愛、あるいは哀、それは相。
TOKYOハンバーグ
「劇」小劇場(東京都)
2016/03/30 (水) ~ 2016/04/10 (日)公演終了
満足度★★★★★
素晴らしい!【ゲネプロ】
東日本大震災から5年を経て、被災地を舞台に震災をテーマにした映画や小説が増えてきた。直後であれば現実味があるが、近視眼的になる。今であれば切実・切迫感は薄れるが、もう少し客観・巨視的に見られるようになるだろう。
この公演は、再々演ということであるが、東日本大震災3.11を思い起こすには優れた内容である。少しずつ設定や演出を変えているが、その根幹は揺るがない。脚本・演出が優れていることは言うまでもないが、その描く内容に相まった舞台技術(照明や音響・音楽)が印象的であった。
何をどうしたらよいのか、その出口はもちろん糸口さえも見えないようだ。その解決すべきことが人それぞれの思いと状況によって異なる。感情表現の言葉にすれば、悲しみ、嘆き、落胆であろうか。この作品は、被災した家族の心情を推し量り、葛藤や限界を感じて創っているという、作り手の心優しさが見えるところが素晴らしい。
(上演時間1時間55分)
ネタバレBOX
東日本大震災で被災した人々の形態や状況は様々。そしてその人達の立場によって発せられる言葉は違う。この家族(初演は観ていないが再演時は姉妹という設定)は、親戚を頼り、伊勢市に身を寄せている。このように身を寄せる先がない人々もいることを説明する。
舞台セットは、HOTLINEという喫茶店内...上手にカウンター、中央にテーブル席(1つは花札ゲーム盤)。その店内は細かいところまで細工が施されている。福島県相馬市から親戚を頼って引っ越してきた母、娘2人の家族。この被災者を中心に描いているが、実はこの家族を取り巻く人々を描くことで、この家族の在り様が浮かび上がるという巧みな演出がよい。所在無い家族を気遣う人々...例えば、例年であればこの喫茶店で賑々しく年明けイベントを行っているが、震災があった年越しは自粛するかどうか。家族にとってはどうしたら良いのか、元気付になるか、無神経と受け止められるか、その判断が難しいという。この公演のいたるところで、思いやることの難しさが垣間見える。また娘の高校生活を通して、放射能汚染に対する危惧について説明する。経済的な面も含めて、被災者に対する補償で生活している人々との対比。しかし、それは是非という短絡的な見方ではない。被災した方々の思いや生活状況などは様々であろう。少なくとも、人の感情と暮らしという両輪をしっかり見据え、飽くまで客観的に捉える。そこから観客が自分で考えるという、問いかけがされている。観客の受け止め方も違うだろう。人は自分が見てきた、または経験してきたことでしか現実を判断できないだろう。だから同じ社会に生きていても切実感は異なる。しかし、他者に対する痛みの感覚を無くした人間が、淡々と傍観者になっていることはできない、と自分は思う。
日本は有数の地震発生国という。それゆえ天災と復興を繰り返す歴史の中で、災害慣れしているかも...。災厄に見舞われても”仕方がない”という諦めというか割り切りをする意識もあるのではないか。しかし、今回は地震という天災と放射能漏れという人災が重なっている。この後者の影響により復興が進まないばかりか、将来に対する不安を払拭できない。
震災年(2011.3.11)を軸に、当時は社会をよりよくしたいという雰囲気があったが、災害時だけのユートピア幻想にしてはならない。そういう意味では、再々演ということであるが、何回も繰り返し上演してほしい公演である。
脚本が優れているのは、この土地の伝統、それも遷宮という行事を通して家族への思い遣りを描くところ。日本の良き伝統・風習が、お仕着せの励ましではなく、この地で暮らしていく家族への繋がりが見えてくること。この木遣りの伝承を、役者陣がしっかり演じていた。登場人物のキャラクターがしっかり立ち上がり、実に自然体である。
そして舞台技術の音響は、冒頭の地響き・轟音を始め、素晴らしい音響効果。照明は、季節感(例えば雪景色、春桜舞い)がしっかり出ており、時の移り変わりが体現できるようだ。そして全体的に余韻と印象をしっかり残す見事なもの。
できれば、震災直後の描きとともに、5年経過しても復興の道は険しいと思う。その思いを描いた続編的な内容を描いてほしいような...。
次回公演を楽しみにしております。
if
TEAM 6g
d-倉庫(東京都)
2016/03/24 (木) ~ 2016/03/30 (水)公演終了
満足度★★★★
観応えあり
タイトルから”仮定”に基づくミステリードラマ。その軽快なテンポと推理する面白さは秀逸である。この公演の当日パンフに主宰・脚本の阿南敦子 女史が「(前略)...この情報過多の時代に、自分の知らないこと、溢れる情報に流され真実を見失ってしまっていること、そんなことがたくさん存在していることを知りました。(後略)」、と記している。この文章を読んで、最近亡くなられたミステリー作家・夏樹静子さんのことが書かれた記事を思い出した。たしか、ご自身は就職したことがなく世間知らず、社会をよく知らない、という劣等感が人に聞くという取材力になっていた。その作風には市民社会では一人ひとりが「知ること」が大切であるという。そんなメッセージ性が伝わる。翻って、本公演は今までのTEAM6gの作風と趣きが違い、いや今までもメッセージ性はあったが、それ以上に強く感じる。その描いた内容は、権力機構...その象徴として警察機構を取り上げる。しかし、その捉え方が一方的に観えたのが気になるが…。
ネタバレBOX
連続幼女(誘拐)殺害事件を追う某新聞社。近日中に廃部署になるところにスポーツ部署から異動してきた女性記者・篠原泉(阿南敦子サン)の視点から見たミステリー、サスペンスドラマ。栃木県足利市を中心に10km圏内で起きた5件(1979~1996年)の事件を再調査する。その進展に伴い、当時の所轄警察署のずさんな捜査(信頼性が小のDNA鑑定、自白の強要など)が浮き彫りになる。
この舞台はd-倉庫という天井が高い劇場の特長を活かしたセットを作っている。左右非対称の階段状(床面の緑色は「草」か)になっているが、そのイメージは殺害現場である土手を示しているようだ。もちろん、新聞社オフィス、警察取調室、被害者宅などいろいろな場面に姿を変える。そして役者陣は登場人物のキャラクターをしっかり立ち上げ、安定した演技を観せてくれる。
被害者家族の悲しみは、それを体験した者でなければ理解できない。犯罪...その筆舌しがたい悲しみ、悔しさ等々を伝える。その描きが涙を誘う。
気になるのは、確かに「冤罪」はあったかもしれない。同時に、この公演で繰り返し出てくる台詞...「想像」すること。その先にあるのは、加害者や被害者家族にマスコミは取材攻勢をかけてきたのではないか。それは新しい材料(ニュース素材)がなければ、警察発表を信じるだろう。そして容赦なく取材したと思われる。公演では、再調査を進める竹内誠(吉成浩一サン)の動機が弱い。廃部署での起死回生のスクープ狙いでは単純すぎる、純粋に人権派気取りであれば面白みに欠ける。表層的には警察の問題的捜査、組織的問題(所轄縄張り意識)が描かれているが、同時に被害者の痛みを”知る”マスコミの姿勢が見られたのか...。
報道に限らず、ネットで拡散するデマ、詐欺など騙される恐れはいつもある。だから、何が本当で、何が嘘なのか自問する必要があろう。
「騙されてたまるか 調査報道の裏側」(清水潔 著)
最後に脚本・演出・演技はもちろん、舞台技術の音楽・音響や照明(茂みの陰影、街夜景・星空など)は見事であり、印象・余韻付けが巧い。
次回公演を楽しみにしております。
タルタロスの契り
劇団俳小
シアターグリーン BOX in BOX THEATER(東京都)
2016/03/23 (水) ~ 2016/03/27 (日)公演終了
