どりょく
かわいいコンビニ店員 飯田さん
北池袋 新生館シアター(東京都)
2016/06/02 (木) ~ 2016/06/12 (日)公演終了
満足度★★★★
再演作...なかなかに面白い!
本公演は新作と再演の2バージョンあり、それぞれ3作品ずつ。自分は再演バージョンを観たが、どれも可笑しさの中に得体の知れない、不気味なものを感じる。その感覚は作品ごとに異なる。
開演前のいい加減な前説アナウンス...しかし、芝居は基本コメディであるが、その内容はシュールで観応えがあった。まぁ、深層にある「本音」と「建前」といったところであろうか。自分的には、テーマの統一的なものが感じられるか、垣間見えればもっと好かった。
ネタバレBOX
さて、この作品に共通したテーマがあったのだろうか。強いて言えば、タイトル「どりょく」といったところか。
○「幸福の論理」
男女3人(男2人、女1人)の捩じれた恋愛話。ブスは哲学者...ブスは好かれるために悩む、そして”努力”するらしい。かわいい女性は悩む必要がない。そして小学生並みの恋愛表現、好きだから意地悪するという。
○「希望ある死」
苦しまないで殺してくれる、そんな闇社会(事務所)での話。何で死にたいのか定かではなかったが、いずれにしても安楽死、嘱託殺人行為を依頼。それがいつの間にか生きたい、そう”努力”してみたい気持になる。
○とべひこうき」
ハイキングと称して一緒にきた動物を置き去りにしようとする話。飼い出したころに比べ体も大きく成長し、餌代や近所からの苦情に耐えられなくなった。人間の身勝手さと動物の慕う姿のギャップ。どうにか「共生」の道を探す”努力”を...。
この舞台転換は薄暗(照度を調整)にして、なるべく自然に配置していた。この舞台美術は、物語の内容を外形から支えるよう工夫していた。
役者は、コミカルな演技の中にしっかり個性を表現していた。
当日パンフの作・演出 池内 風 氏が「心動く瞬間を少しでも多く作れるように『どりょく』いたしました」と。その思いは十分伝わった。堅苦しい話ではないのでリラックスして、とも書かれていた。この感想もこの程度の内容で失礼します。
次回公演を楽しみにしております。
コメディカルナイト
劇団クロックガールズ
新宿シアターモリエール(東京都)
2016/06/08 (水) ~ 2016/06/12 (日)公演終了
満足度★★★★
コメディ一夜物語
非リアルからあぶり出される事実。敢えての非リアリティ...そんなことはあり得ないことは承知の上での設定。それでもどこかで見聞きしたようなことを思い出す。
例えば救急車に乗り込んでも直ぐに病院へ搬送できない。受け入れ病院を探すのである。付き添いで救急車に乗った時、イラつきを覚えたことを思い出す。
(上演時間約2時間)
ネタバレBOX
梗概...救急医療の緊迫したシーン、実は妄想の世界。この公演の登場人物を全員参加させてのお披露目ダンスである。一転現実に戻り、研修医がベテラン看護師らにいじられるという笑い。この冒頭の緩急の演出の掴みは面白い。
経営危機に瀕した救急指定病院であるが、 そこには、やる気も知識も腕もない3代目院長と同じようなコメディカルスタッフ(医療従事者)がいる。そんな病院に夜間救急外来があり、重大事件が起きる。
救急患者の受け入れ拒否、研修医の医学書が手放せない机上学問からの脱却、新人看護師の基本処置(注射行為など)の未熟さ、部外者の出入り自由なセキュリティの甘さ...などの医療現場の杜撰さ。有名芸能人の妊娠とそのスクープを狙う女性記者の行動など、もしかしたらあり得るかもという不思議感覚の展開。一夜の出来事であるから事柄の関連性はないが、病院というシチュエーションの中で隣り合っている可笑しさ。そして外部の事件との関係を想起させる巧みさ。いずれにしても徹底したナンセンスが面白い。
ラストは、なぜ救急医療病院なのに受け入れせず、次の病院へ誘導するのか、その理由が明らかになる。疲弊しつつも悪戦苦闘する医療従事者たちの姿をコミカルに描き、医療現場の闇にチクリと針を刺すような。
医療は人類の歴史と共にある。その医療知識と技術の発展・発達は、歴史においてその功罪(プラスマイナス)の面があった。
標語ではないが、安心・健全という医療技術と施設設備があ(れば)という未来。そしてもし、マゼランやコロンブスがビタミンCを知ってい(たら)という過去を思うと、間違いなく世界地図が今と違うものになっていたかもしれない。この公演こそ“たら れば”の仮想世界である。それだけ医療(現場)は重要であるが、その実態はどうなのか?そんなことを笑いに包みながら問題提起する。
医療現場という切り口を通して、医療とそれに携わるコメディカルスタッフ、そして一番大切な患者の現在と未来を思って楽しんだ。
次回公演を楽しみにしております。
アイバノ☆シナリオ
BuzzFestTheater
ザ・ポケット(東京都)
2016/06/08 (水) ~ 2016/06/12 (日)公演終了
満足度★★★★★
街の風景が...
人は現在だけを生きている存在ではなく、時空を超えて過去の人と心を通わせることができるのではないか。その仲立ちが長い時間を積み重ねてきた自然や街の風景だと思う。本公演の舞台は北海道網走であるが、その街イメージはなかった。確かに台詞や冒頭の踊りでイメージはできるが、視覚、皮膚感覚として体感できない。
それでも網走を舞台にする必要があったようだが...。
さて、物語の構成、演出の妙、役者の演技はどれも秀逸で観応え十分である。
(上演時間2時間)
ネタバレBOX
梗概...網走にあるスナック「かつら」は、地元の漁師や農家の人々などが集うその場所に元女優・相葉しほり が働き始める。 網走は、失踪した菜緒の恋人、哲哉の故郷。「ごめんなさい」という書き置きと、愛ある歌だけを残し失踪。 菜緒は、この街に来た意味を見出すことができるのか、というもの。
元女優・相葉しほり、本名・井野菜緒(楊原京子サン)は、その職業での再起に賭けていた。その精神的緊張...表層的には相葉のシナリオが展開する。舞台は網走になっているのは、タイトルとの関係であろうか。「ア○バ○☆シ○リ○」は網走と井野菜緒(イノナオ)の掛け合わせ。職業・女優と本名の一人二役、実は本名のほうが物語を成しており、網走の生活で心を癒やす。さらに、先に記した本人の精神的なこともあり、スナック「かつら」のママ川島喜世子(小林佳織サン)、失踪した男の兄・半沢宏哉(阿部浩貴サン)が考えた思いやり。この錯綜したような構成がラストの衝撃と余韻を残し巧み。
舞台セットは、中央奥に段差のあるカラオケステージが大きく作られ、上手はBOXシートイメージ、下手はカウンターと酒棚。スナックの雰囲気はあるが、11月以降の北国らしさは感じられない。
