「シェフェレ」女主人たち
ハット企画
「劇」小劇場(東京都)
2017/05/11 (木) ~ 2017/05/21 (日)公演終了
満足度★★★★
黒テント創立メンバー服部吉次とその所縁のベテラン女優による企画、今回は本格的な舞台という事で注目、そのためステージ数が多いという事もあり、初観劇となった。演出と美術に欧州人の名があり、カーテンコールでも呼ばれて出ていた。戯曲も秀逸だが、ローマ法王との恋や信仰についての台詞など、欧州産である要素を日本人がどうクリアするか、会話主体のシュールな戯曲であれば一層難しいが、三女優はその問題を凌駕した地点にいた。
舞台は日本人離れしていながら、言動に必然性のある、しかしどこか幻想的で、クソ・リアリズムが鮮烈な、なかなかお目に掛かれない代物であった。
「蝉の詩」
劇団桟敷童子
すみだパークスタジオ倉(そう) | THEATER-SO(東京都)
2017/04/25 (火) ~ 2017/05/07 (日)公演終了
満足度★★★★★
これは五星にしませう。炭坑三部作にもあった兄弟(姉妹)愛のモチーフだが、そのバリエーション(同じ轍に流れない)の書き分けに驚かされる。筑豊炭田を流れる遠賀川の船運送会社の斜陽の時期を捉えた物語で、四姉妹の次女と三女、父、三女を慕う青年四名の客演が申し分なく馴染み、良い意味で際立ち、複数のエピソードの絡まり具合といい、時折「劇」をはみ出す笑い取りといい、二次曲線的に競りあがる激情の瞬間といい、全てが絶妙な按配で「静かな屋台崩し」のラストもドラマの理に適い、完成度という言葉を使うなら、高い完成度を達成した桟敷童子の面目躍如たる、というか往年の舞台。
この丗のような夢・全
水族館劇場
新宿 花園神社 境內特設野外儛臺「黑翁のまぼろし」(東京都)
2017/04/14 (金) ~ 2017/04/23 (日)公演終了
満足度★★★★★
笑い泣き有りの路上劇(多分さすらい姉妹)を歳末の寄せ場(所謂越冬)でやってて、あれの本体は水族館劇場と言うそうだ、と耳にしたのは十何年か前。最近HPを見つけてチェックするようになり、夢の島公演、これに二の足を踏んだ所、その年に知り合った芝居好きがその公演の事であろう、心底衝撃を受けたと証言。
それで次の太子堂公演を観、年末寄せ場のさすらい姉妹(今もやっていた!!)を二年続けて観た。こちらも芝居的には一趣向だったが、本体のテント公演の何力と呼んで良いのか言葉が浮かばぬが、圧倒的なその持てる力を今回は存分に堪能した。
初の新宿公演即ち花園神社進出、なのだとか。四方に足場を組み、傾斜客席三百席。梁山泊の十八番である池も作られているが、こちらは鯉が泳いでいそうな苔むす濁った水、これに役者が飛び込む。幕間の余興芝居で釣り師が本物の(まさか作り物ではなかろうというリアルさ)巨大な錦鯉を抱えて登場するというこだわりだ。
アングラ的尺度(紅テント的尺度と言った方が良いか)に照して、往時のエネルギーに最も肉薄しているのがこの一座なのでは・・。
役者力をみせる者もいるが、モロ素人の起用率は高く、古参女優二名は名優と言うよりきわもの感を湛えた怪優の類。だが妙なる台詞に導かれ、幻想物語は進行する(宣材に書かれたあらすじが補助になるかは怪しい)。奇妙な展開に意表を突かれ通しだが、作り込まれた舞台による説明不要で言葉を封印する屋台崩しのカタルシスは「正統に」追求されており、その中心に「水」がある。
唐十郎的世界=遊戯性と革新性を互換させ得る表現は、安全圏を相対化する危うさを醸すが、これ即ちアングラであり、源流は「面白がる心」のようである。
忘れる日本人
地点
KAAT神奈川芸術劇場・中スタジオ(神奈川県)
2017/04/13 (木) ~ 2017/04/23 (日)公演終了
満足度★★★★★
KAAT公演は初地点観劇の「悪霊」、「三人姉妹」、前回の「スポーツ劇」に続き四作目だが、毎回新たな舞台構造(役者の動作や発語を制約する法則性を伴う)を作ってみせ、想定など元よりしないが無意識の想定を必ずや裏切られるのが、今や快感である。