満足度★★★★
丁寧な作りと確かな演技
北海道新幹線が3月26日に新函館北斗駅まで開通した。この公演では「碧血の碑」の前で、アイヌ人(フクロウ)と内地人(ラバ)がタルタロス(奈落)...勝負からおりないことを誓う。それが70年ほど前の話であるが、今後は陸(鉄道)と空(飛行機)の競争となる。また新聞記事に、この地に漫画「北斗の拳」の主人公・ケンシロウの銅像が建ったとあったが、戦いはマンガの中で...。時代、隔世の感といったところ。
ネタバレBOX
公演は、戦後間もない頃(1947年)から大阪万博前年(1969年)までの北海道函館の雀荘兼売春宿(死語?)の「五稜邸」が舞台になっている。アイヌと内地人の争い、しかし第二次世界大戦の前では、いつの間にか同胞的に戦地に行かされ、死地をさまようことになる。その後、終戦になり生きる気力を失う男たち。一方、色々な事情があるにしても逞しく生きている女たち、その対比も垣間見える。
この函館という寒地を背景に、奈落という深淵に魅せられた(勝負)男たちの戦い(賭け)が熱く語られる。しかし、自分は、「碧血の碑」やイコン画の「山下りん」の名前などが出てくるが、この物語における関係性(土方歳三の血筋の話はあった)が判然としなかった。主題はそちらにあるのか、物語の背景を表現しただけのものか。
舞台セットは、中央に雀卓、上手に”だるま”ストーブ、下手にミニカウンターが置かれている。そのつくりは重厚感があり、物語の見せ所である勝負シーンの緊迫感と相まっていた。時代という大きなうねりの中で虚無的になっている男たち、しかし目先の卓は、遣る瀬ない心を奮い立たせる場でもある。生きがいとは何か、そこに命を懸ける値打ちがあれば、親兄弟まで犠牲にして金策に走る。
一方、女衒の元締め、その悲しいまでの生い立ちが、同性をも食いものにする銭ゲバに成長し逞しさを見せる(「だるま」は俗語で売春婦を意味していたような)。
戦後の混乱期における自我・自立の「虚無」と勝負・賭事への「情熱」というアンバランスな精神構造が当時の人間性を象徴するのか。全体的に丁寧な描きで演技も上手いが、その”勝負事(奈落)”という表層は見えるが、自分にはその現実感と切迫感が分からない。それゆえ感情移入という点においては、今一つという印象であった。
次回公演を楽しみにしております。
第14回公演 『闇細工ふく子ちゃん』 第15回公演 『おまぬけくんと、おかしこちゃん』
劇団天然ポリエステル
シアター711(東京都)
2016/03/24 (木) ~ 2016/03/27 (日)公演終了
満足度★★★★
日常が漫才ネタに…【おまぬけくんと、おかしこちゃん】
芝居は、素舞台の中で完全に役者の演技力だけで観(魅)せる”力”が求められる。そして2作品同時上演企画第3弾ということで、劇団員は両作品に出演している。
その内容は、日常の「夫婦」「親子」に見られる”笑いネタ”を芝居として仕込み、それを更に漫才のようにして見せる。それゆえ前説から本編まで、全てを通して漫才のようであり、その意味でセットなどは不要なのかもしれない。そしてテンポが実に気持ちよく飽きさせない。
ネタバレBOX
夫婦(永沢家)の関係を見ると、夫・善夫(おかざき雄一サン)は失業中のぐうたらタイプ、一方、妻・勝美(やんえみサン)は物事をはっきり言うタイプ、そのチグハグ感がボケ・ツッコミをイメージする。この夫婦を見ていると、映画「釣りバカ日誌」を思い出す。主人公のハマちゃんこと浜崎伝助がプロポーズ...「僕はみち子さんを幸せにする自信はないけど、僕が幸せになる自信はあります」と。その自己中心的でありながら憎めないキャラクターとしっかり者の奥さんの姿が重なる。そして夫は、一攫千金を目指して夫婦で漫才大会に挑戦したいと言い出す。
子供は男・新(浅山敬介サン)と女・理帆子(小島菜奈子サン)の2人...小学生の頃はまだ両親を慕い、作文にもその様子が出ている。しかし高校生ともなれば、ずいぶんと距離ができ疎ましくさえ思い、その関係性は希薄になっている。
また女の子は、映画「きみはいい子」のようであった。自己を曝け出すことが出来ず、”いい子”という殻に閉じ篭って生きている。その不自由さをしっかり描く。その印象付けは見事。
さて、いつまでも居ると思っていた夫であり父親は、病に侵され亡くなる。その時になって、その存在のありがたさ、温もりを改めて知ることになる。
夫婦漫才は夢で叶うことになる...その相方がいない妻が健気に”笑い”を取ろうとする姿は、逆に涙を誘う。それまでには、子供たちやその友達を巻き込みドタバタするが、全ては「漫才」という演目に込められた思いのようであった。
小劇場にして素舞台、そのシンプルな空間はごまかしがきかない。しっかり物語が流れるためには役者の存在が輝くことであろう。役柄のデフォルメした感情が覆いかぶさるように迫ってくる魅力。ただし、その経験値(初舞台者もいた)によって差が観て取れたのは残念であった。
次回公演を楽しみにしております。
丹青の「金明竹は風呂敷の紙入れ」
深川とっくり座
江東区深川江戸資料館小劇場(東京都)
2016/03/25 (金) ~ 2016/03/27 (日)公演終了
満足度★★★★
典型的な大衆娯楽演劇...楽しめたが
初めての劇場、未見の劇団である。初めてのことばかりで、予備知識なしであったが、昭和の大衆(時代)演劇といった雰囲気であった。あくまでイメージであるが、大宮デン助、藤山寛美が率いていたような劇風である。会場は、公共施設に併設されたホールで段差がなく緩い傾斜の客席である。ゆったりシートは心地よい。
舞台セットや衣装、小道具も時代劇のイメージを出す工夫をしており、好感が持てる。典型的な娯楽演劇という感じであり、観客を楽しませようという思いが伝わる。
この公演は、タイトルからも明らかなとおり、三つの落語噺をもとに構成されているが、それがあまりに...。
ネタバレBOX
「金明竹」「風呂敷」「紙入れ」の落語噺であるが、自分は落語が好きなこともあり、其々が融合することもなく繋ぎ合わせただけのように感じられた。あくまでその三噺はモチーフに溶け込まし、この劇団の新たな”江戸庶民の人情話”に生成していればと残念でならない。落語噺の面白さを損なわず解体し、芝居という中に活かすという試み、その融合させる手腕を観たかった。
ちなみに、三落語噺は...
「金明竹」…骨董屋(古美術店)を舞台とした滑稽噺。店の小僧と客のおかしなやり取りを描いた前半部および、小僧と店主の妻が上方者の難解な言葉に振り回される後半部の二部構成となっており、多くは後半部のみ演じられるという。この芝居では、両方入っている。
「風呂敷」…夫の帰りを待つ長屋に、幼なじみが遊びに来る。ふたりで語り合っていると、夫の声がする。夫は覚えが悪く、嫉妬深く、粗暴であったため、「不倫と勘違いされて殺されかねない」と恐れるあまり、幼なじみを押し入れに隠す。しかし夫は押し入れをふさぐような形で横になり、寝込んでしまう。そこに鳶頭(かしら)がやって来る。ことの次第を聞いた頭は、隣の家から1枚の風呂敷を借り、夫を揺さぶり起こす。
「紙入れ」…貸本屋の新吉は出入先のおかみさんに誘惑され、旦那の留守中にせまられていた。そんな時にいきなり旦那が帰宅、慌てた新吉はおかみさんの計らいで辛うじて脱出に成功する。しかし、旦那からもらった紙入れを、現場に忘れてきた事に気づく。しかも、紙入れの中にはおかみさん直筆の『恋歌』が書かれた手紙が入っている。
現代社会…政治に目を向ければ”きな臭い法”が、経済では大企業が不祥事の数々、終身雇用が終わりを告げ、何歳になっても絶対的な立場などない不確実な時代になっている。そんな閉塞感漂う時代だからこそ「笑い」のある娯楽(芝居)は大切であろう。
次回公演を楽しみにしております。
さよならに橙色が霞む(ご来場ありがとうございました!
