tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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あしたの魔女ョー[或いはRocky Macbeth]

あしたの魔女ョー[或いはRocky Macbeth]

開幕ペナントレース

小劇場 楽園(東京都)

2017/02/08 (水) ~ 2017/02/12 (日)公演終了

満足度★★★★

約60分。テンション、ユニフォーム、体力粘力押しの語り口に笑える。一年前の凱旋公演(トラム)以来のお目見え、ペナントレース固有のワールドは小さな箱でも健在だ。一見脈絡を無視した(今回は話がMacbethだが抽出場面も三、四箇所と大胆)ナンセンスの域に接近しながらも、どこか整然とした端正さがある。例えばミジンコの眼差しで文学作品を眺める視点をいかに獲得するかの闘争を大声で戦い(そんな場面はないが)、バカ騒ぎの中に美の神との対話ででもあるかのような崇高さが滲む(ほめすぎか)。役者は大真面目に仕事を遂行し、決して自ら笑わない。ストイックなパフォーマンスは折り目正しく繰り広げられ、二手に分かれた客席と太柱の『楽園』で立ち会った初日、台詞は瞬間危うい所もあったが、許容範囲っしょ! 逆に、恐らくは突貫工事で仕上げただろう役者らの体力に目が向く。とにかく随所で笑え、この笑いは高度である。

東京オリンピック

東京オリンピック

東葛スポーツ

3331 Arts Chiyoda(東京都)

2017/02/02 (木) ~ 2017/02/05 (日)公演終了

満足度★★★★

タイトルの題材に、期待を高めて観劇。お馴染みのラップ主体の東葛スタイルであったが、皆サングラスを掛けており(これも毎度の事。大物俳優がお忍びでお遊びのてい?)、照明も暗め、マイクを通すので、役者の身体は目の前でも感覚としては遠。ラップも(字幕を見る角度=座る場所にも拠るだろうが)耳ではあまり聞き取れず、字幕を追うがしばしば間に合わない。韻を踏んだ台詞が連想ゲームのように数珠つなぎ、「うまい」と思わせるフレーズに多々出会うが残念ながら記憶に残らない。(使いたかったのにな~)
さてオリンピック開幕式の形式を取り、あれこれをやる。最もおかしかったのは川﨑麻里子の前説的喋り。噛んで含めるテンポが良い。で、色々あったが全体としてどういうパフォーマンスだったか。今回はいまいち切れが、鈍い、という印象と、思想的?立場によってニュアンスが違いそうだという印象。ラップの駄洒落は効いていたが、言葉遊びの感を拭えず、時々チクリと毒針をきらめかせるかに見えるが、誹謗・皮肉を向ける矛先がどこか違うのではないかという感覚が残った。そこが引っかかると居心地が悪い。女の子らが「いい気に」毒舌吐いてる、それって言わされてる?自分の言葉で言ってる?いやいや、そりゃ、役者で雇われてんだから・・うむ。。
自分の志向とシンクロすれば何の問題もないのだろうが。
音響、選曲、映像処理の技は秀でている。
もしや「見せ方」一つで印象が随分変わるという事も。
自由な言論空間である事、そう感じられる事・・を目的化した仕事をぜひ。

命どぅ宝

命どぅ宝

劇団文化座

東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)

2017/02/02 (木) ~ 2017/02/12 (日)公演終了

満足度★★★★★

ちから強い芝居だ。その強さに琴線を震わせられ続けた。何より沖縄口をよく身につけた。演技のタイプ、様式も「斬新」というわけではない。が、骨太とはこのような芝居を言うものだろうか。土の匂いが薫る。
本土復帰前、米軍支配の暴力性が露骨だった時代、沖縄・伊江島で米軍に接収された農地を巡って抵抗を続けた阿波根昌鴻と、政治を通して闘った瀬長亀次郎の二人の死闘と交流、そして実際に伊江島で何が起こっていたか・・。描かれているのは「事件」ではなく人物である。彼らはなぜ闘わざるを得なかったか、そして、どのように闘ったのか・・一つ一つの決断の中に「生き方」が刻まれている。うちなー口が見事に(台詞の言葉=意味以上に)心を語っていた。
作家の執念とともに、人物らの心に同期させられる。不当な支配、不平等な立場は今も変わっていないという現実。「終わらない歴史」の呻きが胸をノックして来て、困った。
どこまでも素朴で楽観的かつ沈着、また高き心をもって闘う彼らの姿勢に、泣けた。「人は喜ぶために生まれてくるのです。戦争をするためじゃない。」これ程シンプルでちから強い思想の言葉はない。重い史実に向かって堂々勝負した戯曲、衒いなく弛みなく、よく書いた。
「歴史の重み」に「依存」した芝居をこれまで何度もけなしたが、この戯曲はその例に当て嵌まらない。史実の「威光」に寄りかからず、人物を、その輝きを描き出している。

陥没

陥没

Bunkamura/キューブ

Bunkamuraシアターコクーン(東京都)

2017/02/04 (土) ~ 2017/02/26 (日)公演終了

満足度★★★★

ケラ作・演出舞台は三つ位、残念ながらヒットに未だ遭遇せず。いや遭遇しても私がそう思わないだけかもであるが(ウェルメイドなタッチが苦手という事は言える)。映像で観た二作の一つは毒が前面に出て悪くなかった。建造物のように芝居を堅固に構築する印象。昨年「8月の家族たち」を観劇したのはケラ氏の「演出のみの舞台」をみたかったからだが、確かな技であった。
だが今作、気になるのは芝居じたいの結語になる部分、芝居本体よりは、洒落や蛇足と見えなくもない部分だ。(またまた例によって歴史云々の話になりそうだがご勘弁を。)
昭和三部作という。・・歴史の描き方には二通りある。問題の根を掘り起こす視点と、讃うべき現在へのルーツを再発見・再構成する視点。このように区分すれば、という話だが、この舞台は後者になっている。単純に、前者は現在と過去に懐疑的で、後者は逆に肯定的、という違いに過ぎないが、単なるドラマのタイプの別を超えた根本的な違いがあると、私は思っている。
3時間に亘る作品をただこの区分で振り分けて批評するのは乱暴だが、重大な分岐がそこにある、と、多くの観客を動員する公演だけに申したくなる所なのである。(くだくだしい論議はネタバレへ)