今回は大スタから中スタに移ったが規模を縮めた訳ではなく、2スペースをぶち抜き、大スタにあるバルコニーが無い分むしろ開放感が増している。
中央に白木の舟が置かれ、周囲の空間を十分にとって紅白の紐で四角の結界を低く渡してある。
七人の俳優の衣裳が奇妙である。モンペ姿の男、着流し等、奇妙に「和」を混入し、最初は皆小さな日の丸のシールを貼ってある以外は統一感が無い。
だが地点特有の喋りの前には、衣裳の違和感など背景程度である。
と言っても今作ではテキストじたいが謎めき、不自然に区切る喋りはだいぶ抑えられていた。
忘れる日本人」のタイトルが既に挑発的だが、手脚だか触角の先を小刻みに動かしながら動くミジンコのように動きながら喋るのが、今回のスタイル。微生物並みにすぐ忘れるという皮肉なのか、殊更に強調していないが、笑える。結界あたりの透明な壁に手が触れるとバックに流れるノイズが無音になり、結界から外に出ると不可思議な音に変わり、その者は喋りをやめて脳が停滞状態になる...忘却の時間だろうか?
芝居の中盤から中央の舟に手が掛かる。これを抱えようとしたり実際に運ぶ様は、ちょうど舟が日本列島にも見えてきた頃合い、国を背負わされて右往左往する日本人を写して雄弁。
地点の役者力を目の当たりにした。
KUDAN
TOKYOハンバーグ
座・高円寺1(東京都)
2017/04/12 (水) ~ 2017/04/16 (日)公演終了
満足度★★★★
中盤まで、忍耐でみた。終わってみれば絵画的な舞台であった。部分的ストーリーが最後に符合する展開も、風景の一部としてカンバスに収めて舞台上にガン!と置いたような、虚を突かれる終幕には衝撃を受けた。
エレクトラ
りゅーとぴあ 新潟市民芸術文化会館
世田谷パブリックシアター(東京都)
2017/04/14 (金) ~ 2017/04/23 (日)公演終了
満足度★★★★
昨年見逃した『オフェリアの影の一座』に続くりゅーとぴあプロデュースによる、こたびも白石加代子出演の舞台だったが、ギリシャ悲劇(32作あるという)の世界であり、その中のアトレウス家の物語(10近くあるらしい)を再構成したとの事。アガメムノン(父)とクリュタイムネストラ(母)、その娘エレクトラ、イピゲネイア、息子オレステス。トロイア戦争。・・耳に馴染みのある名前だから、知る人には有名な話なのだろう。後で調べたものと照合すれば、母は前夫を殺した男アガメムノンとの間に生まれた、上記の子らに囲まれて暮らしていたが、子らにとってはアガメムノンこそ父であり、物語はトロイア戦争から凱旋したばかりのその父を、母と結託して殺し、王座に収まったアイギストスと同じ屋根の下に住まうエレクトラ(高畑充希)の苦吟の様から始まる。そこへ亡くなったと聞いていた弟オレステス(村上虹郎)が現われ、父母に復讐の刃を向ける作戦として自分が死を偽装した事を告げ、エレクトラと共についに敵を取る。だが命乞いするアイギストスの口から、彼らの親とその親からの血塗られた因縁を聴かされ、またクリュタイムネストラ(白石加代子)が最後に見せた母の顔を目に焼き付けてしまった二人は、実母を殺めた罪で裁かれる拘留の身にあって気が触れんばかりに苦悩する。・・時系列に進む比較的分かりやすい一幕の後、休憩を挟んで二幕に進む。ここでは一幕で登場しなかったイピゲネイア(中嶋朋子)による長い一人語りに始まり、途中オレステスらの登場はあるものの、主に「語り」に終始して芝居は終わる。イピゲネイア(エレクトラの姉=長女)がトロイア戦争に勝つためアガメムノンが神に捧げた生け贄であり、幽閉された身でひっそり生きている、という事は一幕にも台詞に一度は出てきたように思うが、これは前知識がなければ分からない。生きながらえたエレクトラを中嶋が演じているのか、と暫くみてしまった。混乱し、眠くなり、二幕は睡魔の内に終えた。
以上は3階席で観てのコメント。世田谷パブリックの3階席は、1ランク料金が下がるだけの事はあって、いまいち芝居に入り込めない事は多々ある。今回もその嫌いはあったと思う。
