ちょっとした夢のはなし〈演劇と映画〉 公演情報 中野成樹+フランケンズ「ちょっとした夢のはなし〈演劇と映画〉」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    ちょっとした、理想の、舞台
    今は、自由な時代。演劇のスタイルも、多種多様。それは、定まったスタイルが存在しない、無法地帯ともいうべき状況。

    そんな時代に観ると、ワイルダーの演劇は、とても地味にみえるかもしれない。でも、1920年代当時のアメリカでは、この、「セットなし」とか、「イスを並べて、自動車にみたてる」というような、今では当たり前のセッティングが衝撃的で、劇場付きの大道具の組合と、裁判ざたになったほど。

    当時の観客たちも、きっと、相当びっくりしたのだろうと思うけど、今回の、中野成樹演出は、そういうびっくりを、別の仕方で、再現しようとしていた。僕は、気持ちよく、驚いた。

    ネタバレBOX

    劇場に入ると、とっても素朴な、木箱みたいな小さな舞台。切り紙のちっちゃな家並みや、草が、ちょこんと貼付けてある。舞台の後ろは、黒い仕切りになっていて、見えない。照明は、勉強机にありそうな、ちっちゃなスタンドひとつ。

    隣に、ちっちゃなDJブース。「今日のテーマ/旅」と書いてあって、「ハイウェイ/くるり」とか、今、流れている音楽が書かれたボードが出ている。舞台の真上に、 "NOW PLAYING"の文字。この文字が、後からじわじわ効いてくる。

    音楽がやんで、暗くなると、父、母、娘、息子の4人が、私服みたいな普通の格好で出てくる。曲名だったボードは、演じられている場面のタイトルにかわる。

    物語は、一家4人で、嫁いだ長女の家に、車で小旅行に出かける、それだけの話。お葬式の行列をみてしんみりしたり、看板のキャッチコピーで遊んだり、ちょっとしたいさかいがあったり。とっても暖かい、一家の旅路。

    4人を演じているのは、平均年齢21歳くらいの大学生たち。「欲のない芝居になってると思う」とあるけど、非常に素直に、清々しく、淡々と、結婚25年の夫婦と、高校生姉弟を演じる雰囲気が、あっさりとしたテイストの作品にぴったり。観客席は、ほほえましく、舞台を、見守る。

    第一次大戦後の話なので、作品には、ほんのり、死の影が。これから訪ねる長女も、実は、死産で、母体も危なかった。でも、その話はほんの少し。ご飯の話をしている内に、ずっとブースにいたDJが立ち上がって、仕事から帰ってきた長女の旦那さんとなる。そのまま、みんな下がって、終了。

    すると、舞台の後ろの、黒い仕切りが取り払われて、壁をべりべりっとはがすと、その裏に、 "PLAY LIST"とあって、「看板で遊んだ」とか、「ホットドックを食べた」とか「こっそりお化粧をしてみた」とか、舞台上で演じられた、一家の旅行で起きた、些細な出来事が、全部びっしり書いてある。

    びっくりした。そうか、DJは、虚構の舞台と客席とを結ぶ、ステージマネージャーだったのか、とわかる。そして、ああ、この演出は、舞台は虚構で、日常の些細な出来事にこそ、真実があると言い続けた、ワイルダーを読み込んだ成果なのだろう、と思った。

    「誤意訳」とあるが、戯曲との違いはわずか。原作には、この、理想的な家族のいる、理想的な社会が、既に終わりに近づいていることを暗示させるせりふがいくつかあるけど、主に、そういうものが、カットされている。このちょっとした剪定も、「トレントン・カムデンへの、幸せな旅行」という題を、「ちょっとした夢のはなし」と変えたのも、理想の終わってしまった現在が、それでもかわらないものと一緒に、浮かび上がることを意図してのものだろう。だから、観劇後、どこか切ない。

    続けて上映された映画は、同じ原作で、同じキャスト。舞台では許される「虚構」が、まっとうな演出になると、とたんに許されなくなる。面白かったけれど、ワイルダーとは関係ない作品になってしまっていて、物足りなかった。

    中野成樹は、本当にワイルダーが好きな様子。「いつか、ワイルダー祭『わいわいワイルダー』をやりたい」と、冗談半分に言っていたが、本当にやってほしい。次も観たいと思わせる、地味だけど、確かな作品だった。

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    2008/09/25 11:57

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