tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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大帝の葬送

大帝の葬送

ロデオ★座★ヘヴン

王子小劇場(東京都)

2017/06/28 (水) ~ 2017/07/02 (日)公演終了

満足度★★★★

柳井祥緒作品・最近の観劇はgallery&spaceしあんでの「タイムリーパー光源氏」。エンタメ性高く、お得感あり。
今回のは、「眠る羊」(十七戦地)、「幻書奇譚」に似た議論劇であり、野木萌葱ばりの「歴史事件物」、宮様の御付きも登場するから劇チョコ「治天の君」もよぎるが、対立を経て目的を一にする感動物語(プロジェクトX即ち肯定史観)に着地する意味で劇チョコとは一線を画する。
時折はさまれる笑いは、史実という後ろ盾をもつゆえの自信の表れに見える。寄らば大樹の陰ならぬ、寄らば歴史事件。寄り添って樹液を受益する芝居。
その関係性の中での笑いは、稲田防衛相の「笑み」に似て気味が悪い。自衛隊という後ろ盾があるつもりの、自信が、よく見ると表現されている。

こういう感じ取り方はやはり歴史への「認識」から来るのであって、いかんともできない。事実を知り深めることを、若き作家たちに望む。
(完全に年寄りの繰言だ。)

ネタバレBOX

天皇を象徴と仰ぎながら(担ぎながら)の天皇の意向無視を決め込む風潮(安倍首相は張本人)に、一石投じる思いも作者にあったとするなら、一応理解はする(もっとも昭和天皇と明仁とは違うが)。
が、その場合、天皇への敬慕の「心」をその根拠にするのは、難しい。
天皇危篤・崩御をめぐって舞台上で対立する宮内庁と官邸、また皇居詰めの者らのその対立は、天皇の「何」をめぐっての対立なのか。
「天皇はこう望んでいるに違いない」、「いや天皇はこちらの判断を尊重するはずだ」、「いや国民生活の観点からこうすべきでそれは天皇の意向でもあるはずだ」・・といった意見の違いが、あったにしても、芝居のように苛烈に声を荒げるような対立になってしまうとすれば、それは彼ら個人の保身やプライド、皇室と関わる身として己を役立てたい自己実現欲求といった個々の「利害」をめぐっての対立である。
そういうものは何時の時代も、どこにでも存在し、この芝居ではたまたま裕仁天皇崩御というトピックであったに過ぎない。
大喪の礼が成功裏に終わった・・この「成功」と評価づけての「感動」は、プロジェクトX型の歴史叙述の特徴だ。
この歴史事実が積み残したもの・・自粛ムード、報道の右へ倣え、そして、このトピックに関心を持たないことへの、白眼視。この芝居はまさにこのトピック(史実としての)に関心を持たない人間を、結果的に排除する帰結となった。
粛々と感情を見せずに事を進める役人が、誰もいなくなった最後に天皇の死を悼んで初めて泣く(感情を顕わにする)というまとめ。これではこの史実が積み残した問題にノータッチに近い。「自粛」「右へ倣へ」の弊害に対する最も明快な態度は、天皇の崩御を大ごととしない態度、であるからだ。それを体現する人物は登場せず、皆こぞって最後は喜々として仕事に勤しむ。連帯と前向きな努力の美しさを印象付けての感動の類型は、ドラマとして定着したひとつのあり方だが、天皇問題においてこの形を採用した所に、才能ある作家にしては不用意ではないかと思わずにいられない。
今が、オールタイムベスト

今が、オールタイムベスト

玉田企画

アトリエヘリコプター(東京都)

2017/06/27 (火) ~ 2017/07/04 (火)公演終了

満足度★★★★

アトリエヘリコプターでみる初めての玉田企画。モンダイ児を作者が演じる、前みた舞台(怪童がゆく?)に通じるモチーフの別バージョンという感じ。短時間を切り取ったストーリーだが、ガサガサ鳴る手作り感のある回転舞台で三場面が入れ替わり、笑える微細な齟齬の、その微細さを分母にとれば(ノミの目で見れば)、ダイナミズムのある舞台である、と言える。だが我々は人間なので、実際にはあっと言う間に過ぎ去る短時間の(結婚式前夜という事ではあるが)日常の延長におかれた、あるあるドラマだ。