世界は嘘で出来ている
ONEOR8
ザ・スズナリ(東京都)
2017/04/02 (日) ~ 2017/04/09 (日)公演終了
満足度★★★★
「ゼブラ」at 雑遊以来のONEOR8、OR田村孝裕作の舞台。二、三度だけ目にした田村作品の印象は、笑わせてwel-made、少量の毒も終演時には100%解毒。
しかし今回はタイトルから、「毒」有り覚悟せよとの挑戦状? 受けて立つべし・・と観劇に至る(会場がスズナリというのも大きかった)。
甲本雅裕(どこかで見た俳優だと後部座席から見たが終演後その通りだったと確認)、あとカラテカ・矢部(こちらは一目瞭然、確か以前別の舞台でも見た)。
客席に流れる空気が少し違うのは、著名人を見に来てるモードが(大型であるかどうかはこの場合あまり関係ない)じわっとある・・これが嫌なんだと今回改めて自覚したがそれはともかく。・・ONEOR8は著名俳優を使うとはいえ、本来の面構えは普通の劇団・・・つまり舞台を軸足に置いた「作品勝負」の演劇活動に勤しむ風貌だ、と勝手に理解している。
従って断りもなく「普通に」批評対象として扱うが、さて、どんな出来だったか・・。
舞台の平均値的な「出来」はともかく、メジャー・映像系の俳優で作られた舞台の持つ弱点が、どうにも見えて仕方がなかった、そういう舞台であった、という事に残念ながらなる。出来はそこそこ、いやもっと、かなり良い「はず」なのだが・・何故そう感じるのか・・・。(また後日)
ノドの楽園
studio salt
KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)
2017/04/06 (木) ~ 2017/04/09 (日)公演終了
満足度★★★★
ここ4、5年の数作しか知らないが、saltにとって恐らく満を持してのKAAT公演はsaltらしさ(小世界なドラマ、一見淡白)を保ちながらも、膜の向こうの世界へと浸潤して行きそうな、何かが産み落とされそうな、リアルには儚く消えそうだがそれでも何かを残しそうな、そんな感触を残す舞台だった。
各登場人物の「らしさ」に、愛着が持てた。やはり断片的で側面的な描写ではあるが、人が集まって形成された「世界」(芝居上の)が見えた。
「原発事故以後のドラマ」のカテゴリー(というものがあるとすれば)の中でも独特な設定だった。だが奇妙なこの状況が最後には馴染んでおり、かつ、この設定でなければ際立たない、美しい言葉が最後に響いていた。降り続ける灰を雪と見まごう風景のごまかしは人間の素朴な「生きる」願望を切なく、力づよく照らす。
・・とある公園。70年代あたりに作られたような、在りげな造作物が配置されたリアルな美術がまず目を惹く。中央の大きなそれはピラミッド型に左右から階段が中央に二段階延びて、中央上部には昔風のUFOからピコンと飛び出たようなアンテナ様のバーが突き出る。その下は人が通れる。そこから舞台側には石だかコンクリ製のベンチが幾つか配されており、上手手前のベンチに寝るホームレスの他、階段の上や途中にそれぞれ尻を落ち着けている者二人。この場所で幾組もの人物らの小さなやり取り(ドラマのさわり)が演じられ、暗転、時間経過の後、打って変わった後半に入るという仕掛けだ。
「みなとみらい原発の事故」後であるという全体状況の飛躍、そして、各人物のドラマの展開の飛躍。それらがこの上演時間内に、有機的に繋がったリアルな関係図として見えて来るには、役者の力量も要っただろう。
作家の意を汲むstudio saltのマスター=後半の中心人物となる役を演じた浅井氏が芝居の血液となり、同劇団員東氏、その妻を演じた客演の松岡氏の突き抜け具合、他の役者の「らしさ」もそれぞれにこの劇世界に貢献していた。
行間の広い、ややもすれば危うく解け落ちそうなsaltの虚構世界にあって、KAAT大スタジオを広く感じさせず「群像」を見出させてくれた事が嬉しく、つかんだ雪の結晶は会場出口付近ではもう蒸発していたが、記憶の欠片を大事にかき集めながら歩いた帰り道であったぞな。
