テンテン
劇団 贅沢貧乏
アトリエ春風舎(東京都)
2016/12/09 (金) ~ 2016/12/19 (月)公演終了
満足度★★★★
前半は奇才の予感。後半は若さゆえ・・♪
・・という事で、「終りよければ全てよし」の法則に従えば「惜しかった」という事になるが、それのみをもっては切り捨てがたい。
車窓から、世界の
iaku
こまばアゴラ劇場(東京都)
2016/12/14 (水) ~ 2016/12/19 (月)公演終了
満足度★★★★★
良い。
静謐な舞台。と言っても台詞は絶えず交わされているが・・。
こまばアゴラのこの使用法は初めて見た。
新しく出来た駅のホームが、簡素にして見事に現出。
人のまばらさ、喪服、距離感、駅員の登場頻度・・シチュエーションが「らしく」適切である事の快さ。
そしてそこで話題となっている出来事の、不可解さ。
謎解きに躍起になるでもなく言及され、おぼろに「そのこと」は浮び上り、さりとて、だからどうという事でもなく、というより丸ごと抱えるには重く。
もっとも、形の上では、「そのこと」との関わりが人物らの共通項であり、必然「それ」は話題になるのだが・・、語られる文脈の、人物ごとの違いが明瞭で、しっかりした演技の裏打ち。軽妙と深刻の併存両立は、ひとえに俳優の力量と言えよう。
芝居上の圧巻は、主役に当たる教師の立場から発語を繰り出す女性の、さりげなく的を射た、溜飲の下がる論理構築とその言語化(作家を只者でないと思わせる)。・・・が、その言動さえも、川の如く流れる時間、時間とともに流れる会話の中に消え行くのかも知れない。
最後に願わずにおれなかったのは、、今より少しでも人というものが、正しく用いられた「言葉」、その美しさに損得を超えた敬意を払うことができたなら。あァ、そんな世の中になったらねェ・・・
てな事でありんした。(ほとんど感想文)
明後日まで内緒にしておく
らまのだ
小劇場 楽園(東京都)
2016/12/01 (木) ~ 2016/12/04 (日)公演終了
満足度★★★★
働かざる者・・・
らまのだは語呂で覚えるしかなく、意味に引っ掛けられない。人名の可能性は僅かにある(野田ラマとか)。
幸いに縁あって「1かいめ」公演から観る事ができている。戯曲の質は一定レベルを保ち、不出来がないという印象。
基本はリアルなストレートプレイで、割合にマニアックな設定での物語が進行中、ふと挿入される「不思議」要素。それまでの流れにおよそ似つかわしからざる超自然な現象のご登場に、主客が逆転するかのような感覚に襲われ、観客はリアルとファンタジーの微妙な境界をさ迷うことにも。。
現実を現実として破綻なく(つまりリアルに)描く力量があり、どの作品にも共通して、「人にとっての働くこと」や「この世で生きて行くためには生きて行くための諸条件を整えなければならない人の宿命」を背景色にして、人間模様を繊細に描いているイメージがある。「模様」の面白さは、現実感と、人物の言動・キャラのユニークさによるが、戯曲の味わいにとって重要なのはこの「現実味」であろうかと思う。
今作では地方に進出した予備校(全寮制)を舞台に、講師と生徒、経営側(社員)のやりとりを通じて、日本の「今」の諸相を切り取っている。即ち、不況や少子化の帰結としての「経営不振」「退職勧奨」「(講師の)職業人の病み」また生徒たちの十代特有の焦燥と楽観等。
経済的存在である人間の宿命をについて、端折らずに書き込んでいるのが作者の優れた資質だと私は感じている次第だ。
その上でのファンタジックな要素。・・日常的リアルの素描が得意にみえる作者にとってこの「爆弾」(ファンタジー)は何なのか・・・。今後の作家的展開が楽しみだ。
気狂い裁判
向雲太郎カンパニー デュ社
こまばアゴラ劇場(東京都)
2016/12/02 (金) ~ 2016/12/11 (日)公演終了
満足度★★★★
キチガイと読む
向雲太郎を初観賞。他の3俳優も<白>を塗り、異言を呟いたり口走る奇妙な人種の棲む世界・・・そう言えばこれは「舞踏」の比較的スタンダードな世界だろうか(あまり詳しくないが)と、後になって思い当たった。が、これが身体的な表現=舞いではなく、物語ろうとする人物の意思を読み取ろうという気に観客をさせている時点で「演劇」の時間はすでに始まっており、「演劇」として見るならばこれは優れて自由度の高い、それでいて舞台上に充満する「関心」がある一点に集約されて行く感触があって実に興味深いパフォーマンスだった。
元のキャラの濃い年輩俳優が、台詞を噛んでいるのか故意なのか、相手が言わなかった台詞を「ここで何か言う事になってただろ、それを早く言え」と促したり、段取りが変った事に対応しきれてないのか、わざとそういうくだりを作っているのか(とてもそうは見えなかったが)、そんな偶発的な(と見える)場面も、狂気冴えわたるパフォーマンスの一場面として全体に包み込みながら、「そもそも問題にすべきこと」(核のこと)についての一考察たる「演劇的表現」は粛々と進んで行った。
