tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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ナイゲン(2017年版)

ナイゲン(2017年版)

feblaboプロデュース

新宿シアター・ミラクル(東京都)

2017/08/11 (金) ~ 2017/08/21 (月)公演終了

満足度★★★★

評判を呼んでいるだけの事はあり、再演が重ねられたからこそ観られた「会議もの」劇の感想。
我々が直面しがちな「選択における葛藤」が、ナイゲンという会議で制限時間を使い切る迂回の仕方でフルに展開。高校生の設定ならでは、と言える子供っぽい反応な部分も含めて、「あり得る」展開のその結末は・・。
一言で言えば、結末よりは「ちゃんと会議してる」事に溜飲が下がる。皆がクラスを代表している事情もあって、エゴ、いい加減な論理、無節操、付和雷同なんでもござれだが、それでも「この結末だから」でなく、やはり「結論を出すために頑張っている」プロセスに注目させられ、「一件落着」を望みつつも、私などは会議やってるよ高校生が・・と、会議礼賛派であるこの芝居には手放しに一票である。

ネタバレBOX

「会議」が必要である事情はこうだ。
毎年生徒の自主運営にゆだねている文化祭を話し合う会議(内部限定会議略してナイゲン=このネーミングは実体験を想像させる・・作者のオリジナルだとすればセンスだ)に持ち上がったのは、学校が教育委員会の要求を入れてしまった「マスコットキャラクター付の節電キャンペーン」を、やらなければ「公開」を認めない(外部の人間を招べない)という条件で強要してきた案件である。
前段、学校側の主張がおかしいと正論を力強く発言する三年のクラス代表がいる。ちなみにクラス数は全学年とも3クラス、従ってクラス代表は9名、加えて議長席の並びには監査(規約に則っているかチェックする)、文化副(文化祭を進める立場として文化委員会?から参加)、文化書記(同じくその補佐で書記)が一列に座る。計13名の内、学校側の姿勢を糾す意見を吐くのは、その3年男子と、問題の所在は理解するが「それを主張する事の無意味さ」をこぼす3年男子。しかし「現実を見よ」という論調が、浜辺の砂を洗う波みたく「原則論」を洗い流そうとし、それに抗して声を荒げるという場面が序盤にある。
やがて、「まあ冷静に」「一人ずつ意見を確認していこう」と一旦落ち着くが、その局面で「世論」を巧みに誘導して行く「うまく立ち回る」人間が登場し、論点が完全に「どのクラスが担当するのが相応しいか」に移行してしまう。
この論点追求に端を発し、エゴの、エゴによる、エゴのための議論と主張、無節操な投票行動を見せていく。
進行としては、最初に槍玉に挙げられた「残す価値の低い」と思われる企画が、その場での投票という難を逃れ、すべての企画を一つずつ検証して行くべきだという事になり、検証の的が移り変わるたびに予期せぬ問題が持ち上がり(極めつきは同席していた2年男子がその彼女=文化書記に黙って文化副と浮気をした、しないのくだり)、一通り企画の中身を飽きさせることなく俎上にあげるという点がうまい。
そしてこの伏線が結末への追い込みの展開に効いてくる。

正反合(アウフヘーベン)ではないが、理想・理念(それを追求して学校側の要求をハネれば友達や家族を呼べる文化祭はできなくなる)と、受け入れるしかないと見えた現実(ダサいキャンペーンを誰かがやる)との二者択一が、最後に至って、理念に反さずに現実を受け入れる知恵を出し合う展開となる。
私はこれをポジティブ志向と括り、「もし、そんな工夫が浮かばなかったり、工夫の余地のない現実だった場合、どうするの?」と、冷めた頭を保とうとする。さてこのあたりから少し難癖が出始める。

問題の所在は、「学校側が、自主性を重んじていた文化祭に首を突っ込んできた」事にある。自主性=尊い、という価値観が共有されていない場合、ここでの理想は弱いものになる。だが、自主性はすばらしいという一つの(恐らくは経験的につかまえ得た)価値観を基準にするなら、学校側の態度は「暴挙」に等しい。それに抗しようともせず、最初から「あきらめて」いる者たちが9割である高校生ってのも、それが現実でもあろうが、この「たかだか3年の学校生活で本気とかマジうぜえ」といった倦怠をこの芝居の基調にしているとは思えない(単純に面白い議論劇が書かれたのだ)。そして「自主性」を疎んじる感性は「自己責任」を無限大に課せられる社会にフィットしない気がする。高校生事情を私はよく知らないが。(ある私学の事情を聞けば、逆に自主性尊重の方へ舵が切られ過ぎ、放任主義の弊害が出ているとか。。)
・・そんなあれこれを思いながら、最後に残った男子が交わす会話の中に、真摯に「原則」を大事にしようとする心が観え、そのことには溜飲を下げた。結局のところ、彼らは学校に「負けた」。やりたくもないものを「やりたいこと」にできる「可能性」を追及したに過ぎないという自嘲が台詞にも出ていたが、改めてこう思い直すのが正しい。
この芝居は「学校と闘わずして負けた不戦敗を、主観的には負けてないつもりになれる道を探り当てた(当てようとした)物語」である。
恒例として演劇をやる3年の、そのクラスが上演許可申請の不備のため、最終的に担当に決まったが、キャンペーン行動を挿入した面白い劇に作り変える動機は、当人にあるのかどうか、「微妙」な終わりにもしてある。
きちんと自己批評を織り込んだ脚本ではあるが、最初に抗議する3年と、それに反対する3年の後者が言うありがちな台詞が、私にとっては最初のボタンの掛け違いだ。
「だってあの時も、みんなついて来なかったじゃないか(だからそんな正論を主張しても仕方ない)」・・これは、正当に主張すべきことを主張しても誰もついて来なかった過去のナイゲンを思い出し、その敗北=周囲の無理解を今回の案件にも当てはめようとする言動だ。しかも皆の意見が出揃わない前に、このことを抗議する本人に言うのだ。この言動は、「本当はいやだ」と思っている人間のものではない。最初から消極的な人間。ドラマの展開にはよくこういう「神経過敏なの、許して」的存在が、ドラマを「正当な方向」に進ませず、イライラさせる。だが事の本質はそういうことで、相手のこの態度は、爽快なラストではすでに無かったようになっていたが、「主張した」3年男子は、その事を一言、相手に言いたかったはずだ。
今回の脚本の設定では、やりたくない事を、たとえ1クラスの犠牲とは言ってもやらせようと言うのだから、普通は頭にくるし、通らない。ならば思いは共通していることがすぐに知れ、団結できたはずだが、「神経過敏」ちゃんの企んだかのような巧まざる誘導で霧散した、とまあ見ることができる。
そもそも「要求をのまなければ「公開」は許可しない」という脅しは正当性が薄く、できる高校生なら逆に教師を言葉で吊るし上げに出来る論理の弱さがある。
「自主」という理念が形骸化している事の倦みを高校生らが体現しているのだと解釈しても、文化祭はやりたい訳である。純粋にやりたいことをやる、という事がやれる風土というのは、管理されることに慣れたような校内環境では作れないものだ。
「やりたいことをやれる」喜びを知っているなら、その事を制限されることに本気で怒ることができるはず・・・という、最初のハードルさえ越えれば、大変面白い出し物ではある。役者の技量と「ハマリ度」の総和のクオリティは高いと思う。本人たちの自覚は、あまりなさそうではあったが。。
ルート64