ネタバレBOX

懐疑史観と肯定史観、「作品」の中では両者混在するのが通常だが、話の閉じ繰りが歴史秘話の開陳の体裁なら、後者のそれだと言える。『陥没』はそれに属する。
もちろんこの舞台は「歴史物語」ではなく、1964年の東京五輪開催に合わせたホテル開業の夢が今花開かんとする、準備段階のホテルの中で展開するドタバタ、ラブコメディだ。史実に触れているのは「東京五輪」くらいである。が、五輪を睨んだ「時」を歩んでいる設定は、強い。必然今の2020五輪を睨む現在にも重なってくるからである。
さて、冒頭の場面ではホテル建設の夢を語る男(山崎一)とその娘(小池栄子)、その許婚(井上芳雄)が慎ましく暖かな関係を見せている。が、父が倒れたとの知らせとともに暗転、タイトルロールが映像で流れ、本編に入った三年後では、娘小池は夫井上とは既に離婚し、冒頭場面の最後に「気持ち悪い」風情で登場した、父の会社に引き抜かれた有能な新社員(生瀬勝久)と小池はなんと再婚している。小池は取締役社長として現場を健気に仕切っており、従業員は他に事務員(緒川たまき)と、あとは生瀬。そして死んだ父の霊も天界から男女二名を伴って登場する(観客にしか見えない)。
ホテルのロビーで展開する話の中心は、小池の元夫・井上と、若い新しい恋人(松岡茉優)との婚約式が翌日、このホテルで開かれるというもので、井上の弟(瀬戸康史)と彼らが連れてきた友人?(山内圭哉)、井上の母(犬山犬子)、松岡の高校時代の教師(山西淳)などが出入りする。どういう経緯か逗留しているマジシャン(高橋惠子)、その秘書(だったと思う・近藤公園)、婚約者の女友達の歌手(趣里)も加わる。天界の同伴者二人は丸い電灯で表現され声のみ出演(誰かは不明)、やがて姿形を現すが、その場合はある登場人物の体を借りて行動し、乗り移られた方はその間の記憶をなくしているという案配。天界人の「七つ道具」惚れ薬が厄介な事態を引き起こし、カテゴリー的にはラブコメそのもの。
冒頭の伏線は、本編の歪んだ状況(生瀬が小池の夫である事、元夫も別の相手と婚約しようとしている事)を、超克すべき視点を残し、忘れた頃にその問題が浮上して解決へと動き出す。撒かれた伏線が最後には拾われ、あるべき形に収まる、完結したドラマになっている。
その構図を楽しめば良いという話ではあるが、やはりこの劇は「歴史」を落としどころにしている。東京五輪の前年に、こんな事があったとさ、無かった?無かったとは言えないさ、誰も見ていないんだから・・ま、そんなあれこれがあって、つまり日本はあの時代をくぐって、今という時代を迎える事ができたんだね。うん。なんか、感動だね。・・そういうオチで閉じられている。「日本」「歴史」の共有感が介在して成立するドラマのフォーマットを借りて、お客のご機嫌を窺う芝居に落ち着く訳なのだ。

知られた歴史の「裏話」的な語りとは、史実を「それ以外にありえなかったもの」と規定し、「実はその裏には・・」と寝物語に話すあのニュアンスがある。パロディは、パロる対象が堅固であるほどよく、権力が強大で悪どいほど面白い諷刺を生むのと同じ構造だ。
芝居はもっと複雑で多様な視点をぶちこむ事も可だが、芝居全体がどういう叙述となっているか、だ。芝居の序盤、世情を皮肉る台詞が吐かれるが、流れにそぐわず飲まれてしまう。
高度経済成長時代の「秘話」は、昭和の当時の風俗を散りばめながら、しかし人物らの感覚は現代に近く、「誰もが知る」(訳ではないがそんな風情の)歴史=「昭和」のキャンバスに遊ぶ時間である。
主語は時代。心温まった後味の理由は「現在の肯定」にある。芝居には毒もあったから、肯定された気にならない客も居たかも知れないが。。
歴史の「肯定」と書いたが、歴史を俯瞰し、それが必然であったという意味で史実が「確定」された時、肯定か否定かという論議のステージは通り越している。
運命論は、「それ以外に辿る道はなかった」のは宿命、即ち「必然」であって天の道理にかなっている、という叙述になる。複雑に絡み合ったものが解きほぐされ、収まるべき所に収まる物語じたいが「運命論」と言い換えて良いが、この話の中に人間の情熱や努力が無かったかと言えばそうでもなく、運命を「切り開こう」とする人間は描かれている。
ただ、小ぢんまりな世界での右往左往が、「感動」の次元に持ち上げられるには、やはり「歴史」という大きな物語の力が不可欠であった。肯定された「現在」は、日本という国、あるいは共同体のそれであり、観客はその一員に組み込まれて、等しく祝福に与るという寸法である。
永井愛の「時の物置」は60年安保の翌年、経済路線に舵を切り、生活の安定と「正しさの追及」(主に政治的次元)が齟齬を持ちながら同衾する事になった日本の、庶民レベルでの風景を描いた秀作だが、受験勉強に勤しむこましゃくれた高校男子にさらりとこう言わせている。「叶わぬ夢を追うより現実を愛した方がいい」
これを演劇、ドラマに置き換えると、一つの補助線になるだろう。
ドラマチックたる根拠を「歴史」そのものに置く叙述の方法。ドラマ作家と歴史の依存関係(「歴史」が擬人化して自らを肯定されたがっている、とみれば)が、私には欺瞞に感じられる。互いを称賛しあって付加価値を高めるのは、あながち商業面に限った話とは言えないが、損得勘定の匂いは燻る。
作劇の才能と集客力を持つ作り手だけに、そこに繊細であって欲しい願望がある。
渇えた人心には甘い蜜こそ栄養なのやも知れぬが、ナショナリズムという蜜(麻薬?)の扱いに芸術家は慎重であるべし。
たわけ者の血潮

たわけ者の血潮

TRASHMASTERS

座・高円寺1(東京都)