「核」を持ってしまった人類社会の諸相を「きちがい」と規定し直す事が、辛うじて正常である唯一の方法だ・・ などと理屈は言わないが敢えて言葉にするならそういう示唆がみえる。 昼下りのテレビ情報番組では覚せい剤だ万引きだ何だとあげつらっては眉間に皺を寄せ合っているが、「狂わない人間」のほうが実はおかしいのではないか・・。安倍首相の売国的態度を問題にできない狂った感覚で編集された事実の体系(報道)もキチガイ沙汰なのであって、異言を呟きながらでもささやかに慎ましい生活を送る「小さな」人間のほうがよほど高貴で正しい生き方をしているのではないか?・・・などと理屈は言わないが、そんな逆説を語りたくなる。
抽象を具象に直接変換する「舞い」の世界から、さらに演劇的言語への変換によって生み出された(と見えた)好感の持てる舞台だった。
琉球の風
劇団東演
東演パラータ(東京都)
2016/11/14 (月) ~ 2016/11/27 (日)公演終了
満足度★★★★
本土と沖縄の間
沖縄北部の高江が無法地帯と化していると耳にすれば、映画『標的の村』の家族が脳裏をかすめるが、いかにも遠い。「彼の地」の事である。芝居の舞台は東京の旅行会社の営業所、沖縄出身の女性社員の入社を契機に「沖縄」問題と直面することになるノンポリ男性社員の目線で物語はつづられている。実際に沖縄を訪問するシーンもあるが、主には東京の営業所で展開し、一つの「沖縄との出会い」のケースへと観客を招き入れる。機動隊と対峙している高江ヘリパット建設場の温度でなく、あくまで東京の温度で、本土と無関係でない沖縄の基地問題の本質へ一歩ずつ近づいて行くプロセスには好感が持て、「知ること」が人間にもたらす「変化」をさり気なく印象づけたラストに思わず熱くなった。未来をあっけらかんと明るく見る風情は、酷な現実にあっても「沖縄」にふさわしい。
遠野物語・奇ッ怪 其ノ参
世田谷パブリックシアター
世田谷パブリックシアター(東京都)
2016/10/31 (月) ~ 2016/11/20 (日)公演終了
満足度★★★★
「其ノ弐」に続き観劇
震災後の光景が重なった前作では、「能」の基本構造(死者が現前し生者が鎮魂する)の上に「村ごと消失した」現代の風景を重ねて印象的だったが、今作はまた随分それと風合いが異なった。科学的合理主義を推し進めて管理下に敷こうとする権力と、科学的知見を揺るがすような「遠野物語」の逸話をめぐって対立する「検閲」の場が舞台になっている。ユニークなのは柳田国男(に当たる人物)の検閲を担当する事になったのが大学の研究者である事。舞台は検閲が為される過去とも近未来とも見える「実世界」と、検証事例に扱われている遠野物語の逸話の「再現」を組み合わせた構成で、話は「議論」に収束して行く事になる。
遠野物語に収められた話は不可思議なもので、それがどこそこの村の二年前に死んだ某の話だったりする。科学・非科学の論争に流れるのは自然だろう。が、広くて深いテーマだけにこの題材にどうつなげるのか、難しいところだと思う。時代に対する作者の見方が反映する所でもあるが、少々一般的に思えたのが残念。
外道の絆
水素74%
アトリエ春風舎(東京都)
2016/11/10 (木) ~ 2016/11/20 (日)公演終了
満足度★★★★
捕まらなければよし。
法に触れなければよし。いや法に触れてもバレなければよし。いやバレても捕まらなければよし。現実はその通りである。この世は不平等にできている・・という話ではないが、法と倫理道徳をめぐる話ではあった。もっとも水素74だけに「市民」としては平均点以下な、かつ破綻しかけた反面教師共の登場で、そこにイラつきに観に行くところがある。ただ、奇抜な展開のためにか人格破綻スレスレな言動を許す作者が、今回は「比較的」破綻の無い行為の連なりでストーリーが進行。まとまりがあった。といってもやはり矛盾と言おうか、理解困難な言動や人物の変化はある。結局その部分はカッコ内の空白となって押しは弱くなる(背後関係を含めてよりリアルに作られた物語世界は、そこに立ちあがった虚構の力を持つ)。ラストで悲劇を背負う事になった若者は、その証言の信憑性から、実際には罪を免れる事になるだろう。そして当然の事として裁かれるべき者が裁かれる事になるはずだ。・・・という予想が可能で、そうなった場合この物語は何を語ったことになるのか、という事も・・そこまで展開せず不条理の結末に締めくくった事で芝居としてのまとまりはあったのではあるが。
・・そんなこんなはありつつ、役者が各キャラを面白く演じ、部分的にはリアルに迫って、奇怪な人間模様を楽しませてもらった。
高き彼物
SPAC・静岡県舞台芸術センター
静岡芸術劇場(静岡県)
2016/11/03 (木) ~ 2016/11/19 (土)公演終了
満足度★★★★★
甲斐あり。
休憩込みで三時間弱。戯曲としては一場の家庭劇に近いストレートプレイで長編化するような部類に思われないが、終わってみれば。ゆったりと流れる時間が「思わせぶり」ではなく自然にそう流れていく。リアルタイムに進んで行く芝居の「実直さ」が、俳優達の「真心」と相まって滲み出ていた。
