っていると、その直後に、とても大きな声で、自分の持つ、相手の知らない立場が、新たに情報として示される。なんだ、彼らは、とりあえずあやまった後で、情報を使って、自分の優位性を保つのだな、とわかる。謝る前の発言は、これにより、検証されることなく見逃されるのだ。とにかく、「情報」としての世界を持つことが、「国際人」であることを、信じて疑わない姿勢が、ここにはあると思う。欺瞞が、あると感じる。
舞台芸術には、社会を批評的にみる視点が必要だと思う。声を大にして「国際交流」などを叫ぶ場合には特に。でも、情報を持つことが権威につながる社会そのものを疑わない姿勢こそが、まずは疑われるべきだと、僕は思う。自国の、市井の市民の目線が、大声で叫ばれる、一方的な「国際交流」の前に、忘れられている。そう感じる(そういう意味では、今をあらわす作品かもしれないが)。
ドラえもん「のび太とアニマル惑星」
サードステージ
東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)
2008/09/04 (木) ~ 2008/09/14 (日)公演終了
満足度★★★
立ち止まれない流れ
とにかく、楽しい舞台だった。あまりに楽しすぎて、時間を忘れた。そして、観終わったいま、楽しさしか、残っていないことに気づいた。
ドラえもんって、こんなに、気が狂いそうなくらいに「楽しい」だけの作品だったっけ?
ネタバレBOX
ドラえもんが、舞台になる。とにかく、どのように舞台化するのか、鴻上さんの演出に注目が集まる。そして、結果、演出としては、満点だった。
とにかく、楽しい。タケコプターひとつとっても、ワイヤーで本当に飛んでみたり、不気味なほどにそっくりの、自分の飛んでいる人形がくっついている棒を、各自が持って飛ばしてみたり。空気砲も、でんじろう先生が良くやっている、段ボールで出来た、たたくことで煙のボールを打ち出すものを持ち出したり。実に多彩。次は、どんな演出が飛び出すのか、それだけを楽しむだけで、お腹いっぱい。鴻上演出の集大成が、ここにはある。
ダンスと音楽が随所に盛り込まれて、まるでミュージカル。最後の歌では、ついついこちらも手拍子。僕の席のまわりは大人ばかりだったのだけれど、いつの間にか、最初は腕組みしていたスーツ姿のおじさんたちも、一緒に、ぎこちなくだけど、笑顔で手拍子していて、嬉しくなった。本当に楽しい舞台だった。
でも、なんだか、不思議と疑問が残る。これでいいのだろうか。なんだか、子供向けの作品は、楽しければいいと考えられているみたいな気がする。この舞台、「楽しさ」以外のものが存在しないのだ。
原作の「アニマル惑星」では、「敵」である「悪魔=二ムゲ」が、もっとしっかりと細かく描かれていた。だからこそ、実は「二ムゲ」が、惑星を科学で滅ぼした人間だったということが、重みを持って明かされたとき、とても怖い思いがしたのだった。原作のラスト、捕まった二ムゲのリーダーがマスクを取って、支配がかなわなかった、憧れのアニマル惑星の風をうけて、「いい風だ……」とつぶやく。こういう「細部」こそが、感想を生んだ。
ところが、舞台版は、こうした、物語の細部を、ことごとく省略する。物語の細部は、演出の細部によって、取って代わられてしまっているのだ。すると、残る物語は、非常に淡白で薄っぺらいものになってしまう。
これは、もしかすると、鴻上作品の本質かもしれない。軽快な演出をベースにした大きな流れが、物語を飲み込んで、全てを、狂躁的な楽しさが支配する。だが、ともすれば、情報の生み出す「大きな流れ」が全てを押し流してしまう現代にあっては、楽しさだけに向かって走るという方法は、危険であるだろう。
前回の鴻上作品『グローブジャングル』では、走り出しても、その都度、きちんと立ち止まって、足下を確かめていたと思うのだけれど、今回は、楽しさという流れを疑う様子は全くない。それは、もしかすると、「子供向け」への甘えかもしれない。
現在鴻上さんは、虚構の劇団で、若い俳優たちに、舞台の「楽しさ」を徹底的に教え込んでいるところ。僕は、とても楽しそうに演劇をする彼らのファン。でも、今回の舞台にも出ていた彼らは、「楽しさ」が前に出過ぎて、みな同じ笑顔。みんなが同じ人のようにも観えて、そこには、確かに、意図されていない、怖さすらあった。
森の奥
王立フランドル劇場(KVS)&トランスカンカナル
こまばアゴラ劇場(東京都)
2008/09/09 (火) ~ 2008/09/13 (土)公演終了
満足度★★★★★
