tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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レディ・オルガの人生

レディ・オルガの人生

ティーファクトリー

吉祥寺シアター(東京都)

2018/09/29 (土) ~ 2018/10/08 (月)公演終了

満足度★★★★★

これほど主人公に感情移入した芝居には暫く遭遇しなかった。このテーマ・素材で川村毅は1980年代にその名も「フリークス」と題する戯曲を執筆・上演、今回は同テーマの「その後の今」の捉え直しという。タイトルのオルガとは、前世紀に実在した人物だが芝居は一代記というより、2018年現在の「私」にオルガの人生が重なり、今の「フリークス」たち=サーカス団を想定した場末の小屋(地下小劇場のような)を舞台に基本は物語が進む。
ティーファクトリーは割と最近一度だけ開演に遅れて中途半端に観劇したが、舞台全体の暗い美しさだけは印象にとどまった。今回はその印象を強めたと共に、演劇とは溢れ出るものをそこに注ぎ込むものでありたい・・なんて事を思わせた力強い事例。芸、技にではなく、主人公その人に拍手を送る自分がいた。
強いて言えば、オルガを演じた渡辺真起子の全く気取らない「徹する演技」には、心酔した。

竹取

竹取

世田谷パブリックシアター

シアタートラム(東京都)

2018/10/05 (金) ~ 2018/10/17 (水)公演終了

満足度★★★★

シアタートラムは「世田谷パブリックシアター」の小さい方、というポジションだが「広い」と感じる事が多い。小劇場と感じた芝居を思い出すと、『グッドバイ』(シス)、『クリプトグラム』、昔観た「地域の物語WS」発表とか、韓国現代戯曲リーディングもか。それらを例外として、「大型劇場」で観た感触が強い。「夜への長い旅路」(梅田芸術劇場)、「管理人」「散歩する侵略者」(2017)、「お勢登場」など。今回の「竹取」も黒を基調に奥行きが生かされ、広い、と感じた。まあそれはどっちゃでもよろし。

ネタバレBOX

プレビュー公演を観た。小野寺修二演出作品。『あの大鴉、さえも』(芸劇)でデビューを飾った(身体パフォーマンスではそう言えるのでは)小林聡美を、再び起用?とあって、また映像以外で見ない貫地谷しほり出演とあって早々と予約した。
上記芸劇イーストでの舞台(大鴉)は、元戯曲のある作品にしてはかなり抽象的。その分演者のパフォーマンスの質に掛かる比重が高かった。小林女史は無論、三人で作るアンサンブルの一角をしっかり担っていたものの、身体コントロール技術、バランス感覚や機敏さ等においては素人と見えた。その小林が再び小野寺と組む・・小林と小野寺どちらに期するものがあったのか、どちらが企画側に近くてどちらがオファーをしたのか、事情は一切知らないが、そこに何か無ければなくちゃならんだろう。と密かにその答えを心待ちにした。
野村萬斎を芸術監督に頂く世田パブで、『竹取』というまず企画。脚本:平田俊子とあるが、小野寺の舞台では台詞も一つのピースでしかなく、発語される文字数も少ない。阿部海太郎の音楽は舞台中央奥にでんと置かれた太鼓が凡そ全て。冒頭を打楽器奏者・古川玄一郎、最後を小林聡美が、徐々に音量を増すシングルストロークの連打。阿部氏の小野寺との仕事ではSPAC版『変身』での全編に亘る音楽が圧倒的だったのと、随分違う。
貫地谷は序盤からアンサンブルの方に加わり高い身体能力を見せ(というか若い?)、藤田桃子ら熟練に混じって遜色ない。小林は序盤から特異な位置で、淡々、飄々と存在し、集団で機敏に動くアンサンブルとの対比がある。貫地谷は後半単独で(主にかぐや姫的存在として)存在する場面が多くなる。いずれにせよ小林と貫地谷という二つのトップが同程度にフォーカスされる。その塩梅は絶妙だが、二人とも目立ってしまう場合は、どちらがかぐや姫か、それとも二人を通して同時にかぐや姫を表わすのか、そうでない場合もう一人は誰(何)を象徴する存在なのか・・といった所で私は混迷した。「竹取物語」のストーリーを追いかけるパフォーマンスではなく、翁、婆に当る人物も、身分の高い5名の求婚者も、帝も、それと判るようには出てこない。
竹から生まれた神秘的な出生、人間性を帯びてくる成長期、婿選びのエピソード、月への帰還と、物語としては意外に派手で賑やかしいが、こたびは「現代能楽集」である。静けさがある。薄暗がりがある。その中に月に照らされたように浮かび上がる白がある。人の姿が白であり、また上からつるされた何本もの筋(ロープ)が白。ロープは先端の重しを移動させて刻々と図柄が変わる。チラシのデザインに同じモノトーン。そこに統一感のある「美」は表現されているが、「竹取」の原典から何を読み取り、舞台に上げたのだろう。
まず「物語」としては読めない。能というなら魂鎮めの対象は?かぐや姫なのか、いやかぐや姫が見ている人類が鎮魂されるのか。最後の太鼓の連打がなぜ小林だったのかも、よく判らない。小林という面白い素材を面白く配置する事がこのパフォーマンスの狙いである、と聴かされれば、それなりに納得できそうではある。
パパは死刑囚

パパは死刑囚

劇団チャリT企画

座・高円寺1(東京都)

2018/10/10 (水) ~ 2018/10/14 (日)公演終了

満足度★★★★

劇団色を決める役者、というのがある。例えばあひるなんちゃらの篠本+根津。旧・野鳩の佐伯。ナカゴーの川﨑+高畑+篠原(いやここは全団員だ)。そしてチャリT では内山奈々+熊野善啓という事になるだろうか。特に意図していなかったがどれも<笑>系だ。看板俳優とも違う。常に客演者の中にあって舞台を支える演技に長けたベテラン俳優も、必ずしも当てはまらない。ふと思い浮かんだのが燐光群・猪熊氏。思えば多くの<笑>のシーンを担ってきた。
逆に、例えば劇チョコの特徴的な三俳優は、演技力もキャラ立ちも十分だが、如何に「役」になれるか、人間を演じられるかが優れているという評価になる。役者の身体的特徴は(声も含め)個性であって演技にも個性は当然生かされるが「色」にはならない、というのも、「なる」演技の結果、我々は「なった」人物を見、人物を通して物語を味わう事になるので、観客の目の前にその個性が立ちはだかる訳ではない。そういう自在さ(ニュートラルさ)こそが役者には求められると昔から聞くが、<笑>の場面では客は「人物」でなく役者その人自身の中におかしさを見ている、という構図になるのだろう。毎度お馴染みの吉本新喜劇の芸人はその典型だが、、当り前な話を随分しつこく書いたような。
チャリTはある社会事象やテーマを咀嚼し、多角的に検証する知識・情報を踏まえて、これを良いあんばいに噛み砕いてお芝居で説明する技術に長けている。作者樽原氏は知識を踏まえ、決して押しつけず客観的知識や多様な見解を嘗めつつ、問題を炙り出す展開を書く。そして熊野は、シリアスとおふざけが混在したような二枚目寄りの風貌を武器に、「問題」に翻弄される主人公を、内山は背の高さと声・滑舌のアンバランスといったおかしみを武器に平然とコンサバ、保身、無思想で風見鶏な庶民の役どころをやって、楽しませてくれる。
もう少し<笑>について。
笑いを生む要素はざっくり言って二つあると考えられ、一つはドラマが描く「人物」の行動や他者とのすれ違いなどドラマ即ち脚本に起因するもの、今一つは役者本人の持ち味・特徴、ナンなら観客が「その人自身」と見えているそれ、である(「劇団色を決める俳優」の持ち味)。