古館演出はオーソドックスでやはり青年団の人、緻密でしっかりした演技をさせているが、風通しも良い。若干難点は猪原先生を慕う女性教師の年齢が、もう一人の若い女性より年が嵩んでいるはずが同じ位若く見え、芝居上そぐわない所があった事。猪原先生の長台詞は多いが、聞こえづらい箇所が若干あったこと。(その日は県内学校観賞の日だったがちょうどその聞き取りづらい箇所で一人の生徒は「よく聞こう」と立って身を乗り出していた)
逆に言えばその細部以外は完璧という事か。もう何度か観て噛んでうまみを味わいたくなる芝居だ。
このドラマでは話が進むにつれて一つずつ明かされる「謎」の中で一つ明かされずに据え置かれる謎が焦点化して来る。この「秘匿」の度合いに見合うだけの過敏な事実は、十分な伏線=長さを必要としたかも知れないがそれはともかく、猪俣の現況を説明するのに十分な説得力を持った。そしてそれが猪俣の主観が構成した事実であって、その事実の一方の当事者が、これも意外な形で登場人物の一人となり、事実を照らすという展開、そこに至る時間の長さも、事の過敏さに見合うものである。全てが氷解した時の感動は、出来過ぎな話であっても十分信憑性のある背景を持つゆえに「語るべき話」として現前する。
古館演出は、これは所属劇団サンプルの側面か、一箇所だけ特殊な効果を使った。最後の登場人物すなわち「一方の事実」を告げ知らせにやってきた「立派になった」青年が登場して舞台奥からゆっくりと歩く間、照明が様々に変化し(俳優も声の張り方を変え)、事の特別な意味合いを強調していた。
「高き彼物」という題名、この字句を含む短歌が芝居の中で何度となく読まれる。猪俣先生が座右の銘のように大事にしている歌だが、意味はよく分らない。先生自身も「よくわからん」と言う。判らないがこの言葉が何度か出てくる。猪俣がそうありたいと願う姿、それが高き彼物、らしい。教師として、たとえ辞めても心は生徒と関わり続けたい・・・その理想の形とは、言葉で定義することも能わず、採点評価する事も出来ない、だが何かそういう尊いものに向かおうとする姿勢だけが、(意味が分らないだけに)浮かび上がってくるという寸法。
愛おしい舞台であった。
ゆっくり回る菊池
僕たちが好きだった川村紗也
こまばアゴラ劇場(東京都)
2016/11/22 (火) ~ 2016/11/27 (日)公演終了
はたらくおとこ
阿佐ヶ谷スパイダース
本多劇場(東京都)
2016/11/03 (木) ~ 2016/11/20 (日)公演終了
満足度★★★★
どくどくする二時間
「働きたい」生物である男たちは、「仕事」を与えられたのか、という設問に即して芝居を振り返ると、男はああして働いている=生きている。一つのあり方、とも見える。
一風変わった「リンゴを作る」夢にこの指止まれで集まった男たちが、凋落した会社の建屋に今なお各様の事情により通い、定時まで「働いて」いる。ここでの目標は「リンゴ畑を成功させる」が順当だが、その目標に直行していない何かがあり、何でそうなっているのか判らないが人物らの奇妙な笑える行動の背後で「謎」という通奏低音になっている。そうしながらも、関係する人間たちによって事態は動いている。ただし、「事態」を深刻にしているのは登場人物の「どうでもいい」ミスや非見識だったりもしそうで、ある種の「問題」を純然と浮上させるでもない込み入ったドラマ進行の歩調。そして不条理性の深化は加速し、やがて悪夢の様相を呈してくる。このシフトが徐々に、積み重なるように為されるので、少し前には何を問題にしていたのかが思い出せないまま、「事態」に翻弄されて行く。
芝居のオチに至る手前の最終局面の男らの行動が、また強烈で、男らに心情を寄せてその光景を見ると口に酸っぱい液が湧き出てくる。その前にも別の人物による類似の行動があるが、この異常さは何なんだ・・と思いながらも自分の正常さを明け渡してしまう。
「それが一体何なのか」、についての答えをドラマ内部に意味を見出すのは難しい。ある種の飛躍を要求される。ドラマを超越した、ドラマ「外」の現実も俯瞰する目を求められ、その「物(体)」が象徴するものは何か、思いをめぐらすことになる。芝居上ではその「物」が何であるかは、最後まで判らないが。。
「飛躍」についての説明は、戯曲上の仕掛けとして、最後に付けられる。だが、その時点では、直前までのあまりに毒々しげな光景の印象はすでに深く刻みつけられ、「意味」への問いは根を下ろしてしまっている。
徐々に異常な事態に慣れて行く、感覚の麻痺がすすむ中で、「毒」の浸透を許してしまう・・。この芝居のようなグロテスクな事態は誇張だとしても、10年前には考えられなかった常識が、確かに、日本でも現実になっている。
バカシティ
ブルドッキングヘッドロック
こまばアゴラ劇場(東京都)
2016/11/02 (水) ~ 2016/11/20 (日)公演終了
満足度★★★★
タイムリープが止まらない