この錯綜したような構成は、謎めいた冒頭シーン、実に意味深で失踪と二年後に読まれるラジオの投稿がダブルという色々な場面に仕掛け、工夫をしている。チラシはクロスワードになっているが、本筋を縦軸とすれば、この店で働く女性・伊東朱音(稲村梓サン)の弟・卓馬(シロタケシ サン)の話、地元漁師・豊川雄介(藤馬ゆうやサン)の子供の時の事故、婚約者との関係などのエピソードは横軸として、緩く絡み合う。その関係の必然を強調するように結び目をきつくすると物語の伸縮性が少なくなり、観客の観る自由度を狭める気がする。その意味で適度な関係性に止めたように思う。そこに知的なエレガンスさを感じる。
この芝居では網走の隣駅・呼人駅の閑散たる風景を言っていたが、網走駅を起点とし上り・下りの7つ目の駅は、愛し野駅(石北線)と止別駅(釧網線)である。この7という数字は「素数」で、1かその数でしか約数できない整数。つまり代替がない...それこそ大切な人を意味する。この芝居の挿入歌「あなたの故郷」の一節...♪こんなにも私あなたの事が好きだったんだな♪。遠ざかったから、いつまでも近しく感じる人がいる。2度と聞けないからこそ、胸の中で自分の支えとなる言葉がある。不器用な人の不器用な生き方が素敵に描かれた物語である。そう、人間の生の滋味を味わうようだ。
ちなみに、止別駅の読みは、(しべつ)ではなく(やむべつ)と読む。
次回公演も期待しております。
実は自分も見切れ席…カウンター内の演技はよく分からなかった。
なだぎ武・山田菜々主演「ドヴォルザークの新世界」
劇団東京イボンヌ
スクエア荏原・ひらつかホール(東京都)
2016/06/07 (火) ~ 2016/06/10 (金)公演終了
満足度★★★★★
テーマ性が強く感じられる
劇団東京イボンヌは、「クラコメ!」という新しい演劇の形を掲げる。誰もがクラシック音楽を楽しめるよう創られた新しいジャンルである。そういえば、小中学校の音楽教室は、楽聖たちの肖像画が飾られ少し堅苦しかった。そして教養として教えられる知識、沈黙して鑑賞する名曲は正直心に響かなかった。その意味でこの「クラコメ!」...本公演は面白かった。と同時に強いテーマ性を感じた。緩い笑いに包んだ鋭い問いかけは、今までの公演とは少し違うようだ。
(上演時間1時間50分)
ネタバレBOX
舞台は、この劇団らしくオーケストラはピットではなく舞台上に配置している。そして今回はマイク集音なしで、まさしく楽器の生演奏であった。それだけに機器に頼らず楽器の特徴がしっかり聴き取れる。また曲選定であるが、今までの公演は、物語の情景・状況イメージに合わせていたようであったが、本作では、音楽・曲(交響曲第9番_新世界)誕生までのエピソードに則した選曲のようである。それだけにストーリーと選曲が合致し、その心象形成は深く強く感じた。
ドヴォルザーク(なだぎ武サン)は1892年9月にニューヨークに到着したところから物語が始まる。ニューヨーク・ナショナル音楽院のサーバー夫人(伊達裕子サン)に高給で招かれ渡米し、その間に作曲した交響曲第9番ホ短調<新世界>作曲のエピソードを中心に物語は進む。この当時のアメリカは人種差別が激しく、黒人への蔑視は相当あったようだ。その黒人以上に迫害されていたのが原住民インディアンである。舞台ではその迫害を手引きするのが、英国人の父とインディアンの母の混血児サラ(山田菜々サン)であり、その心中が複雑に描かれる。アメリカ...新しい国ゆえに文化がないと言われ、先住民の制圧を通して文化を葬り新しい文明を築くような光景が悲惨でならない。
物語の底流には人種差別、その作曲姿勢はインディアンの音楽と母国チェコへの郷愁が結びついて出来ている。その演出は、舞台上手上方から半円形の太陽を模したオブジェが...。アメリカの大自然の壮観に感動させているが、一方故郷ボヘミヤへの想いが募るようでもあった。
その観(魅)せる、いや聴かせる演奏は、例えばドヴォルザークが客席に向きながら、両腕を広げ上下に振っているが、それに合わせオーケストラが演奏しており、まるで なだぎ武サンが指揮をしているようだ。普通の演奏会では指揮者・演奏者が向き合い呼吸を合わせるのだが、劇中の役者が指揮者として溶け込ませており演出の妙。
この舞台は衆寡(しゅうか)のメリハリがあり、群集として観せる(例えば郡舞、殺戮シーンなど)と2人の会話(ドヴォルザークとサラ)など、場面演出も印象的である。
ラスト...交響曲第9番第2楽章...日本では「家路」という歌で親しまれている旋律が少し乱れたのが残念であった。
次回公演も楽しみにしております。
最悪な大人
劇団献身
OFF OFFシアター(東京都)
2016/06/03 (金) ~ 2016/06/12 (日)公演終了
満足度★★★★
縦横無尽な人間観察
冒頭、夫婦でネコを捨てるシーンがあるが、バカバカしい設定で、これからの芝居に危惧を抱いた。しかし場面転換した途端、物語性が強くなりストーリーに絡みつくようなギャグが味わい深く感じられる。
主宰・奥村徹也氏が実際働いた経験を基に描いたシチュエーション・コメディは秀逸。
ネタバレBOX
舞台セットは、奥の舞台を遮るように仕切板(衝立)が何枚か立っている。この仕切板を背に夫婦がネコを捨てに来る。猫を捨てに来たのに人間の赤ん坊を拾って連れ帰るところから始まる。この時1995年秋。
舞台転換は、この仕切板を折りたたむようにして後ろ舞台の壁を作る。その手際の良さは素晴らしい。そこに出現したのが、運送会社(営業所)の事務室。上手にはロッカー、その横のドアは発送室へ通じるらしい。中央奥は外部への出入り口、下手には所長机、女性社員の机。pc、棚、白板、スケジュールボードも見える。けっこうリアルである。
父は、TVで一時話題になった大食い番組で、フードファイターとして有名になりかけていた。しかし、そのTV番組を真似た子が大食いで事故死するに至り、父の生活は一転。同時に夫婦の間に亀裂が生じて離婚。
拾われた息子はかつてヒーローだった父の面影を探すが、現実は思うようにいかず引き籠りに...。どうにか、今は父親が勤める運送会社(営業所)でバイトをしている。捨てられていた日から21年...息子は21歳(2016年)
その営業所に、ある日一人の客が怒鳴り込んきて、ドタバタ騒動が...。
この男をヤクザと勘違いし、そのクレーム対応に見られる人間の本性。どこにでもいそうな人物を責任逃れ、自己本位、傍観者などに類型化して笑いに包みながらシニカルに描く。ちなみに、迷惑な性癖もあるようだ。
さて、クレーム対応のシュミレーションを繰り返し、その虚実が分からなくなる。この繰り返しという演出はどうだろうか。観客によってはくどく、飽きることにならないだろうか。確かにシュミレーションは違うがクレーム相手は同じ。
また上階の女性の登場も関係性において...劇中台詞にもあったが関係者ではない。できれば、クレーム相手やその内容に変化があると面白かった。例えばクール便の放置、時間指定のルーズさ、アダルト商品を奥さんへ渡して夫婦騒動へ発展など...。その中でより人間の本質が見えるようだが。