2017/02/02 (木) ~ 2017/02/12 (日)公演終了

満足度★★★★

鑑賞日2017/02/04 (土)

良くも悪くも中津留の世界(・・とは如何にも渋い評の書出しだが)。独特の演劇である。議論のためのシーンを回してる感は最近の特徴だが、演劇的リアリティの踏み外し感は以前からだろう。
ただ以前はB級映画的展開の面白さがリアルをすっ飛ばしてたのに対し、今は一場面一テーマという議論劇の形態がドラマの流れを停滞させている。(この点民藝に書下ろした「篦棒」は一つの問題軸が最後まで通った骨格のしっかりしたドラマであった。)
俳優の演技の質にも関係がある。ある場面でテーマが単一化してしまう証拠に、俳優はその時点のテーマに埋没し、人物の感情が議論の帰芻にのみ左右され、全重心を依存した彼らは声を荒げて嘆いたり怒ったりする結果となる。
単一テーマへの埋没ぶりが、リアルの対極に感じられるのである。
人物の貫通行動を眺めてみると、とった行動を事後的に説明(弁明)している事が多い。
これら皆、俳優の力量に依拠する所大かも知れないが、単調に見える感情表出は演出の指定か、人物描写の綻びを埋める手段という事も。

恐らく中津留氏は人物を泳がせて台詞を引き出していると思うが、各場面がドラマ本線との距離にかかわらず、均等に丁寧なんである。
議論の中で生まれる珠のような言葉も、長い伏線あっての意表を突く場面展開も、全体の中でくすんでしまっては何とも勿体無い。

ネタバレBOX

ドラマトゥルギー的には父(市議)の変化と、そして息子の変化も欲しい。これがドラマの軸だ。大麻は一つのキーワードだがキーワードに過ぎない。祖母への無理解=悪をなした父母と、それを暴露する息子、という図式では足りない。父は折れるがその父にも事情があり正当性があった事をやはり息子は認める必要がある。
それには、大麻を全否定しないにしても、(現実的に考えて)自由に関する一つの可能性を仄めかす以上のものにはならない。大麻解禁を離党後の指針にするのは、洒落っ気であるべきだ。
芝居はリアルの次元に繋がっているのであり、大麻は確かに挑発的ではあるが、突き刺さって来ない。「自由な精神」を証かす「踏み絵」には、大麻はなり得ないからだ。芝居ではここに論理の飛躍がある。
祖母がそう思われて来た事故死でなく、自死だった(らしい)という男の暴露も、想定内だろう。その死に責任があった(らしい)夫婦は息子が知らせた「事実に驚く」のではなく、彼と彼女にとって祖母が何であったのか、に結び付いたリアクションが欲しい。実の娘に当たる妻の狂乱に等しい反応は、リアルを超えてわざとらしい(たとえ俳優が精一杯の心情を注いだのだとしても)。図式化された(概念としての)「罪」を想起させるにとどまってしまう事が、その何よりの証左だ。「自死」があったとしても、原因はドラマの表に出ていない何かがあったと示唆するので十分、「祖母の自死=(大麻に非寛容だった)夫婦の罪」という図式に嵌め込む演技は、不要に思われる。
・・いや、それだとドラマの起伏が形作られないではないか、と文句を言われるかも知れないが、「仄めかし」、あとは想像させる、方が良いと思う。
最後に見せる憲法読みのくだり、祖母が庭で亡くなった日に手にしていた「たわけ者」の台本に書かれた台詞を孫が読むシーンは秀逸。ただ、ここも一度で十分。二度目をやるなら一度目を上回る切り口をみせなきゃ、逆に肩透かし。最後だけに一層勿体なかったりしたが、この場面を頂点として、見入ってしまう場面が全編に続く(客席も水を打ったようである)。
関係ないが、中津留氏の喋りや様子からして、かなり体力と胆力のある人物のようだ。あの芝居の長さとリズムが全く苦でない人、と想像すると何か納得できる所もある。
リリオム

リリオム

ユマクトプロデュース

恵比寿・エコー劇場(東京都)

2017/02/02 (木) ~ 2017/02/06 (月)公演終了

満足度★★★★

鑑賞日2017/02/03 (金)

愛らしい作品。古いハンガリーの戯曲だが、生き生きとした台詞に簡素な構成、独特の語り口がある。たまたま半年前に古本屋で見つけて名品発掘!と喜んでいたから嬉しい上演だった。ハンガリー民謡を取り入れた(と思われる)音楽と踊りなど、戯曲の世界に迫ろうとする意気込みを感じさせ、俳優の配置も悪くなかったが、何かがもう一つ欲しい思いが残った。泥臭くリアルに行って良い部分と、軽々と跳躍する部分と、その案配だろうか・・何か惜しかった。

ネタバレBOX

年寄の役も若手がやっており、若手公演の趣も。恐らくは、自分が舞台上でどうなってるのか、判っていないパターン(それでいい場合もあるが今回はどうだったろう)。この戯曲の難易度を高めている、ラストの微妙なシーンに求められる微妙な演技には、とても手が届かないように思える。瑞々しさは替えがたいが、その上を狙える作品だと思う。
ザ・空気

ザ・空気

ニ兎社

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2017/01/20 (金) ~ 2017/02/12 (日)公演終了

満足度★★★★★

鑑賞日2017/01/31 (火)

普段は順位など意識しないが、今年のベスト5だな(すなわち今は断トツの1位)と、頭で呟きながら客席の通路を歩いていた。若い女性が涙を拭っていた。妙齢の如何にも芝居を見慣れた女性は皮肉の一つも言えず、立ちしな隣の夫に「永井愛、さすが。・・」と口にするのが精一杯のように言っていた。
現実に今日本で見られる事態をはっきり感じられるという事が無ければ、つまり切実な、自分たちの問題だと感じられる下地がなければ、この感想は出てこないかも知れない。
劇場の中で完結せず、刺された矢が劇場を出ても疼く。

ハムレット

ハムレット

ラゾーナ川崎プラザソル

ラゾーナ川崎プラザソル(神奈川県)