ネタバレBOX

自分の再婚を認めてくれない息子の態度に業を煮やして宮崎吐夢が最後に吐く「この発達障害の○○が..!」の台詞、実際に発達障害という設定のようである。もしそうでないなら、暴言がつい口をついて出た、という事だがこの語は意味を強く持ちすぎ、ミスチョイス。よって、発達障害設定なのだろうと推測。
面白いのは、普通なら靴を履き間違えられただけでブチ切れ、それを理由に結婚式に列席しない挙は大人げなく、まあ子供であるので、まだまだ子供だ、という事になるが、この話では父親がどうしても息子に結婚式に出てほしいらしく、そういう祝福された結婚である事を刻みたいのだろうが、そう念じているために、明日から母になる女性の過ちを「許さない」子は、「そんなに悪いことやってないと思っている」親にとっては受容しがたい存在になっており、しかしそこに発達障害という障害がひとつ入る事で、周囲の配慮のほうが問われる目線が生じる、そのことだ。
発達障害を別のものに置き換えてもいい。歩み寄らねばならない関係にあって、それがこじれて解きづらい「困難ケース」として提示され、さてそこから先、希望はあるのか・・と暗澹とした所へ、どちらとも取れるが希望に傾くのも間違いではないと予感させる微かな揺らぎを、オチとした。(山田洋二『学校3』のラストにその微妙な揺らぎを感じたのを覚えている。)
できれば作者の狙いを作者以上に秀逸に演じる演じ手に、委ねられたし。
ミズウミ

ミズウミ

日本のラジオ

ギャラリーしあん(東京都)

2017/06/14 (水) ~ 2017/06/18 (日)公演終了

満足度★★★★

ギャラリーしあんには5度ばかり赴いて、場所の佇まいに馴染み、気持ちばかりは常連のそれだが芝居はその都度なわけで・・。
夜公演。静かな芝居、と感じた。日本のラジオ観劇久々の3作目だが、そう言えばどれも静かさがあった。細部は忘れたが物語は時代をまたがっての幻想譚で、ファンタジー志向性に同期できるならミステリータッチな語りに乗れる事だろう。私は背後関係を追う気力を持続できず(あの距離にして声が聞えない場面あり)、薄い靄のかかったような観劇になってしまったが。口調に拙さの残る感じは、狙いだろうか?

腰巻おぼろ 妖鯨篇

腰巻おぼろ 妖鯨篇

新宿梁山泊

花園神社(東京都)

2017/06/17 (土) ~ 2017/06/26 (月)公演終了

満足度★★★★★

(3日前に投稿したつもりが。。)
「腰巻」が付く唐十郎演目は初である。通常上演4時間を圧縮したという、唐の若い才気が鋭く光る作品。
20年前、演劇のエの字も知らない私の衝撃体験、それが新宿梁山泊のテント公演だったが(鄭義信も舞台に立っていた)、あの幸運な瞬間も過ぎる、熱くてコミカルで自然な情感の流れる珠玉の舞台・・と思った。個人的な思いがどの程度作用しているか知らないが。。大鶴義丹は下手でも許す。巨体を揺すりながらヒーロー然と飛び歩くのがテントの名物になればいい。申大樹は小柄で身軽に華麗に身をこなすが、今回、唐ドラマでは軸となる「翻弄される青年」(主役)は初?.. 役の人物の膨らみに目を瞠った。他の劇団俳優諸氏も、スポットの当る客演も、全体である種の紐帯が出来上がっているかに見えた事が、「熱くさせる」最大の理由であり、殆どウォッチャー的観劇の対象になっている梁山泊芝居に珍しく落涙した。
いい芝居では、女優も美しい。

キョーボーですよ!

キョーボーですよ!

劇団チャリT企画

新宿眼科画廊(東京都)

2017/06/09 (金) ~ 2017/06/13 (火)公演終了

満足度★★★★

共謀罪に焦点が当てられているが、改憲を経た近未来の設定。即ち今の政権が進めている「国民を監視し、口を封じ、本当のことを知らされない」真に権力に都合の良い「明るい未来」に向けた一連の動きの「庶民目線でみた怖さ」を、コンパクトな尺で「説明」した芝居である。
以前40minutesという企画に参加し、IS日本人人質殺害事件の顛末を説明した説明劇を持ち込んだのを見てチャリTの説明力(面白可笑しく分りやすく)に感服したが、長編より短編に心得がありそうである。
共謀罪の強行採決はエライ事であるし、他にも怪しからん(国益に反する売国的な)法律を通そうとしたり通したりしているらしい今の政権だが、危急な事態にもピリピリせず、飽くまでも「おかしな事態を笑いたおす」線で、コンスタントに風刺を紡ぎ上演し続けるチャリTの奇妙なしぶとさにも、笑ってしまう。

あ、カッコンの竹

あ、カッコンの竹

コトリ会議

こまばアゴラ劇場(東京都)