この会社(社会)と父子(家族)という極大と極小という単位の間を目まぐるしく往還するような滑稽無稽な作術があってもよかった。それによってギャクの連発も底流にある物語性に支えられてキレも増すような気がした。そして奇妙なリアリティも生まれるのでは...。物語は続き、或出来事を経て5年後…息子・太陽26歳と父の関係に未来が見える。
次回公演を楽しみにしております。
成り果て【グリーンフェスタ2016 GREEN FESTA賞 受賞作品】
ラビット番長
シアターグリーン BASE THEATER(東京都)
2016/03/03 (木) ~ 2016/03/07 (月)公演終了
満足度★★★★★
素晴らしい公演
将棋の世界を描いた物語…「グリーンフェスタ2016」において【GREEN FESTA賞】受賞。同じ将棋の世界を描いた「天召し~テンメシ~」で2014年【GREEN FESTA賞】受賞をしているから、将棋の物語といったら ラビット番長 という代名詞になりそうである。
自分は両作品とも観ているが、本作品のほうが好みである。単に前作が実在する人物をモチーフにしており、本作品は非実在という世界観の違いだからという訳ではない。
芝居としての観せ方が好きである。観客によって観点が違うから一概に言えないが、物語の多重構成、観客本位のわかり易い観せ方が良かった。演技は若手育成もあろう、少し多い登場人物、演技力差も見られるが...。そこは敢えてということは十分察っすることができる。
ネタバレBOX
舞台セットは、三方向から観せる。何の変哲もない舞台が、中央扉を両開きすることで、上手・下手に話を振る。さらにその上部に対局場面を設ける。将棋のタイトル戦は、盤上をTVで映す時は天井からカメラを回すが、この芝居ではその逆、上階で俯瞰するような位置取りである。
やや上手扉が客席寄りに出ており、そこでは奨励会会員であろう若手メンバーが騒がしく指手研究をしている。一方下手は、物語の本筋...その牽引する場面が描かれるが、上手の方が客席に近い分、騒がしさに気を取られるようだ。この三方向の演出・演技が少し離れており、観客(自分)の集中力が分散されるようであった。
物語は多重構成...一つは、プロ棋士とコンピューターに搭載された人口知能との対戦。人口知能が自己進化するという、将棋というアナログ世界へ異次元的要素を持ち込んで魅せる。実際、プロ棋士とコンピューターソフトが戦う「電王戦」(ドワンゴ主催)がある。
もう一つは、プロ棋士になれず挫折した人間...その男を通してみた生き様。そこには夢を追い続けて、その人間味が溢れているところ。この両極をしっかり描き、芝居としてまとめあげている点が素晴らしい。
途中、コンピューターの自己進化に”嫌悪”的な描きも見えたが、この人口知能コンピューター、人類にとっての存在価値を問うような...。危険・過酷な労働はロボットに任せる。しかし、誰も理解できない「知」に依存する世界。やがて制御不能な人口知能に人類は支配され、なんて不気味な連想もさせる。
さて将棋好きには、東・西棋院の関係、女流棋士の立場・存在などニヤリとする小ネタも盛り込んでおり楽しめる。
ラストは、ラビット番長らしい結末である。
グリーンフェスタ2016授賞式の時、今年6月に「天召し」を再演するようなことを話していたと思うが、6月は「ギンノキヲク2」(演劇制作体V-NET)を再演し、9月に「天召し~テンメシ」が予定されているようだが...池袋演劇祭参加作品にするのだろうか?
次回公演も楽しみにしております。
錆色の瞳、黄金の海 2016
劇団ショウダウン
シアターグリーン BASE THEATER(東京都)
2016/01/21 (木) ~ 2016/01/24 (日)公演終了
満足度★★★★★
人類永遠のテーマが...
本公演は、「グリーンフェスタ2016」において「BASE THEATER賞」を受賞した。
この芝居は、4人で演じる脚本になっていたらしいが、どうしても描きたいエピソードがあり7人へ構成し直したという。
伝承的な話を大胆に脚色することで物語に魅力付する。壮大なロマンとその村に生きる少年の成長という極小の両極を描くことで、大きな世界観と繊細な人の機微がうまく融合しており、実に観応えのある公演であった。
(上演時間1時間45分)
ネタバレBOX
今もチェコに伝わるゴーレム伝説をモチーフにしているようだ。ゴーレムは泥人形で、作った主人の命令だけを忠実に実行する。そこには厳格な制約がありそれを守らないと凶暴化し、世界を破壊し尽くしてしまう。
梗概...冒頭、仮面の男女によってゴーレムによる戦闘場面が語られる。最後は「人々は知るのです。自分たちを守る巨人は、自分たちを滅ぼす力がある」という。中盤では「人は、自分が制御できないものを持つべきではない」という台詞がある。この2つの台詞が物語のテーマの根幹をなすといえるだろう。
100年以上前に国王の「一つの自治体に一体のゴーレム」という施策によって、ジェミの村にやってきた石人形・型番129、すなわちゴーレムはイハナと名付けられ、「村に永遠の平和」という命令のためにだけ従って動き続けた。
そして時は流れ、技術進化に伴い新しいゴーレムが...。そしてイハナの運命が大きく変ろうとしている。そのイハナ、川に入り黙々と作業を行っているが、その目的は何か。新旧ゴーレム対決という緊迫感もさることながら、そのミステリアスな展開も魅力的である。
ユダヤ教に伝わるゴーレムは、ギリシャ神話の青銅の巨人タロースや旧約聖書の天地創造において、土によって作られたアダムなどと繋がるところがある。物質と生命という人類の永遠のテーマを孕んでいる。
物語は分かり易く、またテンポよく展開するから心地よく観ることが出来る。そして物語の案内役のようにジェミの村の少年・ミルキ(林遊眠サン)が、この世界に飛び出してくるようだ。
劇団ショウダウンの公演、といっても東京での「マナナン・マクリルの羅針盤」(2014年9月@風姿花伝)、「マナナン・マクリルの羅針盤再演2015」(2015年2月@シアターグリーンBASE THEATER)、「パイドパイパー」「千年のセピラ」(2015年9月@あうるすぽっと)の4公演であるが、そのどれもが時と場所・状況が大きく動く。時空を超えたり、大海原を航海したり不死の力を持つなどその設定が魅力的である。
本公演は確かに100年以上の時を経るが、それは台詞だけで、その移ろいが感じられない。また中世の街らしい舞台セットを走るが、あくまで周壁内だけ。そのスケール感が先に記した公演に比べると物足りない。この公演だけを観(初見)れば満足するところであるが...人(自分)は満足の度合いが高くなるもの。その求めるレベルが高くなるのも必然かもしれない。劇団ショウダウンはその欲求に応えてくれるだろう。
次回公演を楽しみにしております。
我が名を呼べ!我が名は天子シロマである!〜ご来場ありがとうございました!〜
〒機巧ぽすと〒 (からくりぽすと)