2017/01/25 (水) ~ 2017/02/01 (水)公演終了

ハムレット舞台の初見は遅く、確か柿喰う客の女体シェイクスピア。以後KUNIOハムレット、新宿梁山泊版、そして今回という所。400年前の作品が、演劇芸術の革新の100年の間にも上演され、今尚上演され続ける驚異。近年見たハムレットはどれも、語り口が明快で、原作をよりよく「解りやすく」伝える工夫の感じられる舞台だったが、原作の普遍的な魅力とこれを現代に上演することの意味、について毎度考えさせられる。
自分が何度目かになる事もあるが、とても分かりやすいハムレットだった。今回の舞台は若い役者が力を存分に発揮し、押さえるべき所を押さえ、テキストが導くべき高みに達し得た舞台、と言えた。シェイクスピアの戯曲は伏線に不足があっても当該の場面、例えば妹の狂態、またその死を嘆くレアティーズの「嘆きの台詞」一つで、観客は彼の嘆きの深さを想像させられ、納得させられる、という面がある。言葉の持つ詩情が多くを語るという点、ギリシャの詩劇に通じる「感情の吐露」のカタルシスであるが、終始「激した」感情を放出し続ける人物ら(日常会話にさえ激情の下支えがある)の言葉に、重みと厚みを与えるのは俳優のやはり力量であるなと思う。それら全てが「伏線」となり、後後にずしずしと効いて来る。それが悲嘆であれ憤怒であれ、これを快しと受け止め感情移入するのが観劇の快楽である。
一方、「思わず乗せられる」ストーリーの構図には、優れて現代的(というか普遍的)テーマがねじ込まれている。ハムレットは叔父の謀反を(状況証拠ながら)知り、報復を為すべき立場にありながら、それに手を出しあぐねている。肉親の「情」は古今東西あれど、その肉親を裏切るのも情であれば、これを制する規範というものがあり、明文化されているか否かにかかわらずそれは法に等しい機能を果たす。近代法以前の法規範に詳しくはないが、天の道理に照らせば、ハムレットの葛藤は「本来外敵から守るべき肉親」が敵として現前した事の納得しがたさと、既に知ってしまった「無法」の事実を正す勇気を持てず立ちすくむ姿にある。
ちょうどそれは同日の昼に観た『ザ・空気』でドキュメント番組の改変の圧力に抗い切れず折れて行く人物達の姿に丸々重なって来る。相似形のドラマを見る感覚さえ覚えた。ハムレットが「悲劇」でありながらバッドエンドでないのは、「悪」と刺し違えて屍が積まれても真実が明るみに出、それを語り継ぐ者と、信のおける新たな王を迎えいれる所で終わっているからだ。
日本では「政府批判をする者」へのヤクザまがいのテロが起こり得てもその逆はありそうにない。この国をどう見れば良いのだろうか・・・
演劇公演を行える劇場としての佇まいを持ち始めた(杮落し当時とは随分風情が変わった)プラザソルを後にしながらそんな事を考えた。

韓国現代戯曲ドラマリーディング Vol.8

韓国現代戯曲ドラマリーディング Vol.8

日韓演劇交流センター

座・高円寺1(東京都)

2017/01/26 (木) ~ 2017/01/29 (日)公演終了

満足度★★★★

日韓演劇交流事業としての定着が嬉しいこのリーディング企画は今回も刺激的だった。今年は「韓国→日本」の年、もう二年経ったという事か。。
翻訳計5作、上演3作。今回で8回(韓国開催は7回)を数え、韓日とも紹介戯曲は30~40に上らんとする訳である。日本から紹介された戯曲をみると鐘下辰男、宮沢章夫、松田正隆、坂手、野田、松尾スズキ、唐十郎、鄭義信、岡田利規、前川知大、マキノ、畑澤、本谷、前田司郎、佃、桑原、藤田貴大と同時代作品の上演、そして岸田、寺山、宮本研といった日本演劇史に記さるる作家の戯曲紹介もあり、そこから類推して向こうからの紹介戯曲が韓国でどう位置付けられているかを想像するのも面白い。
今回は3つの内2作を観賞。「若い軟膏」は、ほとんど緊急事態と言っていい状況にある人物らの土臭いドライな「日常」を描き出し、シリアスと喜劇の微妙な狭間で、笑いたいが笑えない貧困譚が力強く語られていた。
韓国社会への疑義が明白にあるが説教臭さは全くない。地の上を蠢く人間の様をただ観察する場所に観客を立たせ、しかしその場を離れる事が許されない、何か執拗な引きがある。演出はリーディング演出の仕事の多い関根信一。
「アメリカの怒れる父」は、若手だが秀作舞台の演出者として印象深く記憶していた大谷氏のを観ておきたく足を運んだが、リーディングの演出としては(題材も難しかったと思うが)もう一つと感じた舞台だった。
リーディングというジャンルについても考える所だが、台本を離した役者による、具象の多い舞台より、リーディングは自由度があるが「言葉」の抽象機能が否応なく発揮されてしまうのかも知れない。だから「身体」ベースで作る通常の舞台より、戯曲への大胆な解釈(不明さを一切許さないといった)に立つ必要があるのでは・・?などと考えてみた。「アメリカ・・」では例えばラスト、作家の結語になる文章(ト書?)が字幕で流される。それはそれで誠実な扱い方だと言えなくもない(テキストをテキストの次元で伝える)が、イスラム原理主義グループに息子を斬首された父を描く試みに「失敗した」とする文言は、無理にも「作品」本体に取り込むべきではなかったか。。作家の奥ゆかしさは主人公である父を希望の中に生きさせず、自殺の結末に導く(アフタートークより)。だが作者はこれを「失敗」とする事で、ある種のバランスを取ろうとしたと思われる。自殺は考え得る結末であり意外性もない。これによって「本体の話」を完結させるのでなく、少なくとも含みを持たせた自殺シーンに仕立てるか、あくまでこれが「試行」としてのフィクションである事を担保する、戯曲外の第三者を配する、などが個人的には欲しかった。誠に勝手な言い分だが。

シンポジウムでは、韓国で昨年起こった事件、当局による戯曲介入に抗議して行われた、光化門広場での不法占拠の「ブラックテント」設営と演劇公演が紹介されていた。
言論の自由を制しようとする動きはどの国にもあるが、健全な抵抗が起きるか否かは決定的な差異に思われる。そのテーマに鋭く迫った秀作「ザ・空気」(二兎社)を、この欄には相応しくないが強く推しておきたい。

