KUDAN 公演情報 TOKYOハンバーグ「KUDAN」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    中盤まで、忍耐でみた。終わってみれば絵画的な舞台であった。部分的ストーリーが最後に符合する展開も、風景の一部としてカンバスに収めて舞台上にガン!と置いたような、虚を突かれる終幕には衝撃を受けた。

    ネタバレBOX

    「忍耐」出来たのは「再演」に打って出る自負を考慮したからで、そうでなければ、動物モノ、それも作者の恣意で擬人化したそれは、個人的にはつらい=食指が動かない部類。というのは、今作もそうだが牛たちが人間に敵意を抱くという感情の出どころについて、具体的な一つの原因がなければ、ただ一般的に人間は俺たちの肉を食う、とか、人間の都合で動物は殺される、とか、へそが笑いそうになる。「見捨てたこと」が人間への憎しみに直結するのも何か違う。それによって何が起きたか、の方に原因がなければ。つまり殺生したり見捨てたりは、今も人間と動物の関係において生じている事であり、今も牛たちは人間たちを恨んでいる、という設定にするなら別だが、震災という事件以後そうなった、という説明はなかなか厳しいんである。はっきり言って感情移入できない。
    そもそも事故後に殺気立った人間がやってきて(まるで対中戦争時のように?)牛まで犯して去っていった、その時孕ませられた牛から生まれてきたのが人間の姿をした娘(青い衣裳で区別)つまり「あいのこ」である、という設定じたいが飲み込めない。暗く沈鬱な雰囲気の中でこの事実が語られるので、リアルにしてアンリアルという背反が暫くの間、耐えがたい。
    牛の衣裳は濃い茶の毛をうまく表していたが、その中の一際背の高い(確か温泉ドラゴンの役者)動物は、じつは犬だったらしい。では、この中のどれが犬でどれが牛なの?・・説明がない。まあ、犬は一匹だけで後は牛だったらしいが。
    かように動物モノの設定のディテイル不足に、腰の落ち着かない時間が、ディテイルが埋められて行くのでなく平行線で長く続くのである。
    ところがこの犬(バイト)、耐え忍ぶべき確かな「伏線」であった事はラストに氷解する。
    あいのこの娘を仮対象として、人間への憎しみを最も烈しく表現していたバイトは、ラスト、自分らを見放し、それで妹を死なせる事となった飼い主の思わぬ訪問をうける。着の身着のままで家を追われた初老の彼が現われた時、バイトはゴロゴロと唸りながら行き場のなかった怒りを反芻し、今跳びかかるかと右左に歩いていたのが、ついに飛び出し、飼い主を慕う「本能」に負けてふるいつく。この動き、変化は、犬の気持ちなど分からない我々であるのに、見事に伝えてみせる場面であった。台詞(言葉)で説明しえない「関係の表現」を結語とした、一つの証しに思う。

    開放された牛たちの群れの物語の片方で、人間のドラマが並行する。地域的には重なっているようだが、話は交わらずに進む。舌足らずに進行するかに見える人間の物語が中盤以降、目鼻が見えてくる。事故後の原発で働く者たち、その中で学歴も何もなくただ気持ちだけを通わせる恋人と結婚した青年、時間経過の後、恋人は無脳症で生まれた(亡くなった)赤子のフェイクを抱いてあやして過ごしている。原発労働者の間で、近頃人間の女の子が(線量の高い原発プラントの近くを)歩いているのを見かけた、という噂が出回る。時系列でのストーリーは憶えていないが、動物らと人間たちが、じつは同じ時空を共有していることが霧が晴れるように見えた瞬間(だったように思う)、群舞となり幕を閉じる。
    原発を扱っているが、誰かを告発する話ではない。抉り出せば実も蓋もないような原発を巡る醜怪な関係の構図に飲まれず(怒りや絶望に身を任せず)、ある意味で最も酷な犠牲者の象徴と言える奇形の存在が呟くだろう問い・・「自分は何のために生まれ、何のために生きているのか、何のために死んで行くのか」・・の前に立つこと。この問いは誰しもの前に等しく立てられている。
    カラマーゾフの兄弟だったか、こんな問いがあった(と聞いた)。神は全てを許される。人殺しもか。然り、だが全てが許されたと知った人間は、果たして人を殺すだろうか。・・なぜ今これを思い出したのか、ド忘れたが・・最も本質的問いに向き合った人間は、果たして瑣末な問題に足を掬われるだろうか(否、掬われる事はない)、だったかな。

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    2017/04/18 01:58

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