こんなに時間移動を繰り返したら、筋わかんないじゃない・・・そんな苦情も何のその、臆面なくタイムリープ、タイムストップ、ストップのストップ、など繰り出す技は子供の遊びばりにエスカレート。「後から」ストップ攻撃、その後からも・・なるほど「後」が有利なのね。「未来人」にはタイムストップ効かないから判別に使えたり、腕時計式のタイムマシンの電池切れとか、故障とか。でもって元に戻れないけどま、いっか、とか。色々いい加減でご都合主義で、そもそも時間移動してる内にパラレルワールドが存在する話(聞いてないよ)になってるが、それじゃ収拾付かないし、つけようとしてる努力じたい徒労で無意味なんであるが、そこそこ盛り上がってドラマしちゃってるじゃん、俺達・・みたいな。無茶な話でも人物らしさは重視されている。俳優には取り組み甲斐のある芝居であり、この「芝居を楽しむ空気」が舞台の面白くしている根源のようだ。
私的には、シュールな部分に面白さを覚え、シュールで通して良いと思うが演出的にはマジ演劇の風合いを狙ってるらしい箇所があって、気恥かしさも過ぎる。が、馬鹿馬鹿しさを最後まで貫いて下さったのは好もしい。
「ブルドッキング・・・」は過去一度だけ観劇、それが大層残念な体験であったのだが、今度の作品は「静か」が似合うアゴラ劇場を、熱くしていた。
『愚図』
KAKUTA
あうるすぽっと(東京都)
2016/11/10 (木) ~ 2016/11/20 (日)公演終了
満足度★★★★
桑原裕子の作演出+出演
御大・桑原が「女優力」を自劇団で発揮するときは戯曲力が満点にならなかった場合ではないか、と、以前より思う所あり。今回はいきなり登場して存在感を示し、果たして如何かと、やや不安気。結果的には、随所で「抉り」の快感を味わえ、悪い出来ではなかったと思う。秀逸な舞台であるが、ただ「部分」は「全貌」の出現を待つ身、やはり「全貌」についての感想が第一に漏れる。もう一つ「部分」を繋ぐ線があれば、そしてその線が現代性を持つものであれば・・あるいは繋ぎ方を違えれば、(下世話だが)賞に近づいたのではないか・・という感想。
愚図が「負け組」を象徴するものだとすると、誰しも持つ「愚図」性に思い当たるという事もなくはないが、芝居の中ではミステリーの進行の途上で「愚図」は特殊な意味合いを帯びて、怪異な物語の印象が強い。
ただ、様々な視点を投影できる作品であるかも知れない。その事が可能な、一連の「起こり得る」事象を、構築してみせた。特徴としては時系列の説明がだいぶ省かれ、しかも中心的な「謎」は最後の最後に意表を突く形で解かれる。そして提示されたのはやはり、一つの事象、事実である。
ただ当たっているかどうか自信はないが、提示された「事実」の解釈に対して、観客に委ねられているとしても作者は無実ではない。ある「傾き」を好まず排除した痕跡があり、それが図らずして仄めかす何かがある。(そこがうまく掴まえられないが)
燦々
てがみ座
座・高円寺1(東京都)
2016/11/03 (木) ~ 2016/11/13 (日)公演終了
満足度★★★★★
申し分なし。
主宰で作家の長田氏は文字で挑む人、その相手はその時々の題材で、山男が山に挑むように目ぼしい相手を攻略するべく準備し、そして「作品」という登頂碑を打ち立てる。むろんそこに「彼女流」が貫徹されなければそもそも作品にはならず、単なる「征服」とは性質は違うが、「得意分野」に安住する事がないアマチュア性と言うか、「商品を売る」人ではない探求の人という印象を、戯曲の文体から(勝手ながら)持っていた。
だが今作は(誤解かもしれないが)江戸言葉の世界が彼女のホームグラウンドであるかのような、滑らかなリズムがあり、主題も、それを浮上させる構成も明確で、細部までイメージされた図面通りに言葉を自在に当てはめているといった風。
だがそれでも今作の演劇的なポテンシャルを高めていたのは間違いなく俳優の貢献だ。主役の葛飾応為を演じた三浦透子、初見で名も初めてだが登場の瞬間から釘づけである。美貌に、ではなく声、沸く血潮、目に見える真実の姿を曲げず、おもねらず受け止め、父の薫陶を受けた絵への情熱だけがほとばしり出る。そんな「情熱」の彼女は決して笑わず、いわんや気遣いなどせず、人の言葉に流されないが納得すれば聞き入れ、感じた通り行動する若き女である。つげ漫画に登場する少女の造作に似た、横から見るとつんと反った鼻先をつき出す猪突猛進の姿勢は「困難」に遭いながらも貫かれ、揺らぎがない。その事を台詞の説明でなく、全身で表現する俳優に魅入った。
父・葛飾北斎の加納幸和も手練の演技。取り巻きも持ち味を生かして頑張っている。
素舞台に竹の棒と衝立状の板で境界を作り、多様に場面を作る。のみならず小道具、装置の一部に変化する。コロスの動きのアンサンブルもよし。モノ金は無くとも遊びには事欠かない、江戸流がそんな所、また転換でのお遊びにも見え、引き戸を開閉する所作も如才なく、緩急とリズムの美が全編貫かれた。これは型、所作をこなす役者の身体なくして実現できない。