猿の地平で考える
現代の演劇界で、僕ら一般人の目線をもって、世界を表現できる人は、平田オリザさんだけかもしれない。
「森の奥」は、ベルギー王立劇場の依頼で、オリザさんが書き下ろした作品。完全な「乱交型」コミュニティを作ることで知られる、もっとも人間に近いと言われる類人猿、ボノボについて語る研究者たちの姿の向こうに、僕らをとりまく、地球規模の、人の世界がみえてくる。
「他者」をめぐる、ともすれば、高いところから見下ろす形になってしまいそうな題材が、オリザさんの、どこまでも自然な言葉と、ベルギーの俳優たちの、演技を忘れたような演技に、僕ら市井の人々の目線が込められて、ごくごく当たり前にしみ込んでくる。
感情が大きく揺れ動いたり、全く新しいものに触れたりということのない、地味な舞台。でも、ここは、喜怒哀楽から始まる、深い思索への、とても自然な入り口。僕は、この貴重な公演を、心から楽しんだ(できれば、もう一度観たい)。
ネタバレBOX
劇作家にとって、他国の劇場から、劇作のオファーがくるというのは、どういう気持ちのものなのだろう。オリザさんのこの作品には、そういうときに想像される、気負いのようなものが、全くない。それでいて、多文化と、自然と渡り合う、作家の姿が、はっきりと映る。
プログラムの言葉を引用してみよう。「結局、ベルギー本国を舞台にするとぼろが出やすいので、旧植民地であるコンゴを舞台にして、しかも私の得意分野である霊長類研究の話題を書くことになりました。日本のお客様には、分かりにくいかも知れませんが、人間と猿の違いを描くことで、ベルギーの中にある人種間対立の問題が透けて見えるような構造にしたつもりです。」とある。
自分の知らない国からの依頼を受けて、まず、その国について調べる。問題点を、テーマに据える。ここまでなら、なんとかなるかもしれないけれど、それを、自分の「得意分野」の話に紛れ込ませるとなると、相当の自信が必要だろうと思う。「霊長類研究」というような、国際的な得意分野をひとつ持っているかどうかが、これからの国際人には問われているのかもしれない。
なにより、この「霊長類研究」の部分が、楽しい。ボノボは、完全に乱交型のコミュニティを形成。全てのコミュニケーションは、同性、異性を問わず、セックスに依存している。そんな世界では、例えば、特定の異性とのみセックスすることが「不倫」となる、とか。ボノボの社会のような、乱交型のため、誰の子供なのかが全くわからない親子関係の世界では、子殺しが起こらない、とか。物語は、こういう、類人猿の世界に関するコミュニケーションを通じて、世界各国から集った、心理学や言語学といった、立場も様々な科学者たちの、ぎこちないやりとりを、とても丁寧に描いて行く。
僕は、同時に、舞台上の白人たちと、観客席の僕ら日本人の間に、無言のやりとりのようなものが生じたと、感じた。それは、もちろん、舞台から、客席にはたらきかけがあるというわけでは全くない。
僕は、恥ずかしい話だけれど、舞台上に白人の役者さんたちがいる舞台に、最初、萎縮してしまった。僕らと、全く違う人たちだと感じて、狭いアゴラの、舞台と客席の間に、どうしようもない見えない壁があるみたいに、感じた。
でも、それが、次第に、消えて行ったのだ。というか、消えてはいないかもしれないけれど、それを、意識しなくなったような気がした。「日本人」と「白人」というような、雑な区別が、「猿」と「人間」という、さらに雑な感じの、でもより根源的な区別を通して、個人間の差異に着地するような、そんな気がして、いつの間にか、舞台上の人々と、自分が、同じ地平(猿の地平というべきものかもしれない)に立っているような気がしたのだった。
それは、多分、コンゴのジャングルを表現するための、冷房を切るという演出に助けられてのことかもしれない。舞台上の人々と同じように、僕らも、暑くて、服をはだけて、次第にだらしない身体を獲得していたから。また、オリザさんのオリジナルな言葉の、つまり自然な日本語の字幕にも助けられたのだろう(おおげさな言葉のない、とても親しみ易い言葉の字幕は、めずらしい)。
このように、大きな気負いではなくて、細かいところに気を配るところから、アゴラの、「国際演劇月刊」は始まった。僕は、この姿勢を、信じる。ここには、巷に溢れる、自己満足の「国際交流」ではない、もっと自然なものが生まれると思った。そして、次の演目が、楽しみになった。
[EKKKYO-!] 冨士山アネット・快快・劇団山縣家・ピンク・夙川アトム・FUKAIPRODUCE羽衣参加!
