満足度★★★★★
文句の付け所のない文学作品の舞台化であるが、学生時代から三度挑んで遂げず、それでもいつか読了し「一応『罪と罰』は読んだ」人生として終えたいと望んでいた作品を舞台で易々と味わう事となり、複雑な心境だ。
・・それはさておき、小説を読み始めの雰囲気、ロシアの片田舎の酒場や価値観の雑然とした風景そのままに、階段式に奥が高い斜面全体が雑多な家具等で覆われ、中段もしくは下段の平場で芝居が展開するが、その雑然と置かれた物を移動する事で(まるで散らかった部屋で座る場所を作るような)場面転換になるといった進行である。茶褐色が埃を被ったようなくすんだ色に、ちょっとした赤や緑や青が仄かに浮かび上る色彩の収め方を確認した上で、台詞に聞き入る。・・娘が体を売って稼いだ金が今自分が飲んでいる酒に化けた事をラスコーリニコフに自虐的に話す親父役の台詞が、早速聞き取りづらい。ラスコーリニコフの台詞も時折聞き取れないのだが、マイクを仕込んで増幅してスピーカーから言語情報を伝えるより、舞台上の世界で展開する現象それ自体を「見る」よう作り手が望んでいると判断し、「見る」のに専念する事にした。
前半は大昔読んだ小説(4分の1も読めていないが)や耳知識で大方理解できたが、後半、予期しない展開もあった。よく出来た一大娯楽作品、とは友人の言だが、小説を読んでいる感覚も想像しながらストーリーを追った。主人公、またその妹もある意味で特殊な人物である事が物語の動力源となっているのは確かだが、ドストエフスキーという作家が一人の人間をその結末へ導くために膨大な文字を刻んだ、そのラストが見せる風景は「特殊」=個体差を超えた人間の姿である。
開幕以降主人公は懊悩に呻き続けているが、主人公が何かに開かれて行く過程を三浦春馬という俳優(初見だったか)は見事に辿っていた。
ドストエフスキーは「悪霊」でロシアの大地に近代というものがもたらすものの本質を抉り出した(小説ではなくアンジェイ・ワイダの映画を観ただけだが)が、「罪と罰」でもキリスト教の本質に触れる「神の赦し」を巡る作品であると同時に主人公の精神の中に(彼が頭脳明晰な学生という設定が示唆的)近代の病弊の典型的症状を描いてもいる。そして「人間とは何か」を問う作品である。
勝村政信演じる主人公と対峙する警官役が出色。休憩込み3時間40分。
大熊ワタルがこういう舞台の音楽もやるとは・・これも驚き。