2017/06/08 (木) ~ 2017/06/12 (月)公演終了

満足度★★★★

少し時間が経って感想を書こうとすると、ストーリーがよく思い出せないが奥行き感のある竹林の美術だけは月光の照明で出来た陰影とともに記憶に貼りついていた。ああ、宇宙人が出ていた。何組かの悩めるカップルがいた。ああ、竹林で出会った男女の愛の行方、みたいな要素も。そう言えば冒頭に二人の娘が超然と竹林に生息する風景。劇構造はわかりづらかったと思う。台詞を追えないと迷子になり、本当は大事なことが起きているのに見過ごしてしまったのか、大したことではなかったので見過ごしてしまったのか、分からない状態に。前者だったときのために、重い腰を上げて追跡体勢。何となく追えたような、追えなかったような。現にもう忘れてしまった。やはり月明かりのような青白いくっきりした明り(やはりLEDかな)が、何か「そぐう」ものだったという、その記憶を手がかりに考えると、「そぐう」場面というのは「一旦落ち着く」局面であるので、順繰りに巡ってくるエピソードのリレーの起点にその場面をすえて、巡るサイクルをイメージして劇が組み立てられたら、良かったのではないか・・などと、適当な意見ではあるが、不要な難解さがあったのは確かであるように思う。

タイム!魔法の言葉

タイム!魔法の言葉

動物電気

駅前劇場(東京都)

2017/06/03 (土) ~ 2017/06/11 (日)公演終了

満足度★★★★

初・動物電気。客いじりが上手でお芝居でも「間」の使い手。役者の「役者的エネルギー」あっての「笑い」満載舞台。ストーリーはあれどストーリーを逸脱する笑いの手を緩めず、ラストまでやりきっていた。

たとえば君がそれを愛と呼べば、僕はまたひとつ罪を犯す

たとえば君がそれを愛と呼べば、僕はまたひとつ罪を犯す

シベリア少女鉄道

赤坂RED/THEATER(東京都)

2017/05/24 (水) ~ 2017/06/04 (日)公演終了

満足度★★★★

初・シベリア少女鉄道。3年くらい気になっていたが漸く相見えた。怒涛の終幕、評判通りの「凝り方」に口元が緩んだ。夜道に出て歩きながら反芻・・する事はないが、笑ったツボが効いている。

ネタバレBOX

ドラマ世界を、ゲームというバーチャル世界に置き換えることは、自然であった。そう感じさせる劇世界であり演技態であった。という事だろう。
あるラブストーリーが一くさり演じられる。ところが、「あるべき結末」に至らないがために人物にバグが起き始める。各人が最初のクールでそれぞれ演じた特徴的な場面が、反復行動のキーとなる・・つまりその台詞・動作が出ると、それをきっかけに「次」の台詞・動作が発動する、そして反復行動が複雑化・過剰化し、連鎖していく、そういう仕掛けである。相互作用が複雑化して先が読めないため、予期せぬ場面が生まれて思わず笑ってしまう。また随所で細かくあれやこれやを茶化していて、それらがジャブのように効いて来るのが小気味良い。最も茶化されているのはラブストーリー(定番な)そのものだろうが、メロドラマな「演技」そのものを茶化し、それが体現していた恋愛、青春、情熱といったドラマの要素そのものをも茶化す。
いつしか修羅場は上段と下段に分かれ、下におりるとゾンビにやられてしまう(バイオハザード?)設定になっており「もう行くんじゃない!」と誰かが叫んでいたり、借用も的確で?自在。
はて、この狂騒状態は何のためか、理由は勿論あって、「あるべき結末」に到達する事が混乱解決の方法であるらしい。そして各自の反復行動の作用が積み重ねられた結果、予想だにしない手順で「あるべき結末」は劇的に訪れる。
あの手この手のバリエーションと緻密な構造は少なからず固定客をつかんでいる事だろう。独特の作り手は、小林賢太郎を超える‘好き者’とみた。
愛死に

愛死に

FUKAIPRODUCE羽衣

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2017/06/08 (木) ~ 2017/06/18 (日)公演終了

満足度★★★★

全く合わない世界だが、FUKAIとしてはリキの入った作品。いや毎度力は入っているのだが、ご本人もしてやったり感は大なりではないか。

ネタバレBOX

性の解放は大麻の解放に似ている、と思った。セックス=薬物依存、の意味にあらず。「見える化」がもたらす効果。性を隠微な領域に「しない」効果。
もっとも、「愛」の名においてセックスは神聖化されるが、FUKAIにおける愛はセックス(性衝動)の後づけ的「愛」、スレスレ「愛」と呼び得た愛、辛うじて人類の種の保存本能として正当化される衝動のカテゴリーとして、身も蓋もなく感じられることがある。性を描く稀少種であるFUKAIだが、どうしても「愛」の美化を押し付けられ感あり、描かれる大半の場面であるセックス(口説き文句からの前戯も長し)でそれをカリカチュアした笑いで懐柔され感もあり。
終劇後改めて劇構造を振り返り、これが一応「劇」(ドラマ)であった事で恐らく何か納得に至っている。だがドラマとしてはさほどのこっちゃない。
むしろ、性的要素に掻き消されがちなパフォーマンス面、台詞と動きの音楽的リズム、舞踊としての技術に秀でたものがある。このレベルでなければとても舞台には上げられない、綱渡り芸を見たとも言えるかも知れない。
クヒオ大佐の妻