劇団えのぐ
遊空間がざびぃ(東京都)
2016/03/24 (木) ~ 2016/03/27 (日)公演終了
満足度★★★★
珠玉&珠玉の連作のような
観劇した日は、すでに春分の日を過ぎていたが寒かった。本作は劇団の番外公演として、2人の作・演出家(松下勇サン、佐伯さやかサン)が同じタイトル・同じ場所でそれぞれの物語を書いている。同じように見えて違って見える橙色が、今回の「えのぐ」色である。その内容は気温は寒いが心は温かくなるような話である。春分の日(2016年は3月20日)の前後3日間を合わせた7日間を「彼岸(ひがん)」というが、この時に“ご先祖様”の墓参りをする人が多いと思う。そして彼岸に欠かせないのが、牡丹餅(ぼたもち)である。この包まれた餡(あん)、その素になる小豆は邪気を払うと考えられているそうで…。このチラシにある舞台セット、駅を比喩として人と人の出会いと別れがしっとり描かれる珠玉な両作品である。なお、別々の物語ではあるが、そこはしっかり連作風にまとめる。
(各45分、途中休憩なし)
ネタバレBOX
舞台は本日廃線になる某ローカル線の駅(道曳-みちびき)ホーム。そこにベンチが置かれている。駅の雰囲気を出すため防護柵や白線。
まず松下作品…主人公の男(25歳)が、友人(医師インターン)に余命が後わずかと告げられ、4人の幼なじみとの思い出を回想する。疎遠になったがゆえに、気になり身近に感じる人、2度と聞けなくなるから、胸の中で反芻する言葉がある。不器用であるから、あえて深く交わらない。しかし出会いがあって別れるまで、そこに流れた時間は永遠の一瞬として照らし出される。もう夜明け...そこに見える朝焼けは橙色である。
次に佐伯作品…こちらも余命がわずかという婦人を、死神専門学校の生徒があの世へ導くまでを描く。この生徒(学籍番号の末尾が…9)がなかなか卒業できない。要は寿命がきている人を導けず落第している。導くためには、その人の想いを叶えること。さて、この婦人は亡くなった夫を待ち焦がれている。既に亡くなっていることは承知している。はたして、この婦■◇人の望みを叶え無事卒業できるか。鐘が鳴る夕方、そこに夕焼けの橙色がまぶしい。結果はルール違反があり、以降33回も落第している。
さて、「9」は、「終わらせない」「できないことだらけの現実を受け止め、失敗したり苦しんだりしつつ、安易な幕引きに頼らない生活を送る」こともあるという。中国では、永遠を意味する「久」と同じ発音の「九」が好まれるらしい。そして落第を続けること33回を数える。それは三回忌、七回忌などの回忌上げの回数と言われ、個人から”先祖“になることを意味するという。まさしく、公演にある生生世世のようである。
観たことがあるシチュエーションであり、重厚感があるわけでもない。しかし、逆に優しく見守られているような安心感がある。それは、強調した色ではなく、淡く霞むような…そう橙色という印象である。
最後に冒頭シーン、少し強引に思うが、この駅で自殺を図ろとした少女がこの話の繋ぎとなる。それは是非劇場で…。
次回公演を楽しみにしております。
死に顔ピース
ワンツーワークス
赤坂RED/THEATER(東京都)
2016/03/18 (金) ~ 2016/03/27 (日)公演終了
満足度★★★★★
生きたいを強く意識させる秀作
人は誰でもいつかは死ぬ、その年齢に違いがあるだけということも解っている。それでも生きたいと思う(この劇団でも描いた「自死」という問題もあるが)。人は生まれた時から死に向かって生きることになる。そうであれば何故生まれてくるのか...まさに”生まれ出悩み”である。
本公演は、末期癌患者の在宅医療に関して描いたものであるが、実話をベースにしているだけにリアリティがある。その脚本は取材を重ね、演出は物語をしっかり印象付ける。そして役者は、一人何役もこなし、また人生観に対する変化に伴うキャラクター作りなど、其々の役者の人物造形も見事であった。
ネタバレBOX
自分の身近にも胃癌になった友人がいる(再発経過観察の5年は過ぎた)。”末期患者の在宅医療”におけるあり方を、本人・家族・在宅医療チームの視点から周密に観る(「診る」のほうが相応しいかも)。
この舞台セットは客席寄りに白い椅子が横一列に並ぶ。その上に役者の顔写真パネル(遺影のようである)が置かれている。舞台三方は上部が縦格子(スリット)になった仕切り壁(途中で可動し舞台スペースが変化)で、これは全面黒である。この白と黒の配置は鯨幕という感じである。冒頭は一人ずつ職に対する希望を述べるが、写真...人はみんな死ぬことをイメージさせる。生まれたときから死に向って歩くという、究極の不条理。
梗概は、大学病院で最先端医療に携わっていた医師が、同僚・後進の医療ミスの責任をとり、地方開業医になる。一方、看護師として働いていた40代女性(離婚し独身)が末期癌に侵され余命数ヶ月と宣告される。医療を続ける場所は、病院か自宅か。新聞記事を読むと、多くの患者は自宅を選択するとあったが、それは家族を始め周りの人への負担が掛かることも意味する。先の開業医と自宅で医療を受ける患者とその家族の心温まる話に滂沱する。患者には、まだ両親が健在で娘も2人いる。働き手の中心であったことから、経済的負担も相当だろう。そして、看病する家族の精神的・肉体的負担がしっかり描かれ、終末医療の問題・課題が浮き彫りになる。医療チームは、患者に対して は”笑い”で「生」へ繋げる励まし。そして家族へは”たまには泣いていますか”という労いの言葉。あまりに心に沁み込む台詞の数々。
さて、自分の周りで大病した人は、宗教(入信)へ...やはり救いは神や仏にすがるのだろうか。公演では直接描かれなかったが、最期に人は、どこか拠りどころを求めるのだろうか。
次回公演も楽しみにしております。
麻雀ブラボー!!