あるいは友をつどいて
ハツビロコウ
【閉館】SPACE 梟門(東京都)
2017/03/28 (火) ~ 2017/04/02 (日)公演終了
満足度★★★★
鐘下辰男作品の台詞がそこにあった。ハツビロコウ第3弾は、後で調べると2004年THE・ガジラで初演の作。というと、三菱重工爆破事件(1974年)から30年。今年は何と43年後。
限りなく犯人グループ=武装闘争に身を投じた者の側に立って論理を汲み取り、そして批判にもさらす。動機が正しければ手段は正当化される・・訳ではない厳粛な事実について言及される・・。
聞き取り役の男(ゴーストライター)が、語られる事件の当事者の関係者だった、という展開は、第三者の視線による風通しのよさを歓迎していた観客には閉塞感が増したが、犯人グループへの批判と、問題意識への傍観者性は凝縮され、議論は熱を帯びて本質に迫る。
正義感の向けどころを失ったまま突き進んだ彼らを「特攻精神」=日本の悪しき習性すなわち非論理的精神主義=への回帰として彼ら自身が疑問に感じていたことなども語られ、なぜその行動へ至ったか、人間ベースの理解を深めるための補助線が引かれていく。
60年代から70年安保の山を越えた後の「政治運動」は、敗勢の焦燥からか連合赤軍事件など「暴力」が前面に出てしまい完全に世論を敵に回してしまう。
だが、「日本が」という主語で語られる国家・社会が構造的に負っている悪・・朝鮮戦争・ベトナム戦争で兵器産業が潤い日本経済成長の原動力としたこと、それは日本がアジアを植民地化した論理(経済第一主義)の延長と言え、「あるべき関係」からの乖離であるこの実態は是正される必要があり、日本の富が他国の(人民の)犠牲や貧困の上に成り立っているならば、その恩恵に与る自己を批判し、公正さを求めて行動するか、怠って為さないかのどちらかしかない・・・。
この問題意識。「行動」の中身は多様にあれど、行動するか・しないか の問いからは逃れられない。・・そして彼らは「行動する」事を選択したわけだが、効果が早急に、目に見えるような行動でなければならない、という縛りに彼らは必然にハマり込む。迅速な効果を狙わなければ、今も搾取される人民は苦しみ続けなければならないからである。そこで「多少の犠牲」も尊い目的のためには正当化される、という事が起きる。
終盤、既に故人となった二人のメンバーがようやく当事者としての身体から解放され、「私は自己批判します。」と始め、簡潔に一言「当時の私達は人の命を軽視していた」と総括する。己の非を認めた発言は、全編でここだけである。
つまり、再び「現実」に向き合った時、何を選択するのか、正解は何なのか、彼らには判らないのだろうと思う。
そして私たちも、実は分かったようでいて、それは単に今の「常識」がそうだというだけに過ぎず、自ら出した答えでも何でもなく、結局分かっていないのだ、と思う。
考察はつづく。・・・
くじらの墓標 2017
燐光群
吉祥寺シアター(東京都)
2017/03/18 (土) ~ 2017/03/31 (金)公演終了
満足度★★★★
新作も期待される坂手洋二だが、過去作品にもじっくり取り組んで欲しいと思っていた。『カムアウト』に続く再演物は、坂手氏の好きなアイテム(分野?)くじらを題材にした戯曲の一つ。場転は殆どなく、使われなくなった作業場(鯨の解体所?)の中に、多彩な光景が位相となって出現する。
主人公の青年とその婚約者、彼の亡くなったはずの6人の兄たち(鯨捕りの一家であった)、母の死後引き取られた養母、婚約者の叔父、謎の女(婚約者と存在が重なり、兄弟の母でもあるかのよう)とその姉らが、幽霊かと思えば生きてる人、かと思えば間違いなく死者である者が出現、また幻視か錯覚か解釈不能の者、だがそれら全て夢と知って納得、と思いきや最もナイーブな部分は現実で・・といった具合に関係性の転換も実はめまぐるしく起こっていて最後まで観客を翻弄する。