d-倉庫(東京都)
2016/06/01 (水) ~ 2016/06/05 (日)公演終了
満足度★★★★
史実的な空想劇
歴史劇のようなシーンもあるが、あくまで想像劇である...史実があるから幻想・架空があるという謎めいた口上に続いて物語が始まる(口上を述べる人だけが、劇中も含め現代の服装。冒険家・時空間の旅人といった役割か)。壮大感はあるが分かり難いところもあり、筋を追うだけに陥りそうである。
鎖国、不平等条約などの台詞から舞台背景は幕末をイメージする。しかし、当日パンフの年表によれば、日本と思われる国は西暦200年代であり、一方外国(外圧)勢力は1000年代~1400年代と時間軸が長い。あくまでこの隔たりの大きな設定に拘ると物語が錯綜してしまう。舞台美術、衣装、小物にいたるまで、時代にそぐわないものばかり登場するのだから...。
この公演は、先に記した幕末の様相が色濃い。そうであれば、2つの点で興味深い。その1は、日本の黎明期の血なまぐさい史実を戯画化し、卑俗でわい雑な覇権争いの劇として舞台化したこと。観せ方として劇場の上空間の大きさを利用した俯瞰...その2は、どちらの勢力も民衆のためという外面正義を振りかざし、その実は己のことばかり。その支配に潜む不条理劇が観て取れる。
それだけに、観客が物語の筋に終始するだけではなく、その展開とともに共振できるような公演であれば...その意味で勿体無いような気がした。
上演時間2時間10分(途中休憩10分)
ネタバレBOX
舞台セットは、中央に白布で囲った円柱(冒頭のみ設置)、上手は不揃いな階段、下手は櫓上をイメージするような棚台。上部に伸びる階段は天子を戴くようでもある。
たびたび登場する玉座。権力の象徴として登場させているのであろうが、反乱艦隊提督サシウスが玉座に座わるシーンは、”民衆のため”という言葉が空しく響く。
当日パンフのざっくりとした説明では、シノメイ国という地が舞台。そこに北方軍、その闇(暗殺)組織として天馬団がいる。一方反乱艦隊が対峙する。その反乱軍を支援するロマ帝国・極東方面軍が開国を求めている。
どうしても史実と置き換えてしまう。日本・幕末...幕府軍、新撰組と倒幕軍、列強諸国という構図である。しかし、シノメイ国の天子(別に天馬軍の女シロマが影となっている)と殿下(大老の子)が夫婦関係にある。「殿下」「大老」は発音から表記したが、別の意かもしれない。単純に天子(皇室)と将軍家ではなく、その臣下の子が婚姻していることに混乱(自分の推測)。そもそもが架空という前提であるが、史実のようなシーンがあると錯綜してしまうのが情けない。
そして、反乱軍勝利に至り天子(実はシロマが身代わり)の処刑をすることで、民衆の新しい時代への幕開けを宣言しようとしたが...。その光景を見る反乱軍提督とロマ帝国提督と監査役は上部へ鎮座した玉座に座る。一方処刑されるシロマとその処刑人となったシロマの恋人は階下にいる。
この舞台美術には、前方奥上への階段、その視点が舞台にいる彼らを時に正面から時に背後から捉え、その心情を映し出すようだ。この上・下という対極した空間演出は巧み。
演技は、殺陣というアクションはもちろん、心情描写も上手い。総じて若い役者のようであるがバランスもよく、登場人物のキャラクター・役割をしっかり演じていた。また音響では時を刻む音、照明はスポットなど舞台技術も効果的であった。
次回公演を楽しみにしております。
SEN-RITSU
座・間座
Geki地下Liberty(東京都)
2016/06/03 (金) ~ 2016/06/09 (木)公演終了
満足度★★★★
発想は良いが、その表現が...
場内に入った途端、そこは廃墟。そして不安を掻き立てるような水滴の音。タイトル...「SEN-RITSU」であるが、漢字にすると「戦慄」と書く(もうひとつ「旋律」もあり、こちらは主人公の名が...)。国家認識の欠如、アイデンティティの喪失がもたらした結果、表記が カタカナ になったかのようだ。
本公演は、日本という国が舞台であるが、日本人は少なくなり、中国、韓国といった他国の移住者が其々の地域エリアを形成している。そのエリア抗争を軸に友情・裏切・恋愛といった青春群像が観られる。一方、暴力・略奪、そして殺人という非合法行為が日常茶飯事のディストピアの世界観も描かれる。そんなダーク・バイオレンスドラマである。
この芝居でいくつか気になるところも...。
(上演時間2時間)
ネタバレBOX
舞台セットは、上手に上階から降りてくる階段があり、物見櫓(ボロ布が張り付く)のような中継を経て中央舞台へ架かる板が渡してある。中央は矢倉が組まれている。プロローグ、エピローグには、この矢倉の後壁に廃墟の画像が映し出され、その虚しさが印象付けられる。
移民受け入れに伴う隔離政策(ジャパニーズアパルトヘイト)によって、大量の移住者はチャイナタウン、コリアタウンなど、それぞれの居住地域を持つようになる。そのエリア抗争を物語の本筋に据える。この状況は、遥か昔または遥か未来の架空日本の姿としているが、けっして絵空事ではないように思える。
芝居として観ているが、未来への不安を抱え、解決策が見出せない現代の閉塞感が箱庭的に目の前で繰り広げられる。かつてのディストピアは、予言的であったが、本作品は既視感がある。今生きている世界も過去や未来から見たらおかしいと思うことがあるかもしれない。 説明にある「孤独、対立、信頼、裏切り。 悲しみの向こう側で、抱えきれない程の想いを背負った者」...このディストピアにいる人間は、色々なものを削ぎ落として「生きる」という本質を見ている。その切ない思いが十分伝わる物語。
脚本に対して、その観(魅)せる演出と演技に残念なところが...。
全体的なストーリーは分かるが、其々の対立構図、関係性が理解し難い。物語の筋を追うだけになり、問題提起なり訴求したいところが暈ける。できれば当日パンフに相関図があると助かる。
演技は、それぞれキャラクターを確立している。特に主人公・ミセリ(香月ハルさん)は、本来物語の中心にいる人物であるが、ラストシ-ンまではその立ち位置を少し脇にずらし客観的に見ている。その佇まいは可憐であるが力強さも感じさせる。その意味でしっかり物語を牽引していた。そしてラストの独白が活きてくる。名前は「旋律」から付けられているらしい。
さて、アクション...例えば拳銃を抜くシーンでは もたつきがある。格闘シーンに比べ道具を使うシーンは見劣りがする。そのあたりは改善してほしいところ。
この公演は、現代日本(人)の立ち位置に揺さぶりをかけているようだ。自分は何者なのか?それを知りたいが、結局のところ自分は何をしたいのか、という前向きな志向に救われる。
次回公演を楽しみにしております。
正しい時間
遊劇社ねこ印工務店
小劇場 楽園(東京都)
2016/06/01 (水) ~ 2016/06/05 (日)公演終了
満足度★★★
SFファンタジーだが...