劇団さかあがり
シアターシャイン(東京都)
2016/03/20 (日) ~ 2016/03/21 (月)公演終了
満足度★★
もう少し前提の説明がほしい
舞台セットは、チラシの説明のとおり麻雀勝負が見て取れるようなもの。しかし物語の面白さは今一つという感じであった。その要因は、物語の設定・説明不足が大きいと思う。なぜ、文芸部とコンピューターサイエンス部が麻雀勝負をするのか。それも文化祭の伝統行事になっているらしい。そして、何故肌を見せるような演出が必要なのか、その必然性が分からない。
(上演時間2時間)
ネタバレBOX
当日パンフから、作・演出の木村晃純 氏によれば、将棋や囲碁はプロと素人の実力の差は歴然とする。その勝負事は盤面から平等(基本、将棋は同駒の配置、囲碁は無石の盤面から開始)であり、棋力に勝るほうが強い。その点、麻雀は配牌の段階で競技者(基本4人)に不平等(積み込みしないという前提)なところから始まる。これを人生(貧富等、生まれながらの不平等)に準えている。
セットは中央に雀卓、上手にホワイトボード、下手には本棚(賞状など)が置かれている。床は雀卓面(緑色)、天井には「牌」の形をした複数のオブジェが吊るされている。
文芸部とコンピューターサイエンス部という取り合わせが面白い。勝つため文芸部は以心伝心という精神論で臨む、一方コンピューターサイエンス部はパソコンソフトによる解析という技術論で対抗する、まさにアナログとデジタルの対戦である。さらに、この二つの部に対する拘りとして、「牌」...これには「東」「西」「中」などの「字牌」と「一萬」「二萬」などの「数牌」があるが、これも文芸とコンピューターという言葉を意識した設定であろう。勝負の結果...最後は両部員が手をとりフォークダンスを踊る。まとめるとすれば「心」と「技」の両方が大切ということだろうか。
両部を結びつけるきっかけが、其々の男と女の恋愛である。これまたファジーな世界が、リアルな真剣勝負の世界に入り込む。しかし、物語の展開が緩く、また不明なシーン(例えば男性の褌姿、女性の上半身が水着)があり、何を意味しているのか。そして仙人は単なるニートのようであるが、その登場(存在)における役割は何か。プロットは面白いと思うが、本筋での必然性と結果、それを体現する魅力がほしい。
次回公演を楽しみにしております。
愛せ、讃えよ、我は幻覚の王
レティクル座
d-倉庫(東京都)
2016/03/19 (土) ~ 2016/03/21 (月)公演終了
満足度★★★★
もう少し整理できれば...勿体ない
タイトル”幻覚”という言葉は、最近のニュースでは薬物問題に目が向く。この物語での幻覚は厳格に通じる王道を示すようであった。これも最近話題の「保育園落ちた、日本死ね!」という匿名ブログ、この対応が後手に回った政府...その結果、この問題に直面している人々の反感を買ったことを連想した。玉座からは庶民の暮らし向きを感じることも、見ることもできない。
この公演は、多くの時事ネタを盛り込み面白いが、芝居の演出としては、回想・邂逅シーンが多く冗長にも感じる。また本当に必要なのか、疑問に思うシーンも...。もっとも、その受け止め方は観客の感性によるもの。自分は演劇評論家でもなければ、見巧者でもない。劇団サイドの率直な感想を...それに呼応するとすれば、緩いサスペンスストーリーという印象である。
ネタバレBOX
舞台設定は、「惑星ツィーファーにある唯一の国家『フェリア国』。この国のほかに人類は存在しない。惑星全体は赤い砂漠に覆われており、旧人類がテラフォーミングした、北海道程度の面積の場所で400万人が暮らしている。」ということらしい。
その舞台セットは、中央に2階部、3階部(玉座のような)に相当する高さまでの階段を組み、上手・下手にも階段、傾斜のある通路がある。中央階段部は赤い絨毯が敷かれている。
この国は、大別すると王(貴)族、マフィア、スラム民に分かれるという、典型的な階級社会になっている。統治していた王が殺され、その子が若くして即位する。この国はアレン(アヘン)が 流通し庶民生活・健康が蝕まれ、貧困に喘いでいる。この悪を排除するため、若き王はマフィアと対峙するが、大きな抵抗にあう。さらにマフィアはスラム民をも巻き込み、若き王を翻弄していく。その混乱から混沌とした世界(社会)が生み出される。人質の処刑などは、現実のテロ集団を連想させる。自分の正しき信念は、世間知らずの独りよがりであることを認識する。しかし、その認識するまでには多くの犠牲が...。
”盲目の国民”という、鋭い問いかけ。王(リーダー)という立場は孤独であり、玉座に居ては耳目が無に等しい。物語は、教訓的要素も多分にあるが、コミカル、スピード感ある演出はよかった。一方、同じシーンへの繰り返し、不要・不快と思えるシーン(例えば、半桃 尻など)は整理し、真に観客に伝えたい物語にすべきであろう。
さて、当日パンフに作・演出の阿部慎太郎 氏が「(略)…簡単にお互いを褒めあえる今の現状は、時に自分の評価されればされるほど、芸能人やアイドルになったような錯覚を引き起こします。この錯覚によって個人の『承認欲求』は肥大化します。以下略」と書いている。批判評を受けることで次回作品への糧としている節もある。
次回公演を楽しみにしております。
俺が妹(30)を好きになるはずがない
ソテツトンネル
新宿眼科画廊(東京都)
2016/03/19 (土) ~ 2016/03/21 (月)公演終了
満足度★★★
不思議な空間演出...嫌いではない
全面が白い空間(場内)、そこにいくつかのBOXが積み置かれている。始まると同時に役者が片付けるように上手、下手に運び並べる。何の意味があるのか分からなかったが、時間軸の整理のようであった。この物語は、タイトルを素直に受け入れるような兄・妹の恋愛感情を描いたものではないようだ。
また、この物語に出てくる動物の扱いは、住民・街にとっては切実なところもあるらしい。それを、さらりと表現するところはうまい。
しかし、この話の時間軸はどちらの視座から観ているのか、その曖昧さが自分の意識を混乱させ、今ひとつ物語に入り込めなかった。
ネタバレBOX
一時、ネコとハンバーガーショップの名を掛け合わせた”ネ〇〇ナルド”なるネーミングが都市伝説のように流布したことがあった。
この物語における田尻妹の起業動機は、ハクビシン(ジャコウネコ科)の保護。それから時を経て、今度は持て余したのか、中国へ(輸)出しているらしい。たまに地方新聞などでハクビシンによる害(農作物、悪臭など)が報じられるが、「鳥獣保護法」により駆除対象となっていない。実害を理由とした、鳥獣保護法に基づく都道府県などの許可(「有害鳥獣」認定)が必要で、「住宅街をうろついている」など民間人の予防的捕獲は許されていない。この起業の背景にはこんな事情も垣間見える。妹の現況は、先のハクビシンに対する取り扱いが法に抵触しているため、関係者(同僚)から逃避しているようだ。
さて、兄妹の恋愛的な関係を示唆するようなタイトルである が、実のところ、兄は妹の存在を(積極的に?)隠し、恋人と付き合っていた。この兄は妹の起業資金を援助しているが、恋人にしてみれば存在を知らされず、金銭的援助までしていることから、近親相姦の疑惑・妄想をいだく。
この歪な関係性が緩く、少し怖く描かれる。なお、兄の恋人の存在は過去(2016年)の回想で、現状(2021年)は逃避行生活を続けているのであろうか。この時間軸(5年間)の視座が判然としなく混乱した。
演技は、田尻妹(吉田啓子サン)の気怠い(アンニュイ)ような動き、田尻兄(杉元秀透サン)のニヤケタ優柔不断な態度が不思議と印象に残った。
なお、中国ではハクビシンを料理(煮込み)しているらしいが、この話の中でも田尻妹は同僚へ煮込み中のカレーをすすめ...。
次回公演を楽しみにしております。
在りし日の街
21g座
明石スタジオ(東京都)
2016/03/17 (木) ~ 2016/03/20 (日)公演終了
満足度★★★★
疾走する故郷の街
「在りし日の歌」は、言わずと知れた中原中也の詩集。そのうちの1編「冷たい夜」は、「冬の夜に 私の心が悲しんでいる 悲しんでいる、わけもなく…心は錆(さ)びて、紫色をしている。(以下省略)」...この公演は、郷愁に溢れた内容をイメージしていたが、自分の思っていたものと違っていた。その違いは、タイトルと描いた物語のギャップに驚かされたもので、グイグイとこの話の中に引き込まれた。物語に何回も出てくるシーン...夜空に輝く星座を見上げる。
この公演の魅力は、デフォルメした人物造形、スピード感とテンポの良さが飽きさせない。細かいことを言えば、リアルティに欠けることから、突っ込み所はあるが、それを追いやる勢いがある。
(上演時間2時間強)
ネタバレBOX