そして舞台上には常に、風というのか、音、空気の肌触りが通奏低音のように流れている。それまでたった一人不在であった者が、最後に異形の者として現われた時、能の構図をみて合点させられる。人間の「死に繋がる」心の風景が、結語として置かれざるを得なかった(戯曲執筆当時の)作者の時代観察を想像させられるが、今に連続する風景である。
エレファント・ソング
名取事務所
「劇」小劇場(東京都)
2017/03/17 (金) ~ 2017/03/26 (日)公演終了
満足度★★★★
小さな編成での濃密会話劇、名取事務所の海外戯曲公演は今回で三作目だったか。
ミステリー要素が強い作品は、思わせ振りな展開の最後に、思わせ振りに見合うオチがしっかり用意されているかどうか、またオチをしっかり含み込んだ(客の関心を惹き付ける狙いに終始しない)人物像の形成が為されているかが、要かと思う。
今作は惹き付けは十分、人物形象は理事長はOK、青年は頑張っており、看護師は出番が少なく形象の如何を問うまででない、とすると戯曲の(オチの)問題か。
会話をぶっ通す二人の技に感心しつつも、やはり評価はまずは戯曲、物語に対してだ。
The Dark
オフィスコットーネ
吉祥寺シアター(東京都)
2017/03/03 (金) ~ 2017/03/12 (日)公演終了
満足度★★★★
思い出し投稿・・ 大竹野正典戯曲の上演で知ったオフィス・コットーネの非・大竹野関連作品を初めて観劇した。海外戯曲上演のメリットは「良いものを選んでいるに違いない」という計算が観る側に働く。デメリットは「遠い問題」「他国の文化を理解しないと難しい」といった懸念が働く。ポストトークでは演出家が10年来やりたいと願ってきた作品とか。さて、蓋を開けると。
構図が明確で意図も分かりやすい(気がする)、名品の香りがある。停電の一夜に隣り合った(同じ構造のそれが寄り集まった)ハウスの各世帯の構成員が互いの家を誤り、あるいは意図して入り込む等し、普段見られない事態が展開、その中で家族の問題が露見し、最後には闇の中で語り合う場が生まれる。と、通電し現実に戻るがそれまでの関係から何らかの変化を起こしている(良い変化に見える)。・・三世帯それぞれに抱える問題が現代の病理を表し、シリアスさが勝った芝居になっていた。そう見えたのだったが、基調が喜劇に作られたほうがシリアスさが浮上したのではないか・・と思った。
個人的には、後方席からは人物が区別しづらい俳優がおり、「判らない」状態に睡魔が襲う時間が生じてしまった。・・装置は上段まで高くそびえ、不規則に繋がる部屋が配置されているが、三世帯それぞれが芝居の中で占有する自宅領域が、ダブっていたり、また「判らない人物」が家を出て他人の部屋に入り込んだりすると、混乱である。説明的でない台詞だと尚の事だし、停電の夜という薄暗い照明もそれに加担した。どれか一つでも、我が方に歩み寄ってくれていたら・・と。特に「判別しづらかった」のは十代男性と中年男性。演技なり衣裳なりでもっと工夫できなかったのか・・とは正直な感想。
亡国のダンサー
劇団黒テント
ザ・スズナリ(東京都)
2017/03/25 (土) ~ 2017/03/29 (水)公演終了
満足度★★★★
佐藤信10数年振りの新作という。とすると・・私の観劇対象が二、三劇団だった2000年頃初黒テントの音楽劇「メザスヒカリノサキニアルモノ、若しくはパラダイス」の初演と再演(野外)の衝撃を再び、と足を運んだあの、スタイリッシュだが難解で暗く、案内はがきの地図では会場に辿りつけず開演30分以上を見逃した者には一層絶望的に晦渋であった「絶対飛行機」以来という事か。
アングラ演劇の一角を担った佐藤信の、10数年を経ての現代批評を確認するべく、スズナリを訪れた。
パンフに唯一作品内容に関して記述された「乙巳の変」(以前は大化の改新と学校で教えた)の説明。この史実の劇化でないことは容易に推測され、なおかつ「この史実でなければならない」理由も無さそうで、以前の「絶対・・」に漂っていた抽象の度数からして、これはこの芝居の「現代」(から類推される近未来の雰囲気)と「過去」をつなぐラインを形成するために持ち出したに過ぎないようにも見えた。