ルート64

ハツビロコウ

【閉館】SPACE 梟門(東京都)

2017/08/05 (土) ~ 2017/08/11 (金)公演終了

満足度★★★★★

「ドグラマグラ」をハツビロコウの前公演と勘違い(同じ役者もいたし)、意外なペースに驚いたが前回は三菱重工爆破事件のあれだった(タイトル失念)。それはともかく今回は配役四人という人数が絶妙に感じられる(て事は俳優が役を演じ切っている証)濃密な舞台。集団的な犯罪に手を染めた者たち、前回のに通じるが、劣らぬ緊迫感、と同時に異なる切り口を見せ、殺人組織になり果てた件の教団の事件にスポットを当てた。初演から月日が経つが古さを全く感じないのも驚き(上演台本への改稿のためだろうか)。

プレイヤー

プレイヤー

Bunkamura

Bunkamuraシアターコクーン(東京都)

2017/08/04 (金) ~ 2017/08/27 (日)公演終了

満足度★★★★

イキウメ初期作品を改作、私はオリジナルを知らないが宣伝文句によればプレイヤーとは即ち身体を失った者(=死者)の言葉を再生する者(いたこ的な)であり、改作版ではオリジナルの劇が劇中劇になっているという。
前川知大=イキウメのテイストはもちろん充満しているが、ある部分で長塚色(といっても三作品ばかりしか知らないが)が顔を出す。
超常現象の介在により、「科学」の仮面をかぶった「常識」の向こう側を予感させる時、イキウメの場合は不安と希望が混在した中、不可知領域に粛然としながらも「希望」にもなり得る可能性が救いとなるが、長塚圭史の人間観は暗い。プレイヤーという人間の新たな可能性が示されても、だから何だという感覚、それによって人間はどう存在し続けているのか、という眼差しが容易には変らない。だがその眼差しをすり抜けて事態が先行する可能性、そう考え得る余地は残される。
脚本としては主要人物の最後の行動は言行不一致に結果し、動機が分からないがドラマとしては引き締まる、という流れを優先していたかに見えるチョイスは、前川氏はやりそうになく、暗いが情緒的な劇世界に傾く長塚氏のチョイスというのは外れだろうか。

この芝居、ある地方作家の遺作であり未完成の戯曲を舞台化する稽古場が舞台。稽古風景と、劇中劇の展開がやがて交錯して劇だか現実だかが不分明となる。これはむろん意図的で、宣伝文句にも謳っている様相な訳だが、甚だ心地よい。もっとも目的は心地よくするためでなく、最終的なオチの迂遠な伏線であったという風にも言えるのだろうが、思いつく結語なのにかかわらず、意外に納得させられる終幕だった。
このお話が人間の体温の流れるドラマであった事を証しし、得体の知れなさも残るという、不安と希望の混在という本来の(人間にとって望ましい?)地点に帰着した。

ハイバイ、もよおす

ハイバイ、もよおす

ハイバイ

KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)

2017/07/29 (土) ~ 2017/08/12 (土)公演終了

満足度★★★★

鑑賞日2017/07/30 (日) 18:00

ハイバイ番外公演というよりはみ出し公演、というか在庫一掃セール。あるいはまた「もう一度ちゃんとやりたい」公演?
(私の記憶が正しければ)どれも新年工場見学会で披露された作品をKAAT用に仕立て直したもので、程よく作り込まれ、程よく力加減が抜けている。「もよおす」とはつい生理的にモヨオして生み出された作品集かと思えば、大スタジオに組まれたのがお祭りか縁日に境内に仮設されたような裸舞台で、どうやら夏らしくモヨオシをやるのらしい。
お馴染みの岩井氏の前説では「飴のチリチリ」は気にしない。途中携帯での撮影を奨励する場面があるので「機内モード」で結構。三演目の合間に岩井氏のMC入りというそんなユルい催しであったが、それでもこうやって正規に上演されてしまうと次回の工場見学会は・・と少し心配気にもなる公演であった。
アトリエヘリコプターでの「出し物披露会」でやったのと同じ笑いがこの劇場でも起きるのは作品のクォリティの証明でもあるだろうが、あの会で「こんだけ真剣に馬鹿やるか」とは、「立派な劇場」ではなりづらかったナ・・そんな感想は、半ば「秘め事」のように胸の中にしまっていた記憶が公式に開陳されたことの淋しさの反映か? よく判らないが、恐らく今なお「しまっておきたい」作品体験である事を、今回の上演で確認したという、自らの心理を解説すればそんな具合であったように思う。

ネタバレBOX

ゲームの中の世界を表現するのには、音響、照明の力は段違いであったし、大衆演劇の慣習のデフォルメにも劇場機構は決してアダでなく、最後のごっちんの哀しい物語も、笑いと切なさの絶妙な線が全く崩れずに再現され、つまり舞台はどれも失敗ではなかったように思うのだが、新作がなかった、あるいは大胆な改変がなかった事は、オリジナルを観ていた人間として一抹の寂しさは否めなかった。劇団ハイバイに求めるレベルが、元々高いわけであるのだ。

ビリー・エリオット

ビリー・エリオット

TBS/ホリプロ/梅田芸術劇場/WOWOW

赤坂ACTシアター(東京都)