さて今回は死刑制度、と予想のつくタイトルだが、話のほうは一直線にそこに向かう訳ではない。とだけ書いておく。
私の知る限り(3~4本)のチャリTとしては、劇場も大きいが芝居としてもNLTと並べて遜色ない?喜劇舞台で、その合間にチャリTらしさが見え隠れし、最後にその本性を出した。・・そのように観た。
「問題」は重く、このような讃辞はそぐわないが、拍手物だ。目の前にハッピーエンドへの道があり、芝居的にはもう逸れる訳に行かない道程を辿った末、どう「問題」をあぶりだすのかと期待。チャリT的まとめが待っていた。グロいと言えばグロいし生ぬるいと言えばぬるいのかも知れぬ。
私らは問題を「突きつけられている」。例えば2017年7月刑が執行された再審請求中のN死刑囚、彼は冤罪の線が強いとささやかれていたとか。再審請求を受け入れた結果判決が覆えるなどという前例を作られては困る官僚(組織)の都合によって、、と憶測されている。
ちなみに法務省側は、「刑の引き延ばしのための再審請求には厳しく対処を云々」とコメントしたという。
「お上」に住まう人らの目には、不遇(受刑者となった事)にある人間は「不正をする人間」だと映るのか・・と言いようの無い怒りが湧いて来る。
芝居のラストについては、恐らく正解などないのだろうが、私は程よき所に収めた、という感想である。

想稿 銀河鉄道の夜

想稿 銀河鉄道の夜

ことのはbox

新宿シアターモリエール(東京都)

2018/10/10 (水) ~ 2018/10/14 (日)公演終了

満足度★★★★

ことのは2度目の観劇、待ちかねた日であったが。。
初めて訪れたシアターモリエールは、新宿駅近いビルの二階にあって200席程か、天井はそこそこ高く客席の傾斜は緩やか。この傾斜の客席は個人的に「ショー」を眺める完全受け身な構えにさせられる気がするのだが、軽演劇の似合いそうな小綺麗な劇場だ。
できれば開演前に席に着き、雰囲気を味わいたかったが、味わうどころか大幅に遅れた。
従って芝居が得心の行くものでなかったとしても理由を説明できない。言えるとすれば以前読んだ戯曲の印象との違いについて、だろうか。
戯曲の印象は、あまりに知られた「銀河鉄道の夜」の原作を対象化して距離を取りつつ、原作の物語をもう一度追いかける、「今」という時に捉え直すものだった気がする。対象化するという事はメタ構造を内包することにもなる。(きちんと覚えていないので勘違いかもだが。)
「見よ、飛行機の..」のストレートな作りで魅せたことのはが、このやや変則な戯曲をどう仕上げるのか、勝手に胸を脹らませた自分としては、今回のステージはあまりに素直。いつか「メタ」的表現を垣間見せるかと待ったが最後まで、どこまでも疑いなく「そのまま」な演技、無防備とも言える若者の演技。
歌ありの音楽劇で、踊り専門のダンサー・グループもいるが、イメージの拡がりを助けるより、比較的ひねりのない曲調と踊りが「素直」過ぎて色調を限定してしまい、世界の拡がりが感じられなかったのが不服。敢えて音楽劇を選ぶなら歌が舞台をさらって行くくらいでなければ。。とは高望みか。
オーディションで集められた、一、二名を除き若い役者たちの技量には合った舞台と、言ってしまうのも安易に思う。
当日配布の紙によれば、酒井女史演出のことのはは以後団員を募集し劇団化するという。若い出演者との仕事が、「育てる」関心を刺激し、継続性のある舞台作りの形が築かれるなら、意義の大きい公演であったと言えようか。

ネタバレBOX

振付と音楽ともに正直私の感覚からズレていた、というより手垢のついた感。勿体なし。だが終演後観客をみると意外に良い顔をしていた。だからどうという事でもないが、何しろ頭を見落した。
初日のハンディを加味して☆4つ。
ドキュメンタリー

ドキュメンタリー

劇団チョコレートケーキ

小劇場 楽園(東京都)

2018/09/26 (水) ~ 2018/09/30 (日)公演終了

満足度★★★★

古川健脚本の文学座公演が観られず残念がっていたら、ほぼ直前に「楽園」での公演を知り、「チョコレートだから見応えあるはず」と自分に言い聞かせて観劇した。不思議なもので、芝居の出来は宣伝への力の入れ具合と意外に対応している(「はずだ」と言い聞かせたのはそういう訳)。こちらの勝手ではあるが、チョコレートケーキには期待度が高い。だからそのレベルに達していない事の「欠落」に気が向かう。
史実を題材として秀作を生み出してきた劇団だが、史実・事実を扱う難しさを今回考えさせられた。端的な感想は、当時このスキャンダルを知った時の感覚というか、驚愕に見合う深さに芝居が届いていないというものだ。
問題の根の深さを「理解する」記者(ルポライター?)という設定に無理があったのではないか。まず彼の職業の現状がはっきり見えていない。安定を保証された大手メディア記者ならそれを投げ打ってでもこの問題をやろうとしている、のか、フリーライターがこれをスクープに名を売りたい願望があるのか(もちろん正義感は誰にもあるとしてだ)。演じた彼は恐らくは後者に属すると思うが、どちらにしても、彼の生活に繋がる部分がどうなっているのか、様子からは窺い得ず、もどかしかった。
「問題」を背負い切れる人間など滅多にいない。何がしか欠点、弱点を持つ、その人間が、ある真実を前にする、その実態は彼の許容できる範囲を超えて、存在している・・そのようにしか人間ドラマの中に大きな問題は描き得ないのではないか、という事をこの芝居で考えさせられたのだった。
最後まで記者は弱みを見せなかった事で、逆説的だが、どこか「語り切れなかった」感じが残ってしまったのだと思う。

『常備演目を仕込む』

『常備演目を仕込む』

東京アレルゲンシアター

WAKABACHO WHARF 若葉町ウォーフ(神奈川県)