世界

世界

Bunkamura

Bunkamuraシアターコクーン(東京都)

2017/01/14 (土) ~ 2017/01/28 (土)公演終了

満足度★★★★

コクーン進出赤堀雅秋作演出舞台第三弾。常連の大倉、鈴木を配しながら「大犯罪」の絡まない話で、リアル・ストレート勝負に好感が持てる舞台だった。上部に歩道橋、下が回転舞台で4場面。メインは自宅居間兼会社の待合場所、そしてスナック。またとある青年の自宅。内気な青年を巡るいささか酷な話と、親族経営の会社従業員と家族によるけだるい話の二つが並行し、接点を持つのは終盤だが、二つが繋がってもそれで世界がさほど広がる訳でもない。所詮その程度な「世界」に生き、死んで行く市井の人生たちへの讃歌。

音楽劇 メカニズム作戦

音楽劇 メカニズム作戦

公益社団法人日本劇団協議会

Space早稲田(東京都)

2017/01/13 (金) ~ 2017/01/29 (日)公演終了

満足度★★★★

宮本研の戯曲は硬いものしか読んでいない(舞台は未見)ので、これには驚いた。あみだくじで選ばれた4人の新組合幹部が大活躍(男3人と女1人)。彼らをサポートする長(今やレギュラーのこんにゃく座井村タカオ)が秀逸。「宇宙」を現状打開のキーワードに持ち出すところが半世紀前という時代を感じさせたが、劇全体は「今」に再現されたと言えるのは朝比奈尚行の音楽の功績が大きい。さすがと唸った。流山児演出は力みを顧みない演技が肌に合わないと感じる事も多いが、今回は総合点でマル。役者達も魅力的であった。

鯨よ!私の手に乗れ

鯨よ!私の手に乗れ

オフィス3〇〇

シアタートラム(東京都)

2017/01/18 (水) ~ 2017/02/05 (日)公演終了

満足度★★★★

リピーターとなる“価格帯”の劇団ではないが・・2度目の3○○は前回観たスズナリよりやや伸びやかなトラム。思いのほか早かった「再会」は再び渡辺えりのバイタリティに圧倒される観劇になった。
認知症の高齢女性を演じる名優たちが「等身大」に見えなくない妙なリアル感と、渡辺えり特有の「時空が飛ぶ」系の回転(展開より回転の語のイメージだ)が、絶妙の塩梅を作っていた(特に前半)。身も蓋もない台詞や小理屈がおかしく見ている間に「認知症」という概念との間に取り結んでいたネガティブな縛りが解かれていく。
中盤以降「物語」説明のモードが加わり、といってスッキリはせず混沌の度合いは増す。トラムでは狙いにくい終幕のカタルシス(さすがに屋台崩し的趣向をトラムでは・・)を敢えてなぞってしまうのが惜しかったが、波と寄せる演劇的叙情に心地よく浸り、脳内が刺激される1時間55分。
白が基調の舞台では、目まぐるしい中にも人物たちが赤裸々に、クリアに実在していて、嘘がつけない。
曲数はさほどなかったが歌の存在感はやはり大きく、シュールな中に突如、形を成した情感が胸をド突いてくれていた。

ネタバレBOX

文句を言えば、ラストに皆が眼差すもの(鯨)・・その視線の持つ「切実」は普遍的なものでなければならず、またそうある事は可能なはずで、しかしその僅かな時間に「塾生」たちが注いでいた目には切実さと憧憬に乏しく(私の目に入ったのは一人、二人ばかりだが)、これは淡白な終わりである事に加えて興ざめだった。唐突な終わりかも知れないし、鯨に何を仮託するかが戯曲に書かれていないかも知れないが、そこは頑張ってよ・・と。
だが不足感は実はその前段からあって、最後に登場人物たちが遠くに見る「鯨」とはすなわち、子供達を救う「幻」「伝説」の潜水艦(ブルーホエイル号)なのだが、老人劇団員たちが劇中という設定において「子供を救う」使命に奔走するところがその先に、潜水艦が子供たちを救出する場面を発見し、そのままラストへなだれ込んでしまう。手が空いてしまう。その手を「見送る手」に換えてしまうのではやはり物足りないのは人情か。
単なる劇の練習だったのが「現実」の鯨を見て驚く、という図式は、既に幻の中に生きる老人には通じない。従って「鯨」を発見するというくだりをラストに持ってくるなら、本来だともう一つ裏返す展開を加えたい所だが、あそこで収めるしか今回は無かったのかな・・と。
まあラストはともかくとして、、俳優は見せ場を逃さず一々憎い。
ワンス・アポン・ア・タイムin京都Ⅲ

ワンス・アポン・ア・タイムin京都Ⅲ

ゼータクチク&ACTACTION by TEAM HANDY

【閉館】SPACE 雑遊(東京都)

2017/01/20 (金) ~ 2017/01/29 (日)公演終了

満足度★★★★★

鐘下節が炸裂。今回は千葉氏を筆頭にいずれも手練の役者だったが、アマチュアばりに台詞を叫ばせる。
この作品は昔燐光群が鐘下作演出で上演していて、以来気になっていたので一も二も無く観劇した。大満足、という言葉も虚しい。
90年代話題になった頃の鐘下辰男を知らないので今回のような過去作品上演は今後もどんどんやってほしい。

隅田川/娘道成寺

隅田川/娘道成寺

木ノ下歌舞伎

こまばアゴラ劇場(東京都)