2017/07/19 (水) ~ 2017/10/01 (日)公演終了

満足度★★★★

「市民」の付くミュージカルには何度か巡り合ったが、「本格的」なミュージカルは初めて(映像で『Rent』を見た位)。本格的、の範疇が「ある」と考えている理由はあるのだがそれはともかく・・。音楽(歌)、踊り、芝居(演技)の三要素が拮抗し、相乗効果をなして一つのドラマが構築されるミュージカルでは、技術の鍛錬や稽古、つまり努力によって合格ラインに到達するという舞台裏のストーリーがあり、洗練された技術、芸に対する感動にはこの要素が不可分にある。
今回の「ビリー・エリオット」はリトル・ダンサーという副題(原題)通り、ダンスに目覚めた少年が困難の中、その道を進むという話。イギリスの炭鉱町が舞台だ。
この英国ミュージカルの日本版、私は全国の応募者(確か1000人位)が一年間のワークショップを経て最終的に5人が勝ち残る、との報に触れて単純に興味が湧いた。「舞台裏のストーリー」をウォッチし始め、まんまと宣伝に乗せられた訳である。
「訓練期間」を兼ねたワークショップという手法もうまい。結果的に不合格となった子供たちも一年を無駄とは思わないに違いない。その子らやその親族関係者も一定程度観客動員に見込めるという制作上の戦術もありそうだ。

舞台は「Rent」や映画の「WestsideStory」もそうだが社会性が高い。エネルギー政策の転換時期を迎えた炭鉱町でストライキだ何だと会社との「闘争」に明け暮れる町の人々。日本では1950年代だったがイギリスではサッチャー時代、80年代に今で言う新自由主義路線へ舵切りがなされて労働争議が燃え上がる。その報道映像が冒頭に流される。
少年がダンスに触れ、教室の先生に見込まれていくストーリーと、炭鉱の物語が並行し、時に少年にとって障壁として立ちはだかるが、最初に流れるドラマの基調となる音楽は「闘争」の場面で労働者が機動隊と対峙して正義を問う歌だ。このモチーフが中心に据えられ、ユーモラスで多彩な場面・歌が展開する。そして披露される少年のダンス、そして「成長した(あるいは本人の夢の)ビリー」と競演するシーンには「舞台裏」のストーリーが重なる。「本格的」ミュージカルの本領が発揮される瞬間の一つでもある。だがそれだけでは「本格的」には達しない。楽曲がよくなければならない。ドラマの創造ともう一つの柱が楽曲であり、これが世界観を作る。
ミュージカルファンは(多分)、耳が捉える抵抗しがたい甘味な音を、想定して客席に座る。演劇にも音楽が大きい役割を果たすことがあるが、それは結果論で、ミュージカルを見ようとする心は、その結果を見越しているのだ。この種の感動が、演劇の感動の一つとは言えても中心的なものだと言えるかどうか(否、と私は言うが)。
だが、これはドラマであり、ドラマ性を濃縮した表現だ。

奇想の前提

奇想の前提

鵺的(ぬえてき)

テアトルBONBON(東京都)

2017/07/21 (金) ~ 2017/07/30 (日)公演終了

満足度★★★★

鵺的4公演目の観劇。「この世の楽園」あたりで劇団名を認知、「丘の上、ただひとつの家」で漸く初観劇、ヒューマンドラマかサイコドラマか・・「悪魔を汚せ」でサイコホラー路線を確信。これは作者の志向というより好みの問題だろう、と。また同公演から寺十吾を演出に迎え、今回も同コンビ。そして少年王者館・夕沈ほか俳優陣のユニークさが目を引いた。
装置はパノラマ島に建設された異様な建造物の内側。照明効果で闇になじむ建物を、若者三人(男一人女二人)が訪れ、二人に「ここすごく気に入った」と言わせ、一人に「耐えられない」と言わせる。その台詞が納得の舞台上の空気がまず観客を引き込み、事態の経過が見守られていく。
結論的には、脚本の粗さを、大胆にホラー色に突っ込んだ演出がフォローしたか、むしろ粗さを際立たせたか・・評価が分かれる所だろうか。

ネタバレBOX

江戸川乱歩「フリーク」ではないが嫌いでない一人としては、ストーリーそのものはオリジナルではあっても、完全に「パノラマ島奇談」有りき(登場人物と原作のストーリーはそのまま借用)である作品にもかかわらず、乱歩の歩の字もチラシに謳っていないのはどうも・・ちと反則ではないか?
人格の一貫性が描ききれていない人物が一人二人でなく、これでは肝心のどんでん返しの効果が薄まる。演出で盛り上げていたが・・本の問題と、役の造形の問題も振り返ればあった気がする。
ダークな方のヒロイン役の狂気を帯びた人物像、内側からやむにやまれず陰惨さにのめり込んでいく、殺人が嗜癖のように彼女を捕らえているという、哀れさを催す乱歩作品のヒロイン像(黒蜥蜴とか)がほしいのだが・・どうもニュアンスとして復讐心や、極限状態で気が触れてしまう狂気の笑いをちょっぴり織り交ぜた定型的な演技に終始して勿体ない。もう一方のヒロインも「居なくなった」後、忌まわしい血と闘っている=本来の自分の欲求を自傷のように押し殺す(自己犠牲の)様が想像され、観客の胸を熱くする・・と行きたい。
そうなってこそ、最後に残ったもう一人の末裔が「自分自身の本当の願望」を問われ、示唆される像というものが真実味を帯びてくる。そう見えてこなければ正解でない作品だったと思う。