てがみ座の舞台として観たから余計、強く印象づけられたかも知れないが・・
十分に語り切れない。
パール食堂のマリア
青☆組
吉祥寺シアター(東京都)
2016/11/01 (火) ~ 2016/11/07 (月)公演終了
満足度★★★★
昭和の風の中で
僅かながら冒頭を見逃したことによる印象の差異は、後から台本等で修正してもなかなか、最初の「印象」は拭いきれない。この作品では、あるのどかな日常の典型的な場面があり、そして非・人間の語り部がこれからこの町の物語が始まることを告げる。町の物語である、という事は風景として眺めることを要求する。それは過去を遡って見るための一つの態度かも知れない。
・・で、私はこの「典型的な日常」の場面を見逃した。この場面は最後にリフレインされる。この時になってああこれはあのパターンだと知れ、頭がぐいっと回転して、全体像を修正しようとするのが分かったが、追いつかない。再構成は無理だった。
おそらく、「猫」のまなざし、遠い目で俯瞰するまなざしを持つと持たないでは場面の見え方が違うのだ。もっとも、場面での人物の行動は理解できるし、面白いのだが・・。
逆に考えれば、このドラマは全体で一つの「絵」を構成するものであり、冒頭とラストは額縁(境界)を示す役割だという事だろう。
枠の位置によって絵の見え方は異なる、が、境界線の位置にかかわらず突き出てくる部分もある。印象に残る場面が幾つかあった。「絵」のカンバス地がうっすらとみえるように思えたのは、妹が涙に濡れる夜のシーン。別れを告げた相手の「温り」が、彼女がどちらに涙しているのか分からなくさせている、そんな「昭和」の風が涙を違和を強めるものとしてでなく受容し、風景の一部にしていた。
少し変わった人たちの、ささやかな人生の物語ではあるが、登場させる人物の「人選」が憎く、人と動物と街の「小宇宙」が美しく形作られていた。(この小宇宙は冷厳な大宇宙に接している。)
愛の技巧、または彷徨するヒト胎盤性ラクトーゲンのみる夢
劇団肋骨蜜柑同好会
シアター風姿花伝(東京都)
2016/10/26 (水) ~ 2016/11/01 (火)公演終了
満足度★★★★
家族問題告発ドラマ/ループ脱出ミステリー
真の主人公は、たまたま「そこ」に居合わせた饒舌な文筆家。だがこの男は本編においては「家族ドラマ」を単に目撃する第三者。
語り手であるこの小説家は、執筆のため編集者に紹介された交通便の悪い宿にやって来る。折りしも宿の先代主人が亡くなったその通夜の晩、方々に散っていた子らが伴侶を連れて集っているが・・・「謎」はそこに当然な顔をして父の友人を名乗る女。「ドラマ」の冒頭では、ヤケに済ましている女への追求が起きるが、各家庭の事情を承知しているらしい彼女は、問いをするりと交わしては話の矛先を相手(親族たち)に向けて埒が明かず、一旦解散。その後、兄弟同士の対話や、嫁同士の会話シーンの合間に、兄弟の一人が「女」と会話を交わすシーンがあり、この女とやり取りした者が少なからず動揺しているという話、また女が全ての相手と一対一で話をしたらしい話、だがそれは物理的に「成り立たない」という話を宿の者がしたりしている。「女は一体何者か」を主たる謎として進行するミステリーは、やがて女が何者かは「知りえない」という予感とともに、ドラマの目的は家族問題の露呈へとシフトしてくる。もっとも、それぞれの家族問題は、子を授からない責任のなすりあい問題、不倫、娘の妊娠等などと出てくるものの、これらが「一つの問題(原因)」に集約される気配はない。というより、何らかの直接的な原因が謎解かれることはない。話はもっと遠大な、形而上学的な次元にリンクする。語り手=小説家が冒頭に提示した問いである。ドラマが収束に向かう頃、その意味深長な問いが再度提示される。即ち、彼が「抜け出せない」時空のループにいること、そしてこれ(旅館で展開されたドラマ)がそこから脱するための最後の試みであること。ここで小説家はその饒舌をフルに発揮し熱弁をふるう。恐らく作者の化身であろう彼の弁舌の内容は抽象的でうまく再現も要約もできないが、名調子であった。繊細であり傍若無人にもなる「小説家」の演技によって芝居は作者の望む閉じ方で閉じる事ができたのではないだろうか。入れ子構造の処理、場面配置や転換、ラスト処理も含めて気合のこもった、「熱い芝居」だと感じた。が、本体の「ドラマ」での家族問題の一つ一つは、多くを説明していない分、背景を深く想像できもするが浅くも見えてしまう憾みあり。
この先が楽しみだ。
治天ノ君【次回公演は来年5月!】
劇団チョコレートケーキ
シアタートラム(東京都)
2016/10/27 (木) ~ 2016/11/06 (日)公演終了
満足度★★★★
目のつけどころ
初演は駅前劇場の後方席で観劇、皇后の笑顔に白けを催した。大正天皇嘉仁を演じた西尾氏の演技が突出。歴史認識の面では、明治・昭和に挟まれたデモクラシーが花開いた時代とは言え、これを大正天皇の個人思想、資質に寄せ過ぎでは・・フィクションとしては面白いけども、という印象だった。