2017/01/13 (金) ~ 2017/01/22 (日)公演終了

満足度★★★★

木ノ下歌舞伎は「三人吉三」以来久々の観劇。杉原氏と白神氏が演出に加わり、女性二人のソロ舞踊二演目という趣向だ。
どちらも女の哀れな物語という知識のみで観劇に臨んだ。
ガッツリと舞踊を堪能したが、両者それぞれの特色をバランスよく味わったと行きたい所、「隅田川」に物足りなさを覚えた。壁際からの観賞だったせいか白神ももこの踊りのパッションが「動き」から今一つ伝わって来なかった。単純な話が動きが凡庸で緩急が少ない。踊りを支えるべき激しい情動が表面に表れて来ず、その理由を色々と考えてしまった。
黒子を使っての隅田川観光案内の導入は面白いが、歌唱ショーを経て唐突に本編に入る。歌詞の「梅若丸と」で何度も止まり、ついに立ち尽くす母の姿から、本格的に「踊り」による「隅田川」が始まるが、上部を削った円錐形の台を塚などに見立てながらの踊りが、まずストーリーに対応させた動きとしては説明不足で、内面の抽象的表現とすれば情動が足りない、という感じ。
芝居の振付やワークショップに活用される「素人でもやれる」動きを追求しているがために「プロのやる表現」への衝動に自制がかかっているのではないか、あるいは今日は体調が良くないのではないか、と勘繰る程に体を鍛えている人と思えない簡単な動き、予想の範囲内の動きしか(私から見ると)繰り出されない。それ自体が自立したパフォーマンスとして成立しておらず、ストーリーを知る者がそれをなぞって見るには十分かも知れないがそうでない者には物足りない、私には不満の残る時間だった。
一方のきたまりによる「娘道成寺」は三味線と唄に乗せての正統な舞踊で、ただし古典でなく独自な、切れのある多彩な表情を見せる踊りだった。最初床に敷かれた布が奥に吊られたり、釣り鐘に姿を消すラスト(確か金田一耕助シリーズの映画で見た)を幕で表現したり、赤い衣装が剥がれて光沢のある銀白の衣装に変わったりの演出と、次第に狂気じみていく動きは見事だった。圧巻は、ギリシャ風の銀の衣裳と、黒髪を雑に結った上げ髪の「和」の取り合わせ。ゾッとするギャップを作って狂気そのものだった。
終演後にまた考えてしまったのは、「踊り」の手数は多くないとは言え、白神氏の動きときたまりの動きの共通点。演出の白神氏はきたまりの完成された踊りを念頭に、これと並べる出し物のバランスに最後まで悩んだのではないか・・勝手な推測もここまで来れば戯わ言の類かも知れぬが。

磁場

磁場

直人と倉持の会

藤沢市湘南台文化センター・市民シアター(神奈川県)

2017/01/21 (土) ~ 2017/01/21 (土)公演終了

満足度★★★★

「挽歌」に続き湘南台文化センターでの観劇。コロシアム式の客席のわりと端の方で、ステージの間口の外側に位置する席だったが、前にせり出したステージの比較的手前の方で演じられる場面が多く、殆ど支障なく観られた。
倉持作品は(作演出とも)二度目で一度目は随分前、自劇団(pppp)を観劇。今回その実力の程を垣間見た気がした。本は「リアル」ベースで書かれ、題材も「創作の現場」。シナリオライター(演劇出身)が監督とプロデューサー、そして出資者の狭間で苦悩するという物語自体はシンプルな作品だ。脚本執筆という仕事、引いては芸術に取り組む上での根本的な問題を抉り出していて、深く頷かずにいられなかった。
何か大きな事件が起きる訳ではない。出資者(竹中)の介入の仕方には独特なものがあるが、常識を著しく逸脱した態度を見せる訳ではない(最終的には出資者という立場が持ち得る力を巧妙に発揮する事になるのだが・・)。まだ形を成していない作品、つまり「未来」への投資を、「実質」化する任を担った人間が、味わうべくして味わう辛酸がそこにある、と言って良いかも知れない(映画『バートンフィンク』を思い出す)。本来スポンサーとは先行投資者なのであり、会社における株主も同様、「お金」を持つ者が未来への投資を行うのは、新たな時代、局面を切り開く名誉に与るためであるはずであって「確実に儲けが出る約束」の下になされるものではない。
この作品では、出資者の関心は「儲け」ではなく書かれる脚本の中身にある点が、逆に抗えない桎梏となって脚本家を苦しめる。それは出資者のやむに已まれぬ情熱のなせる所だからだ。
劇の終局近くは悩める主人公の心理劇の様相を呈して、一見夢オチと見まごう展開があるが、現実である事も仄めかし、恐ろしい。元々ある力関係の構造も要因の一つながら、この劇の出資者という人物の奥行が、それに輪をかけている。財を成すに至るまでに恐らく存分に行使しただろう「他者を操る術」がそこかしこに垣間見える。主人公(脚本家)にとっての「恐ろしさ」はこの人物に照準されるが、作者が巧妙であるのは、出資者自身も「出資者」としての「やむに已まれぬ何か」に突き動かされてその言動を形成していると見せている点だ。脚本執筆という作業が構造的に持つ危うさへと、観客の理解は促される。

赫い月

赫い月

エムキチビート

座・高円寺1(東京都)