パノラマ島の屋敷の爆破、気球、人間花火と、血のクライマックスを演出するアイテムは揃っていたが、このパノラマ島の来歴が、後の世の人々(登場人物)にどんな影を落としていたか、リアルに腑に落ちる「形」として見えてこなかった事がそのクライマックスに乗っかる事を妨げていた。理由の一つには、時期についての説明がうまくない事が言える。
まず、原作の話。M県の資産家・菰田家の亡くなった主に、うり二つの人見という男(実は大学の同級生)が、故人に成りすまして当家に入り込み、資産を転用してかねてからの夢を実現すべくパノラマ島を建設する。その後の血塗られた顛末がまずある。そして現代(殆ど現在に近い時期である事が何かの台詞で示されていたが忘れた)、その末裔である姉弟とその従姉が興味を惹かれて(祖母の言いつけに背いて)パノラマ島にやって来る。この現代の話と、前史としてその15年前の話が入れ替わりつつ展開する。重要登場人物は、菰田家の三姉妹、その使用人で財産管理その他の一切を切り盛りする男、そしてパノラマ島に取りつかれた男(島で管理人を一人で続けている)。先ほどの若者の内姉弟の母は三姉妹の次女で、従姉の母は三女であるが、親となり得ない資質のため三人は菰田家の邸には住まず養子に出され別姓を名乗っているという、特殊な状況がある。
ところが現代の三人は良いとして、三姉妹の異様さが、昔な雰囲気なので、時代感がいまいち掴めない。私は原作を知らなかったので、踏まえられている原作のエピソードがどこまでで、三姉妹の時代との境界を敷きにくかった。
三姉妹の生活と「現代」の風俗との接点ないし距離感を示す一つ要素があれば、立体的に浮かび上がったように思う。原作の話のあった時代から、遠く隔ててなお、三姉妹、その子の世代に忌まわしい呪いのように付きまとうもの、それは何なのか・・対象化され、思わず考えてしまう話として見えたかった。
演出として既に見えている事実が、台詞として改めて語られたりという、重複感も、サスペンスとしては停滞を生んでいて、もう一歩、人間の闇の真実へと迫る視点が欲しくなる。
舞台効果が優れていただけに、惜しい感じが残った。
『部屋に流れる時間の旅』東京公演

『部屋に流れる時間の旅』東京公演

チェルフィッチュ

シアタートラム(東京都)

2017/06/16 (金) ~ 2017/06/25 (日)公演終了

満足度★★★★

☆思い出し投稿☆
「現在地」を観たときに通じる、よ~く観て聴いていないと「ほわ~ん」とした時間の流れに心地よく浮かんで流されてしまう、静かな演劇。「現在地」より音楽は押さえ気味か。その分、親切でないが、言葉で広がる世界を重視したのだろう。
「現在地」は震災後の人間の「関係」と「心」に起こり得る現象を、先取るように描こうとした意欲作だったが、「恐れ」が現実から目を背けさせ、今に安住させる、ある種の自己操作を行なう人間のあり方が対話の中で顔を覗かせる。被災地にとどまる人間の心情を台詞化したようなもの、と私は感じ、「だから何だ」と思わなくもなかった。
「とどまる人々」が蔑視される現実どころか、「脱出した人々」が白眼視される現実が、すでに当時、公の部門が被害を「認めない」姿勢から必然に導かれることへの心配のほうが大きかった。

今回は、大変シンプルな、三人のみによる舞台だ。現在を生きる夫婦(恋人同士だったか)の家に、男の元妻だった女が霊として登場し、特に後半は延々と、自分の死を含むあれこれを語る。能のイメージが重なった瞬間もあった。三者は会話を錯綜させず、「現在・未来」へと向かおうとする女と男、過去の事柄を語り続ける女とその話を聴く男・・その単純な構図も、そのイメージに繋がるものがあった。
が、言葉の大半が耳に入って来ず(例によって睡魔にも襲われたが)、どの被災について言っているのか、あるいは特定していないのか、焦点はその「災害」にある事を十二分に仄めかしながら、台詞の大部分はうまくそれを回避し、十二分にじらして「それ」に触れる、というそんなテンポで進行していたように記憶する(眠っていた時間のことはいい加減に書けないが)。
このテキストの「効果」は、日常の中に「災害」の事実を、いかに忍び込ませるか、という戦術上の効果だ。そして、それ以上ではない。
マス=不特定多数を意識する(とみえる)岡田氏は、被災の事実を多くが忘れているマスの大衆の感覚に寄り添いながら、周到に、「災害は、ホラ、ここに私がいるように、あったんだよね」と、やんわりと触れ、そして「災害を思い出す」地点に軟着陸させる、という事になるのだが、この「効果」のみに照準し、それのみを言ったという、この舞台をどう捉えれば良いのか私には分からない。
ある人々に対しては、大変有効な戦術なのだ、という事になるのかも知れない。政治的・時事的な事柄を扱う芝居は、受け止め方に大きな差が生じるものだろう。が、私にはこのリマインダー公演、総じて情報量が少なく、(台詞の)目新しさもなく、ネームバリューが料金を引き上げているな、というのが今の正直な感想だ。

-平成緊縛官能奇譚-『血花血縄』

-平成緊縛官能奇譚-『血花血縄』

吉野翼企画

こまばアゴラ劇場(東京都)

2017/06/22 (木) ~ 2017/06/24 (土)公演終了

満足度★★★★

☆思い出し投稿☆
岸田理生フェス観劇3年目(全演目は観ないが)。吉野翼企画は見ておきたいユニット・・という記憶を拠り所に、「血の縄に花咲く」なる怪しげな題名を訝りつつ観劇に臨む。緊縛師エリアが舞台奥。それを囲むように位置取った母と娘7人が一人の男の玩具になっている。それぞれのやり方で調教された女たちが淫靡に求めよがる様は、主人公である思春期の末娘が覗きみる(あるいは思い描く)「大人の(女の)世界」の光景である。娘が大人(女)に変わる瞬間がやがて訪れる。その契機は男の玩具に見えた女たちが己の欲望のために男を利用していたという反転に重なり、その時点で男は操り手を失った人形のように頭を垂れてひざをついたまま動かなくなる。
今や、女性が欲望の行使の主体である事など常識の枠内だが、ライブで奏でるクオリティの高いギターと声が女たちの高らかな宣言(欲望に生きる告白)に随伴し、クライマックスを演出するとき、爽快さが駆け抜けた。古さを感じながら、しかし「今改めて」という気にさせたのは、同時進行で情動を突き動かす音楽=生演奏の功績だ。舞台の視覚的な美と音の融合が見事なアート作品。

中橋公館

中橋公館

文学座

紀伊國屋ホール(東京都)