冨士山アネット
ザ・スズナリ(東京都)
2008/09/02 (火) ~ 2008/09/03 (水)公演終了
満足度★★★
残り香たちに聞いてみる
お笑い、ダンス、演劇、と、いくつものジャンルから、「ダンスっぽい」をキーワードに集められたパフォーマーたちの短篇作品集なのだけれど、ひとつの短篇作品が、こういう風に、ある方向性を持って、いくつも並べられるとき、それぞれの短篇やパフォーマーの、個別であるときには意識されないような、新しい面が輝きだすことがあって、嬉しくなる。
企画とプロデュースの手腕に、「ありがとう」と言いたい気がする。特に今回のイベントは、合間に挿入される、夙川アトムのショートコントが接着剤の役目を果たす、全体としてのまとまりが意識された構成。それぞれの短篇たちが、集って、ひとつの多面体を形づくっているかのよう。とても楽しかった。
ネタバレBOX
こういう短篇特集の場合、面白いのは、それぞれが短いため、吟味している余裕がなくて、観客の身体に、まだ前の短篇が染み付いているうちに、次の作品が始まるところだ。だがら、前の作品と、その後の作品が、どこか重なって見えて、韻を踏むようなゆるやかなつながりが生み出されたり、対比が鮮やかに映ったりする。
たとえば、女性三人組ダンスユニットPINKと、FUKAIPRODUCE羽衣。PINKの三人は、体操服とチアガールにはちまきで、熱血ダンスを踊る。音楽が終わっても、彼女たちの熱いダンスは終わらない。無音の世界に、ギシギシという舞台のきしみと、大音響にかき消されるはずの、激しい運動に伴う喘ぎ声が響く。三人はそのまま、ひっかいたり噛み付き合ったり、生々しい喧嘩をしながら(たぶん、ダンスをやめたいチアガールを、熱血体操服がやめさせないので、喧嘩になるのだと思う)、二曲目、井上陽水『リバーサイドホテル』に突入する。
羽衣の舞台は、シンガーソングライターが寝ている間に、ホテルにしみこむ、「セックスの残り香」たちが、歌を作るという、強烈なもの。PINKの残り香が、羽衣のホテル(その名も、HOTEL SEASIDE)にこだまする。コミカルで、生々しいエロさが、重なる。ここでは僕は、セリフや動きのおかしさで劣情を表現した羽衣よりも、無音の中でいつものダンスを踊るという、構造によるアプローチで、生き生きしたバカエロ世界を見せたPINKに軍配を上げたい。井上陽水という選曲も、いい。
さて、「リバーサイドホテル」といえば、ハイバイの『て』で、崩壊家族の、父親が歌うカラオケが印象に残っているのだけれど、家族というのは、交換不可能な人間関係の代表だ。劇団山縣家は、なんと家族の劇団。お父さんが作/演出/出演、お母さんと息子さんも出演。三人で、家族の出来事を、バカバカしく語る。「ぶっちゃけ、普段は、仲悪いです」と息子さん(チェルフィッチュの看板俳優さん)。でもこの絶対的な個性は、家族の誰かが入れ変わっても、消えてしまうものだろう。
それに対して、快快は、超フレキシブルな、交換可能ユニット。今回の演目でも、二人の俳優が、二人の人物を、刻々と入れ変わりながら演じる。チェルフィッチュよろしく、観客に向かって、二人が独り言のように自己について語りかける。物語はほとんど無くて、構造だけで勝負。こういうものは、構造の目新しさが決め手なので、短篇向き。つくりに慣れてしまうと、すぐにだれてしまう。二人の入れ変わりはスムーズとはいえず、今回はあまり成功とは言えないと思うが、活きの良さは伝わった。彼らの描く、物語が観たい。
PINKや羽衣の、カラダというものから、逃れようともがきながら、逃れられない葛藤を思えば、今、僕たちは、どこまでも「自分」から自由に、ニュートラルなものになろうとしているようだ。快快は、そこへいち早く向かっているようだけれど、そこにあるのは、物語を捨てた、「語りかけ」の構造だった。だが、そのとき、観客も、入れ替え可能みたいな気がする。快快のあり方は、観客を必要としない、独り言のようにも思うのだけれど、どうか。いずれにせよ、今後の世界の動向をかいま見たようで、とても楽しかった。