2017/01/18 (水) ~ 2017/01/22 (日)公演終了

満足度★★★

エムキチ2度目。ブレスを抜く「イケメン芝居」的喋りに冒頭から鼻白んだが、まァ「物語」を見てやろうと姿勢を整えた。

ネタバレBOX

車椅子の老人と孫(若い女性)。この老人の回想というのが、敗戦間際(1945)天皇直属部隊の隊員として目にした「劇的」エピソードだ。
「現代」には老人と孫のみ登場、孫は婚前鬱というモンダイを抱えているらしく(後々仄めかされる)、最後には老人から勇気をもらって感動のエンディング。その間に「シュッとした軍服」のイケる男らの「二枚目」演技による忠義と青春の物語が展開する恰好だ。
笑いもあるが「イケてる」前提でのボケは徹底せず(変顔禁止されたアイドルかっ)、そこでも鼻白むが、それは置くとして・・
舞台美術は座高円寺1をしっかり埋め、傾いた床面がメインの演技空間で、その四隅から白い布が絡まって上方へ吊り上っている。正面奥の壁面には凹凸で何かの文様を刻んだ四角い大きな板がはめ込まれ、「帝国の中枢」という雰囲気を醸す。荘重な美術と照明等スタッフの仕事は前回と同様確かなものだった。
過去場面は青春群像物語だが、ファシズムに通じる性質を感じてしまう理由は何か・・。閉じた環境の中でだけ、そのアレンジでの青春は可能になる。制服の着こなし、着て悦に入る様子も然りだが、男の世界という事が大きい。軍隊はいずれも男社会だが、そこに居心地の良さを覚え、友情や敬意、忠誠と守護の(上下)関係等の徳目を実践していると内発的に信じる様が、その中身である。悪いことは何も無い?・・いやいや。
「いま目の前に居ないが確かに存在する敵」を軸に成り立つ甘味な徳目付きの集団は、フィクションを共有するカルト集団にもどこか似ている。その世界の主役である間は、青春は甘味である。今そこが本物の戦場になれば、あんな事言ってられまい・・という。
終盤、敗戦を知らせる玉音放送を葬ろうと奔走する主人公と、本土決戦への「決起」を呼びかける隊員たちの行動がクライマックスを作る。だが所詮「戦場」とは遠く離れた場所での戯れ事に見える。半沢直樹風に言えば「タブレット上の空論」に振り回された愚かな姿である。だが作者は彼らを「間抜けで哀れな」存在として描いていない。英雄に近い。もちろん「老人」にとっての、というカッコ付きではあるが。
しかし老人にとっても、あの時代は何だったのか。作者はこの特殊な、内向きにのみ可能だった「群像」の美にノスタルジーを抱いているようにみえる。
主人公であるトウゴは最も若い(あるいは日の浅い)後輩として皆に可愛がられ、その「与えられる事」の甘味さとともに先輩らの「生き様」を記憶の海から呼び戻すのだが、よく見ていると先輩らの存在は彼自身の青春を「彩る」背景程度にしか重要でない。ただ居心地よく、格好よくみえる先輩に囲まれ、その中で認知され、可愛がられた成長期の甘酸っぱさを、懐古の対象として思い出している「像」に過ぎない。実際に過ごしたその「時間」に戻れば、あんなものではなかっただろう。老人の出来すぎた夢が、しかし舞台上で生身の人間によって展開され、「夢」オチとして相対化されるのでもなく、一応は現実にあった事としてリアルの次元で演じられる。マジなのだ。
そんな中、内親王何がしという皇室の女性がトウゴの前に現われる(天皇直属の近衛部隊だけに)。彼女は最初からその目的であったかのようにトウゴに声をかけ、「したい話」をする相手として選ばれる。そこで未来の話、月の話、宇宙飛行士の話をする。この「選ばれし者」は、先言った男集団での徳目ゆえに救われるのでなくこの女性との遭遇によって救済される。彼女に存在を認められ、恐らくは愛情を抱く。ただしそれが「皇道」の実践なのか、異性への純粋な恋慕なのか、庇護者を求める心を埋める存在だったのか、は判らない。
敗戦の日の朝、トウゴが玉音放送の音源を見つけられず憔悴していたところ、(都合良く)内親王と行き当たる。彼女は前言の種明かしをするように「戦争は終わったのだ」と彼に告げ、無意味な行ないをやめて前を向くよう促す。
男らもまたトウゴには「お前は生きろ」と、なぜか判らぬが言う。男らは決起を快しとしない上官を殺し、討ち死にし、また自決する。ここでも「夢」機能が働き、今生きている私たち人間は、死者から生きるよう託された存在なのだ、というメッセージ(前作にもあった)を示唆しているのかも知れぬ。トウゴは「生き残った者」を表象している、という。
だが実在した死者の思いを勝手に(生者に都合よく)解釈するのは江原啓之だけでいい。トウゴは「なぜ彼らは自分にだけ生きろと言ったのか」、その問いの答えを知ったのだろうか(これはこの戯曲から生じる、解くべき「謎」だと思う)。
トウゴは男らの「像」としての美しさを舞台上に再現して我々に紹介する。「やせ我慢」の美学がそこにある。彼らの行動が「美しく」みえるのは、「美しくあろう」と彼らが振る舞っているゆえだ。相手を思いやり、楽観論を語り、ユーモアをまじえる余裕を演じてみせる。事実彼らは近衛兵として衣食に困ることはなかっただろうし、旧制大学の教養主義の風吹くキャンパスに似た「特権と気付かずに謳歌する」青春の青さは、「下々」を見ていない点で思想的にはうぶな代物だ。これを模したような「青春」の薄っぺらさがイヤな自分には、感情移入できる一片もこの芝居に見出せなかったが、三島由紀夫がお墨付きを与えそうな集団の描写には、トーンとしての一貫性はあったと言える。
ところで、内親王とのエピソードでは、最後に思い出される彼女とのエピソードのキーワードを序盤に与えられる。即ち「宇宙飛行士」。それを具現させた「宇宙服姿」の男が、開演前から受付周辺~会場をゆっくりと歩き、上演中も客席の間や周囲、ステージ前を延々と歩き続ける、という一風変った演出がある。やや突飛な「宇宙飛行士」という話題を、こういう形で組み込み、伏線の緩やかな回収としたようだ。
「現代」の孫が終幕に相応しい前向きな心境になるのは、老人が若い頃から自覚していた「痛みが判ってしまう」感受力を、孫に対し使うことによってだ。隊友や内親王との間でも彼は「痛みが判る」事で次にどうする訳でもないがその気付きを言葉にして相手に伝える。それで相手が癒される、という二つの伏線を、孫に援用する事で終幕に彩りを添える。
その前か後か、冒頭を飾る2人の隊員の何気ない会話が、最後に再現され、時間を戻したか、「今も彼らの魂は時空を超え、在りし日の青春の場面を再現し続けている」的な隠喩か、いずれにせよ劇の終盤の気分を演出する。一つ気になったのは序盤の男同士の話の中で「聖書を読んだことがあるか」と一方が他方に話す箇所がある。「敵性思想や芸術に通じる事をも許す、自由な気風」がアピールされ、「青春群像」を構成する一要素になるが、その後のくだりは『ゴドーを待ちながら』に出て来る箇所そのままだ(確かそうだったと思う)。イエスの十字架の場面に登場する死刑囚の描写が4福音書それぞれに異なり、一つだけに書かれたエピソードを人は何故信じるのか・・という問いであった。結局男はその答えを知らず、どこかで聞いた話題を(他の話題と同様に)語るだけであるが、このくだりを何故ここでの会話に用いたのか、今ひとつ連想できなかった。
総じて「リアル」には遠い物語が、何を伝えたくて紡がれたのか。そこにはやはり疑問が残る。
メロン農家の罠