2018/09/27 (木) ~ 2018/09/30 (日)公演終了

満足度★★★★

数日おかずして、実験色濃いパフォーマンスを鑑賞。
「常備演目を仕込む」とは突っ込み所満載なタイトルだが、茫漠としたその文言よりも、内容を指した語句=「翻訳にまつわる三部作」に当然客としては目がいく。作り手が「どう」仕込むかは、そっちの話、客としてはさしあたりどうでも良く、「何を」仕込む(見せる)かだけで十分な訳である。意地悪くみれば、「仕込む」作業ですから、と、プロセスに過ぎない事を予め断っておこうという予防線のようで、やはりどうでも良い。
翻訳家・作家の和多田葉子「動物たちのバベル」リーディングは観ること能わず、「劇場版 後ほどの憑依」「盲人書簡」の二本立てを観た。いずれも2、30分の作品で、終演後は出演者2+2=4人総出でアフタートーク。「作る」過程での話が披露されていた。
前者は比較的まとまった「作品」で2015年岩手での初演(野外公演)を経ており、「翻訳」にまつわる多彩な場面が構成されていた。後者は今回初めて、佐藤朋子(アート系の人らしい)にコラボを申し入れた山田カイルとの仕事だったが、佐藤がノートPCを開いて座り、背後に映像を映しながらのナレーション、照明変わると椅子に座った山田カイルが寺山修司との個人的な「接点」(?)などをざっくばらんに流暢に喋る、というのを何度か行き来し、冒頭とラストには寺山修司がエッセイに残した曰く付きのレース(競馬)を映像で流し、それじたいは趣き深いものがあったが、パフォーマンスとしてはよく判らないものであった。
トークで進行の山田カイルが佐藤に「自分との仕事でやりにくかった事は?」と単刀直入に訊くと、コンセプトについての話はそれはそれで共有可能だが、それを「形」にする段階で感覚的な開きが大きかった・・。それでそれぞれが用意したものを別個に発表する形になったとのこと。
渾沌として形をなさない宇宙のような作品は、今後取り出し可能な常備演目=素材となったのかどうか・・。

塒出(とやで)

塒出(とやで)

STスポット

STスポット(神奈川県)

2018/09/28 (金) ~ 2018/09/30 (日)公演終了

満足度★★★

ダンス系パフォーマンスの拠点STスポットに詣でる機会が多くなった。今回は新聞家主宰の人×ダンサーのコラボという事で、未見かつ評価も知らない二人の作品を観に劇場に足を運ぶ。全くの白紙で観劇に臨んだ者がそれなりに「二人が組んだ理由」を、僅かでも納得して帰る事が「成果」と言えるとすれば、私には殆ど成果が見出せなかった。
先立っての三条会の芝居の序盤、生徒が延々とふざけながら「ひかりごけ」を読む場面が続いた時、お年を召した一人のお客が席を立って行かれた。何を見せられているのか判らなかったのだろう。演劇の「進化」の過程とはそういうものだと納得しているつもりではあるのだが。

ネタバレBOX

このパフォーマンスは私の目には実験・試行である。拭えないのはこの程度のお試しを3000円という入場料を取って演るには、それだけの知名度というか期待が寄せられているのだろう事を想像する。人気の源は過去作品にある訳で、過去から現在に何が通底したのか、アフタートーク(ゲスト:佐々木敦)から手がかりを探ってみる。色々質問をして「段階的に」理解して行くプロセスを佐々木氏は踏んで行こうとされているようだったが、客席からの意見も交えた論議から、新聞家・村社氏の演出におけるこだわりが見え隠れし、今回の試行にある程度反映されたようだ、という事は判った(気がした)。
音響なし、照明変化でチャプターを分割する。テキストを発語しながら、ある踊りを踊る。1,2,1,2とメトロノームの数値で言えば50/1min程度だろうか、盆踊り系の仕草が1拍に1動作という感じで始まり、緩慢さが極まる。台詞を言うプロでないダンサーがテキストを言うのには楽な始まり、という風に見える。盆踊りは一巡りの仕草を音曲の拍にだけ合わせて踊る(曲の頭に同じ仕草が来るとは限らない)というものらしい。足は拍ごとの歩行、手の位置がほぼ仕草の全て、というくらい身体的負荷は小さく、しかも曲に合せて延々と続く事が「面白さ」であって仕草のみで「面白さ」は見えにくい(そのように作られた代物ではない)。曲の代りに、ぶつ切れの、本人が語る言葉が流れる。さてこれは・・。張らない声で仕草の合間を縫いながら台詞が出され(それはそれなりに難しい仕事だろうとは思う)、5分位は同じパターンを繰り返す。と、立ち止まってチャプター変化。私がみた所では3パターンやったら最初のパターンに戻った。そこは私をガッカリさせた。というのは動きが次第に変則的になり、難易度が高まるかと思いきや、楽な最初に戻ったからである。
トークの中で触れられないもどかしさを感じたのが、テキストそのものについてである。話は断片的に頭の中にイメージを作ったが、はっきり伝わらない。テキストを聞かせようとしているのかも判らない。ダンスとの関係が不明瞭なため、焦点をテキストに合せているのかテキストはダンスの添え物なのか位置づけが判らない。書き手とダンサーとのコラボというより、新聞家の「理論」をダンサーで試してみた、という形。従って書き手として「伝えたい」はずのテキストは、パフォーマンスのための道具で、特段これでなくてはならなかった訳でもないらしい、という理解となる。ならば一体何を見せたかったのか。という思いが残る。
「試行」は失敗の可能性を含む。今後のクリエーションに生かされる事になるかも、という想定で星はかのごとく。
『US/THEM わたしたちと彼ら』『踊るよ鳥ト少し短く』

『US/THEM わたしたちと彼ら』『踊るよ鳥ト少し短く』

オフィスコットーネ

小劇場B1(東京都)

2018/09/20 (木) ~ 2018/09/27 (木)公演終了

満足度★★★★

「テロ」という括りでの二作品の企画はおそらく、後半の海外戯曲「US/THEM」が端緒でこれが短尺である事からもう一作品、ここでプロデューサーの着眼はノゾエ征爾氏に。そこで氏からは既成作でピッタリのものがある、とこれを紹介されたという(今回は短縮バージョン)。
が、演出の山田佳奈(口字ック)がパンフに書いたとおり(テロを予感させる非日常性ではなく、日常の延長にしか見えない、との趣旨)、比較的のどかな不条理設定の芝居になっていた。最後になって「テロ」が横行する現実が種明かし的に浮上するが、この展開はそれまでの会話劇と乖離がある。そういう演出にしたのか、元々戯曲がそうだったのかは分らないが。
企画との整合性はともかく、よく書けた不条理(系)劇と思った。例によって自分はキャストも作者も演出も事前に把握せず劇場に駆け込んだから先入観無し。休憩時に作ノゾエと知って驚いた。やはり書ける人は違うな・・と。はえぎわ観劇2回、いずれも不条理度が高く、今回がむしろ「まとまった」芝居に思えたのだ。
その上で・・ 妙齢の男と女が、「人が殆ど通らない閉じた空間」に、女が動けず男が自由に動ける状態で居合わせるという設定は、様々な意味で制約も多いが、戯曲は様々なアレンジが可能に思われた。「まずこっちでしょ」と客席から突っ込みが入りそうな「こっち」の深刻さに見合わない話を延々と男が続けている。男のキャラ設定も多様にあり得て、それによってドラマの色合いが変わって来そうだ。ひょっとして「テロの影が見え隠れする世界」を暗喩する芝居にもできたのではないか・・と思えたりもする。
男役の政岡氏がある程度キャラを限定する風貌に思えるが、キャスティングの意図はどのあたりにあったのだろう、と気になる。もっと狂気じみた男が期待されたのでは・・と少し思った。女を助け出すより、助けようとする時間が延長される事を望んで立ち回っている、その動機は最終的な「行為」なのか、交際相手なのか、彼が名乗っているとおり劇作家目線でのネタ探しなのか。このネタ探しの線が濃いのだが、芸術家がなべて持つ偏執的行動として、成立させる事が必要で、最後にイメージを払拭するどんでん返しがあってもいいので、最初はまずその線を強く押し出して良かったように思った。
二人芝居だが、途中で女の携帯電話を通して女の古くからの先輩という人物が「登場」し、どうやら近くに住んでいる事も判明する。ラスト近く、男と女が紆余曲折を経てある接近を遂げた後、建物から出た男を、女の先輩がなぜか持っていたピストルで撃つ。話は「心の接近」というハッピーエンドの予感を断ち切られる事の「不条理」を、悲劇的結末と感じるようなアレンジで語られている。劇的ではあるが、突然銃を持って窓から見下ろした所にいた男を撃つ、という出来事は偶発的なものとしても突然すぎ、理想的にはなんらか必然的要素が欲しいが、希薄。ラストが浮いてしまう。喜劇テイストでの台詞劇、熱演であったが、何かが惜しいと思った。