脚本は既視化しているような内容で、話題になったアメリカ映画をイメージしてしまい新鮮味は感じられない。
制作面では、当日パンフに相関図を挟み込むなど観せる工夫をしており好感が持てるのだが...。
(上演時間1時間40分)
ネタバレBOX
舞台となるのは、群馬県前橋市三俣町であろうか(地元の人という設定であろうか、三俣町の名前が入った法被を着ている)。
梗概は、辻堂家の長男・陽一郎(羽生直人サン)と宮嶋家の一人娘・真里子(西條留奈サン)との結婚リハーサルから始まる。もっともこの両家に関わりのある老人まこと(小栗健サン)が自転車に乗って過去へタイムスリップを図るプロローグがあるが...。そして結婚は両家の思惑があり、当人同士よりも政略的な様相が強い。この結婚を阻止しようと未来からまとこがやって来る。そこで起きるドタバタ騒動...。
このシチュエーション、「バック・トゥ・ザ・フューチャー(Part1)」を思い出す。映画では、次元転移装置_スポーツタイプの乗用車デロリアンを改造してタイムマシンの実験するが、本公演では自転車のサドルに取り付けた携帯電話がその装置に置き換わる。また衝撃を加えてという発想は、大林宣彦監督の映画「尾道三部作」に登場することを思い出す。
まとこの両親は、陽一郎と真里子である。時代を遡り両親の結婚を阻止することは自分の存在を否定する行為。もっとも家同士の思惑はあったが、陽一郎は真里子が好きで結婚したいと願っていたが、実は気弱で告白できないでいる。”まとこ”が存在するのだから、結婚したのだろう。しかし、母は不幸であった...のだろうか。そして父は...。
両親の結婚は不幸の始まりであったのか、その思いが伝わらないと過去へタイムスリップする意味がない。父の思いを母となる人にしっかり伝える手助けをしたという結論であろうか。そのラストが曖昧のようで、釈然としない。
さて舞台は素舞台。プロロ-グ、エピローグに自転車が設置されるだけ。この物語を展開させるのは役者の演技力のみ。しかし登場人物の造形が弱く印象的でない。また途中で真里子のソロダンスなどは何を意味しているのか理解できなかった。いくつもツッコミところはあるが...それでも観入ってしまう不思議な芝居であった。
次回公演を期待しております。
大安吉日
劇団芝居屋
ザ・ポケット(東京都)
2016/06/01 (水) ~ 2016/06/05 (日)公演終了
満足度★★★★★
大安好日であった
初日観劇...この日は陽気も良く、芝居も面白く、本当に「大安」で「好日」であった。劇団芝居屋の公演はいつも舞台セットがしっかり作られている。
説明では北国の小さな漁村ホトマ村が舞台...そして民宿孝徳丸の談話室で繰り広げられる人情、というよりは兄弟ドラマである。
(上演時間2時間)
ネタバレBOX
舞台セットは、上手に民宿玄関、その上部に民宿・孝徳丸の看板。客席と舞台との間にスペースがあるが、民宿前の道といったところ。もちろんこの場でも演技が行われる。民宿内は上手に受付・帳場、中央奥に風呂場・食堂に通じる出入り口、その横に二階客室への階段が見える。下手は談話用のテーブル、椅子。いくつか釧路市のポスターも貼られている。
小さな漁港を見下ろす高台に民宿孝徳丸...その名前は女将の亡き夫(漁師)が乗っていた船のもの。この地は観光名所でもなく、ただ時の流れが緩やかで癒しと海の幸料理が自慢である。そして源泉の温泉。
市井の人々、といっても地元が中心である。この宿泊客2組(どちらも女性一人旅)がこの物語で特筆だと思っている。
中年女性は義母の介護、その看取りを通じての人間らしさ(個人的にはこのシーンにハマった)。一方、女性の旅行ルポはその職業を通じての見方・考え方の表現が巧い。釧路市というと観光事業で「ふるさと創生」を利用したような。さらに漁業人口の減少を漁業研修として問題提起する。そこには地元(Uターン Iターン)に目線を向ける。
この観光や漁業という地域活性を想起させるような、鳥とは言わないが、小さく羽ばたく蝶のように高みから見据える。一方、介護も含め日々の生活に汲々としている人を地を這うような虫となって見守る。社会と個人(家族)…民衆を複眼的に見る視点が印象的である。
本筋の兄弟の確執…誤解と思い遣り、父の死に対する悔恨の情が痛々しい。その複雑な感情が氷解する様子は、観応え十分である。
演技力は皆さん見事。バランスも良い。劇団は「現代の世話物」の創造を目指し「覗かれる人生芝居」というコンセプトの下に役者中心の表現を模索しているというから当たり前か。それにしても、民宿女将・常盤孝子役(永井利枝サン)、地元爺さん役(増田再起サン)の演技が光る。
次回公演も楽しみにしております。
優しい嘘
劇団俳協
TACCS1179(東京都)
2016/05/26 (木) ~ 2016/05/29 (日)公演終了
満足度★★★★
安心して観られる優しさ
某富士見町にあるスナック「消しゴム?」が舞台。俳協らしくしっかりした舞台作りで、物語の外形を成す。この公演の印象は一見ドタバタ騒動の連続であるが、そこには市井の人々の坦々とした暮らしや感情が観て取れる。
何だかおもしろくない、いらいらむしゃくしゃする...そんな感情を伝える言葉として「口惜しい」「怒り」を用いるが、必ずしも一致しないだろう。言葉からこぼれ落ちていく感情は実際多くある。言葉が先にあったのではなく、言葉にならない溢れるような感情に言葉を当てはめたようなもの。
この物語はこのスナックど育った三姉妹(香織・詩織・早織)とこの店の常連客が織り成す心温まるドラマ。
ネタバレBOX
舞台セットは、上手にカウンター、下手にソファー、カラオケ装置。もちろん劇中客としてカラオケを楽しむシーン(冒頭からデュエット)もある。このスナックがある街はシャッター商店街と言われるような、昔ながらの小店が並ぶような風景を想像する。この店は、先代ママ...姉妹の母が経営していたものを長女が引き継いでいる。この母は奔放に生き、男との関係も派手であったようだ。何しろこの姉妹の父親はそれぞれ違うという。その母が亡くなる時の”最後の言葉”が、このタイトルに繋がる。
膨大な思いとは、愛情、憎しみ、感謝、驚きなどであり、その生きる過程に存在する。そこに肯定や否定はあろうとも、まぎれもなく人の感情が動くし、会話も生まれる。どこかで聞いた、人に向かって「悪口」を言わない人...犬だか猫に暴言を吐いているからだそうだ。その おかしいようなありがたいような思い遣り、ひとつの言葉に押し込められない感情はある。しかし、その感情を押し殺した言葉...「あなたたちを生んで良かった」は心に沁みる。
長女のこの店に対する思い、次女の母の死がこの店(家)を出るきっかけになり、三女はOL生活。それぞれに抱える悩み...長女の娘は大学進学を止め漫才師を目指す。次女は怪しげな男を連れて突然帰ってきて不穏な動き。三女は職場の人と不倫関係。この姉妹と常連客(コンビニオーナー店長、文具店主、高校教師)の恋が絡む。その描き方はコミカル、コメディで笑える。そしてラストはホロリとさせる。
亡くなる直前の母の本当の言葉を知ったら...その思い遣りこそ長女の「優しい嘘」なのだ。その庇護に妹たちは生きる。先に戻るが感情をすべて言葉にしきれないが、言葉(嘘も含めて)で感情をコントロールしているのかもしれない。
脚本、演出はもちろんであるが、役者陣の演技は観ていて安心できる。それほどキャラクター作り、バランスの良さ。
次回公演を楽しみにしております。
「江戸系 諏訪御寮」「ゲイシャパラソル」
あやめ十八番
サンモールスタジオ(東京都)
2016/05/27 (金) ~ 2016/06/05 (日)公演終了
満足度★★★★
あやめ十八番、初の再演がこの「江戸系 諏訪御寮」であるという。
劇団代表・堀越涼 氏が当日パンフで「”捧げたい”という衝動が有る方が幸せだと言えるか、無い方が幸せだと言えるか、今は凄くぼんやりしています。」と書かれている。初演は観ていないが、本公演は実に興味深く鑑賞した。物語性、描き方、観せ方に一律的な工夫ではなく、その発想の豊かさに感心させられた。だから捧げたいはぼんやりしていても、(志)掲げるはしっかり持って楽しませてほしい。
伝承・民話を能の様式美のようなものを取り入れ、一種幽玄のような雰囲気を醸し出す。しかし舞台は現代...前口上では十六島にある2家に纏わる話であり、その物語の進展は、文章でいう「起承転結」が緩くではあるが観て取れる。それゆえ、ラストへの帰結は秀逸である。
ネタバレBOX
客席はL字型、ひな壇。その二方向から観ることを意識し、四角い舞台の辺と対角を基本にした動き。その堅い動きに、ときどき円を描く曲線動作が映える優雅さ。舞台はほぼ素舞台、奥に祭壇のような置物。
音楽は生演奏...様式美を感じる中、その謡と思われる和楽に、現代楽器を用い現代の歌を流す。それが不思議とマッチしている。
梗概は、説明文から「十六島。 古くからのしきたりが色濃く残るこの島では、今なお鬼の気配が近い。 この島の旧家・諏訪の女は“拝み屋”と呼ばれ、鬼の力を借りた霊力を持つと信じられていた。 人々の信仰心を逆手に取り、百年もの長きにわたり島を統治する諏訪の家。 しかし、この家の刀自“御寮さん”には門外不出の秘密があった。 一人の青年の恋が、拝み屋に纏わる秘密を浮き彫りにしていく...小さな島で巻き起こる、鬼の騒動。」というもの。
この十六島...なぜか大八洲(おおやしま)=日本の古称を想起するような名前である。日本各地にある(鬼)伝説を表現しているようで、この描かれている内容に普遍性を感じる。
文章でいう起承転結がしっかり観て取れる。
起…この物語の概要を前口上で述べる。
承…諏訪家の鬼に纏わる言い伝え。
転…篠塚家に起こる恋愛と出産騒動のドタバタ。
結…両家の話が交差し、冒頭の鬼伝説へ繋がり謎が明らかになる。
観劇した日が実質的な初日だという。前日は訳あって とばしたという。そのためか、この日は満席。最前列の演奏ブース寄りは、見切れだったと思う。演奏ブースから役者兼務しているキャストが客席側から舞台へ向かう時は見難い。芝居その内容より制作サイドの面が残念である。
次回公演を楽しみにしております。
見た目、偏見、そりゃあ大変!
