満足度★★★★
ストアハウスカンパニーは自作と海外グループの作品の二本立て公演を打ち続けている。韓国、マレーシア、今回はタイ。このシリーズを観る機会を今回初めて得た。この種の企画をコンスタントに打ち続ける精力的活動の、問題は舞台の中身なのだが、事前情報はなにぶん少ない。百語は一見に如かず。想像した事と言えばこの「コンスタント」さが質の低下をもたらさないか・・というネガティブな連想くらい。
2時間超えと聞いて耐えられるかと懸念したが自分には全く杞憂であった。
最初のグループをタイのグループと思い込んだまま終演まで観た。なぜ思い込んだか・・言葉を発しないのも大きな理由だが、背後の入口からゆっくりと順次出て来た役者の風情、彫りの深いのや、山岳地帯の先住民「ぽい」人、アジア系美人っぽい人などが揃っている。だが実は逆であった事を休憩のアナウンスで判った(苦)。
好感触な舞台は、叙情的な音楽が基調になり、時に無機質な音、急き立てるようなリズム音、など多彩に場面を作っている。「世界(人間)、この悲しきもの」・・抜き差しならぬ緊張が身体を満たし、溢れ出るものを交換し合う事で濃密な舞台空間を作っている。絶えず動き、言語でない声を発する。大きく変化する1時間強の進展の最初は、まず人が歩き始める。そこに流れが生まれる。流転する自然界や社会や、一個の人生を想像させる。やがて音楽が激しくなりテンポが上がり、正面を向き、足踏みを始める、という要素が加わる。・・これは変転する舞台上の現象のほんの一部だ。人間ー自然がシンクロして見える描写が、最後には「生物」限定の「性」イメージに変わって長く展開し、そこに孤独や倦みなど人間的感情が表出するような按配だが、私には異質な要素を接ぎ足したように感じられた。しかし今作から非日本人的な精神世界を旅する感覚をおぼえた理由は何だろう。日本人的、とは大雑把な概念だが、小市民的自虐的「あるある」(そこを突かれてもさして痛くない)が今思い当たるそれだが。。作り手の照準はそこから遠い場所にあるように感じられる。
二番目のタイのグループの作品はさらに好感触。5人が舞踊(各々別のタイプの)への習熟を感じさせる身体の線を見せ、それぞれの人的持ち味を出し合いながら全体としての蠱惑的な群像が生まれる、楽しくも高度に抽象化された作品だった。
多様な場面を作るテクニックもさる事ながら、脈絡に自然に身を置き、存在している。個人的に凝視し引き込まれてしまったのは、舞台上のこの存在の仕方である。
例えば、動作のユニゾンはピッタリとは行かない。日本人ならそこを揃えるのに拘りそうだが、一つにはオンタイムでない打音をミックスした背景音を多用していて、揃えるのは難しい。
だがそれ以上に彼らがそれぞれ自立した動きを持ち、自由な相互作用に委ねた事により場面の自然な成立があり、各人のキャラがみえて楽しい・面白いという感覚が凌駕する。男3人、女2人が、くすんだ灰色や薄い褐色の薄汚れたボロを、ラフに着流したような洒脱さがあり、5人が一列に並んで動いている場面は並んでいるだけで目を喜ばせるものがある。
動きの自然さは、言わば意思・感情を持って移動しているかのよう。たとえば他者との距離が縮まり過ぎた場合、その不自然さをさりげなくフォローする術を普段私たちが使うように行使する。ちょっとおどけたり、わざとそうやったんだと見せてごまかす、プログラム化されているとすればかなり緻密な作りだが、この絶妙な按配は、この舞台がわが家であるかのような自然な態度から湧き出ているように私には見えた。要はパフォーマーとして良い状態(良い意味のリラックス)、身体が表現意思の対象との距離を自在に案配している状態が、まるで自分の家に居るような直裁な「心身の状態の伝達」を可能にする。私の感じ方が一般的ならば伝達において相当に効率的なコミュニケーションが生じている事になる。
「意味」は分からない。多彩な場面が数珠繋ぎに現われ、変化するが、変化それ自体には意味はない(昨夜と逆を書いてるが)。ただ断片に人間個体の感応的閃きがあり、それで十分。