後半は学校体育館を舞台に起きた襲撃事件で、そこに閉じ込められた生徒のうち二人(男女)が代表して、テロリストら様子などを実況中継する。従って基本はナレーションで、綱を張ったり周囲を回ったり肉体の動きが間断ない。野坂弘と尾身美詞、余談だがお似合いの年格好とキャラだな、と妙な関心で眺めてしまった。スズキ拓朗演出、なるほど。と後で納得。
二人が動き喋りながら張られて行く綱が、ある時緩み、その時私らはなぜ犯人らが天井に爆弾を仕掛けていたのかが分る。体育館の天井が爆発によって大量のがれきとなり、人々の上に降り注ぐ。
チェチェンでの実際のテロ事件を、詳細に、そこにいた者の目線で綴られたテキストは近年欧州で上演され話題になったものだという。

日本は、報復の悪循環としか見えないテロなる代物と、どう向き合えば良いのか、どう考えれば良いのか・・難しい問いにみえる。だが9・11で米国は「悪」に対する報復を宣言し、富を占拠する側とそうでない側との対立において富者は歩み寄らずシステム維持に汲々とするか、相手を叩きのめすのだという事が露呈した。日本はテロを「受ける側」だと自認する人が多いが(客観的情勢としては現在その通りだが)、逆もあり得るのが人間であり社会。変化の可能性の広がりの中から人は普遍的なものを探ろうとする。日本が凋落するなんて有り得ない・・この発想だってその意味で「偏狭」の名に値するだろう。正しく凋落していくべきだ、その道を見据えようなんて事を著名な演劇人が書いてたな。
テロによる悲劇を淡々と描いた今回の作品には、テロリスト=悪という単純図式はなかったと思う。が、淡々と描く悲劇はどうしてもそれを引き起こした者を「悪」として炙り出す効果がある。また、動きの多い「飽きない」舞台ではあるが、言葉への集中がその分(助けるよりは)削がれたように思った。

ミカンの花が咲く頃に

ミカンの花が咲く頃に

HOTSKY

アトリエファンファーレ高円寺(東京都)

2018/10/03 (水) ~ 2018/10/07 (日)公演終了

満足度★★★★

西山水木演出という事で、一も二もなく劇場へ(なぜ、と問われたら何と答えよう...なんか凄そうだから?)。
昨年上演された作・演出舞台(「月の姉妹」だったか)の「うた」の不思議なニュアンス、ケーキのトッピングではなくパン生地に練り込まれたように芝居と絡まる一見型破りなソレが、今回もその時が待ちきれないかのようにしばしば出て来る。
地方を描いた芝居。台詞を追っているとつい西山水木の作、と思ってしまっている程何か通じるものがある。作者釘本光という名をおぼろに思い出しながら、要所で飛び出す鋭く抉るような台詞、優しく包むような台詞に胸がざわざわとした。予想を超える距離にまで観客を連れて行く言葉が、時を選ばず飛び出てくる。
狭いアトリエファンファーレに組まれた装置は「内」「外」の区別も付きにくいヘンテコな形で、人の出ハケも「それをやるか」と突っ込みたくなる独特な処理だが、リアル一辺倒でない劇世界には不思議と合うところがあった。
ふだん見過ごす隙き間や凹んだ場所にある良きもの、鉱脈が、人間とその関係の中にあるのを作者は見せる、見る角度を教える。それを媒介するのが例えばミカン、畑、自然。自然は人間を照らし、頬を赤く染める。
人が放つ煌めきが、舞台を彩っていた。

オセロー

オセロー

松竹

新橋演舞場(東京都)

2018/09/02 (日) ~ 2018/09/26 (水)公演終了

満足度★★★★

20年も前に読んだシェイクスピア4大悲劇の殆ど忘れた筋書を近年『ハムレット』を始め『マクベス』、簡略版のような演出で『リア王』と改めて古典の価値を、もとい、ドラマの面白さを発見する幸せに与っているが、『オセロー』は未見であった。だから、というのでは全然ないが、空き時間に嵌ったのでこれ幸いと観劇した。
領地王(大名みたいなものか)を任ぜられるだけの武勲を上げた武将オセローは、美しいデズデモーナの心を捕えるが、彼の唯一の弱点(黒人である事、その事から派生する条件)を部下イアーゴー(虚無に病んだ策略家)につかれ、妻を殺すという悲劇的結末を迎える話。彼が黒人でなければ起こりえないと思われる話であり、その意味で「悲劇」の中でも人間の陰湿さが最も表に現れた話だ。

演出は蜷川幸雄の演出助手出身の井上尊晶。蜷川カンパニーの演助出身の演出家の名前を近頃よく目にする。藤田俊太郎、大河内直子、石丸さち子・・。
新橋演舞場での「オセロー」は歌舞伎俳優が主役でヒロインは宝塚出身。舞台はダイナミックで蜷川演出が使いそうな技巧もみられたが、戯曲を判りやすくメリハリを利かせて観客に見せてくれた、という印象で、古典の物語世界に収まっている。現代世界へ首を出す瞬間が「今やる」舞台なら欲しくなるという事はあるが、シェイクスピアの『オセロー』の筋書はもう忘れる事がないだろう。細部もクリアに粒立ち、優れた戯曲紹介である。(揶揄ではないつもり。)

田園に死す

田園に死す

流山児★事務所

ザ・スズナリ(東京都)

2014/02/28 (金) ~ 2014/03/10 (月)公演終了

五年後のクチコミ。ではないが色々と思い出す事などあり。
舞台上のめまぐるしい展開をこの時は冷静に見る自分がいた。上演中も日常感覚を引き摺っていたのは、恐らく個人的な「演劇どころでない」何かがあった、ような。
この公演は第一に演出「天野天街」、天野色を緩和する流山児色、そして元ネタの寺山修司という三つ巴。