2017/06/30 (金) ~ 2017/07/09 (日)公演終了

満足度★★★★

文学座の「劇場公演」二度目の観劇。アトリエ公演との差異に驚いた「食いしん坊万歳!」に感じたのと同様の感想、即ち「あァ新劇団なり」。
同時期のあうるすぽっとでの三好十郎「その人を知らず」とも連携した、「戦争を考える」演目の上演という事で、あうる公演に感じ入った二日後、紀伊国屋ホールの後部座席で遠目にみる舞台はいま一つ、眠気を飛ばす熱量はなく、戯曲の時代的な限界もあるように思えた(作眞船豊)。舞台は終戦直前~戦後の北京。中国奥地やモンゴルでアヘン中毒の治療に奔走して数十年を殆ど家に寄らずに過ごした齢八十を超える家長と、その「身勝手さ」に反発する長男の対立構図を軸に、家長の妻、にぎやかしい娘たちとそれぞれが抱える家庭の成員、知人らが出入りし、最後には帰国を決意した長男との離別の場面を迎える。既に日本に住む彼の息子とのことを気遣い、離れ離れになっても家族であることを切々と説く母親の「思い」に家族が静かに心を寄せ、「時代」とそれに翻弄された自分らを振り返る・・皆がひとしく先行きの見えない身であるこの時をかみ締めつつ。・・そういう閉じ繰りであったと思うが、他郷に生まれ育った家族の、別れの中に「戦争」「侵略」は影を落としているものの、人物たちの「苦労」はせいぜい、その「離別」くらいである。反戦メッセージを戯曲そのものに重ねるには、現代では無理ではないだろうか。
異郷暮らしが二世代に渡った家族の時間を描いたということでは、貴重な「記録」ではあるが、今切実に知りたい情報でもなかったりする。。他郷暮らし、と言えば「在日」の境遇が問題群としては近いものがある。
基本コミカルなタッチ、上村演出は意表をつく「歌」の活用で、舞台の停滞をかわしていて、その部分はよい味を出していた。ただ、喜劇調が生きるのは、一方に厳しい状況や出来事が横たわる場合であるが、この芝居では状況の切迫感がなく、北京での日常が「逃亡」の必要さえもぼんやりとしか感じられず進んで行くように見える。コミカルさと切迫感の共存は無理である、と私は思ったが、それは高齢の父の「らしくない」形象に典型的に表れている、ように思えた。戯曲上、戦前の家長のリアルな芯がほしい所、年齢に届かない俳優が扮装してガシガシとかくしゃく老人を演じると、家に戻れば台風のように引っ掻き回す大男のコミカルさは見えるのだが、有無を言わさぬ威圧感、存在感が薄まり、ドラマも薄まった気がする。

不埒

不埒

TRASHMASTERS

駅前劇場(東京都)

2017/07/15 (土) ~ 2017/07/23 (日)公演終了

満足度★★★★

今回はキマった。カゴシマジロー、龍坐の姿を久々にTRASHで見る舞台でもあった。彼らを当て込んで厚みのある役を書き込んだかのように、芝居の進行につれ重度が増す印象は不思議な感覚である。「論」が勝つことなく、人間味溢れるドラマとして締めくくられていた。
前半は中津留節の強引さに戸惑うも、背景説明の手際の問題。徐々に見えて来る人間模様の風景と、そこから滲み出てくるテーマ性が鋭角的である。「次」を予測できず、目が離せない。
「身勝手な男」の本質とは何か・・この切り口で壮大な日本論を展開する作家の手腕に今改めて感服。「本人は真面目」で笑いを取れるカゴシマの強みが、終盤、説明的モノローグになろうと温かみを殺がれない人物の一貫性に発揮されて、溜飲を下げる。
対する龍坐の、終盤明かされる彼の「秘密」を巡ってのカゴシマとのやり取りを、星野卓誠が見ている構図も見事である。役者の勝利か、脚本の勝利か。答えは出ないだろう。(なぜなら彼らはTRASHと一体だから。)

「ドドンコ、ドドンコ、鬼が来た!」

「ドドンコ、ドドンコ、鬼が来た!」

椿組

花園神社(東京都)

2017/07/12 (水) ~ 2017/07/23 (日)公演終了

満足度★★★★

久々に椿組野外公演を観に参じた。全身汗まみれを覚悟である。
秋之桜子&松本祐子の作演出コンビ自体が初めてでその品定めも兼ねた。序盤、野外劇=祭り気分の盛り上りを先取りしたノリに、オッと躓きそうになりながら、前半駆け足で伏線を仕込んだ後の二幕は、じっくりと見せた。終わってみれば初日。屋台崩しも物語に即していて見事に決まった。役者は駈けずり回っていた。その汗と涙にもほだされた。これから酒を振舞うのだとか。夏は、そうだ祭だ。

怪談 牡丹燈籠

怪談 牡丹燈籠

オフィスコットーネ

すみだパークスタジオ倉(そう) | THEATER-SO(東京都)

2017/07/14 (金) ~ 2017/07/30 (日)公演終了

満足度★★★★★

扉座、桟敷童子のとは一味違う〈すみだパークスタジオ〉。奥行間口は広いが天井低く、夜の倉庫の四隅や、視界の届かぬ向こうが闇に溶け、入れ替わり立ち替わる光景が幻のようで、現のようで。ある夜の寝物語にみた夢のように判然としない、あの錯覚を瞬き一つで起こす闇を背に、虚実の結界をゆらゆらと辿るような時間であった。
演出は大手プロデュース舞台を多く手掛ける森新太郎、俳優は抜かりない演技を繰り出すが、舞台中央に据えられた縦の軸にゆっくりと回る(時に速度を増し、時に止まる)横広のくすんだ厚布との間合いや位置取りは見た目以上に難事だったのでは・・。
太田緑ロランス、松本紀保、山本亨、西尾友樹、児玉貴志、青山勝、原口健太郎、花王おさむ、松金よね子・・(主賓らしい柳下大は名も顔も初見だったが)、現代の衣裳が次第に違和感なく、むしろ役者の的確な芝居により「牡丹燈籠」を確かな手触りでこの瞬間に存在せしめた。
人間の業に絡め取られ、欲に突き動かされ、あるいは巻き込まれ修羅の場に轟然と立ち尽くす終幕の彼らは血にまみれて立つマクベスのラストの残像に通じ、破滅のカタルシスをめらめらと放射していた。美しい。その場所に立つ事はないと信じて眺め興じる己らだが、自らがそこに立って生きやう(死なう)としたのがミシマであったという事かな、などとふと思う。