クヒオ大佐の妻

ヴィレッヂ

東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)

2017/05/19 (金) ~ 2017/06/11 (日)公演終了

満足度★★★★

俳優で決めた観劇。岩井、川面。この二人と宮沢りえ、ハイバイとサンタフェ(懐かしい)の化学反応への期待がむくむく黒煙を上げ、つい手が出た。
吉田大八は昨今悪くない映画を撮る監督だが、舞台は未知数。

さて幕が開いた。演劇脳で作っていないな~、早々にそう感じ始めた。カット割り、ズーム、音重ね・・等の技が使えない事に手をこまねいているかのような間、平凡さ、埋まってなさが舞台の隙間に流れる。
しかしそれらを一旦「謎かけ」として受け止め、いつかその謎が氷解するのを待つという観客の脳内作業が持続する時間内であれば、「次の手」を打てる。疲労は個人差で訪れ、客席から衣擦れや物音がし始める。(それでも音は小さい方だ。皆、大枚をはたいて観に来ているのだから・・)
演劇脳であれば、シリアスな内容を伝えるのにそのままシリアス発言をさせたりしない。笑いに振っておいてそこに「嘘」がありそうだ、という事でシリアスを想起させる。フックを用いる。笑いと真面目の緩急と見せ方が、はっきり言って下手である。どっちつかずの行為になってしまっている箇所が一つ二つでない。(映画なら伏線なしの直球シリアス発言を、感動的に演出する編集もおそらく可能だろう。または、感動モードの可能性を担保した、どちらつかずの場面としても、成立させられるに違いない)

もう一つの違和感は、宮沢の演技とハイバイの演技の質感が違う。吉田監督作「桐島、部活やめるってよ」で進路指導をやる教師役の岩井秀人が、短いカットながら秀逸なキャラを見せていた、あの毒の笑いの線を、今回も登場以降出していたが、それに対する「受け」芝居を作らなければ、落ちない(笑いとして成立しない)。吉田演出がリアル演技を求めていたのなら、岩井秀人への演出不足か、人選ミスとも言える。岩井キャラを生かすなら、宮沢りえの「受け」が不十分、というより、否応なく「華」を帯びてしまうサンタフェ宮沢に、とりあえず謎めきを封印して「普通の主婦」を演じろと言っても無理ではないか。
それ以前に脚本の問題があるかも知れない。主役の宮沢りえは終盤にいたって辛辣な日本人男批判を展開するが、この思考を持つ人物として成立させながら、前半の対話をこなすのは大変だろう。対する男や女の側も、どういう芝居のテイストを狙って、何をどう繰り出せば良いのか、不明のままやっていたのではないだろうか・・?

と、難癖の文字数が多くなったが、(普通の?)作り手が作るような舞台ではない、予想を覆す奇抜さはある。
そして私としては、意表をつく後半の展開は好きである。そして宮沢が何かに憑依されたかのように毒のある言葉を吐く・・だが悲しい哉それが真実日本の姿である・・というくだり。この部分が作り手にとってこの劇の頂点である、としたら、何か心強い気がするが、それだけにもっと理解しやすい叙述にできなかったか・・という思いは残る。やはり文句になった。

粛々と運針

粛々と運針

iaku

新宿眼科画廊(東京都)

2017/06/02 (金) ~ 2017/06/06 (火)公演終了

満足度★★★★

昨年のアゴラ公演が最も印象的な<iaku>、三鷹市芸文での数年前、そして満を持しての再演という触れ込みで同じく三鷹(エダニク)、今回の「趣向」舞台と、関西は遠いし名前もピンと来ないが着実に存在感が増している劇団(以前買った戯曲集を改めて手に取ったり・・読んでも中々面白い)。
現代人(日本人)のリアルな生活観を背骨に、人物らをけしかけて「出来事」を起こして面白がる作家の視線が感じられる。人間だから、生活を営み、存在し、行動を起こせば、必ずや面白い何かが、そして何か考えざるを得ない材料がそこにある。。
訴えたい人の文体ではなく、観察者のそれである。

今回の作品が包含する二つのエピソード(死期の近い母をもつ兄弟、子を作らない約束だったのに子が出来た=かも知れない=夫婦)は、彼らに見えない二人の女の会話と場転指示を挟んで、舞台上では交互に進行する。やがて会話は錯綜し、人物6名の舞台上での関係性の全容が見えて来るまでの「謎解き」の時間を楽しむ芝居だ。伏せられた事実がスローペースで解明され、現われ出た全容は、それなりのリアルな姿かたちを取って、一応は納得できる。安定した実力を感じさせる終演。