劇団おおたけ産業
北池袋 新生館シアター(東京都)
2016/05/26 (木) ~ 2016/05/29 (日)公演終了
満足度★★★★
見た目は大切で...
チラシ...歌舞伎のような隈取化粧、花魁のような簪をさした女性、それが説明にある”東京の女”であることは観て直ぐ分かる。
未見の劇団であったが、その「現在の劇団おおたけ産業を決定づけたあの作品が帰って来る!」という説明を読んで興味を持った。その公演、楽しく面白い。と同時に考えさせられる人の心...印象にも残る好感が持てる公演であった。
だだ、このタイトルから気になるところも...。
ネタバレBOX
舞台は、東京近郊の農家といったところ。その長男(31歳)が1年ぶりに帰ってきたが、東京の女(21歳)を連れて来た。 その見た目はメイクが濃く、派手な格好は目立ってしかたがない。5月連休中の5日間、農業アルバイトとして連れて来たことになっているが、実は...。
舞台セットは、和室に卓袱台、上手に鏡台、下手にBOX、電話等。奥に縁側廊下、庭先が見える。小空間に物語の雰囲気を醸し出す造りは見事。ちなみに上手壁にはマイケルジャクソンのポスターが貼られており、この家の父親はムーンウォークのようなパフォーマンスを見せる。
都鄙(とひ)による外見・体裁の捉え方の違い。母は東京(渋谷生まれ育ち)の娘が派手で近所の手前、体裁が悪いと思っている。この娘、実は中学時代いじめにあっていた。高校生になって化粧をすることが、周りとの協調性、一種の没個性を装って自分を守ってきた。だから行動する2時間前から化粧をする。そのうち、母にも「女」としての火が付くようだ。
一方、この家の実娘(17歳)は「いい子」として自我を押し殺し、農家を継ぐと言っていたが、本心は東京で絵の勉強をしたいと思っている。親を説得し旅立つ格好が…。シーン毎に会話する相手が変わり、夫婦、恋人、兄妹、父と東京娘、母と東京娘、実妹と東京娘などそれぞれの立場の思いが伝わる。
この派手な娘…根は良い子で見た目で判断されてきた。そこは、見た目も大切だという一般論でかたずける。公演は日常のほのぼのとした温かさ、スパイスとしての笑わせ所はある。しかし全体としては坦々と展開し、インパクトというか盛り上がりが乏しいような。
さて気になるのが、両親役の見た目である。多分承知の上であろうが、若すぎて…。演技は悪くないが、やはり見た目が大事であろう。
次回公演を楽しみにしております。
朝に死す
劇団演奏舞台
演奏舞台アトリエ・九段下GEKIBA(東京都)
2016/05/28 (土) ~ 2016/05/29 (日)公演終了
満足度★★★★
本当に鋭く脆く揺れながら縺れ合う二人...【B】
清水邦夫氏の初期(1958年)の作品で、自分は初めて観る。それは極限状態・状況下における2人芝居。
演奏舞台アトリエ・九段下GEKIBA、その小空間に薄汚れたコンクリート壁、その上部に有刺鉄線があり殺伐とした後景を作り出す。そこに怪我をした女を背負って男が動き回る。そのうち疲れ、その場に座り込む。
小空間、素舞台のため役者の演技力がその芝居の評価を決定付ける。その逃げ場のない人物表現を黙視する。
ネタバレBOX
梗概は、組織を裏切った男、その男を庇って銃で撃たれた女。この2人の一夜の夢物語。女は左足を銃で撃たれ負傷している。その女を背負い必死で逃げてきた。この2人は顔見知りではなく、偶然に出会ったらしい。2人会話はどこかぎこちなく弾まない。敢えてなのか過去の話は出てこない。多くは今という瞬間・状況を起点とした先の事ばかり。女は男を突き放すように自分を置いて逃げるように言う。男も始めはその言葉に呼応するように振る舞うが、何故か立ち去らない。その互いに意地を張ったような、それでいて気になる存在になっている。「人」という字は互いに背を向けているが、その実は支え合っている。男女の愛情というには寂寞感が漂い過ぎて切ない。そのうち朴訥に語る夢物語...その楽しそうな表情は本当の夢の中なのだろうか。ビールの栓、それが黄金色した小人が踊(躍)るようだと。
夢の中の明日...身近な喜び、実はそんなところに人の幸せがあるのかもしれない。しかし現実は、そんなささやかな幸せにも届かない絶望の淵にいる。もう追っ手が来ないなど淡い期待と先々の絶望は去来する。その揺れる心情が心に響く。しかし、夜明け...銃声2発が...。
冒頭、足の痛みは物語の進展とともに薄らいだのか、表情も和らぎ足の痛みを庇った演技が観られなくなった。その演技に比例して緊張感が薄れ、会話の濃密さも溶け出し、勿体無く思う。
照明は全体的に薄暗く、緊迫感溢れる状況を描き出す。また場面によっては、少しエキセントリックのようにも感じた。音は、生演奏の音楽と音響の効果技術の使い分け、その演出に魅了された。
次回公演も期待しております
ビッグマウス症候群
劇団フルタ丸
「劇」小劇場(東京都)
2016/05/25 (水) ~ 2016/05/29 (日)公演終了
満足度★★★★
復活した生き様
ビックマウス症候群....出来ないことを、さも出来るように大口をたたく、いわば虚言癖を指すそうだ。この物語は、ビックリハウスのような構造ならぬ構成の錯覚と変容が面白い。
他人の人生を自分の手中にし、運命を握るようなブラックな…そんな怖さも垣間見えたりして観応え十分。大きな運命が個人の人生を決定付けるか、逆に個人が運命を変え拓くか、そんな視点で観ると隔靴掻痒のおかしみが…。
そして地方(岐阜)公演へ拡散していくという。(上演時間1時間40分)
ネタバレBOX
セットは、段差のある舞台、上手・下手に1~2人が立てる同じようなスペースを設け中央は、舞台側の凹んだ空間を作っている。中央段上に机でもあれば法廷をイメージする。正面上部の壁には寄せ木細工のような模様が張り合わせてあり、風車もいくつか...。
登場人物は6人なので、その人物紹介と造形は丁寧に説明される。うち、1人は精神科女医で、この街(かざみ町)で生まれ育っている。この女医が、ビックマウス症候群と診断し薬を処方している。その患者が、通院している間に仲良くなり、そこに自分はビックマウス症候群ではない。この薬には何らかの意図があることを疑い始める。この登場人物、特に際だった特徴がある訳ではなく、適当に当てがわれた職業だと思っていたが、それが後々 寄せ木細工のピースをはめるように見事な結実へ。その脚本もさることながら、構成・演出は素晴らしい。
まず診断する病室は、先に記したスペースに丸椅子1つ。上手・下手の距離を置き対面して症状を問う口調は、すでに怪しげである。女医は上手・下手を交互に行き来して診察室・患者の立ち位置を変える。この動作を通じて定点化やテンポ感の減速を防ぐ。観客は演技を見るため、自然に視線を動かすことになり、一人ひとりの患者に相対している状況を見せる。
