トランス 公演情報 中野成樹+フランケンズ「トランス」の観てきた!クチコミとコメント

  • 希望ではない演劇
    5年くらい、となり町に住んでいたことがあるのに、江古田の町は初めて。なんだか、下北沢みたいな、雑多な感じの駅前。劇場はどこ? とさがすと、なんと、八百屋さんの上に。わりと見つけにくいところに案内が。でも、ちょっと、楽しくなる。

    なんだか、演劇が、ひっそりと、生活にまぎれこんでいる感じがした。

    多田淳之介さんは、有名人。ファンも多いみたい。僕の後ろの席に陣取った、演劇人らしき人々も、「多田さん、カッコいい」という話をしていた。パフォーマンストークのゲストとして、何度も見かけたけど、演出をみるのは初めて。ここでのレビューなんかをみると、かなりアグレッシブなことをする人みたい。

    舞台は、真っ暗。雑居ビルの一室にしては結構広くて、がらーんとしているのは、セットもなにもない空間だから。

    席について、開演を待つ間、みんな、熱心に、字がびっしりの冊子を読んでいる。なんだ? と思っていると、それは、多田さん主催の東京デスロックの、次回公演のチラシ。思うところがあって、東京デスロックは、次回公演で、東京での公演を休止するとある。そして、次回公演の予備知識として、ひとつ、評論が、全文掲載されているのだ。小さい字で、びっしり。みんな、これを読んでいたのだ。

    東京公演を休止とは、残念。デスロック、観たことなかったから。そして、多田さんという人は、なんだかストイックだな、と思った。周囲を振り切って、走る、そういう才能を持った人なのだろう、とも。

    それは、今回の「トランス」を観終わった今、とても感じることだ。なんだか、ストイックで、観客を振り切って、独走。もがいて、苦しんでいるような舞台だったのだ。

    ネタバレBOX

    開演前に、多田さんが出てきて、「トランス」の物語を説明する。

    これが、身もふたもない説明。「……というシュールな設定の作品で」というところで、笑いが起こる。「……というどんでん返しがあって」「……という、さらなるどんでん返しがあって」と、どんどんネタバレして、「……となって、みんな、なんとなく、いい話をして終わる、そういう話を、いまからやりまーす(チェルフィッチュみたい)」と終わる。

    つまり、「トランス」を知らない僕のようなものへの配慮なのだろう。そして、この舞台は、物語の面白さを追求しない、ということの表明でもある。これは、形式をみせる、演出をみせる舞台。僕らは、そういう条件付けをされて、舞台の世界に向き合わされる。

    作品そのものも、誰かの、語り、という構造。「93年の作品なので、それを考慮して下さい」という、多田さんの解説があったけど、それにしては、今風だ。

    役者は、パジャマに、目隠し。手探りで、よろよろと、歩く。台詞は、抑揚のない、機械的なもの。客席と、舞台との温度差が、じっくりと準備されて、観客は、最後まで、観察者として、舞台の、作品の、批評をさせられる感じ。重苦しい雰囲気に、客席はよどむ。

    中盤あたりから、4人の役者たちは、3人の登場人物を、入れ替わり始める。この入れ替わりは、結構唐突で、しかも、二人の会話を一人で、棒読みでやったりするので、区別がつきにくい。あえて、そうしているような感じ。とことん、わかりにくい。僕は、あらかじめ教えられたあらすじをたよりに、力なく、見つめるのみだ。

    多重人格者の治療のはずが、実は、医者が患者で、患者が医者だった、というのが、説明されたどんでん返し。そして、さらに、もう一人が、実は医者だった、と告白する、さらなるどんでん返しも。

    これが、不気味に、演じられる。誰かが、「実は私が医者です」というようなことをいうと、もう一人が、「でも、それは妄想です。実は私が医者です」。するとさらにもう一人が、「でも、それは妄想です。実は……」。終わることのない、妄想のスパイラル。みんな、必死に、でも抑揚なく、目隠しで、声をからして、叫ぶ。異様。

    そして、「いい話」。「でも、あなたが私を必要としていることは、真実です」とか、そういうもの。とても空っぽなものとして、見せられる。役者の声をかき消すような、大音量の音楽(空虚なJポップの不気味な寄せ集め)が止まって、暗転の後、明るくなって、目隠しをとって、幕。

    なんだったのか。やっと終わった、という安堵の思いがあった。解放されたような感覚。脱力感。無力感。

    最新の流行の形式が、93年に流行した演劇の形を借りて、痛烈に批判されている、そんなふうに感じた。そして、それだけではなくて、なんだか、演劇そのものに対する、無力感みたいなものを、感じた。目隠しされて、真実がなにかわからないまま、必要としてくれるものだけを信じてすすむ、役者たちが、演劇そのものみたいに(今、後付けだけど)、映る。

    僕は、もともと、小説とか、詩とかが好きだった。でも、なんだか、あちらの世界は、今、どうしようもない閉塞感に苦しんでいる。そして、演劇の世界から来た人たち(前田司郎とか本谷有希子とか岡田利規とか)が、そんな世界の希望として映った。演劇の世界には、まだまだ可能性があると、盲目的に、信じていた。

    でも、ずっと演劇の世界にいる人たちから見れば、そんな演劇の世界にも、ある種の絶望を感じることもあるかもしれない。

    今、演劇界は、なんだか、お祭りのような感じ。演劇そのものの可能性を疑う人は、少数派だろう(自分の可能性を疑う人は多いけど)。そんな中、多田さんのストイックな、演劇そのものに対する無力感は、熱にうかされた演劇への、鋭い批評として、重要かも。周囲の狂騒を振り切って、ずっと先のほうをみているみたいだ。

    その分、多田さんによって、観客としての僕らには、結構多くのものが求められている、あるいは、(あきらめて)求められないでいるのかもしれない。

    今回は、かなり、きびしく、苦しく、つらい、観劇だった。気休めの希望は、与えられない。うすっぺらなJポップにも負けてしまうような、演劇というものは、そもそも何なのか。そんなことを、知らないうちに、考えさせられる、舞台だった。

    <追記>
    他の方々のレビューを読ませていただき、血の気が引いた。なるほど、最後に役者たちが目隠しを取って、目をしばたたいているところに、希望のかけらをみることもできたのか、と。

    僕は、舞台よりも、自分ばかりをみてしまっていて、舞台にこめられているものよりも、自分が先に(目の前の舞台を観る苦しさから)解放されてしまい、それで、安心してしまっていたのかも。

    まだまだ、正面から、舞台と向き合うことが、できていない証拠。目が覚める思いがした。それだけ、この舞台が、真摯な姿勢で作られているということだと、思った。

    (満足度の評価は、留保させていただきました。)

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    2008/11/09 01:53

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