流山児×寺山と言えば十数年前、今ほど芝居を見なかった頃、まだ見ぬ「流山児」なる怪しい劇団を何を思い立ってか、亀有くんだりまで観に出掛けたのが『狂人教育』であった。
当時は「作り込まれた演劇」を懐疑的に見るところのあった自分だが、これには圧倒された。「なぜかくも魅惑されたのか」をよくよく考えた。見ていたのは俳優の肉体だったと思う。調べると上演が2000年、主演の沖田乱の名は頭に刻まれた。
「流山児事務所」「寺山」の舞台イメージが焼き付いたが、以後暫くそのチャンスがなく、どうやらその後が「お岩幽霊 ぶえゑすあいれす」atスズナリ(2010)。これは黒テント・坂口瑞穂の書き下しという事で観た。
流山児事務所、を意識して観たのが「ユーリンタウン」の再演。以来、space早稲田でのリーディングや「鼠小僧」「アトミックストーム」「無頼漢」「チャンバラ」「マクベス」等等。天野天街との仕事も多いが、寺山原作の三つ巴の「地球空洞説」(2012)はエライ舞台だったらしいが、これが未見である。それというのも、天野天街の名を私に紹介した知人は、この舞台を引き合いに紹介したような訳で。
流山児は近年も企画性の高い公演を打ち、演劇界の撹拌・統合の媒介として劇団を用いている感さえある。
天野天街は名古屋の演劇人という枠、アングラという枠を出て来年は新国立へ。またここ数年熊本に招ばれて演出している既成戯曲(平田オリザ、岡田利規...)の舞台は一度観てみたいものだ。唯一無二とはこの人の事。

ネタバレBOX

メモ:これまで観た天野天街演出作品
2013「真夜中の弥次さん喜多さん」(KUDAN Project)
2013「ハニカム狂」
2014「泣いた赤鬼」(一糸座)※上演中止/試演会
2014「砂女←→砂男」(うずめ劇場)
2014「田園に死す」(流山児事務所)
2014「寝覚町の旦那のオモチャ」
2015「西遊記」(流山児)
2015「レミング-世界の涯まで連れてって-」(再)(パルコ)
2016「泣いた赤鬼」(一糸座)
2016「思い出し未来」
2017「シアンガーデン」
2018「高丘親王航海記」(ITOプロジェクト)
2018「街ノ麦」
さらばコスモス

さらばコスモス

世界劇団

こまばアゴラ劇場(東京都)

2018/09/22 (土) ~ 2018/09/24 (月)公演終了

満足度★★★★

四国と言えば神奈川かもめ短編演劇祭にてそのユニークな才能に触れた記憶が蘇るが、本坊由華子の名もその時耳にした気がする。芝居のほうは中々の実力をみせた。

ネタバレBOX

振りを付けた身体パフォーマンスで「物語」との距離をとりながら、ある謎めいた事件を繙いていく時間を刻む。ギリシャ神話の母娘の確執を演じる劇中劇と双方の場面を行き来する構成だが、被害者(父)の娘と母の三人がどうやら言及されている人物で、父は亡くなっているから実質母と娘である。芝居は少女を軸に据え、思春期の彼女の半径の小さな世界(精神世界)を表わすかのように見えてくる。外部者(横柄なTVリポーター、医師など)は確かに戯画的である。解明されていくのは事件でなくこの少女の内面世界で、事件というピースがパズルを完成させた時、ギリシャ神話の寓話性が効いて、人間の不条理性がパンドラの箱を開いたかのように一気に流れ込んで来る、私にはそういう感覚があった。

後で、皆医師かそれを目指す人と知って思い返せば、「精鋭」四名で作られているというのも頷けるが、「知」が勝った劇世界の表現にとどまり、泥臭さが無い(本坊自身は体を駆使して立ち回っていたが)。知将?本坊由華子の面目躍如、とは言え、劇団の行く末に幾ばくか心許なさを覚える後味であった。というのは、肉体より知(手法)が勝っていると、知の変容は肉体に比べて遙かに容易だから、「継続」という点で心細い。それは観劇直後、「次に何をやるのか」が今ひとつ見えて来なかった事とも通じるだろうか。とまれ、しぶとく続けていって欲しい。
牛久沼3

牛久沼3

ほりぶん

北とぴあ カナリアホール(東京都)

2018/09/20 (木) ~ 2018/09/24 (月)公演終了

満足度★★★★

続編が見られず、今回の続々編、1stバージョンとほぼ同じ構造であったが、途中の「わちゃちゃ」が滑舌的・声量的に殆ど聞き取れないな、と確認すると楽の前日、女優らの膝下あたりは痣だらけ、当日2ステージ目だとすれば疲労も極限に。。(んな纏め方で良いのか・・自問)
たかが鰻釣りでも、母娘の心の通い合いを真ん中に、そこへ敵やら味方やらが現われ、大騒ぎの大乱闘の長丁場はほりぶんのお家芸。中でも母役・川上友里は流石、かような劇(笑うための劇?)にも力を抜かないシリアス誇張型顔芝居、そして気づけばそこに母の姿あり。母よ永遠に・・。と、真顔で呟いても奇異でない程のあれが、母親の体からあれしてるんである。
パンフには第1話~3話のあらすじの次に第4話のあらすじも載っていた。筋書のコースを演技で走り抜くスポーツである。

咲き誇れ

咲き誇れ

トローチ

赤坂RED/THEATER(東京都)

2018/09/23 (日) ~ 2018/09/30 (日)公演終了

満足度★★★★

赤坂REDという端正な劇場に、土着臭が魅力の松本哲也戯曲が合うだろうか、と気にしながら観劇。相変わらず「痛い」人間が登場するが、どの人物の目線に合わせるか、焦点が定まらない「探り」の時間が長く、しかしヒントと思しい言葉が気になりながら回収の時を待つ。やがて関係図が鮮やかに表れてくるのが松本戯曲の魅力だ。
よくぞ「痛い」人物を作り上げるものだ。実際にはどこかに居ておかしくない人物であり、心の奥を覗けば誰しも身に覚えがあったりもする。
どの人物も主語で語れるドラマを持つ群像劇の中で、約一名掬い切れなかった人物が気になるが・・。(どうとでも位置づけ可能なパイとして、自分がステージでギター弾き語りもやる店長、明日閉店でも平然としている人物を置くというのも、うまいと言えばうまい。)

ネタバレBOX

自死を選ぼうとした男がどうやら「病院に担ぎ込まれたらしい」と状況を伝える台詞に、観客自身が望めば「希望」を見いだせるだけの余地は残される。照明が静かに暗転へ移行すると、いやどうしても生きてもらわねば困るしそうなるはずだ・・そう願っている自分がいる。この「補完」を観客に促すぶっきらぼうなラストだ。
が最も蓋然性の高い展開は、それだろうか。剣呑な話題(「痛い人」の不注意で同僚を事故死させた事)には、当人が更生した分だけ、他者から言及されやすくなるのが常。それに耐えるだけの素地が「彼」にあるかのか・・いや、無いだろうというのが彼が姿を消す直前までの印象だ。
彼の偉そうな口ぶりは、後から解釈すれば「俺はダメだ」と言外に告げていて、つまり、己のダメさ加減を彼はある仕方で悟っているようなのだが、それを「分かった」とて「変われる」わけではなく、一度ニヒルを飼ってしまった更生困難な「心」を持て余して、甘えるだけ人に甘え、己に絶望する「彼」という存在がそこに転がっている。1㎜も言い訳できない無惨な醜態を晒して丸太のように転がされている。
だがその存在を芝居は見放さず、突き放し過ぎず、見つめているのだ。
・・・人間の本当の姿、弱さを抱えた姿(時にそれは罪を背負う加害者の顔をもつ)を「見据える」というその事の中に、微かな光明をみる。
イヌの仇討あるいは吉良の決断