主催者の冨士山アネットの演目は、ダンスでありながら、頭だけで作ったような、カラダに訴えないつまらないもの。プロデュースの手腕は、実作とは結びつかないものであるようだ。
国道五十八号戦線異状ナシ
国道五十八号戦線
シアターグリーン BASE THEATER(東京都)
2008/08/28 (木) ~ 2008/09/01 (月)公演終了
満足度★★★★
消費されないことへの怖れ
ここには、現代社会そのものの、ある側面が、あると思った。
基本的には、口当たりの良い、さわやかなエンターテインメント。上演時間も短く、後を引かない。逆に言えば、あまりにもきれいにまとまっていて、後に残らないとも言えるのだけれど、それこそが、作者の意図とは関わりなしに、世界を映しているのではないかな、と思った。
ネタバレBOX
チラシの持つ、重々しい雰囲気や、非常に濃密なストーリー紹介。果たして、このようなストーリーを、舞台上で、どのように表現するのか。チラシに、トリックが仕込まれているのか。舞台は、上演前から、観客を巻き込んで、ある種の情報戦を、戦わせる。
物語そのものも、情報戦がメインとなっている。核の起爆スイッチを手にしてしまった、どこにでもいる(この、どこにでもいる、という感じが、舞台美術を含めて、徹底的に演出される)若者たちと、外務省の担当官僚と名乗る男との、丁々発止のやりとりが、物語を牽引する。
このような情報戦を、僕らは、日々、経験しているような気がしてくる。例えば、こりっちの口コミをみて、自分の需要に合った舞台を捜す、というように、ネットの世界は、常に情報の海との戦いといえるかもしれない。そして、ネットの情報は、日々消費され、忘れられる。
なんだか、この舞台が、ネットそのものみたいに見えてくる。登場人物たちの設定の説明は、なんだか、ネットのテクストに貼りつけられた注のように、キャプションみたいだ。また、実は、この舞台美術は、沖縄の、祖国復帰運動のときの座り込み小屋らしいのだけれど(アフタートークで触れられていた)、物語中は、ちらりと触れて、スルーされる。情報の詰め込まれた舞台に、後で検索をかけたくなる。
ここには、それが消費されることまで織り込み済みで、世界を情報として捉える世界観が、みえるような気がするのである。実際、鮮やかなどんでん返しが続いたあと、物語は、きちんと折り畳まれて、試みに提示された、ネット活用の紛争抑止システムとともに、すっきりと消えていく。そして、僕は、あっという間に忘れる。この舞台には、あらかじめ、消費されることへの怖れみたいなものはなくて、むしろ、必死で、自分から、消費されようとするみたいなのだ。
僕には、この舞台の中で、そこが、一番面白かった。作者の友寄総市浪は、明治大学の五年生。大学入学を期に上京した、沖縄生まれの沖縄育ち。自分の育った、問題だらけの沖縄が、本土では南国の楽園みたいに捉えられていることへのギャップに驚いたと語っていた。
だが、そういう現実を捉える目は、驚くほどに軽くて、そしてその、鋭さをもった軽さが、武器となって、僕らに、消費を、許す。後は、どれだけ、打ち込めるかだと思う。いつまでも情報が残るネットと違って、舞台は、どうしようもない一回性のものだ。消費された瞬間に、消えてしまう。そして、この舞台も、驚くほどの早さで、「観た」という情報へと消えた。それは、「次」への安心、油断のようなものかもしれないけれど、これは、学生演劇。(五年生とは言っていたけど)「次」は、多分、約束されていて、僕は、それを、楽しみに待とうと思う。