メロン農家の罠

桃尻犬

OFF OFFシアター(東京都)

2017/01/12 (木) ~ 2017/01/18 (水)公演終了

満足度★★★★

初・桃尻犬。襖と木柱、畳、隅っこに「メロン盗むな」の文字が書かれた板(の一部)。取っつきにくいと想像した「農家」の話に冒頭から入り込んだ。いがぐり頭の実直な長男の(戯画的なまでの)一本気(=歳の離れた妹の親代わりを自負する生き様)、「地方」の物質的時間的条件を生きる人物たちの生活感が、「農」を茶化すのでない笑いを生み出していた。
地方の感覚を「脳天気さ」「ゆったりのんびり感」だとするならば、漫才にたとえればボケの一つのタイプと言え、「都市感覚」をもつ観客に突っ込ませるボケ的言動が舞台上で展開する格好であるが、地方=あちら様に括りながらそれらは人間が等しく持つ要素。「見たくない」己の一部を他者に仮託して笑うのが「笑い」であって、話が身につまされるに従い、「笑」ってる場合でなくなる。
だが、総じて言えば「笑い飛ばす」べく綴られた、人間共の物語。

ネタバレBOX

程よい省略を効かせてスムーズに話を展開させているのが良い。
セックス依存症、浮気、万引き、「飛び出す」罠など、剣呑な話が「日常」の中にどう収まるのか、微妙な所もあった。メロン、中国人(技能研修生)、嫁不足、集団お見合い、出戻りなど、農業主軸の地方のアイテムを活用した、秀逸なストレートプレイはある意味目から鱗であった。
最後の「ベトナム人」オチは考え無しに用いられていると見えた。事実よく見られる光景なのだとしても、穏やかでないし、事実を差し置いてのベトナム人設定なら尚更穏やかでない。これを作者による「敢えての差別言動」としたかったのか?否、軽快な音楽に乗せたエンディングに「その彼ら」も混じえたかったのかも知れないが、そう見えない。「天晴れベトナム人」と行くには、泥棒に比する「背に腹は換えられぬ」所行に、登場人物らも手を染めていなければ、同等にはならず、笑えない訳である。もう一つ気の利いたオチはなかったものか・・そこを残念に思いながら劇場を後にした。
夜組

夜組

The end of company ジエン社

シアターKASSAI【閉館】(東京都)

2017/01/13 (金) ~ 2017/01/23 (月)公演終了

満足度★★★★

ジエン社初観劇。劇の構成(縦及び横)から来る晦渋さと、ある「気分」が全編を貫く事から来る蠱惑的な芳香。
一貫した「何か」は、劇のルールを解読せねば見えない俯瞰図が結局は解き切れないにも関わらずこの芝居にある彩りを与え、意味深長による「惹き付け」には恐らく失敗しているが、魅力を保たせていた。

ネタバレBOX

踏まえられている「何か」は実は昨年の「15Minutes Made」(Mrs.Fictions) で披露された短編だとの事。
劇では死者が登場し、その姿が見える生者と見えない生者がいて、しかも誰がそうで誰がそうでないと必ずしも確定している訳でないようである。従って同じ場面で2組以上の者同士の会話が同時進行するという事が平然と起きる。下手に去った人に言葉を投げていた者が言葉を次いだ時、それはその直後下手から登場した別の人に掛けた言葉だった事が判る、といった具合。
対話は短めに切り上げられ、関係が見える前に邪魔が入る。
一人の人物に対し、親密な相手が二人おり、恐らくは死者と生者のどちらかであり、どちらかが過去でもう一方が現在だ、と見えて来た時には劇は終盤に差し掛かっていた。
しかし・・前作の関連作という点は脇に置くとして、異次元の会話が複数同居する場面が、ある特殊な効果を狙ってでなく「常態」である形はあまり見ない。相当高度な演劇的リテラシーを当てにしている(事になっている)のは確かである。この形態に「慣れた」観客が増えて行く事を考えると興味深い。
高校演劇サミット2016

高校演劇サミット2016

高校演劇サミット

こまばアゴラ劇場(東京都)

2017/01/07 (土) ~ 2017/01/09 (月)公演終了

満足度★★★★

駒場高校作品を観劇。演劇部のない高校に通った身では高校演劇部の(校内での)立場的なものは想像を逞しくするのみだが、見た所女子はエンゲキやるに支障なく、男子の存在が気になる。だがどう見てもコミュ力は平均以下ではないだろう。
この感想が芝居全体に言え、表現のメーター振り切り具合と転換の素早さは劇を自らのものにしきっている証。
台本は(たぶん)オリジナルで、出演者への当て書きかも知れない。
自在な場面の配列で彼らの「事情」と「関係性」の全体図を徐々に見せて行く所、「現代日本の劇」の風が高校演劇にも吹いている事実に気付かせる。ラストへの畳み掛けにはアングラから小劇場へ継承された「若さ」の発露たる激情、スピード、ダイナミックな場面転換を伴うクライマックスが確固と形作られ、彼ら自身の心情を塗り込んだ「彼らが作り出した劇」として、観客に差し出されていた。感情の波に洗われ思わず突き上げるものがあった。

フォトジェニック

フォトジェニック

鵺的(ぬえてき)

【閉館】SPACE 梟門(東京都)

2017/01/10 (火) ~ 2017/01/15 (日)公演終了

満足度★★★★

冒頭数分の映像を見逃しての観劇では、(他のレビューにみられる)ラストの不足感などなく、それまでの推移に見合ったラストだった。見逃した映像では男の「所行」がその「手法」と共に示されていたと思われ、映像数分のもたらす情報量と、伏線としての「強さ」をただ想像するばかり。
・・「生来の悪」を抱えた人間(サイコパス?)を一人称として語ろうとする試みが、前作に重なる。私たち凡人の「日常」とかけ離れたフィクションの愉しみと、「現代」を考えさせるテーマ性の一石二鳥。とは言え「私たち」の「今」に何かしら通低するものを見出ださねば「日常離脱」の快楽のみに傾きそう。今後も「悪」のリアルを探り出して見せて欲しい。

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