ネタバレBOX

ただ、劇構造の解明=謎解きがどちらかと言えば主眼になった傾き(演出の上田一軒氏がドラマタークという)は、「伏せられた事実」で観る者を引っ張る分、見せられた全容がその引っ張りの長さに応じたものでないと、淋しい。今作がそうだと言うわけではないが、ギリギリという所か。
恐らくそれは、外観の注文に即して建造物を設計建築する制約と同じく、ユニークな劇構造をなすためにエピソードのリアリティ追求を端折ったか、あるいは説明不足のままに残すことになった。
従って、想像で補う部分が大きくなった、であればさして問題無しだが、メッセージ性が弱いストーリーの断片(事実)の生命線は、正にリアリティ(真実味)であるので、そこが弱いのはやはり「淋しさ」に繋がる。同じ説明不足でも、想像を逞しくさせられる話と、埋め込もうとすると矛盾に突き当たりそうな話とがある。今回のは微妙な線だ。
しかし、20~30代後半にとっての「家族」問題をめぐる議論は濃い。相手が家族・親族であれば会話じたいも濃くなる。テーマは子を産まない選択、という所に集約され、白熱する。
ただ、作者はその問題の核心へと迫ろうとしながら、ある線以上に踏み込ませない、観察者の立ち位置を守る(風にも見える)。それは子供を作らず、伴侶と二人で老いて行く人生を望む女性が、しかし出来てしまった子供を堕ろすとなれば話は別、違う選択もあるんじゃないか、と迫る夫にたじろぎながらも、「なぜ子供を作らない人生を選ぶことに負い目を感じなきゃいけないの」という泣きながらの反論で押し返される、という場面。確かに、リアルなやり取りで迫る限り、これ以上彼女の考えを変えさせることはこの舞台では困難であるかも知れない。
今私は「変えさせるべき」という前提で書いたが、それはその通りだ。どう生きるかは彼女自身の問題、ではある。が、そこに他者の意見が反映されないというのは、今後彼女が改めるべき問題であり、この芝居で彼女が「切れて」議論に終止符が打たれたのは、議論が尽くされなかった、という事だ(これも答えありきの言い分と思われそうだが)。
彼女は「みんなどうして・・」子供を生まない人生を肯定してくれないのか、と、反論した。しかし、話していたのは夫であって「みんな」ではない。いつしか夫の言い分に適当な答えが出せず、不適切な態度をとる「みんな」を引き合いに出して、あたかも夫が彼らと同じ態度であるかのように、(恐らく切羽つまった子供が泣くように)感情的になった、という反応である。
しかし劇では、議論がわやになった・・という風に総括しておらず、うん、彼女の言い分もわかるよね・・そうまとまる後味になっていた。いまいち深まらずに終わった感触を残した、そこは主要な一つ。
ドグラ・マグラ

ドグラ・マグラ

演劇企画集団THE・ガジラ

【閉館】SPACE 雑遊(東京都)

2017/06/04 (日) ~ 2017/06/12 (月)公演終了

満足度★★★★

二十数年経って、当時見逃した映画がDVD化されてTSUTAYAの棚に並ぶ。『ドグラマグラ』を手に取ったのはつい昨年のこと。松本俊夫監督特集でよく掛っていた『修羅』『薔薇の葬列』も一昨年、大森でようやくお目見え。生きてる間に観られた幸運をかみしめた。
さて、夢野久作の原作は、文庫本が長らく本棚に並んでいるが開いていない部類。従って本作の印象といえば映画の印象、即ち医師正木役・桂枝雀の怪演であった。
今回の舞台をみて「原作」への関心が首をもたげてきた。怪奇なミステリー作品には怪奇な人物像が似合う。「私」役はその強烈さに翻弄され、受動的であやふやなまま事態を観る者として存在し、最後になって中心的な謎に迫る構成が可能になる。それが今回の舞台は全般に挑戦的な演出が施され、熟練とは言えない俳優たちがこの趣向と素手で格闘しているという印象である。終盤に至って「鐘下節」が炸裂するが、これが大胆な脚色なのか原作を踏まえた台詞なのか・・原作を知りたく思った所以。
隅に向かって「闇」が深まる地下劇場space雑遊の利点が照明ともども発揮され、装置・音響への注力も加減なし。

雨と猫といくつかの嘘

雨と猫といくつかの嘘

青☆組

アトリエ春風舎(東京都)