夢破れて故郷に帰ってきた女性・青柳サナエ(豊田奈々サン)が、上京するまでの人(幼なじみ)や街が変っていたことに戸惑いを感じる。人は立場、状況・状態など時間の経過によって変る。人が変れば街も変り故郷の匂いが薄れるかもしれない。そして、そこに事件が絡めばなお更である。
梗概は、上京して歌手を目指した女性・サナエが故郷の四ツ木町へ帰ってくる。大人になった幼なじみは、家業(印刷工場)を継ぎ、金貸し、ヤクザになり地元に残っている。この街は24年前の偽札事件、時計台殺人事件の2つの事件が縺れ、さらに市町合併の渦中にある。サナエは、街の秘密に翻弄されつつも、事件を追う刑事、合併に絡む国会議員などが入り乱れて、縺れた糸を解くように事件の真相に迫る...サスペンス・ミステリーである。
大都会・東京(歌舞伎町)と四ツ木町というローカル都市を比較した都鄙(トヒ)感も語られるが、それよりも強調した人物像(キャラクター)、独特な説明・決め口調の台詞回しが印象に残る。
この物語から思い描く言葉は、「ふるさとは遠くにありて思ふもの」(室生犀星)...であるが、ここでは自ら渦中に入り街の健全化に奔走する姿が映る。人は、自分の思い出の持ち方次第で、現在をいっそう光に満ちたものにすることも出来れば、暗い影の中に包み込むこともある。本公演、思い出に浸るだけではなく、未来に向けて大きく歩き出そうとしている。2015年旗揚げの劇団「21g座」のこれからの姿に重ね合わせることが出来よう。
なお、いくつか気になるところ、例えば殺人事件にもなれば現場付近は徹底的に調べ、地下工場などは簡単に発見されるだろう。もう少しリアリティがほしい。しかし、あくまで”楽しむ芝居”に徹し、広げ散らかしたピースを回収するように努めていると思う。荒削りのような感じもするが、こじんまりせずスケール感を大切にしてほしい。
次回公演を楽しみにしております。
「安全区/Nanjing」ご来場ありがとうございました。
メメントC
Geki地下Liberty(東京都)
2016/03/17 (木) ~ 2016/03/21 (月)公演終了
満足度★★★★★
小説では一人称の語りになるが、芝居では登場人物のそれぞれの視点から感じ、思い、その重層するような思考が緊密に表現されていた。全体としては骨太で硬質な作風に仕上がっていた。戦局の急展開、その限定された時間に合わせた濃密な会話に緊迫感が溢れる。戦争という理不尽にして無慈悲な人間ドラマは観応え十分であった。
ネタバレBOX
堀田善衛の小説「時間」が原作。堀田氏の小説は自分が20代の時に「孤独の広場」(昭和27年1月・芥川賞受賞)を読んだだけだが、その印象は硬い文章のような記憶がある。
作・演出の嶽本あゆ美女史は、原作と言うよりは堀田善衛という作家の著作に魅せられたようで、当日パンフ..B4版二つ折りの片面全頁を使って小さな文字で熱い思いを書き綴っている。ほぼ書き出しで「『世界の見方』を根本から変えてしまった」と記している。その思いを明確に描き出した秀作だと思う。
舞台セットは、中国風の螺鈿屏風、机などの調度品を配し臨場感を漂わせていた。その舞台美術は隙がなく、物語も緩い遊び心なども入れず、最後まで緊張・緊迫感という硬質さを貫いていた。
梗概…1937年、中国・南京を占領した日本軍は暴虐のかぎりを尽くした。掠奪、陵辱、殺戮という非道の数々。この人倫の崩壊した状況下で人が為しえることは何か。そして日本軍が撤退することになり…。南京事件を中国人知識人の視点から観せる。
現在でも世界中のどこかで「紛争」「戦争」という”人食い鬼”が跋扈している事実…人類最悪な不条理、その問題を自らの問題として受け止めることが難しくなっている。人は自分が見聞きした出来事の中でしか考えられない。その先にある不幸な出来事を想像することは出来たとしても、現実感が伴わない。時代という状況に嵌め込まれて自分が何を行っているのか解からないうちに、理不尽なことに関与(巻き込まれて)していく。主体的な、自覚ある「行為」でないため責任も希薄。
国家は自国の体制・権力を守ることに専念し、人は歴史の中に消えていく。だからこそ、個々人の記憶を残し、語り継ぐことが大切になる。人間として、どのようにこの時代の中で生きていけばよいのかという事を「時代の動き」を読み取り対応して行く事が重要、そんな思いにさせられる。
公演は、中国という地における戦況の変化、それに伴って人の本能・本質という心の在りようも動く。大きな世界観に翻弄される人間の慟哭が聞こえるようだ。それを役者陣(6名)は、登場人物のそれぞれの性格と立場を確立し、切迫した状況をしっかり体現していた。物語の重厚さに負けない、その重圧のような雰囲気を凌駕するような演技、その役者間のバランスも素晴らしかった。
次回公演を楽しみにしております。
夏の夜の夢
チョコレートカンパニー改めディ・ショコラーデ
【閉館】SPACE 雑遊(東京都)
2016/03/16 (水) ~ 2016/03/20 (日)公演終了
満足度★★★★
人生は夢...その世界にいる間は心眼で見る
この「夏の夜の夢」は、約420年前の戯曲...、そしてシェイクスピアの戯曲はこれ以外にも多く上演されている。その魅力は...。
さて、当日パンフの演出・林英樹 氏によれば、今回公演は階級社会(第5幕)について言及したかったようだ。初演当時は厳然たる階級社会で、本来なら出会うはずのない貴族階級と職人階級が交わるところまで演じた。翻って、現在の日本...階級社会における意味は階級がない(と思われている)現在では無効か?と疑問を呈している。政治・官僚・財界層の政争や利権争いと明日の不安を抱えながらも日々暮らしに賢明な庶民を重ね合わせたら、この劇はどう見えるのか。
この公演は、分かり易い展開であるが、逆に既知のもので新鮮味が感じられないのは仕方のないことか。例え、先に記した階級に拘った観せ方であっても、その意図が十分伝わらなければ既視感覚だ。
冒頭の照明(色彩)は、雰囲気を醸し出す効果があったが、それ以降のシーンにはその魅力が感じられなくなったのが残念である。
ネタバレBOX
舞台は二方向(変形L字型の客席)から観るようになっており、セットは舞台側の壁にレースのような布が幾重か垂れ下がり、部分的に蔦も絡まっている。そのレースにカラフルな色彩光を照射し、幻想的な世界が広がったが...。
この作品は喜劇に位置付けられるが、その世界観は”あれもこれも”の何でもありで、そこには矛盾も内在する。時に、人は愛する人を拒み、愛していなくても求める。それが”花の力”を借りたとしても矛盾が矛盾のまま混在する-それが喜劇で世界であろう。もっとも人間らしさを考えた時、機械と違って理論通りに行かないのが人間である。今回の劇で言えば、恋に悩むことは反理性的であるが、そこには人間らしい矛盾も見える。それは愚かしいことであり、愛らしいことでもある。シェイクスピアの多くの喜劇に道化(=愚者)が登場するが、この劇でも職人が道化役、妖精が愛し役であろうか。
矛盾する世界では、真実・正義は一つとは限らない。物事の視点を変えると違って見える。重要なのは、心眼で物事を捉えること。この「夏の夜の夢」でも、”恋は目でなく心で見る”という有名な台詞が聞かれた。ちなみに、台詞回しの妙、テンポの心地よさは秀逸。
気になったのが、階級という対立構図の中で、それを体現する役者の演技力に差があったように思う。貴族階級の役者陣の熱演、一方、職人階級のぎこちない(「劇中劇」という演出か?)ような感じに違和感を覚えた。
重要なのは、心の目で物事の善悪などを見極めること。心の目が塞がれ、目先の利益や快楽といった表面だけに惑わされることが多くなった昨今、本当に大切なことは心の目でしっかり捉えること...何百年の時を経て、今の世に訴える力がある。そこにシェイクスピア戯曲の魅力があろう。
チョコレートカンパニー改めディ・ショコラーデは、シェイクスピア作品を上演し続けている。
次回公演も楽しみにしております。
Blackbird ブラックバード
幻都
APOCシアター(東京都)
2016/03/16 (水) ~ 2016/03/21 (月)公演終了
満足度★★★★★
激しい会話と…
舞台セットは、登場人物の心の内を映し出しているようだ。この翻訳劇は、心奥にある思いを激しくぶつけ合う、そんな濃密な会話で成り立っている。この公演、舞台美術はもちろん音響・照明という技術が印象的であった。戸外から聞こえる走車音、心情の変化に伴う照射光の違い。狭い空間に二人しか登場しないから、その芝居にメリハリを持たせる工夫であろうが、実に効果的であった。
演技は素晴らしい。しかし、女が(下手)床に横たわるシーンは後部座席から観難いと思うし、台詞も聞きづらくなるので、工夫が必要だと思う。
この作品には、現在の”児童ポルノ”に通じる問題も想起させるような...。
英国が「児童の権利に関する条約」を締結していたかな?