ネタバレBOX

森新太郎演出の注目舞台は結構見逃しており、過去観劇したのはコットーネ「民衆の敵」(吉祥寺)、新国立劇場「エドワード2世」のみ。演出的な挑戦が明確にある印象だ。
「民衆の敵」は同時期に見た雷ストレンジャーズのストレートな小空間の舞台のほうが、的確に思えた。森演出は古典作品に「斬り込む」趣向に傾き、考え過ぎに思えたのだった。演出の意欲はビシビシと感じたが。
「エドワード2世」のほうは恐らく、ヒーロー性の欠片もない王の孤独をコミカルに、柄本佑に演じさせたのが演出的作為で、面白かったが、森演出の本領は大型舞台で確かめ得る、という線が見える。
が、今回のすみだパークスタジオはいかにも小劇場。だが使いこなしは完璧だった。もっとも「円」の舞台も小さな場所でやるイメージがあるが。
大竹野正典シリーズでないコットーネ舞台は、3作目になった。若干値が張るのは役者陣が贅沢だからか。その価値あり、と言える舞台。
児玉貴志がThe Shampoohatの休業中見られなかった所、久々に苦虫潰した表情(なぜカーテンコールで?)を見られてプチ満足である。松本紀保の地で行くような芝居と死の直前(とは知らず)見せる艶っぽさ、太田の全身そそのかし女のなり切り振り、主人をも諭す忠義ぶりを演じる西尾、その主人の存在感を最後に見せ付けた青山、欲に身を売り手抜かりなく殺す影の主役・山本、脇できっちり締め、また笑わせる松金、花王。その他名前を把握しない俳優のあの場面この場面。・・・
その人を知らず

その人を知らず

劇団東演

あうるすぽっと(東京都)

2017/06/29 (木) ~ 2017/07/10 (月)公演終了

満足度★★★★

観た人から直に評判を聴き、観に行く。三好十郎作+鵜山仁演出と言えば一昨年だったか『廃墟』が鮮烈だった。東演+文化座合同で、自分は東演パラータだったが、文化座アトリエにしろ狭い劇場で唾と汗を飛ばす熱演を間近にみる観劇になったのに変りない。
今回は合同がさらに広がって新劇団5団体、上演時間も休憩込み三時間二十分。劇場が大きくなってあうるすぽっと、これが違う。後部座席では、少し厳しかった。芝居を演じられているその場の熱度、ディテイルが伝わらず、台詞の一部が聞えず、という事があり、しばしば入眠す。
第二幕では前の席に移る。と、見え方が全く異なり、確かに、ありありと、そこで起きている事に、引き付けられた。
大作であるためか台詞覚えに力を取られ、体全体での表現に至らない部分が、多かったのではないだろうか。後部からだと、俳優の身体を含めた情景として全体を眺める形になる。そこで、聞えてくる台詞の「言葉」そのものの表示する意味と、それを発する存在としての表現(身体)が、合致していなければ、意味が分からなくなる、という事が生じる。これが近くからだと、表情が見える、声の強弱がより聞き取りやすくなる、目で自然にフォーカス機能を使い、「理解しよう」と感覚器を駆使するわけである。(単に二幕で引き込む作品だった説も、あるが・・)
まあそんな事がありつつ、三好十郎がものした問題提起、情景描写は、痛烈で、日本の庶民の戦争責任を、戦後の彼らのあり方の中から探り、抉り出す作者の妥協のなさは激烈だ。それを浮き彫りにするための、主人公の人物像。純朴に「エス様」を信じて戦中投獄され、戦後は彼を導いた牧師の教会を再訪した際、そこに居合わせた信者・牧師との対比で益々その清廉さが際だつ、主人公の姿であった。
彼を鏡とすれば、現代の我々も、何かを諦め、それがために歪んだまま飲み込んでいる「おかしなこと」が随分ある事を思い知らされる。
三好戯曲が現代に生きる、これも一つの実証になった。

さよならだけが人生か

さよならだけが人生か

青年団

吉祥寺シアター(東京都)

2017/06/22 (木) ~ 2017/07/02 (日)公演終了

満足度★★★★

背中を向け何も喋らず、取り立ててストーリー展開に貢献する言葉も吐かない人が舞台上にいる・・それまでの演劇の常識の埒外だったその態様を芝居上に成立し得たことで、舞台概念の拡張に伴う隙間に「自由」の風が吹いた。その時々に芸術には風が吹いて古い建物を揺るがす。ここ100年ばかりの演劇(に限らずだが)の進化=深化のめまぐるしさは、物質文明、科学技術の発展が人間に「違う風景」を見せつづけ、その速度を増した100年だからでもあるだろう。そして今なお人は「自由」を求めている。(「自由からの逃走」現象もあるが)
平田オリザの現代口語演劇のインパクトは今活躍するトップの演劇人に影響を与え、また多様な表現に貢献しているのは間違いないが、日常のリプレイ「だけ」が平田演劇かと言えば全くそうではなく、巧みに「自然なふるまい」の連なりの中にそれを仕込ませ、狙いでなくある遭遇や合致や統一がなされて感動が起きる、そのドラマ構造が作られている(ポストドラマに非ず)。それでいながら、「ドラマチック」を注意深く回避する形跡がある。
今回の作品はテーマ性は特になく、会話がただ続く。異なるカテゴリーに属する人間が遭遇し反応するダイナミズムや、別れの悲しさや出会いの輝き、またそれらが幻想である事への諦観に立ち返る笑いなども書き込まれているが、少々淡白で、無意味性が強い。初期作品だけにそこに意図があり気だ。だがその淡白さや無意味性そのものに感動する(自由を覚える)時代は過ぎたのではないだろうか。
観客が観ようとするのは作品のそちらの側面でなく、やはりドラマ性の方なのである。と、思う。
もしそこに青年団の味があるのだとすれば、それをストイックに、盛り上げずに、芝居を色付ける音楽は一切使わず歌ならアカペラで、語るタッチである。だがこのタッチは、背後に渦巻くドラマ性や感情があってこそ、落差のある表現によって真実を仄めかす手法に相当し、それによって観客を納得させる芝居になる。
今回の作が客にどう響いたかは分からないが、私は淡白さを覚えた。淡白が狙いならば当然なわけだが、群像劇らしく諸々こぞって迎えるラストシーンで、それぞれの人生がその時と場に交差しているというドラマ性はあるのであり、そこへと誘っておいての肩透かしなら、ドラマ性の成立がまず問題になる。そして肩透かしはオプションで、しかも今やネタバレだがら、「現代口語演劇」の時代的検証以上のものにならない。そうなるのは役者、あるいは役の存在感のバラツキのせいか、演出の問題か判らないが。
観客(私)と舞台との距離(座った席の問題)にも影響されたか、、考え中。 