2017/05/23 (火) ~ 2017/06/04 (日)公演終了

満足度★★★★

B「雨と猫と・・」華やぎの香り、猫組ver
・・Cプログラム「時計屋の恋」のみ観劇出来ず、割と本命だったので残念。Dは短編二本の朗読と劇中歌ライヴだ。意外やライヴはうま味有り。出し物の発表という体裁だが、コーラスなお揃い衣裳とナンチャッテ振付と吉田小夏女史のMCで臨場感が花開く。もっともD単体ではどうかという所。A・Bあっての企画だ。
そんなわけで、うつらうつらのA観劇から1週間後、かぶりつきの(寝る間のない)B観劇。
再演に掛けるに相応しい、秀作と言える作品。手のひら返しの評だからネタバレ枠の穴蔵へ。

ネタバレBOX

驚くほど何も見ていなかった(先週のAver観劇では)、という事が随所で判明。台本が違ったかと疑った位、だがその理由も判明。冒頭の数分を見なかったためだ。開幕から謎かけの謎解きは始まっており、小まめに回収しながら台詞の応酬を積み重ねていく丁寧な芝居が、時間という線路に植え付けるように緻密に構成されている。開始から凝視しなければ、さり気なく伏線に呼応した台詞もそれとは気付かず、ヒネリの無い凡庸な言葉に感じられてしまうという訳だ。(戯曲では台詞が吐かれるのに複数の意味が付されているが、その意味が読み取れない訳である)
完全に意表を突かれた展開も、幾つかある。これらのエピソード的広がりが、ある時代を映す、とは言わないが一人の人生を映すものにはさせている。平凡、と言ってもその平凡さえ手にしがたい昨今なれど、この主人公風太郎の人生は平凡であり、そしてむしろ主観的には恐らくみすぼらしいものである。そう見る事でこのドラマが立ち上がってくる。
無くて良さそうな猫の台詞などは、ちょっとしたアトラクションだ(タイトルに猫とあるとは言え)。確かにガッツリ泣かせる場面でもあるが、下手にやるとお涙頂戴を臆面もなく捩じ込んで・・と膿まれかねない。余剰と言える場面を、見せ場にするのは高等技術(一見「鉄板」な涙腺刺激シーンに思われるがさにあらず・・個人の感想です)。
微妙で絶妙なバランスの上に、この劇は立っている。
まつろわぬ民2017

まつろわぬ民2017

風煉ダンス

座・高円寺1(東京都)

2017/05/26 (金) ~ 2017/06/04 (日)公演終了

満足度★★★★★

せんがわ劇場での初演が、風錬ダンスを見た最初(もしや渋さ知らズのライブで目にしてはいたかも?)。粗さはあったがエネルギッシュに舞台を本気で作りこんだ土っぽい、ライブっぽさもある芝居であった。
座高円寺は広い。その前の野外劇がこの劇団の本領を出す場所だとすれば、この劇場はどうだろうか・・当初は再演を観る予定はなかったが急遽時間ができたので当日券を求めて観た。
舞台の板の上を、遠慮なく走ったり跳んで着地をし、そこが土の上の想定であろうがドン、ドタンと板の音を鳴らす。だがそんな不協和は屁でもない。巨大な作りこみ美術にとってはむしろせんがわ劇場があまりに狭かったと再認識する。再演に加わった伊藤ヨタロウが冒頭から登場して自らの提供した楽曲を歌い、一気に引き込む。演奏はカミ手手前に三人、複数の楽器を分担し、分厚い音を聴かせ、音楽ライブの要素が次第に侵食し始める。主役の女性がそもそも歌い手らしい。
この反骨、理屈抜きの反骨は最後に来てその場所を得、物語を締めくくる。圧倒され、鳥肌が立つ。広くて高い座高円寺1の空間(劇場建造物)に負けている(双方和解の上?)舞台は多々あるが、この種の芝居が空間を埋めるばかりでなく外へ流れ出る熱度を持ったことに、ただ驚いた。
ゴミ屋敷よ永遠なれ。

雨と猫といくつかの嘘

雨と猫といくつかの嘘

青☆組

アトリエ春風舎(東京都)

2017/05/23 (火) ~ 2017/06/04 (日)公演終了

満足度★★★★

A「雨と猫と・・」いぶし銀の味、雨組。
アトリエ春風舎では、あの『海の五線譜』を思い出す。

ネタバレBOX

残念ながら・・どういうタイプの「感動」が用意されているかが読めること、物語が個人史の中にとどまり同時代や集合的な広がりが見えないこと、それと恐らくは役者の佇まいや芝居のタッチにみられる「この劇団らしさ」が、ある枠内にとどまるように見えることが、「謎を解く」観客の能動性を喚起せず、怠惰のままに置くのだろう。その結果、眠気になった(今の体力ではすぐ睡魔に見舞われてしまう)。