(上演時間 1時間35分)
ネタバレBOX
公演は、ある事務所の一室に男女が縺れるように入ってくるところから始まる。その室内は、中央にテーブル、椅子やダストボックス、上手にロッカー連、下手壁は曇りガラス窓とドア。テーブルの上はもちろん、床の各所にゴミが散乱している。そして室内全体が荒廃し寂寥感が漂う。
冒頭、何の目的でこの女(中村美貴サン)が来たのか、それが分からない。サスペンス風であったが、そのうち少女期(12歳)に、この男(大森博史サン)と性的関係を持ち、当時から現在までの苦しみ、恨みごとを訴えに来た。男は、今の幸せな生活があること、当時の言い訳と刑務所で悔悟したことを説明する。この互いの思いを綴る15年間の回想話。その会話はあちらこちらに漂流(女は世間の冷たい目に晒されつつも同じところに住み、男は名前も住むところも変えるという対照的な生き方)するように揺れる。そのうち、男は苛立ち、激高しゴミを蹴り散らかす。それがいつの間にか二人でゴミを蹴り、投げることで、過去の蟠りを払拭するかのような行為...狂気が狂喜に変わり冒頭の憎悪が浄化され愛情へ変化していくようだ。
男女の関係になるのに年齢差は関係ない(当時男は40歳、女は12歳)。男の”性癖”がクローズアップされ、情交しようとしたところで暗転する。そして明転すると10代と思われる少女(山岡愛姫サン)が入ってくる。この男の子供(実子か妻の連れ子か判然としない)だという。しかし、時を経てもその性癖は...と思わせるようなラストシーンである。
「大人は嘘をつく」という台詞…純真な少女が、無垢な気持を弄ぶ性癖の男へ放った痛烈な非難。一方、それでも愛を確認したい、少女から女性へ成長しても、そこは女の”性“なのだろうか。その愛憎、哀切さが心に響く。
次回公演も楽しみにしております。
ベター・ハーフ
劇団しおむすび
パフォーミングギャラリー&カフェ『絵空箱』(東京都)
2016/03/11 (金) ~ 2016/03/13 (日)公演終了
満足度★★★★
微温的な展開から...
現代若者の恋愛模様が切なくも悲しいように展開される。どうしてもこの脚本「ベター・ハーフ」(鴻上尚史 氏)で公演をしたかったとは、劇団しおむすびの喜田光一氏の言葉。奇しくもこの公演を観た前日(2016.3.10)に日本劇作家協会会長に就任(2016.3.1就任)したことが公表された。
物語は、インターネット普及により男女の出会いにバリエーションが出来たが、いまだに恋愛に慎重または奥手のような若者が初々しく描かれ微笑ましい。その一方で、マイノリティーに関する社会的問題を絡め、単なる恋愛話にはならない。
脚本は面白いが、それを体現する演出と演技が追い付いて行かないように思われた。
ネタバレBOX
梗概は、出会い系サイトで知り合った女性に自分の写真と称して部下・諏訪祐太(喜田光一サン)の写真を送る沖村嘉治(石川剛サン)、沖村の代わりに女性とのデートに行くことになってしまう諏訪、沖村とインターネットで知り合ったトランスジェンダーの小早川汀(根本理菜サン)、沖村と直接会うことをためらう小早川の代わりにデートに行く小早川の友人・平澤遥香(岡本知里サン)の4人が織り成す恋愛模様を描く。
舞台セットは簡素であるが、妙に艶かしい雰囲気がある。中央に白いシーツ(スクリーンの代用効果もある)、上手に別空間をイメージさせる台、下手はピアノが置かれている。それらの空間(天井も含め)に赤い紐が巻き、垂れるように掛かる。運命の”赤い糸”を象徴するようで、薄い紗の掛かった物語にリアルな男女の関係が観えてくるようだ。出会った以降の進展は、まだインターネットの普及や携帯電話がない頃、男女の距離を縮めるのに時間が掛かったもどかしさが垣間見えてくるから可笑しい。人と人を介するツールはあっても、実際会って生身の人間同士が理解するのは、時代を経ても同じなのだろうか。その男女関係にスパイスとして効いてくるのが、トランスジェンダーという性の本音。創作された恋愛劇であるからこそ、現実と夢、建前と本音、快楽と時間の流れも自由自在にできる。その面白さを十分に表現しきれていないところが残念であった。
その第一は、この物語の登場人物は30代半ばという設定であるが、キャストは全員20代前半のようで、社会的経験値が観てとれない。次に時の流れであるが、映写で経過年月を表示するのみ。女性は何度か衣装を変えているが、男性は同じ服装のまま。少なくともネクタイを変える、コートを着(冬場)、上着を脱ぐ(夏場)などの季節感を出し現実味が伝わると良かった。時の流れは、人の気持、感情を左右する大きな要因であり、世相をも表すから。
それでも若い役者が真摯に取り組んでいる公演ということは感じられる。この恋愛話はトランスジェンダーという点を除けば、誰もが似たり寄ったりするようなものであり、それだけにもっと自分たちの年代に近く、等身大な恋愛に置き換えたら...。色々な場面で効果的に奏でられる音響・ピアノ、歌など魅せる工夫は好感が持てる。その脚本の力と魅せる工夫が、観客(自分)の神経を甘噛みしてくれた。
今後の期待も込めて★4です。
次回公演を楽しみにしております。
『BET』
ラチェットレンチF
上野ストアハウス(東京都)
2016/03/09 (水) ~ 2016/03/13 (日)公演終了
満足度★★★★★
BE(S)T…最高!