ブリッジ

ブリッジ

サンプル

KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)

2017/06/14 (水) ~ 2017/06/25 (日)公演終了

満足度★★★★

ArtsChiyoda3331にて行なったワークインプログレス「ブリッジ」は、私には「完成度」高く、秀逸だった。場所も廊下の通行人が向こうに見える平場な空間で、「コスモオルガン協会」の集会を本当にこの場所でやってる臨場感が、むしろスリリングで、終始笑えた。
それを踏まえてのKAAT公演ははたして如何?という期待で観劇。もっとも3331で十分満足したので実は観る予定ではなかったのだが、時間が空いたのでスケジュールに入れた。古館寛治も見たかった。
3331上演版の何年後かの設定だ。同じく「集会」ではあるが、前半はメンバーそれぞれの「教祖」との奇妙な出会いエピソードが、回想式に描かれ、「モツコスモ」思想のさわりにも触れられる。そしていよいよ後半が、メンバーが椅子に座って並び、やり取りをする「現在」、3331版と同じ臨場感横溢せる時間がやって来る。
この部分の作りも、3331版が秀逸であった。設定を変えたことで幾つかのおいしい場面や要素を端折らねばならなかった事が窺えたが、大きな要素は「劇場」である事により、声も少し張らなければならないし、「芝居」的なイメージに寄らざるを得ず、「臨場感」の方は当然ではあるが減衰した。
コスモオルガン協会の思想の説明としては、やはり3331版のメンバーの奇っ態なやり取りに軍配が上がるが、KAAT版は、協会の内情に分け入り、歪な実態も露呈させて、具体的記述に踏み込んでいる。それにより、作者のカルトに対する否定的な視線が漏れ出ているようにも見えるが、最後はそんな判断の余地さえ与えないようなぶっ飛んだ奇怪な終わりである。今回なりの終わらせ方であり、まるで絶滅するはずの種がしぶとく生き残るかのような予感を残した。
つまり、作者はこの自ら生み出したモツコスモ思想に積極的に介入し、観客に思想の是非の判断を迫っている、かのような具合になっている。この思想の「プレゼン」をどう受け止めて良いのか、戸惑った客はいたかも知れない。・・いやいやこれはギャグですよギャグ・・と笑い飛ばせない何かが残るという。
恐らく創作の趣旨から言えばこのカルトに「否定」の評価を作り手が行なってはならず、しかしカルトの当然の帰結として危うさ醜さが露呈して来る・・しかしある思想や宗教的発想それじたいをみればそれが人間の財産になり得ないと断言する事はできない・・。このライン上に立たせて観客を迷わせること。その「狙い」に勝手に共鳴したような次第である。

『あゆみ』『TATAMI』

『あゆみ』『TATAMI』

劇団しようよ

こまばアゴラ劇場(東京都)

2017/06/01 (木) ~ 2017/06/05 (月)公演終了

満足度★★★

=思い出し投稿=
アゴラで柴幸男作品とは普通に期待が膨らむ。だが、作者本人が冒頭で登場、彼の発案による男ばかりの「あゆみ」上演・・とは私の勘違いであったがしかしそう取って無理のない作者の贅沢なプレゼン付公演の、さて中身は。。他投稿にいまいちな反応があったが、同様、「試み」の難度に比べて俳優の「考えてなさ」に「おいおい」と、つい突っ込みが。
苦あり楽あり切なさあり、失望と妥協と諦観と・・諸々を飲み込んであゆみ来たった人生を俯瞰的に再生したときに訪れる感興が、「あゆみ」の魂であるところ、戯曲の持ち味を有難く再現するというでなく平然とスルーしている、かに見える。まるで体操競技の段取りをこなすスポーティな演技?要は言い方はきついが無神経な演技(実のところは、単に力量の足りなさ、なのだが)が目につく。それは、男が演じることの困難さと、どう折り合うかについての、思考を諦めた感じなのだ。
少しやれる役者は、「女性」性の役柄と齟齬がない線を辿れていたが、それで少しばかり芝居が見えてきたとして、しかし物語は既に折り返し地点を過ぎた頃。
しかも最後、再び作者が登場し、最初彼が役者らにやった「いじり」インタビューを逆転し、作者を質問責めにする。この部分だが、作者がこの集団に対し「趣向」として書いてプレゼントしたものなのか。・・だとしたらあまり成功しておらず、残念感が残る。もし、劇団からの申し出だとすると、おいおい。趣向でごまかせた気でいるなら大間違いだ・・と野次の一つを飛ばされて不思議はない。

酷評であるが、うまく行かなかったにしても、何に挑戦し、敗れたのか、その動機の部分が見えなかった事が、問題な気がする。(というより、「男だけのあゆみ、面白いでしょ」という動機一色だったのではないか、そう想像すると寒いものが走る。)
役者たちは真面目にやっていたので、☆は3つ。

子午線の祀り

子午線の祀り

世田谷パブリックシアター

世田谷パブリックシアター(東京都)

2017/07/01 (土) ~ 2017/07/23 (日)公演終了

満足度★★★★

休憩挟んで4時間近い観劇だが、苦痛感なく、興味深く観た。木下順二戯曲を味わう。平家物語の原文(恐らく)もテキスト上に引用し、従って全体に解読の難があるが、要所で意味合いが知られる台詞や展開を示して、飽きずに観られる。
なぜ子午線なのか。戯曲は緻密に周到に、歴史的事件(源平壇ノ浦の合戦)と天文の次元とをつなぎ、最後にしっかりと作家の狙いが結実する瞬間、えも言われぬ感懐に身を浸される。木下戯曲、さすが・・。
舞台装置の大胆かつさりげない技も光っていた。

大帝の葬送

大帝の葬送

ロデオ★座★ヘヴン

王子小劇場(東京都)