イヌの仇討あるいは吉良の決断

オペラシアターこんにゃく座

吉祥寺シアター(東京都)

2018/09/14 (金) ~ 2018/09/23 (日)公演終了

満足度★★★★★

確か2002年頃がこんにゃく座初観劇だから以後の新作は萩京子作曲による作品(寺島陸也作曲「変身」を除いて)。林光作曲には旧作の再演で二つ程お目にかかったはずだが後継者=萩京子との本質的な差を感じず、聞き流したようだ。
今回の林光楽曲にはこれまでにない深い水深にまで引っ張られた感がある。そして恐らく舞台の展開との絶妙な対関係があった。演出は上村聡史。何より惹かれたのは井上ひさし作品だという事。元々の戯曲を林光がオペラ台本化・作曲した。

オペラとは台詞に旋律(曲)が付く様式だが、ストレートプレイの台本に旋律を当てはめるのは元々無理を承知の助。林光の文章に、歌で台詞を言うと三倍の時間を要するとあった。オペラ仕様に書かれていない戯曲、しかも細部からドラマを展開させる井上戯曲では、削ぎ落とすのも苦労だったろう。上演時間3時間弱(休憩込み)。
生身の人間の表現の幅・バリエーションと、十二音階のピアノの語彙(表現のバリエーション)とは比べるべくもなく、芝居の前段は「台詞を続けるための旋律」が長々と続く部分があって睡魔に抗えず。一、二年前こまつ座の『イヌの仇討』(東憲司演出)を観ていたものの、かなり眠ってしまった観劇だったため細部は覚えず、今回はドラマの骨格が組み上がって行くのを面白くみた。こんな話だったか・・と、井上作品の構造の確かさに唸る。

ネタバレBOX

芝居は「忠臣蔵」の一方の立役者、即ち悪役・吉良上野介が、自邸の敷地にある味噌蔵へ家来やお付の者らに導かれて入って来る場面から始まる。
美術は乘峯雅寛。実在した吉良邸の蔵だからか、リアルのさかさま、舞台奥の広い面全体に大雑把な筆の手描きの「内壁」(落語「だくだく」のよう?)が張られ、両端が角で折れて側面の壁の途中まで来ている。上方に横長の隙間があき、提灯様の横筋の入った巨大な月(の一部)が覗いているカタチ。下場は奥と上手側に一段高い三、四尺幅の板、中央は広間となる。この簡素な大きな長方形の内外全体が演技エリア。

時は折しも生類憐れみの令を下した五代目将軍綱吉の世、「松の廊下」の刃傷沙汰での沈着な対応を褒められ、吉良は「お犬様」を下賜奉られたが、下手に扱えないその犬も連れての避難。・・と、床の堅さが足に痛しと嘆く(歌う)吉良に、お犬様が乗っている錦の座布団をと提言する者、「滅相もない、お犬様が第一(お上に知られては一大事)」と反駁する者、ややあって妙案「お犬様を抱いて座布団に座れば不敬の謗りは免れよう」・・といった武士階級への皮肉めいたくすぐりが序盤にある。

芝居は吉良側の登場人物だけで進んでいく(声だけは敵のものが入る)。敵・大石内蔵助以下の赤穂の浪士も「登場」する。それは横を向いた侍の輪郭を切り抜いた板(ベニアか厚紙か)を、黒子が持って。それを舞台ツラに四つ並べて、上方の隙間にも影がシルエットが見えると、敵に包囲された状況。また板を持った黒子二人が掛け合いをしたりも。戯曲では恐らく「声」とあるのだろう箇所をちょっとした見世物に変える演出の妙技だ。

この話は忠臣蔵のパロディだが、史実としての赤穂浪士の決起は、庶民の関心、同情、憧憬を勝ち得、その事が両者の帰趨に影を落とす。謂れのない誹謗との吉良側の不服もっとも。徳川家と濃い姻戚関係を持つ吉良家、お上の信頼をもとより得ているものの、不穏分子による討ち入りの危険を逃れ、蔵にこもる事に。が、次第に情勢の変化が起きて行く(のを吉良は察知する)。不安に揺れ動く心情の吐露に、「うた」は最適である。お上が事態に介入せず様子見を決め込んだらしい(つまり応援は出さない)と「読んだ」吉良は、一つの覚悟を腹に決めた様子である。演じた劇団古参の大石氏は、尊敬に価する人物像を既に作っている。

世間にも権力にも不当に見捨てられた者の最期を追体験する物語は、氏族階級の中に庶民の代表である盗人一名が紛れ込んだ事で立体化してくる。また敵の網をかいくぐって情報をもたらす春斎という厨房の者も「外」の風となる。特に彼が伝える総大将大石内蔵助の言動が、吉良に事態を読み取るヒントを与える。やがて吉良は、大石がこの騒ぎを道理の無い茶番であり、大きなうねりに飲み込まれて非の無い相手を「仇討」たねばならぬ事態だと捉えていると洞察する。そしてその生け贄は、今この蔵に押し込められた、いたいけな?吉良の者たち・・。

ニクイ演出は随所にあったが、圧巻は急速にシリアスを窮めるラスト。事態を厳粛に受け止め、なお生きよういう思いで刀を手に出て行く者ら、そして最後には腕に覚えのある吉良自身、美しくかたどられた彼らの輪郭が舞台上方に収まり、高みに達した旋律がリフレインし、「忠臣蔵」の裏面史が「忠臣蔵」本編さながらに男泣きを誘う「滅びの美」として完結した。いや、隣席の「女性」も泣いていた。

見事忠臣蔵を逆転させたパロディが、皮肉の炎をこうも激しく焦がす話だったとは・・こまつ座の舞台の時には読み取れなかった(寝ていた者が何をか言わんやだが)。

さて侍より世慣れて一枚上手の泥棒も、刀には抗えず・・と見せながら、去る気がなくて居る様子の彼は、実は人情に厚く、やがて吉良家の「仲間」と自任し、白状するに至るという「変化」がある。事態逼迫した終幕近く。泥棒は「決死の闘い」に備えるべく物を取りに外に出ようとしたところ、敵の刃に倒れる。痛ましい死を前に悲壮な覚悟を決めた彼らはあたかも「明日」があるかのように、談笑する。若い侍二人はお付きの者二人と「お似合い」とのお墨付き、明日祝言を挙げる約束をし、先輩は「高砂」を謡ってやると半ば冷やかし。その時既に「内壁」の描かれた布幕は落とされ、闇のような光のような「向こう側」が現われている。
侍たち一人、また一人と正面奥中段、月の見えていたあたりに集まって刀を構えて不動の体勢、見守る女たち。最後に吉良自身がそこへ昇って行く。断頭台への階段に重なるが、「生きよう」というつもりは変わらない、その事を強烈に印象づける「形」・・「向こう側」を、侍たちは未来(少し先の、あるいは数百年先の)であるかのように見つめている、と背中が語っている。私も日本人の一人という事か。滂沱の涙、をどうにか堪えながらもこのドラマの構図が持つものには抵抗できず、震えた。名も無く、又は悪評の内に消え去っていった歴史上の何万何億の人間が、その生を昇華(鎮魂?)される儀式。これを仮に「演劇」だと定義するなら、この和風オペラこそ演劇の王道。
美しいシルエットとなった彼らは、その「美」において(赤穂浪士に劣る事のない)伝説となった。。
井上ひさし、林光(以上故人)と、上村聡史の合作に惜しみない拍手。
FIELD-フィールド-