が、すこぶる評判がよく賞まで取った。しかもあの皇后を演じた女優が・・という事で珍しく(会場がトラムという事もあり期待も膨らませて)、足を運んだ。
皇后は内面を見せない「宮様」の所作をなぞり、その所作の中で精一杯「意思」を貫こうとする様が、今回は見えた。もっとも、意味的には、だから何だという話ではあるのだが。
歴史の流れ(軍主導の政治)に抗えない個人、という意味で庶民と同様であった、という結論がそこにある。押さえるべき「問題」は、その抗えなさにある訳だが、抗えない中でも抗おうとした、その痕跡を示し、それを見る者が胸を打たれるというのは、忠臣蔵である。そういう感動の仕方を私は好まない。もし大正天皇もろとも日本の民主主義の萌芽が摘まれたなら、歯がみこそすれ涙などもっての外だ。全て今の問題だ。
芝居は面白い。静謐な宮中でのやり取りが、抑制した台詞が、佇まいや儀礼的な所作が、可能な限り(実際そうなのかなと想像される形で)なぞられていて、その中での感情の昂ぶりも的確な温度で透けてみえ、そうした「現象」を味わう快さがある。そうして人物たちの内面がよく伝わってきた。
大正天皇を俎上に上げた功績、という事になるのだろうが、しかし人間嘉仁物語、というのでもない独特なものがある。
月が大きく見えた日
The Stone Age ブライアント
サンモールスタジオ(東京都)
2016/11/08 (火) ~ 2016/11/13 (日)公演終了
満足度★★★★
現代人の孤独
同じサンモールスタジオで目にした昨年の第3回公演『人が流されていく川』は安楽死施設などというものがある近未来の設定で、内容は抽象度の高い台詞劇だった。人間のある側面をあぶり出す「装置」としてのドラマを追究する姿勢のようなものが汲み取れたが、今回は「いじめ自殺」をめぐる話である。
「らしい」独自性はやはりあった。主たるエピソードは「いじめ」をめぐる主人公(若い小学校教師)を含む学校関係者と親で進行するが、もう一つのエピソードが絡む。よく再現されたセットは少し前に亡くなった母の家である古びたマンションの一室で、教師だった母(登場せず)を慕って元生徒という青年が出入りする。正面がテラスに通じるガラス戸で、「月」と「自殺」のイメージが重なる「場」となっている。
俳優5人、一人一役の簡素な作りだが、「教師」と「親(ここでは母)」、そして出入りする青年を通して「生徒」の、それぞれの「物語」が語られている。そこから、現代人の心象風景が浮かび上がって来る。
非言語の演技を要求する部分で役者が好演していた。
「死」を扱うドラマとしては、より感情移入を可能にする事も演出によってはやれたかも知れないが、この程度の抑制感が「人間探求」には好もしい、と個人的には思った。ステージ全体を使った室内のセットが、臨場感を高めていた。
シンクロナイズド・ウォーキング
劇団青年座
青年座劇場(東京都)
2016/11/01 (火) ~ 2016/11/06 (日)公演終了
満足度★★★★★
「障害を描く」という障害への果敢でしなやかで、涙ぐましくも爽やかな挑戦。
数年前の燐光群での同作初演は作家清水弥生のデビュー公演で、師匠坂手洋二に及ばない二番手レベルか、との先入観で眺めたものだが、モノローグ(またはモノローグの分担)の多い坂手作品に比べて普通の芝居、対話によってこまやかに事態が動く、ただしモノローグやスローガン的台詞もあって坂手色。対話(ダイアローグ)とモノローグの二つのバランスを、燐光群寄りの演出(全体でモノローグを分担して言い合う雰囲気が支配的)でまとめた、私としては消化不良の舞台だった。
劇作家協会新人賞を争って惜敗した秀作「ブーツ・オン・ジ・アンダーグラウンド」を経て、昨年はフィリピン・日本を題材にとった作品がまた優れていたが、私にとっては清水氏の船出になったこの作品の「リベンジ」への期待、また女優・西山水木演出への未知なる期待をもって観劇した。
戯曲は東京オリンピックに向けた実際の動きとリンクした改稿が見られ、他にも随分書き改めた跡があったように思う(記憶は朧ろで確証はないが)。初演の粗い印象は残るが、障害者と路上生活者を絡ませる設定は「硬さ」「盛りすぎ感」を生む反面、この場所・人にしか出せない台詞を発せしめることで自立と連帯のテーマを新鮮に浮かび上がらせていた。「ブーツ・・・」にも描かれた障害を持つ者の「欲求」への悲痛で美しい叫びがあった。
西山演出、終始生演奏が幅広い音楽性で舞台を全面的に支え、脇役でポイントとなる男二役には外部からの役者を当てた。内一人が音楽絡みでもヤクザの演技でも場をさらっていたが、全体のポテンシャルの中に溶け込んでいる。時として飛躍気味なテキストに、丸みとユーモアを与え劇空間に馴染ませるのを高いテンションが可能にしていた。動線やシーンのまとめ方、映像の仕込みなど、多彩な趣向は(「本当は俳優だと見るせいか)見事に演出を果たしたと感服。