この古の物語を朗誦するグループと、近未来のリアル芝居グループがあって、時折朗誦グループが「乙巳の変」の一節を語る。
ただし近未来グループの芝居も抽象度が高く、「部屋」が何かの象徴になっていたり、記憶喪失らしい男(服部吉次)が彼を取り巻く人間から何を掴み取るかは自由なので(何を選ぼうと成立するので)、さまざまな着想を描きこむキャンバスがそこに設えられた格好だ。そして瑣末だったり遠大だったりするやり取りの中に、佐藤信が仕込んだ「問い」が、時間や世界や人間についての問いが、ひょこと顔を出す。佐藤氏は思考の結論を書いてはおらず、確定したストーリーも無い(自分が読み取れなかった可能性はあるが・・もっともその場合は戯曲に理由がありそう)。どこまでも抽象画なのだ。
もっとも、私は面白く観た。因果律を疑い、忘却を評価し、(因果=物語を語る演劇でなく)舞踊に人間の生のあり方への接近をみる、といった知的な「揺さぶり」は、現代の病理への処方として、急務であるのかも知れない・・。そこから佐藤氏がこの芝居を打ち出していると推測することはできた。
・・とは思いつつ、それらの含意を「負」としてでなく「正」の叙述に転換するなら、「メッセージ」になる。人は芝居からそれを得ようとし、作者がそれを与えたいという双方合意があるなら、より分かり易く伝えてよいのではないか・・そんな思いを持つのも当然だろう。
しかし、言葉の抽象レベルの「遊び」に見合う演出が施されていたのも確かで、やはりこの芝居の形は全体で一体のものだ。
やはり近未来劇?と「乙巳の変」との重なりの薄さが、ネックであるという事になるか・・・
役者が良かった・・・服部氏を見にいったようなものでもあるが、皆一段高いステージでの演技が要求されている。ただ私の観た回では役者がうまくない噛み方をした箇所が二三あり、台詞が身体化してない証左に見えてしまった。観劇中は興醒め感を振り払ったが。
まあ挙げれば諸々、減点要素はあったものの、なぜか気持ちよく会場を出たのは、佐藤氏の現在の「現代批評」を覗き見、その輪郭だけはお土産に持たされた気持ちからだろうか。
記憶喪失とはある面では因果や意味(しがらみとも言う)からの救済であり、一方現代は記憶喪失の世紀である、との警句とも解せる。
・・汲み取った(つもりになった)のはそんな所。
悪童日記
サファリ・P
こまばアゴラ劇場(東京都)
2017/03/25 (土) ~ 2017/03/29 (水)公演終了
満足度★★★★
戯曲も書いてるアゴタ・クリストフ原作の世界的な話題作は90年代前半だったか・・二人の男の子(兄弟)が親戚の家であくどい所業をはたらく話、と憶えていた。二人は双子だった。親戚の家は一人暮らしのおばあさんの家だった。おばあさんは温和な人でなく激烈な人だった。二人は人の生殺という領域に手を延ばしていた・・等々のストーリーの断片、そして原作の持つ雰囲気を徐々に思い出してきた。
その意味でこの60分のパフォーマンスは、原作を尊重し、原作の魅力を具現しようとしたもので、「悪童日記」のタイトルに惹かれてやってきた人間の期待を裏切らず、しかも身体を酷使して全体の美や雰囲気(狂気など)を形作ってみせた極めてクォリティの高い「芝居」だった。
5名のパフォーマーの内俳優が二人、他は舞踊系のようだったが、皆が発語に優れ、身体性にも優れており、判別がつかない。
小さな双子の男の子と、自分の娘が自分に預けていった二人の孫を「あのあばずれの子が!」と罵る祖母の関係。戦争がもたらす社会と人間の歪みが二人の子供の中に悪魔を住まわしめたという、たしかこの物語で描かれる子供の所業を正当化する逃げ道があるが、むしろ二人の大人を出し抜く所業のほうに悪魔的な快哉を上げたくなる。一方「芝居」のほうでは終盤に哲学的な世界に入り、粛然とした。原作ではどうだったか・・
夏の夜の夢
青年団リンク・RoMT