FIELD-フィールド-

Baobab

吉祥寺シアター(東京都)

2018/09/01 (土) ~ 2018/09/04 (火)公演終了

満足度★★★★

3~4年前のこまばアゴラ公演以来、漸く2度目が叶った。舞踊と演劇の境界領域を行く主宰北尾亘の演技は最初、演劇で見た。baobabの初見は身体表現の妙と意味深な装置を絡み合わせた抽象世界で、凝視させる鋭利なものがあった。
本作は多人数でのパフォーマンスだが、全員打ち揃っての群舞はやはり僅か。離合集散、速度の緩急。可動式の檻が舞台のどこかにあって、檻の中のスネアドラムの連打。。一言で言えば掴みどころなく晦渋。それは「意味」以前の何か、美的要素に物足りなさがあったという事だろうか。美は餌、意味が狙いだとするならば。
全体に黒が多かった印象だけが残る。

上空に光る

上空に光る

やしゃご

アトリエ春風舎(東京都)

2018/09/13 (木) ~ 2018/09/24 (月)公演終了

満足度★★★★

青年団若手自主企画から青年団リンクへの昇格しての第一作。伊藤毅企画時代に2本観て文句も書いたが、格段に違ってみえた。「リンク」に格上げすると予算も使える俳優も(オイシイ青年団俳優を動員)違って来るのか・・と想像を逞しくした程。過去二作とつい比較してしまうが、被災地での「取材」を下敷きに作劇された今作は、飽きさせない展開を準備しながらも一本通ったリアルがある。冒頭から既に「場」が存在し、人が紡ぐドラマは現在進行形の今を経過して、終演以降も続いていくと信じられた。
戯曲中「無理」を通した所がなかった訳ではないが、深い爪痕を残す被災地の日常の断面のリアルのほうが突出していた。過去二作と今作との印象の違いが、自分と当事者との距離の違いに過ぎない可能性を思いながら、それでも非被災者である我々の想像を超えて納得させるものがあった。楽しく切なく甘味な場面が盛り込まれた、秀作。青年団俳優の層の厚さを実証、俳優の貢献が大きい。

ネタバレBOX

復興事業の人足として短期間(といっても半年一年といったスパン)滞在する男ら(登場するのは二名)が舞台上手側の部屋を陣取って洗濯物などがかかり、狭い廊下を挟んだ左は東京から取材に来た劇作家の短期滞在の部屋らしい。開演前から人足部屋に女性画家が小型イーゼルを立て、足を負傷して仕事を休む男をモデルに「動くな!」と命令しながら筆と、口も動かしている。民宿を経営するまだ若い女将とニートの弟(冒頭は上手の部屋に寝そべって漫画を読んでいる)、気ままな次女、父母は津波で死んだかその前からいないか・・。そこへ東京から訪ねてきた若い女性二人、俄然色めく人足二人。民宿の三姉弟の関係はサバサバと描いていて、ここにドメスティク臭を持ち込むのが姉・汐里の元夫の兄。姉の新たな交際相手は実直な役人だが7年前の震災を経験しており、町民に対しどこか負い目がある。汐里の夫は震災時の津波の後遺体も見つかっていない。
この日はあれこれあって、夜は上手側で酒宴となり、次第に高揚して本音も吐き合うというありがちな展開。だが、一辺倒にならない会話がうまい。自然な会話と動線の中に意外な展開を織り込んで飽きさせず、その中に被災の状況や、当地の人々の心の形を一滴、一滴と観客の許容量を超えない程度に染み入らせて来る。

「無理」に感じられた部分とは、過去作に目立った「議論を白熱させるため二者択一を迫る状況」の設定、これが恣意的で、議論が長いというパターン。
今作では終盤の勢いで乗り切った面があるが、意味的には間延びが生じる。
町の役所勤めの男との結婚を考えている姉・汐里に対し、亡夫の兄はそれを飲み込めず、相手の考えを否定するという、この部分。兄の本音が「義妹への思慕」なのか「弟への負い目の投射」なのか、いずれかでなければ殆ど「変な人」のそれでしかない兄の行動を説明しきれないと思えるが、どちらともつかない(どちらとも取れる、というよりは、どちらも信憑性が薄い)。
汐里が夫から継いだ民宿を、他人と結婚するとなれば手放すべきだ、という兄の論理は、全く権利関係の話だ。心情表現として「だったら民宿も手放してしまえ」とつい言ってしまっただけなのか、実際は権利が兄の手にあって、「民宿をやってほしいと思っているのに自分の元から離れていく」姉への未練を言っているのか・・特定できない事で宙に浮き、リアルが手から滑り落ちる。そこは曖昧にしてあるのだな、となる。
この議論(亡き夫とも添い遂げるべきか否か、という普段なら当事者以外の人間が立ち入れないどうでも良い話)の際、なぜか女性画家が、恐らく自分の境遇と重ねての事だろう、「添い遂げることが大事」と意見する。これが間延びを決定づける。
その他「フェレット」のくだり、涙もろい東京女を全員一致で「邪魔者」と断ずる一辺倒さが気になったりも。
寒花

寒花

ハツビロコウ

シアターシャイン(東京都)

2018/09/11 (火) ~ 2018/09/17 (月)公演終了

満足度★★★★

ハツビロコウ atシアターシャイン。同じ小屋を使った前公演での窮屈な印象は微塵もなく、時計の秒針音もじっくり聞かせる鐘下ワールドと再び相見えた。どの役もその人物像の形象に逐一首肯させられたが中でも秀逸は安重根役。口数の少ないこの歴史上の人物を、登場の瞬間から存在せしめていた(伊藤を暗殺した国賊は彼の地での英雄である、との事実以外私は承知せず)。実質日本の支配下にあったらしい中国旅順の刑務所に安は収監されているが、唯一その「人物」に触れる通訳(日本人)もハマリ役。戯曲上彼は安の尊厳を認め代弁する役回りであるが、作者が確保したリアリティでは、彼は安を畏敬しながらも弁護しすぎず、刑務所側(これも立場様々ではある)と言論的に拮抗する事となっている。
落ち着き払った安の佇まいと、視野狭窄の日本人役人(即ち軍人)との対照、斜に構えた医師が通訳者の先輩で「異端を解する」目を持つ人物も、両者の中間にあって「言論」の単純化を免れさせている。そうした事がこの芝居をリアルな世界に仕上げる事に成功し、複雑だがどこかシンプルな印象を残す。逸品と言える。
ドラマそのものについては、また。

蜜柑とユウウツ~茨木のり子異聞~

蜜柑とユウウツ~茨木のり子異聞~

グループる・ばる

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2018/09/13 (木) ~ 2018/09/23 (日)公演終了