中盤以降、この状況に変化が生じる。東京から出張を命ぜられた男が、この薬によりやる気、高揚感が減退させられていることに気がつく。そして町の合併問題が明るみに出る。現職町長はこの何期も対立候補がなく無風の選挙になっていた。この町長の娘が女医。ここに至って女医の目的が分かる。
無気力と化していた男が対立候補として出馬した。その応援に、ビックマウス症候群と診断された仲間が立ち上がる。今一度、生きがいを見つけるために、故郷のために立ち上げる再生ドラマ。
役者の演技は見事...特に選挙演説を通じて現代日本への問題提起。この芝居では町合併の是非を問うことを争点にした展開である。合併しても直ぐその生活状況に変化はない、しかし町名がなくなることは記憶から消え去る、故郷が遠い存在へ追いやられるような感じ。具体的な政策論争を説明することはないが、町の閉塞状況への危機感を訴える。この明確な論旨が町民(18歳以上への選挙権も絡め)の支持を受ける。無風に風が立ち、まさしくこの町の名物...風が吹いた。
そしてこの選挙で町民が下した結果(審判)は...。ラストシーン、診療室での会話は余韻そのもの。
次回公演を楽しみにしております。
Hamlet
演劇集団 砂地
【閉館】SPACE 雑遊(東京都)
2016/05/21 (土) ~ 2016/05/31 (火)公演終了
満足度★★★★★
迷わない
「To be,or not to be, the question」...限りある時間の中で、一つの公演を観る。あれか、これかという二者選択ではなく、同じ時間帯に多くが上演されている公演の中から、この公演を選んで嬉しく思っている。
有名なシェイクスピア「ハムレット」という戯曲...言葉は悪いがこの手垢のついたような作品をどう観せてくれるのか、大変興味があった。その印象はサスペンス風で、スタイリッシュな演出という感である。
演出の延長上にある照明、音響効果も洗練されており印象深いものがある。
ネタバレBOX
梗概は改めて書なくても有名な戯曲。しかし、説明にもあるように「有名な戯曲であり、様々な解釈、様々な上演形態が試みられた、あるいは、それらの試みを許してきた、名作戯曲」ということを意識したことは容易に理解できる。
王が急死し、王の弟クローディアスが王妃と結婚して王の座に就く。悲しみに沈む王子ハムレットは、ある晩父の亡霊と会い、その死がクローディアスによる毒殺であると知る。ハムレットは狂気を装い復讐を誓う。
場内はL字型ひな壇客席。出入り口の反対側にある席に座る。その位置から右手奥に上階へ通じる階段。また芝居途中に階下から照明が照らされるシーンがある。この劇場の特長である立体的な空間を見事に演出していた。
セットは、患者搬送に使用するようなスチール状網ストレッチャー3台が等間隔に置かれている。その台下部に水が入った大きな水槽が置かれてある。始め中央に置いてあった水槽内には人骨が...。
殺人事件の謎解きのような雰囲気もあり、その物語の先を観たくなるような展開である。小難しいと感じていたハムレットも、この公演では分かり易く思えた。今までは政治劇の要素が色濃いという印象であった。その面はあるが、ここでは人間が持つ猜疑・嫉妬・羨望・偽善というような負のスパイラルが折り重なるように描かれる。その様が澱のように沈殿していく。しかし、それは重苦しいという感覚ではなく、骨太・重厚という感覚に近い。心の深奥を水槽の水に映し出す...静謐なまでの美しさが感じられた。
それは、陰影のある、もしくは定位置(水槽淵)だけの強調した照明効果。また音響は重低音のようで、それが荘厳のイメージを呼び起こす。
さて冒頭の限りある時間に関連して、女性演出家サラ・フランコムの舞台を8台のカメラで撮影、臨場感豊かに再現した映画が公開される予定(日本未公開)。映画では8定点から捉えるというが、そのライブ感はその場限りのもの。ただ、映画のようにアップで役者の表情(感情)を観れないことはあるが...。
次回公演を楽しみにしております。
あしたのジョー
劇団め組
すみだパークスタジオ倉(そう) | THEATER-SO(東京都)
2016/05/25 (水) ~ 2016/05/29 (日)公演終了
満足度★★★★★
め組…あしたのために(その1) アッパーカットをくらったようだ
絵(画)を鑑賞する時、その美術館そのものを見るように、本公演も原作(画)を描く劇場・舞台という環境も気になる。そして場内に入った途端、舞台美術の意味するところが直ぐ分かる。四角いコンクリート状、その無駄を一切省いたシンプルな造作、この作りしかないと思えるもの。そして明転して現れたシーン...そこに立つ主人公にしてライバルである矢吹ジョー(新宮乙矢サン)、力石徹(藤原習作サン)の削ぎ落とし鍛え上げられた肉体が、この舞台に映える。
1960年代末から1970年代、スポーツマンガの金字塔で、戦後日本マンガの代表的な一作と言われている。それは、「マンガを卒業できない大人たち」を魅了し、多くの社会的影響も与えた。
その舞台化は、登場人物の外見を含めた人物造形が見事に出来上がっており、今の日本への問いかけが...。
ネタバレBOX
公演チラシには、「ほんの瞬間にせよ。眩しいほど真っ赤に燃え上がるんだ。そしてあとは真っ白な灰が残る」という名ゼリフが書かれている。
公演の梗概...天涯孤独の流れ者・矢吹ジョーがドヤ街と呼ばれる東京の下町に現れ、アル中で元拳闘ジムの会長・丹下段平(渡辺城太郎サン)にボクサーとしての天性を見出される。始めは期待を裏切り犯罪に手を染め少年院送りになる。そこで宿命のライバル・力石徹に出会い、本格的にボクサーを目指すことになる。その後、紆余曲折を経てプロテストにも合格した。そして念願の力石との試合は実現したが、試合直後、力石は死亡する。ここまでがこの公演のあらすじ。マンガではこの後、力石との試合がトラウマになるが再生し、世界チャンピオンと対戦し、衝撃なラストシーンが...。
先に書いたチラシの名ゼリフは、ひとつの画像を思い浮かべる。丸椅子に腰掛け、どこか満足げな微笑みを浮かべたまま眠っているかのようなジョー。真っ白な灰のせりふは、世界タイトルマッチ試合終了直後のジョーのモノローグでラストシーンにはせりふがない。しかし、燃え尽きたという言葉のイメージと、スミベタなしで白っぽく描かれた姿が印象的である。本公演はこの真っ白になる途中...力石との対戦で終わっている。