サンモールスタジオ(東京都)
2017/03/10 (金) ~ 2017/03/20 (月)公演終了
満足度★★★★
印象的だった前回の「十二夜」を朧ろに思い起しつつ、期待しつつ。これまた、新鮮な「夏の夜の夢」であった。
四角い石板の上に一本の樹という簡素な装置、入場すると仄かな赤色灯がそこここに吊られ、客席上にも。登退場は下手手前と、客席上手側の通路を通って背後中央の会場入口で、退場しながらの(またその逆の)科白と芝居がたっぷりやれる。衣裳は現代のものを独特にコーディネート、人物は皆端麗。
発語が独特である。「十二夜」で驚かされた、戯曲を変えず現代の日常感覚での発語に落し込んだ流れるような台詞回しが今回も健在、各場面は剥きたての果物みたく新鮮で飽きない。しかも物語を壊していない、どころか蘇らせている。
役者に大きな負荷を課してもいるが即ち役を楽しむ演技に通じ、俳優の魅力が香っている。ガッツリ最後のシーンまで演じきり、静かな大団円に終る。
恋騒動の男女二組の一人ライサンダーを美形の(男性的な訳でない)女性が演じ、相思相愛の様子が女性同士に見える事もある。親に反対される場面は現代のそのシチュエーションに見えて面白い。場面や役に施された趣向を吟味し出すと切りがないが、ただこの舞台全体をどう受け止めるか、までは思いが到らない。「現代」が舞台に「寄与」している、が、作品を現代に引きずり出す、までではない。その意志を私はみたいと潜在的に願っているのかも。(結論に至らず。)
身毒丸
演劇実験室◎万有引力
世田谷パブリックシアター(東京都)
2017/03/16 (木) ~ 2017/03/19 (日)公演終了
満足度★★★★★
寺山修司作、37年ぶりの再演という。演出のJ.A.シーザー曰く「最後の公演だろう」とは今回僅か5ステージなのに淋しい限り。そんな事とは露知らず、以前映像で見た蜷川版「身毒丸」から(目にした蜷川舞台(5本程度だが)の中でも印象深かった)作品世界に惹かれて、また寺山・天井桟敷直系の万有引力の舞台装置も拝みたく、三階立見席を購入。蜷川演出版に及ぶや否や・・などという危ぶみなど吹飛び、不見識を恥じる暇すらなく魅入った。
副題は「説教節の主題による見世物オペラ」。音楽(生演奏)の存在は毎度大きいながら、今回は桁違いだ。世田谷パブリックの高さを今回も(「奴婢君」同様)使った壮観な舞台装置を峻険な山とすると、中腹に一列並ぶボイス(バリトン・ソプラノ)7人、傾斜の残るその下の下手にドラム、その下は広く、上手が鍵盤エリア、下手が打楽器(シーザー)とベースが陣取り、さらに舞台面にせり出した裾野には上手に二十五弦筝、下手に琵琶・謡。どのパートの音もクリアで存在感がある。
そして楽曲が提示するリズム上に、主に平場で展開する「しんとく・継母」の物語に直接関わらない有象無象が「譜面」に従うように移動したり仕事をする。ステージ最も手前の左右に立つ赤いべべの操り人形にいたっては開始から終演まで、人形の動きをやり続けている。黒子要員の男たちを筆頭にコロス的な存在総勢が全て機械仕掛けにも見え、迫力ある楽曲ともども、怪しい世界観を確信的に顕現させた恐るべき見世物であった。
一昨年のパルコによる『レミング』(松本雄吉演出)には圧倒されたが、天井桟敷はどうやったのか・・その問いに間接的に答えたかのような(私の類推に過ぎないが)圧巻の2時間。
少年から青年となるしんとくの継母(撫子)への眼差しを叙述した幻想譚ではなく、撫子の側を一人称として描く部分もあり、整然とした解釈を拒んでいる。代わりに得体の知れない「力」「熱」様のものが、ビリビリと流れている。
いちごオレ飲みながらアイツのうわさ話した
ロロ
こまばアゴラ劇場(東京都)
2017/03/04 (土) ~ 2017/03/13 (月)公演終了
満足度★★★★
久々のロロ(アゴラの大吾君以来)、いつ高シリーズも初。高校演劇仕様で高校の演劇をやる。準備10分+本編1時間。恋バナ・学園モノなら万人共通のあるあるの宝庫だが、盛り付けは程よく、詰め込まずちょっといい感じな時間であった。