2017/06/28 (水) ~ 2017/07/02 (日)公演終了

満足度★★★★

柳井祥緒作品・最近の観劇はgallery&spaceしあんでの「タイムリーパー光源氏」。エンタメ性高く、お得感あり。
今回のは、「眠る羊」(十七戦地)、「幻書奇譚」に似た議論劇であり、野木萌葱ばりの「歴史事件物」、宮様の御付きも登場するから劇チョコ「治天の君」もよぎるが、対立を経て目的を一にする感動物語(プロジェクトX即ち肯定史観)に着地する意味で劇チョコとは一線を画する。
時折はさまれる笑いは、史実という後ろ盾をもつゆえの自信の表れに見える。寄らば大樹の陰ならぬ、寄らば歴史事件。寄り添って樹液を受益する芝居。
その関係性の中での笑いは、稲田防衛相の「笑み」に似て気味が悪い。自衛隊という後ろ盾があるつもりの、自信が、よく見ると表現されている。

こういう感じ取り方はやはり歴史への「認識」から来るのであって、いかんともできない。事実を知り深めることを、若き作家たちに望む。
(完全に年寄りの繰言だ。)

ネタバレBOX

天皇を象徴と仰ぎながら(担ぎながら)の天皇の意向無視を決め込む風潮(安倍首相は張本人)に、一石投じる思いも作者にあったとするなら、一応理解はする(もっとも昭和天皇と明仁とは違うが)。
が、その場合、天皇への敬慕の「心」をその根拠にするのは、難しい。
天皇危篤・崩御をめぐって舞台上で対立する宮内庁と官邸、また皇居詰めの者らのその対立は、天皇の「何」をめぐっての対立なのか。
「天皇はこう望んでいるに違いない」、「いや天皇はこちらの判断を尊重するはずだ」、「いや国民生活の観点からこうすべきでそれは天皇の意向でもあるはずだ」・・といった意見の違いが、あったにしても、芝居のように苛烈に声を荒げるような対立になってしまうとすれば、それは彼ら個人の保身やプライド、皇室と関わる身として己を役立てたい自己実現欲求といった個々の「利害」をめぐっての対立である。
そういうものは何時の時代も、どこにでも存在し、この芝居ではたまたま裕仁天皇崩御というトピックであったに過ぎない。
大喪の礼が成功裏に終わった・・この「成功」と評価づけての「感動」は、プロジェクトX型の歴史叙述の特徴だ。
この歴史事実が積み残したもの・・自粛ムード、報道の右へ倣え、そして、このトピックに関心を持たないことへの、白眼視。この芝居はまさにこのトピック(史実としての)に関心を持たない人間を、結果的に排除する帰結となった。
粛々と感情を見せずに事を進める役人が、誰もいなくなった最後に天皇の死を悼んで初めて泣く(感情を顕わにする)というまとめ。これではこの史実が積み残した問題にノータッチに近い。「自粛」「右へ倣へ」の弊害に対する最も明快な態度は、天皇の崩御を大ごととしない態度、であるからだ。それを体現する人物は登場せず、皆こぞって最後は喜々として仕事に勤しむ。連帯と前向きな努力の美しさを印象付けての感動の類型は、ドラマとして定着したひとつのあり方だが、天皇問題においてこの形を採用した所に、才能ある作家にしては不用意ではないかと思わずにいられない。
今が、オールタイムベスト

今が、オールタイムベスト

玉田企画

アトリエヘリコプター(東京都)

2017/06/27 (火) ~ 2017/07/04 (火)公演終了

満足度★★★★

アトリエヘリコプターでみる初めての玉田企画。モンダイ児を作者が演じる、前みた舞台(怪童がゆく?)に通じるモチーフの別バージョンという感じ。短時間を切り取ったストーリーだが、ガサガサ鳴る手作り感のある回転舞台で三場面が入れ替わり、笑える微細な齟齬の、その微細さを分母にとれば(ノミの目で見れば)、ダイナミズムのある舞台である、と言える。だが我々は人間なので、実際にはあっと言う間に過ぎ去る短時間の(結婚式前夜という事ではあるが)日常の延長におかれた、あるあるドラマだ。

ネタバレBOX

自分の再婚を認めてくれない息子の態度に業を煮やして宮崎吐夢が最後に吐く「この発達障害の○○が..!」の台詞、実際に発達障害という設定のようである。もしそうでないなら、暴言がつい口をついて出た、という事だがこの語は意味を強く持ちすぎ、ミスチョイス。よって、発達障害設定なのだろうと推測。
面白いのは、普通なら靴を履き間違えられただけでブチ切れ、それを理由に結婚式に列席しない挙は大人げなく、まあ子供であるので、まだまだ子供だ、という事になるが、この話では父親がどうしても息子に結婚式に出てほしいらしく、そういう祝福された結婚である事を刻みたいのだろうが、そう念じているために、明日から母になる女性の過ちを「許さない」子は、「そんなに悪いことやってないと思っている」親にとっては受容しがたい存在になっており、しかしそこに発達障害という障害がひとつ入る事で、周囲の配慮のほうが問われる目線が生じる、そのことだ。
発達障害を別のものに置き換えてもいい。歩み寄らねばならない関係にあって、それがこじれて解きづらい「困難ケース」として提示され、さてそこから先、希望はあるのか・・と暗澹とした所へ、どちらとも取れるが希望に傾くのも間違いではないと予感させる微かな揺らぎを、オチとした。(山田洋二『学校3』のラストにその微妙な揺らぎを感じたのを覚えている。)
できれば作者の狙いを作者以上に秀逸に演じる演じ手に、委ねられたし。
ミズウミ

ミズウミ

日本のラジオ

ギャラリーしあん(東京都)

2017/06/14 (水) ~ 2017/06/18 (日)公演終了

満足度★★★★

ギャラリーしあんには5度ばかり赴いて、場所の佇まいに馴染み、気持ちばかりは常連のそれだが芝居はその都度なわけで・・。
夜公演。静かな芝居、と感じた。日本のラジオ観劇久々の3作目だが、そう言えばどれも静かさがあった。細部は忘れたが物語は時代をまたがっての幻想譚で、ファンタジー志向性に同期できるならミステリータッチな語りに乗れる事だろう。私は背後関係を追う気力を持続できず(あの距離にして声が聞えない場面あり)、薄い靄のかかったような観劇になってしまったが。口調に拙さの残る感じは、狙いだろうか?

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