これは一長一短だが、決め台詞が多い。あれだけ言い切ってもまだ「無理解」になびく要素は残る、その退路を断ちたい思いは痛いほど分かる(と、自分では思っている)。が、「感動」の色合にまとめるシーンの決め台詞がたび重なるのはきつい。涙はもっと振り払っていい、一度泣いて、そして最後にもう一度、泣けばいい・・というのが体の正直な反応。
ただ、この作品の(私にとっての)真価は、(これも「ブーツ・・」にあった要素だが)障害者の恋愛に触れていることだ。そのシーンをこの舞台上に作れた事に、作者の心尽しと演出の粋に、拍手である。
(演劇の力とは既成事実をそこに作り出すこと。)
10月歌舞伎公演「通し狂言 仮名手本忠臣蔵」
国立劇場
国立劇場 大劇場(東京都)
2016/10/03 (月) ~ 2016/10/27 (木)公演終了
満足度★★★
昔からある方の国立の劇場で昔からある歌舞伎というものを覗いてみた。
そう言えば国立劇場には知人の舞踊発表で小ホールに、また別の知人が出るというので演芸場に、一度だけ随分前に来ていたことを思い出した。が大ホールは初めてである。
第一部の終盤あたりから観劇。当然安い三階席。見晴らしはよく、かき割りや人物の輪郭ははっきり見えるが、表情が見えない。芝居鑑賞の上では視覚からの情報がなかなかに少ないという事になりそうだ。途中から観たという事もあって、何も分からない。睡魔が半端なく寄せては、寄せっぱなし(体調の問題もあり)。せめて場割りごとの粗筋位は、予習して行くのが正しかったと反省した。
唯一、切腹のシーン「由良之助はまだか~」のくだりは落語で馴染みがあり、ああこういう場面だったのか・・、と楽しんだ。
江戸の当時の丁稚風情が芝居にうつつを抜かして団十郎とかナニ左衛門を目にしていたというのは、(それが実態を反映しているならだが)一つの目から鱗体験だった。仕事の最中に芝居見物をしたのが旦那にバレて、お仕置きに蔵に入れられたところが、大の芝居好き、今頃どのシーンをどんな風に、と考え出すと矢も楯もたまらず腹の空いた事も忘れてすっかり覚えたシーンをやり始める。やりながら感極まって熱が入って来るのがこの場面で、いかに感動的なシーンかを、丁稚が演じながら雄弁に説明してくれるのだ(蔵丁稚)。
国立劇場の三階席でも、これから切腹のシーンと見てとれ、いかなるクライマックスかと待ちかねた、もとい、待ちわびた。落語の紹介の仕方は正確であった。 駆け付ける由良之助役は松本幸四郎、観劇中は誰が誰であるなど皆目分からないが、花道を歩くテンポや空気でこの者が主役だと判る(腹を切る殿ではなく)。その由良之助は一際声が大きく、花道から現われる場面では、今逝かんとする主君を見てすぐさま駆け寄らず、無残な姿を見てガックリと腰が落ちる、という芝居をする。この間が、「早く行かなきゃ、時間無いっショ」と素人に思わせ、おまけに上体がやや反り気味になるので、偉そうに見える。悠長だし偉そうだが、否、こちらが主役なのだろうから、たっぷりと大芝居を打ってもらわねばならず、無念さや悲しみをこの男の仮託して観客は胸を詰まらせるのだな、と脳内で補足しつつ眺める。
・・ガックリと来たあと、仰天するような「反り返った」声を発する。これが主を失う無念さ、悔しさ、理不尽さへの怒り、己の無力への落胆・・・・などなどの心情を天井を突き抜けんばかりに表現する、のコーナーであるようだ。
「忠臣蔵」の話じたいは第三部まで続き、殿の切腹はその序、第二部からも観てみたいが残念ながら午前11時から5時間を確保できる日がない。
驚いたのは客が全て、ご高齢の方々だった事(0.1%位は40代が居たかも知れない)。もっと下の世代が居ても良いと思ったが。確かに平日の昼間に4時間も5時間も劇場の中で過ごせる現役勤労者は滅多に居ないだろう。
それよりも気になったのは、本当に観たくて来てるのだろうか・・。伝統芸を一度は観て置こう的な、半ば観光の対象になっておるのではないか。・・帰って行く客の様子をみてその事を感じた。
舞台を観た率直な印象は、「歌舞伎」である事の要素はぞんぶんに味わえるが、どこか古典芸能の領域に収まっている感があって、「演劇」であれば求めたい新鮮さはない。市川猿之助や勘九郎(勘三郎)の活躍を「演劇」の側は目にしているけれども、「本体」の方は保存・保護の意識が強いのではないか、と勝手な推測をしてしまった。
もっとも、素人が三階席から眺めた印象で決めるのは不遜かも知れない。見慣れた人なら遠目でも、芝居の空気が彷彿として来る、という事がある。
完敗の歌舞伎観劇のリベンジはいつになるか・・・
ゴドーを待ちながら
Kawai Project
こまばアゴラ劇場(東京都)
2016/10/19 (水) ~ 2016/10/30 (日)公演終了
満足度★★★★
こまばへやってきたゴドー
原田大二郎のウラジーミル(ディディ)、高田春夫のエストラゴン(ゴーゴ)が自由に動けるスタンスで時折前方を眺める、即ち観客を睥睨する。時には極接近して目を合わせたり若干声をかけたりする。この距離、狭さ、こまばくんだりまで興業にやってきた感覚?