すぐ物語へ引き込まれるような、本当に楽しめる公演である。「バレなきゃイカサマじゃないんだぜ?」というチラシに力を得て、公演内容が分からなければ、少しぐらいネタバレしても構わない?それでも説明文を引用して批判されないようにしよう。
「限界まで追いつめられた俺は作家にとっては禁忌とも言える『禁断の果実』に手を出してしまった。それは届けられたファンレターの中にあった『ある人物の物語』だった。」この引用文だけでも興味津々であろう。
ネタバレBOX
当日パンフに主宰・脚本の大春ハルオ氏が「ラチェットレンチも11回目となり、コミカルサスペンス作品を3本、落語サスペンス作品を3本、カットバックで魅せるサスペンス作品を5本書いてきた」と...結論はサスペンス好きということらしいが、本作品も例外ではない。その観せ方が実に軽妙・コミカルでありながら、社会サスペンスという緊張・緊迫するようなところへ連れて行かれる。その時には既に前傾姿勢でのめり込んでいる。
梗概の一部は書いたが、以前は売れっ子サスペンス小説家がスランプになり、編集部から最後通牒を突きつけられたところから、物語は始まる。劇中劇であり、その手法にはカットバックも観える。「事実は小説より奇なり」という言葉を聞くが、まさに自分の知らないところで仕組まれたレールを疾走する主人公・梶野達也(大春ハルオ サン)の姿が滑稽である。しかし、いつの間にかストリーテラーのような役回りを担っている。
物語が進むにしたがい、登場人物の立場が変わり、従えたサイドストーリーも漂流するかのように揺れながら一つの目標(真実)に向かう過程が面白い。編集者の市原牧子(山﨑さやかサン)の”貴方には何が何でも書いてもらわなければ困る”と言った趣旨で脅され、自分の心と折り合いをつけながら書き進める...それはファンレターという名の告発書。そこには某市で起きた事件をなぞったものが書かれ、それをフィクションとして発表し好評を得る。いつの間にか”バレなきゃイカサマじゃないんだ”という自己防御しつつ、一方の興味本位が真実に近づいて行く。芝居という中の小説か、小説の中の芝居か判然としなくなる中で、ページをくくるように、次のシーンを手繰るようになる。
脚本や演出は勿論、役者陣のキャラクター作りが見事。しっかり体現できており、バランスも良かった。時代の変遷にあわせ、登場人物の役者も変わるが、その錯綜するような構成でもしっかり対応する。そして何より謎解きのテンポが心地よい。
この小説家…ギャンブルに嵌まってBET(賭ける)ばかりのようであったが、これを幾に(書ける)ようになったのだろうか。
次回公演を楽しみにしております。
ユーカリ園の桜
BuzzFestTheater
ウッディシアター中目黒(東京都)
2016/03/09 (水) ~ 2016/03/13 (日)公演終了
満足度★★★★★
演劇という文化の中に社会問題を取り込み
「さしのべた その手がこどもの命綱」...その標語が見えるポスターが舞台中央に貼られている。この公演は、前半の軽妙、コメディという観せ方から、後半は重厚、シリアスな展開へ大きく転換する。その落差は大きく印象付ける物語。もっとも前身のTEAM BUZZから得意としているコメディ路線とシリアス路線を融合した作風を追及することにしているのだから、当たり前の脚本・演出なのかもしれない。
さて、この劇場は座席が列間および隣席とが密接であるため、仮に中央に座った場合、身動きが取れない。前作の「ストリッパー薫子」でもそうであったが、開演ぎりぎりまで集客する(劇団とすれば当たり前)。当日券でも観たい客には嬉しいが...。「ストリッパー薫子」の時は、舞台ぎりぎりに座布団を敷いたが、今回は両サイドに増席していた。開演時間遅延に関するお詫びも前作と同様...何か工夫できると良いと思うが(人気劇団の悩みといったところか)。
それでも観客に対する対応は親切・丁寧である。座席への誘導はもちろん、座席下に桜型の敷物があり荷物汚れへの配慮、トイレから出てくる人へのハンカチ提供等々。この気配りが観客(自分)にしてみれば、気持ち良い。
ネタバレBOX
公演は、ドキュメンタリー映画「隣る人」(2011年制作)を観るようで、心が痛んだ。もっとも映画のように日常の生活を坦々と切り取るのではなく、芝居らしいメリハリのある小挿話、サイドストーリーを絡ませ牽引する。それだけにどのシーンを見せ場とするか腐心したと思う。その現れが山場の連続のようである。
この公演は児童養護施設「ユーカリ園」が舞台である。セットは中央に事務机、その奥はベランダ(テラス?蔦も絡まる)へ出るガラス扉、上手には洗面台、応接セット、下手には、ローキャビネット、掲示板。
梗概は、チラシ(封筒)から抜粋し「この春、児童養護施設『ユーカリ園』には、施設を退所する3人の若者達がいた。 それぞれ、将来に対する不安、悩み、葛藤を抱え生きている。 自らも孤児院で育った過去を持つ、戸高陽平ら職員は、そんな若者達の抱える問題に真正面から向き合って行く。 ユーカリ園で巻き起こる、悲しくも心温まる人間模様」である。
この児童養護施設における様々な問題は、現代社会が抱える問題そのものである。その縮図を芝居らしくデフォルメして問題をしっかり浮き彫りにする。その凝縮した思いが観客の心に響く。例えば、18歳でこの園を卒園し、社会(就職)などへ出なくてはならない。親がいない子の就職の難しさ。進学したくても経済的な面で断念しなければならない。(父)親の身勝手で、この園に入所した子を引き取りに来る。さらには、この児童施設ではないが、ここで働く女性職員が、自分が育った児童施設(そこの職員)で性的被害にあったことなど、広範な問題を次々に明らかにする。話しは無理なく展開するが、その問題(山場)がインパクトある演出で描かれることから、衝撃が大きい。先に記したコメディタッチとのギャップが大きいだけによけいその感がある。
ラストの桜が舞い落ちるシーンは感動的であり余韻大。観客席中央を中心に降り注ぎ...素晴らしい演出であった(桜色で花びらを形取るなど細かい)。
この物語の先見性と記したのは、3月9日に観劇したが、10日には児童虐待対策や社会的養護に関する厚生労働省の専門委員会(有識者委員会)が児童養護施設の入所者は原則18歳で退所する必要があったが、22歳までの入居継続(支援)を可能にする報告書をまとめている。ちなみに18歳退所を撤廃出来なかったのは民法改正(成人18歳)の動向が影響した。
現代における社会問題を演劇という文化の中に取り込み、しっかり問題提起する。それは倫理、教訓という教科書的なことではなく、あくまで観て感じさせるというもの。お仕着せと感じる向きもいるかもしれないが、現実にある施設であることも事実。新聞では養護施設にいた人が、同じ境遇の子供を救おうと、施設職員になることを決意した、とあったが、まさにそれを地で行くような公演であった。
次回公演を楽しみにしております。
負け犬ポワロの事件簿
東京AZARASHI団
サンモールスタジオ(東京都)
2016/03/04 (金) ~ 2016/03/13 (日)公演終了
満足度★★★★
長い謳い文句...ノンストップ痛快ドラマチック・シチュエーション・コメディ
推理小説でいえば、後出しジャンケンのように終盤になって次々と色々なことがわかる。自分では、伏線のようなものがあったか判然としないが、突然にタネ明かしされるような気がした。まぁ、そこはコメディなのだろう。些細なことに拘らなければ問題なし。逆に辻褄を合わせようとしても、それは難しいかもしれない。物語(ストーリー)の面白さというよりは、漫画・漫才的な演出と個性豊かな役者陣の演技が楽しめた。娯楽に徹底した芝居は分かり易いが...。
ネタバレBOX
劇中劇の構成...長野県にある某温泉宿、そこに映画の撮影隊が訪れている。この公演では、宿の娯楽室が舞台になる。一時、温泉宿といえば浴衣で卓球という姿が見られたが、この舞台でも真ん中に卓球台を置いて”ピンポン”を行っているところから始まる。そしてTV番組にもあるような湯けむり殺人事件が...。
映画制作に携わる人々、その撮影場所となる宿の女将、さらにラジオ番組制作者が絡み、それぞれの立場を主張するドタバタ。そのうち映画俳優にしてラジオ番組の出演者である男が殺され、その取り扱いをめぐり喧々諤々。また面白半分に犯人捜しを始める人達の勝手な想像。この立場をデフォルメするような観せ方...女性プロデューサー、スポンサー御曹司(その立場を利用した俳優)とその付き人、映画監督・助監督・AD、俳優陣、エキストラ、ラジオ番組制作者(ディレクター、アナウンサー)が映画撮影やラジオ番組の相互協力・牽制などに絡んでくる。
殺人事件、その動機が明らかにされないが、唯一それが伏線であり事件解決の手がかりであったか(もともと殺人事件ではなく、その理由は明らかにされる)?