ただベンチの裏側に書かれた短歌を夕暮れどき、覗き込んでは読めないだろう、携帯のライトを照らすとか、最初みたくひっくり返すとか。
何だかわかんないけど夕日に向かって叫びたい身体の発熱のやり場に困って短歌を詠みまくる、聞えてきたバンド練習の伴奏に合わせて歌っちゃう・・閉じ繰りとして私にはベタ過ぎると思えたのだが、終盤、気を張ってる感じの失恋女子がふと見せた背中に、電流が走ったかのような半端ない寂寥感、この凝縮の一瞬に免じて合格☆ 拍手を惜しまず。
親愛ならざる人へ
劇団鹿殺し
座・高円寺1(東京都)
2017/03/02 (木) ~ 2017/03/12 (日)公演終了
満足度★★★★
ほぼ2時間。珍しく2度観劇した。鹿 at 高円寺は『山犬』(だったか)以来の2作目。イベントらしいのが鹿番外編的な公演には合うんでねが・・と今日は思ったさァ。
白い花を隠す
Pカンパニー
シアターグリーン BOX in BOX THEATER(東京都)
2017/02/28 (火) ~ 2017/03/05 (日)公演終了
満足度★★★★
石原燃は女性劇作家だった。昨秋坂手氏の芝居のトークに呼ばれて登壇、永井愛が新作(『ザ・空気』)で扱おうとしているNHK番組改編問題に、折りしも彼女は取り組んでいるとの話に色めき、予定をやりくりして、少し迷ったが観劇。見て正解だった。呆気にとられた。勝手な思い込みでもう少し拙い戯曲を想像していた(無意識に永井氏の作と比べようとしていたのだろう)。
永井のフィクションと異なり事実に相当に踏み込んだ本で、問題の照射角度は硬軟自在、基本「人間」の素朴な感性から「現象」を問い、自分が何にとらわれているかを問う視点も加味し、「私たちに何ができるのか」を示唆する結語まで書き切った驚きの完成度、と感じさせる舞台だった。
幾つか前のPカンパニー公演でも石原氏の書下ろしを上演、反応の良い口コミが多々あったのを思い出した。もう一つ、嶽本あゆみ作の上演も思い出す。2時間を超える長編だったが、微妙な難しい部分もありそうな戯曲をPカンパニーは「自分たちのレパ」として舞台に上げていた、という言い方も変だが、役者力を感じた。今回も同様かも知れない。
テレビ番組制作を職人として作るディレクターのキャラや、「戦犯法廷」を見た思いを熱く語る新人ディレクターのキャラが、物事を普通な健全な見方で見る者である事を、信じさせるのに成功し、掘れるだけの深さが掘られた役作りが為されていたのだな、と後々思われてきた。
永井氏のに通じる特徴として、圧力に屈したり忖度したり自粛したり、空気に抗えなかったりする事って、そもそも「何なんだろうね」・・という素朴な疑問への一つの答えを答えようとした事、が言える。ミクロな家族の物語が、番組制作の現場の問題と並び、十分に問うに値するエピソードとして、立ち上がってくる。現実には、こうした問題は矮小なものとして葬られがちな所、本質的には対立構図にある姉妹の、姉の存在感が要だっただろうか。一方の妹が、夫に最終的に「通告」を突きつけられたのだとしたら(解釈の幅を与える部分だが)、あまりに哀れで夫も(正義をまとったように見えるが)身勝手ではないか・・。このあたりの処理は微妙で、妻にも希望の種を残して終わって欲しかったが、既にその種はある、とも解釈できなくない。(続く・・・か?)
出口なし/芝居
双身機関
こまばアゴラ劇場(東京都)
2017/02/25 (土) ~ 2017/02/27 (月)公演終了
満足度★★★★
動きの無い演出であったからだろう、寝てしまった。「起きよう」とは努めたが・・。
ビジュアル的には、えも言われぬ奇怪さに飲まこまれた。「出口なし」は一昨年d倉庫で観ていたが全く異なる演出(と思う)。
少しの暗転の後、同じ装置(衣裳?)で「芝居」が上演さる。こちらは戯曲も知らず、ほぼほぼ眠っていたため演目が変わったこと自体に気付かず、周りの拍手が起きたので「さあ次は『芝居』だ」と思ったら終わっていた。不覚。