特に原田氏の、身体の角度、表情、意図的な演技は、演劇における「見せ物」として成立、心情が(作られた)キャラクターと一体となってどんどん入って来る。
あまりに有名なこの作品を何度も観た気がしていたが、実際は十数年前世田谷パブリックで柄本明、石橋蓮司、片桐はいり、松村克巳のを観てその後戯曲を読んだのみ。その舞台も当時は第一線俳優の舞台など興味なく友人に誘われて付いて行き、大半眠ってしまった観劇だった。二人のキャラはこんなに違っていたとは・・・同じような境遇の男が二人、とぼけた会話を延々とやっていると思っていた。
・・その舞台は最初二人が「いかにも」な、つまり「お芝居ですよ」と判る結界のごとき枠の中に入って、「さあ、どう出る」と挑むように見合って始まった印象がある。素を出して笑わせる瞬間はいかにも「知ってる」間柄の空気、どうも好きに慣れず、しかも本編の芝居とは繋がらない。必死に台詞を出して、名高い二人の俳優の「競演」を、汗を流すスポーツのようにやってどうする。台詞を必死に出し合い、とちった回数の少なさを競う競技のレベルに下げた、と感じた瞬間があったように思え、その印象は「そぐわないもの」として素人ながらに記憶に刻まれて、今思い出している(記憶の書き換えなるものがあるいうから要注意ではあるが・・)
ポッツォとラッキーのくだりは戯曲の謎を深める要素で、今回も興味深かった。桟敷童子の稲葉能敬のラッキー。桟敷童子の役者の客演舞台を最近複数目にしたが、「桟敷童子らしさ」は演技の土台になっていて、ある種の信頼感がもてる。ポッツォ(中山一朗)は戯曲から湧くイメージにピッタリの造形で、台詞も秀逸で作者の才能が迸る部分である。自らのアクションが相手(主役二人)に及ぼす影響を鋭く察知し、ないしは彼流の理解の仕方で理解して先回りした心遣いを彼流の仕方で行なう台詞を迅速に置いて行く。それらの言葉全て己の優位を確信するために吐かれていると見えて、実はナイーブな実態が、後半の展開と合わせて見えて来る。
この、「どうでもいい」人達の顛末が、「変化」を強烈に奇天烈に暗示しながら、主役二人にも訪れる「時間」の存在を思い出させる(普段は全く忘れているかのようだ)。
何につけ悩んでしまうゴーゴを気遣うディディ、二人の会話が「そろそろ帰ろう」という展開になると必ずディディが「ゴドーはどうする」と思い出したように言い、この時ばかりは相手を難じる事なくゴーゴは、「そうだ・・」と言う。
「ゴドー」はゴーゴにとっても否定し得ない、というか肯定的な何か、と想像する事くらいしかできないが、二人の間だけで出来上がった代物でない事が、子どもの登場で知らされる。「ゴドーさんは今日は来られなくなった、明日は必ず来る」と伝言を授かったと子どもは告げる。第三者も知っている存在、それがゴドー。
一幕ののんびりとした時間に比べ、二幕はよりゆっくりと時間が流れ、薄暗く重くもの悲しい。相変わらず会話を交わし続ける二人だが、そこで語られている事は何なのか、何を証そうとする行為なのか。
恒久の時間の中に、今二人が確かに存在し、出会っており、時間は未来に向かっていること。それ以上の事実は何もない・・。存在する事の実態を言い表わすとすればそんな程度でしかない、それを悲しいと感じるなら悲しいし、それでも未来に希望を見出すというならそれもいい。・・様々な思いが心の奥底に潜んでいるようにも想像される二人の姿が、モノトーンの照明の中で静かに浮かび上がっていた。終幕。