コメディとして笑わせるという姿勢は見受けられたが、自分は心から笑えたかというとワザとらしさが先に立ち(客観的)眺めただけになった。
次回公演を楽しみにしております。
ストアハウスカンパニー『Remains』
ストアハウス
上野ストアハウス(東京都)
2016/02/24 (水) ~ 2016/02/28 (日)公演終了
満足度★★★
見巧者向けか...とりあえず感性で
タイ:B-floor 『Red Tanks』 、Democrazy Theatre Studio 『Hipster The King』
日本:ストアハウスカンパニー『Remains』 の3つのカンパニーの公演のうち、2本立。自分は日本:ストアハウスカンパニー、タイ:B-floor を観賞。
両方の公演は、その伝えたい枠組のみを提示し、外形の作り込みは観客に委ねる、そんな抽象的なものを感じた。その意味するところを正確に受け止めているか、その意を汲み取っているか、ということを考えた場合、随分と息苦しさを感じてしまう。観ている内容はそのまま無条件に受け入れる、という情報の垂れ流し的な思いで観るのも嫌になる。
人間の五感の演劇を見ているが、その大部分が視覚に頼っている。その(自由)に感じることの面白さは伝わる。
映画「イヌジニ」のコピーで、首輪をはめられることによって「自由」になれた、と言った趣旨のことがあったが、まさしく視覚に頼るだけ(それも大切)、そんなことを感じさせる深いイベント公演。
ネタバレBOX
日本:ストアハウスカンパニー『Remains』… 複数の登場者(キャスト)は、パンストのようなものを頭から被り全身を被っている。そして始めは全員が繋がり、前後・左右に歪になったりして形を変えながら進む。そのうち、その被りものを破き姿を現す。その後、舞台奥に積んである多くの衣類を散乱させ、または包まったり、高く投げたりする行為。登場者はそれらの動作を行うが、必ずしも揃っていない。基本的な動作であるが、その形容は自由。自分は、多くの卵の産卵、ふ化し、自由を謳歌するというイメージを持った。
タイ:B-floor 『Red Tanks』 … 一人の登場人物は、ランダムに置かれている赤いタンクの一つから出てくる。そのうち、タンクを並べたり、転がしたりして遊びだす。嬉しそうであるが、その行為は何時までたっても一人のまま。自分は孤独・断念・追想・死(赤=血)のイメージを持った。
日本、タイ両国の演技はどちらも表意があることは感じられるが、その表現は抽象的であり、自分には真意を汲み取ることは難しかった。
人の五感...風景は目で見、音は耳で聞く、鼻は匂いを嗅ぎ、舌で食事を味わう。そして物を触り感じる。五感は個別化して機能するのではなく、相互に密接な関わりを持ち外界と接している。
この公演は、それらの要素を超えた第六感、またはもっと違う何かで思い感じるもののようだ。その意味で無意識の”慣性”で観ている公演(芝居)とは一線を画し”感性”を豊かにして観るべきものかもしれない。
ちなみに、当日パンフの説明抜粋すると、
日本:「Remainsには、いわゆる一般的な演劇においていわれている「役」がありません。:Remainsは役を放棄し、あるいは奪われ、人間を徹底的に固体としてみることを強要します。それは自らを家畜化してしまった人間の感覚、感情ではなく、動物としての人間の感覚、感情を感じてみたいというRemainsの欲望に他なりません。Remainsの虚構の水準はそこにあります。」と結んでいる。
タイ:男はRed Tankに入れられた後、生き延び、忘れられない記憶と共に目を覚ました。Red Tanksは、違法であると当局に判断された犠牲者の物語である。これは40年前にタイ南部で実際に起こったできごとに触発されている。
次回公演を楽しみにしております。
クラッシュ・ワルツ
刈馬演劇設計社
こまばアゴラ劇場(東京都)
2016/02/26 (金) ~ 2016/02/29 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
ありふれた日常から...切ない
舞台セットから、これから先に描かれる内容が想像できるような丁寧な作り。開演までに流れる、微かな波の音、船の音、その静寂な雰囲気が突然ドタバタと...冒頭演技はそれまでのしじまを破る。そのギャップは計算の内なのだろう、すぐに物語に引き込まれた。物語はどこにでもある(海辺)街角、3年前にそこは運命の十字路になったという。これからの話は、それこそ初演時の前に起こった出来事を意識していることは容易に想像できる。
(上演時間90分)
ネタバレBOX
舞台セット...和室内、その壁は鯨幕のような白と黒を基調にし、真ん中に長座卓が置かれている。これまた青幕をイメージした座布団。部屋の周りに白い花が咲いている花壇(供花イメージか)。物語は交通事故の加害者、被害者元夫婦、事故現場に住む夫婦(第三者)という立場が異なる大人のそれぞれの思いと思惑が絡んだ濃密な会話で進む。通常であれば、第三者は入り込まないのであるが、直接事故に関係ない人たち(夫婦)を登場させ、その会話の中で東日本大震災を想起させる。加害者女性が十字路に供花しているが、そのために売却を予定しているこの家が事故物件扱い(縁起が悪い)になり、売却価格が下がるという。この金銭的問題と併せてこの家の主婦が自責の念に苛まれる。そぅ、近所にいるからこそ交通事故の予見可能性を感じ取る。それにも関わらずどこにも相談しなかったと嘆く。直接事故に関係しないが、風評被害、二次被害、三次被害という言葉で表す。普通の日常会話ではなかなか出てこないだろう。
登場人物たちの思いは直接に、捻じれて、揺れる様相...その漂流するような展開になるが、事故から3年、前に進んでいないことに対する被害者女性の決意。その行動として、被害者が気になり尾行まがいのことを始める。そして被害者の女性は夫と離婚しているが、その元夫が加害者女性の弱みに付け込み性的関係を強要していることを知る。一身に贖罪する加害者、それが一転して被害者女性に一度も供花しないことを詰め寄る。その反論として加害者は供花することで贖罪(責任)の充足を感じているとも。5歳時の子の”死”を日々弔う加害者、5年間の”生”を見続けた母としての被害者、その激情した会話の応酬に心震える。それでも被害者の母親は前に進むために加害者に供花を止めて自分のために生きてほしいと諭す。
隣家から聞こえるたどたどしいピアノの練習は、この家に住む夫婦がワルツをぎこちなく踊る姿にシンクロする。それでも少しずつ進んでいるのだから...。復興を意識していることだろう。ただ少し震災を盛り込み過ぎかも。
なお、気になったところ、加害者が妊娠しており、それに気が付いている被害者女(母)が祝福する。加害者が既婚者か恋人がいるか定かではないが、話の流れからすると、元夫の子を宿したとも思える。それでもわが子を事故死させた加害者を許せるものか?激高する感情を押し殺したような結末に疑問が残る。
表層的には交通事故を題材にした「クラッシュ・ワルツ」、その内容はヘヴィで濃密な会話、息詰まるような緊張感。それでも後味は決して悪くはないヒューマンドラマとして楽しめた。
次回公演を楽しみにしております。