中途半端で、くすぶった満足感ではない。ボッと魂が燃えて、それが尽きて「まっ白な灰になる」ため。四角いリングに立てば対戦相手がいるが自分との戦い。段平の「あしたのために(その8)」だっただろうか、リング内は孤独。このリングは社会(コンクリートジャングル)でもある。必死に生きるという姿が重なるかもしれない。そしてリング外、下町・ドヤ街の底辺に暮らしている人々の人情が心にしみる。そして公演序盤...ジョーの吹く夢は、この街に病院、老人ホーム、働く場所をつくる事。
社会的な影響としては、実際、力石の葬儀やよど号ハイジャック事件の犯行声明「われわれは明日のジョーである」ことも話題になった。
閉塞感ある社会に自らの足で立ち、道を切り拓く...時代は変遷しても志を持つことはいつの時代も変わらない、というメッセージであろうか。
この話題性に富んだ舞台は、矢吹・力石・丹下の3人が、まるでマンガから飛び出してきたかと思うような人物を作り出していた。もちろんボクシングの試合、そのスピードと鬼気迫る演技は圧巻もの。マンガにはない臨場感(照明と音響効果が凄い。またテーマソングがもの悲しい))溢れるもの。もっともマンガはコマ余白に読者の想像力が働くが、芝居はすべて視覚に捉えてしまう。ちなみに同名映画(2011年公開)も鑑賞したが、映像という遠・近がリアルに映し出される。特に映像アップによる表情が細密に見ることができる。今回の公演で、マンガ・芝居・映画のそれぞれの特長を知ることができた。
出来れば、世界タイトルマッチまでの続編が見たくなるような...。
次回公演を楽しみにしております。
何度もすみません
MacGuffins
シアターKASSAI【閉館】(東京都)
2016/05/19 (木) ~ 2016/05/29 (日)公演終了
満足度★★★
何度も…【Aチーム】
繰り返す、ということはタイトルから想像出来る。物語のシチュエーションもありそうなもの。この青春コメディ…ハイテンションで疾走するようだ。しかし、その演出・演技は一本調子のようでメリハリが感じられない。その単調さを紛らわすかのような…。
ネタバレBOX
高校時代のほろ苦い恋愛経験を引きずる情けない男・志村(八木澤翔サン)が主人公。過去の分岐点、あの時こうすれば良かったという ”たら” ”れば” の思い、それを妄想したシミュレーションの繰り返し。物語は映像で言えばフラッシュバツクするように展開する。自分はこのパターンに馴染めなかった。
舞台セットは、ほぼ素舞台で役者の演技力が物語の状況を表す。話は時間を巻き戻したように同じシーンを観せるため、滑稽な道化師に見える。
梗概…志村はびっくりすると過去へ戻ってしまうという体質の持ち主である。その体質は過去を素直に直視できず、思い出を歪ませるようだ。高校時代から青年期へ、その間の期間は割愛し現状の暮らし(フリーター)から描く。今、高校時代の友人から仕事を紹介してもらうが…。その男、かつて自分が好きになった女性と付き合っている。そのキッカケは自分が優柔不断で告白しなかったため。志村はさらにお人好しで人を疑うことを知らない。実はこの男には思惑と悪意があって…。
話を分かり易くするため、この(男)友達(藤川・樋口)の関係を善悪という構図にして人の心を覗く。
先に書いた過去への回帰は、誰もが一度は思う願望であろう。しかし、その力(体質)は披瀝できないという孤独な面もある。その人が持つ普遍性と特殊性という狭間に揺れ動く心情が何とも切ない。もっとも表現はコミカル・コメディのようだが…。
次回公演を楽しみにしております。
余計者
teamキーチェーン
d-倉庫(東京都)
2016/05/18 (水) ~ 2016/05/23 (月)公演終了
満足度★★★★
余計者とは…
公演の外形とも言える舞台美術、照明・音響などの技術は、印象深く効果的であった。優れた舞台美術はジャンルや好みが異なっても、その視覚からさまざまな感覚が生まれ、開演まで想像力豊かにしてくれる。
物語は時系列に沿った回想録のようでもあるが、その範疇を超えて一種の異形が展開される。しかし自分の中では、納得性に欠け物足りなさが残った。
さて制作サイドは、主宰で作・演出のAzuki女史が客席案内するなど、丁寧な対応をしていた。
ネタバレBOX
会場に入ると、しっかりした舞台セットが組まれている。それは上手・下手を大きく2分割し、上手にアパートと思しき室内。座卓、TV、整理BOXが置かれており、3つのドアが見える。別室、キッチン、玄関に通じるイメージである。下手はこのアパート前の路地。そして奥にはこの劇場の高さを利用した長階段があり、アパートの外ドアに通じる。この左右非対象の構図は、登場人物の屈折した精神構造を見るかのようだ。
この作り込んだ室内と路地という大きな空間は、物語の情景をより鮮明にする。と同時にその不均衡は、冒頭や途中に挿入される群集独話の不気味で不安定な感情を示しているようだ。
梗概...カエデ(マナベペンギン サン)は、両親との「約束」に縛られ...我慢強く、父親の言うことを守って妹を助け出そうとする。その話は、17年前に遡る。両親はその叔(伯)父の借金の肩代わりのため自殺。赤ん坊であった妹(三ッ井夕貴羽サン)は、借金取りの情婦(秋山ひらめサン)に連れ去られる。時は下り現在...中学時代の友・大学4年生のハジメ(岡田奏サン)と再会する。その頃、ハジメは自分が周りの人をスパナで殺している夢(幻覚)を見る。
この物語の納得性に欠けるのが、この場面である。この幻覚はカエデが見ているのであれば、カエデとハジメが同一人物で、劇中で語られる分身(ドッペルゲンガー)のように、2人がお互いを照らし、過去の清算と未来に対する希望を炙り出す、そう思っていたが2人は存在する。
そうであれば、久しぶりに会った友とシンクロして、ハジメが幻覚を見るという設定に疑問が生じた。余計者はもう一人の自分...心の問題に観客(自分)の想像力を駆使して真正面から向き合う、そんな投げかけがあっても良かったのではないか。意識下に刷り込まれた「約束」は、狂気となって体とともに成長(大きく)した。
もう一つ疑問...カエデが、借金取りの情婦の部屋に侵入した際、すぐに相手が認識できたこと。17年前であれば5歳前後である。その子の顔に覚えがあったとは思えない。その妹は、純真のようだが醜業しているという歪さ。
冒頭の舞台美術に戻るが、その造作が内容に溶け込んで現実と夢想が混然一体となる。物語に突っ込み所はいくつかある。Azuki女史にしてみれば、想定内かもしれない。リアリティを追及することは大切であるが、それが過度になれば観客(自分)の想像力の幅を狭めるような気もする。観客によって想像力の幅は異なり、受け取り方も様々。そこに芝居の面白さ魅力があると思う。
頭で考える理論か、心に刻む感情か…この公演は、人の心にある歪な感情、自分自身でも持て余す…この心の在りようこそ、余計者のように思えるのだが…。
次回公演を楽しみにしております。