楽屋~流れ去るものはやがてなつかしき~ 公演情報 道頓堀セレブ「楽屋~流れ去るものはやがてなつかしき~」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★

    関西流「楽屋」か...
    現代社会の通信技術の進歩は目覚しい。たとえ局地的な現象でも瞬時に地球規模で拡散する。それは情報構造の画一化を招いているかもしれない。さて、この「楽屋」は多くの劇団で上演されているが、同一の脚本でありながら、上演のたびに表現の豊かさ、奥深さを感じさせてくれる。この「『楽屋』フェスティバル」は、画一化に対抗し、連綿として続く「演劇」表現にスポットを当てた企画のように思う。

    この「楽屋」(道頓堀セレブ)は、このフェスティバルだけのために結成された関西の演劇ユニットだという。開演前からずっと話しており、そのまま本番上演へ...。自らハードルを上げ観せていたが、開演前の饒舌の印象が強く、「楽屋」の”女優”という職業への情念があまり感じられなくなったのが残念である。肩の力の抜けた作品、何か突き抜け感が欲しいところ。

    ネタバレBOX

    1977年の初演以来、日本でもっとも多く上演されているようである。その意味では、現代劇の”古典”となってきた作品であるがネタバレ覚悟で設定を書く。

    ここに登場する女たちのうち2人は、戦前から戦後を生きて不遇のうちに死んだ女優である。死後という言わば一定の距離感を保ち、客観的な視点に転じているはずであるが、それでも「生」を感じさせる不可解さ。そこに登場人物の死者である魅力が立ち上がってくる。「女優」という職業の凄まじい業を描き、舞台裏を表舞台化した作品。女優2人の戦前の訳と戦後の訳の違いや、戦前のリアリズムと戦後のリアリズムなどという台詞の説も面白い。

    梗概...役に恵まれずに死んだ自らの境遇を呪い、舞台に対する羨望の念を抱きながら、劇場の楽屋に巣喰っている戦前・戦後の2亡霊(女優A・B)である。あとの2人は現代を生きている女優で、片や、自らの肉体の老いや感性の劣化に危機感を抱えながら舞台に立ち続け、片や、若さと才気にあふれながら、プロンプターに甘んじることに行き詰まりを感じ、精神を病んでいる。何故か、お可笑しみが感じられる…そんなところが関西流なのかもしれない。

    楽屋。亡霊になった女優AとBが楽屋で念入りに化粧をしながら、永遠にやっては来ない出番にそなえている。今上演中なのはチェーホフの「かもめ」。主役のニーナ役の女優Cが楽屋に戻って来ると、プロンプターをつとめていた女優Dが病院衣姿でマクラを抱えて現れる。彼女は精神を病み入院していたが、すっかりよくなったから、ニーナ役を返せと女優Cに詰め寄る。言い争いになり、女優Cは思わず女優Dの頭をビール瓶(張りぼて)で殴ってしまう。女優Dは起き上がってふらふらと出て行くが、女優Cが楽屋を出ていった後に戻ってくる。今度は亡霊のAとBが見えている。打ち所が悪く死んでしまったようだ。ニーナ役が欲しくて精神異常になった若い女優がまた一人死んだ。
    3人になった楽屋の亡霊は、やって来るかもしれない出番のために稽古(三人姉妹)を始める。「わたしたちだけがここに残って、またわたしたちの生活を始めるのだわ。生きていかなければ…」

    死んでも「女優」に執心する姿...終わりのない時間の中でもがき苦しみは続く。「女優」という言葉に潜む魔物は何か?その魔物は、上演するごとに姿が異なり正体が掴めない。そこが上演数日本一の魅力なのかもしれない。

    この道頓堀セレブの公演は、関西弁こそ出ていないと思うが、その台詞の発声に気をとられたか。死後においても女優でありたい、その自己顕示欲にも通じる想い、その凄まじさが感じられない。前説とあわせると「楽し屋」という喜劇かも...。

    このような企画を続けて欲しいと願っております。

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    2016/05/04 13:15

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