「五線譜」も、思えば個人史の中にとどまる物語ではあったが、舞台の進行とともに「暴かれる」事件に、普遍的な何かを感じさせるものがあった。
説明しがたい人間の性、研ぎ澄まされた時間への憧憬がもたらす背徳の美、また、一つ事を思い続けることが一人の女性の中で可能であった事実の希少さ(宝石のように大切に記憶にしまいたいような思い)、これらは「そうではない無味乾燥さ」に囲まれた現代を、その反対面に照らしていると言えた訳である。

さて今回再演された旧作は、青☆組としては何らかの画期となった作品であったのだろうが、作品に含まれる要素要素に既視感を催された。老人が少年の「時」に帰って子供のように足掻く様は、本来は見せ所であったはずであるが、読めてしまい、その結果どうなるのか、何がどう解釈できるキーなのか、という、つまりはその「様子」が何を解き明かす材料なのかを知りたいところ、「様子」そのものが持つ感動を目的におかれては、物足らないのである。
いや、この芝居世界の中にピースとして位置づけられてはいたのだろうけれど、その、本筋じたいが弱いのだろうと思う。
難癖を付けた割りには、睡魔に負けており、それが己の体調が原因あれば、全てを見ずしての批評ということに・・。
という事で、Bも観劇予定である。(スタンプラリーが密かに楽しみ)
天の敵

天の敵

イキウメ

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2017/05/16 (火) ~ 2017/06/04 (日)公演終了

満足度★★★★

何だろうこの感じ。何に騙された?のか?
演劇って本当に、面白いもんですねえ。

ネタバレBOX

「飲血者」という自ら選んだ在り方が、宿命としての在り方となり、マイノリティとしての存在の呼称となる。そして自らその在り方に終着点を与えようとする逆転。それが「もう十分生きた」満足からの決断ではなく、その在り方を続ける意義をついに見いだせず、弊害を突き付けられた事によるという事実は、彼に取材した聴き手(記者)の在り方、即ち緩慢な死への途上であるという在り方との見事な対照を炙り出す。
この一見荒唐無稽な話を聞き終えた記者が「いやあうまく作られた話だ」と、嘯くその口はすぐさま閉じられ、観客はこれは一体何の話であったのか、狐につままれた感で虚空を漂わされる中、記者の沈黙がやがて嗚咽に変わるに及び、これは己らが寸息なくそれに翻弄されている代物についての話であった事を思い出す。事ほど左様に直視できない、限りある命よ。
俳優の的確過ぎる演技と、嫌みなく挿入された笑いと。褒め所は多いので省略する。
爪の灯

爪の灯

演劇集団円

シアターX(東京都)

2017/05/19 (金) ~ 2017/05/28 (日)公演終了

満足度★★★★

角ひろみ作品の舞台を初観劇。新人戯曲賞受賞いらい頭の片隅にあったが、その公開審査で最終対決となった清水弥生作「ブーツ・オン・ジ・アンダーグラウンド」を自分が推していただけに少々複雑な思いがあった。その印象を思い出すと・・鴨長明を取り上げていた。作者自身の思いよりは企画のオファーに応えた感が漂うが、作風なのかも知れぬ、と判断保留。言葉使いに静謐さがあり有能な書き手である事は確かなようだが、巧く伏せて巧く謎解きを施す、手法に目が行く。その手法は、作者の地元中国地方を襲った豪雨による災害があった年(だったと記憶する)、川の流れをその連想に導きつつ鴨長明にも重ねる「点線で導くような」叙述で発揮されていた。作者が何をどれ程取材したかは判らないが、その苦労(があったとして)を感じさせない作品で、受賞は筆力への評価に着地したとの印象だった。

その戯曲の印象が思い出される観劇だった。撒いた種を最終局面で早業で刈り取る筆には唸ったが、それまで不分明に置かれる時間は私には長く、座りの悪さは否めない。
もう一点は、(受賞作同様?)高度な舞台処理を求める戯曲だったのだろう、役者の「言い方」「処し方」が明らかに違うと思える箇所があり、もどかしい。さらりと流されるがその台詞のはまらなさが、「分からなさ」を広げていたと感じる。役者全員とは言わないが、戯曲の世界との乖離が、ラスト手前あたり、淋しかった感じがある。
ある種の演技、「相手からもらえ」という言葉で導かれる演技が、必ずしも有効でない例では?と思い巡らせながらそこを見ていたが、正解はテキストを発音する人形としてまず存在する事が第一、その上に「関係」が探られていく、という順序ではないか。適当だがそんな印象はある。

円の舞台は数えればまだ二度目。円の神髄はここに‼ という発見を、いつか。

エンドルフィン

エンドルフィン

モノモース

こまばアゴラ劇場(東京都)