満足度★★★★

往年の・・と名付けたくなる演技と、舞台と。古式ゆかしさをどのあたりに感じたかは今定かに思い出せないが、元を辿ればそれは彼の地より輸入した「近代劇」、これを日本人のものとして一時代を成した往時を憧憬したような。る・ばるを構成する三女優の出自という事なのか、演出マキノ氏の恣意か。テキストは相変わらず長田女史の文学調の筆致だが、「幽霊」を介したドラマ構造に喜劇性があり、面白く見られる。ただ、にも関わらずシリアス味を欲する演技が新劇を思わせる。
茨木のり子の詩「わたしが一番きれいだったとき」を、最もドラマティックに聴くためにこの劇が作られたと、そう言って過言でないと思えた前半。そして後半は人間茨木のり子の精神の軌跡、歳月にして長い期間を約めて書き流した感じがあったが、上演時間が延びても「老い」との葛藤と、そこに韓国語がどう位置付けられるのか・・(そこまでやると大変混み入って来そうだが)突っ込んでみてほしくはあった。茨木のり子に詳しくない一人の感想として。

ネタバレBOX

公演2日目、3年経っているとはいえ再演らしからぬ硬さのわけは何だろう・・?、と後で調べると、再演から参加の俳優が二名。そう、彼は発語が感情を込めようとする程ウィスパーになるように見受ける役者だが、全体にも声量が下がっていく影響を与えていたような気が。
劇は全体にコメディを基調として瞬間的シリアスの効果を狙いたい、という戯曲ではないかと思いつつ観ていたが、笑いが思うような放物線を描き切れずに落下し(ドラマ進行は止めておらず怪我はないのだが)、勿体ない。
もう一つ、随分の間を取ってのオーラスの一言。これは長田女史も頭をひねった事だろうが、今回のテイスト(初演は見てないのだが)、そして3・11からの時間の長さ分だけ唇寒くなる種類の語句・・私は書き換えて良かったのではないかと感じた。いや、敢えてそのままにしたのかも知れないが、「立ち向かう」という時、「何に」向かってであるのかは名指さねばならないのではないか。数年前と違って、、靄の向こうに隠れ見えなくなりつつあるとき、的を指示してそれに「立ち向かう」としなければ、内実の無い言葉となりかねない、そういう2018年の「今」ではないか、と。
「寒さ」は擬人法で蜜柑の木に語らせるにしても樹木の役割のイメージには遠い事、にも因るか。せめて木の「意志」が屋台崩しばりの激しい動きで示される等あれば、「芝居の嘘」は好感をもって受け止められたのでは、とか。
芝居を観客に繋ぐ部分だけに、そこは反芻してしまったような次第。
マンザナ、わが町

マンザナ、わが町

こまつ座

紀伊國屋ホール(東京都)

2018/09/07 (金) ~ 2018/09/15 (土)公演終了

満足度★★★★

数年前に評判をとった演目が早くも再演。3時間。さすが井上ひさし戯曲、がっつり芝居が詰まってる。戦中カリフォルニアでの日系人強制収容を題材にした音曲披露もたっぷりある劇で、収容所内の5人部屋の内部が舞台。所内で演劇班が作られ、上演台本も指定されている。日本人が住む新たな町(その収容所の事だろうか?)マンザナ建設を称揚するという内容。冒頭は演出担当の土井と浪曲師熊谷によるユーモラスで簡潔な状況説明の会話。残りのメンバーは?芝居の中身は?なぜ私達が?浪曲師に歌手、女優そして、奇術師?何のために・・掴みは十二分。かなり高いテンション(知りたい事と現状との距離=糸がピンと貼られた状態の事)が、冒頭からある。
役者の奮闘、そして終盤になって自分らを取り巻く世界状況、日本人とは何かについての視野を得ていく人物たち。見事な戯曲。

ネタバレBOX

初演に寄せられた評の数々から期待されたものと、今回の舞台は微妙なズレがあった。
テーマ性を強く持つと同時に芝居としての高揚を書き込む井上戯曲の舞台には、芝居心に訴える出来の良さがそのまま、戯曲にあるテーマ性を批評家に雄弁に語らせる要素がある。それは恐らく、自然に、必然に生起した物語であるかのように「見える」事の重要さを示す。現代劇の武器は「必然」と見做し得る事として仮想の事実を提示できることでもある。
批評家は興奮と共にその「必然」から導かれる問題性について語るが、その興奮は同時に観客も受け取っている訳で、良い事なわけである。
先程言いかけた「ズレ」について。
芝居の出来がもたらした、批評家の筆に漏れ出てくる高揚感の度合いと、今回のはいささか釣り合わないという感触である(微妙な所だが)。恐らく初演は「絶品」であった。今回、見直してみるとキャストが一名異なっていた。風貌も違うが、歌唱の質も違いそうに思った。初演の役者は写真しか見る事ができないが、今回劇中で「ここはそうでなく、こう歌うもんじゃないか」と、若干の脳内修正を施したイメージに、その写真の印象は何となく適合する。
今回きつかったのは歌唱力を披瀝するような歌い方で、ビブラート無しのストレートな発声と、高速サイクルのビブラートへの移行をくっきりと、自在に繰り出すような歌い方がその一つだ。いささか拙くても思いが溢れる歌のほうが余程良いか知れない。技術はあっても良いが、技術に依拠するのでない歌を、声を聴きたかった。どうしても芝居の濃度としてそこが薄くなったのは(100%の出来を想定すれば、だが)否めなかった。総合点では上々な芝居に小言は言いたくないが。

女優と言えば初演当時はまだイキウメにいた伊勢佳世が、キーとなる役を演じ、見事。英語と日本語の混じった奇妙な喋り(由来は孤児院とか)では、英語が「日本語英語」の発音。だが正体を顕わした後の英語はナチュラルな英語(ほんの一、二語程度だったが)。キャラの演じ分けも含め理知的に計算されているのを感じる。(イキウメのSF的世界は戯曲以上に演技が決定的と常々思っていたがそれを裏打ちする仕事)
5名とも、芝居中どこかで自分の来し方を語る場面がある。それが成立するというのも「強制収容」という設定であるが、それぞれ愛おしく「劇的」で、空想物語の範疇でもある「女の美しい連帯と共感」の形が作られていた。
その最後を飾るのが「謎の女」伊勢の役で、真珠湾攻撃後、日本民族に関する調査が緊急に要請され、大学で人類学研究に携わる伊勢が潜入調査を行なっていたという種明かし。彼女は中国系アメリカ人で(多数の言語を操るという設定が中国人らしい)、祖国を離れているが、アメリカで歌劇団を主宰する母と結婚して彼女を生ませた俳優の父はまもなく本国へ戻り、日清戦争後の二十一箇条の要求に反発する態度をとって拷問にあい、亡くなった事を明かす。祖国を離れた二世中国人という設定がここではテキメンに生きて、語られる史実に色がつかない。
愛すべき日本人として存在した後、中国人と知らされた時には既に観客の心を掴んでいる。そうして「復権」した中国系の彼女の口を通して、中国で横暴に振る舞う日本人という「事実」が、史実として「復権」するのである。
一旦「4人を騙した者」としてそこを立ち去った後、再度接近し、仲間となった4人との友情を確かめる「探り」のプロセスにこの語りが織り込まれる。そしてその後、彼女たちの真の連帯がそこに完成する。
終演時、このドラマが「史実」に思えていた。というのも変だが、正確には、そうあってほしいと願っていた。(史実として)あり得たのであれば「あった」と言っても意味論的に何ら差し支えはない・・即ちそれが演劇の効力で、物事のあり方が一つでないと疑うためのこれ以上ない手段である。

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