2017/05/24 (水) ~ 2017/05/29 (月)公演終了

満足度★★★★

実力ある演者の風変わりなユニットが悪い芝居の山崎彬に作・演出を依頼した作品。

ネタバレBOX

夢の島ならぬ希望の島が、未来(あるいは架空の世界)のごみ捨て場となっている。
ここに捨てられた子供が、ごみの島でサバイバルする。何年かが経って、同じ境遇の盲目の女の子が現われる。ごみの中での二人の蜜月、死別。主人公の青年も既にいない。衰弱した状態で彼を発見したジャーナリストから渡されたボイスレコーダー(スマホ)に、男が吹き込んだ語りが芝居を構成している。・・以上が全て。ロビンソンクルーソー的に、物語実験になっている。人が訪れないごみの島。一体どんな時代を(外界は)迎えているのか・・孤独を受容するだけの生活循環の安定を得たのか・・火を使わないのはなぜか(なぜそういう設定にしたのか)といった疑問に、自分なりの解答を探り与えつつ物語を追う。グロい描写が際立ち、答えは霞んだままだが、熱情をこめた演技の爽かさがグロさを相殺、というか、昇華させていたと言えるだろうか。
最大の関心は、このユニットが今後どんな形で続けられて行くのか、だったりする。
バージン・ブルース

バージン・ブルース

うさぎストライプ

こまばアゴラ劇場(東京都)

2017/05/04 (木) ~ 2017/05/21 (日)公演終了

満足度★★★★

役者力とオーラの勝利。

ネタバレBOX

開始から間もなく明かされる特異な設定。その後は台詞運びも普通、台詞の言い方もわりと普通。場内には「うふふ」という笑いがさざ波程度に時折起こる。好意的な笑い、つまり役者個人への好意の表明・エールの笑い。・・この気分では酷評になりそうなのでしばし休息。
二人の父に育てられた娘が結婚の日を迎える。相手の男は登場せず。二人の父と娘の三人家族が形成される経緯を描いた過去シーンが展開するが、適当感あり、役者も信じ切って演じてないというのが、敢えての演出なのか、見えている。あり得ない話ではないが、真実味を強調してもいない。
結語として「自らステップファミリーを選んだ実践例」の価値をほのめかすオチなら、不要なシーンが多い感じがする。「ある特殊なお話」として際立たせるには、理屈が勝っている気がする。緩慢に感じられたのはそのあたりが原因だ。
が、堂々たる小瀧万梨子のラストの真情吐露(結婚式での父父への挨拶)がどうにか芝居を成立させた。志賀廣太郎、中丸新将の冒頭のやり取りの噛みそうな芝居は、役者個人に見えても良いライブな演技モードで荒唐無稽さを中和する狙いと合点したが、それも緩慢さに加勢したのではないだろうか。全編、緩い空気だが、緩い演出ならピリリと辛い中身が欲しいし、緩い中身を表現したければ逆にタイトな演出が欲しかったり。
もう一歩「正解」に近づけたのではないか、という感触が残った。
「風のほこり」「紙芝居」

「風のほこり」「紙芝居」

新宿梁山泊

芝居砦・満天星(東京都)

2017/04/26 (水) ~ 2017/05/07 (日)公演終了

満足度★★★★

ふいに出来た時間で、久々のアトリエ観劇。「風のほこり」のみの観劇だったが、詩情が流れる荒唐無稽な世界、というか、即物的だったり無機質なものに詩的なイメージを当て込んで世界を立ち上げる唐十郎の世界が、今回なりのオリジナルな形で広がっていた。
唐ゼミが上演した頃(未見)、近年賞を取った作品だと知り、よく読めば梁山泊で初演とある。主役渡会久美子への当て書きで今回も度会が演じた。フォックの壊れたスカートのめくれから臀部を覗かせる奇妙な演出(戯曲)が、分かりやすい特徴。最初は大ミスではないかとやきもきした。というのも臀部を見せる必然性がなく、台詞で説明が施されるのは暫く後になってからである。唐十郎が梁山泊に書き下ろしたという後期作品だから、そのあたりを読めずに書いてしまったものかな・・あるいは悪戯心のなせる業か・・など詮索をしてしまう。
 この作品のモデルは唐十郎の母であり、彼女は一度、当時あった劇団に作品を書いて送った事があるのだという。義眼であった母にまつわる幻想的な物語が舞台だったが、事実としての母のエピソードのほうに関心が向く。唐にとっての特別な作品、従って他の作風と少し違う・・という具合であっても欲しいところが、他の作品と同列に並べて不自然がない、つまりさほど特別でない作品である事に、その経緯を読んだ後で少し物足らなさを思った。でも、これが唐十郎である・・という事なのだろう。
初演時の配役に懐かしい顔があった。本作とは関係ないが、鄭義信作品をもう一度梁山泊でやってほしい。

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